『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第六章「オカルト篇」
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ここまで『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』について語る中、私はおかしいと感じることを挙げてきた。
第一章「SF篇」では、第1話冒頭の大戦艦の登場が不自然で理にかなわないと述べた。
第二章「ミリタリー篇」でも、第1話冒頭の大戦艦の登場がおかしいこと、加えてガトランティス艦隊の配置までもがおかしいと述べた。
第三章「断絶篇」では、地球から遠く離れた宇宙の彼方、ガトランティス人たちの中でなぜかズォーダーだけは波動砲の存在も波動砲を撃てない事情も先回りして知っている不自然さを指摘した。
第五章「作劇篇」では、帝星ガトランティスの大帝ズォーダーともあろう者が、なぜか辺境の星・地球の一士官ごときに目をかけて延々と自分の心中を語り続けるおかしさに触れた。
これらに限らず、2202はまったくおかしい、理にかなわないと私は思い続けていた。
だが、2202の最終回に至って、私は自分の考えが筋違いであることに気づかされた。相転移によって物質の状態が変化するように、最終回をもって2202は私の前でその姿を変化させた。
思えば、大戦艦の出現の仕方は伏線だったのかもしれない。ガトランティス艦隊の戦術のなさも、ズォーダーの奇妙な振る舞いも、みんなみんな伏線だったのかもしれない。
第25話で映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)のラストとそっくりな終わり方をしてから半年後。第26話、すなわち最終回では、ガトランティスとの戦いの後の地球が描かれた。第25話でヤマトとともに敵の本拠地に突っ込んでいった古代進と森雪。彼らの名は、英雄の丘の碑に刻まれていた。
ところがある日、時間断層にヤマトが現れる。時間断層の向こうには高次元世界があり、そこで古代も雪も"生きている"らしい。少なくとも、高次元世界から連れ戻せば、古代も雪も現世の暮らしに戻れるという。
こうして2202の最終回は、高次元世界のあり様と、地球の人々の選択が描かれる。ここでの「選択」については、第四章「社会批評篇」で説明済みだ。
この展開には、多くのヤマトファンが驚いたのではないか。
なぜなら、星間国家同士の戦いの物語なのに、高次元世界という「あの世」、つまりは精神世界、霊魂の世界に言及する展開は、ヤマトファンなら心当たりがあるからだ。
『さらば――』のラスト、島たちにヤマトからの退艦を命じた古代は、みんなを説得するために笑みさえ浮かべて語り出す。
「みんなは俺がこれから死にに行くと思ってるんだろ?そうじゃない、俺もまた生きるために行くんだよ。命というのは、たかが何十年の寿命で終わってしまうような、ちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くものじゃないのか?俺はこれからそういう命に、自分の命を変えに行くんだ。これは死ではない!」
2202の第25話は『さらば――』のラストにそっくりだったが、さすがにこのセリフはなかった。いくらなんでも、今どきこのセリフはないだろうと思ったから、なくても疑問に感じなかったが、とんだ見当違いだった。2202の作り手は、セリフどころかあのとき古代が語った内容を映像で、劇中の真実として描くつもりだったのだ。
そうきたか。『さらば――』のラストで主人公古代は死んでしまう。「これは死ではない」と云ったって、敵艦に突っ込んで爆発しているのだから死んでいる。あのラストを忠実に再現することと、主人公を死なせずに続編への道を残すことは両立すまいと思っていたが、まさかいったん現世界で死なせて、その後、現世界に連れ戻す、すなわち生き返らせるとは。
なんて、なんてよくあるパターンなんだ。私はヤマトシリーズがここにまで至ったことに大変驚いたのだった。
■『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の受け止め方
この世では死んでしまうけど、あの世で神様の助力等を得て生き返るのは『ドラゴンボール』でもお馴染みの展開で、おそらくロールプレイングゲームの普及が影響したものだろうと思う。せっかく育てたキャラクターがゲームの途中で死んでしまって一からやり直すのはしんどいから、一定の条件下で復活できる「世界樹の葉」や「フェニックスの尾」の機能は助かる。
このゲーマーの苦労を低減する手法が、マンガ等の物語世界でもすっかりはびこった感がある。だから2202内で、高次元世界と呼ばれる「あの世」に主人公らを探索に行く物語に発展しても、案外観る側は平然と受け止めるかもしれない。
だが、2202で高次元世界なんぞが出てくるルーツは、ロールプレイングゲームではない。
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『さらば――』を観た観客だって、「そうか、命を変えに行くだけなのか。死ではないんだな」とは思わなかったろう。死を決意した古代が努めて明るく振る舞おうとするから、感動し、涙を流したに違いない。雪の亡骸を抱いた古代がヤマトで突っ込む際に、死んだ仲間たちの姿が見えるのも、英霊になった戦友たちを思い浮かべることの比喩的表現であって、本当に死後の世界から舞い戻ったわけではないのは観客にも判ったはずだ。
それに、『さらば――』の古代が特攻を決意した時点で、森雪は死んでいた。最愛の雪を亡くした古代にとって、雪のいない世界で生きるのは虚しい。雪と二人だけで死出の旅につくのは、古代にとって後追い心中でもある。
心中ものというのがまた江戸時代以降人気のある、観客を泣かさずにおかないジャンルなのだ。映画では、たとえば1969年の『心中天網島』がキネマ旬報ベストテン第1位、『さらば――』の作画が始まった1978年4月公開の『曽根崎心中』がキネマ旬報ベストテン第2位を獲得している。
宇宙艦の中で古代が雪の亡骸に語りかける「星になって結婚しよう」という言葉は、現世に絶望し、来世で結ばれることを願う恋人同士を描いた心中もののセリフとして秀逸であろう。
特攻隊員の悲劇と心中ものの悲劇という、昭和の映画らしい二大要素を併せ持つのだから、『さらば――』を観て泣いた、感動したと云われるのは当然なのだ。
ではなぜ、2202には高次元世界などというものが登場し、古代と雪は"生き返る"のか。
そこには、1970~1980年代の作品に対する福井晴敏氏の見方がある。『宇宙戦艦ヤマト』や『さらば――』等の個々の作品に向き合う以上に、福井氏には、この時代の作品はこういうものだという考えがあるようなのだ。
ヤマト2202と『機動戦士ガンダムNT』のテーマの類似を指摘された福井氏は、次のように答えている。
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似ていますね。やはり、両方ともベースとなっているのは70年代の同じ時期に生まれたものですからね。
『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も当時のヒッピー文化を引き受けた後のニューエイジ文化など、あの辺りの影響をガッツリと受けながら作られているわけですから、発想がどこか似ている。それは『スター・ウォーズ』も一緒ですよね。
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ニューエイジとは、ひらたく云えば、人間の意識の変容を通して高次の存在への進化・一体化を夢想する思想・運動だ。過去二千年間の、西洋占星術でいうところの魚座の時代が終わり、新しい二千年、すなわち水瓶座の時代(Age of Aquarius)が始まるとともに、人間を古い概念から解き放ち、新しい段階へ昇っていこうという運動が、世界的にブームになった。占星術において、水瓶座は反抗、不服従、自由、デモクラシー、博愛等に関係するという。
ニューエイジの影響の最たるものは、石ノ森章太郎氏のマンガ『サイボーグ009 神々との闘い』(1969年)だろう。ここで人類は、古い時代の支配者「神」と決別し、精神世界を探求して次なる進化を見据える。
福井氏がインタビューに答える中で『宇宙戦艦ヤマト』と云っているのは、『さらば――』も一作目もいっしょくたに話しているだけで、具体的には『さらば――』ラストの古代のセリフを念頭に置いてのことだと思う。あるいは、『さらば――』公開時の「宇宙愛」という宣伝文句に当てられたか。『機動戦士ガンダム』に関しては、劇中で示された新しい人類のあり方、ニュータイプを指してのことであろう。

このインタビューはヤマト2202とガンダムNTに関するものだから、ヤマトとガンダムの話ばかりだが、このようなくくり方をするのなら何といっても『伝説巨神イデオン』(1980年)を挙げねばなるまい。『さらば――』が、単に古代のセリフにおいて肉体からの解放を語るだけである一方、『機動戦士ガンダム』は具体的に五感を超越した次の段階へ向かう人間を示し、『伝説巨神イデオン』に至っては肉体から解放された"霊魂"たちの喜びと、新たな"生"への飛躍が描かれる。登場人物全員の死亡と、生死を超越した世界を描いた点で、テレビシリーズ『伝説巨神イデオン』と、その最終回完全版である『THE IDEON 発動篇』(1982年)は行き着くところまで行った作品であり、富野アニメの白眉といえよう。
福井晴敏氏は、その『伝説巨神イデオン』の大ファンなのである。70年代後半に生まれた作品が「ニューエイジ文化など、あの辺りの影響をガッツリと受けながら作られている」と考える福井氏自身、そうして作られた作品の直撃を受けて育っている。
私は、『宇宙戦艦ヤマト』や『さらば――』が、『機動戦士ガンダム』にそれほど似ているとは思わない。もちろんここでは、『宇宙戦艦ヤマト』を研究して『機動戦士ガンダム』が作られたという表面的な話ではなく、思想面において、両者ともにニューエイジ文化などの影響をガッツリと受けたというほど似たような発想をしているかだ。
富野喜幸(現・由悠季)監督に関しては、『機動戦士ガンダム』のニュータイプや『伝説巨神イデオン』から、ニューエイジとの関連を指摘するのも有りかもしれない。
だが、宇宙戦艦ヤマトシリーズを生み出した松本零士氏や西崎義展氏に、それほどまでにニューエイジ的な傾向があったといえるだろうか。松本零士氏はどちらかというと、人間のこの肉体が不格好でみっともないものだとしてもそれでも頑張り続ける姿に重きを置く人だし、ヤクザと付き合いながら興行の世界で身を立ててきた西崎義展氏が、意識の変容だの高次の存在だのというナイーブなものにうつつを抜かすとは思えない。西崎氏は、ガミラス人の正体が人造人間(ヒューマノイド型ロボット)だったことにしようという豊田有恒氏の提案を、その設定では感情移入できないからと却下して、敵を人間臭くしてしまう人物だ。『宇宙戦艦ヤマト』は『西遊記』が元ネタだから、スターシャはお釈迦様に相当するわけだが、どれほど神々しい存在かと思えば、イスカンダルに着いてみたらただの恋する女性だった。
だから、いくら作られた時代が近いとはいえ、『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』もどちらもニューエイジ文化などの影響をガッツリ受けながら作られている……と十把一絡げにくくるのはためらわれる。特に『さらば――』のラストに関しては、ニューエイジ云々よりも、死を美しく描く日本映画特有の傾向が色濃く出たものではないかと思う。
『さらば――』の宣伝の際に、作品のテーマとして西崎氏が口にした「宇宙愛」は、ニューエイジっぽく聞こえるかもしれない。
しかし、新作ヤマトのプロモーションとして1994年に発売されたビデオ『ヤマト わが心の不滅の艦/宇宙戦艦ヤマト 胎動編』の中で、西崎氏は自分なりの「哲学」を次のように語っている。
「常に作り手のベースの中に、どっかにフィロソフィアの選択というのがないと駄目なんですよね。そういう意味で仮に考えれば、基本的に、物質は粒子レベルで不滅であると同時に、人間の命というものもやはり形を変えて一つの不滅のものであると」。
『さらば――』ラストの古代のセリフを彷彿とさせる発言だが、この言葉は素朴な来世思想の域を出るものではなかろう。あるいは、カトリック教徒だった母に影響されるところがあったのか。ともあれ、映画でさえ『タイタニック』や『ある日どこかで』や『HACHI 約束の犬』や『僕のワンダフル・ジャーニー』等々、いくらでも例が挙げられるように、死してなお不滅の命をもって愛を貫きたいという考えは誰もが抱くものであって、「フィロソフィア」というほどのものでもない。
ましてや、ニューエイジのように、自己啓発等による意識の変容や人間と文明の新しい段階への上昇にまで踏み込んで西崎氏が考えることがあったのかは判らない(ニューエイジ周辺では、意識を変容させる手段としてドラッグが利用されることもあったけれど、それと後年の西崎氏が覚せい剤取締法等の違反で収監されたこととは別の話だろう)。
重要なのは、私がどう思うかではなく、福井晴敏氏がどう考えているかだ。
70年代の同じ時期に生まれた作品は、当時のヒッピー文化を引き受けた後のニューエイジ文化などの影響をガッツリと受けながら作られており、発想が似ていると考える福井氏からすれば、「命というのは、たかが何十年の寿命で終わってしまうような、ちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くものじゃないのか?俺はこれからそういう命に、自分の命を変えに行くんだ」という古代のセリフは、高次元世界の存在とその一部になることで生身の人間を超越せんとする思想の表明に――まさにニューエイジ文化の産物そのものに聞こえるのではないか。
『さらば――』をリメイクするなら、古代のセリフで示唆するにとどまっていたものをしっかり描き込み、『さらば――』がニューエイジ文化などの影響下にあることを、そういう思想に基づけば古代がヤマトで突っ込んだ後にも物語があることを示す――。『伝説巨神イデオン』の大ファンである福井氏は、そう発想したのではないだろうか。
かくして、第25話「さらば宇宙戦艦ヤマト」でヤマト乗組員たちの相次ぐ死とヤマトの消滅、森雪が生きているのに敵に突っ込むことを選ぶ古代と彼ら二人の"死"を描いた2202は、次なる最終話「地球よ、ヤマトは…」で、死んだはずの乗組員たちの意識が集う高次元世界へと話を進めた。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第七章「新星篇」こそは、福井氏にとっての『THE IDEON 発動篇』なのだろう。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』を覆う「動機オーライ主義」
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福井晴敏氏は、本作に「現代日本人の心性を乗せて」描いたと述べている。日本では、42は「し・に(死に)」に通じるとか33は「さんざん(惨々)」だからと、42歳や33歳の大のおとなが神社へ厄祓いに行ったりするから、日本人の心性を描くなら駄洒落は欠かせまい。
「大いなる和」とか「縁によって結ばれた」(第14話「ザバイバル猛攻・テレサを発見せよ」)という言葉を使って、偶然の積み重ねでしかない人生を必然のものであるかのように言いくるめてしまうテレサの恐ろしさは、日本人の言霊信仰の根深さを示すようでもある。
しかも、テレサは仏のように蓮の花に坐しながら「考えたことではなく、感じたことに従ってください」と、江戸時代に日本に伝わった陽明学のようなことを説きだす始末(第16話「さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を」)。ニューエイジとは、西洋における東洋思想への接近でもあったから、ここまで描けば確かにニューエイジ色でいっぱいだ。
(陽明学と東西の思想の違いについては、こちらの記事を参照されたい。)
陽明学といえば、そのエートスともいえる「動機オーライ主義」が2202全体を覆っているのも興味深い。
與那覇潤氏は、自著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』[*1]において、小島毅氏の『近代日本の陽明学』を野口武彦氏が評した際の言葉「動機オーライ主義」を紹介し、学問としての陽明学ではなく一時的な熱狂で突き進む「気分としての陽明学」の問題に触れている。與那覇潤氏が「動機オーライ主義」を説明した部分を引用しよう。
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動機オーライとはもちろん「結果オーライ」の対義語で、「おわりよければすべてよし」ではなく「はじめよければあとはどうなってもよし」、純粋にピュアな気持ちで考えて「今の世の中は間違っている!こっちが正しい!」と心の芯から感じ入ったのであれば、あとは既存の法令や社会の通年はおろか、自分の行為がもちらす帰結についても一切考慮することなく突っ走ってよい、結果は必ずついてくるはずだ(略)というような発想のことです。
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「筋を通す」と云って自分たちの正義を振りかざしたり、他者に迷惑をかけても「悪気はなかった」と弁明したりと、動機オーライな行動は現代の日本でも見受けられる。
ヤマト発進に当たって、古代たちは反逆を起こして軍の艦を強奪し、地球連邦防衛軍の衛星を粉砕する暴挙に出たのに、「テレサの祈りに応える」という動機を認められて許されてしまうこととか、子を案ずる加藤三郎がヤマトを裏切って危機的状況に陥れたのに、小言を食らっただけで元の職務に復帰できることは、典型的な「動機オーライ主義」といえよう。
しかも本作では、過去と未来を見通すテレサがいてくれて、「すべては人の思いが定めること。望めば、望む世界が」と云って(最終話「地球よ、ヤマトは…」)、結果が必ずついてくることを保証してくれる。動機オーライ主義者にはまことに都合のいい設定なのだ。
かつて大日本帝国が国際連盟を脱退したときも真珠湾を攻撃したときも、民衆は大喜びした。国際連盟の総会に臨んだ松岡洋右全権は国内で英雄扱いされたし、真珠湾攻撃が報じられた際は国民からの称賛や激励の声で首相官邸の電話回線がパンクしそうなほどであったという。これらの決定により、やがて亡国の憂き目に遭うことになるのだが、あとがどうなるかよりも、その場で云いたいことを云い、やりたいことをやれば人々は気分が良かったのだ。そんな日本人の心性を確かに本作は描いているし、それを強化しようとさえしている。
地球を、宇宙を救う話なのに、テレビ放映後半のエンディングでは日本の風景ばかりを映して、最後を富士山で締めくくるスケールの小ささには驚いたが[*2](『復活篇』では、その終盤で世界各地の光景を映したというのに)、日本人の心性しか描かないという点で、本作は筋を通してはいよう。
■ありふれた作品へ
面白いのは、宇宙物の『さらば――』にニューエイジ色を強調したアレンジを施すと、これまでにない作品が出来上がるのではなく、かえってあの時代のありふれた作品に近づくことだ。
愛について語り合い、愛あるがゆえに辛い「選択」を迫られるところを見せ場にしたり、超存在がもたらすエネルギーを狙う敵と戦ったり、超文明の遺跡が絡んだり、敵メカのデザインを直線と鋭角を強調した象徴的なものにしたり、仲間の壮絶な最期を描いたり、敵がみずからの肥大化した思いゆえに自滅したり、高次元世界の描写と死んだ仲間の"帰還"を結末にしたりと、2202は様々な要素から構成されるが、これらはどれも1980年公開の映画『サイボーグ009 超銀河伝説』ですでにやられたことだ。2202はなんだか同作を全26話に引き延ばしたようなのだ。
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ちなみに、『サイボーグ009 超銀河伝説』はあまり評判がよろしくない。典型的な展開に新味がないのと、やはり仲間の死と復活が共感しにくいからだろう。それはご都合主義にしか見えなかった。[*3]
なお、『サイボーグ009 超銀河伝説』における仲間の死と復活は、必ずしも作り手の思想的な必然から描かれたわけではないとも思う。『さらば――』の大ヒットに味をしめた東映は、仲間の死で観客の涙をさそう映画を欲したのだろう。けれども人気キャラクターのサイボーグたちが死んだままではシリーズが立ち行かなくなる。そこでいったん死なせながら死後に復活させるという、多分に商業的な要請に従った結末なのではないか。
そもそも『さらば――』のラストが、ヤマトの消滅、古代と雪の死で締めくくられるのだって、興行師として鼻の効く西崎義展氏が特攻シーンは必ず観客に受けると見抜いたからに違いないと云われるので、ニュータイプのような"高尚な"考えと並べるのは筋が違うとも思う。
今後、宇宙戦艦ヤマトシリーズをニューエイジ文化の産物と見なして、水瓶座の時代(エイジ・オブ・アクエリアス)とアケーリアス文明を引っかけたりするようなことは、さすがにないと思うが……。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は不自然ではなかった
さて、2202の企画の早い段階で、現世を離れて永遠の命の世界を探訪するこのラストを決めていたのだろう。2202全編はこのラストに向けて、このラストに違和感のないトーンで設計されたのだと思うといろいろ得心がいく。
ガトランティス人を人造人間と設定し、愛しあうことを必要とせずクローニングで増殖する彼らは果たして人間といえるのかと疑問を呈したのも、一人ゼムリア人からの複製であるサーベラーの葛藤を描いたのも、肉体を機械で強化した波動実験艦「銀河」の乗組員を登場させ、人間性とは何かを問いかけたのも、すべては『さらば――』ラストの古代のセリフを受けて、命を、生を、宇宙いっぱいに広がって永遠に続くものを描くために必要だったのだろう。そういうことはガンダムシリーズでやればいいじゃないかとも思うけれど、とにかく、それを描こうとしたのが2202だったのだ。
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しかし、『サイボーグ009 超銀河伝説』が超常現象のシーンなどを散りばめたことでオカルト色を帯びてしまったように、2202もニューエイジ以上にスピリチュアル、もっと云えばオカルト的な作品になってしまった。
どだい、2202でニューエイジ的なことをやるのは難しかっただろう。意識を変革し、高次元の存在に繋がろうとするニューエイジは、自分と社会を変革する運動である。現世でいかにいがみ合い、争っていても、高次元の世界の一員たれば平和で幸せに過ごせるという、平和主義的な面を持っている。『機動戦士ガンダム』も『THE IDEON 発動篇』も激しい戦争を描きつつ、争いのない世界を志向していた。2202が、最後にヤマトで敵に突っ込む『さらば――』のラストの再現にこだわる限り、本作には最後まで相容れることのない「敵」の存在が必要であり、それは『機動戦士ガンダム』や『THE IDEON 発動篇』のような作品に昇華する際の足枷になる。
一方では高次元世界での魂の平安と永遠に続く命を描こうとし、他方では和解できない敵を描こうとする。高次元世界の超越者に繋がることのできる主人公でさえ、なおも戦い続けねばならない相手――それはもう悪魔とか悪霊と呼ぶしかないだろう。
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ズォーダーが、波動砲の存在も波動砲を撃てない事情もあらかじめ知っていたのも不思議ではない。悪魔は、主人公の隠し事を知っていて、主人公を不安に陥れるものだ。
ズォーダーは、たかだか辺境の星・地球の一士官でしかない古代に延々と自分の心中を語り続けたが、オカルトファンタジーにおいてなぜ悪魔が主人公に付きまとうのか疑問を呈しても意味がない。『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』のピエロがなぜ排水口にいて、わざわざ少年に語りかけるのかなんて考えなくても、排水口にピエロがいて語りかけてくるだけで怖いではないか。
ガトランティスがヤマトの乗組員一人ひとりの家庭の事情まで知った上で、闇に落とそうと誘惑を仕掛けるのも、悪魔の常套手段といえる。
物語上の位置づけだけではない。視覚的にも演出的にも、ガトランティスの扱いは悪魔の群れに相応しかった。
第1話冒頭に登場した大戦艦が、真っ黒い十字架の形をしていたのは象徴的だ。私は大戦艦の登場の仕方が不自然で理にかなわないと述べたけれど、悪魔が理にかなった行動をしてくれるはずがないのだった。
第1話冒頭のガトランティス艦隊が、陣形を組んだりせずに、ただたくさん出現するだけなのも当然なのだ。悪霊たちが、襲いかかるときに陣形を組んだりするはずがない。ハリー・ポッターシリーズに登場するディメンター(吸魂鬼)は、無闇矢鱈と飛び回り、ただわらわらと襲ってくるから恐ろしい。
「白色彗星」と呼ばれる白いガス体の中から出てきた「滅びの方舟」の中枢部は、翼を広げた悪魔のようで、『ファンタジア』の「はげ山の一夜」に現れる悪魔にそっくりだ。
2202をオカルトファンタジーとして印象づける上で、本作のメカデザインやメカの描写はとても貢献していた。
2199が素晴らしいSFアニメだったので2202にも同じようなものを期待してしまい、不自然な描写に驚き困惑してきたが、2202もSFアニメだろうなんて私の思い込みでしかなかったのだ。
ミリタリー物として不充分なのも当然だった。オカルトファンタジーなのだから。
最終回までのあいだに、作品に対してどんなに否定的な意見が出されようと、作り手たちは平気だったに違いない。最終回まで見なければ2202の何たるかは判らない。最終回を見た上で云えと、作り手たちは思ったことだろう。
だが、これで宇宙戦艦ヤマトシリーズと云えるのだろうか。
私には、2202という作品が、2199だけでなく従来の宇宙戦艦ヤマトシリーズとも異なるものに感じられたのだが、話はこれで終わらない。
(つづく)
[*1] 参考文献 與那覇潤 (2011年) 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 文藝春秋
[*2] テレビ放映の第19話~第25話に使われたこのエンディングは、戦艦大和が建造された呉や古代進の故郷三浦半島等の、遊星爆弾が落ちる前の景色で構成されている。最後の富士山は、特別上映の配給元である松竹のロゴを模しているが、松竹のロゴが山梨県新道峠から撮影したものであるのに対し、2202のエンディングは三浦半島側から見た富士山になっている(宝永火口が見える)。
[*3] とはいえ、『サイボーグ009 超銀河伝説』を上映する館内には、町田義人氏の歌声に合わせて主題歌『10億光年の愛』を口ずさむ人や、すすり泣く人もいた。久しぶりに『サイボーグ009』が映画になったのは、ファンにとって嬉しいことではあった。
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第19話『ヤマトを継ぐもの、その名は銀河』
第20話『ガトランティス、呪われし子ら』
第21話『悪夢からの脱出!!』
第22話『宿命の対決!』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 田中理恵 麦人 石塚運昇 楠見尚己 江原正士 東地宏樹 赤羽根健治
日本公開/2018年11月2日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】