『ルック・オブ・サイレンス』 正義の正体

映画 ルック・オブ・サイレンス パンフレット アクト・オブ・キリング やらせ

 ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の記事を書いてから、そんな検索キーワードでアクセスされることが続いている。
 記事の中に「やらせ」という単語があるのは確かだが、私がその言葉を用いたのは『アクト・オブ・キリング』の中に実話に基づく映画づくりのシチュエーションが含まれていたからであり、このドキュメンタリーが「やらせ」というわけではない。
 だが、『アクト・オブ・キリング』に収められた極めて珍しい光景を、信じがたい観客もいるのだろう。自然な感情からこんな行動をとる人間がいるだろうか、これは「やらせ」ではあるまいか。そんな疑念が湧くのだろう。

 極めて珍しい光景――それは一人の人間の中で善悪がひっくり返る瞬間を捉えた映像だ。いままで善だと思っていたものが善ではないと気づき、悪だと思っていたものが悪ではないと気づいたとき、人がいかに激しいショックを受けるか。その瞬間を収めることで『アクト・オブ・キリング』は特異な作品になった。

 その衝撃を理解するには、その人物、プレマンと呼ばれるヤクザ者の一人アンワル・コンゴが過去どれほどの善行をしてきたか、それをどれだけ誇りにしているかに思いを馳せねばならない。彼は自国インドネシアのため、みんなのために多くの人を殺してきた。「悪人」をたくさん殺した彼は国民的英雄として称賛された。彼は悪いことなんか少しもしていない。虐殺は彼の輝かしい人生の一部だ。
 『アクト・オブ・キリング』を撮ったジョシュア・オッペンハイマー監督や、このドキュメンタリーを鑑賞する他国の観客が彼を虐殺者とみなすだなんて、アンワル・コンゴは思いもしなかったに違いない。彼の語る英雄的行為が、他国の観客には無残な殺しとして嫌悪されるなんて、予想だにしなかったはずだ。

 観客は人殺しが悪いことだと思っている。アンワル・コンゴが非道な虐殺者だと思っている。悪いことは反省するべきだし、非道な行為は後悔すべきだと思っている。だから思ったとおりにアンワル・コンゴが後悔するのを目にして、「出来過ぎの展開だ」「やらせじゃないか」と感じるのだろう。
 しかし、彼にみずからの行為を後悔させたり反省させたりするなんて、やらせでできるとは思えない。その必要性を他人が彼に理解させるのは不可能だ。彼は虐殺を正義のための貢献だと誇っていたのだから。
 では、なぜアンワル・コンゴは善悪がひっくり返るショックを受けたのか。それについては以前の記事「『アクト・オブ・キリング』 こんな映画観たことない!」を参照されたい。

 『アクト・オブ・キリング』を観て「出来過ぎの展開だ」「やらせじゃないか」と感じた観客への回答とも云うべき作品が、姉妹編たるドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』だ。
 たしかに『アクト・オブ・キリング』は出来過ぎだったかもしれない。やらせじゃないかと疑いたくなるほどドラマチックだったかもしれない。そのとおり。あんなことは滅多に起こらない。ジョシュア・オッペンハイマー監督がインタビューしたおびただしい虐殺者の中で、過去を省みて後悔したのはアンワル・コンゴただ一人だった。
 『ルック・オブ・サイレンス』には前作以上に多くの虐殺者が登場する。1965年の9・30事件に続く大虐殺を、みな楽しそうに語っている。どのように犠牲者を切り裂いたか、死にかけた人をどんな風に河に突き落としたか。誇らしい思い出話に花が咲く。

 本作で「やらせじゃないか」なんて心配は無用だ。人殺したちは後悔も反省もしないから、観客が望むような結末は訪れない。ジョシュア・オッペンハイマー監督は虐殺者から後悔の言葉を引き出そうと懸命にインタビューを続けるが、彼らはまったく相手にしない。彼らがやったことは彼らの主観では正義だからだ。正義の味方は悪を退治したことを反省したりはしないのだ。人殺しは悪いことだと思っている観客は、ただ唖然とするばかりだ。


 そんな彼らの態度が少し変わるときがある。
 虐殺された者の遺族と対面し、詰問されるときだ。

 本作の公式サイトは、両者の関係を加害者と被害者と紹介している。これはある種のミスリードだ。たしかに殺害するのが悪いことであれば、殺した側は加害者で、殺された側は被害者かもしれない。
 しかし、殺した側は「悪人」を葬って国家を救い、民主主義を実現した英雄たちなのだ。学校の先生は「悪人」が退治されたからインドネシアは民主主義国家になれたと教えている。
 そこにのこのこ訪ねてきたのが「悪人」の遺族アディ・ルクンだ。両者の関係は加害者と被害者なのだろうか。たとえば、極悪人の死刑を執行したら、執行人は加害者と呼ばれるだろうか。死刑囚の遺族は被害者の立場なのだろうか。

 当事者でない外国の観客は、殺した方が悪い、殺された方は可哀そうという思いで本作を観てしまいがちだ。殺された人の多くが濡れ衣だったりとばっちりを受けたりで、本当は悪くもなんともないことを知っているからなおさらだ。けれども『ルック・オブ・サイレンス』を最後まで観ても、「加害者」は詫びの言葉一つ云わないし、「被害者」が浮かばれることはない。アンワル・コンゴという例外的な人物を取り上げた『アクト・オブ・キリング』よりも、大多数の虐殺者の普通の反応を撮った本作のほうがショッキングかもしれない。

 では、虐殺された者の遺族と虐殺者が対面したとき、何が起こるのか。
 何も起こらない。虐殺者はやるべきことをやったのだからとうぜんだ。虐殺者の子供たちも父を擁護する。悪人を退治した父は家族の誇りなのだ。

 ただ、わずかに遺族との対面を忌避する気持ちはある。人殺しが悪いことだなんて、云われるまでもなく彼らも知っている。相手が「悪人」じゃなければ殺さなかったはずだ。遺族が殺した相手を恨む気持ちも判る。
 だから虐殺者たちは面倒な相手を追い返そうとする。そこで持ち出す云い訳が、「命令されただけ」ということだ。さっきまで殺しを自慢し、自分の大物ぶりを吹聴していた彼らは、会話の相手が遺族だと知ると、自分は責任者じゃない、命令に従っただけだと云いはじめる。
 それは後悔でも反省でもない。会話を打ち切って追い払いたい、それだけだ。

 公式サイトには「責任なき悪」「責任を感じることなく大罪を犯し得る心理的メカニズム」といった文字が躍る。ハンナ・アーレントがナチス・ドイツの虐殺は職務に忠実な平凡な人間により行われたことを指摘したように、人間は命令されると不道徳なことでもしてしまうと云われる(アイヒマン実験)ように、インドネシアの大虐殺もただ命令に従う無責任さで引き起こされたと考えているようだ。
 そういう面もあるかもしれないが、虐殺者たちが当時を語るいきいきとした様子や、事件の顛末をわざわざ本にしたり演じたりする積極性は、無責任に命令に従ったということでは説明し切れないと思う。
 彼らにとってそれは悪でも大罪でもないのだ。正義であり善いことなのだ。だからこそ記録に残して後世に伝えたいと願うのだ。

 子供たちは父の行った虐殺の残酷さまでは知らなかったのだろう。ある娘は、父が死者の血を飲んだ話に眉をひそめた。あまりの惨さにおののき、遺族の気持ちをおもんぱかったりもした。けれども父が間違っていたとは思うまい。人間らしからぬ父の行動が、その栄光に傷をつけるのを恐れたのだろう。
 遺族がいなくなれば、自慢話は繰り返されるに違いない。遺族に訪問されて迷惑したという尾ひれが付くかもしれない。

 インドネシアの大虐殺で兄を殺されたアディ・ルクンは、ただひと言、罪を認めてもらいたくて虐殺の張本人たちに会い続ける。
 しかし、虐殺者たちは誰一人、本当に誰一人として罪を認めない。それどころか、「過去のことを持ち出すつもりか」「またあんなことが起こるぞ」と警告する。
 「被害者」側――大虐殺の対象となり、間一髪で生き延びた人は、アディに忘れろと云う。「過去はもう覆われている。いまさらフタを開けるな。」「彼らを罰するかどうか決めるのは神様だ。」

 大虐殺から50年。インドネシアは表面的には平穏だ。「加害者」たちが地位や富を手に入れ、「被害者」たちが泣き寝入りしたままの膠着状態といえよう。そんな中での「過去を持ち出すな」という「加害者」の言葉は傲慢に聞こえる。「忘れるんだ」という「被害者」の言葉は臆病に聞こえる。

 アディが虐殺者を訪ねて罪を認めさせようとするのは、膠着状態を破ることに繋がりかねない。「加害者」たちは罪を問われ、償うべきなのか。「被害者」とその遺族は地位を回復され、補償されるべきなのか。
 それを突き詰めようとするのは、大虐殺の蒸し返しかもしれない。平穏が失われ、新たな犠牲が出るかもしれない。それで喜ぶ人がいるのだろうか。

 インドネシアだけの問題ではない。
 バルカン半島の平和な国ユーゴスラビアでは、第二次世界大戦中に虐殺されたセルビア人と虐殺したクロアチア人の憎み合いが半世紀を経て噴出し、国を割る戦争になってしまった。数十万人が犠牲となり、ユーゴスラビアという国はなくなった。

 私たちはある場面では「加害者」であり、別の場面では「被害者」であり得る。
 「被害者」は被害を忘れるべきなのか。忘れられるのか。
 「加害者」は断罪されるべきなのか。
 膠着状態は嘘の平和なのか。真の平和とは何なのか。
 黙りこくったアディの姿を前にして、どんな言葉をかければ良いのだろうか。


映画 ルック・オブ・サイレンス パンフレットルック・オブ・サイレンス』  [ら行]
監督/ジョシュア・オッペンハイマー
日本公開/2015年7月4日
ジャンル/[ドキュメンタリー]
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ルック・オブ・サイレンス THE LOOK OF SILENCE

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