『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【中編】

サイボーグ009 (第7巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)(前回から読む)

■『サイボーグ009』の完結編はどれ?

 『サイボーグ009』は何度も完結しそこなっている。

 新編集長が打ち出した頑迷な方針のため『週刊少年キング』の連載が打ち切られた後、石ノ森章太郎氏は「ミュートス・サイボーグ編」の単行本化に当たって20ページも加筆し、一応の結末を示した。
 翌年、ラインナップを多様にするためSFを欲していた『週刊少年マガジン』[*1]に迎えられてはじまった「地下帝国ヨミ編」は、完結編としての意気込みに相応しい傑作だった。石ノ森章太郎氏が完結編のつもりで描いた「地下帝国ヨミ編」をもって『サイボーグ009』の完結と捉えるファンもいるだろう。だが、その後石ノ森章太郎氏自身の手で続きが描かれた以上、今「地下帝国ヨミ編」を完結編と呼ぶのは適切ではあるまい。

 掲載誌を『冒険王』に移した後、いくつかの中編を経てはじまった「天使編」(1969年2月号~1969年6月号)は、作者みずから"いままでの総決算ともいうべき構想ではじめた「長いすさまじい最後の戦い」の記録"と呼ぶ作品だったが、物語のターニングポイントとなる、001の指導がはじまるところで中断。
 だが、ほとんどすぐに、「天使編」は「神々との闘い」に形を変えて『COM』誌上で再開(1969年10月号~1970年12月号)した。本来ならば、『サイボーグ009』は「神々との闘い編」をもって完結していたはずだ。ところが、おそらく『サイボーグ009』史上はじめて、読者の支持が得られない、人気が出ない事態に陥り、連載半ばにして休載せざるを得なくなる。

 その後発表されたおびただしいエピソードは、いずれも番外編の位置づけであり、完結編そのものは作者のたび重なる読者への約束にもかかわらず、遂に描かれずじまいだった。
 したがって、現在『サイボーグ009』の完結編といえば、タイトルが発表されただけで終わった「2012 009 conclusion GOD'S WAR」のことであり、その内容をうかがわせるものとして「2012 009 conclusion GOD'S WAR」の原型であろう「神々との闘い編」、さらにその原型である「天使編」を含めたフワッとしたものを指す。
 石ノ森章太郎氏の構想ノートや断片的な原稿を踏まえた、小野寺丈氏の手による小説『サイボーグ009 完結編』とそのマンガ化作品も存在する。

 「天使編」、「神々との闘い編」、そして「2012 009 conclusion GOD'S WAR」が、語り口こそ違えども、内容は同じようなものであったろうことは、以前の記事で述べたので、ここでは割愛する。
 本稿で論じたいのは、「天使編」や「神々との闘い編」そして「2012 009 conclusion GOD'S WAR」の発想がどこから来て、どんな形になるはずだったかということだ。


サイボーグ009 (第10巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)■「天使編」の正体

 「天使編」の元ネタを探るのは容易い。天使のような翼が生えた異星人が出てくる作品は、そう多くないからだ。

 人類が他の知的生命体によって生み出され、育成されているというアイデアのことを<人類家畜テーマ>と呼ぶが、「天使編」は<人類家畜テーマ>の傑作として名高いアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』が下敷きだと考えられる。
 「天使編」に出てくる凶暴な猿人たちの描写には、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』の影響もあるだろう。『2001年宇宙の旅』と同時期に公開された『猿の惑星』の要素も取り入れたのかもしれない。[*2]

 おっと、『幼年期の終り』に"天使"は出てこない。それは判っている。石ノ森章太郎氏が素晴らしいのは、アレンジの仕方だ。

 ――大国間で軍事目的の宇宙開発競争が過熱していた頃、地球に多数の円盤が飛来し、異星人が現れる。彼らはなんと背中に黒い翼が生えた"悪魔"の姿をしていた。彼らオーバーロードは人類を指導し、人類の次なる進化を促す。やがて人類は、オーバーロードさえ到達できない、オーバーマインドへと進化していく……。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341)) というのが『幼年期の終り』の設定だが、石ノ森章太郎氏は自作に取り込むに当たって、「人類に奉仕する」「悪魔のような姿形の異星人が」「円盤でやってきて人類の進化を促す(進化できなかった者たちは滅ぶに任せる)」という内容の『幼年期の終り』を、「人類を生み出した」「天使のような姿形の異星人が」「円盤でやってきて人類の出来の悪さに失望し、滅ぼそうとする(進化の"やり直し"に選んだ一部の者たちは実験用に生かしておく)」という形でことごとく反転させた。実に上手いアレンジだと思う。
 それは、異星人(超越者)の手によって別の存在へ"進化させられる"ことがハッピーエンドであるとした『幼年期の終り』への、異議申し立てでもあったろう。


 こうしてみると、「天使編」が中断してしまった理由はよく判る。
 『幼年期の終り』は、オーバーロードの助けを借りて人類が次の段階に進化するところで終わってしまうからだ。『幼年期の終り』のオーバーロードは人類の味方だから、彼らと戦う必要はない。次の段階に進化することは、アーサー・C・クラークとしてはある種のハッピーエンドだった。
 けれども、人類の進化に介入する異星人を敵と見なした「天使編」では、異星人との決戦こそがクライマックスになるはずだ。ゼロゼロナンバーサイボーグたちがイワン(001)の助けを借りて*みずから*進化することは、過程にすぎない。
 ところが、進化した後のことなんてアーサー・C・クラークは書いていない。かろうじて、進化するときの壮絶なイメージシーンはあるけれど、それを『サイボーグ009』に取り込んでも話が続かない。
 絶妙なアレンジャーだった石ノ森章太郎氏が、ここで筆が止まってしまったのはもっともだと思う。

 もちろん、「天使編」をはじめたときは、もっと描き続けられるはずだったのだろう。『幼年期の終り』をベースにして導入部を描き終えたら、別の先行作品に乗り換えて元ネタにするつもりだったに違いない。しかし、判りやすい冒険マンガが求められる掲載誌の性格もあって、壮絶なイメージシーンを連発するわけにもいかず、中断とあいなるわけだ。


サイボーグ009 (第9巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)■受け継がれる"神々"との闘い

 異議申し立てといえば――。

 「神々との闘い編」の中断から8年後、1978年に発行された『サイボーグ009その世界』の「あとがき」[*3]によれば、三度目の挑戦となる「神々との闘い」(完結編)は、第一部「天使編」(もちろん『冒険王』に連載された既出の「天使編」とは別物だろう)と第二部「悪魔編」から構成され、世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中の、あらゆる神々と、サイボーグ・ナンバーとの"生と死とを賭けた壮絶な最後の闘い"となるはずだった。

 既出の「天使編」は、同タイプの天使が複数いただけだから、「あらゆる神々」ではない。あの段階では「"神"との闘い」と呼ぶべきだった。
 中断した「神々との闘い編」では、異星人を目撃した世界各地の古代人が、それぞれの地域で目撃した事象を"神"の事績として伝承し、それがこんにちの世界中の伝説、神話、そして信仰の対象になっていることが示唆された。したがって、古代から人類に干渉してきた異星人と闘うのは、世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中のあらゆる神々と闘うことでもあった。

 あらゆる神々と闘う――そのモチーフは、「天使編」の前年、1968年に発表された「ローレライの歌編」ですでに宣言されていたと思う。このエピソードに"神々"は出てこないが、あらゆる神々――世界中の伝説、神話、そして信仰の対象――と闘わねばならない理由が明らかにされている。

 ――かつて迷信に支配された村人に魔女と呼ばれて肉親を殺され、自身も大怪我をさせられた女性がいた。村人に復讐するために生き延びた彼女は、優れた科学者になると、みずからの発明を使って村を襲い、人々を恐怖に陥れた。そんな彼女に、ジョー(009)は異議を申し立てる。
 「…あなたの気持ちはわかる!でもぼくはやっぱり間違っていると思う。一つの憎しみはまた一つの憎しみを増やすだけなんだ!憎むのなら、迷信を、人々の理性を奪った迷信を憎むべきだった!そして…この村から迷信をなくすことを考えるべきだった!今の行動は、また一つ迷信を…間違った考え方を人々の心に植え付けるだけなんだ!」

 そう、『サイボーグ009』に出てくる神々は――神を自称し、あるいは神を模し、ときに神と目されることもあるが、ただそれだけの存在だ。
 ギリシャ神話の神々をかたどった「ミュートス・サイボーグ編」のサイボーグたちはもとより、地底人に神と崇められる「地下帝国ヨミ編」のブラック・ゴースト、その総統である魔神像の中の頭脳や、旧約聖書のモーゼに扮した「中東編」の老人や、「天使編」「神々との闘い編」「海底ピラミッド編」の異星人、「エッダ編」の時間旅行者、「アステカ編」の科学者、「イシュタルの竜編」の古代人のクローンと、いずれも一皮むけば、進んだ科学を有するだけの文明人であった。

 こうして『サイボーグ009』は、完結編こそ描かれないまでも、シリーズを重ねながらギリシャ神話、アブラハムの宗教、ゲルマン神話(北欧神話)、アステカ神話、メソポタミア神話等の世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中の神々を取り上げて、その化けの皮を剥がし、迷信から人々を解放しようとした。


 ときにはゼロゼロナンバーサイボーグ自身が神になる。
 「神々との闘い編」連載第4回では、アフリカで密猟監視官を務めるピュンマ(008)と、無知のために禁猟区を侵した原住民の娘との恋が語られる。病気の父のために禁猟区でオカピの心臓を集めていた彼女について、ピュンマは仲間たちに打ち明けた。
 「彼らの間に数かぎりなくある迷信のひとつを……頭から信じてやったことだったのだ。ぼくは薬で父親の病気をなおし……娘には……迷信と……迷信によってくる無知の何たるかを説いた!…娘はすなおだった。迷信を信じたおなじ心が、科学や文化をも抵抗なくうけいれたんだ。」
 しかし、プラスチックのパイプや鉛のボンベでできたピュンマの身体は、娘にとっては化け物のそれだった。
 「娘の『科学』は、おなじ次元でたちまち『迷信』と同化してしまった。そして、娘は妖怪――あるいは神とちぎりを結んだという罪の意識を胸に抱いて……湖の底に沈んでいった……!」
 迷信から逃れられなかった娘は、「神」に近づき過ぎた人間であることに耐えられなかったのだ。迷信と、迷信が生み出す「神」が不幸の源泉となることが、ここでハッキリ語られる。

 もっとも――伝説、神話、信仰の対象を迷信扱いしながら、一方で精神の進化に憧れ、インナースペース(内宇宙、精神の世界)の迷宮に好んで入ってしまうのが、石ノ森章太郎氏の嗜好の面白いところではある。


サイボーグ009 (第8巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)■なぜ人類の起源がいくつもあるのか

 「天使編」の元ネタは『幼年期の終り』だと書いたが、実のところ事態はもっと複雑だろうと考えている。
 石ノ森章太郎氏が気になっている、ぜひともパクってみたい、もとい挑戦してみたい作品は別にあり、でもそのまま取り入れるのは難しいので、ワンクッション置く意味で『幼年期の終り』でくるんでみた、というところではないかと思うのだ。
 なぜなら、「天使編」及び「神々との闘い編」の元ネタと思われるその作品は、「天使編」の前年に描かれた「移民編」の元ネタでもあるからだ。ある作品を元ネタにして「移民編」を描いたのに、また同じ作品を元ネタにしようというのだから、石ノ森氏の執着はたいへんなものだ。

 読者諸氏は不思議に思われなかっただろうか。同じ『サイボーグ009』の中に、人類の起源に関する話が「移民編」と「天使編」と複数あるのを。しかも、これらがほぼ同時期に描かれているのを。
 「移民編」、「天使編」、そして「神々との闘い編」を描いていた1968年~1970年の石ノ森章太郎氏は、はたから見るとエピソード間に矛盾を来すのもお構いなしに、人類の起源を探る本編を描き続けていた。
 「海底ピラミッド編」(1977年~)にも、神を自称し、人類の進化を促すサン・ジェルマン伯爵なる異星人らしき人物が出てくる。「移民編」や「天使編」よりずっと後の、(キャラクターが共通するだけでストーリー上は本編と関係のない)番外編と銘打たれた作品ではあるが。


■「神々との闘い」が生まれる必然

 1960年代後半は、石ノ森章太郎氏に変化を促す時期だった。

幻魔大戦 1 (サンデー・コミックス) 理由の一つは、『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』にも書かれているように、平井和正氏と『幻魔大戦』(1967年~)を共作したことにあろう。同書掲載の早瀬マサト氏のインタビューでは、最近『幻魔大戦』連載第1回のシナリオが発見され、石ノ森氏が平井氏のシナリオをビックリするくらい使っていなかったことが判明したと明かしているが、ともかく、SF的なスケールの大きさと人間の深部を掘り下げる情念を併せ持った平井氏との共作が、石ノ森氏の作風に影響を及ぼしたのは確かだろう。
 同書において、齋藤貴義氏は「『009』をはじめとするそれまでの作品群は、あくまで「SFガジェットを持ちこんだアクション作品」だったといえる。それが『幻魔大戦』では、(略)物語の構造自体にSFの"マインド"を取りこんだのだ。」とまで書いている。

 1968年4月11日に、アーサー・C・クラーク原作の映画『2001年宇宙の旅』が公開されたことも、無視するわけにいくまい。
 スタンリー・キューブリック監督の実験的な映像は、まさに石ノ森好みで、『リュウの道』[*4]や「神々との闘い編」の表現に明らかな影響を見て取れる。人類の進化や、進化の過程であらわになる暴力性や、進化に関わる超越者というテーマも、かつて「ベトナム編」で人類の闘争の歴史を振り返り、この時期すでに最終戦争後の世界と人類の起源を扱う「移民編」に着手していた石ノ森氏にとって、親しみやすいものだったに違いない。


サイボーグ009 (第11巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス) しかし、『2001年宇宙の旅』は映像面の革新性に引きかえ、ストーリーは案外かたい作りだ。猿人らが知性に目覚めるシーンのように、これまでの映画にないシチュエーションはあるものの、話の流れ自体はエピソードを時系列順に配置するだけの単純なもので、とても追いかけやすく、「神々との闘い編」のような時系列が滅茶苦茶になったわけの判らなさはない。一方的に映像が流れていく映画メディアと、読者が自分の意志でページをめくったり戻ったりできるマンガの違いがあるとはいえ、話運びやドラマについては、『2001年宇宙の旅』の影響は限定的といえよう。
 『幼年期の終り』と同じく異星人(超越者)によって別の存在へ"進化させられ"てハッピーエンドというアーサー・C・クラーク流の終わり方の『2001年宇宙の旅』は、どちらかというと内容面では異議申し立てしたい映画だったかもしれない。

 『幻魔大戦』に関していえば、同作は少年マンガ週刊誌に連載されただけあって娯楽色が濃厚で、ストーリーも追いやすく、『2001年宇宙の旅』ほども難解ではない。
 実験的な表現で知られる『章太郎のファンタジーワールド ジュン』の後なので、今の私たちは「神々との闘い編」が複雑で難解であることを受け入れてしまいがちだが、『ジュン』にはついて来られた"まんがエリートのためのまんが専門誌"『COM』の読者でさえ音を上げるほど、「神々との闘い編」は特異な作品であった。

 それでも1960年代後半に「天使編」が、そして「神々との闘い編」が生まれたのは必然であった。
 石ノ森章太郎氏にとって、もっと刺激的なことが、もっとたくさんこの時代に起きていたのだ。

(つづく)


[*1] 宮原照夫氏(『サイボーグ009』連載時の少年マガジン副編集長)のインタビューから 『サイボーグ009コンプリートブック』収録 2001年10月19日発行

[*2] 石ノ森章太郎氏が映画の話をすると、好きなSF映画に必ず登場するのが、『2001年宇宙の旅』と『猿の惑星』、それに『宇宙戦争』であったという。
 ――小野寺丈 著 「リュウの道」第1回から 『僕が見ていた石ノ森章太郎』

[*3] 「サイボーグ009"その世界"のこれから」 『サイボーグ009その世界』の「あとがき」1978年発行

[*4] 『リュウの道』は、『2001年宇宙の旅』が描いた超越者による人類の進化の促進と、『猿の惑星』シリーズが描いた核戦争による人類文明の滅亡と突然変異の発生が、もしも同時に起こったら、というところに発想の原点があろう。石ノ森章太郎氏の代表作の一つだが、科学の進歩と事実の積み重ねから、核戦争による突然変異の発生というアイデアが通用しなくなった現在、新たな読者を獲得していくのは難しいかもしれない。


サイボーグ009 (第12巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)サイボーグ009』 [本]
作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]
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