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『宇宙からのメッセージ』 面白さの秘密

宇宙からのメッセージ [DVD] 【ネタバレ注意】

 どうしてこんなに面白いんだろう!
 昔は好きだった作品なのに、今ではショボく感じてしまうことがしばしばある。だが、久しぶりに観た『宇宙からのメッセージ』は、はじめて観たときのままに――否、記憶していたものよりはるかに面白く、それどころか昔観たときは判らなかった良さを痛感して、これまで以上に感動した。日本映画界はこんなにも素晴らしい作品を生んでいたのだ。


■誰が誰のフォロワーなのか

 『宇宙からのメッセージ』は1978年4月29日に公開された。この年のゴールデンウィークの大作映画だ。前年に米国で大ブームを巻き起こした『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)が同年夏に日本に上陸することになった。そこで「SF元年」と呼ばれたこの年の話題に便乗しようと、『スター・ウォーズ』に先行して公開されたのだ。
 このような経緯から、『宇宙からのメッセージ』は『スター・ウォーズ』の亜流、フォロワーだと思われている。マーク・クラーク著『STAR WARS FAQ』でも、『スター・ウォーズ』の影響を受けた作品の一つとして紹介されている。

 確かに、当時『スター・ウォーズ』に関する情報が米国から流入していたから、『宇宙からのメッセージ』を作るに当たって真似した点は少なくない。『スター・ウォーズ』で実物大のXウィングが作られたと聞けば、こちらも実物大のシロー号やアロン号、エメラリーダ号を作り、『スター・ウォーズ』でミレニアム・ファルコンのコックピットに現実の航空機のような機器を取り付けた聞けば(それまでのSF映画では、宇宙船の操縦席にあるのは現実離れしたつるつるピカピカの機器ばかりだった)、こちらも現実の機器を設置するといった調子である。
 そもそも『宇宙からのメッセージ』が企画されたのは『スター・ウォーズ』ブームあったればこそなのだから、亜流と位置づけられるのは致し方ないところだろう。

 けれども、スター・ウォーズ・シリーズの純然たるフォロワーとしてエピソード7『フォースの覚醒』がエピソード4『新たなる希望』を焼き直し、エピソード8『最後のジェダイ』がエピソード5『帝国の逆襲』を焼き直すのを目撃した後で改めて『宇宙からのメッセージ』を観ると、『スター・ウォーズ』との類似点より相違点が目に付くはずだ。
 とうぜんだ。『宇宙からのメッセージ』は、『スター・ウォーズ』を観て真似した作品ではないのだから。本作は『スター・ウォーズ』の日本公開に先んじて作られており、おそらくスタッフのほとんどは『スター・ウォーズ』を観ていない(当時『スター・ウォーズ』をすぐに観ようと思ったら、渡航費を工面して渡米しなければならなかった)。だから意外にも(!?)『スター・ウォーズ』にあまり似ていないのだ。
 それどころか、『スター・ウォーズ』に関する断片的な情報をヒントにしつつ、想像力を思い切り働かせて、まだ見ぬ『スター・ウォーズ』を凌駕しようと努めたものと思われる。

1/160 リアベ・スペシャル 宇宙からのメッセージ バンダイ だから面白いことに、本作は『スター・ウォーズ』と似て異なる作品として、『スター・ウォーズ』のフォロワーとは一線を画したポジションに収まっている。
 というのも、『スター・ウォーズ』のフォロワー作品が、少しでも本家『スター・ウォーズ』とは違うものを見せようとするとき、本作を手本にしていると思われるからだ。

 エピソード5『帝国の逆襲』に登場する戦闘機スノースピーダーは、本作の高速宇宙機アロン号(特に改造前)にそっくりだし、本作のクライマックス、狭いパイプを通り抜けて敵の動力炉を叩く流れは、エピソード6『ジェダイの復讐』(後に『ジェダイの帰還』に改題)に逆フィードバックをかけたのではないかと云われる。

 本作の惑星ジルーシア――惑星全体が要塞化され、本来の軌道を外れて雪に埋もれた極寒の星――が動力炉を破壊されて惑星ごと崩壊する様子は、そっくりそのままエピソード7『フォースの覚醒』のスターキラー基地――惑星全体が要塞化され、雪に埋もれた極寒の星――が内部のコアを破壊されて惑星ごと崩壊するシークエンスで再現されている。惑星ジルーシアが雪に覆われているのは、ガバナス帝国の移動要塞にされたからだが、スターキラー基地は恒星のそばに留まっていたのに雪に覆われている。惑星ジルーシアが元ネタと考えなければ説明がつかない(惑星全体を移動要塞と化すアイデアは、1940年代のレンズマンシリーズに遡れるが、移動惑星の表面は氷もしくは岩塊で覆われているのが一般的なイメージだろう。雪に覆われている要塞惑星を映像で見せたのは、『宇宙からのメッセージ』が嚆矢ではないか)。

 それに、エピソード8『最後のジェダイ』における洞窟内の宇宙船同士の追撃戦は、『宇宙からのメッセージ』序盤の宇宙暴走族と宇宙パトロールの追跡劇を彷彿とさせる。

 そういえば、ジルーシア人が悪党を討つために生まれ故郷の惑星を犠牲にして、自分たちは小さな宇宙船で脱出する展開は、2017年公開の『マイティ・ソー バトルロイヤル』でもやっていた。『宇宙からのメッセージ』の脱出民は、ガバナス帝国との長い戦いの末のわずかな生き残りだったから小さな宇宙船で収容できたのだが、『マイティ・ソー バトルロイヤル』ではそういった過程を端折って、全アスガルド人がいきなり宇宙船一隻に収まってしまった。『宇宙からのメッセージ』を知らない観客は、ビックリしたのではないか。


 『スター・ウォーズ』に関しては、もともとダース・ベイダーのデザインの元ネタが『変身忍者嵐』の血車魔神斎だとか、ストームトルーパーのデザインの元ネタは『イナズマンF』のマシンガンデスパーだと云われるほど、日本の特撮番組からの影響が見られる。
 それにしても、『宇宙からのメッセージ』の後続作品への影響の大きさは特筆すべきであろう。それもこれも、『宇宙からのメッセージ』が『スター・ウォーズ』に似てもいるけど異なってもいるという微妙な(後続作品のネタになりやすい)ポジションにある上に、できる限り『スター・ウォーズ』を凌駕しようと努めたことで『スター・ウォーズ』の発展形としての一つのビジョンを示したことにあるのではないか。
 たとえ、後続作品が『宇宙からのメッセージ』を直接参考にしたのではないとしても、これほどの類似があるということは、『宇宙からのメッセージ』が世界のSF映画を何年も何十年も先取りしていたことを示していよう。


スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望 [Blu-ray]■評価を低めた二つの理由

 公開当時、『宇宙からのメッセージ』の評価は低かったようだ。
 その原因は、大きく二つあると思う。

 米国での『スター・ウォーズ』大ヒットのニュースは日本にも入ってきていたのに、日本公開は一年以上先になってしまった。そのため、日本では奇妙な現象が起きていた。
 氷川竜介氏は次のように解説している。
---
SWの日本公開は、1年遅れ78年まで延期されてしまった。当時雑誌媒体では著名人が渡米して見てきたコメントを載せ、事前情報を山のようにフカして回った。結果、SFファンたちの脳裏には膨らみまくったイメージによる華麗なるSW映像ができあがってしまった。ライトセイバーの光る玩具を始めとするグッズ先行販売も拍車をかけ、本物の映画が公開されると各自の中にできあがった「オレSW」よりはどこかしら劣る映像とのギャップに激しく悩んだ人も多かった。
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 一年も待たされるあいだに人々の妄想は膨らみ続け、本物の『スター・ウォーズ』でも埋められないほど大きな期待が寄せられるようになっていたのだ。
 そんなところに、従来の日本特撮のショボさを引きずった『宇宙からのメッセージ』が『スター・ウォーズ』に先駆けて公開されたら、「これじゃない」と反発されるのは必至である。『宇宙からのメッセージ』には野心的な試みも多々あったと思うのだが、「膨らみまくったイメージによる華麗なるSW映像が脳裏にできあがってしまっていた」SFファンは、美点に目を向けることができなかったのだろう。


 もう一つの原因は、科学的知見のお粗末さ――というか、常識のなさだろう。これは『宇宙からのメッセージ』に限らず、従来の日本の特撮の特徴でもあったのだが、とにかく宇宙が宇宙に見えない。宇宙の色が黒ではなく紺色で、星はまばらに光っているだけ。都会から見上げた夜空そのままなのだ。
 『スター・ウォーズ』が凄かったのは、大気のない宇宙であれば(光の散乱がないから)青みがかることはなく、光が遮られずに数えきれないほどの星が見えるはずという、小学生でも知っているようなことをちゃんと映像にしたことだった。2010年代の今から見れば全然凄いことではなさそうだが、『スター・ウォーズ』が世の中を席巻するまで、日本のアニメも特撮番組も宇宙は青かったのだ。

 宇宙ボタルのシーンもひどかった。主人公たちは光り輝く宇宙ボタルを捕まえようと、肌の露出した服にマスクを付けただけで宇宙に出て行き、素手でホタルを掴むのだ。
 人類初の宇宙遊泳は1965年のこと、アポロ11号の月着陸は1969年のことだ。宇宙服に身を包まなければ、宇宙で人間が生きられないことは誰でも知っているはずなのに、本作ではなぜか酸素マスクらしきものを付けただけで楽しく宇宙を漂っている。
 しかも、宇宙ボタルの正体は放射性廃棄物だという。化学反応を起こして光っている大量の放射性物質を素手で触りまくったら、体調を崩してガバナス帝国と戦うどころではないはずだ。

 さらには、ガバナス人もジルーシア人も日本語を話し、地球人と平気で会話できる始末。
 『スター・ウォーズ』でも異星人たちが英語を喋ったりしていたが、この作品は冒頭に「A long time ago in a galaxy far, far away....(昔々、はるか彼方の銀河で…)」というテロップを置くことで、これから地球の常識が通じないお伽話をはじめますよと宣言しているから、観客は受け入れることができた。劇中に地球の言葉とは異なる言語を混ぜることで、多様な言語の問題があることは承知していますよと弁解もしていた(とはいえ、大きさを表すのにメートル法を使ったのはどうかと思うが)。
 『フラッシュ・ゴードン』(1980年)でも、冒頭で異星人が使うオモチャのような装置に「HURRICANE」とか「HOT HAIL」といった英語が書かれていて、ここから先にリアリティはありませんと高らかに宣言していたから、安心して笑いながら観ることができた。
 しかし、『宇宙からのメッセージ』にはそういう配慮もなく、子供が見ても「そりゃないよ」と思うことのオンパレードだった。


 だが、振り返ってみれば、この「常識のなさ」については『宇宙からのメッセージ』ばかりが責められるものではないはずだ。
 本作公開の二年後に発表された『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』でも、小惑星の洞窟内を宇宙服を着ずに歩き回るシーンがあった。せいぜい数キロメートル程度の大きさの小惑星に、大気を留めるだけの重力があるはずはないのに。『帝国の逆襲』公開時は、ハリウッドの大作映画に『宇宙からのメッセージ』と同程度の描写を見せられて驚いたものだが、なんと2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に至っても、主人公がマスクをしただけで宇宙に飛び出すシーンがあった。2017年の『エイリアン:コヴェナント』の宇宙船乗組員たちは軽装で未知の星に降り立ってしまうし、同年の『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』ではマスクすら付けずに宇宙を漂い、無事に戻ってくるシーンがある。

 とどのつまりは、『宇宙からのメッセージ』を制作した日本の映画人が非常識なのではなく、「いつの世も」「世界中の」映画人が非常識なのだ。こういう映画を観続けると、「そりゃないよ」と思ってもグッと堪える耐性が身につくものだ。
 もちろん、科学的――どころか常識として当たり前のことをちゃんと表現してくれる映画のほうが観ていて気持ちがいいし、どの映画もそうあって欲しいけれど。科学的に裏づけられた深い考察があれば、より一層気持ちがいい

 もしかしたら、これらの作品には、宇宙服を着なくても無事でいられる不思議な裏設定があったのかもしれない。だが、劇中でそれを示唆できなければ表現者として失格だし、いずれにしろ『宇宙からのメッセージ』だけが非難される筋合いではない。

 何の断りもなく異星人と日本語で会話できることも、当時としては仕方のないところだろう。
 なにしろ、異星人が英語を話したり読み書きできることが物語上のキーでありながら、なぜ異星人の言語がよりによって英語なのか疑問に思わない映画『猿の惑星』(1968年)が名作として高く評価されるくらいなのだ(『猿の惑星』の原作小説では、異星人はとうぜん地球にはない言語を話している)。それを思えば、『宇宙からのメッセージ』でジルーシア人の美女エメラリーダが、とっさに「あなた方は?」と日本語で呼びかけるくらい、どうってことない。


〈ANIMEX 1200シリーズ〉 (57) 交響組曲 宇宙からのメッセージ (限定盤)■映画の面白さ

 それでは、『スター・ウォーズ』フィーバーの渦中における「これじゃない」感や、科学的なデタラメさを脇に置き、虚心坦懐に『宇宙からのメッセージ』を観てみたらどうだろうか。

 いやこれが面白いのだ。いま見ても掛け値なしに面白い。
 結局映画の面白さとは、厳密な科学考証でも、驚異的なVFXでも、目をみはるセットでもないのだ。それらも大事なんだけど、なんといっても映画の面白さは軽快なテンポと話運びの切れの良さに尽きる。
 ヤクザ映画やアクション映画で鳴らし、時代劇『柳生一族の陰謀』を大ヒットさせていた深作欣二監督と、数々の映画で深作監督と組んできた脚本家の松田寛夫氏、編集マンの市田勇氏らの手になる本作は、娯楽映画のお手本といえよう。

 とにかく話に無駄がない。少しでも会話が続くと、何かが飛び込んできて平穏が破られる。寄り道かと思われたエピソードが次の展開の呼び水となり、話が速度を増して転がっていく。
 『仁義なき戦い』シリーズでお馴染みのナレーションも効果的だ。説明のための描写なんか素っ飛ばして、冒頭の惑星ジルーシアの状況や中盤の地球連邦の動き等を名ナレーター芥川隆行さんがきびきび語る。物語が矢継ぎ早に、スピーディーに進んでいくから、退屈する間がまったくない。

 吹き替えもそうだ。本作にはビック・モローはじめ外国人俳優が多数出演しており、日本での公開に当たってはセリフが声優によって吹き替えられている。ところが深作監督は、外国人俳優のみならず、日本人のサンダー杉山さんの声までわざわざ声優に吹き替えさせている。これは、滑舌の良さと勢いのあるセリフ回しを重視したためだろう。こうまでしてテンポの良さにこだわった演出は、見事というしかない。

 私は、スター・ウォーズ・シリーズの一作目『スター・ウォーズ』は傑作だと思うが、冒頭の20分は砂漠をてくてく歩いたり、農作業について話し合ったりしていてスピーディーとは云い難い。後の展開を素早く見せるための"溜め"なのだろうが、二作目以降でもただ歩くシーンや落ち着いた会話のシーンが見受けられる。云ってみれば、派手な展開の前の「待ち時間」だ。
 ところが、『宇宙からのメッセージ』にはそういう"溜め"がない。『仁義なき戦い』シリーズのあのノリで、圧倒的なスピード感で突っ走る。
 『宇宙からのメッセージ』の上映時間は105分。『仁義なき戦い』シリーズは97~102分、大傑作『県警対組織暴力』は100分だから、軽快な映画にはこれくらいの尺がいいのだろう。映画のスピード感とは、乗り物が高速で動くことではないのだ。ちなみに、スター・ウォーズ・シリーズは最短のオリジナル版『スター・ウォーズ』でも121分、特別篇で129分。以降はどんどん長くなる。


 『宇宙からのメッセージ』のベースになっているのは、曲亭馬琴の伝奇小説『南総里見八犬伝』だ。安房国(あわのくに)の里見家の下に、霊玉を持つ八人の犬士が集まって活躍する『八犬伝』は、本作の聖なるリアベの実を持つ八人の勇者の物語に置き換えられ、一人また一人と勇者が加わる旅とガバナス帝国の地球侵攻が並行して描かれる。

 何もないところから手探りでストーリーを紡ぐのではなく、(『スター・ウォーズ』が『隠し砦の三悪人』等を換骨奪胎したように)しっかりした先行作品をベースにしたのは堅実だが、『八犬伝』のパターンには特有の問題がある。勇者の登場と集結までの面白さに比べて、集結後のストーリーがパッとしなくなりがちなのだ。
 『七人の侍』のように、侍たちが結集する前半が面白い上に、身分違いの農民と侍の共闘という骨太のテーマに貫かれた後半も面白い傑作だってときには存在する。一方で、山田風太郎著『八犬傳』のように、八人の犬士が集まるまでは丁寧に描かれたのに、集まった後は駆け足で、もっぱら曲亭馬琴の執筆生活の描写に軸足が移ってしまう作品もある。本宮ひろ志著『男一匹ガキ大将』も、万吉一家28人衆が揃うまでがもっとも面白かったと思う。

 『宇宙からのメッセージ』が上手いのは、八人の勇者が集まるまでと、ガバナス帝国と戦ってジルーシア人を解放する部分を分けなかったことだ。ガバナス帝国の侵攻のスピードが早く、勇者が八人集まる前に主人公たちは最終決戦に臨まざるを得なくなる。こうして、残る勇者は誰なのか、いつ姿を現すのかという謎を残したまま、映画はクライマックスを迎える。
 この構成によって中弛みが排除され、いよいよスピード感が増している。


映画パンフレット 「宇宙からのメッセージ」■スペースオペラの面白さ

 『宇宙からのメッセージ』は東映京都撮影所で撮影され、製作には東映、東北新社とともに東映太秦映画村が名を連ねている。このことからも判るように、本作は時代劇の宇宙版だ。しかも、宇宙暴走族やらチンピラ連中が主人公格であるところから、ヤクザ映画の宇宙版でもある。これぞ日本ならではのスペースオペラのあり方だろう。

 「スペースオペラ」という呼び名は、舞台を宇宙にしただけで、その内実は安っぽいメロドラマの「ソープオペラ」や、安直な西部劇の「ホースオペラ」のようなものという意味で付けられた蔑称だが、安っぽい西部劇の宇宙版で上等だ。スペースオペラファンとしては、それで全然構わない。安っぽくても作品が量産されてこそ、傑作も生まれ得るというものだ。
 したがって、米国のスペースオペラが西部劇の宇宙版と目されてきたのなら、日本のスペースオペラは堂々と時代劇の宇宙版やヤクザ物の宇宙版を標榜すべきだ。

 それに、ジョージ・ルーカスは黒澤明監督の時代劇映画を下敷きにスター・ウォーズ六部作を撮り、ライアン・ジョンソン監督は『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』のストーリー作りの参考に五社英雄監督の『三匹の侍』をスタッフに観せたくらいだから、時代劇の本家本元たる日本の映画会社こそスペースオペラ作りに打ってつけといえよう。

 ただし、単に時代劇を宇宙に持って行っただけではスペースオペラにはならない。さすがに異星人が羽織袴を着るわけにはいかない。
 そこで『宇宙からのメッセージ』をよく見ると、ガバナス帝国関連の美術にはフィリップ・ドリュイエ風の意匠が凝らされていることに気づく。つまり、バンド・デシネ(フランスやベルギーのマンガ)に学んで異世界風味を出しているのだ。

Salammbô, L'intégrale (フランス語) AlbumSalammbô, L'intégrale (フランス語) Album フィリップ・ドリュイエはフランスのマンガ家で、異世界を描く独特のタッチで知られる巨匠である。日仏文化サミット'85だったと思うが、日本からマンガ家代表として手塚治虫氏が参加した際に、フランスのマンガ家を代表したのがフィリップ・ドリュイエだった。風忍氏はフィリップ・ドリュイエの影響を受けてマンガ『地上最強の男 竜』を描いたというし、テレビアニメ『ゴワッパー5 ゴーダム』(1976年)の地底魔人側の美術もフィリップ・ドリュイエ風だったように、日本のマンガ・映像関係への影響は決して小さくない。

 米国発の『スター・ウォーズ』に対抗するため、日本の時代劇の様式とヨーロッパのマンガ独特の美しさを融合させたのが、『宇宙からのメッセージ』だったのだ。これはもう、『スター・ウォーズ』の亜流どころの話ではない。


■宇宙からのメッセージ

 そのメッセージも感動的だ。

 『南総里見八犬伝』の八犬士が「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」の八つの徳目(仁義八行)の霊玉を一つずつ持ち、それぞれ優れた人格者であるのに対し、リアベの勇者となるアロン、シロー、メイアは宇宙パトロールをきりきり舞いさせて喜ぶ宇宙暴走族だ。ジャックはどうしようもないチンピラで、アロン、シローと組んでエメラリーダを売り飛ばしてしまう。はみ出し者が改心してヒーローになる話はよくあるが、人身売買までする人間のクズは珍しい。
 そんな彼らにもリアベの実は現れてくれて、人間はどこまで堕ちてもやり直せることを教えてくれる。

 さらにガバナス帝国の皇位継承者でありながら皇位を簒奪され追放されていたハンス王子と、堕落しきった地球連邦軍に愛想を尽かしたゼネラル・ガルダにもリアベの実は現れる。ジルーシア人を助けるリアベの勇者に彼らが加わることで、本作は「ジルーシア人対ガバナス人」という民族対立でもなく、「地球連邦対ガバナス帝国」という国家間の戦争でもなく、圧制(ガバナス帝国)と腐敗(地球連邦)を嫌う者たちが自由のために立ち上がる物語になっていく。これは当時大ブームを起こしていた『宇宙戦艦ヤマト』の「地球人対ガミラス人」「地球対ガミラス帝国」という図式を打ち破るものであった。

 また、聖なるリアベの実が勇者の許に出現したり、リアベで編んだ輪でガバナス要塞の弱点を突き止めたりすることから判るように、ジルーシアの文明はガバナスや地球の機械文明とは大きく異なる。それは自然と調和し、自然のもたらす力に支えられた、精神文明のようなものだ。本作の原案者・石ノ森章太郎氏が好んだ対比法だが、本作においてはこの二つが大和民族(和人)とアイヌらとの隠喩であることは容易に知れよう。だからガバナス帝国の皇帝ロクセイア12世や太公母ダークは、西洋風の名前にもかかわらず、「いざ、地球征服の詔(みことのり)をお出しなされ」などと朝廷のような話し方をする。そして、彼らの野望の前に立ちはだかるのは、団結した「まつろわぬ民」なのだ。


 戦い終わって、リアベの勇者とジルーシアの人々を歓迎するという地球連邦評議会議長の言葉を振り切り、彼らは新しい国作りのために宇宙の彼方へ旅立つ。
 革命で古い政権を倒し、新しい国作りに邁進する、そんな時代の残り香が漂う1970年代らしい終わり方だろう。当時は「地上の楽園」と謳われた国への「帰国事業」が行われていた時期でもある。

 21世紀に生きる私たちは知っている。どんなに旅を続けても、理想の国はないことを。「地上の楽園」はどこにもなかった。
 だからこそ、いま70年代のメッセージが胸に響く。地球に戻れば勲章を貰えたかもしれない、その誘惑を退け、新しい国を作ろうとする素朴な理想主義に心を打たれる。その国は宇宙の彼方にあるのでないのだ。それは私たちの心の中にあるのだ。腐敗への誘惑を断ち切り、理想を掲げ、自分たちで作っていくのだ。それが難しいことを知ればこそ、それでも理想を掲げる心意気が感動的だ。
 ゼネラル・ガルダは云う。「我々はちっぽけな存在にすぎないが、せめて夢だけは無限でありたい。」
 夢と希望を詰め込んだお伽話の形で語りかけるもの、それが『宇宙からのメッセージ』なのだ。


宇宙からのメッセージ [DVD]宇宙からのメッセージ』  [あ行]
監督・原案/深作欣二
脚本・原案/松田寛夫  原案/石森章太郎、野田昌宏
出演/ビック・モロー 志穂美悦子 フィリップ・カズノフ ペギー・リー・ブレナン 真田広之 岡部正純 千葉真一  成田三樹夫 天本英世 佐藤允 織本順吉 丹波哲郎 三谷昇 サンダー杉山 中田博久 小林稔侍 林彰太郎 ウィリアム・ロス
日本公開/1978年4月29日
ジャンル/[SF] [アクション] [ファンタジー]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : 深作欣二 ビック・モロー 志穂美悦子 フィリップ・カズノフ ペギー・リー・ブレナン 真田広之 岡部正純 千葉真一 成田三樹夫 天本英世

『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を応援します

Kubo and the Two Strings (Blu-ray + DVD + Digital HD) 【ネタバレ注意】

 どこから褒めればいいだろう。
 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は、そう悩んでしまうほど素晴らしい。


■驚異の映像

 まず目をみはるのが映像の美しさと迫力だ。制作会社ライカの過去の作品、『コララインとボタンの魔女 3D』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』も素晴らしかったが、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はそれらさえ凌駕する。
 その魅力の源が、ストップモーション・アニメーションにあることは間違いない。
 2010年代は3DCGのアニメーション映画が盛んだった。3DCGの映像は年々緻密になり、リアリティを増していた。しかし、本作の質感や奥行の広がりを前にしては、まだまだストップモーション・アニメーションの映像に軍配を上げざるを得ない。

 何より題材の選び方が秀逸だ。『コララインとボタンの魔女 3D』がボタンや布を取り上げて質感を訴求したように、本作が扱うのは折り紙だ。折り紙の侍が歩き回り、折り紙の小鳥が群れをなす。あたかもそこにあるような、手に触れられるような存在感には舌を巻く。

 そも、アニメート(animate)とは、「動かす」「生命を与える」という意味だ。本来動かないはずのものが、アニメーターによって命を吹き込まれ、生き物のように動き出す。そこにアニメーションの感動がある。実写と見まがう精緻な3DCGの素晴らしさもさることながら、折って飾るだけの折り紙が生き生きと動き出す様にはワクワクしてしまう。もちろん、人形たちの織り成す人間ドラマが魅力的であることは云うまでもない。

 トラヴィス・ナイト監督は、主人公クボは自分たちアニメーターの分身であると述べている。辻講釈で食べているクボは、過去の出来事を語るストーリーテラーであり、折り紙を操る芸術家であり、三味線を弾くミュージシャンだ。彼は折り紙に命を吹き込み、物語を演じさせる。それはストップモーション・アニメーションの制作と同じことだ。


オリジナル・サウンドトラック「KUBO クボ二本の弦の秘密」■日本と黒澤

 『コララインとボタンの魔女 3D』や『パラノーマン ブライス・ホローの謎』が現代の奇妙な町を舞台にしていたのに対し、本作が中世を舞台にしたファンタジーなのも嬉しい。作品が現代を離れるほどに、作り手は多くのものを考案し、作り上げねばならないだろう。だから作り手の苦労はたいへんになるだろうが、その分だけ観客にとっては見応えが増す。

 本作で描かれるのは、日本のような国である。侍が闊歩するファンタジーといえば、『47RONIN』のように幻想的な世界をこしらえた作品もあるけれど、本作は平安時代の日本を調べた上で作られている。パンフレットによれば、日本の皇室の衣装、特に江戸時代のものも調査したそうだ。必要に応じて、日本文化のコンサルタントを招くなどして、本作は日本の建築や服や町並みを再現している。劇中の祖先崇拝や灯籠流し等の描写は、調査が日本人の精神風土にまで踏み込んでいたことを示している。

 8歳のときに日本を訪れ、日本の文化に魅入られたというトラヴィス・ナイト監督は、「子供の頃にみんながサッカーやミニカーで遊んでいるだろ?そんな時に僕は、黒澤(映画)が描いた侍たちのことを想像して、遥か遠い日本を夢見ていたよ」と語る。[*1]

 ナイト監督のオススメの映画は、黒澤明監督の『用心棒』、『七人の侍』、『蜘蛛巣城』と『羅生門』だ。なるほど、平安時代の宮中の女性のような衣裳[*1]に身を包んだクボの母サリアツや、笠をかぶって顔を隠した叔母たちのイメージは、『羅生門』の京マチ子さんから来ているのだろう。強力無双の武芸者であり、また一城の主でありながら、ひょうきんでおっちょこちょいの父ハンゾウは、三船敏郎さんが源流だ。パンフレットには「『七人の侍』の三船敏郎に敬意を表し、彼に似せ」たとしか書かれていないが、半人前でおっちょこちょいの『七人の侍』の菊千代だけでなく、凄腕の用心棒や蜘蛛巣城の城主のイメージも重ねられたに違いない。
 ナイト監督は、「本作はライカから日本へのラブレターのつもりで制作した」とまで云う。

 しかし、私は、本作が日本を取り上げているから応援しようとは思わない。舞台が日本だったり、日本の人々を描いていても、それは単に映画の素材だ。
 私が本作を応援したいのは、素材を活かしながら極めて高い完成度の作品に仕上げているからだ。そして、本作が訴える格調高いテーマに共感するからだ。


 だいいち、そんなに日本映画が大好きで、日本に人を送ったりコンサルタントを招いたりして日本のことを調べているのに、本作の時代考証はゆるゆるだ。
 クボの母が平安時代の着物を着ている一方で、村人たちは帯の大きい江戸時代のような着物を着ている。しかも、庶民の身でありながら、色鮮やかで凝った模様の着物ばかり。誰も彼もがこんな上等な着物を着ているなんて、まるで日本の時代劇ドラマのようだ。

 これは仕方のないところかもしれない。日本でさえ、NHKの大河ドラマ『平清盛』が時代考証を重視して昔の日本のみすぼらしさ、不衛生ぶりを誠実に描いたら、「画面が汚い」などと文句を付けられたのだ。当時は裸同然の人もいただろうから、服を着ているだけマシなほうだと思うのだが、きれいで清潔な服を着られるようになった現代人は、過去の人にも今のスタンダードを求めてしまう。
 そんな現実離れした作品が期待される世の中だから、本作の世界の住人が時代錯誤の美しい服を着ていても、日本の時代劇並みと思えば問題あるまい。

 とはいえ、村の祭の盆踊りで、「炭坑節」が流れるのには笑ってしまった。今でこそ盆踊りの定番となった「炭坑節」だが、これは昭和期にはやった曲だ。近世以前の祭に流れているはずがない。
 おそらくは、これも意図的なのだろう。盆踊りすらなかった平安時代の歌や踊りの再現に努めたところで、日本人でさえそれがなんだか判るまい。それに「月が出た出た、月が出た♪」という「炭坑節」の歌詞は、《月の帝》と戦う主人公の運命を示唆することにもなる。あえて「炭坑節」を選んだのは、優れた選択といえるだろう。

 また、平安時代風の母からクボに受け継がれるものは、三味線より琵琶のほうが似合いそうだが、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』では弦の数が重要な伏線になっているから、あえて三味線にしたのだと思う。
 リアリズムを重んじる黒澤明監督の『七人の侍』でさえ、戦国時代が舞台なのに鎌倉時代の武具を付けたりしている。[*2]
 この自由奔放さを、トラヴィス・ナイト監督はしっかりと受け継いでいる。


【映画パンフレット】クボ 二本の弦の秘密■黒澤映画の継承者

 クボは赤ん坊のときから片眼がない。冷酷な祖父《月の帝》に取られたのだという。
 残りの眼も奪おうと、祖父と配下の叔母たちがクボを付け狙っている。

 クボの隻眼の設定は、独眼竜政宗と柳生十兵衛に敬意を表したものだ。[*1]
 体の一部が奪われるのは、怪談『耳なし芳一』のようでもあるが、なによりクボが障碍を持っていることが重要だったのだろう。『ヒックとドラゴン』の主人公ヒックには片足がない。クボもまた障碍を持つ主人公の系譜に連なっている。障碍があっても、差別されたり不利益を被ったりすることなく生活できる世の中であるべきだという作り手の信念が、このような人物像を世界に発信させているのだろう。

 黒澤明を神のように崇めるトラヴィス・ナイト監督は、黒澤映画から多くのものを学んだ。それは、カメラの動きや構成、構図、照明等の多岐にわたるが、それ以上に欲したのは、黒澤が映画を通じて探求したテーマを本作でも探求することだったという。それは、ヒューマニズム、ヒロイズム、実存主義、大胆な理想といったものだ。
 本作は、まぎれもなく黒澤明のヒューマニズムを継承している。

 それは題名にも表れていよう。
 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の原題は『Kubo and the Two Strings』である。「クボと二本の弦」という意味だ。
 邦題だと「クボ」と「二本の弦の秘密」が分かれていて、別々のことを指すように見えてしまうが、本来は一つ、つまり「クボ」と「二本の弦」が一緒に並んでいるわけで、「クボと二本の弦」はすなわち「三本の弦」ということだ。
 クボが三味線使いであることからも、クボを含めた三本の弦が一緒にいることが本作のテーマとなっている。

 もちろん、三本の弦とはクボと父と母であり、両親の愛が共にあるとき、クボは最強の力を発揮する。
 けれどもそれは、必ずしも親子三人で仲良く暮らすことではない。映画を最後まで観た方はお判りだろう。人間はいつかは一人で生きていかなければならない。だが、どんな人間にだって、彼/彼女を産み、育んでくれた人がいるはずだ。その人たちの想いがあれば、人は孤独ではないのだ。
 それは同時に、孤独な人を放っておいてはいけない、想いを伝えなければいけないということでもある。


The Art of Kubo and the Two Strings■現実からフィクションへ、フィクションから現実へ

 ストーリーテラーのクボを主人公に据えた本作は、物語の力も重要なテーマとしている。
 もちろん、本作のストーリーもべらぼうに面白い。

 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の原型は、キャラクターデザイナーのシャノン・ティンドルが、紙彫刻家の妻ミーガン・ブレインのために作ったお話だ。若くして認知症になり、車椅子の生活を余儀なくされた母を介護しながら生きてきたミーガンのために、シャノン・ティンドルは彼ら親子の関係をモデルにした絵物語を描いてプレゼントしたのだ。
 それから十余年を経て、物語の構想が膨らんだシャノン・ティンドルは、日本の説話に触発されながら、クボと母のお伽ばなしを壮大な叙事詩に仕立て上げた。妻ミーガンもスタッフに加わり、紙彫刻家としての腕を振るって、折り紙の造形を行った。
 「この家族の物語は、(全部とは云わないけれど)私の家族で作りました」とシャノン・ティンドルは綴っている。本作には、並々ならぬ想い入れがあるのだろう。


 完成した『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は、一種の貴種流離譚になっている。
 クボは何があっても日暮れまでに洞窟に戻らなければならない。夜になると、一族の住む月の世界からクボの姿が見えてしまうからだ。
 本作は『かぐや姫の物語』に通じるところがある。高貴な人々が住む月の世界と、卑しい者たちが住む地球。月の人が地球の人間に接して、心を通わせてしまったことから生じる波乱。
 『かぐや姫の物語』と違うのは、かぐや姫が月の人々に抗しきれず月に還って行ったのに対し、本作のクボや父母は地球で暮らすために徹底的に戦い続けたことだ。クボの父ハンゾウは炎を吐く怪鳥《波山(ばさん)》と戦い、クボは妖怪《がしゃどくろ》らと戦った。
 その波瀾万丈の物語は、冒頭でクボが披露したハンゾウの武勇伝を前史とすることで親子二代にわたる年代記となり、たった103分の映画とは思えないほどの奥深さと広がりを見せる。
 国枝史郎の伝奇小説を彷彿とさせる、極上の娯楽作だ。


 だが、私がもっとも心惹かれたのは、その結末だ。
 怪人、妖怪が跋扈する冒険譚で、こんな終わり方があっただろうか。
 
 《月の帝》との決戦の末にクボがたどり着いた結論は、《月の帝》を殺すことではなかった。《月の帝》を捕らえることでもなかった。謝罪させることでも、罪を償わせることでもなかった。
 《月の帝》に村を破壊され、怯えていた人々がやったのは、《月の帝》を褒めることだ。《月の帝》がいかに優しい人か、思いやりがあるか、気前がいいかを説き、口を揃えて褒めそやした。
 ラスボスを褒めたてて終わる映画は珍しいだろう。

 中国ではこのように皇帝を扱ってきたと、与那覇潤氏は著書『中国化する日本』で説明している。
 宋朝以降の中国では、皇帝なり官僚なりの権力基盤の正統性が朱子学思想に置かれており、それゆえ権力者は朱子学の理念に相応しい振る舞いを求められた。朱子学では、世界普遍的な道徳の教えをもっともよく身に付けた聖人こそが権力者として選ばれるという理屈になっているので、権力者の行動は常に朱子学の理念により統制されるというのだ。

 同様の扱いは、現代社会でも目にすることができる。就任間もない米大統領バラク・オバマのノーベル平和賞受賞が、その好例だろう。
 ノルウェー・ノーベル委員会は、世界最強の軍事国家アメリカ合衆国の最高権力者を、もっとも平和に貢献する人物として称えることで、エールを送るとともに縛りをかけた。ノーベル平和賞受賞者となったオバマ大統領は、その任期中に現職大統領としてははじめて広島を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。

 日本国の象徴天皇制も 外国から見たら同じように感じられるかもしれない。かつては天皇が国の統治者とされた時代もあったが、20世紀の大戦争の後に誕生した日本国では、天皇が日本国民統合のシンボルとされている。すべての日本国民から国のシンボルとしての期待が天皇に向けられており、天皇はそれに応えていかなければならない。
 紆余曲折はあるものの、日本国が70年以上にわたり平和を保ってこられた要因の一つには、この象徴天皇制もあるかもしれない。
 そう考えると、敵が《月の帝》であることも象徴的だ。日の丸を掲げる日本は、太陽を信仰する国とも云われる。クボの母が逃げ出した月の世界とは、日本の裏返しなのだろう。そして、戦いを経た《月の帝》が、みんなの期待に応えつつ地上で平和に暮らしていくのは、シンボルとなった天皇の下で平和を念願する日本国を表しているかのようだ。

 廃墟と化した村の住人たちが、《月の帝》ことライデンとともに平和な暮らしに踏み出す様を見て、私は涙が止まらなかった。


オリジナル・サウンドトラック「KUBO クボ二本の弦の秘密」■日本語吹替版だけの魅力

 最後に音楽に触れておこう。
 外国映画が日本で公開される際に、しばしば日本版の主題歌が付けられてしまうことがある。その良し悪しはともかく、できれば制作された本国と同じものを鑑賞したい私にとって、日本版で異なる曲が付けられるのは残念だった。

 ところが、本作ばかりはそうではなかった。
 本作の主題歌は、ジョージ・ハリスン作詞作曲の「While My Guitar Gently Weeps」。ビートルズが1968年に発表した作品だ。それをレジーナ・スペクターの歌とケヴィン・メッツの三味線演奏でカバーした曲が本作のエンディングに流れるのだが、日本語吹替版では三味線奏者の吉田兄弟がカバーしたバージョンに変えられている。これがとびっきりにいいのだ。三味線の音色の力強さと物悲しさが、実に映画に合っている。元の主題歌もいいけれど、吉田兄弟の演奏はそれに勝るとも劣らぬ素晴らしさだ。

 制作会社ライカからの「吉田兄弟とタッグを組みたい」とのラブコールにより実現したというこの組み合わせ。
 日本語吹替版が優れている稀有な例として、日本で聴けることを存分に楽しみたい。


[*1] パンフレットより

[*2] 三船敏郎さん演じる菊千代が最終決戦で被っていたカナ面(メン)について、黒澤明監督と宮崎駿監督はこんな会話を交わしている。
 宮崎 あれはちょっと時代が違いますよね。
 黒澤 ちょっと違います。鎌倉ですね、あれは。
 宮崎 全部ご存知で嘘ついてるから(笑)。

 ――黒澤明・宮崎駿 (1993) 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 徳間書店 


Kubo and the Two Strings (Blu-ray + DVD + Digital HD)KUBO/クボ 二本の弦の秘密』  [か行]
監督・制作/トラヴィス・ナイト
原案/シャノン・ティンドル、マーク・ヘイムズ
出演/アート・パーキンソン シャーリーズ・セロン マシュー・マコノヒー レイフ・ファインズ ルーニー・マーラ ジョージ・タケイ ケイリー=ヒロユキ・タガワ
日本語吹替版の出演/矢島晶子 田中敦子 ピエール瀧 羽佐間道夫 川栄李奈 小林幸子
日本公開/2017年11月18日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : トラヴィス・ナイト アート・パーキンソン シャーリーズ・セロン マシュー・マコノヒー レイフ・ファインズ ルーニー・マーラ 矢島晶子 田中敦子 ピエール瀧 羽佐間道夫

『ブレードランナー 2049』 流れよ我が涙、と警官は言った

ブレードランナー 2049(初回生産限定) [Blu-ray] 【ネタバレ注意】

 『ブレードランナー 2049』は2017年に発表されるべき作品だった。前作『ブレードランナー』のテーマと作品世界を受け継ぎながら、本作は来るべき未来を見据えている。

 「実はSFって、現実から離れて人間の感情の描写に集中できるという意味で、とても優れた表現形式なんだ。」
 本作の主人公を演じたライアン・ゴズリングはこう語る。[*1]


■「人間とは何か」とは何か

 前作に主演し、本作にも出演したハリソン・フォードは、『ブレードランナー』が「人間とは何かという問いに答えようとしている。だから文化の違いを超えて世界で成功した」と述べている。
 人間とは何か――確かに『ブレードランナー』はその問いを取り上げていよう。だが、考えておかねばならないのは、「人間とは何か」とは何かということだ。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229)) 『ブレードランナー』の原作小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』には、人間と区別がつかないほど精巧な人造人間(アンドロイド)が登場した。主人公デッカードは、人間か人造人間かを判定しながら、人造人間と結論づけた相手を次々に殺していた。
 ここでデッカードを悩ませたのは、自分は本当に人間と人造人間を区別できているのかということだ。人間と人間でないものは、客観的に識別できるものなのか。作中では、感情の動きを測定して「人間らしい」反応かどうかを検査するヴォイト=カンプフ・テストが編み出されていたが、デッカードの直感と検査結果は必ずしも一致しない。人間に人間と感じられなかった人間でも、検査結果が人間と出れば人間扱いすれば良いのか。人間のことを人間と感じなかった人間は、人間といえるのか。

 この小説が発表されたのは1968年だ。ゲノムの解読など及びもつかず、「人間とは何か」という問いに対してしばしば科学よりも哲学や宗教が答えようとした時代だった。ドラッグやセラピー技法が人間性を変革し、人間の無限の可能性を拓いてくれる、そう思われた時代だった。


 1982年公開の映画『ブレードランナー』[*2]は、原作から宗教や人間性の変革に関する部分を削ぎ落とし、シンプルな追跡劇になっている。ここでもデッカードはレプリカントと呼ばれる人造人間を追っているが、彼は人間とレプリカントを正確に識別できており、自分が人造人間ではないかと悩むこともない。一方で、みずからレプリカントと見破ったレイチェルと恋に落ちてしまう。
 原作が「周囲や本人が人間だと思っているそいつは本当に人間なのか」という形で「人間とは何か」という問いを突きつけたのに対し、映画は「人間ではないと思われているそいつも人間なのではないか」という形で「人間とは何か」と問いかける。
 さらに、人間か否かという問題以上に映画が打ち出すのが、人間ならどう行動するかということだ。

ブレードランナー ファイナル・カット 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ(3枚組) [Blu-ray] 思えば、『ブレードランナー』は愛の物語だった。あれほどのカリスマ性をまとった映画をそんなひと言で要約したら、大雑把過ぎるとお叱りを受けそうだが、私はそう思っている。
 映画ではレプリカント(ネクサス6型)の寿命が四年と定められている。製造から数年経つとレプリカントも感情を持つようになるので、従順な下僕が欲しいだけの人類は四年で機能停止するように安全装置を仕込んだのだ。ところが、映画の後半に至ると、レプリカントの寿命を伸ばすことは技術的にできないことが明らかになる。彼らレプリカントは、どうやっても四年で死ぬのだ。
 この映画の肝は、レイチェルが人間かどうかではない。レイチェルも人間と同じように考え、感じられるかではない。レイチェルとの愛を貫こうとするデッカードの気持ちの問題なのだ。たった四年しか生きられなくて、もうすぐ死んでしまうレイチェル。そんな彼女とのわずかな時間のために、デッカードは仕事も暮らしもすべてを捨てて、レイチェルとの逃避行を選ぶ。お尋ね者として追われることが判っていながら、彼は愛のために生きるのだ。なんと強烈なラブストーリーであることか。

 相手が人間かどうかにかかわらず、愛のためならそんな行動が取れるのが人間だ。この映画はそう締めくくられている。


■「人間とは何か」

 そして『ブレードランナー 2049』。人間を含めた多くの生物のゲノムの解読が進み、人間が神を創造するメカニズムすら解明された2017年に、この映画は公開された。本作ではもはや人間かどうかを問うこともない。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、自分なりに前作を解釈しながら、現代に相応しく前作のテーマを推し進めている。

 当初本作を監督する予定だったリドリー・スコットは、『エイリアン:コヴェナント』(2017年)の監督に専念し、そちらで人造人間テーマを取り上げた。『プロメテウス』で信仰の大切さを説き、『エクソダス:神と王』で旧約聖書の世界を映画化したリドリー・スコットは、『プロメテウス』の続編となるその映画で、神でもないのに創造するのは邪悪なことであるとした。だが、ヴィルヌーヴ監督に引き取られた本作は、およそ正反対の方に向かった。

BLADE RUNNER 2049 (SOUNDTRACK) [2CD] CD, Import 続編作りに当たって行なわれたのは、いったんすべてをリセットすることだった。
 前作の舞台は2019年。『ブレードランナー 2049』はその30年後を舞台にするが、その間、2022年に大停電が起こって多くの記録が失われたことにした。
 さらに、レプリカントを製造していたタイレル社が倒産したことにして、新たなレプリカントの製造会社ウォレスを設定する。前作で目を潰されて殺されたタイレル社長に変わり、盲目のウォレス社長を登場させ、タイレル社長のそばにレプリカントのレイチェルがいたように、ウォレス社長のそばにレプリカントのラヴ(Luv)を配する(luvとはloveの視覚方言だが、これがひどく皮肉な命名であることは後で判る)。
 こうして、本作は『ブレードランナー』の続編の態をとりながら、前作の開始地点に戻って『ブレードランナー』を語り直す。両作のあいだを取り持つために、わざわざ三つの短編――『ブレードランナー ブラックアウト2022』、『2036: ネクサス・ドーン』 、『2048: ノーウェア・トゥ・ラン』――まで用意して。
 もちろん、前作を愛するヴィルヌーヴ監督の心には、タイレル社長が目を潰される場面が焼きついているだろうから、レプリカント製造会社の社長は目が見えてはいけない。本作は続編としてもリメイクとしてもリブートとしても見ることができる、極めてユニークな作品になった。


 前作のテーマを掘り下げるため、あえて変えたところもある。
 最大の変化は、主人公がレプリカントであることだろう。前作が「人間ではないと思われているそいつも人間なのではないか」と問う物語であったとすれば、本作は「もはや人間(とされているもの)に属するか否かは問題ではない」という事実を突きつける。しょせん人間といえども、細胞内で化学反応が起こり、神経細胞を電気信号が駆け巡る、炭素化合物や水の塊にすぎない。充分に複雑に作れば、人間と同じように反応するものが作れないはずがない。非実在のバーチャルアイドルが人気を博し、AIの棋士が人間のプロ棋士を打ち負かす2017年ともなれば、そのことを現実感をもって受け入れられよう。
 では改めて、現代において「人間とは何か」という問いにはどう答えるべきか。主人公はレプリカントであることを自覚しつつ、自分もまた人間(と同じもの)であることを確かめるべくさまよい歩く。

 前作を上回る複雑なストーリーは、前作以上に原作者フィリップ・K・ディックの作品世界に近づいたと思う。レプリカントと彼らを狩る捜査官のシンプルな対決だった前作とは異なり、本作ではロサンゼルス市警察と大企業ウォレス社とレプリカント解放運動メンバーの三つ巴の争いが描かれる。それは、人間と超能力者と不活性者の三つ巴の争いを描いた『ユービック』のように、ディック作品にお馴染みの構図だ。

 三つの勢力はそれぞれの思惑から行動しているが、いずれの勢力も重視することが一つある。
 生殖だ。製造されるのではなく、生殖により増えていくレプリカント。能力においても容姿においても人間とレプリカントに差はないのに、この上レプリカントが生殖までできるようになったら、人間と何が違うというのか。
 人間が支配する社会の永続を図るロサンゼルス市警察は、生殖できるレプリカントの存在が許せない。そんなレプリカントを排除し、そのすべての痕跡を抹消しようとする。
 ウォレス社は、人間の発展のために、生殖できるレプリカントが必要だと考える。奴隷の主人と同じ発想だ。奴隷が死に絶えたら主人が困る。だから奴隷の持ち主は、奴隷が最低限の健康を保てるようにして、奴隷同士が生殖し、増えることを望んだ。増えすぎたら売ればいいのだ。レプリカント製造会社のウォレスにとって、生殖できるレプリカントは、製造設備に投資しなくても勝手に増えてくれる商品だ。レプリカントが生殖するメカニズムを何としても手に入れたい。
 レプリカント解放運動のメンバーにとって、生殖できるレプリカントは希望だ。その存在を推し立てることで、レプリカントが人間と遜色のない存在であることを証明し、隷属を強いられた今の境遇からの解放を目指そうとする。

 本作は、「人間とは何か」という問いに対して、表面的には生殖できることを挙げる。『灼熱の魂』で悲劇の中にも失われない親子の愛を描き、『プリズナーズ』では子供のために何もかもなげうつ親を描き、『メッセージ』ではいずれ死ぬと判っている我が子を精一杯愛し、育もうとする親を描いたヴィルヌーヴ監督だから、本作でも親子の情愛を中核に据えてもおかしくない。

 しかし、それは必ずしも答えではない。本作の主人公が生殖できないロボット(自動機械)であることが、「それだけではない」と語っている。


ブレードランナー 2049 Blade Runner 2049 シルク調生地 ファブリック アート キャンバス ポスター 約60×90cm■これからのラブストーリー

 本作の主人公に名前はない。KD9-3.7というシリアル番号があるのみで、普段は単に「K」と呼ばれる。
 ロボットの刑事にアルファベット一文字が付けられるのは、アイザック・アシモフ著『鋼鉄都市』のロボット刑事R・ダニール・オリヴォーに連なる伝統だ。特撮テレビ番組『ロボット刑事』の主人公も「K」だった。『鋼鉄都市』のRはROBOTの頭文字、『ロボット刑事』のKはKIKAI(機械)の頭文字であろう。
 では、本作の主人公の名は何を意味するのか。

 警察官KD9-3.7、すなわち Policeman KD9-3.7 は、フィリップ・キンドレド・ディック(Philip Kindred Dick)と同じ頭文字PKDであり、原作者へのオマージュであるといわれる。
 一方で、Kのガールフレンドのジョイは、彼のことをジョーと呼び、あなたは特別な存在だという。ジョーとはジョゼフの短縮型で、ジョゼフ(Joseph)とは聖書に登場するヨセフのことだ。ヨセフはラケルがはじめて産んだ子であり、カナンの人々の血を引きながらエジプト側に立ち、それでも飢えに苦しむカナンの人々を救った人物だ。ラケル(Rachel)を英語風に発音すればレイチェルである。主人公がジョーと呼ばれるのは、彼がレイチェルの生殖によって生まれた子供であり、人間側(ロサンゼルス市警察)に立っているものの、レプリカントを苦しみから解放する役割を担っていることを示唆している。
 ジョイは恋愛をするようにプログラムされたAIであり、無垢な女性の立体映像を出現させてKに尽くしてくれる。プログラムと判っていても、Kはジョイに癒される。それはまさに萌えキャラの進化形だ。

 とてもメタファーとは思えない。少なからぬ人々が、実在の人間との恋愛ではなく恋愛ゲームやアニメやマンガのキャラクターに夢中になり、現実には非力な自分でも実は重要な何者かであると夢想したくなる実社会のような展開が、切なくてやるせない。人間ではなくレプリカントを恋愛対象とした前作から、本作では実体すらないAIを恋愛対象とするまでに変化した。まさに現代の、そしてこれからの社会のラブストーリーといえよう。
 映画中盤の、男性(K)が入れ込んでる萌えキャラ(ジョイ)をリアルな女性に否定され、(ラヴに)踏みにじられる展開は涙を誘う。しかもその「リアルな女性」はレプリカントなのだ。

 ここには、生殖が伴わなくても愛はあり得るというシンプルな主張がある。実体がないジョイとKとの恋愛に、心を通わせるだけだからこそ純粋なものを感じる人もいるはずだ。
 そもそも、生殖できることだけが人間の価値であるはずがない。たとえば同性で愛し合っても子供は生まれないし、何らかの事情で子供を作らない/作れない人もいる。では、これらの人々は人間ではないのかといったら、とうぜんそんなことはない。生殖できないレプリカントを主人公に据えた本作は、はじめから親子の愛や家族の素晴らしさに帰着するつもりはないのだ。

               

映画 ブレードランナー 2049 ポスター 42x30cm Blade Runner 2049 それでも映画の作り手は、Kを何者かにはしてくれない。彼の部屋に置かれた愛読書は、ウラジーミル・ナボコフの『青白い炎』だった。この本は、キンボート(Kinbote)博士、つまり頭文字「K」の人物が、今でこそ一般市民として暮らしているが実は本国を追放された王なのだという妄想に取りつかれた物語だ。
 自分は生殖によって誕生した特別なレプリカントであり、レプリカントと人間の立場を覆すほど重要な存在なのだ。そう思いたいKの発想の源流は、彼の愛読書にあったのだろうか。なんと哀れなK。ジョイはKの本の内容を知っていて、彼が喜びそうなことを云っただけなのかもしれない。
 「K」とは「キンボート」に由来したのか――。

 『ブレードランナー 2049』は、誰も彼も、右も左も生殖できることに価値を置く中で、バーチャルな恋愛と妄想に耽っている中二病の僕に何ができるのか――そういう物語だ。
 子供を作らないからといって、子供を慈しまなくていいわけじゃない。世界を変える特別な存在じゃないからといって、何もしなくていいわけじゃない。
 Kは行動を起こす。自分なりにできることを。次の世代のためにできることを。レプリカントか人間かなんて、もう彼には問題ではない。親子を引き裂いたり、人を殺したり、そんなことを許さないだけだ。相手が人間かどうかにかかわらず、自分が人間かどうかにもかかわらず、彼は行動する。
 ここに至って、もはや「人間とは何か」という問いは空虚でしかない。いわんや、人種、民族、国民をや。そんな問いにこだわるよりも、やるべきことが、やれることが、こんなにもたくさんあるのだから。

 自分なりにできることをやって、力尽きるK。
 横たわる彼に最後に残るのは、――愛だ。
 誰への愛?
 誰でもない。世界への、それは愛。


[*1] 月刊シネコンウォーカー No.142/2017年10月14日発行

[*2] 『ブレードランナー』の七つのバージョンのうち、『ブレードランナー 2049』を作る上でドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が意識したのは、オリジナル劇場公開版(US劇場公開版)とファイナル・カットだそうだ。
 たとえば、デッカードが隠し持っていたスピナー(空飛ぶパトカー)は、ファイナル・カットにはないオリジナル劇場公開版のラストでレイチェルとの逃避行に用いたものだろうし、タイレル社長が目を潰される場面はオリジナル劇場公開版(US劇場公開版)にはないから、ファイナル・カット等のバージョンを見ていないと盲目の社長というイメージの出どころが判らない。
 本稿もこの両パーションを踏まえて執筆する。


ブレードランナー 2049(初回生産限定) [Blu-ray]ブレードランナー 2049』  [は行]
監督/ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演/ライアン・ゴズリング ハリソン・フォード アナ・デ・アルマス シルヴィア・フークス ロビン・ライト マッケンジー・デイヴィス ジャレッド・レトー レニー・ジェームズ カルラ・ユーリ デイヴ・バウティスタ ショーン・ヤング エドワード・ジェームズ・オルモス バーカッド・アブディ
日本公開/2017年10月27日
ジャンル/[SF]
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【genre : 映画

tag : ドゥニ・ヴィルヌーヴ ライアン・ゴズリング ハリソン・フォード アナ・デ・アルマス シルヴィア・フークス ロビン・ライト マッケンジー・デイヴィス ジャレッド・レトー レニー・ジェームズ カルラ・ユーリ

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