『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【後編】

サイボーグ009 (12) (Shotaro world)(前回から読む)

■石ノ森章太郎が明かしたこと

 1960年代の後半、石ノ森章太郎氏はある作品に執着し、なんとしてでもその要素を自作に取り入れてみたかったのだと思う。
 「神々との闘い編」の元ネタ、いやそれどころかブラック・ゴースト(黒い幽霊団)との戦いを終えて以降の『サイボーグ009』の方向性を決定づけたもの、それはおそらく日本SF史に名高い小松左京氏の名作『果しなき流れの果に』だ。
 『S-Fマガジン』の1965年2月号から11月号にかけて連載され、翌1966年に単行本にまとめられた『果しなき流れの果に』は、日本SFの金字塔であり、日本SFのオールタイムベストを選べば毎回のように1位になる名作中の名作だ。

 では、以下に『果しなき流れの果に』の内容と、石ノ森章太郎氏への影響を見てみよう。

 『果しなき流れの果に』の序盤では、大阪と和歌山の府県境にある石舞台式古墳と、古墳の地下から発見されたオーパーツが焦点となる。オーパーツとは、ありえない場所、ありえない時代に存在する人工物のこと。古墳の下の白亜紀の地層から、しかもの岩の中から、あろうことか永遠に砂が落ち続ける砂時計が出てきたのだ。高度な工業技術がなければ造り得ない古墳自体もオーパーツだった。そして、古墳の中の岩壁を通り抜けて出入りする何者かの影。
 史学部の教授と理論物理学研究所の若き助手らはこの謎を調べようとするが、教授は古墳の中で重傷を負わされ、謎の言葉をつぶやくだけの生ける屍となってしまう。研究所の老教授は殺され、またある者は行方不明となり、調査は完全に行き詰まる。

 『COM』の1969年10月号から1970年12月号にかけて連載された「神々との闘い編」も同様の展開だ。
 「神々との闘い編」は、ジョー(009)とフランソワーズ(003)が石舞台古墳で老人の死に遭遇するところからはじまる。謎の言葉をつぶやいて死んだ老人は、その日その少し前までイースター島にいた考古学者だった。ギルモア研究所のジョーは、老学者が残した言葉と、イースター島にいた人が石舞台古墳の岩壁を通って出現した謎を調べようとするが、手がかりは何もなく調査は完全に行き詰まる。同時に彼らは何者かに襲われるようになり、アイザック・ギルモア博士は死んでしまう。

 「神々との闘い編」の元ネタが『果しなき流れの果に』であることは、石ノ森章太郎氏自身が明らかにしている。古墳で死んだ老人――眼鏡をかけた太った学者――の名が「小松」なのだ。眼鏡、太ってる、「小松」と三拍子揃ったら、SFファンが思い浮かべる人は一人しかいない。
 導入部を『果しなき流れの果に』そっくりにし、しかも小松左京氏を模したとしか思えない人物を冒頭で死なせたことは、「神々との闘い編」が小松左京氏の『果しなき流れの果に』の単なるパクリではなく、『果しなき流れの果に』を踏まえつつもそれを凌駕し、小松左京氏すら届かなかった高みを目指す野心作であることを高らかに宣言したものだろう。


新装版 果しなき流れの果に (ハルキ文庫)■先行作品をたどった『サイボーグ009』

 砂時計と古墳の謎が解けないまま、『果しなき流れの果に』は唐突に「エピローグ(その2)」となり、関係者すべての死が描かれる。物語の中盤だというのに「エピローグ」が出てくるのがおかしいし、「その1」を飛ばして「その2」になるのも不可解だ。奇妙な構成に読者が戸惑う間もなく、物語は未来へ、過去へ、パラレルワールドへと、時空を超えて飛躍していく。

 「神々との闘い編」の連載第8回では、ジョーがイースター島を訪れるエピソードが描かれる。イースター島訪問は連載第1回の最初のページにも描かれていたので、そのときの出来事を改めて描いたのかもしれない。このあたりから時系列を無視して断片的なエピソードが描かれるようになり、読者は物語のどの部分を読んでいるのか判らなくなる。

 『果しなき流れの果に』では、21世紀中葉の人類が、太陽の超巨大フレアにより絶滅の危機に瀕する様子が描かれる。滅亡寸前の人類を救うため、宇宙の彼方からやってくる異星人。生き残る者と滅ぶ者の選別の後、異星人に救われた者たちは過去の地球に連れていかれ、人類の祖先にさせられる。
 この異星人来訪の部分と『幼年期の終り』から着想を得て、石ノ森氏は「天使編」を描いたのではないかと思う。また、滅亡に瀕した未来の人類が太古に移住して人類の祖先になるくだりは、「移民編」の元ネタになったのではないだろうか。

 やがて『果しなき流れの果に』は、歴史を変えようとする勢力とそれを許さない超越者との、あらゆる時間とあるゆる空間にわたる戦いの物語であることが明らかになる。

  神とはなにか?
  伝説とは?
  歴史とは?
  文明とはなんだ?
  そして人間とは……?
  生命(いのち)とは……?
  死とは……?
  肉体とは……?
  精神(こころ)とは……?
  そして――そして神とはなんなんだ!?

 「神々との闘い編」のプロローグに掲げられたこれらの問いは、まさに小松左京氏が『果しなき流れの果に』で追究したことだ。

 「歴史を変えて、なぜいけない?」――『果しなき流れの果に』の主人公はこう問いかける。「そうすれば、人類は、はるかに短い期間内に、野獣状態を脱し、一万年かかって達成できた歴史が、百年で達成できる。」

 この問いに、石ノ森章太郎氏は『サイボーグ009』「海底ピラミッド編」で答えている。時を旅して歴史を変え、人類の進化を促してきたサン・ジェルマン伯爵に、ジョーたちは相談、いや、お願いをした。
 「地球人はたぶんアンタの"干渉"のおかげで――技術だけを早く進化させ過ぎた……!精神(こころ)の発育がそのスピードについて来れなかった……。このままでは生物として不完全になる!――そう……地球人はもうアンタのドレイじゃないんだ。――ひとりでやっていけるほどに成長しているかどうかはわからないが……とにかくこれ以上"干渉"はしてもらいたくないんだ!!」


 ミステリアスにはじまった『果しなき流れの果に』は、「エピローグ(その2)」の後、目まぐるしく舞台が変わっていく。登場人物は、厳しい訓練の末に上位の(超常)能力を使えるようになる。
 そして舞台は、ときに恐竜が闊歩する白亜紀や人類が誕生する原始の時代に移り、ときに人類の後に別の生物が文明を築いた遠い未来の地球に移る。紀元前の日本列島や、第二次世界大戦の空襲中の神戸が描かれ、古墳時代で墳墓にカモフラージュした基地を建設したり、戦国時代で大名たちを手玉に取ったり、さらには25世紀へ、45世紀の未来へ、宇宙へと飛ぶ。

サイボーグ009その世界 (1978年) 石ノ森章太郎氏は、『サイボーグ009その世界』の「あとがき」[*1]にて、神々に追い詰められたサイボーグ戦士たちの物語が、後半から格段にスケールアップすることを示唆していた。
 「001の指導で、00ナンバーたちの超人への"脱皮"が始まる。やがて……改造人間の超能力者――超能力戦士・エスパー・サイボーグの誕生だ……!
 ここから物語は――高山に海底に、そして宇宙空間へと広がる"超人"たちと"神々"との闘いになり……一転、二転、意外な展開をし……アルマゲドン(最終戦争)へと突入する――。(略)舞台は、ミクロの――精神の世界からマクロの大宇宙の果てまで、とスケールも大きくなる……。」

 「神々との闘い編」連載第5回や連載第10回は、心の中の探索に費やされた。石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」の世界を時間的、空間的に広げるだけでなく、インナースペース(内宇宙、精神の世界)をも扱うことで、『果しなき流れの果に』を超えようとしたのだろうか。
 「神々との闘い編」で描かれた心の中の探索は、とびきり観念的で、読者には理解しにくく、受け入れがたい描写だったと思う。後年の『サイボーグ009』では、心の中の探索を人情噺と絡めることで娯楽性を高める試みがなされている。それは、1980年の「ザ・ディープ・スペース編」において、石ノ森流インナースペースの旅として一応の完成を見たようだ。


 『果しなき流れの果に』は、パラレルワールドを転々とすることで、人類の様々な運命を見せている。ある世界では滅亡の危機を迎え、またある世界では新天地を求めて他の恒星系に進出していく。
 「移民編」以降の『サイボーグ009』では様々なエピソードが語られ、相互に矛盾が生じることもあったが、作者が矛盾を意に介さなかったのは、『果しなき流れの果に』の手法にならってパラレルワールドとして扱うつもりだったのかもしれない。

 また、『果しなき流れの果に』では、歴史を変えようとする者たちが様々な時代、様々な場所にオーパーツを仕掛けていき、歴史の改変を許さない者たちがオーパーツを抹消する、その攻防が描かれているが、『サイボーグ009』も「神々との闘い編」のあたりからオーパーツが物語上の欠かせないアイテムになっていく。それは最終長編となった「時空間漂流民編」(1985年~)でも変わらない。

 『果しなき流れの果に』の終局においては、主人公の親子関係と、彼が孤児になった経緯が明かされる。なんと、戦いの相手は自分の親だったのだ。
 この展開に、石ノ森ファンはニヤリとするに違いない。戦いの相手が親だった、兄妹だった、そんなパターンの石ノ森作品がなんと多いことか。
 石ノ森章太郎氏は、生前、『サイボーグ009』の完結編ではジョーの親についても明かされ、ジョーが少年鑑別所に入った経緯も明らかになると語っていた……。


■ますます影響を受けた「2012 009 conclusion GOD'S WAR」

 『果しなき流れの果に』から多くの影響を受けたとおぼしき『サイボーグ009』だが、「天使編」や「神々との闘い編」の段階ではまだ取り入れていない要素があった。作者自身の登場である。

 砂時計の謎を追う史学部の教授――番匠谷教授――は、名前こそ「小松」ではないものの、でっぷり肥って、太い黒縁の、ボックス型の眼鏡をかけて、精力的に多方面で活躍しているというプロフィールから、小松左京氏自身の投影とみて間違いなかろう。放送メディアへの出演も多かった小松左京氏は、『果しなき流れの果に』の中に、番匠谷教授がテレビを通して時空を超えたメッセージ――警告――を発信する描写を織り込んだ。

 すでに明らかになっているように、「2012 009 conclusion GOD'S WAR」には石ノ森章太郎氏自身が登場するはずだっだ。20世紀に生きる石ノ森氏(石ノ森氏の没年は1998年)が、21世紀のイワン(001)から時空を超えたメッセージ――警告――を受け取り、その内容をマンガを通して発表するという構造で語られるはずだっだ。
 「神々との闘い編」の連載中止以降、石ノ森章太郎氏の頭の中で完結編の構想が変化するなか、これは『果しなき流れの果に』からの影響が強化された部分といえよう。

 一方で、「怪物島編」以降の、相互に矛盾が生じていた数々のエピソード(「移民編」や「天使編」等を含む)は、イワンのメッセージに刺激された石ノ森章太郎の"創作"だったということで片付けられた。


サイボーグ009 (第10巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)■「万物に生きる意志あり 生きる権利あり 死を選ぶ自由あり」

 「天使編」で言葉のみ語られた「収穫」も、『果しなき流れの果に』を読んでいると実態が判る。

 「天使編」の「神」は、人間を造ったのは自分たちであり、「収穫」に来たのだと告げる。ゼロゼロナンバーサイボーグたちは、「収穫」とはいったい何か話し合うが、「神」の真意がどこにあるかは判らない。

 その「収穫」を、明確に描いていたのが『果しなき流れの果に』だ。
 そこでは「収穫」の様子と、「収穫」された後の人類が描かれる。
 宇宙と生命とその進化を管理し、収穫する者たちのソサイエティと、収穫された者の運命が、人類の惨めでむごたらしい境遇が、次々と明らかになる。

 「レジスタンス…抵抗だ!」
 「収穫」が何か判らないながら、「神」と闘う覚悟を決めたジョー(009)は云う。

 この言葉は、『果しなき流れの果に』の「収穫」の実態が念頭にあると、受ける重みが全然違う。収穫後の悲惨な運命を知っていれば。
 石ノ森章太郎氏は、『果しなき流れの果に』の人類が何も知らずに「収穫」されて、惨めな境遇に突き落とされたことから、せめて自作では抵抗する姿を描こうとしたのではないか。「神」と「収穫」を巡るサイボーグたちの議論は、もしも『果しなき流れの果に』の登場人物たちが「収穫」されるかどうかをあらかじめ選べたのなら、必ずしや交わしたであろう会話になっている。
 人間の進化を管理し、収穫するなど絶対に許してはならない。そう思わせるだけのインパクトが、『果しなき流れの果に』にはあったのだ。

 だからこそ石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」の小松博士のいまわの際に「神は悪魔……!」と云わせたのではないか。
 そして、石ノ森章太郎氏の思いは――。

 ……人間を見守り、ときに干渉する超越者――そのような存在を想定する文化が、真に健全なものといえるだろうか。
 世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中の、あらゆる神々と闘うということは、世界中の伝説、神話、そして信仰を生み出してきた文化と闘うということだ。世界中で伝説、神話、そして信仰を生み出してきたもの、今も生み出し続けるもの、それは世界中の人間であり、人間の文化である。
 これと闘わなければ、闘って「神々」を生み出す文化を、人間の性質を改めなければ、「神々」はいなくならない。

 「神々」と闘うということは、そういうことではないだろうか。

 「ああ なんじらわが同胞よ
  まことはわが造りしかかる神は
  一切の神々と等しく 人間の
  作為であり 狂想であったのだ!
  この神は人間であったのだ
  しかも 人間と自我との貧弱な
  一部分であったのだ」
 石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」連載第2回にニーチェの著書『ツァラトストラかく語りき』のこの部分を引用した。[*2]


 平井和正氏が『幻魔大戦』を小説化した際に高次の宇宙意識体として書いたフロイを、石ノ森章太郎氏はマンガ『幻魔大戦』(1967年)で犬のような異星人として描いた。マンガのフロイは、ちょっと大柄のセントバーナードにしか見えないのだ。この描き方に、きっと平井和正氏は落胆し、不本意に感じたことだろう。
 同じく平井和正氏が原作を提供した『エリート』(1965年)では、作画の桑田次郎氏は、有史以前から人類を見守ってきた宇宙生命体アルゴールを虚空に浮かぶ巨大な眼として表現した。平井和正氏がフロイに期待したのも、こういう抽象的で宇宙的スケールを感じさせる表現だったに違いない。それを、居間に寝そべる犬にしてしまうのが、石ノ森章太郎らしさなのだ(逆に、後年宗教方面に進んだ桑田次郎氏の場合は、桑田次郎らしさだったかもしれない)。

(石ノ森作品において、犬はある種特別な存在である。そのことについては稿を改めて述べたい。)


Sπ エスパイ (虫コミックス)■地球全体のような存在

 石ノ森章太郎氏と小松左京氏には浅からぬ関係がある。
 石ノ森章太郎氏は、小松左京・平井和正原作のテレビ番組『宇宙人ピピ』のマンガ化(1965年)を手がけているし、1967年には、小松左京著『エスパイ』(1964年)の題名をもじったマンガ、『Sπ』の連載も行っている。
 『エスパイ』は、エスパーのスパイで構成された秘密組織「エスパイ国際機構」の活躍を描くSFスパイ小説。『Sπ』はこれとは関係なく、πナップル日本支部に属するエージェントの活躍を描くドタバタ・スパイアクションだ。内容的にもまるでかぶるところがないのだが、わざわざ『エスパイ』をもじった題を持ってくるところに小松左京氏への敬意と親愛が感じられる。虫コミックス版の作者の言葉には、このマンガは『エスパイ』とは大違いで…、なんてエクスキューズが書いてある。
 一方で、小松左京氏は、1966年にコダマプレスから発行された石ノ森氏の『ミュータントサブ』の作品解説を引き受けている
 『サイボーグ009』の「移民編」と「天使編」執筆のあいだには、両氏の対談も行われ、石ノ森氏の「ぜひ一度、小松さんの原作をもらって、ぼくなりにまた新しい形のまんがをつくりだすという作業をやってみたい」という言葉に、小松氏は「やっぱりSFでいきましょう」と応じている(「対談 ジュンを語る」『COM』1968年8月号)。その言葉を実践するように、石ノ森章太郎氏は、小松左京氏の短編小説『くだんのはは』(1968年)のマンガ化(1970年)も行った。


 「神々との闘い編」の後半、連載第11回には、009と004がミノタウロスのような牛頭人身の怪人と対峙するシーンがある。
 石ノ森氏はこの連載を「長い物語の中から順序も部分も考えずに、ゆきあたりバッタリに思い出して描いていた(略)。何年かのち、あらゆる部分を描き終わったらそれをハメ絵パズルのように並びかえて、一冊(あるいは二冊)の単行本にまとめるとちゃんとした物語になっている」[*3]という描き方で進めていたため、牛頭人身の人物が何者で、なにゆえサイボーグ戦士と対峙したかは判らない。
 だが、もしかするとこの牛頭人身の人物は、ミノタウロスではなく「くだん」なのではあるまいか。

 「くだん」とは日本各地に伝えられる人面牛身の妖怪だが、小松左京氏の小説『くだんのはは』に出てくるのは、そして石ノ森章太郎氏がマンガに描いた「くだん」は、牛頭人身なのだ。

 石ノ森章太郎氏がマンガ化した『くだんのはは』は、『別冊少年マガジン』の1970年4月号に掲載された。これは『COM』に「神々との闘い編」を連載している真っ最中。1970年4月号といえば、「神々との闘い」ではちょうど物語のターニングポイントとなる、001の指導がはじまる回だった。

 「神々との闘い」の最終回と石ノ森氏の「休載のことば」が『COM』に掲載されたのは1970年12月号。
 奇しくも、同じ1970年12月号の『S-Fマガジン』には、石ノ森章太郎氏がSF作家を題材にしたマンガ『7P』の最終回が掲載されていた。その1ページ目に描かれたのが小松左京氏。そこには、丸い地球がそのまま小松左京氏の顔になった絵があった。石ノ森章太郎氏が、小松左京氏を地球全体のような大きな存在として見ていたことがよく判る。


■もう一つのオールタイムベスト

 「神々との闘い編」は、そのテーマ、構成、時間的・空間的な広がりと、どこから見ても『果しなき流れの果に』を意識したことは明白だ。
 だが、「神々との闘い編」のプロット――超人的なサイボーグ戦士が一人ずつ不可解な事態に直面するエピソードが続き、全員揃ったところで物語が大きく転がりだす流れ――は、もう一つの傑作小説からの影響を感じさせる。日本SFのオールタイムベストを『果しなき流れの果に』と争う傑作、光瀬龍氏の『百億の昼と千億の夜』だ。
 『百億の昼と千億の夜』では、"超人"たちがそれぞれアトランティスの滅亡や、何億年も続く永劫の戦いといった驚くべき事態を目撃するエピソードが続く。そして彼ら"超人"が一堂に会した後、神や文明、進化、そして宇宙の謎を巡って物語が大きく転がりだす。

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA) プロットだけではない。
 『果しなき流れの果に』は壮大で読み応えがあるものの、難解ではない。一方、『百億の昼と千億の夜』は観念的な描写や示唆に留まる記述が多く、読みとおすにも骨が折れる(個人の感想です)。
 また、小松左京氏が壮大なドラマの中にも人情味や生活感を漂わせるのに対し、『百億の昼と千億の夜』はただ無常観に貫かれている。
 「神々との闘い編」が『サイボーグ009』の中でもとりわけドラマ性が希薄で、難解に感じられるのは、その"雰囲気"までも『百億の昼と千億の夜』に感化されたからではないか。


■天才の挑戦

 はるかな過去とはるかな未来を行ったり来たりした『果しなき流れの果に』は、最後に"現代"にたどり着く。そして物語は、今を生き、今を死ぬことに集約され、思いがけぬ感動が待っている。

 その構成に接して、私は「神々との闘い編」と同じく『COM』に連載されたもう一つの壮大なマンガのことを思わずにはいられなかった。手塚治虫氏の『火の鳥』だ。

 漫画少年版(1954年~1955年)や少女クラブ版(1956年~1957年)の『火の鳥』は、永遠の命を得た主人公を軸にして、歴史を順にたどっていく構想だったと思われるが、1967年に『COM』ではじまった『火の鳥』は、「黎明編」で日本の歴史のはじまりを描いた後、次の「未来編」で人類の後に別の生物が文明を築く遠い未来の地球を描いた。そして「ヤマト編」では古墳時代が、「宇宙編」では人類が他の恒星系に進出した26世紀が描かれた。
 作者他界のため未完に終わった『火の鳥』は、遠い過去と遠い未来を描いた後に、徐々に近い過去、近い未来のエピソードを紡ぎ、最後は"現代"の作者にたどり着く構想であったという。

火の鳥【全12巻セット】 「私は、新しいこころみとして、一本の長い物語をはじめと終わりから描き始めるという冒険をしてみたかったのです。」
 「最後には未来と過去の結ぶ点、つまり現代を描くことで終わるのです。それが、それまでの話の結論に結びつき、それが終わると、黎明編から長い長い一貫したドラマになるわけです。したがって、そのひとつひとつの話は、てんでんばらばらでまったく関連がないように見えますが、最後にひとつにつながってみたときに、はじめてすべての話が、じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています。」[*4]

 手塚治虫氏のこの構想は、あたかも過去や未来を目まぐるしく旅した『果しなき流れの果に』のエピソードを、一つひとつじっくり描こうとするかのようだ。そして『果しなき流れの果に』と同じテーマ――神とはなにか?、歴史とは?、文明とはなんだ?、そして人間とは?、生命(いのち)とは?、死とは?という「神々との闘い編」に通じるテーマ――を、手塚治虫氏なりに探求するものに思える。

 私はCOM版「黎明編」からはじまる『火の鳥』も、『果しなき流れの果に』に触発された作品だと考えている。
 それに、手塚氏の「てんでんばらばらでまったく関連がないように見えますが、最後にひとつにつながってみたときに、はじめてすべての話が、じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています」という言葉と、石ノ森氏の「長い物語の中から順序も部分も考えずに、ゆきあたりバッタリに思い出して描いていた(略)。あらゆる部分を描き終わったらそれをハメ絵パズルのように並びかえてまとめるとちゃんとした物語になっている」という言葉は、相似形としかいいようがない。

 石ノ森章太郎氏が「天使編」を中止し、描き直しを企てた理由は、ここらへんにもありやしないか。


 「神々との闘い編」執筆前のSF界、マンガ界の状況を見てみよう。
 この時期は、歴史に残る傑作が次々に誕生していた。

 「神々との闘い編」執筆までの石ノ森作品と類似テーマの作品
1964年
 『幼年期の終り』 1964年、本邦初訳
1965年
 『果しなき流れの果に』小松左京 『S-Fマガジン』1965年2月号から11月号に連載、1966年7月に単行本
 『百億の昼と千億の夜』光瀬龍 『S-Fマガジン』1965年12月号から1966年8月号に連載、1967年1月に単行本
1966年
 「地下帝国ヨミ編」 『週刊少年マガジン』1966年30号~1967年13号
1967年
 『火の鳥』「黎明編」 『COM』1967年1月号~1967年11月号
 『幻魔大戦』 『週刊少年マガジン』1967年18号~52号
 『火の鳥』「未来編」 『COM』1967年12月号~1968年9月号
1968年
 「移民編」 『冒険王』1968年2月号~1968年5月号
 『2001年宇宙の旅』 日本公開1968年4月11日
 『猿の惑星』 日本公開1968年4月13日
 『火の鳥』「ヤマト編」 『COM』1968年9月号~1969年2月号
1969年
 『章太郎のファンタジーワールド ジュン』1969年2月号を最後に石ノ森氏の申し出により連載中止
 「天使編」 『冒険王』1969年2月号~1969年6月号
 『火の鳥』「宇宙編」 『COM』1969年3月号~1969年7月号
 『リュウの道』 『週刊少年マガジン』1969年14号~1971年52号
 『火の鳥』「鳳凰編」 『COM』1969年8月号~1970年9月号
 「神々との闘い編」 『COM』1969年10月号~1970年12月号
 ※ 一般的に月刊誌の1月号は前年12月に発売されるものだが、ここでは雑誌記載の年次にしたがい分類した。

 1964年に世界のSF史に残る傑作『幼年期の終り』の日本語訳が発行され、翌1965年には日本SFの最高傑作『果しなき流れの果に』が、少し遅れて同年末にそれに匹敵する傑作『百億の昼と千億の夜』の連載がはじまった。『果しなき流れの果に』、『百億の昼と千億の夜』ともに連載終了の翌年には単行本になっている。
 石ノ森章太郎氏がSF大作『幻魔大戦』を共作して平井和正氏のSFマインドを浴びていた頃、『COM』ではマンガ史に残る傑作『火の鳥』「黎明編」がはじまっている(石ノ森氏も、「黎明編」の連載と時を同じくして『COM』に『章太郎のファンタジーワールド ジュン』を開始している)。
 そして『火の鳥』「未来編」を追うようにして、『サイボーグ009』「移民編」の連載開始。同年、『幼年期の終り』のアーサー・C・クラークの原作を得て、映画史に残る傑作『2001年宇宙の旅』が公開される。いまだにシリーズの新作がつくられる人気作品『猿の惑星』も同月に公開され、人類の後に別の生物が文明を築いた世界を見せた。
 1969年、石ノ森章太郎氏が「天使編」を連載していた頃、『火の鳥』は「ヤマト編」を経て「宇宙編」に突入し、そのクライマックスを迎えようとしていた。ここで、石ノ森氏は「天使編」を中断させてしまう。


 傑作『幼年期の終り』や『果しなき流れの果に』にインスパイアされて「天使編」を描きはじめてみたものの、「天使編」はエピソードが時系列に並び、一本調子に進んでいく判りやすい物語だ。
 他方、横目で『火の鳥』を見ていた石ノ森氏は、これもまた『果しなき流れの果に』にインスパイアされた、しかも『果しなき流れの果に』のように過去と未来を行き来して、さらに物語を雄大に膨らませた、挑戦的な作品であることに気づいたはずだ。

 史上最高の傑作が続々登場するのを前にして、天才・石ノ森章太郎[*5]は何を考えたか。

 彼は、『果しなき流れの果に』のスケールと『百億の昼と千億の夜』の深遠さと『火の鳥』の大胆な構成をすべて取り込み、すべてを超越する、最高にスケールが大きく、最高に深遠で、最高に複雑な物語に挑戦しようとしたのではないだろうか。それが「神々との闘い」だったのではないだろうか。


生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎■誠意ある仕事

 晩年ですら、膨大な量の原稿を執筆しながら、寝る前に必ず小説を一冊読むか映画をビデオで一本観ていた石ノ森章太郎氏。[*6]
 たいへんな読書家として知られ、先行作品を貪欲に取り込んだ石ノ森氏が、何を読み、何を目にしていたか。石ノ森作品を考える上で、それはぜひ知っておきたいところだろう。

 『サイボーグ009』のことを、特に「神々との闘い」のことを考えるとき、私はそんな風に思っていた。

 最後に、『サイボーグ009』をはじめ数々の石ノ森原作アニメの脚本を手がけた辻真先氏が、石ノ森章太郎氏について語った言葉を紹介してこの稿を閉じたいと思う。[*7]
---
さらに、独自のコアみたいなものがあるのはすごいですね。石ノ森さんが仮に「あいつ、うまいな」って誰かをマネしたとしても、オウムがマネをしているうちに自分の声を忘れてしまうことにはならない。ブレない独自のコアがあるから、いろいろなことができる。それが作家としてはうらやましいし、読者としては「次も新しいものを描いてくれるだろう」と安心して読める理由になっていました。石ノ森さんは最後まで、読者に損をさせない、誠意ある仕事をしていましたよ。
---


[*1] 「サイボーグ009"その世界"のこれから」『サイボーグ009その世界』の「あとがき」1978年発行

[*2] ニーチェ 『ツァラトストラかく語りき』 竹山道雄訳 新潮文庫 1953年1月13日発行
 コメント欄の補足も参照願いたい。

[*3] 「休載のことば」 『COM』1970年12月号

[*4] 「『火の鳥』と私」 『火の鳥』「未来編」1968年12月20日発行

[*5] 『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』(2018年8月22日発行)収録のインタビューで
 ――これが石ノ森章太郎という萬画家をもっとも表現している、と思う石ノ森作品を問われた藤子不二雄A(安孫子素雄)氏曰く、
 「石ノ森章太郎は天才的漫画家です。彼の描いたすべての作品が、代表作といえましょう!」

 ――作家としての石ノ森先生をどのようにみているか問われた、さいとう・たかを氏曰く、
 「天才です。私は章太郎のファンでしたからね。よく本人にも言いましたよ、『おまえは天才で、俺は職人だ』って。」

[*6] 1989年5月から石森プロに参加した早瀬マサト氏のインタビューから 『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』収録 2018年8月22日発行

[*7] 辻真先氏のインタビュー 『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』収録 2018年8月22日発行


サイボーグ009 ― オリジナル・サウンドトラック Vol.1 石ノ森章太郎 萬画音楽第全集5サイボーグ009』 [本]
作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加


関連記事

【theme : 漫画
【genre : アニメ・コミック

tag : 石ノ森章太郎小松左京

⇒comment

補足

本文で紹介したニーチェの『ツァラトストラかく語りき』の言葉について少し補足したい。

石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」連載第2回において、まず18世紀の英国の詩人アレキサンダー・ポープの『月について』の一部を引用し、宇宙にいるのは地球人だけではないこと、神の創造は地球だけに留まらないという考え方を示した。
当該ページには、引用元として「アレキサンダー・ポープ『月について』上田彦二訳 早川書房刊より」と書かれている。だが、実際には早川書房からアレキサンダー・ポープの『月について』という本は出版されていない。引用元になったのは、科学ジャーナリスト、ウォルター・サリヴァンの『われわれは孤独ではない 宇宙に知的生命を探る』(原題『WE ARE NOT ALONE』、上田彦二訳、早川書房 1967年11月15日発行)であり、宇宙と地球外生命体に関する人類の考え方の変化の歴史を解説した章に、歴史的文献の一例としてポープのエッセイが紹介されているのだ。ウォルター・サリヴァンの著書は、生命誕生の仕組みや生物進化、オズマ計画に、異星人との交信において想定すべき言語学までカバーし、さらに異星人との接触に備えて地球人が構築しておくべき文化――精神、思想――のあり方にまで言及した労作だ。この本から引用したということは、石ノ森氏は「神々との闘い編」においてかなり本気でファーストコンタクト――という未曽有の事態に人間は耐えられるのか――を描くつもりであったのだろうと考えられる。

次に引用したのは『ヴェーダ』であり、天と地を造り、命を与え、力を授けた神は何者かと問い、神の正体について疑問を投げかけた。

そして第三に、ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』の言葉を引用し、神とは人間が造ったものであることを示した。人間が――真理に到達しようとしない人間の無智の疲労が――、すべての神々を創造(想像)し、「あの世」とか「天国」といった概念を作り出したのである。
(とはいえ、いきなり「一躍もて、死の一躍もて最終に到達せんと欲する疲労、また、もはや意欲することを意欲せざるあわれむべき無智の疲労――之がすべての神々を造り、背世界を造ったのである」なんて引用文を掲げられても、『ツァラトストラかく語りき』のせめて第一部だけでも読み通してなければ、読者には意味が判るまい。石ノ森氏は、自分の考えはおいおい作品を通してまとめるとして、まずは思考のヒントになった断片を(判る人には判るように)書き留めておきたかったのだろう。「神々との闘い編」が自分の原点だと語る押井守監督も、同様の手法を好んで使っている。
なお、ここに引用した文は「死後は天国にいくとか、真理をみずから見出そうとしない安易な発想が、神様とか天国(現実に背を向けた虚妄の世界)といった妄想を創り出したのだ」くらいの意味。)

これでもって、「神とはなにか?」という疑問には答えが出ている。ニーチェのこの言葉を引用したなら、もう神について考察する必要はないはずだ。

ところが、石ノ森章太郎氏はこれで終わらせなかった。
ニーチェの言葉は、夜空の月の絵ともとに書かれているのだが、このコマの次のコマではグレート(007)が室内で本を読んでおり、「『ツァラトストラかく語りき』…か!」と云っているのだ。次のコマの存在により、ここまでの引用文はグレートが読み上げていたものとして位置づけられる。
注目すべきは、「…か!」というセリフであり、グレートにこれを云わせたことで、引用された文は突き放され、遠ざけられる。作者石ノ森章太郎と引用文とのあいだには、一定の距離が空いてしまうのだ。

神(神々)については疑問を呈しながら、精神の世界や超能力等には心惹かれる石ノ森章太郎氏は、ニーチェが『ツァラトストラかく語りき』で述べたような、徹底して目に見える(現実に存在することが確かめられる)肉体に依拠する哲学に賛同しきれなかったのだろう。
その気持ちが、わざわざ『ツァラトストラかく語りき』を引用しながら、直後に「…か!」というセリフを付け加えさせてしまったのだと思う。

では、石ノ森章太郎氏は"神"を、"神々"を、どのように説明しようとしていたのか。それを知る機会が永遠に失われたのは、かえすがえす残念だ。
現代の科学が説明する「神が生まれるメカニズム」↓をどう思うか、感想を聞いてみたかった。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-369.html

神々との闘い編・天使編

始めまして、サイボーグ009の神々との闘い編・天使編の元ネタが気になっていて、
たまたま検索でたどり着き、参考にさせていただきました。
感謝です。
1日に10名程度のアクセスしかないブログですが、
記事にリンクを貼らせていただきましたので、ご連絡いたします。

Re: 神々との闘い編・天使編

りゅうさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。

「神々との闘い」は『サイボーグ009』の中で、いや石ノ森章太郎作品の中でも、最高峰に位置すると思います。それくらい「神々との闘い」という作品は、考え出すと頭から離れませんね。
参考になったなら何よりです。

No title

石ノ森氏が書いた家畜テーマなら家畜人ヤプーも取り上げては。というか果てしなきの搾取する神々ってようは植民地主義を肯定する白人で小松はそれを否定しようと思いつつも、しょせん欧米ナイズされた近代人だから否定しきず支配から逃れたHAPPYENDを書けずにBADENDでしか書けなかったんじゃ。
あとクラークの幼年期の終わりがクラークにとってHAPPYENDかってのも疑問。ラブクラフトの影響で書いたBADENDなコズミックホラーとも読める。オーバーマインドとオーバーロードという二種の宇宙人を描いてたうえで同じようなオーバー付きの名を与えてる点からしてもオーバーマインドへの進化を必ずしも肯定してるわけでなく別の生き方としてオーバーロードを示してるともとれる。クラークもまた植民地主義(優性思想もかな)を手放しで肯定も否定もできない迷える現代人だったんだと思ってる。

No title

009歴40年になりますが
今まで読んだ009の解説で一番素晴らしいです。
Secret

⇒trackback

  トラックバックの反映にはしばらく時間がかかります。ご容赦ください。


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

最新の記事
記事への登場ランキング
クリックすると本ブログ内の関連記事に飛びます
カテゴリ: 「全記事一覧」以外はノイズが交じりますm(_ _)m
月別に表示
リンク
スポンサード リンク
キーワードで検索 (表示されない場合はもう一度試してください)
プロフィール

Author:ナドレック

よく読まれる記事
最近のアクセス数
スポンサード リンク
コメントありがとう
トラックバックありがとう
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
携帯からアクセス (QRコード)
QRコード
RSSリンクの表示