『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』 それは新しい考えか?

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック 【ネタバレ注意】

 善と悪、正と邪、古より戦い続ける二つの勢力。その争いを背景に共和制を掲げる側と帝政を進める側が銀河系を二分して戦う時代。帝国側が開発した新技術により戦況は一変、帝国の勝利が濃厚になった。
 帝国の新技術の秘密を手に入れるため、志願した者たちの一隊が帝国側に乗り込んでいく。生きては戻れないかもしれない危険な任務だ。
 激しい戦闘を切り抜けて、遂に共和制側は新技術の秘密を手に入れる。だが、通信が遮られ、絶体絶命の大ピンチ。
 ――ひと波乱の後、新技術の情報を奪還すべく帝国の戦艦が迫る。それを尻目に、救命艇で脱出した「二人」は辺境の星に到達する。見知らぬ星に降り立った「二人」は、その星の生物に襲われて捕らわれてしまうが、幸いにも彼らを救う者が現れる。
 行動を共にすることになった彼らは、新技術の情報を本部に送り届けるべく逃避行を続ける。しかし、帝国もやすやすと本部に帰らせてはくれない。追っ手と戦いながら、本部のある星を目指す主人公たち……。

 こうしてあらすじを書いていると、スター・ウォーズ・シリーズの外伝『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』と本伝の『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)のストーリーを追いかけているような錯覚にとらわれる。


■大河の源流はたくさんある

銀河パトロール隊―レンズマン・シリーズ〈1〉 (創元SF文庫)  だが、冒頭に記したのは、E・E・スミスの名著レンズマンシリーズ第一巻『銀河パトロール隊』のあらすじだ。フォース、シールド、トラクタービーム、通貨単位のクレジット……スター・ウォーズ・シリーズでよく聞く用語も、「スペースオペラの父」として名高いE・E・スミスの作品に飛び交うものだ。スター・ウォーズ・シリーズをはじめとしたスペースオペラで使われる設定やガジェットの多くを考案し、確立したのがE・E・スミスである。

 E・E・スミスの処女作『宇宙のスカイラーク』は、1920年(1921年とも)には執筆を終えていたのに、当時の読者にはあまりにも壮大すぎるという理由でどの出版社からも拒絶され、1928年まで発表できなかった。銀河を股にかけた大冒険、繰り出される新発明・超兵器、続々と現れる奇怪な宇宙生物、宇宙艦隊の大戦争。こんにち私たちがスター・ウォーズ・シリーズ等でお馴染みのこれらの要素は、E・E・スミスが風穴を開けるまで、出版できないほど突拍子もないと思われていたのだ。

 したがって、ほとんどすべてのスペースオペラがE・E・スミスの影響下にあるといっても過言ではない。
 それでも私があえて本稿を書こうと思ったのは、スター・ウォーズ・シリーズへのE・E・スミスの影響、とりわけレンズマンシリーズからの影響に関する言及が少な過ぎると感じたからだ。
 2016年12月24日現在、Wikipediaの『スター・ウォーズ』のページには、スター・ウォーズが影響を受けた小説としてフランク・ハーバートのデューンシリーズが挙げられている。スター・ウォーズの元ネタと類似を解説したページには、デューンシリーズに加えてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』等からの影響の記載もある。
 ところがレンズマンシリーズに関しては、まったく触れられていない。

 ジョージ・ルーカスのことだから、デューンシリーズも『指輪物語』も読んでいるに違いない。それらの影響も皆無ではないだろう。たしかに砂漠の惑星タトゥイーンはデューンシリーズの舞台となる砂漠の惑星アラキスがモデルかもしれないし、スター・ウォーズ・シリーズでしばしば言及されるケッセルのスパイス鉱山はアラキスのスパイス産業が元ネタかもしれない。

 しかし、デューンシリーズや『指輪物語』をいくら読んだところで、超兵器がわんさか登場する銀河大戦は発想できまい。
 Wikipediaには、デューンシリーズのベネゲセリットが他者を操る力(ボイス)とジェダイのフォースとの類似や、スター・ウォーズ・シリーズの三作目の題が『ジェダイの帰還(Return of the Jedi)』であることと『指輪物語』の第三巻が『王の帰還(The Return of the King)』であることまで類似として挙げられているが、他者を操るのはレンズマンにもできるし(しかもレンズマンシリーズの発表はデューンシリーズより30年近く先行している)、シリーズ最終巻(として構想された作品)の題が『~の帰還(The Return of ~)』と付けられるのは珍しいことではない。たとえば、トールキンが『王の帰還』を発表する40年も前に、E・R・バローズは『The Return of Tarzan(ターザンの帰還)』や『The Return of the Mucker(邦題は「風雲のメキシコ」だけど)』を発表している。

 こういった類似点を考察したり指摘したりするのは楽しいから、探せばいくらでも見つかるだろう。しかし、私としては、重厚な政治劇のデューンシリーズやSFではない『指輪物語』に源流を求めながら、肝心の痛快スペースオペラ、レンズマンシリーズに触れないのは合点がいかない。

 デューンシリーズや『指輪物語』のファンがスター・ウォーズとの類似を主張してせっせと書き込む一方で、奥床しいレンズマンシリーズのファンはそんな主張を控えているのだろうか。
 私もスター・ウォーズとレンズマンシリーズの類似なんていわずもがなだと思ってきたが、誰かが少しは書いておかないと、デューンシリーズよりも『指輪物語』よりも先行する偉大な作品の存在が忘れられないとも限らない。
 せめて私は、ここに書いておこうと思う。


 レンズマンシリーズは、手に汗握る痛快無比なスペースオペラであると同時に、幾世代にもおよぶ銀河の歴史を描く壮大な叙事詩である。人知を超えた能力を持ち、銀河の守護者たるレンズマン。その中でもひときわ秀でた若者キムボール・キニスン(『地球へ…』の主人公キース・アニアンのネーミングの元ネタといわれる)を主人公にした三部作を中心に、双子を含むキニスンの子供たちを描いた後日譚と、キニスンの祖先たちを描いた前日譚や外伝から構成される。
 その第一巻、24章からなる『銀河パトロール隊』のうちの4章から13章が、まさにエピソード4『スター・ウォーズ』に相当する。新技術の秘密を手に入れた主人公たちが、敵の猛攻をかいくぐって本部に貴重な情報を届け、その情報に基づいて共和制側が反撃するまで、文庫本にしてざっと160ページほどだ。

隠し砦の三悪人 ジョージ・ルーカスが上手いのは、大まかな設定と構成はレンズマンシリーズそっくりでありながら、そこに『隠し砦の三悪人』をはじめとする黒澤映画の要素を詰め込んだことだ。
 『銀河パトロール隊』で主人公たちを追撃するのは敵の大艦隊であり、宇宙空間がまばゆくなるほどの派手な戦闘が連続する。こんな描写は小説だから可能だが、『スター・ウォーズ』制作当時は予算的にも技術的にも映像化できなかっただろう。物語のスケールも大きすぎて手に余ったはずだ。ロン・ハワード監督が2008年にレンズマンシリーズの映画化に挑んだが、膨大な制作費を要するために撤退している。
 一大宇宙叙事詩を念頭に置きながらも、単発の映画として完成されている『隠し砦の三悪人』をなぞるのは、現実解を探るうえでこれ以上ないやり方だ。
 (スター・ウォーズ・シリーズと黒澤映画の関係については、拙稿「スター・ウォーズに見る黒澤明」を参照されたい。)

 もちろん、ジョージ・ルーカスの発想の原点は『フラッシュ・ゴードン』にあるのだが、『フラッシュ・ゴードン』は銀河を股にかけたスペースオペラではなく、ジャンルとしては惑星冒険ものになる。それは、異国情緒に溢れた一つの星で繰り広げられる冒険物語だ。ルーカスが『フラッシュ・ゴードン』っぽさにこだわっていたら、銀河大戦の物語は生まれなかったに違いない。
 他方、レンズマンシリーズは敵も味方も複数の種族から構成される連合体だが、スター・ウォーズ・シリーズでは反乱同盟軍が多様な種族で構成される一方で、帝国軍の将校は人間(地球人型)ばかりで占められている。この非対称性は、複数の種族が同盟して圧制者と戦う『フラッシュ・ゴードン』に由来するだろう。


■エピソード4の直前までの物語はすでにあった

 こんな風に『スター・ウォーズ』を見ていた私にとって、実は気になることがあった。

 『スター・ウォーズ』は『銀河パトロール隊』の4章から13章に符合しているように思える。14章以降では、共和制側の反撃が手詰まりになり、主人公は己の能力を高めるために導師の許を訪れて修行に励む。これはスター・ウォーズ・シリーズではエピソード5『帝国の逆襲』に当たるだろう。敵の要塞惑星に大艦隊で攻撃を仕掛ける一方、主人公が単身乗り込んで(未開種族に助けられながら)敵のボスと対決する23章から24章は、エピソード6『ジェダイの復讐』(後に『ジェダイの帰還』に改題)に符合する。
 こうして物語が進んでいくのは良いのだが、置き去りにされたのが『銀河パトロール隊』の1章から3章だ。銀河パトロール隊から精鋭部隊が選抜され、敵の技術情報を手に入れる波乱万丈の話なのに、その部分がスター・ウォーズ・シリーズで顧みられることはなかった。

 それが気になったのは、レンズマンシリーズ初の映像化である長編アニメーション映画『SF新世紀レンズマン』(1984年)を観たからでもある。
 『銀河パトロール隊』と『スター・ウォーズ』がそっくりなことに気づいた広川和之監督は、大長編のレンズマンシリーズを映画化する方策として、『スター・ウォーズ』を手本に、というよりほとんど『スター・ウォーズ』のアニメ化といっていい内容にしてしまった。そのため、ストーリーも『銀河パトロール隊』の1章から3章を削った形になってしまったのだ。
 ジョージ・ルーカスが『銀河パトロール隊』の4章以降を切り出す手際は鮮やかだったし、その語り口の上手さから『スター・ウォーズ』は充分に楽しめたが、『SF新世紀レンズマン』が原作の冒頭部分を省略したことは、なまじ原作を知っているだけにひどく違和感を覚えさせた。かえって1章から3章が重要であることを再認識させたのである。

2枚セット】 映画 ローグ ワン スター ウォーズ ストーリー ポスター 42x30cm 2016 Rogue One: A Star Wars Story ジン・アーソ フェリシティ・ジョーンズ キャシアン・アンドア大尉 ボーディー・ルック チアルート・イムウェ K-2SO ダース・ベイダー [並行輸入品] だから、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』が、敵の技術情報を手に入れるまでを描いたことで、心の中のモヤモヤがようやく晴れた気がする。『銀河パトロール隊』の1~3章は、短いながらも映画一本分に匹敵する魅力があったからだ。『銀河パトロール隊』の志願者がエリート揃いの精鋭部隊なのに対して、『ローグ・ワン』がならず者(rogue)部隊になっているのが興味深い。


 その『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』について、テーマを問われたギャレス・エドワーズ監督はこう答えている。
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一言で言うと、"希望"だね。"ローグ・ワン"のメンバーには、いろいろな文化や惑星から、いろいろな意見を持った人間が集まって、不可能に思えることに挑戦する。過去の作品は善VS悪の構図がハッキリしていたけれど、インターネットが発達した現代では、いろいろな意見や視点が人間にはあることを、我々は知っている。そこには完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた。そして、それは新しい考えだと思う。だから今回の作品では、それぞれ皆に問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴もいるけれども、選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う。
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 これは奇妙な発言だ。
 エドワーズ監督は、「新しい考え」の結果として「問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴」もいる作品になったと述べているが、スター・ウォーズ・シリーズの主要登場人物の一人ハン・ソロが、悪事にまみれた密輸業者だったことを忘れてしまったのだろうか。

 そもそも、「完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた」ことが「新しい考え」なのだろうか。1975年生まれで、物心ついたときにはスター・ウォーズがあったエドワーズ監督には、世界がそんな風に見えるのだろうか。
 エドワーズ監督はこうも云う。「スター・ウォーズの映画を撮るのが4歳からの夢だった…スター・ウォーズと共に育ったんだ…この世界に親しみを感じるよ…フィギュアで遊んでた…スームトルーパーが大爆発!ってね…こんなに楽しい仕事はないよ」
 そんなエドワーズ監督にとって、世界はスター・ウォーズありきであり、スター・ウォーズが世界のすべてなのかもしれない。


■ジョージ・ルーカスの大発明

スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望 スチールブック仕様 [Blu-ray] だが、1977年公開の『スター・ウォーズ』が大ヒットしたのは、1977年まで世界に『スター・ウォーズ』がなかったからに他ならない。
 何を当たり前な、と思われるかもしれないが、『スター・ウォーズ』公開前の世界にはポッカリとうつろな穴があいていたのだ。ところが、そこに空虚があることを認識している人はほとんどいなかったようだ。空虚の存在に気がついて、それを『スター・ウォーズ』で埋めたのがジョージ・ルーカスの凄さ、偉大さだと思う。

 2016年現在、米国の歴代興行収入の第一位は2015年公開の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』だ。しかし、物価変動を加味してランキングし直すと、いまだ一位は1939年の『風と共に去りぬ』で、二位が1977年の『スター・ウォーズ』となる。『フォースの覚醒』は10位以内にも入らない。『スター・ウォーズ』が、いかにとてつもないヒットであったか判るというものだ。それは世間を揺るがす大ブームだった。
 これほどの盛り上がりを見せたのは、単に良くできた映画だったからではない。『スター・ウォーズ』の登場が世界を変えたのだ。うつろな穴があいている世界と、その空虚が『スター・ウォーズ』で埋まった世界。『スター・ウォーズ』前と『スター・ウォーズ』後で、世界の景色は変わっている。

 かつてあいていたうつろな穴は『スター・ウォーズ』の登場で埋まってしまったから、スター・ウォーズ・シリーズをつぶさに見ても、『スター・ウォーズ』後の世界を見回しても、そこに空虚があったことに気づかないかもしれない。まして空虚がどれほど大きかったか実感するのは無理かもしれない。
 物心ついたときにすでにスター・ウォーズがあり、スター・ウォーズありきで世界を見ていたら、スター・ウォーズのなかった世界を思い描くのは至難の業だろう。

 これから書くことの中には、『スター・ウォーズ』公開時に云われたこともあるし、その後の人が指摘したこともある。だから、私ごときがいまさら述べるまでもないはずだが、『スター・ウォーズ』の公開から40年が経過した今、人々が『スター・ウォーズ』前の世界に思いを馳せることも減っただろうから、あえて記しておくのもまんざら無意味ではあるまい。


 善VS悪の構図がハッキリしていた過去の作品とは何だろうか。
 ギャレス・エドワーズ監督は、明らかにインターネットが発達していなかった時代の、スター・ウォーズ・シリーズのエピソード4~6のことを指して話している。
 OK、インターネットの発達どころか、インターネットの萌芽すら存在しない1930~1940年代に書かれたレンズマンシリーズでは善VS悪の構図がハッキリしていた。その時代、ドイツ第三帝国や大日本帝国と戦う米国を、悪と戦う善であると考えた人もいたかもしれない。銀幕には、凶悪なインディアンの襲撃に正義の騎兵隊が立ち向かうような、胸のすく娯楽映画が溢れていた。

 けれども米国は1950~1960年代の公民権運動や、これに続くレッド・パワー運動を経験し、また1960~1970年代にはベトナム戦争を経験した。ベトナム戦争は――強大な米国軍がベトナムの小さな村を焼き払う戦いは――善が悪を懲らしめる戦争ではなかった。米国では多くの人が反戦運動に参加した。
 人々はインディアンが悪でもなければ、騎兵隊が正義でもないことに気がついた。そこには完全なる善VS悪などはなく、みんな少しずつグレーな感じで、人間とはそういうものだと判ってきた。アメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品が生まれ、以前であれば「悪」として退治されたはずの犯罪者たちが主人公になり、ただ自由に振る舞おうとしただけなのに迫害され殺される者が描かれた。多くの作品が、人間にはいろいろな意見や視点があることを訴えた。

 それは素晴らしい訴えだったが、残念なことにこの時代、胸のすくような娯楽映画は作りにくくなっていた。かつてのインディアンのように退治していい(とみんなが思える)「悪」はいなかったし、「善」を見失った人間は心に闇を抱え、傷ついていた。そういうことから目を逸らすわけにはいかなかったが、誠実に見つめれば見つめるほど人物像は複雑になり、映画は娯楽性を失っていった。映画は社会を映す鏡だから、世の中に問題意識が広がれば広がるほど、映画も問題意識を抱え込まざるを得なかった。

 そこにジョージ・ルーカスが放ったのが『スター・ウォーズ』だ。まるで善と悪が戦っているようなシンプルな構図、判りやすい人物像。『スター・ウォーズ』は映画が――社会が――失っていた楽しさを、思い出させてくれたのだった。

 単に昔のような映画を作っただけでは支持されなかっただろう。騎兵隊がインディアンを撃ち殺す映画を、人々はもう楽しめない。インディアンに限らず、どんな人種でもどこの国の人でも同じことだ。人間同士の殺し合いを見て爽快感を得るなんてできるはずもなかった。

スター・ウォーズ ストームトルーパー 1/6スケール プラモデル そこでルーカスが考えたのが、帝国軍兵士をクローンにすることだった。敵が人間ではないことにしたのだ(ただし、1977年当時はクローンのことがあまり理解されていなかったのだろう。クローンといっても非人間的な複製物ではなく、人間のクローンもあくまで人間であることが判ってきたからか、後に帝国軍兵士は自我を消された特殊なクローンであるという設定が追加された)。
 そして帝国軍兵士の顔をヘルメットで隠し、同じ形の装甲服で全身を覆わせた。これには、クローンの兵士たちが全員同じ外見になるとともに、観客が帝国軍兵士の素顔を見て人間らしさを感じることがないようにする効果があった。ルーカスは、ストームトルーパーが素顔をさらす描写を注意深く排除した。『スター・ウォーズ』にはルークとハン・ソロがストームトルーパーの装甲服を脱がすところがあるけれど、装甲服の中の人間は決して見せなかった。
 この工夫のおかげで、観客は銃撃戦でやられる帝国軍兵士を見ても胸の痛みを覚えなくて済んだ。帝国軍の上級将校は顔を見せているが、彼らも無表情で没個性的に振る舞い、人間味を感じさせなかった。

 人間ではない、覆面のやられ役の兵士といえば、日本では『仮面ライダー』(1971年~)のショッカー戦闘員や『マジンガーZ』(1972年~)の鉄仮面軍団等がお馴染みだ。しかし、それまでのハリウッド映画では珍しかったのだと思う。スター・ウォーズ・シリーズの元となった『フラッシュ・ゴードン』(1936年)でも、主人公が戦う相手はもっぱら変な格好のおじさんたちだった。

 『エピソード1/ファントム・メナス』からはじまる前日譚三部作では、この考えをさらに推し進めて、敵の兵士はロボットになった。遠隔操作されるロボット兵は、撃たれようが斬られようが何も感じない。おかげで観客はますます胸が痛まずに済むようになった。

S.H.フィギュアーツ スター・ウォーズ バトル・ドロイド 約155mm ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア 私は、『エピソード1/ファントム・メナス』のやられ役がバトル・ドロイドになったことにとても感心した。クローンであっても自我がなくても、ストームトルーパーが赤い血を流す肉体を持つことに違いはない。そのため、いくらはるか昔の銀河の彼方の出来事だと断りを入れても、帝国軍兵士をやっつけることにインディアン退治と同じ非道な臭いをかぎ取る観客がいないとも限らない。そんな観客でも心置きなく戦闘シーンを楽しめるように考え抜いた末の設定が、バトル・ドロイドだったに違いない。
 長編デビュー作『THX 1138』からも判るように、ジョージ・ルーカスは人間性について深く考察する作家だ。そんな彼だからこそ、娯楽に徹するとはどういうことなのかを突き詰めることができたのだろう。

 これこそが、『スター・ウォーズ』のもっとも重要な点だった。倒されるのを見ても観客が胸を痛めなくて済む兵士。その虚構が土台にあるから、スター・ウォーズ・シリーズは成立するのだ。インディアンだからといって殺すのは許されない、犯罪者だからといって問答無用に殺していいのか、そう思っていた観客も、『スター・ウォーズ』なら受け入れることができたのだ。
 人間同士の殺し合いを目にしても、フィクションと割り切って楽しめる観客も中にはいるだろう。だが、心優しいルーカスは、そうではない観客に重点を置いた。

 それゆえ、ストームトルーパーがヘルメットを脱いで素顔を見せたり、個性的に振る舞ったりしてはならなかった。そんなことをしたら、スリルを楽しむはずの戦闘シーンが血なまぐさい殺し合いに堕してしまう。それはスター・ウォーズ・シリーズの作品世界を破壊することになる。


■ルーカスが作った世界

 一見すると善悪に分かれて戦っているようなシンプルな構図も、慎重に考えられたものだ。

姿三四郎 フォースのライトサイド(光明面)とダークサイド(暗黒面)が、柔道と柔術を模したものであることは以前の記事で説明した。
 柔道の修行をした姿三四郎は、柔術家・檜垣源之助と決闘する。いわばルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの対決だ。三四郎は檜垣源之助を倒すが、それは必ずしも善が悪を成敗したのではない。三四郎とて一時は乱暴な柔術に転びかけたことのある身だ。檜垣源之助は後に三四郎と和解し、『續姿三四郎』では三四郎の味方になってくれる。

 ライトサイドとダークサイドも同じことだ。それは明確に分かれたものではなく、ライトサイドからダークサイドに堕ちそうになることもあれば、ルークに救われたアナキンのようにダークサイドから還ってくる者もいる。共和国末期のジェダイ評議会のように、ダークサイドに陥らなくても、思考が硬直して結果的にダークサイドの勃興を許すこともある。
 ルーカスがシリーズを通して諭すのは、不断の努力と修行で己を鍛え続けなければ、人は簡単に堕落してしまうということだ。善VS悪のハッキリした構図なんてものはここにはない。
 にもかかわらず、作品はとてもシンプルで、観客はこの世界にすんなり入り込んで楽しめる。その絶妙なバランスに恐れ入る。

 正義の味方の騎兵隊が凶悪なインディアンを退治する、そんな映画は作れない/作るべきではない世の中で、その娯楽性だけをすくい取って復活させる。それがいかに難事業だったか、できあがった作品をいつでも手軽に味わえる現在では思いを馳せるのが難しいかもしれない。しかし、そこには知的な作業の積み重ねがあり、作品は微妙なバランスの上に成立しているのだ。

               

 ギャレス・エドワーズ監督は「今回の作品では」と強調して「選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う」と述べている。
 けれども、これは過去、スター・ウォーズ六部作が一貫して主張してきたことでもある。
 ルークはオビ=ワンとヨーダの下で修行してフォースを身につけるが、裏を返せば、たとえ才能に恵まれても厳しい修行を続けなければ才能は開花しないということだ。シリーズを通じて「選ばれし者」と呼ばれたのは唯一アナキンだが、彼こそは才能があっても物事がうまくいくわけではないことを体現していた。

 ギャレス・エドワーズ監督は『スター・ウォーズ』後の世界で新しさを見出そうとしたのかもしれないが、よくよく見ればジョージ・ルーカスが切り開いた道をたどっているようだ。


 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のキャストには、多様な人種が起用されているという。たしかに、中国出身のドニー・イェンやチアン・ウェン、メキシコ出身のディエゴ・ルナ等、その人種・出身国は多岐にわたる。
 エドワーズ監督は「私はイギリス出身でイギリス人の俳優が出演する『スター・ウォーズ』を観て育ちましたが、世界の人々は他の地域の人も登場する作品を待ちわびていたのではないでしょうか」と説明する。
 これは大切な点だし、(『スター・ウォーズ』の主人公三人が米国人であることは指摘したいが)エドワーズ監督の意見はもっともだ。
 けれど、それもジョージ・ルーカスが先鞭をつけたものだ。エピソード5『帝国の逆襲』から登場するランド・カルリシアンは、黒人のビリー・ディー・ウィリアムズが演じている。ルーカスからのオファーを三船敏郎さんが断らなければ、シリーズ第一作からアジア人が出演したはずだった。

108ピース ジグソーパズル STAR WARS スター・ウォーズ エピソード5~帝国の逆襲~(18.2x25.7cm) エピソード6『ジェダイの復讐』に文句を云うファンもいた。クライマックスでミレニアム・ファルコンを駆って大活躍するのは、ランド・カルリシアンではなくハン・ソロがやるべきだったのではないのかと。
 ファンの気持ちも判らないではないが、ここはやはりルーカスの決断を称えたい。三部作の最後で帝国にとどめを刺す、最大の見せ場の一番の大手柄を黒人キャラクターに上げさせることに、ルーカスなりの強い思いがあったはずだ(それに、ハン・ソロがミレニアム・ファルコンを駆ったら、第一作のクライマックスと同じ絵面になってしまう)。

 『帝国の逆襲』の公開は1980年、『ジェダイの復讐』は1983年だ。
 2016年公開の『ズートピア』は差別や偏見を取り上げた傑作だが、その原型ともいえる『48時間』が公開されたのが、まさに同時期の1982年だった。肉食動物の詐欺師ニックと草食動物の警察官ジュディがコンビを組んで、48時間以内に事件を解決しようとする『ズートピア』は、明らかにニック(・ノルティ)とエディ(・マーフィ)が演じる白人の警察官と黒人のチンピラがコンビを組んで48時間以内に事件を解決しようとする『48時間』の焼き直しだ。白人と黒人がコンビを組むことが、たいそう異色だったのだ。黒人がチンピラではなく警察官を務め、白人の警察官とコンビを組む『リーサル・ウェポン』が誕生するのはもっと後、1987年のことだ。

 もともとハン・ソロは黒人の設定で、ビリー・ディー・ウィリアムズはハン・ソロ役のオーディションに来た俳優だった。
 ルーカスは、大手映画会社が嫌がったオール黒人キャストの映画『レッド・テイルズ』を四半世紀かけて自腹で制作するような人物だ。『スター・ウォーズ』の続編を作れることになって、さっそく黒人キャラクターを登場させたのも、ルーカスの強い希望だったに違いない。


 『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の主人公は女性であり、1年前に公開された『フォースの覚醒』も女性が主人公だった。男性が主人公を務めた六部作とは毛色が違うように見えるが、これもまたジョージ・ルーカスが地平を開いた世界の一部である。
 "戦うお姫様"――それはルーカスが『スター・ウォーズ』で提示した新しいヒロイン像だった。それまでの映画のお姫様は、たくましいヒーローに助けてもらう受け身の存在ばかりだったが、レイア姫は勝ち気で口が達者で、敵に対して平気で銃をぶっ放す女性だった。しかも元老院議員という政治家としての顔と、反乱同盟軍の中心メンバーとしての顔も持っていた。
 『ジェダイの復讐』には反乱同盟軍の最高指導者として女性のモン・モスマが登場するし、『エピソード1/ファントム・メナス』では惑星ナブーの国家元首を女性のパドメ・アミダラが務めている。総じてスター・ウォーズ・シリーズでは、男性が権力を握るとろくなことがなく、女性が高い地位についたほうがものごとが上手くいくようだ。
 『フォースの覚醒』の主人公レイも『ローグ・ワン』の主人公ジンも、レイア姫(や『エイリアン』(1979年)のリプリー)らが切り拓いた道の延長を歩んでいるに過ぎないのだ。


 『スター・ウォーズ』後の世界で「新しい考え」に見えるものも、実のところジョージ・ルーカスが生み出したものの延長だったりする。
 これからもルーカスの生み出したものが深く掘り下げられたり、広められたりしていくだろうが、ルーカスが埋めるまでは大きな穴があいていたことに気を配らないと、知らず知らずまた穴をあけて、足をすくわれてしまうかもしれない。
 いま改めて、ルーカスがしてくれたことの大きさを噛みしめたい。


ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラックローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』  [ら行]
監督/ギャレス・エドワーズ
出演/フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ ベン・メンデルソーン ドニー・イェン マッツ・ミケルセン フォレスト・ウィテカー アラン・テュディック チアン・ウェン リズ・アーメッド ジミー・スミッツ ジュネヴィーヴ・オライリー ヴァリーン・ケイン アンソニー・ダニエルズ ジェームズ・アール・ジョーンズ
日本公開/2016年12月16日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]
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【theme : スター・ウォーズ
【genre : 映画

tag : ギャレス・エドワーズ フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ ベン・メンデルソーン ドニー・イェン マッツ・ミケルセン フォレスト・ウィテカー アラン・テュディック チアン・ウェン リズ・アーメッド

⇒comment

No title

日本では「ウルトラマン」が生まれる前はとても大きな空虚がそこにあったのではないかなあ、というのがまず最初の感想。

で、私、実はSWはエピ4以外はそんなに凄く好きではないのです(別に毛嫌いしたり憎んだりもしてないけど)。それは何となくだけど、ナドレックさんの文章を読んで浮かび上がってきたような気がする。エピ4以降はルーカルが完全に調和の取れたSW世界を構築しようとするばかりにスカっとするカタルシスを感じさせる単純な安い娯楽映画には徹しなかったからじゃないか、と(私はスカっとしなかったよ)。

あと、ギャレスたんが作った物は新しい世界観かどうかは私自身はそんなに興味がないけど、そんなに無下になって監督の言説を否定しなくてもいいんじゃないかい。何となくルーカスが作ったのは旧約聖書で、ギャレスたんが作ったのは新約聖書。それぞれ思う所や考えは違うのかもしれないけど、どちらも神の偉大さを啓蒙しようとした事に違いはないでしょう。語り部としてギャレスたんが完璧だったかどうかは実は私も疑問を持ってはいるけど、そのSWに対するベクトルは間違えてない。いや、ちょっと間違えていたとしても私は割と好きなので。せっかくだから私自身も上から目線で話すと「ギャレスたん若いのによくやったよ」。んでいいんじゃない?

あ、ギャバンじゃん「若さ、若さって何だ。振り向かない事さ」だから振り向かないで新しい事をやったと頑張った。それはそれで可愛くない?

ちなみに、私はゆるいファンなので、真っ正面からナドレックさんと議論したら100%KO負けする自信があります。

Re: No title

ふじき78さん、こんにちは。
ジョージ・ルーカスは幼いころにもっとも影響を受けた小説としてレンズマンシリーズを挙げているそうで、とても親しみを感じます。

『ウルトラマン』についてはどのような位置づけで考えるかによるでしょうが、テレビ番組に関していえば『ウルトラマン』(1966年~)の前にアニメ版の『鉄腕アトム』(1963年~)や『鉄人28号』(1963年~)等があり、その前には『月光仮面』(1958年~)や実写版『鉄腕アトム』(1959年~)等があり、もっと前には米テレビドラマ『スーパーマン』(日本では1956年から放映開始、最高視聴率74.2%!)があって、『ウルトラマン』の前も日本は賑やかだったように思います。
『ウルトラマン』より前の作品はモノクロなので、再放送の機会に恵まれず、記憶に残りにくかったかもしれませんね。

スター・ウォーズ・シリーズの中でもエピソード4が特別で格別でスカッとするのは、爽快な青春物だからじゃないでしょうか。
田舎の兄ちゃんと、いいとこのネエちゃんと、ちょっとグレてるはみ出し者が、鼻持ちならない大人たちにひと泡吹かせる話だから、観ていて気持ちが良いのでしょう。エピソード5以降は、爽快な青春ドラマではありませんからね。

ルーカスがつくった作品世界は、必ずしも完全に調和が取れたりはしていないと思います。当たるを幸い、出たとこ勝負で継ぎ足しながらつくってますから、細部の矛盾や苦しい説明は多いです。ただ、ルーカスの、レンズマンが好き、フラッシュ・ゴードンが好き、黒澤映画が好きという人間性に変わりはないから、作品の方向性にブレが生じなくて済んできたのだと思います。
私自身、レンズマンが好きでフラッシュ・ゴードン(の原型である火星シリーズ)が好きで黒澤映画が好きで育ってきましたので、それらの精神を受け継いで、昇華させた結晶としてスター・ウォーズ・シリーズを楽しんでいます。


さて、『宇宙刑事ギャバン』の主題歌で「♪若さ 若さってなんだ ふりむかないことさ」と歌うのは、過ぎたことをいつまでもくよくよするなということで(だから「♪あばよ涙」と続く)、先人の事績を軽んずることではないと思います。この歌は未来へと前進することを促すものですが、前に進むにはどちらが後ろか知らなくてはいけません。方向が判らなければ道に迷ってしまいます。

そうはいっても一人でものごとを的確に判断していくのは難しいですから、方向性を正してくれる有識者が必要です。小説やマンガであれば編集者、映画であればプロデューサーの役回りになりましょうか。
実際のところ、ジョージ・ルーカスが企画にストーリー作りに脚本執筆、監督、制作総指揮まで務め、大手映画会社と交渉して『スター・ウォーズ』実現に漕ぎ着けたのと違い、ギャレス・エドワーズ監督はキャスリーン・ケネディに雇われて、他人が書いた脚本に基づいたディレクションをしただけなので、方向性を決めたのはキャスリーン・ケネディですね。
インタビューでのエドワーズ監督の発言が、英語では具体的にどのような言葉だったのか判りませんが、「(自分が)メッセージを込めた」とか「メッセージがある」ではなく、「そういうメッセージがあると思う」という云い方になっているのは、みずからを奮い立たせるべく、渡された脚本からメッセージを読み取ろうと努めたからなのかもしれません。

『ローグ・ワン』で注目すべき新しいことは、テーマとかメッセージとかよりも、浜辺の惑星を登場させた点ではないかと思います。
ジョージ・ルーカスは新しい星や新しい宇宙船を出す工夫を重視していましたので、(作品の位置づけから新型宇宙船や兵器は出しづらいにしても)これまでのシリーズにない浜辺の星を考案したことはスター・ウォーズ・シリーズらしいといえるでしょう。惑星スカリフの浜辺で繰り広げられる戦いは、これまで見たことのない光景です。
ノルマンディーのように浜辺で激しい戦闘が行われることは現実にありますから、浜辺を舞台にしたことで戦争映画らしいリアリズムがもたらされることが期待できます。一方で、モルディブで撮影した熱帯の海の美しさは、スカッとするカタルシスからはほど遠い本作の悲惨さを、緩和してくれたように思います。
映画のポスター等でスカリフの浜辺が強調されるのも、このビジュアルに対する自信の表れなのでしょう。

ああ!レンズマン!

ナドレックさん、ども。
 ああレンズマン・シリーズ!
 はるかかなたの昔々、中高生時代に愛読しておりました!
 懐かしい!
 今では誰もレンズマンのレの字も口にしない時代に、レンズマンに言及する、その反時代的な(笑)ナドレックさんに、改めて惚れ直しました(笑)。
 まあ、こんなオヤジに惚れられても、迷惑か(笑)。
 「ローグワン」は、ほとんど「原点作」と一緒のストーリーなので、チョイがっくり。
 「原点作」の、中坊でもわかりやすい少年冒険譚的なストーリー展開が、近年失われ、 まるで大人向けの時制混乱型ミステリのような、韜晦した語り口に閉口しておりまして。
 今どきのこういう流行りの語り口なのでしょうが、こういう韜晦した展開に、小坊中坊はついていけるのか、危惧しております。
 どうも映画全体が、あまりにも大人向け仕様に偏り過ぎている(アニメを除き)のが、映画の可能性を狭めているような気がします。
 なお、近年のスターウォーズが、女性主人公への傾斜を深め、「原点作」の、単純明快明朗な少年冒険小説志向から乖離しているのも、危惧するのですが、これは単純に、女性主人公こそが世界的大ヒットの定法という、ディズニーの経験則のゆえかと。
 もと少年小説愛読者としては、残念でなりません。
 レンズマン・シリーズ、再読したくなりました。版元も、スターウォーズの原点!と、売り出せば、そこそこ売れるはずなのに、情けない。

ローグワンは新たな始まり

ナドレックさん、こんにちは。
スターウォーズの原点は、レンズマンにあり、しっかり読ませていただきました。
レンズマンって手にレンズを持っているアメコミ版の記憶があります。残念ながら私の記憶はそこまで。
スターウォーズが世を賑わしていたころ、少年だった私は和製SFに関心を寄せるのやっとで、海外の作品など遠い遠い世界の話でした(宇宙大作戦はなんとなくテレビで見ていました)。小松左京氏の「日本沈没」や、高千穂遥氏の「クラッシャージョー」など今でも当時を思い出せる作品は多いのです。
そんな頃、スターウォーズの出現にはやられました。確かに、エピソード4のお姫様の助けるために名乗りをあげる勇敢な若者の話は、派手さもありオープニングの話としては、よかったのかも。
しかしながら今回の「ローグワン」を見て、R2-D2の渡した機密情報の重さは、計り知れないものになり、再度エピソード4を見直すと・・・設計科学書→その娘→独断で戦場に助けに行った提督→反乱軍兵士→レイア姫→R2-D2→ルーク→オビ・ワン
とリレーされ情報がつながり、唯一情報の重要性を知らないルークがでてくると、
「ルーク!もっと大事に扱えよ」
と叫んでしまうほどでした。

「ローグワン」のおかげで、ラストであんなにも巨大な建造物(デススター)が、プロトン魚雷一発で吹き飛んでしまう理不尽さも、納得できました。(当時は、フォースがあったからと思ってました)。

個人的には、アジアで初参加のドニー・イェンがはまりました。もしかしたら彼はジェダイより強いのでは?ブルスリーの師匠ですから。。

Re: ああ!レンズマン!

昔の映画さん、こんにちは。

レンズマンシリーズは私の人生の書です。明日世界が終わるとしても 私はレンズマンシリーズの魅力を伝えていきたいと思います:-)


スター・ウォーズ・シリーズの一作目『新たなる希望』は、はたしてシリーズの原点なのか。そこに私は疑問を感じています。

『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)の公開に多くのSFファンが狂喜したのは、小説ではお馴染みでも、よもや映像で見られるとは思わなかった空想世界がスクリーンに広がっていたからだと思うのです。本記事ではレンズマンシリーズを中心に書きましたが、ジョージ・ルーカスは多くのSF小説やファンタジー小説を読んでいて、その豊かな読書体験の中から「映画にしたら面白そうなもの」を寄せ集めて『スター・ウォーズ』を作ったのだと思います(もちろん黒澤作品をはじめとする映画の影響も大きいですが)。
#たとえば、「ジェダイ」の語源については諸説ありますが、ジェダイJediとパダワンpadawan(見習い)がE・R・バローズのSF小説《火星シリーズ》内の用語ジェドJed(王様)、ジェダックJeddak(皇帝)とパドワールpadwar(士官)に由来するという指摘は、とても興味をひかれるところです。
http://www.inafarawaygalaxy.com/2014/03/edgar-burroughs-influence-on-starwars.html

だから『スター・ウォーズ』は寄木細工のようなもので、あえて原点を求めるならそれは数多のSF小説やファンタジー小説(や黒澤映画や連続活劇等)であろうと思うのです。
とはいえ、『スター・ウォーズ』制作時は技術面や予算面の制約が厳しかったし、一本の映画でできることには限度があるから、空想世界の多くの要素を切り捨てざるを得なかった。ルーカスとしてはまだまだたくさんのネタを取り上げたかったので、特別篇や新作のたびに昔読んだ本の要素を注入した、というのがルーカスの創作術なのではないでしょうか。


ところが、オリジナル三部作で(はじめて)この空想世界に触れた人は、オリジナル三部作(特に『スター・ウォーズ』)を原点に位置づけているような気がします。ギャレス・エドワーズ監督が「ほんの少しでも左にずれたら、それはスター・ウォーズではなくなってしまう」「そしてほんの少しでも右にずれたら、カラオケの歌みたいに間の抜けたものになってしまう」と気をつけていたのも、スター・ウォーズの世界に忠実たらんとしたからでしょう。

ルーカスフィルムではストーリー担当部門が各メディアのストーリーの整合性をチェックし、複数のストーリーに矛盾が生じないようにスタッフ全員が連携しなければならないそうです。
(「終わりなき「神話」ビジネス スター・ウォーズと未来のブロックバスターのつくり方」 http://wired.jp/special/2015/starwars/universe/ 参照)

でも、そういう態勢が、ルーカスに「自分が判断する前に、周囲の人間がどうすべきか決めようとする」「それではつまらない。実験も何もできないし、なんでも決められたようにしなきゃならない」と嘆かせ、スター・ウォーズを手放させてしまったのでしょう。
http://japanese.engadget.com/2015/11/19/sw/

スター・ウォーズ・シリーズの背後には、おびただしい数のSF小説やファンタジー小説がひしめく豊かな世界が広がっていて、スター・ウォーズ・シリーズはそこに向かって開かれた小さな窓の一つに過ぎないのに、オリジナル三部作を原点として重視するがために、小さな範囲で細部を突き詰めたり語り直したりに拘泥し過ぎていないだろうか。そんなことが気になっています。

たとえば、スター・ウォーズ・シリーズではアナキン・スカイウォーカーがどうやって誕生したのか謎のままです。処女懐胎なんか持ち出されると、ついついイエス・キリストを連想して、妙に宗教じみた感じを受けます。
しかし、ルーカスの脳裏にレンズマンシリーズがあったならば、あのわけの判らないミディ=クロリアンとやらはアリシア人の生命因子をモチーフにしてるのかもしれません。だとすれば、キムボール・キニスンを誕生させた者がいたように、アナキンの誕生に関与した何者かがいるのかも……なんてことを想像するのも可能なはずですね。


ところで、主人公が女性の作品が続くのは、もちろんディズニー映画であることと無縁ではないでしょうね。長年ディズニーを支持してくれた女性たちに、ディズニーの新ブラントであるルーカスフィルムを馴染ませる狙いもあると思います。スター・ウォーズのような映画は男性にはすでに充分にアピールしていますから、これからは女性客をもっと開拓したいと考えているのでしょう。
その計算と、作品で打ち出したいものとが、一致した結果が本作なのだと思います。

後出しじゃんけんの論理と隘路

ナドレックさん、ども。
 自ブログでも書きましたが、「ローグワン」が「いわゆる原点作」の「10分前までを描く」というコンセプトが良かったのか、悪かったのか(笑)。
 ローグワンの有能な戦士たちが「10分前」に存在していたなら、当然「10分後」にも、存在していなければなりません。
 ところが、「いわゆる原点作」には、彼らは登場していない。
 当たり前で、彼らは後出しじゃんけんなんですから。
 では、どうするか。彼らには、「10分後」には存在しないよう、ほとんど全員戦死してもらうしかない、という論理。
 かくて日本映画を参照しているという本シリーズですが、本作も、まるで日本映画のように、神風特攻精神を賛美するかのように、自己犠牲精神の美化。
 なんだアメリカ人も、カミカゼ好きなんだ、と(笑)。
 全員戦死の「一発芸」、これもサブストーリーとしてはありかもしれず、むしろサブストーリーの「王道」かもしれませんが、シリーズものとしては、次回の展開に「新たに」ワクワクしたいものですが。

 最も本作の「次回作」であるところの「いわゆる原点作」に導く、旧資産の再活用という目論見だとしたら、この一発芸も、ディズニー/ルーカスの見事なトラップなのかもしれません。

Re: ローグワンは新たな始まり

やまとおやじさん、コメントありがとうございます。

やまとおやじさんがレンズマンのアメコミ版と書いてらっしゃるのは、アニメ版のことではないでしょうか。
講談社の制作で1984年7月に映画『SF新世紀レンズマン』が公開され、同年10月からテレビアニメ『GALACTIC PATROL レンズマン』が放映されました。それぞれ村野守美氏と三浦みつる氏がコミカライズなさっています(後年、米国でもコミカライズされたそうですが)。

ところで、『ローグ・ワン』を観るとエピソード4も観たくなりますね。本作の鑑賞後、私もDVDを引っ張り出してエピソード4を見てみました。
が、なんだか話が繋がらないような……(^^;

エピソード4の冒頭、ダース・ベイダーに捕らえられたレイア姫は、自分は外交使節団だと云い張ります。帝国軍将校も、レイア姫を拘束すると元老院の反発を招くとベイダーに進言しています。これらのことから、帝国側にはタンティヴIVの一行が反乱同盟軍の一味であるという確証はなく、レイア姫もまだ尻尾は掴まれていないと考えていると思われます。

でも『ローグ・ワン』のラストを観ると、タンティヴIVは帝国軍と戦火を交える反乱同盟軍艦隊の中にいて、ダース・ベイダーをはじめとする帝国側にしっかり目撃されています。この戦闘宙域から飛び出したのにデバステーターに追いつかれたのであれば、もう云い逃れの余地はないはず。『ローグ・ワン』を観た後にエピソード4を観ると、冒頭の会話の辻褄が合いません(^^;

となると、『ローグ・ワン』のラストはエピソード4の10分前どころではなく、実はダース・ベイダーたちはいったんタンティヴIVを見失い、反乱同盟軍が用意した多数の同型船に翻弄されて、どれが本物か判らなくなるといった(レンズマンシリーズそのままの)エピソードを経た上でエピソード4に繋がるんじゃないか、などと考えてしまうのですが、いかがでしょうか。


そもそも、心から帝国に与してはいなかったというわりには、ゲイレン・アーソのデス・スター破壊方法はハードルが高すぎます。
最初からデス・スターの設計図を流出させてくれればいいのに、鉄壁の防御を誇る惑星スカリフに取りに行かなきゃならなかったり、せっかく設計図を手に入れてもデス・スターを破壊するにはフォースを使えるルーク・スカイウォーカーしか命中させられないような排熱孔を狙う必要があったりと、とてつもなく難度が高い。
おかげで、スカリフの戦いでは反乱同盟軍の艦隊が大打撃を受け(ラダス提督がエピソード4以降に登場しないところからすると、この戦いで戦死されたのでしょう)、ヤヴィンの戦いではデス・スターを破壊するどころか危うく反乱同盟軍の戦闘機部隊が全滅し、レイアたち中枢メンバーもヤヴィン4もろとも吹き飛ばされるところでした。
たまたまルークというフォースの使い手がいたから勝利しましたが、もしかしたらここで反乱同盟軍の命運は尽きていたかもしれないのです。

そう考えるとゲイレン・アーソは(本人の意思はともかく)単なる駒で、その背後には銀河皇帝と帝国の深謀遠慮があったのではないかと勘繰りたくなります……。

Re: 後出しじゃんけんの論理と隘路

昔の映画さん、こんにちは。
ディズニーの商品展開は上手いですね。"正史"で旧作より後の話を続ける一方、"外伝"で旧作より前の話を作っていく。こうすることで旧作は"外伝"の続きとなり、"外伝"を観た人はその後の話を観たくなって旧作に手を伸ばす。
エピソード4の直前の物語とされる本作や、ハン・ソロの若い頃を描くという次の外伝を観たら、どうしたって旧作を観ないではいられません。資産価値を高めるには最高の手段です。

今さら作るまでもなく、スター・ウォーズの世界はアニメや小説やマンガ等でもう隙間がないくらいたくさんの物語が紡がれていたのですが、ディズニーはルーカスフィルムを買収するとこれらの作品を非正史扱い(つまり無かったことに)して、これから自分たちが作品(商品)を生み出すための余地をつくりました。

あくまで映像作家だったジョージ・ルーカスに比べると、ディズニーのやり方はずいぶん違いますね。
Secret

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