『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男』 山崎貴監督のここが違う

失礼ながら、山崎貴監督はあまりアニメをご覧になっていなかったのではないか。
『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』の「解説」を読んで、そんな疑問を抱かざるを得なかった。
先日の記事に書いたように、牧村康正・山田哲久共著『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』はヤマトファン必読の書だ。もともと面白い本だけれど、文庫化に際して加筆・修正されて、より興味深い内容になっている。
文庫版の目玉の一つが、『宇宙戦艦ヤマト2199』の総監督だった出渕裕氏に取材した「文庫版まえがき」だろう。
出渕氏がリメイク版ヤマト(後の『宇宙戦艦ヤマト2199』)のプロットを西崎義展氏に見せたとき、資金面で電通に頭を押さえられていた西崎氏は「三ヶ所ほど問題はあるけど、そこさえ直せばあとは任せた」とリメイク版に理解があるようなポーズをとった。なのに、電通がリメイクプロジェクトから抜けると手のひらを返してダメ出しをはじめ、挙句に「監督は俺がやる」とごね出したとか、たいへんな苦労話が紹介されている。
出渕裕総監督は西崎義展氏のことを「憎みきれないろくでなし」と表現する。この想いは、西崎氏に会ったことがないヤマトファンにも多かれ少なかれ共通するのではないだろうか。『宇宙戦艦ヤマト』という素晴らしい作品を世に送り出してくれた西崎氏、続編作りを繰り返し、ヤマトシリーズを迷走させてしまった西崎氏。そんな西崎氏から直接の影響(被害)を受けた出渕氏の述懐に接するだけでも、文庫版は読む価値がある。
出渕氏の「『ヤマト』の迷走を見直し、俺たちの世代でケジメをつける」ためにリメイク版の制作を決意したという言葉は胸を打つ。
文庫版のもう一つの目玉が、実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を監督した山崎貴氏による『解説 西崎義展と「SPACE BATTLESHIP ヤマト」』だ。
電通が仕掛けた二つのプロジェクト、すなわち『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク版プロジェクトと実写版プロジェクトそれぞれの監督に接触し、リメイク版監督へのインタビューをまえがきに盛り込み、実写版監督には解説を執筆してもらう。ヤマトファンなら本書を手に取らずにいられない心憎い構成だ。
■違うところ その1
だが、『宇宙戦艦ヤマトIII』からヤマトシリーズに関わり、前述したように西崎義展氏に振り回された出渕総監督と違い、山崎監督に西崎義展氏との面識はない。幸いにも、実写版のプロデューサー中沢敏明氏が体を張って西崎氏から守ってくれたというのである。
したがって、山崎氏の「解説」には、西崎義展氏に接した当事者ならではの西崎氏に関する記述はない。そこには、時代の寵児ともてはやされた独立プロデューサーの姿が、長野県松本市在住の少年の目にどう映ったか、その思い出が綴られている。
洋高邦低、すなわち人気があるのは洋画ばかりで邦画はさっぱり客が入らない。そう云われるほど邦画が低調だった1970年代、1980年代に、既存の映画会社がなし得なかった大胆な戦略で一世を風靡したのが角川春樹氏と西崎義展氏であった。その活躍ぶりと両者の関係は本書に具体的に書かれている。両者の活躍を映画ファン、アニメファンの少年少女がどう受け止めたか、いかに歓迎したかは、山崎監督が解説したとおりであろう。山崎監督が書いたことは、当時の多くの受け手の気持ちを代弁したものと云えるだろう。
ただし、中学時代から特撮技術者になろうと決めていた山崎監督は、アニメに関してはあまり詳しい動向を掴んでいなかったのかもしれない。解説の次の文を目にして、私は首をひねってしまったのだ。
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西崎論として強調しておくべきことがあります。それは西崎さんが「海のトリトン」も手がけていた事実です。「ヤマト」だけだったら、西崎さんはアニメ界で鉱脈をひとつ見つけて稼いだだけ、と思ったかもしれません。しかし「トリトン」は、今や死語でしょうけど、間違いなく"ロマン"を持たせてくれた作品です。西崎さんはロマンとしか言いようのないジャンルが好きな人で、ロマンを芯に抱えたガキ大将が、いつの間にか金や権力を手にして"スーパージャイアンな大人"になってしまったのでしょう。
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1978年1月に発売された『海のトリトン』のドラマ編LPレコードのジャケットに、西崎義展氏は「プロデューサーからのメッセージ」を掲載し、「『海のトリトン』は、その広大な海を舞台にした海洋ロマンです。(略)このトリトンがあったからこそ、ヤマトが生まれ得たのです。」と、すでにブームになっていた『ヤマト』に絡めて『トリトン』を語っている。
『ヤマト』だけだったら、西崎氏はアニメ界で鉱脈をひとつ見つけて稼いだだけ、と思ったかもしれないが、あのロマン溢れる『トリトン』まで手掛けていたなんて――このLPレコードのメッセージを読んで、私は山崎監督とまったく同じことを考えた。
だが、それはヤマトブームのピーク――『宇宙戦艦ヤマト』のテレビシリーズを再編集した劇場版が公開された1977年から、劇場用新作『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開された1978年――の頃までだった。
ヤマト、ヤマトで盛り上がっていたちょうどその頃、ロボットアニメ史を、いやアニメ史を引っくり返す衝撃作『無敵超人ザンボット3』(1977年)がテレビで放映されたのだ。

続く『無敵鋼人ダイターン3』の放映直前に発行された月刊OUT増刊『ランデヴーコミック』第2号では、新作アニメとして『無敵鋼人ダイターン3』が取り上げられ、富野喜幸なる人物がインタビューに応えて前作『無敵超人ザンボット3』を振り返るとともに新作『無敵鋼人ダイターン3』への想いを語っていた。私は、この人が傑作『無敵超人ザンボット3』を作ったのかと感心しながらも、新作はかっこいいお兄さん、お姉さんが活躍する作品になるという富野監督の軽い言葉に、「もうザンボット3のような衝撃は味わえないのか」と残念に思ったものだった。
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あいにく、山崎監督がお住まいだった長野県では『無敵超人ザンボット3』と『無敵鋼人ダイターン3』は放映されておらず、本放映時に視聴することはできなかったかもしれないが。
ほぼ同時期に『宇宙戦艦ヤマト2』がテレビで放映されたけれど、『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』を経験した後では、そこに新しさは感じられないのだった。
『宇宙戦艦ヤマト2』が最終回を迎えるその日、1979年4月7日の土曜日19時は、実のところもはや『ヤマト2』の最終回どころではなかった。なにしろ『宇宙戦艦ヤマト2』の最終回が放映される一時間前、(関東では)同日17:30から18:00の枠で富野監督の新作『機動戦士ガンダム』の第1話が放映され、視聴者はテレビの前でひっくり返っていたからだ。
見たことも聞いたこともないような斬新なオープニング、科学雑誌で目にするだけだったスペースコロニーの概念を難なく取り込んだ驚くべき設定、斬新な映像、斬新なストーリー、斬新なセリフの数々。富野監督の新作だからもちろん期待はしていたが、『機動戦士ガンダム』第1話の放映は過去のロボットアニメ、SFアニメを一斉に古びさせるほどエポックメイキングな出来事だった。その後『機動戦士ガンダム』が引き起こしたアニメ文化・アニメ産業への影響は、説明するまでもないだろう。
作品 | 時期 |
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『海のトリトン』放映 | 1972年4月1日~1972年9月30日 |
『宇宙戦艦ヤマト』放映 | 1974年10月6日~1975年3月30日 |
『宇宙戦艦ヤマト』再編集劇場版 公開 | 1977年8月6日 |
『無敵超人ザンボット3』放映 | 1977年10月8日~1978年3月25日 |
『無敵鋼人ダイターン3』放映 | 1978年6月3日~1979年3月31日 |
『スター・ウォーズ』日本公開 | 1978年6月30日 |
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』公開 | 1978年8月5日 |
『宇宙戦艦ヤマト2』放映 | 1978年10月14日~1979年4月7日 |
『機動戦士ガンダム』放映 | 1979年4月7日~1980年1月26日 |
『海のトリトン』再編集劇場版・前編 公開 | 1979年7月14日 |
『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』放映 | 1979年7月31日 |
『宇宙空母ブルーノア』放映 | 1979年10月13日~1980年3月29日 |
『ヤマトよ永遠に』公開 | 1980年8月2日 |
『宇宙戦艦ヤマトIII』放映 | 1980年10月11日~1981年4月4日 |
『宇宙戦艦ヤマト 完結篇』公開 | 1983年3月19日 |
『オーディーン 光子帆船スターライト』公開 | 1985年8月10日 |

正義のために戦っているのに民衆の支持が得られず、ふるさとを追われてさまよう主人公たち。多くの犠牲を出しながらようやく敵の親玉に迫ったら、その親玉に「正義は自分たちにあり、お前たちこそ悪である」と云われてしまう衝撃の結末。『無敵超人ザンボット3』で描かれたことの数々は、実は『海のトリトン』で先行して描いていたことも改めて認識された。それはすなわち、『海のトリトン』の素晴らしさの多くが――西崎義展氏の貢献もあるだろうが――富野監督に依ることを示していよう。
一方、西崎義展氏も『宇宙戦艦ヤマト』に続くオリジナルテレビアニメ『宇宙空母ブルーノア』を放ってきた。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の公開に際してプロデューサーみずから表舞台に出てきて「テーマは愛です」と触れ回ったことや、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』で死んだキャラクターを"生き返らせた"『宇宙戦艦ヤマト2』や、商売っ気たっぷりにシリーズを続けることを宣言したに等しい『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』に(シリーズが続くことは嬉しい反面)モヤモヤしていたファンにとって、西崎プロデューサーがヤマトとは関係のない新作SFアニメを作ってくれることはとても嬉しかった。
『宇宙戦艦ヤマト』を作った人物が、またぞろヤマトを引っ張り出すのではなく、新しい勝負を仕掛けてくる。それがどんなものになるか期待は高まった。

山崎貴監督が「解説」に書いたように西崎氏はロマンとしか言いようのないジャンルが好きな人であるのだろうし、『宇宙空母ブルーノア』こそは"ロマン"を感じさせる作品になるはずだった。海洋冒険物と宇宙物をミックスさせたこの作品は、『海のトリトン』と『宇宙戦艦ヤマト』のいいとこ取りの贅沢な企画のはずだった。
しかし、『宇宙空母ブルーノア』にロマンを感じて支持した人は少なかったに違いない。全39話の放映予定は24話に短縮され、『宇宙戦艦ヤマト』のように再放映の繰り返しで火が点くこともなければ、『機動戦士ガンダム』のように再放映を希望する署名運動が起こることもなかった。
『宇宙空母ブルーノア』には『海のトリトン』や宇宙戦艦ヤマトシリーズのスタッフが関わったが、『宇宙戦艦ヤマト』最大の立役者、松本零士氏は加わっていなかった。ヤマトブームが松本零士ブームを引き起こし、当時は猫も杓子も松本零士氏のネームバリューにあやかって作品をつくろうとしていた状況でありながら、『宇宙空母ブルーノア』に松本零士氏が不参画であったところに、『宇宙戦艦ヤマト』とは違うものをつくろうとする西崎氏の決意があったのかもしれない。だが、優秀なスタッフを集めてはみたものの、この作品には芯となる創造力が欠けていたように思う。
SF監修として参加した金子隆一氏は「ひどかったですね本当に、あそこの制作体制は。実際にこっちが何を言っても向こうが理解できない。向こうってつまり西崎氏1人のことなんですけれどね。彼のセンスに合わないか理解不可能なものは全部カットされました。」と語っている。一人の人間のキャパシティを超えるものを作れないのであれば、大人数で共同作業をする意味がない。
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しかし、『オーディーン 光子帆船スターライト』も惨敗だった。『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』によれば、この映画の失敗で六億円の実損を被り、配給の東映に立て替えてもらっていた宣伝費一億円強の支払いもままならなかったという。
そうそうたるスタッフを揃えた西崎氏は、叙情たっぷりに人類の帆船の歴史から語り起こすこの映画に、彼なりにロマンのありったけを込めたに違いない。だが、どれだけの観客がそこにロマンを感じただろうか。受け手が期待していたのは宇宙物のSFアニメなのに、数千年にわたる帆船の歴史を何分も語り続けたり、当時人気を博していたロックバンド、LOUDNESSの曲を劇中でフルコーラス流すためにたいして意味のないシーンを何分も続けたりと、『オーディーン 光子帆船スターライト』はなかなか観るのがしんどい映画だった。
余談ではあるが、『オーディーン 光子帆船スターライト』のエンディングでも、主題歌を歌うLOUDNESSの実写映像が流れるのを見ると、西崎義展氏は最後までアニメファンの気持ちが判らなかったのではないかという気がしてくる。
初のアニメプロジュース作品『海のトリトン』(1972年)で、主題歌を歌う須藤リカとバックを務める南こうせつとかぐや姫の実写映像をオープニングに持ってきて、『メーテルリンクの青い鳥 チルチル ミチルの冒険旅行』(1980年)ではオープニングにもエンディングにも歌手の実写映像を持ってきた。そして、ヤマト人気が衰える中で起死回生を図った『オーディーン 光子帆船スターライト』(1985年)でもやってしまった。
これらの試みは作品の人気にちっとも貢献していない。
アニメーションには、まず「動くはずのない絵が動く(動いているように感じる)」という感動があり、実写映像とは異なる現実感の――命を吹き込まれた「動く絵」だから構築できる――世界がある。受け手はその世界に没入することで、実写映像では表現できない抽象的な概念や実写映像では生臭くて目を向けられない真実に気づくことができる。それこそがアニメーションの魅力だと思うのだが、そこに実写映像をくっつけたら、よほど慎重にやらないと作品世界を台無しにしてしまう。
ディズニーの『メリー・ポピンズ』をはじめ実写とアニメが混在する作品はいくつかあるが、それらの多くは実写の人物とアニメのキャラが同時に存在するシチュエーションそのものや、実写の世界とアニメの世界を行き来することにより現実感が動的に変化することに重要な意義を見出して、慎重に取り組んだ作品だ。
他方、西崎義展氏のプロデュース作品では、オープニングやエンディングに実写映像を持ってきても本編の作品世界を豊かにすることになんら寄与していない。『オーディーン 光子帆船スターライト』に足を運んだ観客は、最後にLOUDNESSの演奏風景を見られたからといってより一層感動するだろうか。実写映像を加えることで作品世界を豊かにするのではなく、物語の前後に歌手のステージをポンとくっつけるやり方は、西崎義展氏が前半生で携わったショービジネスの世界を思わせる。
新宿コマ劇場でよく見られた手法だが、演歌歌手らの公演は、しばしば勧善懲悪の時代劇のような判りやすいお芝居と歌手が代表曲を次々に披露する歌謡ショーの二部構成になっていた。観客は歌を聴けるだけでも喜ぶのに、笑いと涙のお芝居まで見られるお得な構成。
アニメーション作品を心待ちにするアニメファンは、そんな強制的な二本立てを望んではいなかっただろう。けれど西崎義展氏は、歌手のステージはどんな客にも絶対受けると信じてやまなかったのではないだろうか。
閑話休題。
本書には、『宇宙戦艦ヤマト』ではじめて西崎義展氏と組み、西崎氏の遺作となった『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』まで仕事を共にした、アニメーターであり演出家の白土武氏の証言が載っている。白土氏によれば、西崎義展氏は『宇宙戦艦ヤマト』までは絵コンテが判らない、キャラ表が判らない、色がついて動いて音が入らなければ判らない人だったという。「俺が絵コンテの見方を教え、山本(暎一)がシナリオの読み方を教えた。まあ、教えたといっても喧嘩半分で言い合いしながら覚えさせたということだけど。」
すでに『海のトリトン』と『ワンサくん』でプロデューサー職にあったとはいえ、アニメのプロデューサーに必要なスキルは『ヤマト』を通して身に付けたという。
スキルを身に付け、作品内容により口出しできるようになった西崎氏のヤマト以降の作品がいかなるものであったかは、ここまで振り返ったとおりだ。
他方、『海のトリトン』を手がけた富野喜幸(由悠季)監督のその後の大活躍や、『宇宙戦艦ヤマト』でアニメ作りに関わるようになった松本零士氏がその後巻き起こした大ブームは今さら述べるまでもない。
これらの事実を踏まえたとき、山崎貴監督のように『宇宙戦艦ヤマト』に加えて『海のトリトン』をもって西崎義展氏の功績を強調するのが妥当かどうかは疑問である。
山崎監督の文を読んで、私にはまるで、ヤマトブーム真っ盛りで西崎義展氏がマスメディアに露出しまくっていた(そして『機動戦士ガンダム』はまだはじまっておらず、富野監督がそれほど注目されていなかった)1978年頃で時間が止まっているように感じられた。『宇宙戦艦ヤマト』を作った男に関する解説で『海のトリトン』もあると強調するのは、同じ男が『宇宙戦艦ヤマト』以降に制作したアニメを踏まえた意見なのだろうか。
いや、特撮技術者を目指す山崎少年がアニメを見ていなかったとしても全然構わないのだが、『海のトリトン』のことも『宇宙空母ブルーノア』のことも『オーディーン 光子帆船スターライト』のことにも本書はちゃんと触れているのに、わざわざ『海のトリトン』もあるぞと持ち出すのはちょっと違うのではないだろうか。「解説」には本書(単行本版)を読んだ感想も書かれているが、本当にちゃんと読んだのだろうか、なんて疑問も覚えてしまう。
長々と書いてきたが、ここまではまぁ前振りだ。山崎貴監督の「解説」の"違うところ"はまだ他にある。
山崎監督は「テレビと映画で『ヤマト』に魅了され」たと書いているが、具体的な思い出は『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のエンディングテーマに沢田研二さんが起用されたことや、『さらば――』公開前夜の「オールナイトニッポンスペシャル」での盛り上がり等、『さらば――』に関することばかり。山崎監督が思い入れがあるのは『さらば――』であって、第1テレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』はきちんと見ていないのではないか、見ていたらこうは書かないはずではないか、そんな気がしてならないところをこれから述べていこう。
■海の男
山崎貴監督の「解説」の"違うところ"の話を続ける前に、もう少し余談をお許し願いたい。
本書には、西崎義展氏が1960年代から豪華クルーザーを乗り回し、石垣島やフィリピンやカンヌへ航海したことが綴られている。豪華クルーザーの所有について、本書はもっぱら西崎氏の成金ぶりを示すものとして取り上げている。クルーザーでやっていたのは、取り引き相手らを船で接待したり派手な船上パーティーで散財したりだから、成金生活の象徴と捉えるのは間違いではないが、それ以上に私は、クルーザーでの航海が西崎氏の人間性とビジネス上の振る舞いに密接に関わっていたのではないかと思う。
ヨットやらスキューバダイビングやらのマリンスポーツを好む人の話を聞くと、海での経験がビジネスにも影響しているように感じられることがある。
海の上では自分を取り締まるものがない。正確には海でも法律は適用されるが、いかんせん誰が見ているわけでもないから、船上では勝手放題だ。
それは同時に、誰にも守ってもらえないことも意味する。周囲に庇護してくれる人はいないから、無事に港に帰れるかどうかは自分の才覚次第だ。
そんな経験をしてきた人は、勝手な判断で大胆な行動を取るかと思えば、驚くほどの慎重さで細部にこだわったりする。
西崎氏のように自分が所有する船で公海に出ればいくらでも傍若無人に振る舞える一方で、嵐や海賊に襲われたら自分で立ち向かうしかない。
「ある時は大作家、ある時は興行師、この気分が激しく行ったり来たりしていた。作家の時はまつ毛の本数まで気にするくらい細かくチェックするし、興行師になったら機関車みたいに走り出す。」白土武氏はそう西崎氏を評している。
たび重なる航海が西崎氏の人間性に影響したのか、西崎氏の人間性が海と相性が良かったのか。おそらくその両方なのではないかと思う。

ところで、山崎貴監督は、『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』の「解説」の中で自作『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010年)についても気になることを書いている。
曰く、初の監督作『ジュブナイル』(2000年)と二作目『リターナー』(2002年)はSF映画というジャンルのためにお客さんが広がらなかった。SF映画ファンを広げるために、木村拓哉主演のヤマト実写版はSFマニアに向けて勝負するのではなく、木村ファンも楽しめる映画にしなければならなかった。公開後、木村ファンを動員できなければ出ない数字(興行収入41億円)を残せたから、ヤマトに嵌まったまま大人になったヤマト世代向けの映画にしなくて良かったと。
『ジュブナイル』の興収11億円、『リターナー』の12.9億円はともに立派な成績だと思う。
当時の邦画の状況では、もっと上を目指すなら吉永小百合主演にするかゴジラを登場させねばならなかっただろう。有名な原作があるわけでもなく、テレビシリーズの知名度を活かした劇場版でもない、無名監督のオリジナル映画でこの成績を残せたのは、SFならばと足を運んでくれたSF映画ファンのおかげではないかと思う……。
それはともかく、ここで私が引っかかったのは、木村拓哉ファンに向けて映画を作ることと、SFマニアやヤマト世代に向けて作ることを山崎監督が別物のように捉えていることだ。
大ヒットした『シン・ゴジラ』(興行収入82.5億円)は、ゴジラファンはもとより、第37回日本SF大賞の特別賞や第48回星雲賞を受賞するほどSFマニアに大歓迎された上、SF映画・ゴジラ映画といったジャンルを超えて観客が広がった。日経ビジネスオンラインでは『シン・ゴジラ』の特集が組まれ、政界、財界、芸術各界の方々がこぞって『シン・ゴジラ』への思いを語った。主演の長谷川博己さんにとっては自身の主演作最大のヒットとなり、主役級ではない市川実日子さん、高橋一生さん、松尾諭さんらも人気を博した。
ベネディクト・カンバーバッチやクリス・ヘムズワース、クリス・プラットといった日本でも人気の高い俳優を配したSF映画(だよね)『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は興収37.4億円、『アベンジャーズ/エンドゲーム』は6週目にして57億円を突破するヒットを飛ばしている。両作ともマニアックなファンに大好評だが、マニアを超えて幅広い観客を集めたから達成できた数字だろう。
完成した『SPACE BATTLESHIP ヤマト』が、「木村ファンがちゃんと見られる映画作りを優先した」ものであるなら、山崎監督が想定した「ヤマト世代向けの映画」とはどのようなものであったのだろうか。
察するところはあるが、本当の答えは山崎貴監督だけが知っている。
私が思うのは、木村ファンが楽しめるものも、SFマニアやヤマト世代が楽しめるものも包含できるくらいに、映画とは豊かな表現媒体ではないかということだ。山崎監督は「あちこち目配せしすぎて、取り扱いを間違えてはならない」と書いているが、木村ファンが楽しめるものはこれ、SFマニアやヤマト世代が楽しめるものはこれと矮小化し、対立項として比べていては、豊かな映画はできないように思う。素人考えで恐縮だが。
ちなみに、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の主演に木村拓哉さんを据えたことは、観客動員の面だけでなく映画の魅力を高める上でも大正解だったと思う。
まだ監督が山崎貴氏に決まる前、古代進役には木村拓哉と考えた中沢敏明プロデューサーが、当時のSMAPのマネージャー飯島三智氏に直接面会し、了解を得たのだそうだ。
俳優には二つのタイプがあると思う。様々な役柄を見事に演じ分けてみせる人と、どんな役柄をあてがわれても同じような演技に見える人だ。木村拓哉さんはどちらかといえば後者のタイプだったろう。
しばしば前者ばかりが名優のように褒めそやされ、後者のタイプは演技が下手であるかのようにそしられることがあるが、とんでもない誤解である。後者のタイプの代表的な俳優といえば、高倉健さんや加山雄三さんが思い浮かぶ。
高倉健さんは殺し屋を演じても刑事を演じてもいかなる職業人を演じようが、あくまで高倉健さんだ。それで観客は満足する。
加山雄三さんは『椿三十郎』に出ても『赤ひげ』に出ても若大将のままだった。でもだからこそ黒澤明監督に重用されたのだと思う。『椿三十郎』や『赤ひげ』の時代劇の世界に現代の観客をいざなうには、現代の青年の持ち味を保ちつつ、他の俳優の演技を邪魔しない透明感の持ち主である加山さんが媒介になる必要があったのだ。
木村拓哉さんも高倉健さんや加山雄三さんのような特異なポジションを担える俳優だと、私は大いに期待していた。
SMAPの解散(2016年)後、木村拓哉さんは役者一筋でやっていこうと決意したのか、いろんな役を演じ分ける"普通の俳優"になってきた。でも、2010年の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』では、まだ木村拓哉さんらしい古代進像を楽しめる。
■違うところ その2
さて、山崎貴監督が『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』に寄せた「解説」で首をひねったもう一箇所は、次の文だっだ。
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戦艦大和は圧倒的です。現実的には、大きな期待を背負いながらもなんら戦果を挙げられず、最後にたくさんの犠牲者を出して沈んでしまった艦(ふね)です。しかし、日本人にとって大和を超える太平洋戦争のアイコンは存在しない。そして「宇宙戦艦ヤマト」には、その大和の怨念と果たせなかった夢への願望が宿っているのです。そういった心情を土台にした上で「ヤマト」が地球全体のために立ち上がるというストーリー展開は、当時敗戦による鬱屈の延長上にあった日本人に合致していたのだと思います。「本来なら、大和はもっと皆の助けになれる艦だった」という日本人の思いが載せられていたからこそ、「ヤマト」はあんなに面白くなった。
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これを読んだ私の困惑をお判りいただけるだろうか。
ここには私が首肯しかねることがいくつも書かれている。大きく分ければ、次の三つに集約されよう。
(1) 『宇宙戦艦ヤマト』が制作された時代について
(2) "敗戦"について
(3) 『宇宙戦艦ヤマト』そのものについて
(2) "敗戦"について
(3) 『宇宙戦艦ヤマト』そのものについて
以下、順に説明していこう。
(1) 『宇宙戦艦ヤマト』が制作された時代について
当時敗戦による鬱屈の延長上にあった日本人
山崎監督の出世作『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズは、1958年から1964年にかけての庶民の暮らしを描いていた。1964年生まれの山崎貴監督は(ましてや共同脚本の古沢良太氏は1973年生まれなので)知らない時代だから、映画で描かれるすべては想像でしかないだろう。しかし、この時代の庶民の悲喜こもごもを描いて多くの観客を感動させたこのシリーズに、敗戦を引きずって"鬱屈"している描写など露ほどもありはしない。
が、当の山崎監督は、本当はこの時代の日本人は敗戦のために鬱屈していたのだと考えていたのだろうか。山崎監督はいつからそんな考えを抱くようになったのだろうか。『ALWAYS 三丁目の夕日』の制作中すでに、本当の日本人は鬱屈していたのにと考えながら撮っていたのだろうか。
『宇宙戦艦ヤマト』の第1テレビシリーズが放映され、大ブームを引き起こして続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開された1970年代は、山崎貴監督が小学生から中学生にかけての頃だ。この頃のことなら、山崎監督も実体験として憶えているだろう。
この頃、山崎監督の周囲の人は敗戦による鬱屈の延長上にあったのだろうか。山崎監督ご自身も敗戦による鬱屈を抱えて生きていたのだろうか。長野県松本市でラジオから流れる『さらば――』公開前夜の東京の様子に耳を傾けていたときも、中学生だった山崎少年は東京の盛り上がりを羨むだけでなく、大日本帝国の敗戦のことを思って鬱屈していたのだろうか。
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そんな時代だから、古代進は「俺たちは小さいときから人と争って勝つことを教えられて育ってきた。学校に入るときも、社会に出てからも、人と競争し勝つことを要求される。(略)我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。」と後悔したのではなかったか(『宇宙戦艦ヤマト』第24話「死闘!!神よガミラスのために泣け!!」より)。
この頃は同時に、公害が空や海を蝕んで、人々の健康を害していた。長野県在住の山崎監督はご存知なかったかもしれないが、東京の空はいつも黒ずんだ霞に覆われたような状態で、空襲警報さながらに光化学スモッグ注意報が発令されると、汚染された空気を避けるために子供たちは急いで屋内へ避難したものだ。
かつて戦争と核兵器を象徴する水爆大怪獣だったゴジラも、この頃は子供たちを救うためにさっそうと駆けつける正義のヒーローだった。宇宙人の侵略ロボット、メカゴジラと戦ったり、スーパーヒーローの流星人間ゾーンと共闘したのもこの頃だ。1970年代初頭の『ゴジラ対ヘドラ』では、公害の権化ヘドラを正義の「放射能」でやっつけてくれと期待されるほどだった。
ゴジラが原水爆の象徴として位置づけられたのは、1970年代よりも、ゴジラの原点を改めて模索した1980年代以降のことだろう。
総じてこの時代の日本国民は、敗戦の鬱屈だのなんだのにこだわっている場合じゃなかったと思う。
もちろん戦争のことは忘れてはいない。沖縄が米国の支配を脱して日本に復帰できたのは日本国の独立に遅れること約20年の1972年だし、同年には残留日本兵の横井庄一氏が帰国、1974年には小野田寛郎氏も帰国して日本中が大騒ぎしたこともあった。戦争の爪痕は今よりずっと生々しかった。
日本人は1億2千万人もいるから、中には敗戦による鬱屈の延長上にある人がいたかもしれない。けれども、そうではない人が大多数だったはずだ。山崎監督ご自身がどう考えているかはともかく、それを日本人全体のことのように語るのは間違いだ。
なぜなら、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』や『宇宙戦艦ヤマト2』は、見事に復興を遂げ、平和と物質文明の恩恵に浴する人々の様子を前にして、あまりにもあの戦争のことをあっさり忘れ過ぎではないかと嘆くところからはじまるからだ。
もはやすっかり戦争の記憶が風化してしまった。その認識がヤマトの作り手をしてあのように描写させたのではないだろうか。
私はそう思うし、実際そうだったと思う。
一体全体、山崎監督はどうして当時の日本人は敗戦による鬱屈の延長上にあったなんて思うようになったのだろうか。いつ、そんな考えに染まったのだろうか。
(2) "敗戦"について
当時敗戦による鬱屈の延長上にあった日本人に合致していたのだと思います。
私がとても気になるのは、山崎貴監督が"戦争"とは書かずに「"敗戦"による鬱屈」と書いていることだ。
「戦争にならないように」「戦争を避けよう」と云われて反対する人はいないだろうが、「敗戦にならないように」「敗戦を避けよう」と書くと意味がずいぶん違ってしまう。まるで、「負けないようにしっかり戦争しよう」と云っているようにも受け取れるだろう。
"戦争"と"敗戦"とはうっかり書き間違える言葉ではない。その使い分けには、明確な意志があるはずだ。
山崎監督は戦艦大和について次のように書いている。
「大きな期待を背負いながらもなんら戦果を挙げられず、最後にたくさんの犠牲者を出して沈んでしまった艦(ふね)です」
「大和の怨念と果たせなかった夢への願望」
「『本来なら、大和はもっと皆の助けになれる艦だった』という日本人の思い」
ここでいう「大きな期待」とは何だろうか?「果たせなかった夢」とは?「皆の助け」とは?
「特攻」といえばゼロ戦で目標物に体当たりを試みる神風特別攻撃隊がよく知られるところだが、戦艦大和もまた海上特攻を試み、なんら戦果を上げずに約三千人を乗せたまま九州南方の海に沈んでしまった。
このとき大和が背負った「大きな期待」とは、もちろん戦果を上げることだろう。軍事力には複数の側面があると思うが、戦争中に就役した大和に期待されるのは敵の戦力を壊滅させることだったはずだ。それは少しでも多くの敵艦艇を沈め、敵戦闘機を撃墜することであり、無人化・自動化が進んでいなかったこの時代の戦争においては少しでも多くのアメリカ人を殺すことに等しい。「果たせなかった夢」もまた、戦果を上げること、すなわちたくさんのアメリカ人を殺すことであったろう。「皆の助け」というのも、日本人が生き残りやすくなるように、アメリカ人をたくさん殺すことであったはずだ。「大和の怨念」とは、充分な数のアメリカ人を殺せずに死んだあの世の乗組員たちが怨んでいるということだろう。
とどのつまり、山崎監督が述べているのは、たくさんの敵国人を殺して生還できればよかったのに、ということである。
なんだか恐ろしいことに、とても納得してしまうのだ。山崎監督がこう書くことに。
山崎監督の戦争映画『永遠の0』(2013年)は、日米の戦闘の描写がたくさんあるのにアメリカ人はまったく出てこない映画だった。厳密にいえばチラリと横顔が見えたりするのだが、アメリカ人を人間として扱う描写は皆無で、彼らや彼らが乗る艦艇はただただ特攻の的でしかなかった。
近年、これほど一面的、一方的な戦争映画は珍しいと思う。日本人の主人公やその家族、その同僚、そして彼らの生活が丹念に描かれれば描かれるほど、私はアメリカ人も同じなのに――単なる的のような艦の上にも多くの人間がいて、彼らの帰りを待つ家族がいて、それぞれの生活があるはずなのに、なぜこの映画はそこにまったく触れようとしないのだろうと思ったものだ。
そして、『永遠の0』の主人公が無能な上官にいら立ち、上官のミスを指摘する場面を眺めながら、この主人公――映画の作り手――は、戦争に反対しているのではなく、敗戦をもたらす判断ミスに怒り、負けないようにちゃんとやれと云っているのではないかと感じた。
ちゃとやれば勝てたのに。ここでこんな判断さえしなければ、死ぬのは敵国の側だったはずなのに。あたかも『永遠の0』はそう云いたいかのようだった。負け戦に反対することは、次は勝とうと決意することに繋がっていく。戦争そのものへの反対ではないのだから、とうぜん「勝てば良かったんだ」という発想になってしまう。このことを私は以前の記事「『永遠の0』vs『アメリカン・スナイパー』 三つの危うさ」で指摘したのだが、山崎貴監督が執筆した本書の「解説」を読んで、『永遠の0』に感じたことがますます強まった。
だから「"敗戦"による鬱屈」なのだろうか。
"敗戦"したから鬱屈するのだろうか。
勝っていれば清々しかったのか。
『宇宙戦艦ヤマト』第24話「死闘!!神よガミラスのために泣け!!」で、ガミラスを滅ぼして戦いに勝利した古代進は、「私たちは何ということをしてしまったの。私にはもう神様の姿が見えない(顔を上げて神様の姿を見られない)」と云って泣き崩れる森雪を前にして、苦しそうに独白する。
「俺たちは小さいときから人と争って勝つことを教えられて育ってきた。学校に入るときも、社会に出てからも、人と競争し勝つことを要求される。しかし、勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。負けた者はどうなる。負けた者は幸せになる権利はないというのか。今日まで俺はそれを考えたことがなかった。俺は悲しい。それが悔しい。(略)地球の人もガミラスの人も幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か……くそでも食らえ!」
山崎監督はこの言葉を、負けた日本人にだって幸せになる権利はあるんだとか、勝ったからってアメリカ人はいい気になるなよとか、鬱屈した気持ちで受け止めたのだろうか。
"勝利か……くそでも食らえ!"
(3) 『宇宙戦艦ヤマト』そのものについて
「宇宙戦艦ヤマト」には、その大和の怨念と果たせなかった夢への願望が宿っているのです。
「本来なら、大和はもっと皆の助けになれる艦だった」という日本人の思いが載せられていたからこそ、「ヤマト」はあんなに面白くなった。
山崎貴監督は、『宇宙戦艦ヤマト』発表当時の日本人は敗戦による鬱屈の延長上にあったとか、大和の怨念と果たせなかった夢への願望があったと書いた上で、それが『宇宙戦艦ヤマト』に宿っていると主張する。だからこそ、『宇宙戦艦ヤマト』は面白くなったのだと。「面白くなった」とは、「共感できるものになった」とか「魅力的になった」という意味と同じだろう。
困ってしまった。
そう受け止められるのは、『宇宙戦艦ヤマト』を作った人たちが一番避けたかったことだから!
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理由は簡単、大和がカッコイイからだろう。戦艦、戦車、戦闘機等は、機能美の極地にあってカッコイイ。同時に、海を航行する船が飛翔するというアイデアは、人をワクワクさせずにおかない。
戦艦大和が空を飛ぶという発想は、『宇宙戦艦ヤマト』より10年以上前に梶原一騎氏が絵物語(1961年)及びそれを原作にしたマンガ(1963年)の『新戦艦大和』で披露している。東宝特撮映画『海底軍艦』(1963年)でも、海上海中を航行する轟天号が空中をも飛翔した。カッコイイ戦艦がさらに空を飛ぶというアイデアは、誰もが具現化したいのだ。
誰もがやりたくても、誰もがやれるわけではない。
『宇宙戦艦ヤマト』の作画監督を務めた白土武氏は企画内容を聞いた当初、「えっ、戦艦大和を手描きで動かすの?馬鹿か――」と唖然としたという。
常識的には馬鹿げていると却下してしまいそうなことを実行したのが、『宇宙戦艦ヤマト』の作り手たちの凄いところだ。
もちろん、戦艦がカッコイイと思っていても戦争したいわけではない。その存在がすでにカッコイイのだから、わざわざ壊れるおそれのある戦争に駆り出す必要はない。
だからこそ、戦艦が空を飛び大活躍する空想物語が喜ばれる。絶対にありえない、あってはならない物語だからだ。
『宇宙戦艦ヤマト』もまた、戦艦が登場するが戦争を意図したものではない。そのことを明確にするために、わざわざ第2話「号砲一発!!宇宙戦艦ヤマト始動!!」に戦艦大和がたどった運命と、大和とヤマトの違いを示す次のような描写が設けられた。
沖田艦長「かつての戦艦大和の悲劇、それは大和が戦艦として誕生したときに決定づけられたといってもよい。それが戦うために生まれてきた戦艦の宿命ともいえる悲劇だった。」
……
ナレーター「――この地上最大の大戦艦は(略)、巨大な黒煙を上げて没し去ったのである。それは戦争という目的で作られた戦艦の哀しい運命であったのかもしれない。戦艦大和は三千の兵とともに、やっと静かな眠りについたのであった。」
沖田艦長「この宇宙戦艦ヤマトは、戦うために改造されたのではない。本当は放射能で生物が全滅するのを避けるために、選ばれた人間や動物を乗せて地球を脱出するのが目的だった。古代、島、君たちは地球脱出のために特別訓練を受けてきた。ヤマトの目的は変わったが、君たちの受けてきた特別訓練の成果は活かせるはずだ。しっかり頼むぞ。」
古代進「判っています。還ってこなかった兄さんのためにもやり抜きます。見ていてください。」
沖田艦長「うむ。14万8千光年は絶望的に遠い。未だ人類の経験したことのない宇宙飛行だ。しかし、波動エンジンさえ完全に働けば必ず行ける。いや、わしは必ず行くぞ!行って還ってくるのだ!!」
ナレーター「宇宙戦艦ヤマトよ、人類の未来を賭けて14万8千光年の旅へ出発する日は近い。(略)ヤマトよ行け!地球と人類の未来を賭けて!!」
……
ナレーター「――この地上最大の大戦艦は(略)、巨大な黒煙を上げて没し去ったのである。それは戦争という目的で作られた戦艦の哀しい運命であったのかもしれない。戦艦大和は三千の兵とともに、やっと静かな眠りについたのであった。」
沖田艦長「この宇宙戦艦ヤマトは、戦うために改造されたのではない。本当は放射能で生物が全滅するのを避けるために、選ばれた人間や動物を乗せて地球を脱出するのが目的だった。古代、島、君たちは地球脱出のために特別訓練を受けてきた。ヤマトの目的は変わったが、君たちの受けてきた特別訓練の成果は活かせるはずだ。しっかり頼むぞ。」
古代進「判っています。還ってこなかった兄さんのためにもやり抜きます。見ていてください。」
沖田艦長「うむ。14万8千光年は絶望的に遠い。未だ人類の経験したことのない宇宙飛行だ。しかし、波動エンジンさえ完全に働けば必ず行ける。いや、わしは必ず行くぞ!行って還ってくるのだ!!」
ナレーター「宇宙戦艦ヤマトよ、人類の未来を賭けて14万8千光年の旅へ出発する日は近い。(略)ヤマトよ行け!地球と人類の未来を賭けて!!」
戦艦大和は戦うための艦だった。しかしヤマトは、人類の未来のために人や荷物(コスモクリーナーD)を運ぶための船である。その意図するところはまったく違う。
そうはっきり宣言することで、作り手たちは『宇宙戦艦ヤマト』が第二次世界大戦の亡霊を蘇らせた作品であるかのように受け止められたり、戦争を賛美するものであるかのように受け止められることを避けたのだ。ヤマトに戦艦大和の怨念と果たせなかった夢への願望が宿っているとか、敗戦による鬱屈した日本人の心情を土台にしているといった勝手な解釈は許さない、その断固たる決意がこのシーンにはみなぎっている。
そして、第2話のこのセリフがあるから、防戦を推し進めた結果とはいえガミラスを滅ぼしてしまった古代が「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。」と悔やむ第24話が胸に響く。
『宇宙戦艦ヤマト』の、この大きな物語構造を是非とも汲み取っていただきたい。
ちなみに、『宇宙戦艦ヤマト』の第1テレビシリーズを再編集した総集編ともいえる劇場版では、ここで紹介した第2話の沖田艦長のセリフがカットされ、航空戦力を持たない戦艦大和が敗北を喫した歴史に触れつつ、宇宙戦艦ヤマトを「宇宙を飛ぶ戦艦に改造された大和」と紹介する。なにしろテレビシリーズで3話までかけて描いたヤマト発進までのいきさつを、劇場版では30分で済ませるため駆け足になっている。
まさか、山崎監督は、テレビシリーズを無視して劇場版からの解釈に基づいて『宇宙戦艦ヤマト』を語ったのだろうか。
もしも地方在住だったために第1テレビシリーズを繰り返し見る機会に恵まれていなかったのなら、今からでもじっくり見て欲しい。沖田艦長の言葉を胸に刻んで欲しい。
願わくば、『宇宙戦艦ヤマト』を愛する気持ちがあるのなら、ヤマトを太平洋戦争のアイコンとしての戦艦大和と結びつけるような言動は慎んでいただきたい。
『宇宙戦艦ヤマト』の一ファンからのお願いだ。

著者/牧村康正・山田哲久
単行本発行/2015年9月8日 文庫版発行/2017年12月20日
ジャンル/[伝記]

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⇒comment
No title
山崎監督が何を持ってナドレックさんの指摘するズレを抱いてしまったのか判りませんが、ヤマトを取り巻くファン側にもそういう層って一定数いますよね。
イベントで大日本帝国軍軍服来てくる方を何度か見かけてずっと疑問でした。
でもナドレックさんの指摘でようやくその手の方々の思考回路が理解できました。
映画で削られた2話の台詞と付け足された「改造された大和」という事実が
ひょっとしたらそういう方々を引きつけたのかと邪推してしまい二重に残念でなりませんね。(二重でもないか)
イベントで大日本帝国軍軍服来てくる方を何度か見かけてずっと疑問でした。
でもナドレックさんの指摘でようやくその手の方々の思考回路が理解できました。
映画で削られた2話の台詞と付け足された「改造された大和」という事実が
ひょっとしたらそういう方々を引きつけたのかと邪推してしまい二重に残念でなりませんね。(二重でもないか)
Re: No title
TGさん、こんにちは。
ヤマトのイベントに大日本帝国軍の軍服を着てくるのですか!
顔を青くメークするとか、錨マークの艦長服のコスプレではなく!?
それは違和感がありますね。
それはヤマトを好きなんじゃなくて、ヤマトにかこつけて別のモノを発露したがっているような気がします。
ただ、気がかりなのは、受け手によって何を『宇宙戦艦ヤマト』だと思うかが異なるかもしれないことです。
山崎貴監督が少年時代を過ごした長野県には、民放のテレビ局が二つしかありませんでした(当時。現在は四局あります)。1958年にテレビ放映を開始したTBS系のSBC信越放送と、1969年に開始したフジテレビ系のNBS長野放送です。NHKはまだ国産のテレビアニメを放映したことがありませんでした。
配信はおろか、一般家庭に録画・再生機器がなかった時代、アニメを見るには民放各局の放映に頼るしかありませんでしたが、地方では局数が少ないために放映できるアニメの本数が限られており、週に何日かアニメを見られる日がある、という程度でした。
関東は大違いです。当時、すでに民放が五局もあって、テレビ番組がひしめいていました。特に平日の16時台から18時台にかけては各局で毎日アニメを再放送しており、19時台からは新作アニメが放映されていました。しかも、アニメ・特撮番組を放映している裏でもアニメ・特撮番組を放映しており、アニメ好き・特撮好きはどれを見ようか困ってしまうほどでした。
特に、平日夕方に豊富にあった関東の再放送枠がアニメ史に与えた影響は大きいと思います。『エースをねらえ!』は放映から5年後にリメイクされたり劇場版が作られました。『ルパン三世』も放映終了から6年経って新シリーズが作られ、さらに劇場版が作られるようになりました。『あしたのジョー』は放映から10年も経って劇場版や続編が作られるに至りました。これらの作品は、どれも再放送を繰り返すうちに人気が高まり、新作が作られるほどになったのです。
こういう状況は、再放送枠がなかった地方にいるとまったく判りません。本放映ですら放映されなかったり、放映時期が大幅に遅れたりしたのですし。
『宇宙戦艦ヤマト』も、本放映時は視聴率が芳しくなく、再放送で人気が出たことは有名です。『宇宙戦艦ヤマト』は裏に『アルプスの少女ハイジ』と『SFドラマ 猿の軍団』があったために苦戦したと云われますが、ウィキペディアを見ると、そもそも長野県では『宇宙戦艦ヤマト』も『SFドラマ 猿の軍団』も放映されていなかったようです。
このように俯瞰すると、関東で『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズの再放送を繰り返し見て、セリフを憶えるほど惚れ込んだ人たちと、地方在住のため又はヤマトブームに乗り遅れたために『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズにあまり接することがなく、『宇宙戦艦ヤマト』劇場版を映画館で観たり、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』公開前夜の『宇宙戦艦ヤマト』劇場版(のテレビ用編集版)のテレビ放映でヤマトに接した人たちでは、ヤマトのイメージがまったく異なるに違いありません(2202のシリーズ構成を担当した福井晴敏氏は、劇場版第一作のテレビ放映で初めて『宇宙戦艦ヤマト』の存在を知ったそうです(Gigazine インタビュー 2017年02月24日))。
松本零士氏によれば、沖田艦長は松本零士氏の父・強さんがモデルで、そのセリフも強さんが息子たちに語った言葉をモデルにしているそうです(iRONNA「松本零士 ヤマトを語る」 2015年)。古代進は松本零士氏の弟の将(すすむ)さんがモデルだそうですから、沖田艦長が古代進に語る言葉は、父・強さんが息子に語るであろう重要なことなわけです。
『宇宙戦艦ヤマト』に不戦の願いを込めたという松本零士氏(読売新聞「松本零士さんインタビュー」 2020年8月4日)にとって、私が記事本文で紹介した第2話の沖田艦長の言葉――宇宙戦艦ヤマトは、戦うために生まれた戦艦大和とは一線を画すものであることを古代進たちに強調するセリフ――も、とても重要なものだったと思います。
この大事なセリフを知らないまま/認識しないままヤマトファンを自認している人がいるならば、真の『宇宙戦艦ヤマト』を知って欲しいと、強く思います。
ヤマトのイベントに大日本帝国軍の軍服を着てくるのですか!
顔を青くメークするとか、錨マークの艦長服のコスプレではなく!?
それは違和感がありますね。
それはヤマトを好きなんじゃなくて、ヤマトにかこつけて別のモノを発露したがっているような気がします。
ただ、気がかりなのは、受け手によって何を『宇宙戦艦ヤマト』だと思うかが異なるかもしれないことです。
山崎貴監督が少年時代を過ごした長野県には、民放のテレビ局が二つしかありませんでした(当時。現在は四局あります)。1958年にテレビ放映を開始したTBS系のSBC信越放送と、1969年に開始したフジテレビ系のNBS長野放送です。NHKはまだ国産のテレビアニメを放映したことがありませんでした。
配信はおろか、一般家庭に録画・再生機器がなかった時代、アニメを見るには民放各局の放映に頼るしかありませんでしたが、地方では局数が少ないために放映できるアニメの本数が限られており、週に何日かアニメを見られる日がある、という程度でした。
関東は大違いです。当時、すでに民放が五局もあって、テレビ番組がひしめいていました。特に平日の16時台から18時台にかけては各局で毎日アニメを再放送しており、19時台からは新作アニメが放映されていました。しかも、アニメ・特撮番組を放映している裏でもアニメ・特撮番組を放映しており、アニメ好き・特撮好きはどれを見ようか困ってしまうほどでした。
特に、平日夕方に豊富にあった関東の再放送枠がアニメ史に与えた影響は大きいと思います。『エースをねらえ!』は放映から5年後にリメイクされたり劇場版が作られました。『ルパン三世』も放映終了から6年経って新シリーズが作られ、さらに劇場版が作られるようになりました。『あしたのジョー』は放映から10年も経って劇場版や続編が作られるに至りました。これらの作品は、どれも再放送を繰り返すうちに人気が高まり、新作が作られるほどになったのです。
こういう状況は、再放送枠がなかった地方にいるとまったく判りません。本放映ですら放映されなかったり、放映時期が大幅に遅れたりしたのですし。
『宇宙戦艦ヤマト』も、本放映時は視聴率が芳しくなく、再放送で人気が出たことは有名です。『宇宙戦艦ヤマト』は裏に『アルプスの少女ハイジ』と『SFドラマ 猿の軍団』があったために苦戦したと云われますが、ウィキペディアを見ると、そもそも長野県では『宇宙戦艦ヤマト』も『SFドラマ 猿の軍団』も放映されていなかったようです。
このように俯瞰すると、関東で『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズの再放送を繰り返し見て、セリフを憶えるほど惚れ込んだ人たちと、地方在住のため又はヤマトブームに乗り遅れたために『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズにあまり接することがなく、『宇宙戦艦ヤマト』劇場版を映画館で観たり、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』公開前夜の『宇宙戦艦ヤマト』劇場版(のテレビ用編集版)のテレビ放映でヤマトに接した人たちでは、ヤマトのイメージがまったく異なるに違いありません(2202のシリーズ構成を担当した福井晴敏氏は、劇場版第一作のテレビ放映で初めて『宇宙戦艦ヤマト』の存在を知ったそうです(Gigazine インタビュー 2017年02月24日))。
松本零士氏によれば、沖田艦長は松本零士氏の父・強さんがモデルで、そのセリフも強さんが息子たちに語った言葉をモデルにしているそうです(iRONNA「松本零士 ヤマトを語る」 2015年)。古代進は松本零士氏の弟の将(すすむ)さんがモデルだそうですから、沖田艦長が古代進に語る言葉は、父・強さんが息子に語るであろう重要なことなわけです。
『宇宙戦艦ヤマト』に不戦の願いを込めたという松本零士氏(読売新聞「松本零士さんインタビュー」 2020年8月4日)にとって、私が記事本文で紹介した第2話の沖田艦長の言葉――宇宙戦艦ヤマトは、戦うために生まれた戦艦大和とは一線を画すものであることを古代進たちに強調するセリフ――も、とても重要なものだったと思います。
この大事なセリフを知らないまま/認識しないままヤマトファンを自認している人がいるならば、真の『宇宙戦艦ヤマト』を知って欲しいと、強く思います。