『永遠の0』vs『アメリカン・スナイパー』 三つの危うさ

 クリント・イーストウッド監督の傑作『アメリカン・スナイパー』の記事に、梅茶さんからコメントをいただいた。
 返事のコメントが長文になるのはいつものことだが、あまりにも長いので別の記事にした。
 以下は、梅茶さんのコメントへの返信として書いたものである。

梅茶さんのコメント
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タイトル:自己犠牲の捉え方…

ナドレックさん、いつも楽しく読ませてもらっています。この映画が戦争映画として大ヒットしていることは、たくさんの人々に何かしらの影響を与えているわけで、私は不安に思うことはないのですが、先日、日本アカデミー賞作品賞に選ばれた邦画『永遠の0』が昨年大ヒットし、絶賛や感動の嵐を呼んだ現象に対しては、何故か不安にかられてしまいました。『アメリカン・スナイパー』も、『永遠の0』も、戦争によって傷つく人々を描いている点は似ているのですが、日本人が戦争映画に感無量になってしまう現象と、他の国の人々が戦争映画に涙を誘われる現象と、何が違うのでしょう。どちらも感動的な作品であることに変わりはないのですが、自己犠牲を美徳と感じてしまう自分自身の中の日本人としての危なさを垣間見た気がしてしまうのです。自己犠牲の危なさ…、考えさせられてしまいました。
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アメリカン・スナイパー ブルーレイ&DVDセット 梅茶さん、コメントありがとうございます。

 フフフ。
 触れてしまいましたね、『永遠の0』に。
 ブログ開設以来、山崎貴監督作品を欠かさず取り上げてきた当サイトが、唯一取り上げなかった『永遠の0』。[*]

 梅茶さんが違いを感じられたように、『アメリカン・スナイパー』と『永遠の0』はまるで異なる(およそ正反対の)映画だと思います。
 それを語るには、まず『永遠の0』について述べなければなりませんが、とんでもなく長くなりそうなので、『永遠の0』への詳細な言及は割愛します。以下では、『アメリカン・スナイパー』との差異に絞って書こうと思います。

 『永遠の0』については『宇宙戦艦ヤマト2199』の記事で少し触れたので、まずはこちらをご覧いただければと思います。

 故郷に残した人々のために必ず帰ると云っていた主人公が、戦いの果てに特攻(自殺)を選ぶ……という物語は、同じ山崎貴監督作品『SPACE BATTLESHIP ヤマト』と同じです。太平洋戦争と星間戦争の違いはありますが、作り手のスタンスはほぼ同じなので、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の記事で語ったことは『永遠の0』にも当てはまります。

 戦争と死生についての記事としては、こちらもお読みいただければ幸いです。

 『アメリカン・スナイパー』と『永遠の0』の違いについて語る前に、まだ述べておくべきことがあります。それは、今までブログに書いていないことだと思うので、ここで語っておきましょう。


■『永遠の0』 対 『この空の花 長岡花火物語』

 映画『永遠の0』に戦争の悲劇を見て取って、涙にむせぶ人がいます。今の世の中が多くの人の犠牲の上に成り立っていることを痛感し、生きることの大切さを改めて思う人がいます。反戦を訴えた映画として、大いに共感する人がいます。
 一方で、特攻を美化した作品であると批判する人がいます。戦争賛美の映画であると感じる人もいます。
 なぜこのように意見が分かれるのでしょうか。ヒット作には毀誉褒貶が付きまとうものですが、出来の良し悪しが議論されるならともかく、題材(この場合は戦争)への姿勢の捉え方がそもそも割れています。

 原作者は、自分の小説は特攻を否定したものであるとして、戦争賛美という意見に反発しています。
 たしかに主人公は凄腕の戦闘機乗りでありながら、他の軍人から一歩引いた位置におり、上層部の作戦への批判も辞さない人物です。劇中、南雲長官の采配ではミッドウェー海戦に大敗することを見抜き、上の命令に従う連中を罵倒します。
 私は原作小説を読んでいませんが、映画を観るだけでも戦争への批判、軍上層部への批判を感じました。あの戦争のためにいかに多くの人の人生が狂わされたか、とりわけ特攻で死んだ主人公はいかなる胸中であったことか。そこを考えさせる本作の作り手に、戦争を賛美するつもりはないのでしょう。

 同様の映画は多々あります。
 『永遠の0』を批判する人でも、たとえば『この空の花 長岡花火物語』を反戦映画と位置付けることに反対する人はいないでしょう。2012年公開のこの映画は、大林宣彦監督が長岡の戦争の歴史をぎゅう詰めにした半ドキュメンタリー作品です。役者が演じるフィクションと、実際のインタビュー映像が混在し、長岡の過去を浮き彫りにします。

 よく知られているように、広島、長崎への原爆投下は実験を兼ねていました。原子爆弾という新型兵器がどのような威力を発揮するのか調べるために、米国は広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型の原爆を落として比較しました。それだけでなく、通常の爆弾との威力の差を知るため、原爆と同じ躯体にTNT火薬を詰めた通称「パンプキン爆弾」を他の都市へ落とし、原爆投下との比較ができるようにデータを集めました。勝つ見込みがまったくないのに戦争をやめない大日本帝国は、兵器の実験に恰好の場だったのです。

 長岡はこうした都市の一つです。今さら長岡に爆弾を落としたからって戦況に変わりはなかったと思いますが、長岡は劫火に包まれ、多くの人が亡くなりました。
 ……なんてことは、歴史や戦争に少し興味がある人ならご存知だと思います。この映画はそれを映像技術を駆使して描きました。花火を平和の象徴として取り上げ、花火を見たり打ち上げたりできる平和な世界の大切さを訴えます。

 片や戦闘機で敵に突っ込む男の映画、片や爆弾に逃げ惑う民衆の映画なので、両者の印象はずいぶん違います。『永遠の0』を戦争賛美、特攻美化と批判する人も、『この空の花 長岡花火物語』を指して戦争賛美とは云わないでしょう。
 しかし、私には両作が同じような映画に見えます。『永遠の0』と同じく『この空の花 長岡花火物語』をブログに取り上げなかったのもそのためです。
 もちろん、『この空の花 長岡花火物語』が戦争を美化していると云うつもりは毛頭ありません。戦争のむごさ、悲しさを丹念に描いたこの映画が戦争を賛美しているわけがない。でも、それを云ったら『永遠の0』だって、戦争のむごさや悲しさをたっぷり描いています。おそらく『永遠の0』の作り手は、あんな戦争を繰り返しちゃいけないと強く思いながら映画を作ったことでしょう。

 私が両者を同じだと云うのはそのことです。戦争の悲劇を思い起こし、同じ過ちを繰り返さないことを心に誓う――そんな映画はこの二作に限りません。
 それらの作品に共通しているもの、そもそもの出発点にあるのは何でしょう?
 それは、戦争に反対する物語を、無残な負け戦から説き起こしていることです。爆弾を落とされた、愛する人と引き裂かれた、愛する者を失った、そういう体験から同じ過ちを繰り返さないという教訓を引き出しているのです。
 これは戦争に反対しているのでしょうか? たしかに戦争に反対しているようでもあります。教訓があるように見えます。でも同時に、これらの映画からは「同じ負け戦を繰り返すまい」という教訓も引き出せるのではないでしょうか。人間をミサイルの代わりに突っ込ませるような惨めな戦いはご免だ、制空権を失って全国どこでも好きなように爆弾を落とされる目はまっぴらだ。これらの反省は、戦況を有利に進めれば回避できます。いったい過ちとは何なのでしょうか。戦争をしたことか? 負けるような戦争をしたことか?

 『永遠の0』で主人公が軍を批判する言葉は、負け戦を叱るものばかりです。
 このタイミングで爆弾の換装なんかしたら、敵の標的になってしまうじゃないか。せっかく育てたパイロットに特攻させたら空軍力を失ってしまうじゃないか……。
 観客は思うでしょう。彼の云うとおりにしていれば、負けずに済んだんじゃないか。

 『永遠の0』の作り手も『この空の花 長岡花火物語』の作り手も、戦争に反対しているつもりかもしれません。次は勝とうと発破をかけるつもりではないかもしれません。
 しかし、これらの映画は、戦争反対という教訓だけでなく、負け戦を繰り返すまいという教訓を引き出される可能性を潰せていません。今度は勝とうという方向に議論が流れる可能性が残されたままになっています。
 これを私は反戦を訴える映画だとは思えません。負け戦の惨めさ、悲しさから説き起こしている限り、今度は勝とうという教訓に結び付く可能性が少しでもある限り、それは「戦争反対」ではなく「負け戦反対」です。
 『永遠の0』に危うさを感じる原因の一つはここにあります。

 1970年の映画『激動の昭和史 軍閥』は、この点に切り込んでいました。
 日米開戦前夜から敗色募る終戦間際までを描いたこの映画は、東條英機の言動を中心に、陸軍、海軍、マスコミの行動を多角的に捉えた作品です。経済制裁に苦しみ閉塞感の高まる大日本帝国は、日米開戦に大喜びします。閉塞感が破れたことで、みんな晴々とします。新聞各紙も大衆に迎合して好戦的な記事を書き散らし、部数をぐんぐん伸ばします。

 けれども、華々しい戦果が続くものではありません。半年後にはミッドウェーでボロ負けし、その後も大日本帝国は負け続けます。ここで映画は竹槍事件をモチーフにした新聞社の造反を描き、新名丈夫記者をモデルにした人物・新井五郎を登場させます。若大将シリーズで人気沸騰中の加山雄三さんが演じただけあって、新井五郎は真っ直ぐで血気盛んな正義漢です。
 この新井記者が、前線で負け戦を目の当たりにし、「こんなことになるなんて、戦争を煽った新聞にも責任がある」と反省します。でも、彼はそんな言葉を口にしたがゆえに罵倒されます。こんなことになったから責任を感じるのか、と。「負け戦だからやらなきゃ良かったって云うのか。じゃあ勝ってれば良かったのか。違うだろ、勝ち負けに関係なく戦争しちゃいけなかったんじゃないのか。」と責められます。

 『アメリカン・スナイパー』が『永遠の0』と異なるのもその点です。
 『アメリカン・スナイパー』で描かれるイラク戦争は、米国の負け戦ではありません。フセイン政権を崩壊させたのですから、国家間の戦争に米国は勝利しました。しかし、そこには勝利の喜びも華やかさもありません。泥沼のような混乱と暴力の連鎖が、米国に絡みついています。
 『アメリカン・スナイパー』の主人公クリス・カイルは英雄です。米軍史上最高の狙撃手として記録を打ち立て、山のような勲章を授かりました。みんなは彼を「伝説」と呼び、命の恩人と褒めそやします。それらは本当にあったエピソードです。
 けれど、クリスの気持ちは晴れません。戦場を離れても気が休まらず、恋しいはずの我が家に帰ることもできません。戦場で人を殺し続けた彼は、妻子との穏やかな生活に戻れなくなっているのです。

 ここには負け戦を悔いたり、次は勝とうと考える余地がまったくありません。勝ち負けに関係なく、戦場で壊れていく人間をこれでもかと描きます。ここまで踏み込んではじめて戦争に反対することになると、私は思います。


 『アメリカン・スナイパー』に対して、開戦の是非に言及しないことへの批判もありますが、それも的外れでしょう。
 たしかにイラク戦争は間違っていました。政府内外の人たちの思い込みや保身や欲望が積み重なって、世界最強の国が他国に戦争を仕掛けてしまいました。他国の政府を壊滅させ、その国の人を混沌の中に叩き落としてしまいました。
 それは非難されるべきでしょうが、それを理由に戦争は良くないと主張するのも危険です。誤った情報に基づく間違った判断はたしかに悪い。けれどもそこを強調すると、大義名分が立てば良いのかという疑問が湧いてきます。正確な情報に基づいて慎重に判断した戦争ならば肯定するのか。

 間違った戦争だったと非難すればするほど、大義名分の立つ戦争を否定できなくなります。そのことを『アメリカン・スナイパー』の作り手は理解しているに違いありません。だからイラク戦争の開戦の是非には触れなかった。大きな犠牲が出るから戦争反対と説くだけでは「負け戦反対」になりかねないように、誤った情報に基づく開戦を非難することは正確を期した開戦を肯定することになりかねない。
 開戦に至る過程にかかわりなく、戦争と人間を描ききる。それが『アメリカン・スナイパー』なのです。


■『永遠の0』 対 『ローン・サバイバー』

 梅茶さんが自己犠牲を美徳と感じてしまうこと、それはとうぜんだと思います。
 美徳――人間が肯定的に感じることは、人類が進化の過程で身につけた特質でしょう。数十万年、数百万年の時間の中で、生き残りに有利に作用した性質、少なくとも不利には作用しなかった性質を私たちは備えています。自己を犠牲にすることも、生き残りに役だったに違いありません。
 もちろん犠牲になった本人は、場合によっては死んでしまいます。しかしその犠牲のおかげで集団が生き残るのであれば、人類は絶滅を免れます。鹿のように俊敏でもなければ、狼のように強くもない人間集団が生き残るには、誰かが犠牲になっているあいだに他の者たちが逃げることも必要でしょう。同族を逃がすために囮になる動物は、人間だけに限りません。

 自己より集団を優先させる気持ちが強まると、人間はいとも簡単に死を選びます。
 映画『セデック・バレ』が描いた台湾の霧社事件では、蜂起した男たちの足手まといになるまいと、女たちが自決してしまいます。あまりの苛烈な行動に映画を観ていてギョッとしますが、本邦でも会津戦争の折には屋敷に残った女たちが自決しました。
 彼らにとって、所属する集団があっての自分なのですから、集団の瓦解を目にするくらいなら自分の命なんてどうでもいいのでしょう。

 ですから自己犠牲を美徳に感じて称賛するのは、人間にとって自然な気質だと思います。
 問題はどこまで肯定し続けるかですね。

 戦争の死者はサンクコストです。どんなに悼んでも、惜しんではいけません。
 戦争について語るときに「サンクコスト」という経済学の用語を持ち出すのは不謹慎だと思われるかもしれません。しかし、死者に対する思いとサンクコストに感じる気持ちはよく似ています。
 「サンクコスト(埋没費用)」とは、すでに支払って回収できない費用のことです。映画の途中でつまらないと思っても、払った映画代は返ってきません。一兆円の道路を半分作ったところで経済効果が出ないと判っても、使った5000億円は返ってきません。こういうときはもう回収できない金はあきらめて、これからいくら使う破目になるかだけを考えるべきです。つまらない映画の残りを観ても面白くなりはしないので、家でテレビを見た方がマシかもしれません。経済効果が出ないと判った道路に残りの5000億円投入するのは愚の骨頂です。けれども私たちはそういう決断が苦手です。結局最後まで映画を観てぶつくさ文句を云ったり、道路を完成させてその交通量の少なさが問題になったりします。

 戦争の死者も同様です。悔いても悲しんでも、死んだ者は帰ってきません。
 ですから将来を考える際には、これまでに何人死んだか、どれだけの犠牲を払ったかは考慮せず、今後どれだけの死者が出るのか、将来の死者を減らすにはどうしたら良いのかだけを考えるべきなのです。でも私たちはそういう決断が本当に苦手です。故人の遺志を継ぐんだとか、死んだ者が浮かばれないと考えて、やめられずに犠牲を大きくしてしまいます。

 自己犠牲を称えるのは、サンクコストを重視するのと同じです。サンクコストを考慮してはいけないのに、犠牲の尊さを強調すればするほどサンクコストの呪縛に囚われて、やめることができなくなります。
 『永遠の0』の観客は、先の戦争で死んだ者たちを惜しみ、今の生活が彼らの犠牲の上にあると痛感するでしょう。
 その感情は尊いのですが、将来を考えるときに過去の犠牲を考慮しては判断を誤ります。
 『永遠の0』は感動作であるだけに、判断を誤る方向に押しやる力が強いのです。死者は悼むものであって、惜しむものではありません。
 『永遠の0』に危うさを感じる原因はここにもあります。

 『アメリカン・スナイパー』で描かれるサンクコストはSEALsの訓練です。
 教官に口汚く罵られ、しごきにしごかれる彼らは、精神的にも肉体的にも限界を超えることを要求されます。『アメリカン・スナイパー』と同じくSEALsの隊員を主人公にした『ローン・サバイバー』でも描かれたそれは、SEALsに入ることを容易に許さない参入障壁です。だからこそ訓練を乗り越えて隊員になることが誇らしく、同じ訓練を耐え抜いた仲間と強い信頼で結ばれます。
 集団から一人前として認められるための試練という点で、これは宗教的儀式や通過儀礼と同じです。サンクコストをあきらめられない私たちは、苦労して参加した集団から抜けられません。SEALsが最強部隊なのは、能力の高さもさることながら、サンクコストの呪縛によって集団への帰属意識を高め、自己犠牲を厭わない精神を作り上げていることにあるのでしょう。

 ところがSEALsの訓練ではじまる『アメリカン・スナイパー』の軍隊生活は、サンクコストの呪縛を断ち切る方向に進みます。
 もちろん仲間との連帯は大事ですし、仲間の死は悲しくてやるせない。戦友たちの死を目の当たりにした主人公は、亡き友の復讐を果たすべく四回目のイラク勤務に臨みます。敵の狙撃手を倒すことで復讐は果たされますが、それによって多くの敵を引き寄せ、彼は窮地に陥ります。散々な思いをした彼は、これを最後に除隊してしまいます。
 『アメリカン・スナイパー』は敵の狙撃手との対決が西部劇のガンマンの戦いのように盛り上がり、マカロニ・ウェスタン出身のクリント・イーストウッド監督の面目躍如となっています。しかし、復讐心に突き動かされて味方を危険にさらした主人公の行動は、明らかに不適切なものとして描かれます。過去の犠牲に捕らわれながら、これからの行動を判断してしまったからです。

 除隊後のクリスが行うのは、帰還兵の社会復帰の支援です。
 SEALsで叩き込まれたこととは正反対の、一般社会で普通に暮らすための努力です。
 現実のクリスは除隊後も民間軍事会社を立ち上げて戦争にかかわり続けますが、映画はそれを描きません。映画『アメリカン・スナイパー』が重視するのは、戦友たちの死を経験しながらも、戦争から離れた平和な暮らしを築こうとする姿勢だからです。大切なのは、今の生活が兵士の犠牲の上にあるなどとは少しも強調しないことです。戦争の英雄だった主人公は、サンクコストの呪縛や過剰な帰属意識から自己を解放していきます。
 『永遠の0』とは正反対ですね。


■『永遠の0』 対 『蜩ノ記』

 『永遠の0』は感動作であると書きましたが、感動とは何でしょうか。
 辞書には「ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること」とあります。心を揺さぶられ、気分が高揚して涙が出たりすることですね。心のデトックス(解毒)とも云えましょう。感動作を観て大泣きすると、気持ちが晴れやかになります。山崎貴監督はそんな感動作が得意です。

 それに対して、『アメリカン・スナイパー』の特徴は感動させないことです。いえ、感動することはするのですが、観終わった後にずしんと重いものが残り、晴れやかさにはほど遠い。デトックスではなく、これまで以上に重いものを背負わされたように感じます。
 『永遠の0』と『アメリカン・スナイパー』にこのような違いが生じるのは、人間のどこを刺激するべく作られているかが両作で異なるからです。端的にいえば、『永遠の0』は感情に訴えて泣かせる映画であり、『アメリカン・スナイパー』は理性に訴えて考えさせる映画なのです。

 ダニエル・カーネマンが提唱した人間の認知システムの2段階モデルに当てはめれば、『永遠の0』はシステム1をターゲットにした映画、『アメリカン・スナイパー』はシステム2をターゲットにした映画と云えるでしょう。
 システム1は人間が直感的に情報を処理する仕組みであり、脳の一番古い層です。システム2は進化の中で比較的最近できたもので、意識的に推論を行ったりする時間のかかる思考です。

 與那覇潤氏はこの2段階モデルを敷衍して、西洋と東洋の違いを説明しました。条件反射的なシステム1だけに任せていては、対立がエスカレーションして戦争になりかねない。その作動を「抑制する機構」として政教分離や法治国家等の社会的なシステム2をがっちり作ったのが西洋なのではあるまいか。
 一方、東洋ではシステム2的に合理主義をごちゃごちゃこねまわすのではなく、「心即理」をスローガンにした陽明学のようにシステム1を信頼して、人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、自動的にすべてが調和して秩序が成り立つはずだと考えました。
 カーネマンの2段階モデルと與那覇潤氏の説明について、詳しくはこちらの記事を参照してください。

 『永遠の0』はシステム1で行動する映画です。仲間が死んだから悲しむ。帰属する集団のために自己を犠牲にする。集団の敵とは戦う。人類が狩猟採集の時代から数十万年、数百万年にわたって行ってきたことそのままです。心を震わせ、感動する要素が満載なので、高く評価する人も多いでしょう。

 『永遠の0』はキネマ旬報ベスト・テンでこそ26位と振るいませんでしたが、これは戦争という題材が警戒されたのかもしれません。同じキネマ旬報ベスト・テンの選出者は、『永遠の0』とそっくりの別の映画を10位に選んでいます。小泉堯史(たかし)監督の『蜩ノ記(ひぐらしのき)』です。
 戦争映画の『永遠の0』と時代劇の『蜩ノ記』では全然違うじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、両作は集団のために自己を犠牲にして死を選ぶ物語で共通しています。とりわけ印象的なのが、『蜩ノ記』の中盤で岡田准一さん演じる檀野庄三郎が口にする「自然のままに、武士本来の生き方をしたい」というセリフです。これぞまさしく、頭でっかちに合理主義をごちゃごちゃこねまわすのではなく、人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、すべてが調和して秩序が成り立つはずだと考える、「心即理」の表明でありましょう。

 武士本来の生き方とは何でしょう? 武士の務めといえば武装して、戦闘力を高め、敵と戦うことに他ならず、『永遠の0』の戦闘機乗りがやっていることと違いません。なのに、自然のままとか本来の生き方と云われると、警戒を解いて受け入れてしまいます。
 映画の出来はさして変わらないのに、戦争というキナ臭さをまとった『永遠の0』は支持を拒まれ、戦争が前面に出ないだけで、ほぼ同じことを主張している『蜩ノ記』が支持されるのは興味深いです。結局日本人は『永遠の0』や『蜩ノ記』のような話が好きなのです。

 王陽明に説かれるまでもなく、人間の心は集団での生き残りに適した形に進化したと考えられます。人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、すべてが調和して秩序が成り立つことでしょう。狩猟採集時代のような100~200人の部族の中では。帰属する集団以外のことを考える必要はなく、仲間じゃなければ人間だろうと他の動物だろうと殺して食べてしまえばいいのです。話は簡単です。
 ところが集団が大きくなると、顔も名前も知らない連中が増えてきます。数万人、数十万人の人間なんて憶えきれないし、仲間意識を持てません。ましてや数十億人の全人類を仲間扱いして秩序を保つなんて、狩猟採集時代に身に付けた心には荷が重すぎます。
 とりあえず、違う国の人間は仲間扱いしなくても、敵として殺してもいいんじゃないの。人間の素直な心を発露すれば、そう考えても不思議はないでしょう。

 だから『永遠の0』には敵側の描写が一切ありません。
 『SPACE BATTLESHIP ヤマト』と同じです。『SPACE BATTLESHIP ヤマト』に登場した地球の敵デスラーは、人間性のない、敵対するだけの曖昧な存在(鉱石質生命体の意思集合体)として描かれました。物語を綴るための記号としての敵でしかなく、原作アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の敵のような個性や人間臭さはありませんでした。
 映画『永遠の0』でも、人間は日本人しかいないかのごとき描き方で、米軍、米兵は主人公を脅かし、主人公に殺される記号でしかありません。米兵の人間性は『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の異星人以上に徹底して剥奪され、まともなセリフもありません。近年、これほど一面的な戦争映画も珍しいと思います。
 システム1で処理できることしか描かない。これもまた『永遠の0』の危うさです。

 『アメリカン・スナイパー』も同様に米軍の主人公だけを追った映画ですが、こちらはシステム2を働かせて意識的に推論することを観客に要求します。
 『アメリカン・スナイパー』は人質になったイラク人少年や号泣する親の描写を挿入し、彼の国にも人々の暮らしがあることを知らしめます。テロリストの夫を心配そうに見送る妻の映像は、テロリストだって人の子であり、家庭持ちであることに気づかせます。
 殺し合いの相手にも人生があることに思いを馳せるには、推論する力が必要です。自然に振る舞うシステム1では対応できません。『アメリカン・スナイパー』は映画の節々で観客に推論と考察を要求し、号泣するような感情のたかぶりや、敵愾心を燃やすことを許さないのです。

 音楽の使い方も対照的です。
 音楽の効能の一つは、集団の結束を高め、戦意を高揚させることでしょう。台湾原住民は「かつて部族を挙げて首狩りをする際には、その前に必ず皆で歌った。ごくわずかにでも音が合わないと、『今日は皆の心がそろっていない。戦っても負ける』として、出撃を見合わせた」そうです。
 台湾原住民を例にとるまでもなく、テレビで野球等の試合を見れば賑やかな応援歌には事欠きません。選手やチームを歌で応援するのは、平和を希求し、争いをやめさせるためでは断じてありません。

 『永遠の0』でも佐藤直紀氏の流麗な音楽やサザンオールスターズの主題歌が、観客の気持ちをドラマチックに盛り上げます。音楽は深い感銘を与え、強く心を動すことで聴衆の感情を直撃します。音楽を聴きながら推論を働かせたり考察する人は(プロの音楽家やマニアでなければ)いないでしょう。
 「決戦盆踊り」や「爆弾くらいは手で受けよ」といった戦時中のトンデモ軍歌が流れれば皮肉や風刺が効いて面白いのですが、それではシステム2を刺激してしまいます。『永遠の0』は映像、音楽、物語のすべてがシステム1だけをターゲットにすべくチューニングされているのです。
 
 先の記事でも述べたように、『アメリカン・スナイパー』ではほとんど音楽が流れません。みずから作曲し、音楽にも造詣の深いイーストウッド監督は、音楽の危険性を知っているのでしょう。敵地に乗り込み、テロリストを射殺する映画に音楽を添えたなら、とんでもない好戦プロパガンダ映画に成り果てることが判っているのです。
 システム1だけに流されず、システム2を働かせることを要求する『アメリカン・スナイパー』は、音楽で盛り上げてはいけないのです。観客を音楽の心地好さで酔わせてはいけないのです。

 システム1を信頼して人間の心の動きに身を任せるのか、システム2を働かせてシステム1の作動を抑制させる不断の努力をするのか、『永遠の0』と『アメリカン・スナイパー』の最大の違いはここにあります。

 おそらく映画『永遠の0』の作り手は、意図的に戦争を賛美しようとは思っていないでしょう。巧妙な計算を巡らせたりせず、ごく素直に素朴に、人間のまごころを映画にしたのだと思います。その気持ちが本物だから、多くの観客が共感し、感動したのでしょう。『永遠の0』に涙した観客に、戦争を賛美するつもりはないに違いありません。
 でも、それだけにこの映画は危険です。
 この映画にはシステム1の暴走を止める仕組みがありません。負け戦に反対し(次は勝とうと決意し)、過去の犠牲にこだわり、自己犠牲を称賛することへの歯止めがありません。にもかかわらず感動させ、感情をたかぶらせてしまいます。それが、この映画の危うさの正体だと思います。


[*] この記事を書いた時点では『寄生獣』を完結編のときに取り上げる予定でしたが、『寄生獣』も取り上げないことにしました。

アメリカン・スナイパー ブルーレイ&DVDセット『永遠の0』  [あ行]
監督・脚本・VFX/山崎貴  脚本/林民夫
出演/岡田准一 三浦春馬 井上真央 夏八木勲 田中泯 橋爪功 平幹二朗 山本學 濱田岳 新井浩文 染谷将太 三浦貴大 上田竜也 吹石一恵 風吹ジュン
日本公開/2013年12月21日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]

アメリカン・スナイパー』  [あ行]
監督・制作/クリント・イーストウッド
出演/ブラッドリー・クーパー シエナ・ミラー ルーク・グライムス ジェイク・マクドーマン ケヴィン・レイス コリー・ハードリクト ナヴィド・ネガーバン
日本公開/2015年2月21日
ジャンル/[ドラマ] [戦争] [アクション]
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【theme : 戦争映画
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表現者の権利と義務…

ナドレックさん、私のモヤモヤした不安感に対する鮮やかなご解答、ありがとうございます。
昨年から、いえ、戦争映画や集団的自衛権など、キナ臭いニュースに触れる度に、説明のつかない不安感に苛まれていた私にとって、これほど治療効果のあるお言葉はありませんでした。
特に、認知システムの構造は、まさしく現代の人間にとって、憂慮しなければならない問題でしょう。
どうしても、自分の感情に素直に反応してしまう自分が、映画やドラマで感動する時、涙を流しながら、そんな自分を警戒するもう一人の自分が、不安感というシコリを心に植え付けていくのです。
けれど、なぜか「アメリカン・スナイパー」を見た後には、それがなかった。重苦しい気分にはさせられたけど、言い様のない不安感に苛まれることはなく、見たことを心から良かったと思える映画だったことが、不思議に思えた作品でした。
ナドレックさんのおっしゃるとおり、半世紀以上映画の世界と関わってこられたイーストウッド監督が、表現者として使える権利と担う義務を、これほどまで熟考し、配慮を重ねながら作品を紡いでこられたことに、感動してしまいました。
認知システム1と認知システム2…、あらゆる場面で自分自身と向き合う粋な方法を教えてもらい、また、映画を見る楽しさが増えました!ありがとうございます!

Re: 表現者の権利と義務…

梅茶さん、こんにちは。
長文の返事をお読みいただきありがとうございます。

表現者の権利と義務。まさにそこが本作の見どころですね。
何を表現するか、表現すべきなのか。表現しなければならないのか。イーストウッド監督の映画は、そこを本当に掘り下げていると思います。
表現者たるもの、誰しも表現したいことがあるでしょう。でも彼は、表現したいから作りました、だけではなくて、どこの誰がどう受け止める可能性があるかをとことんまで熟考した上で作っていると思います。その思索の深さが、映画を豊かなものにしているのですね。

イーストウッドの俳優としての代表作といえばダーティハリーが挙げられるでしょうが、私は実のところあまり好きではありませんでした。
『夕陽のガンマン』等のポンチョの賞金稼ぎは大好きなのですが、あれは無法地帯の無法者の話。何をするのも勝手な世界です。
ところがハリー・キャラハンはまがりなりにも現職の警察官であり、法を遵守すべき公務員です。なのに無法者そこのけの暴れっぷりで、平気で銃をブッ放す。こいつこそ一番先に取り締まるべきだと思いました(^^;
けれど、イーストウッドが監督した『許されざる者』『グラン・トリノ』『アメリカン・スナイパー』等を見るにつけ、イーストウッド演じるヒーローたちは銃をブッ放すたびに痛みを感じていたのではないかと考えるようになりました。その痛みが積もり積もって今の作品があるのではないか。そんな風に感じます。

刻みこまれる皺…

ナドレックさん、私のワガママなコメントにお付き合い下さり、ありがとうございます。もしかしたら、触れられたくない内容なのかも?と一縷の不安はありましたが、おかげでナドレックさんの映画に対する優しいまなざしを伺うことができました。
一連の作品でスターの座に駆け上がったイーストウッド監督は、クリス・カイルのように重荷を背負ってきたのか、刻みこまれていく皺が神々しく見え、彼の紡ぎ出す作品は、いつも、葛藤しながら前を向いて生きようとする人々を優しく励ますような空気に溢れていますよね。
銃をぶっぱなしてスカッとしたい、と誰しも思うけれど、ほとんどの人は暴力に手を染めることはありません。けれど、少しばかり映画やドラマに影響を受けて暴力に手を染めてしまったなら、あるいは戦争でやむを得ず人を殺してしまったなら、そちら側の人間に思いを馳せるような映画も、なければならない…。負の連鎖を絶ち切る流れは、誰もが主役になって作っていける…、そう信じる彼にエールを贈りたいです。

Re: 刻みこまれる皺…

梅茶さん、こんにちは。
毎度、梅茶さんのコメントは味がありますね。私の記事より梅茶さんのコメントを読む方が楽しいです。

人間誰しも他者を非難したり攻撃すれば溜飲が下がりますし、そういう言動をする人は多いでしょう。だからそういう映画も多いのですが、イーストウッドの作品はそんな「娯楽」とはひと味違いますね。

>そちら側の人間に思いを馳せるような映画も、なければならない…。

そこなんだと思います、彼の作品が素晴らしいのは。
どんな側にも、どちらの側にも人間がいてドラマがある。一見あたり前のこのことを、忘れずにちゃんと作品に反映させているから、見応えがあるのでしょう。

No title

>勝ち負けに関係なく、戦場で壊れていく人間をこれでもかと描きます。ここまで踏み込んではじめて戦争に反対することになると、私は思います。

つまり兵士の心のケアを完璧に行える進歩した精神医学があれば戦争していいってことですね?
あるいは人を殺しても苦しまないサイコパスを選別して兵士に採用する軍隊ならいいと。
↑そう解釈できちゃいますよ。

あなたは反戦映画が好き。私は戦争映画が好き。
漫画ですが「国が燃える」みたいに捏造しといて「歴史の真実を描いた」とか宣伝さえしなければ戦争賛美でも反戦でも個人の選好で優劣なんてない。
お互いにミルの危害原則にしたがって、他人の選好は気にしないで生きられれば幸せで平和な社会が続くんですが、反戦な人ってすぐ↑の批判で潰せるていどの稚拙な論理で反戦映画を賛美してウザい。

Re: No title

名無しさんさん、こんにちは。
名前の欄にご自分で「名無しさん」と書く方は珍しいです。

>↑そう解釈できちゃいますよ。

解釈できません(^^;
どう考えてもそういう解釈にはならないと思いますよ。

>あなたは反戦映画が好き。私は戦争映画が好き。

えッ、私は反戦映画が好きなんですか!?

名無しさんさんは反戦映画と戦争映画を並置なさっていますが、それぞれどんな映画だと考えていらっしゃいますか?
当ブログにおける映画の分類はallcinemaを参考にしています。そこに反戦映画というジャンルはありません。『フィルム・スタディーズ事典』の見出し語にもありません。そういう用語は存在しないのです。記事本文では便宜上「反戦映画」と表記しましたが、言葉を補えば「反戦的なメッセージの強い映画」です。作品のテーマやメッセージの傾向を示す上で、手っ取り早い略語として流通している言葉が「反戦映画」であると云えましょう。
一方、戦争映画とはジャンルの名称であり、『フィルム・スタディーズ事典』でもミュージカルやロード・ムービー等と並ぶ見出し語になっています。当該書では戦争映画を「戦争での交戦状態や、戦争に向けた準備段階、また戦争の余波を描く映画」と説明しています。戦争を扱うという外形が、戦争映画と呼ばせるわけです。

とうぜんのことながら、テーマやメッセージの傾向を意味する「反戦映画」と、外形によるジャンル分けの結果である「戦争映画」とは、排他的な集合ではありません。
『フィルム・スタディーズ事典』の戦争映画の説明には「多くの戦争映画は反戦を意図したものである」と書かれており、『世界大百科事典』には「反戦映画が真の戦争映画として評価を受ける」とあるように、反戦映画の集合と戦争映画の集合は大幅に重なっています。

したがって、「あなたは反戦映画が好き」という命題にはジャンルについての言及がないことから、「あなたは反戦的なメッセージが強ければ戦争映画であっても戦争映画でなくても好き」と書き変えることが可能でしょう。
同様に「私は戦争映画が好き」という命題には作品のテーマやメッセージへの言及がないので、「私は戦争映画でありさえすれば反戦的なメッセージの強弱にかかわらず好き」と宣言することに等しいでしょう。
すなわち、「あなた」が好きな映画には戦争映画が含まれており、「私」が好きな映画には反戦映画が含まれることになります。

ということは、

>あなたは反戦映画が好き。私は戦争映画が好き。

なる文章は、一見すると異なる命題を並置しているようでありながら、その実、「あなた」と「私」の差異を説明していません。
名無しさんさんが何を書きたかったのか、私にはよく判りません。

残念ながら、現実には「あなたは反戦映画が好き」という命題は偽です。私がある映画を好きになるか否かと、反戦的なメッセージの有無とは関係ありません。ジャンルによる好き嫌いもないので、戦争映画であるか否かも関係ありません。
私が好きな作品には、反戦的なメッセージを含むものもあります。含まないものもあります。戦争映画もありますし、戦争映画でないものもあります。
反戦的なメッセージを含むから好き、と考えたことはありませんし、これからもないでしょう。

「私は戦争映画が好き」という命題がはたして真なのかも疑わしくなってきました。
ここでいう戦争映画とは何なのか。いかなる戦争映画であっても、戦争映画だから好き、と単純に云い切れるものなのか。

せっかくコメントをいただいたのですが、名無しさんさんの意図を読み解くことは私の手に負えませんでした。
コメントを書く際には、まずコメントの対象の記事をよく読み返し、その趣旨を充分に理解すると良いと思います。そしてコメントに採用する用字用語の意味を把握し、読み手と認識を共有できるかどうかをじっくり考えてから書くと、コミュニケーションの精度が向上するでしょう。
精進なさってください。
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