『マグニフィセント・セブン』 トランプを大統領にする国(その2)
(前回「『沈黙‐サイレンス‐』 トランプを大統領にする国(その1)」から読む)
「もし神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」
――「ローマ人への手紙」8:31――
■『マグニフィセント・セブン』と『荒野の七人』と『七人の侍』の関係
2016年10月、『七人の侍』の4Kデジタルリマスター版が公開された。改めて『七人の侍』を絶賛する声が上がり、「観ていない人はぜひ観るべき」と云われる中、私はいささか異論があった。
黒澤明監督の『七人の侍』は世界最高の映画の一つだし、本物を求める人ならいつか必ずたどり着く作品だろう。観ればきっと満足するはずだ。
けれど、いかに精緻に作られた映画であっても、公開から60年以上も経てば考証や社会観等の面で見直す余地が生まれるものだ。だから、名作『七人の侍』を観るのもいいけれど、それ以上に大事なのは、『七人の侍』にインスパイアされたクリエイターが時代に即した新作を世に送り出すことだと考えていた。
1954年公開の『七人の侍』に関しては、百姓の描き方がしばしば指摘の対象になる。
『七人の侍』では、武器を取って戦ったことのない百姓たちが、侍の指導の下で野武士と戦う訓練をする。偉くて強い侍と、弱くて下層の百姓の、身分や気質の違いがはっきりした中でのドラマだった。
だが、現実には戦国時代の百姓は武器を手に殺し合うことも辞さない者たちだったから、こんなに弱々しく受け身のはずがなかった。この点については、呉座勇一氏の「戦う戦国の村~『七人の侍』のウソとマコト~」を参照されたい。
フィクションだから現実と違っていても構わないのだが、そもそも物語の前提となる社会の捉え方に、労働争議が激しかった公開当時の社会情勢や考え方が色濃く影響しているように思う。
もちろん『七人の侍』の映画としての価値は不滅だが、一方で『七人の侍』にインスパイアされることで、時代に即した優れた作品が生み出されてもいる。
もっとも成功した例はスター・ウォーズ・シリーズだろう。『七人の侍』にベトナム戦争の経験を織り込んだこのシリーズは、70年代、80年代の『七人の侍』ともいえる作品だった。
そして今、2010年代の『七人の侍』として誕生したのが、アントワーン・フークア監督の『マグニフィセント・セブン』だ。
本作はオマージュとかインスパイアとかではなく、『七人の侍』の正統なリメイクだ。プロデューサーのウォルター・ミリッシュが東宝から『七人の侍』の権利を買ってリメイクした1960年の西部劇『荒野の七人』、これを踏まえてミリッシュ自身が再びリメイクしたのが2016年の『マグニフィセント・セブン』である。『七人の侍』の脚本家黒澤明、橋本忍、小国英雄は、『荒野の七人』ではノンクレジットだったが、本作では原作者としてクレジットされている。
だから登場人物やエピソードの多くは『七人の侍』に準じているが、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』で加えられたアイデアも活かされており、その上、現在ならではのアレンジも施されている。
ここで、『マグニフィセント・セブン』と『荒野の七人』と『七人の侍』の主人公七人に関して、私が考えた対応表を載せておこう。必ずしも全員が一対一で対応するわけではなく、複数人の特徴が一人に束ねられたり、逆に一人の特徴が複数人に分散されたりしているから、参考程度にご覧いただきたい。
各作品の登場人物が一対一に対応しないだけでなく、本作では人物とエピソードの組み替えも行われている。たとえば、隠れ潜んでいるところをリーダーに見つかって仲間になる流れは、『荒野の七人』ではロバート・ヴォーン演じるリーのエピソードだが、本作ではリーに当たるグッドナイト・ロビショーではなく、バスケスのエピソードとして描かれる。
そのバスケスはムードメーカーという点でベルナルド・オライリーや林田平八と一緒に括ったが、ベルナルドや平八が柔和な人柄で場の緊張をほぐすのに対して、バスケスは野卑な軽口で盛り上げるタイプだったりする。
興味深いのは、『七人の侍』では重要な位置にありながら『荒野の七人』にほとんど引き継がれなかった参謀役の片山五郎兵衛が、本作ではマウンテンマンのジャック・ホーンとして復活していることだ。
やはり、大勢の敵と戦うには優れた戦略・戦術が必要になる。『荒野の七人』はガンマンたちの銃の腕で乗り切ったが、本作ではより大勢の敵を相手にするために、策を練り、罠を張る人物を必要としたのであろう。
十代の頃に『荒野の七人』と『スカーフェイス』(1983年)を観たのが映画監督を目指すきっかけで、本作の監督をオファーされたとき『七人の侍』の偉大さを思って躊躇したというアントワーン・フークア監督だけあって、過去の作品をよく理解した上でパワーアップを図っている。
■神の是認の声
アントワーン・フークア監督といえば、『エンド・オブ・ホワイトハウス』の衝撃は今でも忘れられない。こんにちの米韓同盟の危機をいち早く取り上げ、2013年の時点で映像化した感度の高さは尋常ではない。
そのフークア監督だけに、『マグニフィセント・セブン』も現在の社会のあり様を鋭く投影した作品になっている。
当初、本作は2017年1月13日の公開とされていたが、ソニー・ピクチャーズは公開日を2016年9月23日に変更した。的確な判断だと思う。2017年1月13日といえば、第45代アメリカ大統領に選出された人物が就任式を行う一週間前だ。そこにぶつければ盛り上がったかもしれないが、もっと盛り上がるのは2016年7月に共和党と民主党の大統領候補が確定してから2016年11月8日の一般投票で大統領が決まるまでの、両党候補が激突する三ヶ月半だ。そのド真ん中に公開日をもってきたことが、本作の狙いを端的に物語っている。
第45代大統領を選ぶ選挙は、米国が真っ二つに分かれての熾烈な戦いだった。渡辺由佳里氏はこれを「トランプがはじめた21世紀の南北戦争」と呼んでいる。
今の私たちは、大富豪ドナルド・トランプが第45代大統領に就任し、難民の受け入れ停止や他国からの入国制限を命令し、とりわけ隣国メキシコとのあいだに壁を作り、人々の往来を制限するように命じてメキシコと険悪になったことを知っている。しかし、本作の作り手たちは大統領選の何年も前からこの映画を計画し、2014年にはキャスティング等も詰めていたわけだから、その思いと眼力に驚かされる。
物語は、西部にある白人の町ローズ・クリークの教会からはじまる。住民はここで集会を開き、大富豪バーソロミュー・ボーグに与するか、ボーグに逆らうかで対立していた。それはまさに共和党候補の大富豪ドナルド・トランプに投票するか、反対票を入れるか、米国を真っ二つに割った対立の縮図といえる。
この西部の教会は、現代の米国で多数の信者を集めるメガチャーチに相当しよう。2016年の調査ではテキサス州のレイクウッド教会が礼拝出席者数5万2千人で全米最大規模を誇るが、ここのカリスマ牧師ジョエル・オスティーンはドナルド・トランプを称賛したことで知られるという。
本作は教会にはじまり教会に終わる。途中でも、たびたび教会の場面が挿入される。それは、ボーグに従うか否か(トランプを支持するか否かに相似する問題)が信仰の問題でもあるからだろう。
森本あんり氏は宗教をウィルスに例えている。ウィルスが感染して増殖すると、宿主である身体にさまざまな影響を及ぼすが、同時にそのウィルス自体も宿主に適応して変化し、「亜種」が生まれる。宗教も同じようなものだというのだ(誤解してはいけないが、ウィルスは宿主に悪い影響を及ぼすばかりでなく、宿主が生きていく上で欠かせない働きをするものもある。)。
米国のキリスト教は大きく様変わりした亜種だという。氏はこう述べる。
---
その変容ぶりを示すのが、この世の成功に対する考え方である。アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
(略)
トランプ氏も、その価値観の中で評価されている。あれほどキリスト教の理念とかけ離れた言動を続ける人物を、何と白人福音派の8割が支持したという。なぜか。彼らはこう考えるのである。
「たしかに彼は人間的に見て困ったところもある。だが、神の目はどこか違うところを見ているに違いない。彼には、人の知らないよいところがあって、それを神が是認しているのだ。だから彼はあんなに成功しているのだ」
トランプ氏本人も、彼の支持者も、大観衆の声を通して聞いているのは、神の是認の声なのである。
---
第45代大統領が決まったとき、一枚の写真が出回って話題になった。大喜びしているトランプ陣営の中、一人だけ嬉しそうではない人が写っていたのだ。ドナルド・トランプ本人である。神妙な顔つきで、じっと座ったままの彼は、莫大な富を彼に与え、今また彼を大統領にした神の声に耳を傾けていたのかもしれない。
トランプ政権の人事も神がかっている。閣僚に大富豪たち――神に祝福された人たち――を指名し、なかでも教育長官には、宗教を教えることが禁じられている公立学校よりもキリスト教的教育を推進できる私立学校を重視する人物を据えた。
テキサス州の白人の主婦は、トランプ大統領に期待する。
「今、何が私の身の回りに起こっているか、ですって。私の住んでいる田舎町にまで、肌の浅黒い見知らぬ外国人がどんどん入ってきて、治安が悪くなっているんですよ。トランプさんはこんな状況から私たちをきっと救い出してくれると信じています」。
外国人の増加と治安の悪化は必ずしも因果関係で語れるものではないのだが、こういう思いを抱いている人もいるわけだ。
成功を目指すのは悪いことではないし、成功した人が神に感謝するのは大切なことかもしれない。しかし、成功を神の祝福の証と捉え、成功しないのは神に見放されているからだと考えるなら、それははなはだ危険である。
『マグニフィセント・セブン』の中で、入植者を殺したことを責められた大富豪ボーグはこう云い放つ。
「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
(If God didn't want them to be sheared, he wouldn't have made them sheep.)
これは『荒野の七人』で無法者たちの首領カルヴェラが口にしたのと同じセリフだ。
残酷な言葉に聞こえるが、誇張があるとはいえこれは米国の信仰の行き着く先ではないだろうか。
ボーグが臆することなく攻めてくるのも、神の後ろ盾があると信じるからだ。米国のキリスト教シオニズムでは、中東戦争でイスラエルが勝利してきたのは、イスラエルが神に守られ、神から祝福されているからだと考えるそうだが、それと同じことだ。
20世紀の極東にも神州不滅を唱えて戦争した(そして滅亡した)帝国があったから、日本人にとっても他人事ではない。
追いつめられたボーグが教会に逃げ込むのも、彼を生かすかどうかは神が決めることだからだ。神に祝福されている彼は、神の庇護を受けられるはずだからだ。
■神話の創出
映画の冒頭、教会の集会で、バーソロミュー・ボーグに立ち向かおうと呼びかけた男性は、この土地に移ってきてようやく生活できるまでになったのに、ボーグの云いなりになるのかと訴える。
この言葉は、移民を嫌がる現代の白人たちも、元をたどれば移民だったことを思い出させるものだ。
そんな反対派の呼びかけに応じて集まったのが、マグニフィセント・セブン――崇高な七人――である。
前述の表で判るように、本作の七人は過去作の七人におおむね対応しているけれど、それだけに留まらない新鮮さと素晴らしさがある。たった七人なのに、多様性に満ち満ちているのだ。
人種も違えば宗教も違う。敵味方の間柄だったこともある。実に工夫を凝らしたメンバー構成だ。
そんな彼らが白人の町を守るために協力し合い、命懸けの戦いに身を投じてくれる。外国人が入ってくるのが嫌だなんて云っている白人たちの狭い了見を一蹴するような、マグニフィセントな七人なのだ。
しかも、黒人はもとより、メキシコ人の役者がメキシコ人を演じ、東洋人の役者が東洋人を演じ、ネイティブ・アメリカンの役者がネイティブ・アメリカンを演じている。これがハリウッドではなかなかできないことなのは周知の事実だ。
フークア監督がスタジオの幹部と会ったときに最初に見せられた俳優のリストも白人ばかりだった。それを引っくり返したフークア監督は、歴史的事実を反映させただけだと云う。「黒人のカウボーイはたくさんいたし、ネイティブ・アメリカンもたくさんいた。鉄道建設で働く東洋人もたくさんいた。本当の西部は、これまで映画が描いてきたよりもずっと現代的だったんだ。」
フークア監督のこの言葉は、かつては白人だけの「古き良き米国社会」があったのに、という思い込みを粉砕してかっこいい。
七人の中でも特に重要なのが、ネイティブ・アメリカンのレッドハーベストだ。
『七人の侍』の中であえて主人公を一人に特定するなら、リーダーの勘兵衛ではなく、三船敏郎さん演じる菊千代であることは以前の記事で述べたとおりだ。したがって、菊千代に相当すると思われるレッドハーベストは、菊千代同様、主人公級の重い物を背負っているはずだ。
セリフこそ少ないものの、彼が菊千代と同じものを背負っているのは一目で判る。レッドハーベストは、ここ一番というときに星条旗の化粧をするのだ。顔を赤と青に塗り分け、青地の部分に白い斑点をあしらう化粧が表しているのは、アメリカ合衆国の国旗に他ならない。
米国の映画には、しばしば星条旗が登場する。旗に国家を象徴させることもあるが、もっと重要なのは国家や国民が掲げるべき理念や目的を象徴させる使い方だ。映画のテーマや、作り手がもっとも伝えたいことを語る場面で星条旗を映すことで、星条旗に意味を持たせ、今後星条旗を見るたびに観客が作り手のメッセージを思い出すように仕向けるのだ。
代表的な例が、クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』だろう。イーストウッド演じる主人公が「娼婦を傷つけるな」と叫ぶところで星条旗がはためく。娼婦が国家を象徴するわけではない。この旗を掲げる国は、国民は、他者を傷つけるようなことをしてはならないと訴えているのだ。
レッドハーベストが星条旗のような化粧をするのも同じことだ。黒人や白人やラティーノや東洋人やネイティブ・アメリカンが仲間になって一致団結するなんてことが、19世紀の米国であったはずはないのだが、こういうことを米国は、米国民は目指すべきだと、最後に加わったレッドハーベストの星条旗の化粧が訴えている。『七人の侍』が侍と農民の身分差を背景とする中で、侍でも農民でもない菊千代に身分違いの克服を象徴させたのと同じなのだ。
森本あんり氏は云う。「移民国家アメリカは、目的をもつことで統一を作り出してきた国である。アメリカを動かしてきたのは、自分で自分に課した使命である。」
その使命とは何か。
その一番大切なことをレッドハーベストは体現している。
さらにレッドハーベストの特異な位置づけを強調するため、フークア監督は白人男性ばかりのボーグの軍勢にネイティブ・アメリカンの戦士を加えている。全員が侍の中にただ一人農民出身の菊千代が交じっていた『七人の侍』とは異なり、七人の人種や出自がバラエティ豊かな本作では、ネイティブ・アメリカンのレッドハーベストが埋もれてしまいかねない。それを避けるために、ネイティブ・アメリカンだけは敵側にも配することで、レッドハーベストが人種や民族の違いを乗り越えてマグニフィセントな側についたことを目立たせているのだ。
しかも本作では、ヘイリー・ベネット演じる未亡人のエマも大活躍する。さすがにマグニフィセント・セブンの一員にはならないものの、『荒野の七人』や『七人の侍』の女性のようにならず者の襲撃から隠れてばかりではない。
戦うのは男、女は銃後で隠されているだけという前世紀の観念に囚われない作品にすることも、現代にリメイクする意義だろう。
南北戦争当時、南部の男性たちは徴兵反対運動を起こしたが、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けたという。徴兵反対運動をした男性たちは「男のくせに情けない」「意気地なし」「とても結婚相手にできない」と罵倒され、その後、運動は挫けてしまう。
本作のエマは銃を取って戦うだけではない。ガンマンたちを集めて戦わせるのもエマなのだ。
そして彼ら、ボーグに立ち向かう者たちがよりどころにするのも教会だ。
劇中、教会は戦いの要所となり、クライマックスの対決も教会で迎えることになる。
ここで戦うことで、両者は神の審判を仰いでいるのだ。白人ばかりで固まり、富と権力を追い続けるボーグと、マイノリティも含めて助け合い、力を貸しあうマグニフィセント・セブンと町の住民たちの、どちらを神は祝福するか。どちらが神に祝福されるべきなのか。それを映画は神に、観客に問うている。
米国では2044年に有色人種の人口が50%を超え、白人のほうがマイノリティになると予測されている。そんな中、本作は米国の新しい神話として語り継がれるべき作品だ。
しかし――私は懸念する。映画全体を見渡せば、町の住民の側もまた、戦いに勝利するのが神に祝福された証と考える構造になっていることを。勝利しなければ祝福されたと感じられない構造になっていることを。
結局、敗者――弱き者――に居場所はあるのだろうか。
第45代大統領を決する選挙戦は、ドナルド・トランプの勝利に終わった。
『マグニフィセント・セブン』 [ま行]
監督/アントワーン・フークア
脚本/ニック・ピゾラット、リチャード・ウェンク、ジョン・リー・ハンコック(ノンクレジット)
原作/黒澤明、橋本忍、小国英雄
出演/デンゼル・ワシントン クリス・プラット イーサン・ホーク ヴィンセント・ドノフリオ イ・ビョンホン マヌエル・ガルシア=ルルフォ マーティン・センスマイヤー ヘイリー・ベネット ピーター・サースガード マット・ボマー ルーク・グライムス ヴィニー・ジョーンズ
日本公開/2017年1月27日
ジャンル/[アクション] [西部劇]
「もし神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」
――「ローマ人への手紙」8:31――
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2016年10月、『七人の侍』の4Kデジタルリマスター版が公開された。改めて『七人の侍』を絶賛する声が上がり、「観ていない人はぜひ観るべき」と云われる中、私はいささか異論があった。
黒澤明監督の『七人の侍』は世界最高の映画の一つだし、本物を求める人ならいつか必ずたどり着く作品だろう。観ればきっと満足するはずだ。
けれど、いかに精緻に作られた映画であっても、公開から60年以上も経てば考証や社会観等の面で見直す余地が生まれるものだ。だから、名作『七人の侍』を観るのもいいけれど、それ以上に大事なのは、『七人の侍』にインスパイアされたクリエイターが時代に即した新作を世に送り出すことだと考えていた。
1954年公開の『七人の侍』に関しては、百姓の描き方がしばしば指摘の対象になる。
『七人の侍』では、武器を取って戦ったことのない百姓たちが、侍の指導の下で野武士と戦う訓練をする。偉くて強い侍と、弱くて下層の百姓の、身分や気質の違いがはっきりした中でのドラマだった。
だが、現実には戦国時代の百姓は武器を手に殺し合うことも辞さない者たちだったから、こんなに弱々しく受け身のはずがなかった。この点については、呉座勇一氏の「戦う戦国の村~『七人の侍』のウソとマコト~」を参照されたい。
フィクションだから現実と違っていても構わないのだが、そもそも物語の前提となる社会の捉え方に、労働争議が激しかった公開当時の社会情勢や考え方が色濃く影響しているように思う。
もちろん『七人の侍』の映画としての価値は不滅だが、一方で『七人の侍』にインスパイアされることで、時代に即した優れた作品が生み出されてもいる。
もっとも成功した例はスター・ウォーズ・シリーズだろう。『七人の侍』にベトナム戦争の経験を織り込んだこのシリーズは、70年代、80年代の『七人の侍』ともいえる作品だった。
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本作はオマージュとかインスパイアとかではなく、『七人の侍』の正統なリメイクだ。プロデューサーのウォルター・ミリッシュが東宝から『七人の侍』の権利を買ってリメイクした1960年の西部劇『荒野の七人』、これを踏まえてミリッシュ自身が再びリメイクしたのが2016年の『マグニフィセント・セブン』である。『七人の侍』の脚本家黒澤明、橋本忍、小国英雄は、『荒野の七人』ではノンクレジットだったが、本作では原作者としてクレジットされている。
だから登場人物やエピソードの多くは『七人の侍』に準じているが、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』で加えられたアイデアも活かされており、その上、現在ならではのアレンジも施されている。
ここで、『マグニフィセント・セブン』と『荒野の七人』と『七人の侍』の主人公七人に関して、私が考えた対応表を載せておこう。必ずしも全員が一対一で対応するわけではなく、複数人の特徴が一人に束ねられたり、逆に一人の特徴が複数人に分散されたりしているから、参考程度にご覧いただきたい。
マグニフィセント・セブン | 荒野の七人 | 七人の侍 |
サム・チザム(デンゼル・ワシントン) リーダー、黒ずくめのガンマン、家族を奪われた過去を持つ | クリス・アダムス(ユル・ブリンナー) リーダー、黒ずくめのガンマン | 島田勘兵衛(志村喬) リーダー 菊千代(三船敏郎) 家族を奪われた過去を持つ |
ジョシュ・ファラデー(クリス・プラット) ギャンブラー、サブリーダー格、二番目に参加 | ヴィン(スティーブ・マックイーン) サブリーダー格、二番目に参加 | 片山五郎兵衛(稲葉義男) 参謀役、二番目に参加 |
グッドナイト・ロビショー(イーサン・ホーク) PTSDの狙撃手、町の住民の教官役、リーダーとは旧知の仲だが袂を分かつ | リー(ロバート・ヴォーン) 凄腕だが心的外傷を負っている ハリー・ラック(ブラッド・デクスター) リーダーとは旧知の仲だが袂を分かつ | 七郎次(加東大介) リーダーとは旧知の仲、村人の教官役 |
ジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ) 狩人、防戦のため罠を仕掛ける、町の女性と親しくなる | チコ(ホルスト・ブッフホルツ) 村の女性と親しくなる | 片山五郎兵衛(稲葉義男) 参謀役 岡本勝四郎(木村功) 村の女性と親しくなる |
ビリー・ロックス(イ・ビョンホン) 暗殺者、ナイフの達人 | ブリット(ジェームズ・コバーン) ナイフ投げの達人 | 久蔵(宮口精二) 居合の達人 |
バスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ) 無法者のメキシコ人、ムードメーカー | ベルナルド・オライリー(チャールズ・ブロンソン) メキシコ人とアイルランド人の混血、ムードメーカー | 林田平八(千秋実) ムードメーカー |
レッドハーベスト《血の収穫》(マーティン・センスマイヤー) 戦士、ガンマンではない、ネイティブ・アメリカンと白人の架け橋、最後に参加 | チコ(ホルスト・ブッフホルツ) 農民とガンマンの架け橋 | 菊千代(三船敏郎) なかなか侍とは認められない、農民と侍の架け橋、最後に参加 |
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そのバスケスはムードメーカーという点でベルナルド・オライリーや林田平八と一緒に括ったが、ベルナルドや平八が柔和な人柄で場の緊張をほぐすのに対して、バスケスは野卑な軽口で盛り上げるタイプだったりする。
興味深いのは、『七人の侍』では重要な位置にありながら『荒野の七人』にほとんど引き継がれなかった参謀役の片山五郎兵衛が、本作ではマウンテンマンのジャック・ホーンとして復活していることだ。
やはり、大勢の敵と戦うには優れた戦略・戦術が必要になる。『荒野の七人』はガンマンたちの銃の腕で乗り切ったが、本作ではより大勢の敵を相手にするために、策を練り、罠を張る人物を必要としたのであろう。
十代の頃に『荒野の七人』と『スカーフェイス』(1983年)を観たのが映画監督を目指すきっかけで、本作の監督をオファーされたとき『七人の侍』の偉大さを思って躊躇したというアントワーン・フークア監督だけあって、過去の作品をよく理解した上でパワーアップを図っている。
■神の是認の声
アントワーン・フークア監督といえば、『エンド・オブ・ホワイトハウス』の衝撃は今でも忘れられない。こんにちの米韓同盟の危機をいち早く取り上げ、2013年の時点で映像化した感度の高さは尋常ではない。
そのフークア監督だけに、『マグニフィセント・セブン』も現在の社会のあり様を鋭く投影した作品になっている。
当初、本作は2017年1月13日の公開とされていたが、ソニー・ピクチャーズは公開日を2016年9月23日に変更した。的確な判断だと思う。2017年1月13日といえば、第45代アメリカ大統領に選出された人物が就任式を行う一週間前だ。そこにぶつければ盛り上がったかもしれないが、もっと盛り上がるのは2016年7月に共和党と民主党の大統領候補が確定してから2016年11月8日の一般投票で大統領が決まるまでの、両党候補が激突する三ヶ月半だ。そのド真ん中に公開日をもってきたことが、本作の狙いを端的に物語っている。
第45代大統領を選ぶ選挙は、米国が真っ二つに分かれての熾烈な戦いだった。渡辺由佳里氏はこれを「トランプがはじめた21世紀の南北戦争」と呼んでいる。
今の私たちは、大富豪ドナルド・トランプが第45代大統領に就任し、難民の受け入れ停止や他国からの入国制限を命令し、とりわけ隣国メキシコとのあいだに壁を作り、人々の往来を制限するように命じてメキシコと険悪になったことを知っている。しかし、本作の作り手たちは大統領選の何年も前からこの映画を計画し、2014年にはキャスティング等も詰めていたわけだから、その思いと眼力に驚かされる。
物語は、西部にある白人の町ローズ・クリークの教会からはじまる。住民はここで集会を開き、大富豪バーソロミュー・ボーグに与するか、ボーグに逆らうかで対立していた。それはまさに共和党候補の大富豪ドナルド・トランプに投票するか、反対票を入れるか、米国を真っ二つに割った対立の縮図といえる。
この西部の教会は、現代の米国で多数の信者を集めるメガチャーチに相当しよう。2016年の調査ではテキサス州のレイクウッド教会が礼拝出席者数5万2千人で全米最大規模を誇るが、ここのカリスマ牧師ジョエル・オスティーンはドナルド・トランプを称賛したことで知られるという。
本作は教会にはじまり教会に終わる。途中でも、たびたび教会の場面が挿入される。それは、ボーグに従うか否か(トランプを支持するか否かに相似する問題)が信仰の問題でもあるからだろう。

米国のキリスト教は大きく様変わりした亜種だという。氏はこう述べる。
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その変容ぶりを示すのが、この世の成功に対する考え方である。アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
(略)
トランプ氏も、その価値観の中で評価されている。あれほどキリスト教の理念とかけ離れた言動を続ける人物を、何と白人福音派の8割が支持したという。なぜか。彼らはこう考えるのである。
「たしかに彼は人間的に見て困ったところもある。だが、神の目はどこか違うところを見ているに違いない。彼には、人の知らないよいところがあって、それを神が是認しているのだ。だから彼はあんなに成功しているのだ」
トランプ氏本人も、彼の支持者も、大観衆の声を通して聞いているのは、神の是認の声なのである。
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第45代大統領が決まったとき、一枚の写真が出回って話題になった。大喜びしているトランプ陣営の中、一人だけ嬉しそうではない人が写っていたのだ。ドナルド・トランプ本人である。神妙な顔つきで、じっと座ったままの彼は、莫大な富を彼に与え、今また彼を大統領にした神の声に耳を傾けていたのかもしれない。
トランプ政権の人事も神がかっている。閣僚に大富豪たち――神に祝福された人たち――を指名し、なかでも教育長官には、宗教を教えることが禁じられている公立学校よりもキリスト教的教育を推進できる私立学校を重視する人物を据えた。
テキサス州の白人の主婦は、トランプ大統領に期待する。
「今、何が私の身の回りに起こっているか、ですって。私の住んでいる田舎町にまで、肌の浅黒い見知らぬ外国人がどんどん入ってきて、治安が悪くなっているんですよ。トランプさんはこんな状況から私たちをきっと救い出してくれると信じています」。
外国人の増加と治安の悪化は必ずしも因果関係で語れるものではないのだが、こういう思いを抱いている人もいるわけだ。
成功を目指すのは悪いことではないし、成功した人が神に感謝するのは大切なことかもしれない。しかし、成功を神の祝福の証と捉え、成功しないのは神に見放されているからだと考えるなら、それははなはだ危険である。
『マグニフィセント・セブン』の中で、入植者を殺したことを責められた大富豪ボーグはこう云い放つ。
「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
(If God didn't want them to be sheared, he wouldn't have made them sheep.)
これは『荒野の七人』で無法者たちの首領カルヴェラが口にしたのと同じセリフだ。
残酷な言葉に聞こえるが、誇張があるとはいえこれは米国の信仰の行き着く先ではないだろうか。
ボーグが臆することなく攻めてくるのも、神の後ろ盾があると信じるからだ。米国のキリスト教シオニズムでは、中東戦争でイスラエルが勝利してきたのは、イスラエルが神に守られ、神から祝福されているからだと考えるそうだが、それと同じことだ。
20世紀の極東にも神州不滅を唱えて戦争した(そして滅亡した)帝国があったから、日本人にとっても他人事ではない。
追いつめられたボーグが教会に逃げ込むのも、彼を生かすかどうかは神が決めることだからだ。神に祝福されている彼は、神の庇護を受けられるはずだからだ。
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映画の冒頭、教会の集会で、バーソロミュー・ボーグに立ち向かおうと呼びかけた男性は、この土地に移ってきてようやく生活できるまでになったのに、ボーグの云いなりになるのかと訴える。
この言葉は、移民を嫌がる現代の白人たちも、元をたどれば移民だったことを思い出させるものだ。
そんな反対派の呼びかけに応じて集まったのが、マグニフィセント・セブン――崇高な七人――である。
前述の表で判るように、本作の七人は過去作の七人におおむね対応しているけれど、それだけに留まらない新鮮さと素晴らしさがある。たった七人なのに、多様性に満ち満ちているのだ。
- サム・チザムは南北戦争で北軍に所属した黒人ガンマン。
- そのチザムにとっては敵だった元南軍の白人がグッドナイト・ロビショー。
- ジョシュ・ファラデーはメキシコ人を中傷する米国人。
- 中傷の対象となる(現代でもトランプに中傷される)メキシコ人がバスケスだ。
- ビリー・ロックスは長年にわたり白人に差別されてきた東洋人。
- ジャック・ホーンはネイティブ・アメリカンのクロウ族を大量に殺し、頭の皮を剥いだ白人キリスト教徒。
- レッドハーベストは、白人の支配に頑強に抵抗したコマンチ族の一員。
人種も違えば宗教も違う。敵味方の間柄だったこともある。実に工夫を凝らしたメンバー構成だ。
そんな彼らが白人の町を守るために協力し合い、命懸けの戦いに身を投じてくれる。外国人が入ってくるのが嫌だなんて云っている白人たちの狭い了見を一蹴するような、マグニフィセントな七人なのだ。
しかも、黒人はもとより、メキシコ人の役者がメキシコ人を演じ、東洋人の役者が東洋人を演じ、ネイティブ・アメリカンの役者がネイティブ・アメリカンを演じている。これがハリウッドではなかなかできないことなのは周知の事実だ。
フークア監督がスタジオの幹部と会ったときに最初に見せられた俳優のリストも白人ばかりだった。それを引っくり返したフークア監督は、歴史的事実を反映させただけだと云う。「黒人のカウボーイはたくさんいたし、ネイティブ・アメリカンもたくさんいた。鉄道建設で働く東洋人もたくさんいた。本当の西部は、これまで映画が描いてきたよりもずっと現代的だったんだ。」
フークア監督のこの言葉は、かつては白人だけの「古き良き米国社会」があったのに、という思い込みを粉砕してかっこいい。
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『七人の侍』の中であえて主人公を一人に特定するなら、リーダーの勘兵衛ではなく、三船敏郎さん演じる菊千代であることは以前の記事で述べたとおりだ。したがって、菊千代に相当すると思われるレッドハーベストは、菊千代同様、主人公級の重い物を背負っているはずだ。
セリフこそ少ないものの、彼が菊千代と同じものを背負っているのは一目で判る。レッドハーベストは、ここ一番というときに星条旗の化粧をするのだ。顔を赤と青に塗り分け、青地の部分に白い斑点をあしらう化粧が表しているのは、アメリカ合衆国の国旗に他ならない。
米国の映画には、しばしば星条旗が登場する。旗に国家を象徴させることもあるが、もっと重要なのは国家や国民が掲げるべき理念や目的を象徴させる使い方だ。映画のテーマや、作り手がもっとも伝えたいことを語る場面で星条旗を映すことで、星条旗に意味を持たせ、今後星条旗を見るたびに観客が作り手のメッセージを思い出すように仕向けるのだ。
代表的な例が、クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』だろう。イーストウッド演じる主人公が「娼婦を傷つけるな」と叫ぶところで星条旗がはためく。娼婦が国家を象徴するわけではない。この旗を掲げる国は、国民は、他者を傷つけるようなことをしてはならないと訴えているのだ。
レッドハーベストが星条旗のような化粧をするのも同じことだ。黒人や白人やラティーノや東洋人やネイティブ・アメリカンが仲間になって一致団結するなんてことが、19世紀の米国であったはずはないのだが、こういうことを米国は、米国民は目指すべきだと、最後に加わったレッドハーベストの星条旗の化粧が訴えている。『七人の侍』が侍と農民の身分差を背景とする中で、侍でも農民でもない菊千代に身分違いの克服を象徴させたのと同じなのだ。
森本あんり氏は云う。「移民国家アメリカは、目的をもつことで統一を作り出してきた国である。アメリカを動かしてきたのは、自分で自分に課した使命である。」
その使命とは何か。
その一番大切なことをレッドハーベストは体現している。
さらにレッドハーベストの特異な位置づけを強調するため、フークア監督は白人男性ばかりのボーグの軍勢にネイティブ・アメリカンの戦士を加えている。全員が侍の中にただ一人農民出身の菊千代が交じっていた『七人の侍』とは異なり、七人の人種や出自がバラエティ豊かな本作では、ネイティブ・アメリカンのレッドハーベストが埋もれてしまいかねない。それを避けるために、ネイティブ・アメリカンだけは敵側にも配することで、レッドハーベストが人種や民族の違いを乗り越えてマグニフィセントな側についたことを目立たせているのだ。
しかも本作では、ヘイリー・ベネット演じる未亡人のエマも大活躍する。さすがにマグニフィセント・セブンの一員にはならないものの、『荒野の七人』や『七人の侍』の女性のようにならず者の襲撃から隠れてばかりではない。
戦うのは男、女は銃後で隠されているだけという前世紀の観念に囚われない作品にすることも、現代にリメイクする意義だろう。
南北戦争当時、南部の男性たちは徴兵反対運動を起こしたが、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けたという。徴兵反対運動をした男性たちは「男のくせに情けない」「意気地なし」「とても結婚相手にできない」と罵倒され、その後、運動は挫けてしまう。
本作のエマは銃を取って戦うだけではない。ガンマンたちを集めて戦わせるのもエマなのだ。
そして彼ら、ボーグに立ち向かう者たちがよりどころにするのも教会だ。
劇中、教会は戦いの要所となり、クライマックスの対決も教会で迎えることになる。
ここで戦うことで、両者は神の審判を仰いでいるのだ。白人ばかりで固まり、富と権力を追い続けるボーグと、マイノリティも含めて助け合い、力を貸しあうマグニフィセント・セブンと町の住民たちの、どちらを神は祝福するか。どちらが神に祝福されるべきなのか。それを映画は神に、観客に問うている。
米国では2044年に有色人種の人口が50%を超え、白人のほうがマイノリティになると予測されている。そんな中、本作は米国の新しい神話として語り継がれるべき作品だ。
しかし――私は懸念する。映画全体を見渡せば、町の住民の側もまた、戦いに勝利するのが神に祝福された証と考える構造になっていることを。勝利しなければ祝福されたと感じられない構造になっていることを。
結局、敗者――弱き者――に居場所はあるのだろうか。
第45代大統領を決する選挙戦は、ドナルド・トランプの勝利に終わった。
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監督/アントワーン・フークア
脚本/ニック・ピゾラット、リチャード・ウェンク、ジョン・リー・ハンコック(ノンクレジット)
原作/黒澤明、橋本忍、小国英雄
出演/デンゼル・ワシントン クリス・プラット イーサン・ホーク ヴィンセント・ドノフリオ イ・ビョンホン マヌエル・ガルシア=ルルフォ マーティン・センスマイヤー ヘイリー・ベネット ピーター・サースガード マット・ボマー ルーク・グライムス ヴィニー・ジョーンズ
日本公開/2017年1月27日
ジャンル/[アクション] [西部劇]

tag : アントワーン・フークア黒澤明デンゼル・ワシントンクリス・プラットイーサン・ホークヴィンセント・ドノフリオイ・ビョンホンマヌエル・ガルシア=ルルフォマーティン・センスマイヤーヘイリー・ベネット
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No title
私、これはダメだったんです。
7人が自分の命を賭けてまで何で儲けにならない戦いに進んだのかが黒いリーダーを除いては甚だ「ちょっと戦闘にでも行ってくら」的にライトだったのと、そんなライト感覚で助けに来た無法者(でしょ、町の人から考えたら白人以外が大半の何を考えているかが分からない面々だから)を町の人がすんなり受け入れるのがよく分からなかった。7人で大軍勢と戦えるという事は裏を返せば、敵に回った時、7人で町の面々を簡単に殲滅できるという事だ。オリジナル7人では侍が村に付く理由は「日本人の義憤感覚」であるし、侍が野武士側に寝返らない理由がそんなに儲からないからだとハッキリしている。今作では助けに来た理由もハッキリしないし、大金を持っている相手に寝返らない理由もハッキリしない。
どちらも神の啓示であるなら、一番意地悪なのは神様(監督&脚本家)という事だろうけど、神様はそれを悟られないように物語を紡ぐべきだと思うのですよ、私は。
7人が自分の命を賭けてまで何で儲けにならない戦いに進んだのかが黒いリーダーを除いては甚だ「ちょっと戦闘にでも行ってくら」的にライトだったのと、そんなライト感覚で助けに来た無法者(でしょ、町の人から考えたら白人以外が大半の何を考えているかが分からない面々だから)を町の人がすんなり受け入れるのがよく分からなかった。7人で大軍勢と戦えるという事は裏を返せば、敵に回った時、7人で町の面々を簡単に殲滅できるという事だ。オリジナル7人では侍が村に付く理由は「日本人の義憤感覚」であるし、侍が野武士側に寝返らない理由がそんなに儲からないからだとハッキリしている。今作では助けに来た理由もハッキリしないし、大金を持っている相手に寝返らない理由もハッキリしない。
どちらも神の啓示であるなら、一番意地悪なのは神様(監督&脚本家)という事だろうけど、神様はそれを悟られないように物語を紡ぐべきだと思うのですよ、私は。
Re: No title
ふじき78さん、こんにちは。
本作を楽しめなかったのは残念ですね。
ダメだった点をコメントしていただきましたが、作品に乗れていればこういったことは気にならなかったかもしれません。これらが原因で映画に乗れなかったというよりも、映画に乗れてないからこういったことが目につくんじゃないでしょうか。
たとえば、「自分の命を賭けてまで何で儲けにならない戦いに進んだのか」ということ。
『七人の侍』でも久蔵や平八が戦いに加わる理由については説明がありませんし、七郎次や勝四郎(それに菊千代)は勘兵衛の人柄に惚れてついてきただけで、これから待ち受ける戦いがどんなものかをちゃんと吟味した上で引き受ける描写があるのは最初に決めた勘兵衛と二番目の五郎兵衛ぐらいなものです。あとは、心あるものは参加してとうぜんという流れができた中で、次の参加者は誰かということに観客の目を向けさせているから、参加を決める理由やいきさつは端折られているんですね。
本作でも一人ひとりの参加に至る心情が丁寧に描かれているとは云い難いですが、そこをこってり描写すると浪波節っぽくなって白けてしまうおそれがあるから、『七人の侍』同様はじめの1~2人だけちゃんと描けば良いのだと思います。
ふじき78さんがリーダーとなるサム・チザムの参加については疑問を抱かないところからすると、肝は二番目に参加するギャンブラーのジョシュ・ファラデーですね。
『七人の侍』では二番目が決まるまでにあれこれあって、ようやく片山五郎兵衛が引き受けてくれる。そこで流れができるから、三番目以降は説明を省略しても気にならなくなります。
ではジョシュ・ファラデーはどういう経緯で参加するかというと、これがとてもクールです。
ジョシュ・ファラデーはサム・チザムが乗り込んできた酒場で賭けポーカーに興じています。白人だけで楽しんでいる酒場に銃を持った黒人がやってきて不穏なことを云い出すから、酒場は一気に険悪になる。この酒場のシークエンスは、大勢の敵を一気に蹴散らすサム・チザムの腕の良さや、賞金を被害者の遺族に渡すように指示するチザムの義侠心を印象づけるところですが、同時に、
・白人全員が黒人ガンマンを懲らしめようとする中で、ただ一人ジョシュ・ファラデーだけがチザムを背後から襲おうとする白人を制することで、ジョシュ・ファラデーが損得抜きに行動する義侠心の持ち主であること
・しかも酔っ払いとは思えぬ身のこなしから、ジョシュ・ファラデーが並々ならぬ腕前の持ち主であること
・サム・チザムは鏡に映った光景を目にして、ジョシュ・ファラデーの腕前と心根を見抜いたこと
を示しています。だからローズ・クリークに行くことにしたサム・チザムはジョシュ・ファラデーに声をかけるのですし、ジョシュ・ファラデーも馬の代金を肩代わりしてもらったことを云い訳に腰を上げます。本当は熱い義侠心で通じ合っているのに、そんな照れ臭いことは表にせず、口先では馬の代金が残ってるとかどうでもいい理由しか云わないのが、カッコイイと思うのです。
ジョシュ・ファラデーが加わるまでがすんなり飲み込めれば、三番目以降のメンバーがさしたる説明もなしに加わることにも、彼らが寝返らないことにも違和感がないでしょう。
メキシコ人のバスケスについて、劇中ではテキサス・レンジャーを殺して賞金首になったことくらいしか説明がありませんが、権力を笠に着てネイティブ・アメリカンやメキシコ人に横暴に振舞ったといわれるテキサス・レンジャーに対してメキシコ人の身であえて刃向うのですから、彼もたいへんな義侠心の持ち主なのでしょう。でもそんな説明がなくても、サム・チザムが仲間に入れたいと考えた人物というだけで充分なはずです。
そこに納得感がないとしたら、たぶん、ふじき78さんはすでに乗れてなかったんでしょうね。
『七人の侍』の侍たちだって野武士側に寝返ることはできるし、寝返る以前に米を奪って逃げる選択肢もあるのに彼らはそうしません。特に説明もないのにそこに疑問を抱かせないのは、乗れてるかどうかの違いですね。
「町の人がすんなり受け入れるのがよく分からなかった」というのは、直接的には『七人の侍』で菊千代が板木を打って百姓と侍のあいだを取りなすエピソードに該当するものが『マグニフィセント・セブン』にはないからですね。
でも『マグニフィセント・セブン』にはそれに代わる別のものが描かれています。
町の住民がよそ者のガンマンたちを受け入れるのは、次の三点によるものでしょう。
・同じ町の住民であるエマとテディQが連れてきた人間だから
・やってくるなり、ボーグ側の保安官助手22人を血祭りにあげ、頼り甲斐があることと、どちらの味方かを体を張って示したから(『七人の侍』にはない描写)
・ガンマンたちと共闘するのが嫌な住民は町を出ていったから(『七人の侍』にはない描写)
特に重要なのは三点目でしょう。『七人の侍』の百姓たちが、逃げ場のない運命共同体であるのに対して、本作の住民たちは他から移住してきた者たちで、命をかけてまで町に留まる必要はない。ガンマンたちを受け入れる気のない者は荷物をまとめて出て行ってしまいますから、残ったのはガンマンたちとの共闘を自分の意志で選んだ者たちなのです。町の住民たちがガンマンたちをすんなり受け入れたわけではなくて、本作は相当の覚悟を固めて残った一部の住民の物語なんですね。
以上に挙げたようなことはふじき78さんも読み取れたはずですし、作品に乗れていれば気にもしなかったでしょう。でも気になったということは、映画のかなり早い時点から『七人の侍』に比べて説得力がないことに引っかかっていたのだと思います。
思うに、『七人の侍』と『マグニフィセント・セブン』の最大の違いは、映画の序盤、一人目が加わるまででしょう。それは侍やガンマンに関することではありません。
『七人の侍』はなかなか侍が登場せず、百姓が主人公なんじゃないかと思うほど、百姓たちの描写が続きます。野武士の襲撃にどう対処しようか話し合い、いつまで経っても結論を出せない百姓たち。侍を雇うことにはしたものの、誰にも相手にされず、なけなしの米まで失って途方に暮れる百姓たち。そういう描写がずーっと続いて、いい加減に誰か百姓を助けてやれよ、と云いたくなった頃にようやく勘兵衛と出会い、ところがその勘兵衛も「他を当たってくれ」と云い残して去ろうとする。観客はそんな百姓たちの苦労を見ているから、侍が一人でも味方につけば嬉しいし、侍たちが村に到着したら「せっかく来てくれたんだから歓迎しろよ」と思います。
『マグニフィセント・セブン』ではその苦労がバッサリ削られ、エマはいきなりサム・チザムに出会って助っ人を引き受けてもらえたように見えます。本当は苦労しているのかもしれないけれど、具体的な描写がないから『七人の侍』のような喜びを感じないし、七人が来てくれたありがたみも薄いのかなと思います。
でも、『七人の侍』の上映時間は207分、一方『マグニフィセント・セブン』の上映時間は133分です。上映時間とエピソードの兼ね合いを考えれば、エマがガンマンを探して苦労する描写が削られるのは致し方ないことかと。リメイクである以上、七人の勇者が集まるのは既定路線なのですから、そこを丁寧に繰り返すよりも、後半のアクションシーンに尺を費やしたのは間違いではないと思います。今のご時世、上映時間が3時間半に及ぶ二部構成のアクション映画を作るわけにはいきませんからね。
付け加えるなら、同じ集団の中では濃密な人間関係を築くけれど、よそ者には猜疑心が強い(手を貸さない、受け入れない)日本人と、見知らぬ人とでも信頼関係を築きやすい米国人との文化の違いも映画のそこここに影響しているように思います(日米の文化的な違いに関しては、山岸俊男氏の研究を引用しつつ別の記事で書きましたので、ここでは繰り返しません)。
こうして改めて整理すると、『マグニフィセント・セブン』はいよいよ傑作だと感じます。
エルマー・バーンスタイン作のテーマ曲が流れると、目頭が熱くなりましたよ:-)
本作を楽しめなかったのは残念ですね。
ダメだった点をコメントしていただきましたが、作品に乗れていればこういったことは気にならなかったかもしれません。これらが原因で映画に乗れなかったというよりも、映画に乗れてないからこういったことが目につくんじゃないでしょうか。
たとえば、「自分の命を賭けてまで何で儲けにならない戦いに進んだのか」ということ。
『七人の侍』でも久蔵や平八が戦いに加わる理由については説明がありませんし、七郎次や勝四郎(それに菊千代)は勘兵衛の人柄に惚れてついてきただけで、これから待ち受ける戦いがどんなものかをちゃんと吟味した上で引き受ける描写があるのは最初に決めた勘兵衛と二番目の五郎兵衛ぐらいなものです。あとは、心あるものは参加してとうぜんという流れができた中で、次の参加者は誰かということに観客の目を向けさせているから、参加を決める理由やいきさつは端折られているんですね。
本作でも一人ひとりの参加に至る心情が丁寧に描かれているとは云い難いですが、そこをこってり描写すると浪波節っぽくなって白けてしまうおそれがあるから、『七人の侍』同様はじめの1~2人だけちゃんと描けば良いのだと思います。
ふじき78さんがリーダーとなるサム・チザムの参加については疑問を抱かないところからすると、肝は二番目に参加するギャンブラーのジョシュ・ファラデーですね。
『七人の侍』では二番目が決まるまでにあれこれあって、ようやく片山五郎兵衛が引き受けてくれる。そこで流れができるから、三番目以降は説明を省略しても気にならなくなります。
ではジョシュ・ファラデーはどういう経緯で参加するかというと、これがとてもクールです。
ジョシュ・ファラデーはサム・チザムが乗り込んできた酒場で賭けポーカーに興じています。白人だけで楽しんでいる酒場に銃を持った黒人がやってきて不穏なことを云い出すから、酒場は一気に険悪になる。この酒場のシークエンスは、大勢の敵を一気に蹴散らすサム・チザムの腕の良さや、賞金を被害者の遺族に渡すように指示するチザムの義侠心を印象づけるところですが、同時に、
・白人全員が黒人ガンマンを懲らしめようとする中で、ただ一人ジョシュ・ファラデーだけがチザムを背後から襲おうとする白人を制することで、ジョシュ・ファラデーが損得抜きに行動する義侠心の持ち主であること
・しかも酔っ払いとは思えぬ身のこなしから、ジョシュ・ファラデーが並々ならぬ腕前の持ち主であること
・サム・チザムは鏡に映った光景を目にして、ジョシュ・ファラデーの腕前と心根を見抜いたこと
を示しています。だからローズ・クリークに行くことにしたサム・チザムはジョシュ・ファラデーに声をかけるのですし、ジョシュ・ファラデーも馬の代金を肩代わりしてもらったことを云い訳に腰を上げます。本当は熱い義侠心で通じ合っているのに、そんな照れ臭いことは表にせず、口先では馬の代金が残ってるとかどうでもいい理由しか云わないのが、カッコイイと思うのです。
ジョシュ・ファラデーが加わるまでがすんなり飲み込めれば、三番目以降のメンバーがさしたる説明もなしに加わることにも、彼らが寝返らないことにも違和感がないでしょう。
メキシコ人のバスケスについて、劇中ではテキサス・レンジャーを殺して賞金首になったことくらいしか説明がありませんが、権力を笠に着てネイティブ・アメリカンやメキシコ人に横暴に振舞ったといわれるテキサス・レンジャーに対してメキシコ人の身であえて刃向うのですから、彼もたいへんな義侠心の持ち主なのでしょう。でもそんな説明がなくても、サム・チザムが仲間に入れたいと考えた人物というだけで充分なはずです。
そこに納得感がないとしたら、たぶん、ふじき78さんはすでに乗れてなかったんでしょうね。
『七人の侍』の侍たちだって野武士側に寝返ることはできるし、寝返る以前に米を奪って逃げる選択肢もあるのに彼らはそうしません。特に説明もないのにそこに疑問を抱かせないのは、乗れてるかどうかの違いですね。
「町の人がすんなり受け入れるのがよく分からなかった」というのは、直接的には『七人の侍』で菊千代が板木を打って百姓と侍のあいだを取りなすエピソードに該当するものが『マグニフィセント・セブン』にはないからですね。
でも『マグニフィセント・セブン』にはそれに代わる別のものが描かれています。
町の住民がよそ者のガンマンたちを受け入れるのは、次の三点によるものでしょう。
・同じ町の住民であるエマとテディQが連れてきた人間だから
・やってくるなり、ボーグ側の保安官助手22人を血祭りにあげ、頼り甲斐があることと、どちらの味方かを体を張って示したから(『七人の侍』にはない描写)
・ガンマンたちと共闘するのが嫌な住民は町を出ていったから(『七人の侍』にはない描写)
特に重要なのは三点目でしょう。『七人の侍』の百姓たちが、逃げ場のない運命共同体であるのに対して、本作の住民たちは他から移住してきた者たちで、命をかけてまで町に留まる必要はない。ガンマンたちを受け入れる気のない者は荷物をまとめて出て行ってしまいますから、残ったのはガンマンたちとの共闘を自分の意志で選んだ者たちなのです。町の住民たちがガンマンたちをすんなり受け入れたわけではなくて、本作は相当の覚悟を固めて残った一部の住民の物語なんですね。
以上に挙げたようなことはふじき78さんも読み取れたはずですし、作品に乗れていれば気にもしなかったでしょう。でも気になったということは、映画のかなり早い時点から『七人の侍』に比べて説得力がないことに引っかかっていたのだと思います。
思うに、『七人の侍』と『マグニフィセント・セブン』の最大の違いは、映画の序盤、一人目が加わるまででしょう。それは侍やガンマンに関することではありません。
『七人の侍』はなかなか侍が登場せず、百姓が主人公なんじゃないかと思うほど、百姓たちの描写が続きます。野武士の襲撃にどう対処しようか話し合い、いつまで経っても結論を出せない百姓たち。侍を雇うことにはしたものの、誰にも相手にされず、なけなしの米まで失って途方に暮れる百姓たち。そういう描写がずーっと続いて、いい加減に誰か百姓を助けてやれよ、と云いたくなった頃にようやく勘兵衛と出会い、ところがその勘兵衛も「他を当たってくれ」と云い残して去ろうとする。観客はそんな百姓たちの苦労を見ているから、侍が一人でも味方につけば嬉しいし、侍たちが村に到着したら「せっかく来てくれたんだから歓迎しろよ」と思います。
『マグニフィセント・セブン』ではその苦労がバッサリ削られ、エマはいきなりサム・チザムに出会って助っ人を引き受けてもらえたように見えます。本当は苦労しているのかもしれないけれど、具体的な描写がないから『七人の侍』のような喜びを感じないし、七人が来てくれたありがたみも薄いのかなと思います。
でも、『七人の侍』の上映時間は207分、一方『マグニフィセント・セブン』の上映時間は133分です。上映時間とエピソードの兼ね合いを考えれば、エマがガンマンを探して苦労する描写が削られるのは致し方ないことかと。リメイクである以上、七人の勇者が集まるのは既定路線なのですから、そこを丁寧に繰り返すよりも、後半のアクションシーンに尺を費やしたのは間違いではないと思います。今のご時世、上映時間が3時間半に及ぶ二部構成のアクション映画を作るわけにはいきませんからね。
付け加えるなら、同じ集団の中では濃密な人間関係を築くけれど、よそ者には猜疑心が強い(手を貸さない、受け入れない)日本人と、見知らぬ人とでも信頼関係を築きやすい米国人との文化の違いも映画のそこここに影響しているように思います(日米の文化的な違いに関しては、山岸俊男氏の研究を引用しつつ別の記事で書きましたので、ここでは繰り返しません)。
こうして改めて整理すると、『マグニフィセント・セブン』はいよいよ傑作だと感じます。
エルマー・バーンスタイン作のテーマ曲が流れると、目頭が熱くなりましたよ:-)
No title
昨年の反動か今年は黒人の存在感が目立ったアカデミー賞。作品賞も黒人が主人公のお話がもっていきましたし、デンゼル・ワシントンの監督作品もノミネートされてましたね
トランプの傲岸な態度にハリウッドは真っ向から反旗を翻しているように見えます。この姿勢がアメリカをいい方向に導いていけばよいのですけど
そういえばオリジナルの『荒野の七人』はなぜ西部というよりメキシコが主な舞台なのか、いまだに疑問ではあります。製作陣にアメリカの強引な領土拡張を申し訳なく思ってた人でもいたのでしょうか。単に「なんとなく」ということも考えられますが
トランプの傲岸な態度にハリウッドは真っ向から反旗を翻しているように見えます。この姿勢がアメリカをいい方向に導いていけばよいのですけど
そういえばオリジナルの『荒野の七人』はなぜ西部というよりメキシコが主な舞台なのか、いまだに疑問ではあります。製作陣にアメリカの強引な領土拡張を申し訳なく思ってた人でもいたのでしょうか。単に「なんとなく」ということも考えられますが
Re: No title
SGA屋伍一さん、こんにちは。
第89回アカデミー賞の授賞式では、司会者、受賞者、プレゼンターたちが次々にトランプ大統領への批判を口にしました。映画人の多くは反旗を翻しているようですが、授賞式の視聴率は過去9年間で最低。とうぜんのことながら、観るのをやめた視聴者は共和党支持層だそうです。
http://forbesjapan.com/articles/detail/15380
反旗を翻されているのはどちらなのか……。
ただ、逆説的に聞こえるかもしれませんが、トランプが大統領に就任した以上、ある程度国民から支持されることには良い面もあるかもしれません。
米国がいとも簡単に軍事力を行使する国家であることを懸念する向きもあります。そして人気のない大統領が支持率を上げるのに最適な手段は、軍事力の行使ですから。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/book/15/101989/032900024/
それはさておき、『荒野の七人』の舞台はなぜメキシコなのか。それは私も疑問でした。知ってる人は知ってることかもしれませんけど。
米国やメキシコの歴史に疎いので、識者に教えを乞いたいところではありますが、もしかしたら『七人の侍』の内容を米国に移植するのは難しいと考えられたからかもしれません。
『七人の侍』は日本の戦国時代の話です。同じ日本を舞台にしても、江戸時代だったら嘘っぽく感じられたでしょう。江戸時代は戦乱が収まって比較的平和だったイメージを抱く人が多いでしょうから。
米国でも、いくら19世紀の西部に無法者がいたとはいえ、盗賊団が頻繁に襲撃を繰り返しているのに保安官もレンジャーも何もしないなんて不自然なのかもしれません。そもそも住民が武装もせず、移住もせず、略奪に甘んじているのは、米国らしくないではありませんか。冒頭でクリスとヴィンが出会う米国の町には、武装した住民がぞろぞろいました。
一方、米国に比べればメキシコは政情が不安定で、治安が行き届かないイメージがあるかもしれません。少なくとも、『荒野の七人』が公開された1960年当時の米国の観客にとっては、自国では考えにくくても19世紀のメキシコならひょっとして……と感じられたのではないでしょうか。
『マグニフィセント・セブン』では、保安官もその助手の民間警備会社の面々もボーグに買収され、彼らに町が占拠されている設定にすることで、このような問題を回避しています。だからこそ敵は『荒野の七人』のような盗賊団ではなく、大富豪である必要があったのでしょう。
なお、記事内の対応表のサム・チザムのところに、勘兵衛だけではなく菊千代とも対応することを書き加えました。
サム・チザムを勘兵衛やクリスのようなリーダーとして見ているだけだと、彼が自分の過去を語ったり、敵のボスを追い詰める意味が判らなくなりますからね。
第89回アカデミー賞の授賞式では、司会者、受賞者、プレゼンターたちが次々にトランプ大統領への批判を口にしました。映画人の多くは反旗を翻しているようですが、授賞式の視聴率は過去9年間で最低。とうぜんのことながら、観るのをやめた視聴者は共和党支持層だそうです。
http://forbesjapan.com/articles/detail/15380
反旗を翻されているのはどちらなのか……。
ただ、逆説的に聞こえるかもしれませんが、トランプが大統領に就任した以上、ある程度国民から支持されることには良い面もあるかもしれません。
米国がいとも簡単に軍事力を行使する国家であることを懸念する向きもあります。そして人気のない大統領が支持率を上げるのに最適な手段は、軍事力の行使ですから。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/book/15/101989/032900024/
それはさておき、『荒野の七人』の舞台はなぜメキシコなのか。それは私も疑問でした。知ってる人は知ってることかもしれませんけど。
米国やメキシコの歴史に疎いので、識者に教えを乞いたいところではありますが、もしかしたら『七人の侍』の内容を米国に移植するのは難しいと考えられたからかもしれません。
『七人の侍』は日本の戦国時代の話です。同じ日本を舞台にしても、江戸時代だったら嘘っぽく感じられたでしょう。江戸時代は戦乱が収まって比較的平和だったイメージを抱く人が多いでしょうから。
米国でも、いくら19世紀の西部に無法者がいたとはいえ、盗賊団が頻繁に襲撃を繰り返しているのに保安官もレンジャーも何もしないなんて不自然なのかもしれません。そもそも住民が武装もせず、移住もせず、略奪に甘んじているのは、米国らしくないではありませんか。冒頭でクリスとヴィンが出会う米国の町には、武装した住民がぞろぞろいました。
一方、米国に比べればメキシコは政情が不安定で、治安が行き届かないイメージがあるかもしれません。少なくとも、『荒野の七人』が公開された1960年当時の米国の観客にとっては、自国では考えにくくても19世紀のメキシコならひょっとして……と感じられたのではないでしょうか。
『マグニフィセント・セブン』では、保安官もその助手の民間警備会社の面々もボーグに買収され、彼らに町が占拠されている設定にすることで、このような問題を回避しています。だからこそ敵は『荒野の七人』のような盗賊団ではなく、大富豪である必要があったのでしょう。
なお、記事内の対応表のサム・チザムのところに、勘兵衛だけではなく菊千代とも対応することを書き加えました。
サム・チザムを勘兵衛やクリスのようなリーダーとして見ているだけだと、彼が自分の過去を語ったり、敵のボスを追い詰める意味が判らなくなりますからね。
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トラックバックの反映にはしばらく時間がかかります。ご容赦ください。マグニフィセント・セブン
1879年、アメリカ西部の町ローズ・クリーク。 苦労して町を築いた開拓者たちは、金の採掘を目論む冷酷非道な資本家ボーグから立ち退きを迫られていた。 ボーグらに夫を殺された未亡人エマは、賞金稼ぎの治安官サムに助けを求める。 ワケありのアウトロー7人は町の用心棒となり、ボーグの軍団と戦うことに…。 アクション。
『マグニフィセント7』を109シネマズ木場4で観て、好きになりたかったのにふじき★★
▲7人
五つ星評価で【★★出来れば好きになりたかった】
『七人の侍』は偉大なる傑作だし、
『荒野の七人』はクリーンヒットな佳作だと思ってる。
そいで、今回のはちょっと ...
荒野の七人2017 黒澤明&アントワン・フークア 『マグニフィセント・セブン』
映画史に燦然と名を輝かせ、いまだ多くのファンから愛されている『七人の侍』、および
映画:マグニフィセント・セブン The Magnificent Seven ちょっと悩ましい出来の、超「名門」な血筋作品のリメイク。
名画「荒野の七人」(1960年)のリメイク。
そもそもは日本映画「七人の侍」(1954年)がそのルーツ。
という超「名門」な血筋(笑)
そこで考えるに、再映画化のポイントは以下の3つに尽きると思う。
①如何に魅力的なメンバーを集めるか
②そして彼らをどう輝かせるか
③あの名曲を、どこでどう使うか
その視点でみると、
①如何に魅力的なメンバーを集める...
「マグニフィセント・セブン」
キャストと設定を変えて現代に蘇った「荒野の七人」である。いやー痺れた。エンディングであの曲がかかった時には椅子から落ちそうになる位感激した!デンゼル・ワシントンのガン捌き、超絶カッコいい!だが、美味しい所を全部持っていったのはクリス・プラットでしょう!と思っていたら、いやいや、究極美味しい所を全部持っていったのは、イーサン・ホークに他ならない。「グッドナイト・ロブショーを探せ」というセリフが...
マグニフィセント・セブン
THE MAGNIFICENT SEVEN
2016年
アメリカ
132分
西部劇/アクション
劇場公開(2017/01/27)
監督:
アントワーン・フークア
『サウスポー』
製作総指揮
アントワーン・フークア
出演:
デンゼル・ワシントン:サム・チザム
クリス・プラット:ジョシュ・ファラデー
イーサン・ホーク:グッドナイト・ロビショー
ヴィンセント・ドノフリオ:ジャック・ホーン...