『沈黙‐サイレンス‐』 トランプを大統領にする国(その1)
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「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
刺激的な宗教映画が相次いで公開された。一つは一世紀半ほど昔の話、もう一つは四世紀近く昔の話だが、どちらも極めて今日的な作品だ。
マーティン・スコセッシ監督の『沈黙‐サイレンス‐』は、波乱万丈の展開と観客の心をキリキリ締め付ける緊張感で、抜群に面白い。
文明人の鑑たる前任者が、世界の果ての秘境に行って変節してしまったという報が届く。『アメイジング・スパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールドと『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のアダム・ドライヴァーが演じる二人の若者は、自分たちこそが秘境に文明をもたらし、前任者を救出するのだと意気込んで、世界の果てにあるという、野蛮で不思議に満ちた国・日本に向かう。そこで彼らを待ち受ける、冒険、冒険、また冒険。
さすがは『ヒューゴの不思議な発明』のマーティン・スコセッシというべきか、実話に基づくとは思えないほど、ファンタジー・アドベンチャーの定石を踏まえている。
モデルになったのはイタリアのイエズス会宣教師、ジュゼッペ・キアラ神父だ。1643年、彼は仲間とともにキリシタン弾圧が激しい日本に潜入し、イエズス会の管区長代理クリストヴァン・フェレイラ神父の救出を試みる。なんとフェレイラは、キリスト教を広める宣教師でありながら、弾圧下の日本でキリスト教を棄ててしまったらしい。
本作はクリストヴァン・フェレイラ役に『ギャング・オブ・ニューヨーク』の神父や『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』の偉大なジェダイ・マスターを演じたリーアム・ニーソンを配し、ジュゼッペ・キアラ神父を架空のポルトガル人セバスチャン・ロドリゴ神父に置き換えつつ、おおむねジュゼッペ・キアラの生涯をそのままたどっている。
ファンタジー・アドベンチャーらしい描き方ではあるものの、本作は愉快で楽しい映画ではない。棄教させられるほど恐ろしい目に遭ったフェレイラ神父を救出するはずのジュゼッペ・キアラ神父もまた、日本人の過酷な拷問に苦しめられ、遂には棄教したとされるからだ。本作の中心をなすのは、肉体的、精神的な拷問の描写である。
162分の上映時間のほとんどが拷問に次ぐ拷問だ。来日した神父や隠れキリシタンたちは、熱湯を浴びせられたり、すまきにされて海に放り込まれたり、逆さ吊りにされたり、問答無用に首をはねられたりするが、その多くは信仰を棄てることなく責め苦の末に死んでいく。
「なぜ彼らはこれほど苦しまなければならないのだ。」ロドリゴ神父は問い続ける。
肉体的な拷問以上に主人公を苦しめるのが、精神的な拷問だ。幕府は、ロドリゴ神父に見せつけるように多くの者を拷問し、殺していく。彼が棄教しない限り、それは終わることがない。そのうえ幕府側の井上筑後守や通辞から、キリスト教は日本に根付かないと繰り返し諭される。
やるせないのは、命を捨てて信仰を貫くキリシタンたちこそが、キリスト教が日本に根付かないことを証明してしまっていることだ。
ロドリゴ神父は、日本のキリシタンたちがロザリオの珠や十字架を欲しがることに不安を覚える。ロザリオはカトリック教会でよく使われるものだから、それを持ちたいと思うのはもっともだ。だが、ロザリオは数珠状に連なる珠を使って次にどの祈りを唱えるか確かめるための道具だから、バラバラになった珠を一つだけ持っても意味がない。にもかかわらず、隠れキリシタンたちはたった一つの珠をもらうだけで喜び、ありがたがっている。もはや祈りを唱える道具を欲しているのではなく、珠や十字架といった物を信仰の対象にしているとしか思えない。これは、カトリック教会が教えていることとはまったく違う(プロテスタントはロザリオすら持とうとしない)。

また、ロドリゴは隠れキリシタンに「死んだらパライソ(天国)に行くんですね?」と問われてビックリする。キリスト教では必ずしも死んだら天国に行くとは教えていないのだが、日本人は「死んだら成仏する」というのと同じノリで天国に行くものだと思っているらしい。
彼らが信仰しているのはたしかにキリスト教のはずなのだが、少し異質で、日本独自に変化してしまっているのだ。
棄教するようにロドリゴを説得する井上筑後守は、「この国は沼だ」と云い、「キリスト教は根付かない」と説明する。そして太陽を指差して云うのだ、「日本人が信仰しているのはあれだ」と。沼に木を植えても根付かないが、沼を照らす太陽のような自然物なら信仰の対象たり得るのだ。
自然崇拝は世界各地に見られるし、とりわけ太陽の神格化は多くの神話・信仰に見られるところだが、先進国になってもこれほど自然物への崇拝が濃厚なのは日本の特徴かもしれない。日本各地には、太陽を神格化した天照大御神を祀る神社があり、今も多くの参拝客を集めている。
本作の原作者、遠藤周作氏が意識したのも、日本におけるキリスト教の変容と自然崇拝の濃厚さだろう。
何もキリスト教が弾圧された江戸時代だけのことではない。憲法第20条で信教の自由が保障された現在の日本でも、キリスト教は日本の風土と折り合いをつけて変化している。
キリスト教徒が行う地鎮祭はその一例だろう。日本には家を建てたり土木工事に取り掛かる前に地鎮祭を行う風習がある。これはその名のとおり、土地の神を鎮める祭りのことだ。土地の神を信仰していなければ必要ないはずなのだが、家を建てるときに地鎮祭を行うキリスト教徒は珍しくない。さすがに地鎮祭とは呼ばずに起工式と呼んだりするが、同じことである。
キリスト教だけの話ではない。劇中、浅野忠信さんが演じる通辞は、キリスト教のみを信奉するロドリゴ神父に「日本には仏教がある。我々は仏教徒だ。」と主張するが、仏教とて日本の沼の深さにはかなわない。現に仏式の地鎮祭(起工式)を行う人がいる。土地の神への信仰は、仏教とは関係ないにもかかわらずだ。
仏教が日本に伝来して千五百年ほど経つが、仏教の基本となる組織「僧(サンガ)」が日本に成立したことはないという。それどころか、「僧」という言葉はサンスクリット語で「集団」を意味する「サンガ(samgha)」が語源なのに、日本では仏門に入った個人を僧と呼んで済ませたりする。
そもそも日本の伝統仏教は、釈迦の入滅から数百年経ってからサンスクリット語で書かれた仏典を、さらに中国語に訳したものを輸入し、その過程で翻案・解釈された教えに基づいている。だから、釈迦が語った言葉に近いパーリ語を学び、パーリ語の仏典を集め、パーリ語仏典に通じたミャンマーやスリランカの高僧に教えを乞うたオウム真理教のメンバーに「日本の仏教はすべてニセモノだ」と云われても反論できないという。カルト集団の伸張を止められないのだ。
こんな日本の自称「仏教徒」が、イエズス会からじきじきに派遣されたロドリゴ神父に向かって「日本には仏教がある」と主張するのだから、とんだお笑いぐさだ。
■土着化する宗教
もっとも、宗教が変容してしまうのは日本だけのことではない。
典型的なのがクリスマスだろう。イエス・キリストが12月25日に誕生したわけでもないのに、世界各地のキリスト教徒はこの日にイエスの降誕(誕生)を祝っている。
キリスト教化する前から、欧州北部ではこの日にゲルマン神話の主神オーディンに豚などを捧げていたし、欧州南部もギリシャ・ローマ神話に登場するワインの神バッカス(ディオニッソス)の生誕を12月25日として祭りを行っていたという。ゾロアスター教やミトラ教の神ミトラの生誕祭も12月25日だ。
この日は、北半球で日照時間が短くなっていく日々が終わり、これからは日が伸びるめでたいときなのだ。だから、キリスト教に関係なく、まず12月25日頃にお祝いをする冬至祭の習俗が世界中にあり、新興のキリスト教はその影響を受けたというわけだ。
19世紀になると、オーディンが起源とも云われるファーザー・クリスマスが、ローマ帝国の司教・聖ニコラオスと同化されるようになり、現在のサンタクロース像が形作られていく。
クリスマスツリーもキリスト教とは何の関係もなかった。あれはゲルマン人の樹木信仰を受け継いだもので、冬でも緑を保つ常緑樹を生命力や繁栄の象徴として祀っているのだ。その意味では、日本の松飾りと同じである。樹木信仰と関係ないはずのキリスト教徒がツリーを飾るよりも、自然崇拝が濃厚な日本人が飾るほうがまだ似合っているかもしれない。
そして宗教の変容は、マーティン・スコセッシ監督が生まれ育った米国でも起きている。
マーティン・スコセッシ監督が『沈黙』を映画化したのは、何も四世紀も昔の、遠い日本の出来事を撮りたかったわけではないだろう。この物語が信仰や生き方といった普遍的なテーマを抱えているのはもちろんだが、宗教が土着化し、本来信仰していたものとは違ったものになってしまう状況が、スコセッシ監督を取り巻く米国社会に似ていたからではないだろうか。
マーティン・スコセッシは1942年にニューヨークで生まれた。彼の祖父母はイタリアのシチリア島からの移民であり、彼は敬虔なカトリックの家庭で育った。カトリックの司祭を目指して15歳で神学校に入った彼は、けれども1年で退学してしまう。[*1]

同じキリスト教徒なのに、なぜそこまで争うのか――と傍からは思ってしまうが、松本佐保氏によれば、「カトリックではその頂点である教皇がトップなので、英国やアメリカでは、国王や大統領より教皇に忠誠を誓うカトリックを、裏切り者で国家主権を脅かす者」とみなしたのだという。
自身が非WASP、すなわちイタリア系のカトリックの子だったスコセッシ監督が、『ギャング・オブ・ニューヨーク』で非WASPのリーダーとして戦いの先頭に立ったがために殺されるヴァロン神父を演じたリーアム・ニーソンに、本作ではカトリック教会の指導的立場にありながら拷問に屈して棄教してしまうフェレイラ神父を演じさせたのは象徴的だ。『ギャング・オブ・ニューヨーク』ではヴァロン神父の命懸けの抵抗がレオナルド・ディカプリオ演じる息子に受け継がれ、カトリックによるプロテスタントへの復讐が行われるのだが、本作のフェレイラ神父は、かつての教え子ロドリゴ神父に棄教するよう説得する側に回る。
フェレイラは単に本作の中で棄教するだけではないのだ。同じリーアム・ニーソンが演じることで、『ギャング・オブ・ニューヨーク』でカトリックの仲間のために死ぬまで戦った神父像をも打ち砕いてしまうのだ。[*2]
信仰とは何なのか。ここにはマーティン・スコセッシの深い苦悩が刻まれている。
とりわけ米国のキリスト教の変容ぶりを示すのが、この世の成功に対する考え方であるという。森本あんり氏は次のように要約する。
---
アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
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20世紀、プロテスタントのマーブル協同教会で60年以上にわたり牧師を務めたノーマン・ヴィンセント・ピールは、ポジティブシンキングを唱えて米国に大きな影響を与えた。1952年に出版したポジティブシンキングの本は一躍ベストセラーとなり、今も世界中で読まれている。
ポジティブシンキングには良い面もあるだろう。ポジティブシンキングを実践することで幸せに暮らす人もいるかもしれない。
しかし、成功を神の祝福の徴(しるし)と考えることに、危うさも感じてしまう。神が祝福したのは、成功者だけなのだろうか。現に苦しみ、成功からほど遠い人は、神に祝福されていないのだろうか。神に祝福されないのなら、弱者は何をよすがに生きていけばよいのだろうか。ピールの教えは、弱者に対して極めて残酷になりかねない。
ピールは、米国の第37代大統領リチャード・ニクソンや第40代大統領ドナルド・レーガンと親しい間柄だったという。2017年に第45代大統領に就任した大富豪のドナルド・トランプはピールの信奉者であり、最初の結婚式をこの教会で、ピールの司式で挙げている。トランプは大統領に就任するや否や、難民の受け入れ停止やいくつもの国からの入国制限を命令して、大騒ぎを引き起こした。
興味深いことに、かつてあれほど対立した米国のカトリックとプロテスタントは、20世紀に入ると反共産主義で一致し、妊娠中絶やフリーセックスを肯定する60年代のカウンター・カルチャーへの反発を強めていく。
そんな中、まさに60年代に青春時代を過ごしたマーティン・スコセッシは、聖職者になるのではなくロックや映画にのめりこんでいた。
スコセッシ監督は、本作の公開に際して今の世相や時代を意識しているかを問われ、こう答えている。
「私としては、時代に対して響くことを願っています。否定するのではなく、受け入れるということを描いている映画ですので、それも伝わるといいなと思っています。まさに映画の中で、キチジローが「このような世の中において弱き者が生きる場はどこにあるのか?」と問うたように、この作品は弱き者をはじくのではなくて、彼らを受け容れ、抱擁するものでなくてはならない。弱き者が強くなっていくこともあれば、そう上手くはいかない場合もある、しかし、人が人として生きることの真価とは何なのだろうかということについての議論を、この映画は少なくとも触発することが出来るのではないか。必ずしも、社会に生きる誰もがバットを振り回すことが出来るような、強き者でなければならないということはない、強くあることが、文明を維持していく上で唯一必要な手段であるということはないのです。」
この言葉を聞けば、『沈黙‐サイレンス‐』が遥か昔の遠い異国の物語ではなく、今現在の米国に向けた作品であることが判るだろう。
これは遠藤周作氏が、そしてスコセッシ監督が神の声について物語る作品なのだ。どんなに拷問を受けても棄教を迫られても、信仰を持ち続けたロドリゴ神父の姿を通して、スコセッシ監督はすべての弱き者と強き者に真摯に問いかけている。
「強き者」「弱き者」という言葉が様々な意味を含んでいることにも留意が必要だろう。それは富者と貧者や、権力者と隷属する者を意味するだけでなく、確固たる信仰を持ち、強く主張できる人と、信心が揺らぎ、ときに懐疑心を抱く人をも指している。本作のキチジローのように。神学校に進んだりやめたりするスコセッシ監督のように。

劇中、踏み絵を迫られた隠れキリシタンたちは絵を踏むことができない。十字架に唾を吐くことができない。物を信仰の対象にしてしまう彼らだから、女や男の像がかたどられた木や金属版を差し出されて、これが聖母マリアだ、イエス・キリストだと云われれば踏めなくなってしまうのだ。ただの木や金属の板なのだから踏んでしまえば良いものを、死の苦しみを味わってもそれができない。
はじめはロドリゴ神父も絵踏みができなかった。しかし、「踏むがいい」というイエスの言葉を聞くことで、遂に彼は踏み絵を踏めるようになり、感極まって泣き崩れる。それからの彼は絵を踏むことに抵抗を覚えなくなるし、紙に「棄教します」と書いて提出するのも平気になる。それらはただの絵や文字でしかなく、彼の心の中の信仰とは何の関係もない物体だったからだ。
遠藤周作氏の弟子・加藤宗哉氏によれば、この点に関して遠藤周作氏には後悔があったという。
ロドリゴが信仰を棄てていないことが日本の読者には判りにくかったと、遠藤周作氏は気にかけていたそうだ。ロドリゴが「私は転びます」という書を何度も書く場面は、そのたびに彼が信仰を取り戻していたことを読者に知らせる意図だったそうだが、それを汲み取れない読者が多かったという。
映画の観客も、ロドリゴが絵踏みして泣き崩れる場面を観て、もしかしたらロドリゴが棄教したと思ったかもしれない。しかし映画は、ロドリゴがキリスト教のしるしを死ぬまで手放さなかったことを映像で示し、彼の信仰の深さを表現している。
スコセッシ監督は語る。
「信じるということは、おのずと享受できるものではないと思っています。自らが欲して勝ち取らなければならないものです。日々考えたり、書いたり、映画を作ったりして人間とはなんなのか、人間とは良いものなのか、悪しき存在なのか」
そして、信仰に迷い、ときには信仰を棄ててみせるキチジローについて、「キチジローは我々を代表しているキャラクターだ」とまで述べている。
スコセッシ監督も、神父を目指したり、神学校をやめたり、信仰をテーマにした映画を撮ったりすることを通じて、信じるということをみずから欲して勝ち取ろうとしているのだろう。

踏み絵を前にしたロドリゴ神父が「踏むがいい」というイエスの言葉を聞くように、本作の神は沈黙していない。なのに、題名で多くの読者に誤解を与えてしまったことを遠藤周作氏は悔やんだそうだ(遠藤周作氏が用意していた題は『日向の匂い』)。
加藤宗哉氏は、スコセッシ監督が「踏むがいい」を「It's all right.…… Step on me」と訳したことを絶賛している。踏みにじるようなニュアンスではなく、「踏んでもいいんだよ」という優しいイメージを打ち出したスコセッシ監督の感性に感嘆したという。
これがスコセッシ監督の人間を見る目の根底にあるものなのだろう。本作が描くのは強き者の決断ではなく、圧力に屈しない強い信念でもなく、弱き者がおずおずと一歩前へ踏み出す、そのささやかな(それでいて大切な)瞬間なのだと思う。
スコセッシ監督はこうも云っている。[*1]
「20歳か21歳のころ、神父を題材とした映画を撮りたいと考えていました。神父はエゴやプライドを捨てて、一歩を踏み出そうとする人を導くのです。映画『沈黙』に取り組みながら、これがまさにその話だと気づきました。別の映画で触れてはきましたが、若いころから自分の中にあったテーマを60年たってやっと作品にできたのです。」
『沈黙‐サイレンス‐』は、キリスト教徒であるとないとに関わらず、人生について、人の世について考えさせる見応えある作品だ。
だが……この映画は、成功は神の祝福の徴と考える人に響くだろうか。そんな考えを是とする社会を変えられるだろうか。
現に成功している人は、こう云い放つのではないだろうか。
「神が彼らを生かすつもりなら、弱い人間にはしなかった。」
まるで本作から抜き出したようなセリフだが、これは『沈黙‐サイレンス‐』の一節ではない。
『沈黙‐サイレンス‐』に続けて公開された映画『マグニフィセント・セブン』は、この言葉を巡る宗教戦争を描いていた。
(「『マグニフィセント・セブン』 トランプを大統領にする国(その2)」につづく)
[*1] マーティン・スコセッシ監督インタビュー BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」 NHK BS1 2017年1月2日 21時00分放映
[*2] フェレイラ神父役には、当初ダニエル・デイ=ルイスが予定されていたという。たび重なる撮影延期のため降板することになったが、『ギャング・オブ・ニューヨーク』でカトリックを虐殺しまくった彼がフェレイラ神父を演じていたら、やはり大きなインパクトがあったに違いない。
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監督・脚本・制作/マーティン・スコセッシ
脚本/ジェイ・コックス 原作/遠藤周作
出演/アンドリュー・ガーフィールド 窪塚洋介 アダム・ドライヴァー リーアム・ニーソン イッセー尾形 浅野忠信 笈田ヨシ 塚本晋也 小松菜奈 加瀬亮 キアラン・ハインズ
日本公開/2017年1月21日
ジャンル/[ドラマ] [時代劇]

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強き者と弱き者
この映画の原作、遠藤周作の「沈黙」を学生時代に読んだ時は、まだ幼かったせいか、深い意味は読み取れませんでした。ただ、キリストは優しい存在なのだと、救われた思いがしました。それでも、なぜ世界の歴史は今も昔も、宗教による対立や戦争が絶えることがないのか、疑問に思っていました。この作品の中のキリストは、声高に神の教えを語る強き者よりも、迷い苦しむ弱き者と一緒に歩いてくれる存在なのに。
映画を見終わったあと、何年ぶりかで小説を読み返してみましたが、小説の世界そのままに映画は描かれているとともに、現代の迷える世界がそこにはありました。なおかつ、ナドレックさんのレビューを読んで、この映画が世に問う意味は大きいなと思いました。スコセッシ監督が、日本の小説を日本を舞台にして、大きな問いかけを世界に発信してくれたこと、なおかつ、まだこの映画は終わってはいない、と言ってくれたことに、希望を託してみたいなと思ってしまいました。
映画を見終わったあと、何年ぶりかで小説を読み返してみましたが、小説の世界そのままに映画は描かれているとともに、現代の迷える世界がそこにはありました。なおかつ、ナドレックさんのレビューを読んで、この映画が世に問う意味は大きいなと思いました。スコセッシ監督が、日本の小説を日本を舞台にして、大きな問いかけを世界に発信してくれたこと、なおかつ、まだこの映画は終わってはいない、と言ってくれたことに、希望を託してみたいなと思ってしまいました。
Re: 強き者と弱き者
梅茶さん、こんにちは。
実のところ、私はこれまでスコセッシ監督の作品がいささか苦手でした。それほど観ているわけではないのですが、何となくそりが合わない気がしました。
しかし、本作には心の臓を射貫かれました。本作を観た後では、過去のスコセッシ監督作品の印象も変わるほどです。
この映画を今の世に問う意味は大きいですね。
スコセッシ監督は本作と今の時代の関連性について語る中で、こんな風におっしゃっています。
---
今の世の中に関して言えば、やはり一番危険にさらされているのが若い世代の皆さんだと思います。つまりここ最近、5年間ほどの間に生まれた子どもたちは、勝者が歴史を勝ち取っていく、世界を制覇していくということしか見ていない。そうなるまでには、様々な文脈があったけれども、それを飛び越えて、その現実しか知らないというのは悲惨な事態です。それしか知らなければ世界のからくりとはそういうものだと思ってしまう、それではいけないと思うわけです。
---
http://outsideintokyo.jp/j/interview/martinscorsese/
宗教や信仰に興味がないという人にも、観て欲しい映画ですね。
実のところ、私はこれまでスコセッシ監督の作品がいささか苦手でした。それほど観ているわけではないのですが、何となくそりが合わない気がしました。
しかし、本作には心の臓を射貫かれました。本作を観た後では、過去のスコセッシ監督作品の印象も変わるほどです。
この映画を今の世に問う意味は大きいですね。
スコセッシ監督は本作と今の時代の関連性について語る中で、こんな風におっしゃっています。
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今の世の中に関して言えば、やはり一番危険にさらされているのが若い世代の皆さんだと思います。つまりここ最近、5年間ほどの間に生まれた子どもたちは、勝者が歴史を勝ち取っていく、世界を制覇していくということしか見ていない。そうなるまでには、様々な文脈があったけれども、それを飛び越えて、その現実しか知らないというのは悲惨な事態です。それしか知らなければ世界のからくりとはそういうものだと思ってしまう、それではいけないと思うわけです。
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http://outsideintokyo.jp/j/interview/martinscorsese/
宗教や信仰に興味がないという人にも、観て欲しい映画ですね。
色褪せない名作
ナドレックさん、ありがとうございます。
私も、スコセッシ作品は特に好きと言うわけではなかったので、これから再度、見直してみようかなと思ってしまいました。
日本人は宗教というと、一部の人々を除いて、ちょっと身構えてしまう所がありますよね。でも、スコセッシ監督や遠藤周作氏のように、心の心柱に信仰心があることで、自分自身が積み上がっていく人々にとっては、神の在り方は重大問題なのかも知れません。日本は沼だ、という映画の中のセリフで、遠藤周作氏の「おバカさん」という小説を思い出しました。フランスから日本にやってきたナポレオンの末裔という主人公が、おバカさんと言われながら、遠藤という殺し屋に最後まで寄り添おうとするお話で、クライマックスに沼地での格闘が出てきます。主人公がイエスにも、ロドリゴ神父にも見え、そして沼地という日本で日本人として、キリスト教徒として迷える作者の深い思いが垣間見えて、スコセッシ監督に映画にしてもらいたいなぁと思ってしまいました。
私も、スコセッシ作品は特に好きと言うわけではなかったので、これから再度、見直してみようかなと思ってしまいました。
日本人は宗教というと、一部の人々を除いて、ちょっと身構えてしまう所がありますよね。でも、スコセッシ監督や遠藤周作氏のように、心の心柱に信仰心があることで、自分自身が積み上がっていく人々にとっては、神の在り方は重大問題なのかも知れません。日本は沼だ、という映画の中のセリフで、遠藤周作氏の「おバカさん」という小説を思い出しました。フランスから日本にやってきたナポレオンの末裔という主人公が、おバカさんと言われながら、遠藤という殺し屋に最後まで寄り添おうとするお話で、クライマックスに沼地での格闘が出てきます。主人公がイエスにも、ロドリゴ神父にも見え、そして沼地という日本で日本人として、キリスト教徒として迷える作者の深い思いが垣間見えて、スコセッシ監督に映画にしてもらいたいなぁと思ってしまいました。
No title
ナドレックさんもおっしゃられてますが、日本ほどある意味宗教に関していい加減な国はありませんよね。近代はそのいい加減さに一層拍車がかかっているような。そんなとらわれていないところがいい面であると同時に悪い面でもあるような。
いずれにせよ欧米の人たちの根底にはキリスト教や聖書があることを踏まえて映画を観ると、見えてなかったものがいろいろ見えてくる気がします。この映画のようにもろにそれを題材にする作品はかえって珍しいかもしれませんが
いずれにせよ欧米の人たちの根底にはキリスト教や聖書があることを踏まえて映画を観ると、見えてなかったものがいろいろ見えてくる気がします。この映画のようにもろにそれを題材にする作品はかえって珍しいかもしれませんが
Re: 色褪せない名作
梅茶さん、こんにちは。
日本では宗教というと身構える人が少なくないでしょうね。
しかし、そんな人でも初詣に行ったり、合格祈願や交通安全のお守りを買ったり、結婚式に仏滅を避けたり、子供の名前をつけるのに画数を気にしたり、厄年を話題にしたり、挙句の果てにテレビの占いで今日のラッキーカラーやラッキーアイテムをチェックしたりしますから、人間とは不用心にいろんなものを信じる生き物なんでしょう。
先日、伝統的なキリスト教の教派に入信した人の手記を読んだら、こんなことが書いてありました。
---
「もしも自分が情緒不安定なときにカルト宗教にコロっと勧誘されてしまったらどうしよう」「それなら、あらかじめ伝統宗教に入信しておけばよいのではないか」と考えたのです。
---
「宗教とメンヘラの関係性 信仰一世が見た伝統派キリスト教会について」(メンヘラ.JP)
http://menhera.jp/2108
これは私も賛同するところです。変なものに引っかかるくらいなら、先手を打って、緩いものに巻かれておいたほうがいいかもしれません。
スコセッシ監督や遠藤周作氏ほど信仰を深めようとしなくても、カジュアルな関わり方もあるのではないかと思います。
『おバカさん』、面白そうですね。スコセッシ監督が撮ったら見応えがあるでしょうね。
日本では宗教というと身構える人が少なくないでしょうね。
しかし、そんな人でも初詣に行ったり、合格祈願や交通安全のお守りを買ったり、結婚式に仏滅を避けたり、子供の名前をつけるのに画数を気にしたり、厄年を話題にしたり、挙句の果てにテレビの占いで今日のラッキーカラーやラッキーアイテムをチェックしたりしますから、人間とは不用心にいろんなものを信じる生き物なんでしょう。
先日、伝統的なキリスト教の教派に入信した人の手記を読んだら、こんなことが書いてありました。
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「もしも自分が情緒不安定なときにカルト宗教にコロっと勧誘されてしまったらどうしよう」「それなら、あらかじめ伝統宗教に入信しておけばよいのではないか」と考えたのです。
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「宗教とメンヘラの関係性 信仰一世が見た伝統派キリスト教会について」(メンヘラ.JP)
http://menhera.jp/2108
これは私も賛同するところです。変なものに引っかかるくらいなら、先手を打って、緩いものに巻かれておいたほうがいいかもしれません。
スコセッシ監督や遠藤周作氏ほど信仰を深めようとしなくても、カジュアルな関わり方もあるのではないかと思います。
『おバカさん』、面白そうですね。スコセッシ監督が撮ったら見応えがあるでしょうね。
Re: No title
SGA屋伍一さん、こんにちは。
コメントを拝見して、日本は宗教に関していい加減だなんて書いたかなと思い、読み返してみたら、なるほどこれはいい加減だ:-)
いい加減に見えてしまうほど、沼は深く、形も捉えにくいのでしょうね。
洋画にしろ邦画にしろ、根底にある信仰を踏まえて鑑賞すると面白いですね。
表立っては描かれず、時に作り手すら自分の信心に気づいてないこともあるから、なおのこと面白いです。
コメントを拝見して、日本は宗教に関していい加減だなんて書いたかなと思い、読み返してみたら、なるほどこれはいい加減だ:-)
いい加減に見えてしまうほど、沼は深く、形も捉えにくいのでしょうね。
洋画にしろ邦画にしろ、根底にある信仰を踏まえて鑑賞すると面白いですね。
表立っては描かれず、時に作り手すら自分の信心に気づいてないこともあるから、なおのこと面白いです。
うーんバンタム級かな
ナドレックさん、ども。
自ブクグにも書きましたが、本作、いまいちもの足らず。
初期デニーロと組んでいたころは、怒涛のヘヴィー級でしたが、同じデで始まるディカプリオと組むころから、いつしかバンタム級に?
ぼくは篠田正浩を凡匠と呼んでいますが、その篠田版より、ゆるゆるな感じ。
まさか篠田に軍配を上げるとは、予想もしていませんでした(笑)。
その理由は、おそらくハリウッド映画は、出資する銀行、個人、それぞれの弁護士たちが、どこの宗派からも、団体からも、狂信的な信者からも、クレームなり訴訟なりが来ないよう、ポレコリに努めた、無難さなんだと、勝手に邪推しています(笑)。
とにかく、薄味すぎて不満でした(笑)。 昔の映画
自ブクグにも書きましたが、本作、いまいちもの足らず。
初期デニーロと組んでいたころは、怒涛のヘヴィー級でしたが、同じデで始まるディカプリオと組むころから、いつしかバンタム級に?
ぼくは篠田正浩を凡匠と呼んでいますが、その篠田版より、ゆるゆるな感じ。
まさか篠田に軍配を上げるとは、予想もしていませんでした(笑)。
その理由は、おそらくハリウッド映画は、出資する銀行、個人、それぞれの弁護士たちが、どこの宗派からも、団体からも、狂信的な信者からも、クレームなり訴訟なりが来ないよう、ポレコリに努めた、無難さなんだと、勝手に邪推しています(笑)。
とにかく、薄味すぎて不満でした(笑)。 昔の映画
Re: うーんバンタム級かな
昔の映画さん、こんにちは。
私は篠田監督版を観ていないのです。いつか観る機会があればと思います。
本作に関していえば、スコセッシ監督は原作を尊重することを最重要に考えていたようです。
脚本を何度も書き直し、映画会社から訴訟を起こされるほど先延ばしして納得いくまで脚本を練っていますし、NHKのドキュメンタリーで紹介していましたが、脚本と原作の対応が判る資料を作って、ことあるごとに原作ではどう描写していたかを確かめながら制作していたそうです。日本文学の研究者(もちろん日本語ペラペラ)のところに何度も足を運び、英訳された原作小説を読むだけでは判らない英語と日本語のニュアンスの違い等についても教えを乞うて、遠藤周作が何を云わんとしたかを理解しようとしていたそうなので、無難にまとめるつもりはなかっただろうと思うのです。スコセッシは雇われ監督ではなく、みずから本作をプロデュースしているのですし。『最後の誘惑』でクレームの嵐に見舞われたスコセッシですから、いまさらクレームは恐れないのではないかと:-)
薄味に感じたのは残念でしたね。
私は篠田監督版を観ていないのです。いつか観る機会があればと思います。
本作に関していえば、スコセッシ監督は原作を尊重することを最重要に考えていたようです。
脚本を何度も書き直し、映画会社から訴訟を起こされるほど先延ばしして納得いくまで脚本を練っていますし、NHKのドキュメンタリーで紹介していましたが、脚本と原作の対応が判る資料を作って、ことあるごとに原作ではどう描写していたかを確かめながら制作していたそうです。日本文学の研究者(もちろん日本語ペラペラ)のところに何度も足を運び、英訳された原作小説を読むだけでは判らない英語と日本語のニュアンスの違い等についても教えを乞うて、遠藤周作が何を云わんとしたかを理解しようとしていたそうなので、無難にまとめるつもりはなかっただろうと思うのです。スコセッシは雇われ監督ではなく、みずから本作をプロデュースしているのですし。『最後の誘惑』でクレームの嵐に見舞われたスコセッシですから、いまさらクレームは恐れないのではないかと:-)
薄味に感じたのは残念でしたね。
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トラックバックの反映にはしばらく時間がかかります。ご容赦ください。沈黙 サイレンス
17世紀(江戸時代初期)。 長年、日本で布教活動していたポルトガル人宣教師フェレイラは、幕府の激しいキリシタン弾圧に耐えられず棄教したと噂されていた。 師の安否と真実を確かめるため、弟子の司祭ロドリゴとガルペは、日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。 そこでは想像を絶する苛酷な弾圧が行われていた。 囚われたロドリゴは、究極の選択を迫られる…。 歴史ドラマ。
ジパング残酷物語 遠藤周作&マーティン・スコセッシ 『沈黙 -サイレンス- 』
ああー これはもう完全に公開終わってしまったなー(そんなんばっかしや) 遠藤周作
「沈黙 -サイレンス-」
信仰しているのに神はこたえてくれない。このテーマは映画でも、たまにありますね。