『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』 フォックスと取引した理由

映画 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス ポスター 42x30cm Guardians of the Galaxy Vol. 2 ピーター クイル スター ロード クリス プラット ガモーラ ドラックス ベビー グルート ヴィン ディーゼル ロケット ブラッドリー クーパー ガーディアンズ オブ ギャラクシー 【ネタバレ注意】

 最高の映画だった!
 前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と同じくジェームズ・ガンが監督も脚本も務めるから、期待は否が応にも高まったが、なにせ前作は面白すぎる。あんなに面白くできるのかと危ぶんでいたら、さすがジェームズ・ガン監督、やってくれた。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は最高の上に最高の映画だった。

 スピーディーな展開に、豊かなイマジネーション。アクションシーンになると寝るのが常の私ですら、まったく目を離せない痛快アクション。笑いあり笑いあり、笑いの上に涙もあって、カツ丼に海老天とウナギとビフテキを乗っけたような満足感だ。可愛い外見と口の悪さのミスマッチが魅力だったアライグマのロケットに加え、可愛らしいベビー・グルートまで登場するのだからキャラクター物としても鉄板だ。
 本来なら派手なアクションやサスペンスで観客の目を引くべきオープニングに、ベビー・グルートの珍騒動を持ってくるところに自信のほどがうかがわれる。


■ジェームズ・ガンは判ってる

 私が何より感激したのは、ジェームズ・ガン監督の「判ってる感」だ。
 作品をつくる人は――とりわけあるジャンルの作品をつくる人は、先行するたくさんの作品に接して、そのジャンルに惚れ込んだから携わっているのだと思う。そんな中でも、ジェームズ・ガン監督は飛び抜けている。この手の作品の真髄が「判ってる」し、受け手が観たいものを深いレベルで「判ってる」。おそらく監督本人が最高の観客であり、観客が求めているのは何か、どんなものに喜ぶか、どんなときに満足できないかを、観客目線で「判ってる」のだ。

 前作の記事「『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 スペースオペラへようこそ」の中で、私は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を『スター・ウォーズ』以来の「『スター・ウォーズ』のような映画」と称えたが、今こそよく判った。本シリーズはジョージ・ルーカスがスター・ウォーズ・シリーズを作って以来の、判ってる人がこだわって作った映画なのだ。いや、判ってる人やこだわりを持っている人は他にもいるだろうから云い直そう。判ってる人がこだわって作り、成功した映画なのだ

 何を判っているかって?
 宇宙モノのSFを、スペースオペラをだ。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス 特別版パンフレット 日本の元号が昭和だった頃、映画評論家のどなたかが書いておられたように思う(石上三登志氏だったかもしれない)。
 評論家氏が日本の特撮映画の撮影現場を訪れると、スタジオに宇宙のセットが組まれていた。特撮といえばミニチュアのセットを作り、ピアノ線で吊るした宇宙船を撮影していた時代のことだ。電気で星が光るようにした宇宙のセットの前で、スタッフは誇らしげだったという。「この星はただ光るだけじゃありません。またたくことができるんです。」
 このときの評論家氏の絶望的な気持ちは想像にかたくない。星のまたたきは空気中の光の屈折が起こすイタズラだから、空気のない宇宙空間で星がまたたくことはないのだ。
 宇宙に空気がないことを知らないと、あるいは星がまたたく仕組みを知らないと、夜空を見上げたときに目に入るものがそのまま宇宙で起きていると思ってしまうのかもしれない。いくら美術スタッフがこだわって仕事をしても、判っていなければこんな悲劇(喜劇)が起きてしまう。

 21世紀になって、さすがに宇宙で星がまたたく映画は見かけなくなったが、「判ってるんだろうか」「もっとこだわってほしいな」と感じることはときどきある。
 必ずしも科学的な正確さを求めているわけではない。不自然に感じさせなかったり、不自然さに目をつぶりたくなるほど面白ければいいのだ。そこまでやってくれれば、少なくとも私は満足だ。
 だから、ちゃんと考えて、こだわった作品に出会うと、とても晴れやかな気持ちになる。心配や不安が解消され、観ているうちに心が洗われていく。


 前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はとても楽しい映画だったが、主人公スター・ロードが宇宙船に乗りもせず、マスクをしただけで宇宙飛行することに面食らった人もいると思う。『宇宙からのメッセージ』(1978年)の宇宙ボタルを捕まえるシーンや、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(1980年)の小惑星の洞窟のシーンのように、登場人物が宇宙服を着ずに(あるいは観客には認識できない不思議な方法で)宇宙船の外に出る映画があるけれど、スター・ロードの宇宙飛行も同じように見えたのだ。

 本作では、登場人物が透明な宇宙服を装着するシーンや、宇宙服なしで船外に放り出されて死亡するシーンが挿入された。それらがあることで、作り手がちゃんと判っていることが伝わってきた。前作にモヤモヤした観客も、本作の後であればスッキリした気持ちで前作を見返すことができるだろう。
 中盤に宇宙服がないと死ぬシーンを挿入したのは、終盤におけるヨンドゥの決意を観客に実感させるためでもあろう。観客の中にも、宇宙服を着なければ危険であることを知らない人がいるかもしれない。作り手のこんな心遣いが嬉しい。

 本作では、大規模な宇宙戦が起きても操縦士は遠隔地にいて死なないが、そのような描写は2010年代に激化した遠隔操作の無人機による攻撃を反映させたというよりも、ジョージ・ルーカスが心がけた「人が死なない戦闘シーン」を受け継いだものと見るべきだろう。
 ジェームズ・ガンはよく判ってる。


コスベイビー 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』[サイズS] ベビー・グルート(おすわり版)■宇宙人が奇妙キテレツである意義

 本作の楽しさは、多種多様な種族が登場することにもある。前作同様ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(銀河の守護者)[*1]のメンバーがバラエティに富むのはもとより、青い肌のヨンドゥが率いる宇宙海賊ラヴェジャーズや全身金色のソブリン人たちが入り乱れて、賑やかなことこの上ない。

 宇宙を舞台にしたSFに様々な形態の宇宙人が登場することには、一つ大事な意義がある。突拍子もない姿形だが知的な生物を目にすることで、地球人同士の肌の色の違いや目鼻立ちの違いなどは些細なものだと思えてくることだ。だから、異星人がわんさか登場するスペースオペラでは、彼らの姿は地球人にとって奇妙キテレツであることが望ましい。
 そう考えていた私には、二本脚で直立歩行し、目が二つ、口が一つの地球人型生物(ヒューマノイド)ばかりが活躍するのは物足りない……と思いながら観ていたら、そんな観客の気持ちを見透かすように、後半になって"生きる惑星"エゴが登場してくれた。

 エゴは月ほどの大きさで、虚空にポッカリ浮かぶ孤独な星だ。だが、それは自我を持ち、星全体が一つの生き物でもある。何百万年もの長い時間を経て、知性を発達させた星なのだ。

 やっぱり宇宙を舞台にしたSFには、こういう生き物が出てきて欲しい。
 地球人には生物と思えないような、「常識」を超越した存在。数十年の寿命しか持たない地球人には到底及びもつかない知性。そういうものと遭遇するかもしれない宇宙の底なしの恐ろしさを感じさせるところに、宇宙モノの魅力の一端があると思う。
 だからSF小説やSFマンガには、エゴのような奇妙な生物が多々登場する。作家たちは想像力の限りを尽くし、受け手の思いもよらない生物を考え出す。

 ところが映画となると、宇宙人でありながら地球人のようなヒューマノイドが非常に多い。異星で進化したはずなのに、体形も目鼻立ちも地球人と変わらず、地球人のように考え、地球人のように行動する生物にあふれている。ときには、地球とは違う生態系や知性のあり方を提示する映画もあるけれど、ほとんどの作品は現代人が扮装だけ変えて現代とは違う世の中を演じてみせるコスチューム・プレイの変形でしかない。

 それゆえ、派手な衣装のスーパーヒーローが活躍するマーベルの映画に、"生きる惑星"が登場したのは嬉しい驚きだった。"生きる惑星"は、『惑星ソラリス』の知性ある海や『スター・トレック』(1979年の劇場版第一作)の雲状の天体ヴィージャーにも劣らない、異様な存在だ。
 人智を超えた未知の生命との邂逅という深遠なテーマを忍ばせながら、軽快な話運びと胸のすくアクションで楽しませてくれる本作には舌を巻かざるを得ない。

 マーベルのマンガには神のような存在がたくさん登場するのに、映画では『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』に宇宙魔神ギャラクタスが少し出たくらいなのが寂しかったが、エゴが登場することで、ようやく映画がマンガの自由奔放さに近づいたようだ。


ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス オーサム・ミックス・VOL.2(オリジナル・サウンドトラック) Soundtrack■映画オリジナルの設定にしたわけ

 本作の主人公、スター・ロードことピーター・クィルは、星間帝国の皇帝ジェイソンを父に持つ高貴な血筋だ。地球に不時着したジェイソンが地球人の女性メレディスと恋に落ち、二人のあいだに生まれたのがピーターだ。
 この原作の設定を、ジェームズ・ガン監督は完全に捨て去った。しかも、あろうことかマイティ・ソーの宿敵エゴをピーター・クィルの父にした。ガン監督の構想を聞かされたマーベルのお歴々が「それはリスキーだ」と云ったのも無理はない。

 "生きる惑星"エゴの登場は、SFとして充実するだけではない。作家たるジェームズ・ガン監督の強烈な個性のほとばしりでもある。

 実は、ジェームズ・ガン監督に対して、ディズニー/マーベルはエゴを映画に出すことはできないと伝えていたそうだ。彼らはエゴを映画にする権利を持っていなかった。エゴに関する権利は、『ファンタスティック・フォー』とともに20世紀フォックスに握られていたのだ。
 ピーター・クィルの父はエゴを置いて他にないと固執するジェームズ・ガン監督は、20世紀フォックスと談判し、本作にエゴを出すことに成功した(引き換えに20世紀フォックスは、『デッドプール』でのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドの能力に関する創作の自由を得た)。

 こうまでしてガン監督が出したかったエゴなのに、エゴに関する設定も原作とは異なっている。
 原作のエゴは、惑星表面に巨大な顔が浮かび上がったキャラクターだけれど、映画では表面の顔はほとんど無視され、もっぱら惑星中心の巨大な脳がクローズアップされている。エゴの誕生の経緯も、まず宇宙に脳だけが出現し、脳がまわりの原子を操作することで惑星状の物体になったと説明される。つまり、映画のエゴは"生きる惑星"というよりも、惑星のような外殻をまとった巨大な脳なのだ(偶発的に知性が生じる「ボルツマン脳」と呼ばれるものかもしれない)。

 頻繁に出てくる脳の映像に、既視感を覚える人もいるだろう。これはジェームズ・ガン監督がかつて作った低予算映画『スーパー!』の繰り返しだ。


 低予算映画でデビューした監督が大きな予算を手にしたときに、(意識してかどうかはともかく)改めて低予算時代のイメージを形にするのは珍しくない。
 デヴィッド・リンチ監督は、低予算映画『イレイザー・ヘッド』で描いた月のイメージや奇形の誕生というモチーフを、大予算の大作映画『砂の惑星』で再現した。『イレイザー・ヘッド』の次の『エレファント・マン』で商業映画も撮れることを証明したリンチは、その次の『砂の惑星』で大きな予算を手にするや、『イレイザー・ヘッド』でやったことを嬉々として繰り返した。原作小説のファンは、映画『砂の惑星』に映し出される不可解なイメージショットに困惑したことだろう。
 ジェームズ・ガン監督も『スーパー!』に続く長編映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を成功させると、次の本作で『スーパー!』に立ち返ったようだ。

 そもそもジェームズ・ガン監督は、前作の時点で主人公ピーター・クィルの出生地を、自身が生まれ育ったミズーリ州にしている。そしてピーター・クィルを、1970年生まれの監督が少年期に聴きまくったであろうヒット曲が大好きな男にして、さらに本作では1980年代の少年ならはまったに違いないパックマンが好きであることも示した。すなわちピーターは、ミズーリで少年時代を過ごした監督の分身でもあるのだ。
 加えて、ピーターの仲間であるロケットや海賊仲間だったクラグリンには監督の弟ショーン・ガンを起用し(ロケットの声を演じたのはブラッドリー・クーパーだが)、ミズーリの街で怪物に遭遇する老夫婦には監督の両親を配している。
 宇宙を股にかけた大冒険が描かれる一方で、本作はジェームズ・ガンのとても個人的な映画といえる。

スーパー! スペシャル・エディション [Blu-ray] ジェームズ・ガン監督のオリジナル作品『スーパー!』は、マンガ狂の中年男性が、神の啓示を受けてスーパーヒーローになり、悪と戦う話だった。もっとも、神の啓示を受けたと思っているのは本人だけで、スーパーパワーを身につけたわけでもなんでもない。スーパーヒーローもどきの派手なマスクをかぶった彼は、レンチを手にすると、悪党だと決めつけた相手に後ろから殴りかかり、血まみれになるまで滅多打ちにした。
 スーパーパワーがないだけで、やっているのはマンガの中のスーパーヒーローと同じようなことなのに、それは狂気にしか見えなかった。スーパーヒーローの行為が冷静に見ればただの暴力でしかないことや、善悪の判断が独善的すぎることを皮肉ったこの映画は、痛烈な風刺と同時にマンガやスーパーヒーローへの深い愛情が感じられて、スーパーヒーロー好きにはとても切ない作品だった。


 『スーパー!』の主人公が啓示を受けるシーンで映し出されたのも脳髄だった。
 主人公の頭から脳がむき出しになり、神(のようなもの)の指が触れる。これにより、主人公はスーパーヒーローとして立ち上がる(あるいは狂気に囚われる)ことになる。

 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』でも、神を称する巨大な脳エゴが主人公ピーターに力と啓示を与える。ピーターはスーパーパワーを得て、いかにもマーベル的なスーパーヒーローと化し、なすべこと――みずからも神の一部となり、世界を吸収する――を悟る。
 エゴ(ego)は、日本語では「自我」「自己」と訳される。肥大化した自我は、独立した他者の存在を否定するようになり、振る舞いが暴力的になる。ここで描かれるものは、まさに『スーパー!』のテーマに等しい。

 ただし、肥大化した自我――脳――の命ずるままに暴力を振るった『スーパー!』の主人公に比べて、本作のピーターはいくぶん成長している。彼は、自我の肥大化とスーパーヒーロー気取りの危うさに気づき、肥大化した自我――エゴ――に抵抗する。エゴによってもたらされたスーパーパワーは、エゴを倒したら消えてしまう。それでもピーターはエゴと戦い、結果、スーパーパワーを失う。つまり、スーパーヒーローであることをやめたのだ(少なくとも、神ではない普通の人間のままでいることを選んだ)。いったんはスーパーヒーローになった彼だが、スーパーヒーローからただのヒーローになったのである。

 『スーパー!』でマンガ狂いの中年男の悲哀を描いたジェームズ・ガン監督は、遂にアメコミの総本山マーベルにおいてスーパーヒーローから脱却する映画を撮った。「スーパー」がない「ヒーロー」にだって、主人公は務まることを――マンガの主人公ではなく、人生の主人公が務まることを――示したのだ。

 大切にするべきなのは、母との平凡な暮らしだった。親しい友人や家族に囲まれた日常だった。
 それがスーパーヒーロー(のマンガ)の虜になっていた男の結論だった。


 ヨンドゥの葬送の場面に涙が止まらないのは、そのことに気づいた主人公が、その瞬間に大切な「父」を失い、仲間たちと見送らなければならないからだ。

 8年間の結婚生活に終止符を打った後でガン監督が発表した『スーパー!』。その中で、妻に逃げられた主人公が行き着く先は孤独だった。フィクションに埋没し、妄想と願望をないまぜにして乱暴に振る舞う主人公の許には、誰も残らなかった。

 本作の主人公には、まだ仲間たちがいてくれる。家族と呼べるほど親しい者たちがいる。
 ジェームズ・ガン監督は語る。「前作は、アクの強いメンバーがファミリーとして結束するまでの話だった。そこで今回は"ファミリーでいること"を描くことにした。実際、家族になることよりも、その関係を維持することの方がずっと難しいからね。」[*2]
 自我の暴走を抑え込んだ男は、もう大切なものを失わない。


[*1] 本来はガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー(Guardians of the Galaxy)だが、本稿では映画の邦題に合わせてガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと表記する。

[*2] 月刊シネコンウォーカー(No.137/2017年5月6日発行)


映画 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス ポスター 42x30cm Guardians of the Galaxy Vol. 2 ピーター クイル スター ロード クリス プラット ガモーラ ドラックス ベビー グルート ヴィン ディーゼル ロケット ブラッドリー クーパー ガーディアンズ オブ ギャラクシーガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』  [か行]
監督・脚本/ジェームズ・ガン
出演/クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ マイケル・ルーカー ショーン・ガン ブラッドリー・クーパー ヴィン・ディーゼル カート・ラッセル カレン・ギラン ポム・クレメンティエフ エリザベス・デビッキ シルヴェスター・スタローン ミシェル・ヨー クリス・サリヴァン
日本公開/2017年5月12日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [ヒーロー] [SF]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録
関連記事

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : ジェームズ・ガン クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ マイケル・ルーカー ショーン・ガン ブラッドリー・クーパー ヴィン・ディーゼル カート・ラッセル カレン・ギラン

『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』 封印解いてベッカンコの巻

 【ネタバレ注意】

 『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』を観ようと思ったのは、籠谷千穂氏のツイートが目に留まったからだ。


ラヴクラフト全集 (4) (創元推理文庫 (523‐4)) 『ドラえもん』がラヴクラフト!?
 どういうことか確かめようと足を運んだ私は、本作のあまりの面白さに驚愕した。

 かき氷をたくさん食べたいのび太がドラえもんと氷山に行ってかき氷を食べまくり、さらに友だちを連れてきて楽しく遊ぶ、という序盤の流れは、原作マンガの『大氷山の小さな家』の流用だ。そこで、10万年前から氷漬けになっていたリングを見つけたのび太たちは、リングの出所を探るべく南極へ赴く。ここから物語はH・P・ラヴクラフトの怪奇小説『狂気の山脈にて』にスライドし、太古の昔に飛来した異星人の遺跡に遭遇したり、遺跡に残る怪物に襲われたりする。
 本作におけるラヴクラフト作品との類似や、『遊星からの物体X』からの引用等については、籠谷千穂氏がご自身のブログで掘り下げた記事を書いておられる。

40ピース 子供向けパズル 映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険 いざ! 氷の世界へ! 【こどもジグソーパズル】 怪奇小説が元ネタとはいえ、決してホラー色が濃厚な映画ではない。テンポの良いストーリー運びの中に、友情と親愛と夢がいっぱい詰まった痛快無比の冒険活劇だ。
 私の隣の席に座った小さな男の子は、予告編のときからちょっと映像が暗くなるたびに「怖い、怖い」と母親にしがみついていたが、本作がはじまると食い入るようにスクリーンを見つめていた。幼児だって片時も目を離せない、楽しく面白い作品なのだ。


■大長編SF冒険マンガと日常的短編SFマンガの交代

 本作を観て、私はとても羨ましく感じた。ドラえもん映画は、今もこんなにも面白い。
 オーパーツを巡る異境の冒険、タイムトラベルと異星人、超科学・新発明を駆使して戦う仲間たち……。これらはどれも『サイボーグ009』のお株だったはずなのに、と009ファンの私は思った。便利なひみつ道具を次々取り出すドラえもんと、ひみつ道具を各人各様に装備したのび太たちは、まるで発明家ギルモア博士と兵器を内蔵したゼロゼロナンバーサイボーグたちに見えた。

サイボーグ009 (第1巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス) 『サイボーグ009』が死の商人ブラックゴーストとの戦いにひと区切りつけ、タイムトラベラーや異星人を相手にしたり、オーパーツに導かれて異境を探検したのは、1968年の「移民編」から1979年に終了した「海底ピラミッド編」までのことだ。この間、二度のテレビシリーズが制作され、1980年の年末にはオーパーツや古代遺跡や異星人や宇宙探検がてんこ盛りの映画『サイボーグ009 超銀河伝説』が公開された。東映史上初の、アニメーションの正月映画だった。この頃までは、この手のマンガ・アニメを代表するのは間違いなく『サイボーグ009』だった。

 けれども、1979年からはじまった『少年サンデー』と『少年ビッグコミック』での連載の途中から、『サイボーグ009』は人情話になっていった。サイボーグ戦士たちの日常の出来事を拾い上げた短編がもっぱら描かれるようになったのだ。この後、何度もテレビアニメや劇場用アニメ等が作られたけれど、痛快無比の冒険活劇とはいかなかった。サイボーグ戦士たちの日常を題材に、彼らの心の襞を丁寧に描写した作品群を経た後では、あっけらかんとしたストーリーが馴染まなかったのかもしれない。すでに『サイボーグ009 超銀河伝説』でも、009の浮気問題や004との友情のグダグダが挿入され、痛快無比とはいえなかった。

 『サイボーグ009』の変化と軌を一にするように、『ドラえもん』も新たな領域へ踏み出していた。ただしそれは、『サイボーグ009』とは正反対の方向だ。
 日常的な出来事に少し不思議な要素を織り交ぜた一話完結の短編ばかりだった『ドラえもん』は、1980年に『大長編ドラえもん』と題してマンガ『のび太の恐竜』が発表され、合わせて同タイトルの劇場用長編アニメーション映画が公開された。この作品を嚆矢として、以降毎年のように長編映画の公開が続き、ドラえもんたちは宇宙へ太古へ海底へと縦横無尽に活躍するようになった。

 そして2017年の長編映画第37作『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』に至るわけだが、その元気に溢れた面白さは圧巻だった。『サイボーグ009』の「移民編」から「海底ピラミッド編」までを濃縮したようなストーリーに、土管に腰かけてコッペパンを頬張り、新幹線の屋根に飛び乗ってはしゃいでいた頃の009の天真爛漫さを盛り付けたような楽しさだった。そのうえ、ドラえもんたちが先端にドリルのついた氷底探検車に乗って南極の氷を掘り進む様子は、『サイボーグ009』の「地下帝国ヨミ編」でドルフィン号が地底を探検するところにそっくりだし、氷底の古代都市でのび太を襲うペンギンの石像のデザインは地下帝国ヨミの鳥型の魔神像を思わせた。
 これだ。私が観たかったのはこんなアニメだったのだ。


 『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』は、人間ドラマとしても大いに見応えがある。
 映画の中盤では偽ドラえもんが出現し、のび太たちを混乱に陥れる。スネ夫やジャイアンは偽者と覚しきドラえもんを警戒し、氷漬けにしてしまおうと相談する。何の危害も加えられていないにもかかわらず。複数出現したドラえもんのどちらを攻撃するか相談するスネ夫とジャイアンは、あたかも誰をいじめるか標的を選ぶかのようだった。
 それを止めさせたのが、のび太の"誰もいじめない"という選択だ。スネ夫やジャイアンに同調していれば無難だろうに、あえて立ち塞がったのび太の凛々しさに胸が熱くなる。終盤の危機的状況で、未来ののび太に希望を託す(『STAND BY ME ドラえもん』を彷彿とさせる)展開は、中盤でのこのやり取りがあるから生きてくるのだ。

ジャングル黒べえ DVD-BOX(初回生産限定) 映像面でもニヤリとさせられることが多い。
 封印を解かれて蘇った巨大な怪物ブリザーガを目にして、多くの観客が宮崎駿監督の『もののけ姫』のディダラボッチに似ていると感じるだろう。加えて、口から冷凍ビームを吐き散らし、ドラえもんたちを襲う凶暴さは、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。
 巨神兵にディダラボッチ――つまりは宮崎アニメの源流であるポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(後の『王様と幸運の鳥』『王と鳥』)の巨大ロボットの再来なのだ。王国の高度な科学技術の象徴でありながら、王様の城も街も破壊し、遂には王様自身を破滅させてしまう巨大ロボットの発展形を、ここにもまた見ることができる。
 竜に変化したブリザーガを凍結させるクライマックスに至っては、天才アニメーター金田伊功氏が参加した『幻魔大戦』(1983年)のクライマックス、巨大な竜を凍結させて倒すところを思わせて楽しい。


■世界史の大きな謎

 怪物ブリザーガと、ブリザーガを生み出したヒョーガヒョーガ星について考えると、本作の作り手の科学技術や文明に対する見方が窺えて興味深い。

 はるかな昔、古代ヒョーガヒョーガ人は数多の星を訪れ、その星の生態系を作り変えるほどの高度な文明を持っていた。ブリザーガとは、古代ヒョーガヒョーガ人が創造した巨人族で、惑星全体を凍結させる能力を備えている。古代ヒョーガヒョーガ人は宇宙のあちこちにブリザーガを放ち、ターゲットとなる惑星に全球凍結(スノーボールアース)現象を起こすことで、生物の爆発的な進化を促していたのだ。
 やがて高度なヒョーガヒョーガ文明は失われてしまい、のび太たちが出会った頃のヒョーガヒョーガ人は古代人が残した遺跡を発掘して技術を学ぶあり様だった。それでも超光速航行を駆使して星々を巡るくらいの文明は有していたが、誤って起動させたブリザーガを止められず、ヒョーガヒョーガ星全体の凍結を招いてしまう。ヒョーガヒョーガ人のヒャッコイ博士と少女カーラは、凍りついた故郷を元に戻す方法を探して、10万光年の彼方から地球に残る遺跡を調べに来ていたのだ。

 劇中では明示されないが、南極大陸に古代ヒョーガヒョーガ人の遺跡があったことや、地球でも七億年前や六億年前にスノーボールアース現象が起きて生物が爆発的に進化したことを考えれば、地球の生物を進化させたのも古代ヒョーガヒョーガ人なのかもしれない。ヒョーガヒョーガ人と地球人は瓜二つだから、地球人はかつて地球を訪れたヒョーガヒョーガ人の末裔かもしれない。その記憶が失われてしまうほど壊滅的な出来事が、地球のヒョーガヒョーガ人に起きたのだろう。
 ヒョーガヒョーガ人はパオパオに「ユカタン」と名付けるくらいだから、ユカタン半島周辺に栄えたマヤ文明はヒョーガヒョーガ文明の系譜に連なるに違いない。

ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険 - 3DS 想像を絶する科学力を誇った古代ヒョーガヒョーガ人でさえ文明を維持できず、今またヒョーガヒョーガ人はブリザーガを暴走させて故郷の星を住めなくしてしまった。これらの描写は、みずから破滅を招きかねない"人類への警鐘"であり、科学技術の扱いに慎重さを求めるものだ。同様のことは『風の谷のナウシカ』の「火の七日間」や、『未来少年コナン』の超磁力兵器による最終戦争等、過去多くの作品で語られてきた。これだけなら、いささかありきたりな印象を与える。

 だが、人類を破滅させる技術文明との対比として、たとえば『風の谷のナウシカ』ではナウシカたちの風の谷、『未来少年コナン』では人々が農業や漁業で生活するハイハーバーという一種の理想郷が描かれるのに対し、本作のヒョーガヒョーガ人はそのような安住の地を持たない。彼らが故郷の星を温暖な世界に回復させるしかないことは、本作をひと味違うものにしている。
 『風の谷のナウシカ』や『未来少年コナン』における過去の災厄はある種のリセット願望であり、(逆説的ながら)科学技術が後退した理想郷の創出に役立つものになっている。
 それに引きかえ、本作のヒョーガヒョーガ人は全球凍結という大災厄を乗り越えるために技術を渇望している。本作には、科学技術の扱いに求められる慎重さと同時に、科学技術を失うみじめさが漂っている。そしてヒョーガヒョーガ人の悲惨な状況に対比されるのは、科学技術が後退した理想郷ではなく、ドラえもんのひみつ道具の楽しさやのび太たちの元気な活躍であり、それはすなわち21世紀や22世紀の地球文明――現代や少し未来の私たち――なのだ。

 超光速航行を駆使できるヒョーガヒョーガ人は21世紀の地球人よりも高度な技術を手にしているはずなのだが、にもかかわらずみじめさが漂うのは、その技術を開発したのが彼らではなく、彼らはあくまで古代人の遺したものを発掘しているだけだからだ。
 先人が優れたものを持っていたと考えて、先人がいたところを探し続けるヒョーガヒョーガ人と、みずから進歩させた科学技術で危機を乗り越え、活躍する地球人。
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福 この構図を前にして、私はユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』を思い出していた。
 この本で人類の7万年の歴史を著したハラリはこう語る。
---
世界史の大きな謎の一つに、「なぜ近代以前は後進地域だった西ヨーロッパが、近代以後、世界を支配するようになったのか」というものがあります。
(略)
西ヨーロッパは近代以前、巨大な帝国の中心地だったこともなければ、経済の中心地だったこともありませんでした。西ヨーロッパから広まっていった世界宗教もありません。
(略)
中世後期や近代初期の時点では、中国の技術力と経済力は、西ヨーロッパに優る面もありました。
(略)
経済力についていえば、当時の中国は西ヨーロッパより上でした。中国にくらべれば、スペインもポルトガルもオランダもイングランドも小国でした。
---

 強大な明帝国や清帝国、オスマン帝国を差し置いて西ヨーロッパ諸国が世界を支配するようになったのは、ヨーロッパ人が「変わった人たち」だったからだとハラリは云う。西ヨーロッパの人々は、「未知の領域を探検し、その領域を征服したら、飽くことなく次の未知の領域をめざす」という精神の持ち主だった。「地平線の先に何があるのかは誰も知らない。だから探検しに行こう。そうすれば、何らかの知識を得ることができ、その知識は自分の力になるはずだ。」

 他の地域の人たちは、既知の領域を支配することに力を注いだ。中国の王朝はスペインよりはるかに強大であったにもかかわらず、アメリカ大陸に艦隊を送ろうとはしなかった。ヨーロッパ各国がアメリカ大陸に遠征部隊を派遣していたというのに、ヨーロッパ人の冒険家からアメリカ大陸の存在を教えられても、中国は艦隊を出さなかった。学問や思想においても先人に学ぶのが常で(春秋時代の孔子が数百年前の周の時代を理想としたように)、未知の領域を探求しようとはしなかった。ただ、西ヨーロッパの人々だけが、「既知の領域の外に出て、未知の領域を調べれば、新しい自然法則や新しい知識を得ることができ、その知識は自分たちの力になる」と考えた。
 このような精神構造の差が何をもたらしたかは周知のとおりだ。後進地域だった西ヨーロッパは世界のあらゆる地域を抜いて、科学においても国力においても支配的勢力となった。ときには弊害もあったけれど、今では「探検と征服」というこの精神構造を世界の人々が共有し、自然科学でも経済の世界でもみんなが未知の領域の探求に挑んでいる。天然痘の根絶や、ポリオ撲滅に向けた前進は、こうした努力の賜物だろう。

 『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』が楽しくて面白くて元気いっぱいに感じられるのは、未知の領域を目指す意欲と探求心に溢れているからだ。科学技術の使い方を誤ったヒョーガヒョーガ人の自省や苦悩もさることながら、本作から強く伝わってくるのはのび太たち――地球人たち――の前向きなバイタリティーなのだ。
 最後にヒョーガヒョーガ星を救う兆しが見えるのも、これまでリングの発掘を重視していたヒャッコイ博士が、みずからリングを研究し、そのメカニズムの解明に取り組もうとするからである。


■封印を解かれたもの

 前述のようにH・P・ラヴクラフトの怪奇小説をベースとする本作は、太古の昔から甦った怪物たちと死闘を繰り広げるスリラーでもある。

ジャングル黒べえ DVD-BOX(初回生産限定) しかし、過去から甦ったのは怪物だけではない。
 ヒョーガヒョーガ星からやってきたヒャッコイ博士と少女カーラは、パオパオと呼ばれるゾウに似た動物にまたがっている(本作のパオパオは、南極の冒険に相応しくフサフサの体毛に覆われて、ゾウよりマンモスに近い)。パオパオとは、云わずと知れた『ジャングル黒べえ』の人気キャラクターだ。いつも黒べえを乗せて走り回っていた。
 ヒャッコイ博士は色白の老人だが、外出するときは黒べえそっくりのサバイバルスーツを身につける。黒べえのどんぐりまなこがゴーグル、分厚い唇がマスク、長い髪が防寒フードといった趣で、スーツを着てパオパオに乗った博士はジャングル黒べえそのものだ。博士と行動を共にする赤い髪のカーラは、黒べえの弟・赤べえに相当するだろう。
 『ジャングル黒べえ』が好きだった私は、映画館のスクリーンいっぱいに黒べえと赤べえ(みたいな少女)とパオパオが走り回ることに感激した。

ジャングル黒べえ (藤子・F・不二雄大全集) 『ジャングル黒べえ』は1973年3月から同年9月まで放映されたテレビアニメ及びその原作マンガである。アフリカからやってきた魔法使いの黒べえと弟・赤べえ、そしてアフリカの珍獣たちが巻き起こす騒動が描かれた。藤子不二雄原作といっても、もともとのキャラクター原案は宮崎駿氏で、当初は人間の家に住み着いたコロポックルの物語として構想されたという。
 『エースをねらえ!』の前番組だった『ジャングル黒べえ』は、演出を出崎統氏、作画監督を椛島義夫、北原健雄、杉野昭夫の三氏が務め、音楽を三沢郷氏が担当するという、大ブームを巻き起こした『エースをねらえ!』と同じ布陣で制作された痛快ギャグアニメだった。

 とても面白い作品なのだが、1980年代末に封印され、マンガもアニメも長年にわたり日の目を見ることがなかった。黒人をマンガチックにデフォルメした黒べえは、当時猛威を振るった黒人差別糾弾の攻撃にさらされるおそれから(実際に糾弾されたわけでもないのに)、マンガの刊行もテレビアニメの再放送もパッケージ化も自粛してしまったのだという。『ジャングル黒べえ』がようやくパッケージ化されるのは、封印から四半世紀以上を経た2015年末のことである。

 パッケージ販売ですらこれほどの時間を要した『ジャングル黒べえ』だから、黒べえの新作アニメを作るのは極めて困難に感じられただろう。
 『ジャングル黒べえ』の自粛に先立つ1980年、『サイボーグ009 超銀河伝説』の黒人キャラクター008のデザインが米国人スタッフ、ジェフ・シーガルにより問題視された。これでは米国に輸出できないだろうという。そのため、008は原作者自身の手によりデフォルメを控えたデザインに改められた。以降、『サイボーグ009』のアニメ化の際はデフォルメを控えたデザインが踏襲されている(近年では、白人の鼻の大きさを誇張した002のデザインも改められている)。
 『サイボーグ009』の場合はデフォルメを控えたデザインに変更しても作品世界は成り立つが、ギャグマンガの『ジャングル黒べえ』がデフォルメをやめたら別物になってしまう。『ジャングル黒べえ』を現代に甦らせるのは、南極の氷に閉じ込められた怪物の封印を解くよりたいへんなことだったはずだ。

60ピース 子供向けパズル 映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険 こだいいせきで だいぼうけん! 【チャイルドパズルW】 それだけに、本作に黒べえと赤べえを模したキャラクターを登場させ、主要な登場人物としてストーリーを牽引させたことに敬服した。画面の端っこに映っていたり、その他大勢に紛れて顔を出したりに比べると大きな前進だ。
 しかも、ヒャッコイ博士は肌が白くて目がグリーンの、典型的な白人らしいデザインだ。それがサバイバルスーツを着ると黒人のギャグキャラクター黒べえの姿になる。スーツを脱ぐとまた白人の姿に戻る。キャラクターの魅力に人種なんて関係ないと云わんばかりのこの設定には、人種差別呼ばわりして作品を葬ろうとする動きへの抗議が込められていよう。

 これは、『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』と同時期に公開されたハリウッド映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』と同様の仕掛けである。
 『ゴースト・イン・ザ・シェル』は白人俳優スカーレット・ヨハンソンが日本人の主人公を演じることで、白人の活躍を期待した観客をものの見事に裏切るとともに、アジア人の役を白人俳優が奪ったと勘違いした観客に冷や水を浴びせる映画だった。一人の俳優が日本人と白人を同時に演じるという、SFならではの意表を突いた作品だ(詳しくは杉本穂高氏のコラム「実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』 少佐はなぜ白人なのか? “ホワイトウォッシュ”問題を超える配役の真の意味」を参照されたい)。

 考えてみれば、地球の温暖化が心配されるご時世に地球を寒冷化の危機から救おうとする本作は、「ベッカンコー!」の呪文で何でも引っくり返す黒べえらしい展開である。
 ドラミちゃんが怪しげな占いにはまるのも、怪奇小説の世界へのいざないだけでなく、魔法を使う『ジャングル黒べえ』への導入としての意味もあるのだろう。

 とはいえ、劇中で氷山ができるメカニズムを解説するなど、しっかりした科学的知見が示される本作において、ドラミちゃんの占いはやけに浮いている。
 氷難の相があるというドラミちゃんの言葉どおり、ドラえもんたち一行は氷の世界でたいへんな苦労をする。けれども、彼らの活躍のおかげで地球は凍結を免れ、すでに凍結したヒョーガヒョーガ星も回復の糸口が見つかる。
 はたして、ドラミちゃんの占いは当たったのか外れたのか。役立ったのか無意味だったのか。それは観客の判断に委ねられていよう。


僕の心をつくってよ(期間生産限定盤) Single, Limited Edition, Maxi映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』  [あ行]
監督・脚本・絵コンテ・演出/高橋敦史
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 釘宮理恵 浪川大輔 千秋 三石琴乃 松本保典
日本公開/2017年3月4日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録
関連記事

【theme : アニメ
【genre : 映画

tag : 高橋敦史 水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 釘宮理恵 浪川大輔 千秋 三石琴乃

『SING/シング』の素敵な仕掛け

シング-オリジナル・サウンドトラック Soundtrack 『SING/シング』は抜群に楽しい映画だった!
 それはキャラクターたちが個性的だから?
 オリジナルを含む62曲もの歌が素晴らしいから?
 いずれもそのとおりだが、それだけではない。
 シンプルでツボを押さえたこの映画には、とても素敵な仕掛けがある。

 長編アニメーション映画にあまり制作費をかけないイルミネーション・エンターテインメントの作品だから、本作も比較的低予算の7500万ドルで作られている。7500万ドル(日本円にして81億円以上)だって邦画よりは巨額だが、ディズニーが一本の長編アニメーション映画に1億5000万ドル以上かけているのに比べればたいへんな差だ。
 本作は低予算を様々な工夫でしのいでいる。ブタのロジータがスーパーマーケットで踊る場面はその最たるものだろう。ロジータは広い店内で縦横に踊りまくるが、閉店間際だからスーパーには誰もいない。ディズニーだったらロジータの周りにたくさんの客を配置して、楽しいリアクションを見せたに違いない。

 『ミニオンズ』に続いて既成のヒット曲を散りばめたのも、イルミネーション・エンターテインメントらしい。これだけの楽曲を揃えるのに制作費の15%を費やしたというが、それでもオリジナル曲をたくさん作ってアカデミー賞の歌曲賞をとり続けるディズニーとは対照的だ。
 あまりにも素晴らしい曲ができたので、その曲を歌うキャラクターを主役に昇格させ、ストーリーもすっかり変えてしまった『アナと雪の女王』は、ディズニーらしさの極北だった。他方、本作はたとえばガース・ジェニングス監督自身が「おそらく誰も聴いたことがない楽曲だと思う」というシュービー・テイラーの「スタウト・ハーテッド・マン」を使用する。ジェニングス監督は大好きなこの曲を使うことで、脳卒中で歌えなくなり、貧困のうちに亡くなったシュービー・テイラーの魅力を今の人に知らしめるとともに、困窮する遺族に金が渡ることを願った。そんなジェニングス監督の選曲の妙を存分に楽しみたい。


 そうした工夫や思惑もさることながら、本作の一番の魅力は、何といっても歌のコンクールというコンセプトが瓦解してしまうことだろう。

 倒産寸前のムーン劇場の支配人バスター・ムーンは、起死回生の出し物として一般公募による歌のコンクールを企画する。歌さえ上手ければ資格は問わない、大勢が優勝を目指す競技会だ。NHKの『NHKのど自慢』やテレビ東京系で2014年から放映している『THEカラオケ★バトル』と同じような趣向である。これらの番組が何年も人気を保っているのを考えれば、バスター・ムーンの着眼点は悪くない。
 オーディションに残ったのは、毎日同じことの繰り返しにうんざりしていた主婦ロジータや、パンクロッカーの少女アッシュら個性的な面々。エリートミュージシャンのマイクは賞金を獲得する気満々だし、ゴリラの少年ジョニーは父を保釈してもらうためにどうしても賞金が欲しい。彼らは本番での対戦に向けて、歌に踊りに磨きをかける。

 このまま歌を競う映画にしても面白かったと思うが、とんでもないアクシデントが競技会を頓挫させてしまう。
 ここからが本作の真骨頂だ。競技会ができなくなって、出場者たちとムーンはどうするか。
 みんなはそれでもステージの幕を開けようとするのだ。賞金は出ない、優勝の栄誉もない、だけどただ歌いたいから、多くの人に歌を聴いてほしいから力を合わせる。
 この、競争から協同への転換が実に見事だ。説教臭くなったり、感動の押し売りになったりせず、キャラクター一人ひとりの心情をすくい取った描き方がとても上手い。

Sing (Blu-ray + DVD + Digital HD) もともとこの映画は、過酷な競争を勝ち抜く者に焦点を当てた作品ではなかった。
 ゴリラのジョニーはオーディションの落選者だ。合格したキリンのダニエルではコミュニケーションしにくいと感じたバスター・ムーンが、出場者を取り換えたからジョニーにお鉢が回ってきたのである。かと思えば、オーディションに合格したカエル3人組は、仲違いして途中でいなくなってしまう。にも関わらず競技会の企画は続行されるのだから、出場者は誰でも良かったのだ。誰でもいい……では云い過ぎであれば、歌が格別上手い人に絞り込むより、間口を広げてバラエティに富む参加者を揃えたことがコンサートの成功の秘訣だったのだ。

 オーディションでは合格できず、舞台係をしていたゾウのミーナが、素晴らしい歌声で観衆を沸かせるのも本作の見どころだ。
 優れた才能はどこに隠れているか判らない。そして、人を魅了するほどの実力(本作でいえば歌の上手さ)の持ち主が、自己アピールに長けていたり、機をみるに敏であるとは限らない。駄目なヤツだと烙印を押されている人が、実はもっとも優れた技能を持っているかもしれないのだ。

 本作の魅力は、楽曲の素晴らしさや個性的なキャラクターの面白さに加えて、様々な背景を抱えた多彩な出場者たちが協力し合い、工夫を凝らして、精一杯コンサートを盛り立てる姿への共感にあるのだろう。


 もう一つ、本作には大事な点がある。公演は失敗続き、従業員に賃金も払えず、銀行からは返済を迫られ最低最悪の状況にいたバスター・ムーンが、それでもへこたれずに云うセリフだ。
 「どん底に落ちるのも悪くはない。もう行き先は一つしかない。上にあがるだけ!」
 (When you've reached rock bottom, there's only one way to go, and that's up!)

 この言葉は、フリードリヒ・ニーチェが『ツァラトストラかく語りき』に書いた「没落」を思わせる。
 ニーチェは、人間が高みを目指すには没落することが必要だと説き、没落する人間とはどういうものか例を挙げて説明した。その例はあまりにも多く、およそ考えられる限りのありとあらゆる人間が何らかの形で取り上げられる。それはすなわち、没落とはありとあらゆる人間に当てはまるということであり、ありとあらゆる人間が高みを目指せるということだ。

 「どん底に落ちるのも悪くはない。」そう云い放つバスター・ムーンは、ニーチェの思想を体現するかのようだ。
 バスター・ムーンだけではない。本作の登場人物は誰もが期待と希望を挫かれて、失意のどん底にいた。遂には目標だった優勝も、期待していた賞金もなくなってしまう。それでも立ち上がる先にあるのは、もう期待でも希望でもない。歌をうたう行為、ステージを作り上げる行為そのものが、立ち上がることそのものが悦びであり愉しさなのだ。

 映画の主人公が優勝したり賞金を得ても、しょせん観客には関係がない。けれども、本作の主人公たちが歌う姿には、共感し、元気づけられること間違いなしだ。


シング-オリジナル・サウンドトラック SoundtrackSING/シング』  [さ行]
監督・脚本/ガース・ジェニングス
出演/マシュー・マコノヒー リース・ウィザースプーン セス・マクファーレン スカーレット・ヨハンソン ジョン・C・ライリー タロン・エガートン トリー・ケリー ニック・クロール ジェニファー・ソーンダース ジェニファー・ハドソン ピーター・セラフィノウィッツ
日本語吹替/内村光良 MISIA 長澤まさみ 大橋卓弥 山寺宏一 坂本真綾 田中真弓 大地真央 斎藤司 宮野真守 水樹奈々
日本公開/2017年3月17日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ] [ミュージカル]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録

【theme : SING/シング
【genre : 映画

tag : ガース・ジェニングス マシュー・マコノヒー リース・ウィザースプーン セス・マクファーレン スカーレット・ヨハンソン ジョン・C・ライリー タロン・エガートン 内村光良 MISIA

最新の記事
記事への登場ランキング
クリックすると本ブログ内の関連記事に飛びます
カテゴリ: 「全記事一覧」以外はノイズが交じりますm(_ _)m
月別に表示
リンク
スポンサード リンク
キーワードで検索 (表示されない場合はもう一度試してください)
プロフィール

Author:ナドレック

よく読まれる記事
スポンサード リンク
コメントありがとう
トラックバックありがとう
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
携帯からアクセス (QRコード)
QRコード
RSSリンクの表示