『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』 嘘八百のラブストーリー

「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」 【ネタバレ注意】

 なんてチャーミングな映画なのだろう。
 スティーヴン・フリアーズ監督の伝記映画『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』は、裕福なマダムを演じるメリル・ストリープと、事実婚の夫を演じるヒュー・グラントのユーモアたっぷりな演技が楽しめるコメディであると同時に、歌の上手さには定評のあるメリル・ストリープの歌声を堪能できる音楽映画でもある。――劇中では、極めて下手に歌うのだが!


■メリル・ストリープが絶賛する演技

 メリル・ストリープは10代の頃オペラのレッスンを受けており、女優としてデビューしてからもミュージカル映画『マンマ・ミーア!』等で抜群の歌声を披露している。その彼女が"絶世の音痴"といわれる歌手フローレンス・フォスター・ジェンキンス役に挑むるのだから、面白いったらありゃしない。
 登場人物にも目をみはる。本作はマダム・フローレンスの音楽活動を描くだけでなく、1944年当時に活躍した音楽家や芸術家たち――偉大な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニや作曲家コール・ポーターら――が続々登場して賑やかしてくれる。

 圧巻なのが、マダム・フローレンスのピアノ伴奏者コズメ・マクムーンを演じたサイモン・ヘルバーグだ。フローレンスの下手な歌に目を白黒させながら、なんとか平静を保って演奏しようとする彼の演技は笑いを誘う。そんな演技をしながら、本当にピアノを奏でているのだから驚きだ。公式サイトに、メリル・ストリープの称賛の言葉が紹介されている。
 「彼のことはほとんど知らなかったけど、すぐに意気投合したわ。本当に面白くて、頭が良い人なの。サイモンが登場すると、映画がイキイキするわ。彼はコミカルな演技も素晴らしいのに、難しいピアノ曲も弾きこなすのよ。スティーヴンの言う通り、ピアノが弾ける俳優がいなければこの映画は完成しなかったと思うわ。演奏しながら、部屋の中で起こっていることに反応しなくてはならないのだから、サイモンは天才ね。」


■歌唱力がないのに人気がある「アメリカ最初のアイドル

 本作は、"絶世の音痴"でありながらそのことに気づかないまま歌手として活動するマダム・フローレンスと、彼女を傷つけまいと涙ぐましい努力をする夫シンクレア・ベイフィールドの物語だ。
 フローレンスの持つ莫大な財産を背景に、シンクレアは評論家を買収し、メトロポリタン・オペラの指揮者にフローレンスの歌を絶賛させ、絶対にフローレンスが自分の下手さに気づかないようにありとあらゆる手を尽くす。その献身ぶりがおかしくも哀しく、本作を上品なコメディにしている。

 本作の登場実物は嘘つきばかりだ。
 フローレンスの歌が下手なことは公然の秘密だし、シンクレアは彼女の夫のように振る舞いながら結婚はせず、別宅で密かに愛人と暮らしている。フローレンス自身、病気治療のために禿げた頭をカツラで隠している。

 しかし、フローレンスは幸せそうだ。好きな歌に打ち込んで、みんなから称賛され、愛する夫と過ごす日々に彼女は満足している。スクリーンから溢れるのは、彼女を取り巻く人々の気遣いと優しさだ。彼女は愛すべき人物なのだ。他人への援助は惜しまないし、パッとしない役者のシンクレアが傷つかないように否定的な劇評が載った新聞を彼から隠したりしている(シンクレアが、フローレンスが傷つかないように否定的な音楽評を彼女から隠しているように)。
 中には打算から大富豪のフローレンスに近づく者もいるだろうが、劇中の彼女があまりに幸せそうなので、映画全体からハッピーな雰囲気が伝わってくる。


 しかも、本作には観客が「真実」に打たれる瞬間がある。
 愛人キャサリンとバーに入ったシンクレアが、フローレンスの歌をバカにする客たちの会話を耳にしたときだ。彼は猛然と腹を立て、キャサリンをテーブルに残して抗議に行こうとする。それをキャサリンが制止する。「いま行ったら、私はいないわよ」。それでも抗議に飛び出すシンクレアだが、彼がテーブルに戻るとキャサリンはいなくなっていた。――シンクレアとキャサリンの別れのシーンだ。

 このシーンまでは、シンクレアの真意がよく判らなかった。フローレンスに極めて優しいシンクレアだが、キャサリンとも愛し合っている。彼がフローレンスのそばにいるのは、彼女が大富豪だからではないか。彼はキャサリンのほうをより深く愛しているのではないか。私はそんな風に思ったし、劇中のキャサリンもそう思っていたはずだ。
 ところが、見知らぬ客がフローレンスを侮辱するのを聞いて居ても立ってもいられなくなり、思わず怒鳴り込んでしまうシンクレアを見て、私は――劇中のキャサリンも――シンクレアのフローレンスへの思いが本物であることを知る。だからキャサリンは、彼女の制止に耳を貸さないシンクレアから去ってしまうのだ。嘘ばかりを描いてきた本作が、真実に輝く瞬間だ。

 それからというもの、音楽の殿堂カーネギーホールで歌いたいと云い出したフローレンスの願いを叶えるために奔走するシンクレアを――そんな無謀なことは止めさせるべきなのに――私は応援しながら観てしまった。怖いもの知らずのフローレンスと、彼女の味方に徹するシンクレアの愛情に、深い感動を覚えたのだった。


 映画で描かれるのは1944年のほんの数ヶ月だ。音楽を愛するフローレンスが歌をうたおうと思い立ち、歌の指導を受け、伴奏者としてピアニストを雇い、ホテルでリサイタルを開き、レコーディングを行い、そのレコードをラジオ局に持ち込んで放送してもらい、遂にはカーネギーホールで3000人の聴衆を前に熱唱する。怒涛のごとき展開だ。
 『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』は波乱に富んだ物語と、メリル・ストリープとヒュー・グラントとサイモン・ヘルバーグの名演技に酔いしれて、たっぷり2時間楽しめる映画である。

 ――公式サイトの宣伝文句「感動の実話!」の文字は白々しいけれど。
 なぜなら映画の内容は嘘ばっかりだからだ。


The Glory (????) Of The Human Voice (Sony Classical Originals)■マダム・フローレンスに関する事実

 公式サイトにフローレンス・フォスター・ジェンキンスの年譜が載っている。これを見れば、映画とは違う、現実の彼女の人生が判る。

 1868年 0歳
  ペンシルヴェニアで裕福な家庭に生まれる
 1912年 43歳
  歌のレッスンを受け、初めて公の場で歌手としてデビュー
 1930年 61歳
  コズメ・マクムーンを伴奏者として雇い、ホテルのスイートルームで毎週音楽の夕べを始める
 1938年 69歳
  NYのラジオ局で毎週日曜午後リサイタル番組を開始(5ヶ月続く)
 1944年 76歳
  10月25日 76歳にして、カーネギーホールの舞台に立つ


 1944年の数ヶ月どころではない。彼女は歌手として32年もの活動歴があり、コズメ・マクムーンを伴奏者としてからでも14年が経っていた。ラジオのレギュラー番組まで持っている。大富豪が自分の実力を自覚せずに暴走した、という程度の話ではない。堂々たるキャリアの持ち主だ。

 しかも彼女の伴奏者を務めるのは、コズメ・マクムーンがはじめてではない。最初の伴奏者は、演奏中にわけ知り顔で聴衆にニヤニヤしたため首になっている。(映画と違い)彼女は賢くて、自分の歌が嘲笑されていることを知っていたといわれる。

 シンクレアが愛人キャサリンと別れることもなかった。彼らの関係はずっと続き、フローレンスが亡くなった翌年には結婚している。
 そんなシンクレアをフローレンスはどう思っていたのか、彼への遺産はたったの1万ドルだった。


■「ポスト真実」時代のラブストーリー

 オックスフォード辞書は、2016年の「今年の言葉」に「ポスト真実(post-truth)」を選出した。
 これは「客観的な事実よりも、感情や個人的信条に訴えるほうが世論の形成に影響する状況」を意味する形容詞だという。政党や政治家が事実からかけ離れた主張で人気を集めたこと等を受けて、2016年に急激に使われるようになった言葉だ。

 『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』は政治的な映画ではないが、劇中で描かれるのはまさに客観的な事実よりも感情や個人の思いを重視する姿勢だ。しかも、映画そのものが、実在の人物に材を取りながら事実とは異なるストーリーで観客を感動させ、心地好くさせるものだった。
 劇中でただ一人、ニューヨーク・ポストのコラムニスト、アール・ウィルソンが、フローレンスのリサイタルを辛辣にこき下ろすが、観客の目には彼が無粋で危険な人物に映っただろう。

 そう、事実は無粋なのだ。事実はせっかく盛り上がった熱狂に水を差し、興醒めさせてしまいかねない。
 客観的な事実を示すよりも感情や個人的信条に訴えるほうがウケがいいのは、今にはじまったことではない。津田正太郎氏は「『ポスト真実』という言葉からは、それ以前には真実が人びとにきちんと伝達されていたという含みが感じられる。だが(略)以前には真実がみなに共有されていたと想定するのは難しい。何が真実かをめぐっては、ずっと以前から様々な対立が存在していたからだ。」と指摘する。

 本作では、とうとう自分への辛辣な評を目にしたフローレンスが、ショックのあまり倒れてしまう。それが真実の破壊力というものか。

 これは映画だから、感動したり心地好く観られたりすればそれでいい。実在の人物や現実の出来事を扱っていても、それはあくまで作り手の思いを具現化するための材料に過ぎない。
 ただ、本作のベースには誰にも否定できない事実がある。1944年10月25日、フローレンスがカーネギーホールを満席にして、3000人の聴衆の前で歌ったことだ。
 フローレンスは劇中で(現実にも)、こんな言葉を残している。

 "People may say I couldn't sing, but no one can ever say I didn't sing."
 (人々は私が歌えてなかったと云うかもしれない。でも歌わなかったとは云えないわ。)

 最後の最後によりどころとなるのは、厳然たる事実なのだろう。


「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」マダム・フローレンス! 夢見るふたり』  [ま行]
監督/スティーヴン・フリアーズ
出演/メリル・ストリープ ヒュー・グラント サイモン・ヘルバーグ レベッカ・ファーガソン ニナ・アリアンダ
日本公開/2016年9月24日
ジャンル/[ドラマ]
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【theme : イギリス映画
【genre : 映画

tag : スティーヴン・フリアーズ メリル・ストリープ ヒュー・グラント サイモン・ヘルバーグ レベッカ・ファーガソン ニナ・アリアンダ

『ピートと秘密の友達』 このドラゴンは友達ではない

ピートと秘密の友達 オリジナル・サウンドトラック 【ネタバレ注意】

 ドラゴンのエリオットが可愛いのだ。この映画の魅力はそこに尽きる。

 物語の原型は、ディズニーが1950年代に権利を取得した未発表原稿だという。それが1977年に『ピートとドラゴン』として映画化され、2016年に再び映画化されたのが本作『ピートと秘密の友達』だ。

 しかし、本作の設定は1977年の旧作とは驚くほど異なっている。1977年版のピートは、ゴーガン一家に奴隷のようにこき使われる少年であり、エリオットに助けられて港町まで逃げてくる。もっぱら海沿いの町が舞台となり、ドラゴンを捕まえようとする詐欺師やら、ピートを追ってきたゴーガン一家との騒動が描かれる。

 再映画化に当たってはこれらの要素があらかた削られ、ピートは自動車事故で両親を亡くし、たまたまドラゴンの住む森に取り残された設定だ。少年はエリオットに保護されて、人間と接することなく六年も森で暮らし、野生児として成長する。ターザンや『ジャングル・ブック』の主人公モーグリを彷彿とさせる生い立ちだ。
 興味深いことに、ディズニーは『ピートと秘密の友達』と『ジャングル・ブック』を並行してリメイクしている。


■『ジャングル・ブック』との類似と相違

 同じウォルト・ディズニー・ピクチャーズが、本作に並行して『ジャングル・ブック』も実写映画化し、同じ2016年に公開するとは大胆だ。これは両作の外観に似たところがあろうとも、その本質は違うことを会社が理解していたからだろう。『ジャングル・ブック』がジャングルの物語に終始し、村の人間はほとんど関わらないのに対し、本作では人間の町と森とが等分に描かれて、ピートは二つの世界を媒介する役目を果たす。
 それどころか、2016年版の『ジャングル・ブック』は、同じウォルト・ディズニー・ピクチャーズの1967年版アニメーション映画や1994年版実写映画には存在した人間の描写をわざわざ削り、物語がジャングルに終始するように見直している。それらを考え合わせれば、2016年の『ジャングル・ブック』と『ピートと秘密の友達』は、明確な方針の下で棲み分けが図られたものかもしれない。

PETE'S DRAGON 『ピートと秘密の友達』でピートとエリオットが直面するのは、旧作のような詐欺師やならず者一家ではなく、森を伐採する林業従事者たちであり、木が伐られ、人間が森に入ってくることが彼らにとっての危機となる。
 ピートの味方になってくれるのは、1977年版では灯台守の親子だったが、本作では森林保護官のグレースとその父親だ。舞台は森と製材所のある町に限られ、緑色のドラゴンは《森=自然》の象徴として機能する。ピートを保護するエリオットは、すなわち人間を育む大自然であり、エリオットを傷つけたり捕まえたりすることは自然の破壊に他ならない。

 だから自然を保護しましょう、という主張で終わらないところが本作の巧みな点だ。ピートを襲う狼や熊をエリオットが追い払っくれることから判るように、ピートが生きてこられたのはエリオットのお陰であり、人間は保護される側なのだ。ここには人間がしばしば忘れがちな、自然に対する畏敬の念が込められている。

 聖書によれば、神は人間の誕生を祝福して「海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と云ったそうだが、本作を貫く精神は自然崇拝が色濃く残る日本の観客にこそしっくりくるかもしれない。


■その結びつきは友情なのか?

 とはいえ、自然と人間というテーマは、本作ではあくまで通奏低音として流れるにとどまる。『ピートと秘密の友達』の主眼は、ピートとエリオットの強い愛情と、彼らを引き裂く運命だ。ピートは町の住民の好意によって、エリオットは町の住民の欲望によって、住み馴れた森から連れ出されてしまう。

 本作の原題『Pete's Dragon』を邦題では『ピートと秘密の友達』としているが、エリオットを友達と呼ぶのは正確ではあるまい。1977年版のエリオットは、ピートがゴーガン一家から逃れて落ち着き先を見つけるまでのあいだともに行動するだけだったが、本作のエリオットは五歳のピートを保護して、六年も一緒に暮らしたのだ。エリオットは紛れもなくピートの家族である。二人を結ぶのは、友情というより愛情と呼ぶべきだろう。

PETE'S DRAGON そのエリオットの存在感が本作の肝だ。
 1977年版『ピートとドラゴン』は実写とアニメーションを融合させた作品だった。『メリー・ポピンズ』に代表されるディズニーお得意の技術だが、『メリー・ポピンズ』がジュリー・アンドリュースら俳優の演じる人物がアニメの世界へ入っていく趣向だったのに対して、『ピートとドラゴン』では実写ドラマの世界にセルアニメのドラゴンが出没した。絵に描かれたドラゴンは実写の世界で浮いており、まるで異世界からの闖入者だ。
 そんなドラゴンならいずれ実写ドラマの世界から姿を消しても、観客は違和感を覚えないかもしれないが、CGIで生み出された本作のエリオットはまるでスクリーンの中で生きているようだ。フサフサした毛並みも、ピートにじゃれつく仕草も愛らしく、顔立ちこそ1977年版を受け継いでひょうきんながら、ピートと一緒にいるときの幸せそうな様子には感情移入せずにいられない。

ポスター/スチール 写真 A4 パターン2 ピートと秘密の友達 光沢プリント ドラゴンが出てくる映画といえば、近年では『ヒックとドラゴン』という傑作がある。この作品は猫の動きを取り入れて、ドラゴンの可愛らしさと凶暴さを表現していた。
 一方、本作のエリオットは、クンクン臭いを嗅いでまわったり、うなだれての上目遣いで見つめたりして、明らかに犬を参考に描かれている。ピートとエリオットの関係も人間と犬のものに等しい。ピートに従順で、ときに体を張ってピートを守るエリオットは、ピートへの愛情に溢れている。エリオットの名前も、ピートが持っていた絵本の犬の名前から付けられている。
 犬と人間の愛情は多くの映画で描かれており、本作はその流れに連なるものといえるだろう。ただ、犬の大きさが尋常ではなく、人家で飼うことが不可能なのだ。

 やがてピートとエリオットに別れが訪れる。
 六年も暮らしたのに今さら別れるのは理不尽に感じられるが、本作では誰に強制されるでもなく、自分たちが別れなければならないことを理解する。
 そのとき観客は気づくのだ。これが犬や猫との別れに当たることを。犬や猫と人間が生涯をともにすることはできない。彼らの寿命は14、15年くらいしかないから、どんなに愛情を注いでも人間を残して逝ってしまう。
 劇中でドラゴンの寿命は明らかにされないし、グレースの父が若い頃に見たドラゴンがエリオットであるなら、その寿命は犬や猫よりはるかに長いかもしれない。だから死別という形にはならないものの、どんなに愛しくてもいつか別れてしまうことを示唆する点で、本作は極めて現実的だ。

 彼らの別離が死に別れでないことは、本作を後味の良い映画にしている。
 死に別れを目にするのが辛いのはもちろん、死に別れなくても、人間が飼っていた動物を森に放すような映画だったら、人間の身勝手さが鼻についたことだろう(最期まで面倒をみるのが飼い主の責務だから)。
 本作では、もともと独りで生きられるドラゴンが人間の子を保護していたのであり、人間の子を受け入れる家庭が見つかったのでドラゴンが身を引く展開になっている。
 ファンタジーだから描ける穏やかな別れ方だ。


■多くの人が見たかった光景

 けれども、本作の真髄はそのラストにある。

 後日、ピートは新しい家族とともにドラゴンが住むという北の地を目指す。
 父と母と娘とピートの四人家族のうち、血が繋がっているのは父と娘だけでも、そんなことは関係なく、ピートにとっては大切な家族だ。
 北極星に導かれてたどりついた地に、エリオットはいた。他のドラゴンたちもいる。彼らは軽々と宙を舞い、楽しそうに遊んでいた。悲しい別れを経験したピートは、元気そうなエリオットを見て笑顔を浮かべる。
 それはまるで虹の橋のたもとにいる動物たちを思わせる。

 「虹の橋」は、世界中で親しまれている作者不詳の詩である。
 天国の手前には虹の橋があり、寿命の短い犬や猫たちは人間より先にそこに行っている。彼らはそこで遊びながらも、人間が来るのをずっと待っている。やがてあなたも虹の橋に行くときが来て、橋のたもとで動物と再会を果たす。もう二度と離れることはない。あなた方は一緒に虹の橋を渡っていく……。
 こんな内容が綴られた詩は、いろんな言語に訳されて広まり、ペットを亡くした悲しみに暮れる人の癒しとなっている。

 『ピートと秘密の友達』のラスト、羽の生えた犬のような彼らは、人間が来たことを喜ぶように飛び回る。
 その平和で幸せそうな様子は、見る者の気持ちも穏やかにしてくれる。
 それは虹の橋がどんなところかを、ちょっと早めに覗かせてもらったような光景だ。
 「虹の橋」に癒された人が見たかったであろう光景が、そこには広がっている。


ピートと秘密の友達 オリジナル・サウンドトラックピートと秘密の友達』  [は行]
監督・脚本/デヴィッド・ロウリー  脚本/トビー・ハルブルックス
出演/オークス・フェグリー ブライス・ダラス・ハワード ロバート・レッドフォード ウェス・ベントリー カール・アーバン ウーナ・ローレンス
日本公開/2016年12月23日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : デヴィッド・ロウリー オークス・フェグリー ブライス・ダラス・ハワード ロバート・レッドフォード ウェス・ベントリー カール・アーバン ウーナ・ローレンス

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』 それは新しい考えか?

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック 【ネタバレ注意】

 善と悪、正と邪、古より戦い続ける二つの勢力。その争いを背景に共和制を掲げる側と帝政を進める側が銀河系を二分して戦う時代。帝国側が開発した新技術により戦況は一変、帝国の勝利が濃厚になった。
 帝国の新技術の秘密を手に入れるため、志願した者たちの一隊が帝国側に乗り込んでいく。生きては戻れないかもしれない危険な任務だ。
 激しい戦闘を切り抜けて、遂に共和制側は新技術の秘密を手に入れる。だが、通信が遮られ、絶体絶命の大ピンチ。
 ――ひと波乱の後、新技術の情報を奪還すべく帝国の戦艦が迫る。それを尻目に、救命艇で脱出した「二人」は辺境の星に到達する。見知らぬ星に降り立った「二人」は、その星の生物に襲われて捕らわれてしまうが、幸いにも彼らを救う者が現れる。
 行動を共にすることになった彼らは、新技術の情報を本部に送り届けるべく逃避行を続ける。しかし、帝国もやすやすと本部に帰らせてはくれない。追っ手と戦いながら、本部のある星を目指す主人公たち……。

 こうしてあらすじを書いていると、スター・ウォーズ・シリーズの外伝『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』と本伝の『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)のストーリーを追いかけているような錯覚にとらわれる。


■大河の源流はたくさんある

銀河パトロール隊―レンズマン・シリーズ〈1〉 (創元SF文庫)  だが、冒頭に記したのは、E・E・スミスの名著レンズマンシリーズ第一巻『銀河パトロール隊』のあらすじだ。フォース、シールド、トラクタービーム、通貨単位のクレジット……スター・ウォーズ・シリーズでよく聞く用語も、「スペースオペラの父」として名高いE・E・スミスの作品に飛び交うものだ。スター・ウォーズ・シリーズをはじめとしたスペースオペラで使われる設定やガジェットの多くを考案し、確立したのがE・E・スミスである。

 E・E・スミスの処女作『宇宙のスカイラーク』は、1920年(1921年とも)には執筆を終えていたのに、当時の読者にはあまりにも壮大すぎるという理由でどの出版社からも拒絶され、1928年まで発表できなかった。銀河を股にかけた大冒険、繰り出される新発明・超兵器、続々と現れる奇怪な宇宙生物、宇宙艦隊の大戦争。こんにち私たちがスター・ウォーズ・シリーズ等でお馴染みのこれらの要素は、E・E・スミスが風穴を開けるまで、出版できないほど突拍子もないと思われていたのだ。

 したがって、ほとんどすべてのスペースオペラがE・E・スミスの影響下にあるといっても過言ではない。
 それでも私があえて本稿を書こうと思ったのは、スター・ウォーズ・シリーズへのE・E・スミスの影響、とりわけレンズマンシリーズからの影響に関する言及が少な過ぎると感じたからだ。
 2016年12月24日現在、Wikipediaの『スター・ウォーズ』のページには、スター・ウォーズが影響を受けた小説としてフランク・ハーバートのデューンシリーズが挙げられている。スター・ウォーズの元ネタと類似を解説したページには、デューンシリーズに加えてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』等からの影響の記載もある。
 ところがレンズマンシリーズに関しては、まったく触れられていない。

 ジョージ・ルーカスのことだから、デューンシリーズも『指輪物語』も読んでいるに違いない。それらの影響も皆無ではないだろう。たしかに砂漠の惑星タトゥイーンはデューンシリーズの舞台となる砂漠の惑星アラキスがモデルかもしれないし、スター・ウォーズ・シリーズでしばしば言及されるケッセルのスパイス鉱山はアラキスのスパイス産業が元ネタかもしれない。

 しかし、デューンシリーズや『指輪物語』をいくら読んだところで、超兵器がわんさか登場する銀河大戦は発想できまい。
 Wikipediaには、デューンシリーズのベネゲセリットが他者を操る力(ボイス)とジェダイのフォースとの類似や、スター・ウォーズ・シリーズの三作目の題が『ジェダイの帰還(Return of the Jedi)』であることと『指輪物語』の第三巻が『王の帰還(The Return of the King)』であることまで類似として挙げられているが、他者を操るのはレンズマンにもできるし(しかもレンズマンシリーズの発表はデューンシリーズより30年近く先行している)、シリーズ最終巻(として構想された作品)の題が『~の帰還(The Return of ~)』と付けられるのは珍しいことではない。たとえば、トールキンが『王の帰還』を発表する40年も前に、E・R・バローズは『The Return of Tarzan(ターザンの帰還)』や『The Return of the Mucker(邦題は「風雲のメキシコ」だけど)』を発表している。

 こういった類似点を考察したり指摘したりするのは楽しいから、探せばいくらでも見つかるだろう。しかし、私としては、重厚な政治劇のデューンシリーズやSFではない『指輪物語』に源流を求めながら、肝心の痛快スペースオペラ、レンズマンシリーズに触れないのは合点がいかない。

 デューンシリーズや『指輪物語』のファンがスター・ウォーズとの類似を主張してせっせと書き込む一方で、奥床しいレンズマンシリーズのファンはそんな主張を控えているのだろうか。
 私もスター・ウォーズとレンズマンシリーズの類似なんていわずもがなだと思ってきたが、誰かが少しは書いておかないと、デューンシリーズよりも『指輪物語』よりも先行する偉大な作品の存在が忘れられないとも限らない。
 せめて私は、ここに書いておこうと思う。


 レンズマンシリーズは、手に汗握る痛快無比なスペースオペラであると同時に、幾世代にもおよぶ銀河の歴史を描く壮大な叙事詩である。人知を超えた能力を持ち、銀河の守護者たるレンズマン。その中でもひときわ秀でた若者キムボール・キニスン(『地球へ…』の主人公キース・アニアンのネーミングの元ネタといわれる)を主人公にした三部作を中心に、双子を含むキニスンの子供たちを描いた後日譚と、キニスンの祖先たちを描いた前日譚や外伝から構成される。
 その第一巻、24章からなる『銀河パトロール隊』のうちの4章から13章が、まさにエピソード4『スター・ウォーズ』に相当する。新技術の秘密を手に入れた主人公たちが、敵の猛攻をかいくぐって本部に貴重な情報を届け、その情報に基づいて共和制側が反撃するまで、文庫本にしてざっと160ページほどだ。

隠し砦の三悪人 ジョージ・ルーカスが上手いのは、大まかな設定と構成はレンズマンシリーズそっくりでありながら、そこに『隠し砦の三悪人』をはじめとする黒澤映画の要素を詰め込んだことだ。
 『銀河パトロール隊』で主人公たちを追撃するのは敵の大艦隊であり、宇宙空間がまばゆくなるほどの派手な戦闘が連続する。こんな描写は小説だから可能だが、『スター・ウォーズ』制作当時は予算的にも技術的にも映像化できなかっただろう。物語のスケールも大きすぎて手に余ったはずだ。ロン・ハワード監督が2008年にレンズマンシリーズの映画化に挑んだが、膨大な制作費を要するために撤退している。
 一大宇宙叙事詩を念頭に置きながらも、単発の映画として完成されている『隠し砦の三悪人』をなぞるのは、現実解を探るうえでこれ以上ないやり方だ。
 (スター・ウォーズ・シリーズと黒澤映画の関係については、拙稿「スター・ウォーズに見る黒澤明」を参照されたい。)

 もちろん、ジョージ・ルーカスの発想の原点は『フラッシュ・ゴードン』にあるのだが、『フラッシュ・ゴードン』は銀河を股にかけたスペースオペラではなく、ジャンルとしては惑星冒険ものになる。それは、異国情緒に溢れた一つの星で繰り広げられる冒険物語だ。ルーカスが『フラッシュ・ゴードン』っぽさにこだわっていたら、銀河大戦の物語は生まれなかったに違いない。
 他方、レンズマンシリーズは敵も味方も複数の種族から構成される連合体だが、スター・ウォーズ・シリーズでは反乱同盟軍が多様な種族で構成される一方で、帝国軍の将校は人間(地球人型)ばかりで占められている。この非対称性は、複数の種族が同盟して圧制者と戦う『フラッシュ・ゴードン』に由来するだろう。


■エピソード4の直前までの物語はすでにあった

 こんな風に『スター・ウォーズ』を見ていた私にとって、実は気になることがあった。

 『スター・ウォーズ』は『銀河パトロール隊』の4章から13章に符合しているように思える。14章以降では、共和制側の反撃が手詰まりになり、主人公は己の能力を高めるために導師の許を訪れて修行に励む。これはスター・ウォーズ・シリーズではエピソード5『帝国の逆襲』に当たるだろう。敵の要塞惑星に大艦隊で攻撃を仕掛ける一方、主人公が単身乗り込んで(未開種族に助けられながら)敵のボスと対決する23章から24章は、エピソード6『ジェダイの復讐』(後に『ジェダイの帰還』に改題)に符合する。
 こうして物語が進んでいくのは良いのだが、置き去りにされたのが『銀河パトロール隊』の1章から3章だ。銀河パトロール隊から精鋭部隊が選抜され、敵の技術情報を手に入れる波乱万丈の話なのに、その部分がスター・ウォーズ・シリーズで顧みられることはなかった。

 それが気になったのは、レンズマンシリーズ初の映像化である長編アニメーション映画『SF新世紀レンズマン』(1984年)を観たからでもある。
 『銀河パトロール隊』と『スター・ウォーズ』がそっくりなことに気づいた広川和之監督は、大長編のレンズマンシリーズを映画化する方策として、『スター・ウォーズ』を手本に、というよりほとんど『スター・ウォーズ』のアニメ化といっていい内容にしてしまった。そのため、ストーリーも『銀河パトロール隊』の1章から3章を削った形になってしまったのだ。
 ジョージ・ルーカスが『銀河パトロール隊』の4章以降を切り出す手際は鮮やかだったし、その語り口の上手さから『スター・ウォーズ』は充分に楽しめたが、『SF新世紀レンズマン』が原作の冒頭部分を省略したことは、なまじ原作を知っているだけにひどく違和感を覚えさせた。かえって1章から3章が重要であることを再認識させたのである。

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 その『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』について、テーマを問われたギャレス・エドワーズ監督はこう答えている。
---
一言で言うと、"希望"だね。"ローグ・ワン"のメンバーには、いろいろな文化や惑星から、いろいろな意見を持った人間が集まって、不可能に思えることに挑戦する。過去の作品は善VS悪の構図がハッキリしていたけれど、インターネットが発達した現代では、いろいろな意見や視点が人間にはあることを、我々は知っている。そこには完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた。そして、それは新しい考えだと思う。だから今回の作品では、それぞれ皆に問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴もいるけれども、選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う。
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 これは奇妙な発言だ。
 エドワーズ監督は、「新しい考え」の結果として「問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴」もいる作品になったと述べているが、スター・ウォーズ・シリーズの主要登場人物の一人ハン・ソロが、悪事にまみれた密輸業者だったことを忘れてしまったのだろうか。

 そもそも、「完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた」ことが「新しい考え」なのだろうか。1975年生まれで、物心ついたときにはスター・ウォーズがあったエドワーズ監督には、世界がそんな風に見えるのだろうか。
 エドワーズ監督はこうも云う。「スター・ウォーズの映画を撮るのが4歳からの夢だった…スター・ウォーズと共に育ったんだ…この世界に親しみを感じるよ…フィギュアで遊んでた…スームトルーパーが大爆発!ってね…こんなに楽しい仕事はないよ」
 そんなエドワーズ監督にとって、世界はスター・ウォーズありきであり、スター・ウォーズが世界のすべてなのかもしれない。


■ジョージ・ルーカスの大発明

スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望 スチールブック仕様 [Blu-ray] だが、1977年公開の『スター・ウォーズ』が大ヒットしたのは、1977年まで世界に『スター・ウォーズ』がなかったからに他ならない。
 何を当たり前な、と思われるかもしれないが、『スター・ウォーズ』公開前の世界にはポッカリとうつろな穴があいていたのだ。ところが、そこに空虚があることを認識している人はほとんどいなかったようだ。空虚の存在に気がついて、それを『スター・ウォーズ』で埋めたのがジョージ・ルーカスの凄さ、偉大さだと思う。

 2016年現在、米国の歴代興行収入の第一位は2015年公開の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』だ。しかし、物価変動を加味してランキングし直すと、いまだ一位は1939年の『風と共に去りぬ』で、二位が1977年の『スター・ウォーズ』となる。『フォースの覚醒』は10位以内にも入らない。『スター・ウォーズ』が、いかにとてつもないヒットであったか判るというものだ。それは世間を揺るがす大ブームだった。
 これほどの盛り上がりを見せたのは、単に良くできた映画だったからではない。『スター・ウォーズ』の登場が世界を変えたのだ。うつろな穴があいている世界と、その空虚が『スター・ウォーズ』で埋まった世界。『スター・ウォーズ』前と『スター・ウォーズ』後で、世界の景色は変わっている。

 かつてあいていたうつろな穴は『スター・ウォーズ』の登場で埋まってしまったから、スター・ウォーズ・シリーズをつぶさに見ても、『スター・ウォーズ』後の世界を見回しても、そこに空虚があったことに気づかないかもしれない。まして空虚がどれほど大きかったか実感するのは無理かもしれない。
 物心ついたときにすでにスター・ウォーズがあり、スター・ウォーズありきで世界を見ていたら、スター・ウォーズのなかった世界を思い描くのは至難の業だろう。

 これから書くことの中には、『スター・ウォーズ』公開時に云われたこともあるし、その後の人が指摘したこともある。だから、私ごときがいまさら述べるまでもないはずだが、『スター・ウォーズ』の公開から40年が経過した今、人々が『スター・ウォーズ』前の世界に思いを馳せることも減っただろうから、あえて記しておくのもまんざら無意味ではあるまい。


 善VS悪の構図がハッキリしていた過去の作品とは何だろうか。
 ギャレス・エドワーズ監督は、明らかにインターネットが発達していなかった時代の、スター・ウォーズ・シリーズのエピソード4~6のことを指して話している。
 OK、インターネットの発達どころか、インターネットの萌芽すら存在しない1930~1940年代に書かれたレンズマンシリーズでは善VS悪の構図がハッキリしていた。その時代、ドイツ第三帝国や大日本帝国と戦う米国を、悪と戦う善であると考えた人もいたかもしれない。銀幕には、凶悪なインディアンの襲撃に正義の騎兵隊が立ち向かうような、胸のすく娯楽映画が溢れていた。

 けれども米国は1950~1960年代の公民権運動や、これに続くレッド・パワー運動を経験し、また1960~1970年代にはベトナム戦争を経験した。ベトナム戦争は――強大な米国軍がベトナムの小さな村を焼き払う戦いは――善が悪を懲らしめる戦争ではなかった。米国では多くの人が反戦運動に参加した。
 人々はインディアンが悪でもなければ、騎兵隊が正義でもないことに気がついた。そこには完全なる善VS悪などはなく、みんな少しずつグレーな感じで、人間とはそういうものだと判ってきた。アメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品が生まれ、以前であれば「悪」として退治されたはずの犯罪者たちが主人公になり、ただ自由に振る舞おうとしただけなのに迫害され殺される者が描かれた。多くの作品が、人間にはいろいろな意見や視点があることを訴えた。

 それは素晴らしい訴えだったが、残念なことにこの時代、胸のすくような娯楽映画は作りにくくなっていた。かつてのインディアンのように退治していい(とみんなが思える)「悪」はいなかったし、「善」を見失った人間は心に闇を抱え、傷ついていた。そういうことから目を逸らすわけにはいかなかったが、誠実に見つめれば見つめるほど人物像は複雑になり、映画は娯楽性を失っていった。映画は社会を映す鏡だから、世の中に問題意識が広がれば広がるほど、映画も問題意識を抱え込まざるを得なかった。

 そこにジョージ・ルーカスが放ったのが『スター・ウォーズ』だ。まるで善と悪が戦っているようなシンプルな構図、判りやすい人物像。『スター・ウォーズ』は映画が――社会が――失っていた楽しさを、思い出させてくれたのだった。

 単に昔のような映画を作っただけでは支持されなかっただろう。騎兵隊がインディアンを撃ち殺す映画を、人々はもう楽しめない。インディアンに限らず、どんな人種でもどこの国の人でも同じことだ。人間同士の殺し合いを見て爽快感を得るなんてできるはずもなかった。

スター・ウォーズ ストームトルーパー 1/6スケール プラモデル そこでルーカスが考えたのが、帝国軍兵士をクローンにすることだった。敵が人間ではないことにしたのだ(ただし、1977年当時はクローンのことがあまり理解されていなかったのだろう。クローンといっても非人間的な複製物ではなく、人間のクローンもあくまで人間であることが判ってきたからか、後に帝国軍兵士は自我を消された特殊なクローンであるという設定が追加された)。
 そして帝国軍兵士の顔をヘルメットで隠し、同じ形の装甲服で全身を覆わせた。これには、クローンの兵士たちが全員同じ外見になるとともに、観客が帝国軍兵士の素顔を見て人間らしさを感じることがないようにする効果があった。ルーカスは、ストームトルーパーが素顔をさらす描写を注意深く排除した。『スター・ウォーズ』にはルークとハン・ソロがストームトルーパーの装甲服を脱がすところがあるけれど、装甲服の中の人間は決して見せなかった。
 この工夫のおかげで、観客は銃撃戦でやられる帝国軍兵士を見ても胸の痛みを覚えなくて済んだ。帝国軍の上級将校は顔を見せているが、彼らも無表情で没個性的に振る舞い、人間味を感じさせなかった。

 人間ではない、覆面のやられ役の兵士といえば、日本では『仮面ライダー』(1971年~)のショッカー戦闘員や『マジンガーZ』(1972年~)の鉄仮面軍団等がお馴染みだ。しかし、それまでのハリウッド映画では珍しかったのだと思う。スター・ウォーズ・シリーズの元となった『フラッシュ・ゴードン』(1936年)でも、主人公が戦う相手はもっぱら変な格好のおじさんたちだった。

 『エピソード1/ファントム・メナス』からはじまる前日譚三部作では、この考えをさらに推し進めて、敵の兵士はロボットになった。遠隔操作されるロボット兵は、撃たれようが斬られようが何も感じない。おかげで観客はますます胸が痛まずに済むようになった。

S.H.フィギュアーツ スター・ウォーズ バトル・ドロイド 約155mm ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア 私は、『エピソード1/ファントム・メナス』のやられ役がバトル・ドロイドになったことにとても感心した。クローンであっても自我がなくても、ストームトルーパーが赤い血を流す肉体を持つことに違いはない。そのため、いくらはるか昔の銀河の彼方の出来事だと断りを入れても、帝国軍兵士をやっつけることにインディアン退治と同じ非道な臭いをかぎ取る観客がいないとも限らない。そんな観客でも心置きなく戦闘シーンを楽しめるように考え抜いた末の設定が、バトル・ドロイドだったに違いない。
 長編デビュー作『THX 1138』からも判るように、ジョージ・ルーカスは人間性について深く考察する作家だ。そんな彼だからこそ、娯楽に徹するとはどういうことなのかを突き詰めることができたのだろう。

 これこそが、『スター・ウォーズ』のもっとも重要な点だった。倒されるのを見ても観客が胸を痛めなくて済む兵士。その虚構が土台にあるから、スター・ウォーズ・シリーズは成立するのだ。インディアンだからといって殺すのは許されない、犯罪者だからといって問答無用に殺していいのか、そう思っていた観客も、『スター・ウォーズ』なら受け入れることができたのだ。
 人間同士の殺し合いを目にしても、フィクションと割り切って楽しめる観客も中にはいるだろう。だが、心優しいルーカスは、そうではない観客に重点を置いた。

 それゆえ、ストームトルーパーがヘルメットを脱いで素顔を見せたり、個性的に振る舞ったりしてはならなかった。そんなことをしたら、スリルを楽しむはずの戦闘シーンが血なまぐさい殺し合いに堕してしまう。それはスター・ウォーズ・シリーズの作品世界を破壊することになる。


■ルーカスが作った世界

 一見すると善悪に分かれて戦っているようなシンプルな構図も、慎重に考えられたものだ。

姿三四郎 フォースのライトサイド(光明面)とダークサイド(暗黒面)が、柔道と柔術を模したものであることは以前の記事で説明した。
 柔道の修行をした姿三四郎は、柔術家・檜垣源之助と決闘する。いわばルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの対決だ。三四郎は檜垣源之助を倒すが、それは必ずしも善が悪を成敗したのではない。三四郎とて一時は乱暴な柔術に転びかけたことのある身だ。檜垣源之助は後に三四郎と和解し、『續姿三四郎』では三四郎の味方になってくれる。

 ライトサイドとダークサイドも同じことだ。それは明確に分かれたものではなく、ライトサイドからダークサイドに堕ちそうになることもあれば、ルークに救われたアナキンのようにダークサイドから還ってくる者もいる。共和国末期のジェダイ評議会のように、ダークサイドに陥らなくても、思考が硬直して結果的にダークサイドの勃興を許すこともある。
 ルーカスがシリーズを通して諭すのは、不断の努力と修行で己を鍛え続けなければ、人は簡単に堕落してしまうということだ。善VS悪のハッキリした構図なんてものはここにはない。
 にもかかわらず、作品はとてもシンプルで、観客はこの世界にすんなり入り込んで楽しめる。その絶妙なバランスに恐れ入る。

 正義の味方の騎兵隊が凶悪なインディアンを退治する、そんな映画は作れない/作るべきではない世の中で、その娯楽性だけをすくい取って復活させる。それがいかに難事業だったか、できあがった作品をいつでも手軽に味わえる現在では思いを馳せるのが難しいかもしれない。しかし、そこには知的な作業の積み重ねがあり、作品は微妙なバランスの上に成立しているのだ。

               

 ギャレス・エドワーズ監督は「今回の作品では」と強調して「選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う」と述べている。
 けれども、これは過去、スター・ウォーズ六部作が一貫して主張してきたことでもある。
 ルークはオビ=ワンとヨーダの下で修行してフォースを身につけるが、裏を返せば、たとえ才能に恵まれても厳しい修行を続けなければ才能は開花しないということだ。シリーズを通じて「選ばれし者」と呼ばれたのは唯一アナキンだが、彼こそは才能があっても物事がうまくいくわけではないことを体現していた。

 ギャレス・エドワーズ監督は『スター・ウォーズ』後の世界で新しさを見出そうとしたのかもしれないが、よくよく見ればジョージ・ルーカスが切り開いた道をたどっているようだ。


 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のキャストには、多様な人種が起用されているという。たしかに、中国出身のドニー・イェンやチアン・ウェン、メキシコ出身のディエゴ・ルナ等、その人種・出身国は多岐にわたる。
 エドワーズ監督は「私はイギリス出身でイギリス人の俳優が出演する『スター・ウォーズ』を観て育ちましたが、世界の人々は他の地域の人も登場する作品を待ちわびていたのではないでしょうか」と説明する。
 これは大切な点だし、(『スター・ウォーズ』の主人公三人が米国人であることは指摘したいが)エドワーズ監督の意見はもっともだ。
 けれど、それもジョージ・ルーカスが先鞭をつけたものだ。エピソード5『帝国の逆襲』から登場するランド・カルリシアンは、黒人のビリー・ディー・ウィリアムズが演じている。ルーカスからのオファーを三船敏郎さんが断らなければ、シリーズ第一作からアジア人が出演したはずだった。

108ピース ジグソーパズル STAR WARS スター・ウォーズ エピソード5~帝国の逆襲~(18.2x25.7cm) エピソード6『ジェダイの復讐』に文句を云うファンもいた。クライマックスでミレニアム・ファルコンを駆って大活躍するのは、ランド・カルリシアンではなくハン・ソロがやるべきだったのではないのかと。
 ファンの気持ちも判らないではないが、ここはやはりルーカスの決断を称えたい。三部作の最後で帝国にとどめを刺す、最大の見せ場の一番の大手柄を黒人キャラクターに上げさせることに、ルーカスなりの強い思いがあったはずだ(それに、ハン・ソロがミレニアム・ファルコンを駆ったら、第一作のクライマックスと同じ絵面になってしまう)。

 『帝国の逆襲』の公開は1980年、『ジェダイの復讐』は1983年だ。
 2016年公開の『ズートピア』は差別や偏見を取り上げた傑作だが、その原型ともいえる『48時間』が公開されたのが、まさに同時期の1982年だった。肉食動物の詐欺師ニックと草食動物の警察官ジュディがコンビを組んで、48時間以内に事件を解決しようとする『ズートピア』は、明らかにニック(・ノルティ)とエディ(・マーフィ)が演じる白人の警察官と黒人のチンピラがコンビを組んで48時間以内に事件を解決しようとする『48時間』の焼き直しだ。白人と黒人がコンビを組むことが、たいそう異色だったのだ。黒人がチンピラではなく警察官を務め、白人の警察官とコンビを組む『リーサル・ウェポン』が誕生するのはもっと後、1987年のことだ。

 もともとハン・ソロは黒人の設定で、ビリー・ディー・ウィリアムズはハン・ソロ役のオーディションに来た俳優だった。
 ルーカスは、大手映画会社が嫌がったオール黒人キャストの映画『レッド・テイルズ』を四半世紀かけて自腹で制作するような人物だ。『スター・ウォーズ』の続編を作れることになって、さっそく黒人キャラクターを登場させたのも、ルーカスの強い希望だったに違いない。


 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の主人公は女性であり、1年前に公開された『フォースの覚醒』も女性が主人公だった。男性が主人公を務めた六部作とは毛色が違うように見えるが、これもまたジョージ・ルーカスが地平を開いた世界の一部である。
 "戦うお姫様"――それはルーカスが『スター・ウォーズ』で提示した新しいヒロイン像だった。それまでの映画のお姫様は、たくましいヒーローに助けてもらう受け身の存在ばかりだったが、レイア姫は勝ち気で口が達者で、敵に対して平気で銃をぶっ放す女性だった。しかも元老院議員という政治家としての顔と、反乱同盟軍の中心メンバーとしての顔も持っていた。
 『ジェダイの復讐』には反乱同盟軍の最高指導者として女性のモン・モスマが登場するし、『エピソード1/ファントム・メナス』では惑星ナブーの国家元首を女性のパドメ・アミダラが務めている。総じてスター・ウォーズ・シリーズでは、男性が権力を握るとろくなことがなく、女性が高い地位についたほうがものごとが上手くいくようだ。
 『フォースの覚醒』の主人公レイも『ローグ・ワン』の主人公ジンも、レイア姫(や『エイリアン』(1979年)のリプリー)らが切り拓いた道の延長を歩んでいるに過ぎないのだ。


 『スター・ウォーズ』後の世界で「新しい考え」に見えるものも、実のところジョージ・ルーカスが生み出したものの延長だったりする。
 これからもルーカスの生み出したものが深く掘り下げられたり、広められたりしていくだろうが、ルーカスが埋めるまでは大きな穴があいていたことに気を配らないと、知らず知らずまた穴をあけて、足をすくわれてしまうかもしれない。
 いま改めて、ルーカスがしてくれたことの大きさを噛みしめたい。


ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラックローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』  [ら行]
監督/ギャレス・エドワーズ
出演/フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ ベン・メンデルソーン ドニー・イェン マッツ・ミケルセン フォレスト・ウィテカー アラン・テュディック チアン・ウェン リズ・アーメッド ジミー・スミッツ ジュネヴィーヴ・オライリー ヴァリーン・ケイン アンソニー・ダニエルズ ジェームズ・アール・ジョーンズ
日本公開/2016年12月16日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]
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