『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第五章「作劇篇」

宇宙戦艦ヤマト2199 4 [Blu-ray](この連載の初めから読む)

 たとえば、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第9話「ズォーダー、悪魔の選択」。
 帝星ガトランティスの大帝ズォーダーともあろう者が、なぜか辺境の星・地球の一士官ごときに目をかけて延々と自分の心中を語り続ける。
 それを聞かされた古代は古代で、ズォーダーの長広舌から解放されると三隻のガミラス艦に向かい、三隻に分乗している民間人らすべてに声が届く状態で、艦内の森雪一人への個人的な思いを長々と告白する。
 いずれも相当に恥ずかしい展開だ。

 このように時と場所を考えない長広舌は、日本の映画やテレビ作品でしばしば見かけるところではある。福田靖氏が脚本を担当した『LIMIT OF LOVE 海猿』をニューヨークで上映した際は、フェリーの沈没という一刻を争う状況下で主人公が長電話し、あまつさえヒロインにプロポーズまでする展開が爆笑をかったという。
 『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』もニューヨークで上映したら爆笑してもらえるのではないだろうか。

 とりわけ、第9話のクライマックスは『LIMIT OF LOVE 海猿』を上回ると思う。
 飛行中のガミラス艦から外に出て、空中に身を投じる森雪。100式空間偵察機で雪を追う古代。だが、明らかに古代は間に合っていないから、雪は地面に叩きつけられて死ぬか、地を覆う溶岩に焼かれて死ぬと思われるが、なぜか雪も古代も青く輝く謎の空間に入り込み、いつまでも落下していられる。
 ふわふわと宙に浮いている雪を、偵察機の外に出てしまった古代が空中で抱きしめたのが、雪が身を投じてから二分後。古代はなんの推力も持たないはずだが、空を飛べるようになったのか、なぜか雪ともども機内に戻って、コクピット内で雪を抱く。何にもぶつからずにいつまでも落下していられる不思議な空間で、いちゃつく二人。挙句に古代は婚約者の雪にプロポーズ。たしかに雪がヤマトに乗艦するかしないかで二人が仲違いしたことがあったけど、あれで婚約は破棄したことになっていたのか。二人の関係の薄さに驚愕。
 波動砲を撃つと二人がはじき出されて助かるという真田さんの謎理論の下、ヤマトが放った波動砲と思しき光が二人を包むまでが、雪が身を投じてから五分後。その約40秒後にコスモタイガー山本に発見され、なぜか寝てしまう古代。

 こう文字に書いて読んでみても、劇中で起きていることが何なのかよく判らない。少なくとも、ニューヨーカーが笑いそうなポイントがたっぷりあるのは間違いなかろう。
 2202はどの回も多かれ少なかれこんな感じで、そんな話を今ここでしなくてもと思うような生硬な独白、長広舌に尺を取るかと思えば、状況や背景に関する丁寧な説明は端折られたり、真田さんの一方的な謎理論のつぶやきで済まされたり、観ている側は教えてもらっていない複雑な設定を劇中人物だけが共有して納得しているらしかったりと、受け手の置いてきぼり感が凄まじい。

 『LIMIT OF LOVE 海猿』は、たとえ長ゼリフがバカバカしくても云わんとするところは判るし、主人公たちの置かれた状況も受け手に判るし、どんな危険が迫っているのか、どう解決しようとしているのかも判るから、なんだかんだ云って観れば手に汗握るし感動するし共感もする。
 『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』にはそれがない。
 なぜこんなことが起きてしまうのだろうか。


■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の制作プロセス

メカコレクション 宇宙戦艦ヤマト2202 1式空間戦闘攻撃機コスモタイガーII(複座型/単座型) プラモデル その原因の一端は、2202の制作プロセスにありそうだ。
 少し長くなるが、福井晴敏氏とともに脚本を担当した岡秀樹氏が語る脚本の制作過程を引用しよう。
---
まず福井さんが作られた構成メモという書類がありまして、それを熟読したうえで、1話30分の物語に落とし込むためのロングプロットを僕が起こします。

構成メモの時点では多分に“小説的”なところもありまして、各話ごとに切り分けられてはいますが、長さもまちまちなんです。

福井さん曰く「切り捨てられることを前提に、たくさん書いてある」とのことで、登場人物の心情とか、裏事情などを理解してもらうために、あえて多くの情報がこめられているわけです。

つまり「すべてを脚本にせよ」という性質のものじゃないんですが、それだけにどこを拾ってどこをスルーすべきかという取捨選択が難しい。勘どころを掴むまでは苦労しました(笑)

そうやって書かれたプロットを福井さんと羽原監督に見ていただいて、OKが出たら全体会議となります。

全体会議で出た色々な意見を受けて次は脚本化です。まずは僕が「ゼロ稿」と呼ばれるものを作ります。「初稿」は、あくまでも福井さんが書かれるものですから僕が書くのはそのたたき台に当たるものですね。

もちろん、その「ゼロ稿」も福井さんと羽原さんに様々な意見をいただいて何度か書き直すんですが、それでOKとなったものを再び全体会議にかけ各パートの意見をもらい、今度は福井さんが持って帰って徹底的に書き直します。

福井さんが書き上げてきたものが全体会議で承認されると、それがようやく「初稿」となります。必要とあれば、第二稿以降は福井さんが直接書いています。

その間に僕のほうは次のロングプロットに着手して、あとはひたすらその繰り返しですね。
(略)
ただ、脚本が全てということではなく、さらにアクションやビジュアル面でのアイデアが、小林(誠)副監督を中心とした方たちから出されて、それが絵コンテに反映されていくわけです。

その過程で、脚本にあった要素がいくつか整理されていくこともあります。
「2202」の脚本はもとから長めに書かれています。でも、それでいいんだとスタッフ間での申し合わせがありました。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておいてくれという意味です。

その上で、さらに新たなアイデアが出てくれば豪快に盛り込んでいく。そうやって完成した映像が皆さんがご覧になられているものなわけです。
---

 以上の発言から、次のことが判る。

(1) 脚本の基になるのは福井晴敏氏の構成メモ。小説家の福井晴敏氏らしく多分に小説的なメモであり、切り捨てねばならないほどたくさんのことが書いてある。岡秀樹氏にとっては、どこを拾ってどこをスルーすべきかという取捨選択が難しい。

(2) 脚本は長めに書かれている。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておく。

(3) 脚本完成後でもアクションやビジュアル面でのアイデアが小林誠副監督たちから出されて、絵コンテに豪快に盛り込まれていく。その過程で、脚本にあった要素が整理されてしまうこともある。

 他の作品でSF考証を担当することの多い堺三保氏が、「脚本の決定稿が絵コンテ化されてアフレコ台本になるまでの間にドンドン変わっていくので、コンテとアフレコ台本のチェックをさせてくださいと頼んでいる」と述べているように、アニメの制作において脚本完成後に変わっていくことは多いのだが、特に2202では、脚本段階では存在しないアイデアが絵コンテ化以降に盛り込まれることがあるようだ。

宇宙戦艦ヤマト2202 零式52型改 自立無人戦闘機 ブラックバード 1/72スケール 色分け済みプラモデル 制作プロセスについては、羽原信義監督もGIGAZINEのインタビューで説明している。
---
羽原:なにせ福井さんのアイデアがすごくて、山のように出てくるんで「ちょっと入りません」みたいな話をしながら調整させてもらっています。フィルムを作る段階でもコンテを見てもらって「ここはもうちょっとこういうセリフにしたほうがいいんじゃないか」とかいろいろアドバイスをいただいたりしながら作っているので、僕は監督っていう立場ですけれど、今回のヤマトは特にみんなで作ってる印象がすごく強いんです。
(略)
羽原:大体すごいアイデアは小林さんなんですよね。(略)僕らが考える前にどんどん出てくるので、僕はもう「ええ!すっげえ!!」と言っているだけです(笑)

G:福井さんも泣く泣く外さなければならないぐらいに盛りだくさんのアイデアを出してくるし、小林さんもまた本編に入らないぐらいにアイデアを出してくると。

羽原:本当にたくさんあって、いつもびっくりです。
---

 岡氏や羽原監督の話を要約すれば、こういうことだろう。

(a) 本編に収まりきれない福井晴敏氏の多分に小説的なアイデアを、岡秀樹氏や福井氏自身が脚本にしようとするが、1話30分の枠に収まるような脚本になっていない。

(b) 小林誠副監督たちからもメカや描写に関するアイデアがたくさん出される。絵コンテ以降にこれらのアイデアが盛り込まれることもある。

(c) 羽原監督は福井氏や小林誠副監督が大量のアイデアを出すことを歓迎している。

 『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は1話30分枠である。全26話ということも初めから判っていたはずだ。
 にもかかわらず、2202の制作プロセスからは、思いついてしまうアイデアを削ろうとする努力が感じられない。

 小説ならいい。雑誌の連載回数を増やすことも、単行本のページ数を増やすことも、編集部と相談すればできないことではない。かつて福井晴敏氏が脚本を担当した映画『人類資金』(2013年)は、上映時間は140分しかないのに(それでも邦画としては長めだけど)、映画制作と並行して執筆された小説版は全七巻に及んだ。
 一方、尺の決まっている映像作品では、尺に収めることが重要だ。
 もちろん、ただ削ればいいわけではない。受け手が理解し、共感し、感動できるように充分な情報と説明と描写を提供し、しかも、あれもこれもと欲張らずにきっちり尺に収めねばならない。尺に対して過不足ない作品にするのが、もっとも難しいことなのだ。

 どうも、2202の制作プロセスの記事を読むと、そして完成した作品を見ると、このもっとも難しいところに責任をもって取り組んでいる人がいないようだ。ストーリーや設定を検討している段階ならともかく、脚本作り、絵コンテ作りが進行している中でのこれはどうしたことか。

宇宙戦艦ヤマト2202 零式52型空間艦上戦闘機コスモゼロα1 そもそも、脚本家が1話30分の枠に収まらない脚本を提出している状況がすでにおかしい。
 絵コンテマンや演出家が取捨選択するということは、なくしても構わない贅肉がたくさんあるということだ。もしも、どこも作品に欠かせない筋肉として昇華させていたら、取捨選択を他人に任せられるはずがない。完成度が高ければ高いほど、ここを削れば矛盾が生じる、この描写は欠かせないといった重要な場面・セリフだけになるはずだ。
 ましてや、もともと枠に収まらないボリュームの脚本なのに、さらに副監督らがアイデアを豪快に盛り込んだりしたら、それでも放映枠は30分だからと何かしらを削除したら、グチャグチャになってしまうだろう(自分のアイデアを盛り込みたい人は、とうぜん他人のアイデアを削るだろう)。

 上のインタビューでは言及されていないが、SF考証の小倉信也氏だってきっといろいろ考えていたはずだ。
 できあがった作品では、真田さんが謎理論の断片を急いで口走るだけだったりでわけが判らなかったが、もしかしたら周到な設定が用意され、惑星とか重力とかヤマトの機能等々の特性を充分に説明できれば、受け手も腑に落ちる理屈が存在したのかもしれない。
 それをどれだけ作品で活かせるか、受け手が納得できるように伝えられるかも、脚本家や演出、監督のバランス感覚があればこそだ。

 多くの特撮番組やアニメの脚本を手がける小林靖子氏が脚本家としてデビューしたきっかけは、『特捜エクシードラフト』放映時に勝手に書いて送ったシナリオが東映のプロデューサーの目に止まったからだという。無名の小林氏が会社勤めのかたわら書いた脚本のどこが注目されたのだろうか。
---
東映のプロデューサーさんと当時のメインライターさんが読んでくださって、「結構使えるかも」っていうことで連絡くださったんです。
(略)
後でお会いした時に言われましたね。「マニアックじゃないところがよかった」って。大抵、特撮好きの人が書くシナリオは「好き」が溢れてしまって、設定が凝りすぎな場合があるんですよ。でも、テレビ作品は、それを求めているわけではない。私はそういう方向は全然興味なかったので、お話1本、30分作品として尺ちょうどいいぐらいで、構成できていたんでしょうね。
---

 そのジャンルを好きな人がやりがちな「あれもこれも盛り込みたい」という欲望に、小林氏は囚われていなかったのだ。『特捜エクシードラフト』放映の翌1993年、『特捜ロボ ジャンパーソン』で早くも小林氏は脚本家デビューする。
 尺とボリュームのバランスが大事だなんて、いまさら云うまでもないことだ。


■生まれる「時間」

宇宙戦艦ヤマト2199 5 [Blu-ray] 小林靖子氏のインタビューから、もう一つ引用しよう。
---
マンガ原作のアニメ脚本を書くのが意外と大変。
(略)
実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど、マンガを映像にすると“疑似三次元”になる。たとえばですね、「時間」が生まれるんですよマンガからアニメに映像化した時に。
(略)
マンガをページをめくりながら読んでると、時間経過とか距離移動とかあんまり気になりませんよね。でも映像にした途端、画の中に奥行きが出るのと、映像なので時間がどうしても流れるわけです。それが実はコマとコマの間ですごく重要な細部になったりする。例えば『ジョジョ』なんかだと、ジョジョがいつまででも走りながら、ずっとしゃべってるんですけど、実写では「この人、どこを走ってるの?」ってなってしまうから映像的な処理が必要になるんです。ちゃんと映像に翻訳して落とし込まないといけない。この人はどれくらいの距離を走っているんだろうと測ったりもします。ホントに細かい設定なんですけど、そういうところからキャラの心情描写を書きこまなければならないんです。
---

 たとえば、100メートルを走るあいだに五分もしゃべり続けたらおかしいから、脚本を書く際は100メートルでしゃべりきれるセリフに収めなければならない。あるいは五分間しゃべり続けられるようなシチュエーションに改変しなければならない。マンガではなんとなく許される表現でも、実際に時間が流れる映像作品ではおかしくなってしまうから、細部まで配慮する必要がある。それが「映像化する」ということだ。
 小林氏が「実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど」とわざわざ付け加えているのは、映像にすると「時間」が生まれることに気づかないで描かれた絵コンテや完成したアニメーションを実際に目にしているからだろう。

 2202の第9話「ズォーダー、悪魔の選択」は、これに気づかずに(無頓着に)作った典型的な例だろう。火急の際でありながら、のんびり長ゼリフをしゃべり続ける登場人物たち。セリフのやりとりが終わるまで、古代と雪を乗せたままいつまでも落下し続ける偵察機。
 時間経過や距離移動の妥当性にまで落とし込んだ心情描写になっていないから、ニューヨーカーでなくても笑うしかないシーンになってしまうのだと思う。
 第11話「デスラーの挑戦!」では、ヤマトの乗組員たちが、デスラー砲で撃たれてから、このままだと何が起こるか、どう対処すべきかについて話し始めて、破壊されることなくまんまと逃げおおせていた。撃たれた後に対処して間に合うのだから、デスラー砲恐るるに足らず。

 小林氏のインタビューでは、ご自身の経験から、マンガからアニメに映像化した場合について語っているが、氏が述べていることは小説から映像化した場合についても同じことだ。
 小説もマンガと同じく「時間」がない。正確にいうなら、受け手が時間の流れを止めたり、巻き戻したり、素早く進めたりできる。読者はページをめくる手を止めて、そのページをじっくり読んでもいいし、気になる箇所に戻ってもいい。何ページも続く独白でも、難しい用語が交ざる会話でも、さっと読み進めたり読み返したりしながら理解を深めることができる。
 この特性を利用したのが、推理小説の最終章の前にある「読者への挑戦」のページだ。推理作家は、あえて読者にページをめくる手を止めさせて、トリックが解明できてから先を読むよう促すことがある。本は読者の手の中にあるから、解明できなくても読み進めることはできるのだが、それでは悔しい思いをする。そんな思いをするのも小説の楽しみの一つだ。

 映像作品はそうはいかない。始まったが最後、ラストに向けて一方的に進行する。登場人物が周囲の状況を気にせず何分も話していたら受け手に笑われるし、さりとて大事なセリフや出来事はゆっくりと判りやすく、受け手の印象に残るように話さなければならない。小説家が考慮する必要のないそのチューニングにこそ、脚本家の、絵コンテマンの腕が問われる。

 映像作品でも、Blu-ray Discやテレビ放映の録画、配信であれば、一時停止したり、場面を戻したりできるじゃないか、と思う方がいるかもしれないが、何度も見返して作品を分析するのが目的ならいざしらず、初見の鑑賞で一時停止や早戻ししてもらわないと理解できないようなら映像作品として失敗だ。
 作り手なら、ここで受け手の感情を盛り上げようとか、ここはいったんクールダウンさせようといった計算を働かせているはずだ。しかし、一時停止や場面の戻しをされたら、計算してやってきたことが台無しになる。そしてなにより、映像作品としてもっとも大事なリズムが壊れてしまう。台無しになってもたいして影響のない作品は、最初から失敗作だ。

 もしかすると、2202の出来には、福井晴敏氏が小説家であることが影響しているのかもしれない。2202は、小説の作法でつくられているのではないか。
 2202で、しばしば物語の核心になると登場人物が突っ立ったまま演説をはじめてしまうのは、映像の力を理解していない・信じていないとしか思えない。

 小林靖子氏は、映像化すると「時間」が生まれるから大変と述べているが、「時間」を生み出せることは映像作品の強みでもある。
 受け手に対して、どのタイミングでどんな映像を見せ、どんな音を聞かせるか、すべては作り手の思いのままだからだ。映像作品において、作り手は受け手の時間感覚を支配できるのである。突然大きな音を立てて驚かせたりもできるし、素早い動きでスピードを実感させたりもできる。五感のうちでも重要な視覚と聴覚を刺激して、受け手に「体感」させられる。
 これこそが映像作品の醍醐味のはずなのだが、アイデアを詰め込むことに汲々としていた2202で、はたしてそれを味わえただろうか。

(つづく)


宇宙戦艦ヤマト2199 4 [Blu-ray]宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第五章「煉獄篇」』  [あ行][テレビ]
第15話『テレサよ、デスラーのために泣け!』
第16話『さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を』
第17話『土星沖海戦・波動砲艦隊集結せよ!』
第18話『ヤマト絶体絶命・悪魔の選択再び』

監督/羽原信義  副監督/小林誠  原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏  脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 内山昂輝 神田沙也加 田中理恵 麦人 千葉繁 石塚運昇 東地宏樹 赤羽根健治 池田昌子 井上和彦
日本公開/2018年5月25日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]
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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202
【genre : アニメ・コミック

tag : 羽原信義 小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 内山昂輝

⇒comment

映像作品とは

「2202は映像作品ではない。少なくともその文脈で作られていない」
すごくしっくりしました。
その時間を管理する人が監督だと思ったのですが、2202に関してはそうではないようですね。
西崎プロデューサーの呪縛からようやく解き放たれたと思いきや、これなら西崎Pが居た方がよっぽど「映像作品」になったかもと思わせてしまうのは皮肉ですね。
(西崎Pに代わるもっと大きな力が働いてるのかしら? バンダイさんとか笑)

No title

2202とかユニコーンはターン制で進行してるんだと思います。

Re: 映像作品とは

かずさん、こんにちは。
小説家としての実績がある上に、ちゃんとした脚本も書ける人もいますね。2019年の長編アニメーション映画を例にとっても、『ドラえもん のび太の月面探査記』の辻村深月氏や『HELLO WORLD』の野崎まど氏が素晴らしい仕事をしています。

『ドラえもん のび太の月面探査記』ではじめて映画脚本に挑戦した辻村深月氏は、脚本執筆の感想を問われて次のように語っています。
---
小説を書けるからといって脚本も書けるというわけではないんです。ほかの職業の領域にお邪魔するんだという気持ちを持って飛び込みました。小説はいくらでも登場人物の心情やモノローグが書けます。しかし、脚本は尺が決まっていて、テンポの良さが問われるので、そのなかでどう世界観を表現するか、最初は戸惑いました。
---
https://corocoro.jp/38190/

小説と脚本の作法の違いをわきまえているかどうか、その違いを実践できるかどうかが作品の成否を決めるのだと思います。
辻村氏が「ですが、そんな私を助けてくれたのがキャラクターたちだったんです。(略)この場面だったら、きっとのび太ならこう言う、ドラえもんならこうするという、自分の中にあったキャラクターが動き出してくれたんです。藤子先生ならどうするか、はあまりに恐れ多くて絶対に考えられないけれど、のび太ならこうする、という方だったらわかる。藤子先生が作られた世界観の厚みと凄さを感じました」と述べているように、辻村氏の場合は大のドラえもんファンであるがゆえに、のび太が延々とモノローグを口にしたりするはずがない、ドラえもんが長広舌をふるうはずがないと気づくことができました。先行作品で確立しているキャラクターを借り受けての続編づくりなのですから、既成のキャラクターを尊重することがそのまま良い作品づくりになったのですね。

もちろん映像作品は脚本家一人で作るものではありません。絵コンテで時間管理をし、演出が映像を計算し、監督が作品全体の方向づけを行います。ぶっちゃけ、つまらない話だろうが凡庸な設定だろうが、絵に切れがあってテンポが良ければ、けっこう楽しく観られちゃうものだと思います。
なのに、2202がそうならなかったのはどうしたことか。羽原監督は「今回のヤマトは特にみんなで作ってる印象がすごく強いんです」とおっしゃいますが、それがいいことなのかどうか。

第一章「SF篇」で紹介した金子隆一氏と小林伸光氏は、次のように語っています。
---
金子 アニメを成功させる唯一とはいわないまでも、一つこれだけはという条件があるとしたら、ものすごく強力な独裁者がいて、その独裁者の意志が画面の隅々にまで伝わる体制ができている事でしょう。
 
小林 その場合、その独裁者がものすごく有能である必要がありますけどね。
---
http://web.archive.org/web/20061009050726/http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no11_19980125/special2.html

Re: No title

> のさん

ターン制ガンダム?

紙芝居感

ナドレックさん

だいぶ遅いコメントになってしまいますが、見事な考察だと思います。
特に白眉はこの5章の作劇に関する考察でした。
私は2202は全編を通して“綺麗な紙芝居”みたいだなという印象を持っておりました。
ただその要因はアップが多い、動きが少ないなどのレイアウトや作画の問題かと思いこんでいたのですが、「うまれる時間」という視点を説明されて、自分が感じた違和感はこれかと初めて合点が言った次第です。
やっとすっきりといたしました。

これからも他の批評家とは違う明晰な考察の方を楽しみにしております。

Re: 紙芝居感

Aizengaldさん、こんにちは。
お読みいただいてたいへん嬉しいです。

2202が“綺麗な紙芝居”みたいだというコメント、云い得て妙だと思います。
記事本文で書いた「時間」の流れも重要ですが、Aizengaldさんが書かれた「アップが多い」「動きが少ない」「レイアウトや作画の問題」も大きいです。

この度の一連の記事は七章に分けて書きましたが、実は第八章も書こうかと考えていました。そこで、まさにこの映像の問題を取り上げるつもりだったのです。
ただ、それを解説するには、具体的に絵コンテや映像を指し示しながら、2199の画面構成や演出との比較も交えて論を展開する必要がありそうでした。それは膨大な労力を要するでしょうし、そこまでしても、映像に対する感度は人によって異なりますから意図が伝わらないかもしれません。実際問題として、手許に絵コンテ等もありませんでした。そのため、第八章を書くのは見送りました。

そこで書こうとしていたのは、作り手の映像体験及び映像に関する知見の重要性、そして2199と2202との差についてです。

アニメーションは絵が動くものです。描画の対象が人間か否かを問わず、物体の動きについて理解していなければなりません。宇宙であろうが地球上であろうが、運動の第1法則、第2法則、第3法則、すなわち慣性の法則、運動の法則、作用・反作用の法則にのっとって動かさなければなりません。これらの法則を考える上では、もちろん「時間」も大事な要素です。そしてアニメーションの作り手には、それら法則を現実の世界に見出して絵に落とし込む観察眼と技量が求められます。なにしろ観客は、それらの法則を知らなくても不自然な動きは即座に感知しますし、「動き」がそれらの法則に従って強調されていたならば大いに納得するからです。
そしてまた、平面に描いた絵でありながら奥行きと距離を感じさせることもポイントです。人間が普段見ている立体的な景色に遜色のない画面を構築すれば、アニメーションの効果は倍増します。
このような「動き」の見せ方が天才的に巧いのが、宮崎駿氏ですね。『未来少年コナン』のギガント上で戦うコナンにあれほど興奮するのは、その作品が持つべき「動き」のリアリティとそのための演出術が傑出しているからだと思います。
(もちろん、裏を返して、平面的であることを強調したり、自然にはあり得ない動きを表現できるのもアニメーションの魅力の一つではありますが、ここで論じているのはそのような傾向の作品ではありません。)

2202を一通り見た後に、たとえば2199の『星巡る方舟』を鑑賞すると、その躍動感に愕然とします。
月面に墓碑代わりに立てられた銃とヘルメット。これを画面下から舐めていって、上から現れる赤茶けた丸い地球。この手前の月面と遥か彼方の地球との奥行きのある対比。
はたまた、哨戒する兵の肩越しに見える小さな地球から、永倉に促されて視線を移した斉藤の目に映るやや大きな地球、そして双眼鏡のスコープに捉えられた大きな地球とその手前の空間に浮かぶちっぽけな宇宙戦艦きりしま。ここでは、宇宙空間の奥行きと広大な宇宙の中のきりしまの小ささを表現するために、地球を何度も映して観客の中に地球の大きさと月との距離感を生じさせ、その後に地球と対比する形できりしまを映すことで、突然登場したきりしまの小ささを実感させています。

火焔直撃砲に吹き飛ばされるガミラス艦の描写がまた凄いです。
ゼルグートII世の艦橋内で、今後の行く末に考えを巡らすバンデベルとドラムの会話が続き、観客がすっかり室内劇を見るような気分になっていたところに、艦橋の窓の外を火焔直撃砲の凄まじい砲火がつんざいて、その炎の中を僚艦が砕けながら後方に流れていきます。僚艦はゆっくりと後ろに追いやられていくのですが、彼らが高速で宇宙を移動していたことは直前の描写で判っています。ですから、ゼルグートII世のみ高速での前進を続け(運動の第1法則)、相対的に速度が落ちた僚艦にはとてつもない力が加わった(運動の第2法則)ことが判ります。
このシーンもまた、艦橋内のバンデベルとドラムのシルエットを手前に配し、画面の奥に砕けゆく僚艦を描くことで、空間の奥行きと距離感を演出しています。しかも、バンデベルとドラムが会話しているあいだ、窓の外にほぼ同じ速度で並走する僚艦を描いていたことで、何ごともなければ僚艦が後方に流れるはずがないことをあらかじめ観客に認識させておく芸の細かさ。

本当に、画面の中の空間の広がりと、「動き」を実感させる手腕に舌を巻きます。
だから2199は映像に躍動感がありますし、とにかく画がかっこいい。


2202では、こうした体験がついぞありません。
せっかく宇宙を舞台にしながら、遠近感すらありません。

消失点をちゃんと決めて画面上に物体を配置すれば遠近感が出るわけではありません。
近いものと遠いものとの対比があってこその遠近感ですし、「遠いもの」の遠さを受け手に実感させるためには、「近いもの」の大きさを体感できるようにしなければなりません。だから2199では、人間の体や椅子等のように受け手が知っているものを「近いもの」として手前に置いたり、宇宙戦艦のような架空のものを「近いもの」にする場合はその大きさを実感できるに見せ方を工夫したりしていました。2202ではこういうことがあまり配慮されていないように思います。

たとえば艦隊の描写では、手前の艦と遠くの艦の距離をとって遠近感を演出するのが一般的だと思うのですが、2202は艦の数が多すぎて、ほぼ隙間なく空間が艦艇で埋められているため、「手前の艦と遠くの艦」という対比が感じられず、密集した魚の群れのように見えてしまいます。

しかも、映像作品でもっとも大事な「リズム」を、時間の流れを無視した登場人物の長ゼリフが頻繁に中断させてしまうのです。
これでは躍動感が生まれようがありません。

2202には2199から継続しているスタッフもいるというのに、この落差はなんとしたことか。

……といったことを第八章で書こうと思っていました。
この論点に手を出していたら、いつまでたっても書き終えなかったかもしれません。
Secret

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