『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』は総集編じゃない

宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海 [Blu-ray] 【ネタバレ注意】

 「総集編といっても、とにかく1本の映画。2時間の劇場映画を作る気持ちでやろうと。それを僕らのスタンスにしたんです。」
 『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』のパンフレットに収録されたインタビューで、構成の森田繁氏は加戸誉夫(かと たかお)監督とともにこう述べている。

 とはいえ、全26話もある『宇宙戦艦ヤマト2199』を、2時間程度で物語るのは不可能だ。だから、どういう映画にするかが肝になる。
 それを、加戸監督は初日初回の舞台挨拶でズバリと云い切った。「俺ヤマト」だと。


 私は総集編が好きじゃない。
 数十話に及ぶテレビシリーズを総集編にまとめたって、大事なシーンや思い出深いエピソードが欠落した中途半端なものになってしまうに決まっている。無理にエピソードを詰め込んでも、本来の尺で描けない以上、中途半端な感じは残る。
 それでもかつて総集編を見るしかない時代があった。家庭に録画・再生機器が普及しておらず、映像ソフトの市販もない時代、テレビ番組を見たければ再放送を待つしかなかった。もう一度作品に接することができるなら、総集編でも構わなかった。
 テレビシリーズを再編集した『宇宙戦艦ヤマト』劇場版第一作(1977年)や『機動戦士ガンダム』の劇場版三部作(1981年~1982年)のヒットには、こうした背景があるだろう。

 だが、それだけなら一般家庭に録画・再生機器が普及して、DVDを買ったりネット配信を受けたりできるようになった現在、総集編を観る意味はない。
 いや、大河ドラマや朝の連続テレビ小説の総集編が毎年放映されるくらいだから、半年なり一年かけて味わった感動を手軽に思い起こす手段としては総集編も悪くないかもしれない。
 ただ、わざわざ劇場に足を運んで相応の料金を払うには、テレビで総集編ドラマを視聴するより強い動機が必要だ。
 このファン心理を山賀博之氏は次のように説明する。[*]
---
アニメに限ったことではなく、「何かにお金をかける」という行為は信仰に近い。(略)アニメファンが、無料で視聴可能なテレビアニメにお金をかけるのはお布施であって、自分の気持ちの問題でした。グッズや本を買うのは、実用性ではなく、そばに置いておきたいという愛情表現だったし、テレビアニメの総集編映画を、劇場にまで足を運んで観るというのも「僕はこれが好きだ」と自己主張したいからです。
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 たしかに総集編の上映には、ファンイベントとしての側面があった。
 まつもとあつし氏は、近年ツイッターなどのソーシャルメディアによって、総集編アニメ映画の「ファン同士で盛り上がるためのツール」としての側面が強化されつつあると語る。[*]
 山賀氏も「今の劇場には、お客さんがほかの観客と一緒に映画を観て、『あそこで観てきた』とツイートして共有するといった、見世物の基本に先祖返りするようなスタイルが求められている」という。総集編といえども、音声を録り直したり、新規作画を追加したりで結局お金がかかるので、総集編映画単体で儲かるわけではないそうだが、「今は生き残るため、各社ができることをなんでもやっている」。
 
 『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』の公開が、極上のファンイベントであることは間違いない。
 劇場に足を運ぶ観客の多くは『宇宙戦艦ヤマト2199』の、そして『宇宙戦艦ヤマト』のファンであろうし、『2199』の作り手も『宇宙戦艦ヤマト』のファンだろう。
 『2199』の上映は、ファンからファンに向けた、ヤマトへの想いを手渡しする場と云っても過言ではない。
 だから加戸監督の「俺ヤマトを作るんだ」という姿勢にはとても納得した。「みなさんの数だけ『俺ヤマト』があるでしょうが、これが私の『俺ヤマト』です。」

 総集編とは、字義どおりに受け取れば、すべてを集めて編んだもののはずだ。
 ところが舞台挨拶に立った森田繁氏も、『追憶の航海』を「ダイジェストにはしない。名場面集にはしない。」つもりで作ったという。
 つまり、『宇宙戦艦ヤマト2199』の最初から最後までを振り返ったり、印象深いあのシーンこのシーンを再見する作品にはしていないということだ。ナレーションを極力少なくしたと云うだけあって、ストーリーのすべてを解説した作品でもない。キャラクターの多くは出番がなくなり、欠かせないはずの名場面があっさりと削られた。
 その点で、総集編を期待したファンは肩透かしを食ったかもしれない。ファンイベントと云っても、これは「ファンのみんなで大好きな『宇宙戦艦ヤマト2199』を振り返ろう」というものではなく、加戸監督や森田氏が絞り込んだ「俺にとってのヤマトはこれだ!」という剛速球を受け止める場なのだ。

 そして私は加戸監督の「俺ヤマト」に大いに共感した。
 『宇宙戦艦ヤマト2199』は旧シリーズをベースにしつつも豊かに肉付けされた作品だから、様々な切り口があったはずだ。
 そんな中、『追憶の航海』は一つの想いに貫かれている。――「戦う男 燃えるロマン」だ。
 『宇宙戦艦ヤマト2199』の公式サイトには「古代進視点で振り返る特別総集編」と銘打たれているが、これは古代進のナレーションで進行することを指すに過ぎず、古代進中心になるわけではない。カナメはあくまで沖田艦長で、ヤマトクルーの熱い物語が展開する。
 私は『追憶の航海』を観て、改めて『宇宙戦艦ヤマト2199』のストーリーの面白さを堪能した。今回の映画が完成するまで最初の劇場版を見ないようにしていた森田氏は、作業を終えてから見直して、構成が似ていることに愕然としたという。本作は「すべてを集めて編む」ことを放棄する代わりに、『宇宙戦艦ヤマト2199』の根幹となる骨太のストーリーを見事に浮き彫りにしたのだ。私は総集編が嫌いだけれど、こんな編み方なら大歓迎だ。

 何といっても英断を称えたいのは、メ号作戦――すなわち連合宇宙艦隊がボロ負けした冥王星沖海戦にはじまる第1話をまるまるカットしたことだ。
 旧シリーズにおいても第1話は名作中の名作であり、『2199』の第1話が旧第1話をほぼそのまま踏襲したことからも影響の強さがうかがえる。
 それだけに、第1話をどれだけ残すか/削るかが、『追憶の航海』の行方を左右するポイントだった。
 森田繁氏がインタビューで「冥王星沖海戦から入ると、どうしても作品のリズムがそこで決まってしまうと思ったんですね。(略)TVとスタートから同じにしてしまうと、そこから少しでも逸脱すると違和感だけが残ってしまうんですね。そこから先は、TVとの違いを確認する作業になってしまう。それを防ぐためにも、総集編の入り口は、TVとは変える必要があると思いました。」と語るとおり、この決断が本作のカラーを決定した。

 大迫力のメ号作戦を失った代わりに本作が冒頭に配したのは、メ2号作戦――第二章の冥王星前線基地攻撃作戦だ。前半の山場ともいえるメ2号作戦で開幕することにより、本作は迫力あるオープニングを実現するとともに、驚くほどのテンポの良さを手に入れた。


 それから後は、奇をてらわずにテレビシリーズを踏襲した直球勝負だ。
 加戸監督の舞台挨拶によれば、地球側だけに焦点を当てることや、ガミラス側から描くことも検討したという。2時間前後に収めるには、地球側の描写に絞るのも正当なやり方ではあっただろう。
 だが、加戸監督は「出渕総監督のガミラス愛に負けました」という。「やっぱりガミラスを出さないと面白くないんですね。」
 デスラーをはじめ魅力的な敵キャラクターを輩出したのが、『宇宙戦艦ヤマト』の特徴の一つだった。『2199』ではこれをさらに推し進め、敵側を重層的に描写した。加戸監督と森田氏は大鉈を振るいながらも、本作にドメルの妻や二等ガミラス人の悲哀を織り込んで、物語の厚みを維持したのだ。

 正反対の例としては、山崎貴監督の作品が挙げられよう。
 『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に感動して育ったであろう山崎貴監督は、敵側の描写をごっそり削り、自陣営の人間ドラマだけからなる『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や『永遠の0』を発表した。
 『永遠の0』には原作小説があるから外見上はヤマトに無関係だが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を観て育った人には、映画『永遠の0』が舞台を太平洋戦争に置き換えた『さらば――』の再現であることが一目瞭然だろう(もともと宇宙戦艦ヤマトシリーズは、第二次世界大戦を宇宙に置き換えたものだが)。

 テレビドラマ『アオイホノオ』第十話の焔モユルが、このような作り手の心情を吐露している。『太陽の王子 ホルスの大冒険』をパクったアニメを上映したモユルは、観客に向けて心の中で叫ぶ。「ホルスを知ってる奴、本物を思い出して感動してくれ!」
 岡田斗司夫氏はこの第十話へのコメントで、「実は作り手はみんなモユルのようなことを考えている。(略)クリエイターや元クリエイターの視聴者はいま、『たしかにそんなこと考えた!いまも考えてます!』『モユル、オレの心の奥を暴くのはやめてくれっ~!』と叫んでいるはずだ。(略)テレビの前で奥さんといっしょに正座して見ている山崎貴監督!恥ずかしいでしょうそうでしょう。」と述べている。

 閑話休題。でも、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や『永遠の0』は『さらば――』の再現ではあっても、『宇宙戦艦ヤマト』の再現ではない。敵にも人間ドラマがあることを忘れないのが『宇宙戦艦ヤマト』だからだ(『さらば――』では敵側のドラマチックなところをデスラーが持って行ってしまい、ガトランティスのドラマは薄い)。
 加戸監督は「出渕総監督のガミラス愛」と表現したが、それこそが『2199』を『宇宙戦艦ヤマト』の継承者たらしめるものであり、『追憶の航海』が外せなかったものだろう。

               

 一本の映画として見応えのある『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』だが、総集編として制作されたからには果たすべき役割がある。前述したファンイベントだけではない。

 総集編がテレビシリーズの再編集とは限らない。
 劇場版の『宇宙戦士バルディオス』(1981年)や『伝説巨神イデオン』(1982年)は、放映途中で打ち切りになったテレビシリーズの真の結末を発表するため、テレビシリーズを再編集した前半と、本来予定されていた最終回までの後半で構成された。
 特に劇場版の『伝説巨神イデオン』は、テレビシリーズの総集編『接触篇』と、テレビでは描かれなかった物語『発動篇』の二本同時上映の形を取った。『接触篇』の終りで物語はテレビシリーズから分岐し、テレビとは異なる展開の『発動篇』へ突入する。『接触篇』は『発動篇』のためのイントロであるとともに、物語の分岐点を明確にする役割を担っていた。

 劇場版『伝説巨神イデオン』と同じような構成になるはずだったのが、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(1997年)だろう。この作品はテレビシリーズを再編集した『DEATH』編と、テレビとは異なる結末を描く『REBIRTH』編の同時上映のはずだった。
 ところが『REBIRTH』編の制作の遅れから、1997年春に公開された『シト新生』は『DEATH』編と『REBIRTH』編の一部のみとなり、『REBIRTH』編全体に相当する部分は1997年夏公開の『Air/まごころを、君に』に回されてしまう。
 このようなトラブルにもかかわらず、『シト新生』も『Air/まごころを、君に』もヒットしてしまうのだから世の中は面白い。
 今では、テレビシリーズの再編集に新規映像をちょっと加えて公開することや、新作映画に先行してテレビシリーズの総集編を公開するのは珍しくなくなった。

 『追憶の航海』も、二ヶ月後に『星巡る方舟』の公開を控えての総集編だ。
 新作映画のための地ならしとして、従来のファンに『2199』を思い出させて盛り上げると同時に、『2199』を知らない人にこれまでの物語を紹介し、新作に足を運びやすくさせる役割がある。
 『追憶の航海』を131分にまとめるに当たっては、素材となる全26話から多くのものが切り捨てられた。だから、本作を観ても『宇宙戦艦ヤマト2199』の全貌は掴めない。
 しかし本作は『2199』の全貌を理解するための映画ではない。『星巡る方舟』を観る上で必要な知識が得られれば充分なのだ。『2199』を知らなかった人を、新作を観るためのスタートラインに立たせてあげる。それが新作映画に先行する総集編の役割だ。
 そもそも『追憶の航海』を観て、アレが足りないコレが足りないと感じるのは、すでに『宇宙戦艦ヤマト2199』全話を見た人だろう。本作ではじめて『2199』に接する人は、押し寄せる怒涛の展開と「燃えるロマン」に圧倒されるに違いない。

 もう一つ、本作の大事な役割は、物語の分岐点を示すことだ。
 イスカンダルを旅立つヤマト、それを見送るスターシャ。ここで本編が終了したとき、その鮮やかな幕切れに、新作への見事な引きに、私は呆気にとられた。
 イスカンダルから地球への帰路を描かない。これこそが『星巡る方舟』に繋ぐ最大の伏線だ。誰もがこの後を観たくなる。

 泣かせるのは、エンディングに映し出された描き下ろしイラストだ。本編で帰路を描かない代わり、本作のエンディングではイスカンダル出立後の帰路での出来事を9点のイラストで紹介している。
 ガミラス再建に向けて議会で演説するユリーシャ、子供たちに囲まれて好々爺の地を出したヒス、かつての対立を水に流した島と山崎、地球・ガミラス・イスカンダルの共存を象徴するパフェ等々、ファンなら一度ならず夢想したであろう平和な情景を次々に見せてくれる。
 『2199』を知らない人でも楽しめるように配慮してきた加戸監督だが、エンディングだけは従来のファン向けに解禁した。全26話を見ていなければイラストの意味は判らないだろうけど、それだけにファンの心を鷲掴みにするものだ。
 これまで『2199』を知らなかった人も、本作をきっかけにテレビシリーズを見てくれれば、エンディングに描かれたものが判るだろう。

 戦う男の燃えるロマンから解放された安らかなエンディングに、私は涙が止まらなかった。
 第七章までの上映会と同じく、映画が終わると場内は盛大な拍手に包まれた。
 私も惜しみない拍手を送り続けた。


[*] サイゾー 2013年3月号「アニメ映画急増の舞台裏」

宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海 [Blu-ray]宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』  [あ行]
監督/加戸誉夫  構成/森田繁、加戸誉夫
監修/出渕裕  原作/西崎義展
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 井上喜久子 麦人 千葉繁 久川綾
日本公開/2014年10月11日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199
【genre : アニメ・コミック

tag : 加戸誉夫出渕裕西崎義展菅生隆之小野大輔鈴村健一桑島法子大塚芳忠山寺宏一

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見事な逆算

云わずもがなだが補足しておくと、作り手はドメルの妻や二等ガミラス人の悲哀を格別描きたくて織り込んだわけではないだろう。
ドメルの妻が登場するのは、ドメルの捕縛に説得力を持たせる上で彼女が反体制派であることが必要だったからだ。ドメルの捕縛を描いたのは、ドメル対ヤマトの戦いが中断されて未決着であることを示すため。未決着であることを示したのは、七色星団海戦を因縁の対決として盛り上げるためだ。
ノランの肌の色が青くないことを森雪に指摘させて二等ガミラス人の悲哀を醸し出したのは、ノランが他のガミラス兵と一線を画すことを示すため。ノランが他のガミラス兵と違うことを示したのは、ノランが森雪のために犠牲になることに説得力を持たせるため。それはもちろん、第二バレラスがどのように崩壊したかを説明するためだ。

外すことのできないクライマックスを描こうとすると、緊密に結びついた要素が次々浮かび上がってくる……。テレビシリーズの完成度が高すぎるのだ。
だからこそ、クライマックスから逆算して必要なものを織り込み、どんなに名場面・名エピソードだろうと物語る上で削れるものは削らねばならない。
その計算が見事だから、七色星団海戦に興奮し、633工区を吹き飛ばすヤマトに感動できたのだろう。

No title

何と言っても膨大な話に膨れ上がった2199のコンテンツをあの時間に収めるのは無理があるので、個人的に一番大好きなガミラスの植民星殲滅カットがまるまる残ってたので、私的には全然OKです。許します。
オリジナル→2199の中で、最も地位とキャラクターが向上したのは、冥王星のシュルツだと思ってるのですが、今回、最初から最後まで影のように存在がほのめかされるだけで出てきませんでしたねえ。『ゴドーを待ちながら』かと思ったわ。その点、ゲールさんみたいに一芸持ってる人は出番が多くて凄いわ。

Re: No title

ふじき78さん、こんにちは。
オルタリア殲滅シーンがなかったら残念だったかもしれませんね。
あのシーンはビジュアルとして凄いのはもちろん、ガミラスで何が起きているかを表すのに重要なわけですが、何よりもあそこでギムレーの非道さを目にしているから、第二バレラス崩壊時のギムレーの死が腹に落ちるんでしょうね。

>ゲールさんみたいに一芸持ってる人は出番が多くて凄いわ。

ゲールは意外に重要な役どころをこなしてますしね。
新作映画にも出てくることを期待しています。

No title

ナドレックさんこんにちわ

いつもながら的を得た作品評論に興味深く読ませて頂きました。
私も「追憶の航海」もヤマトファンとしては、見逃せない作品の一つとして劇場で眼に焼き付けてきました。多くの方が、26話の作品を2時間にまとめることは到底難しいと感じ、作品のできには批判的なものもあるものの、個人的にはヤマト2199の総集編作品としては素晴らしいできだったと思いました。
特に、長いが故に存在したたるみもなく、後半は名場面の多くでお涙の続出。最後まで目頭をこらえるので必死でした。

今回の作品で私が感じたのは、宇宙戦艦ヤマト2199の可能性です。削られた多くの内容に、ヤマトクルーの死というものがあります。随所で語られた多くのクルーの死。今回最小限に減らされました。最後に主役の沖田艦長は亡くなるのですが、それ以外のメンバーは、すべて帰ってくれたことになっています(ハヤブサ隊は、全員戻るのは無理でした)。
戦争で有りながら、大きな犠牲があったはずなのにヤマトは奇跡的に目的を達し帰ってきます。そんなエンディングでも良いと思いました。主人公やサブキャラの死が感動を与えるわけではないということを、地味に証明したのではないかと思います。
尊い犠牲があったから感動するんじゃない。不可能と思える場面でも諦めずに進んでいく勇気をもつことが新しい道を開くことになる。そこに男のロマンを感じました。
また同じ意味で、萌場面も今回皆無となり、女性キャラのムフフシーンがなくても宇宙戦艦ヤマト2199は作品として成り立つことを十分に証明したわけです。

もっと濃い内容を知りたかったら、26話を全て通して見なさい。枝葉のストーリーが更なる可能性を逆に与えてくれると言わんばかりに。

Re: No title

やまとおやじさん、こんにちは。
これまでもたびたび書いてきましたが、映画の良し悪しを決めるのは必ずしもストーリーではなく、ましてや判り易さではないんですよね。
映画においてとりわけ大事なのはリズムだと思います。優れた映画作家は自分のテンポで作品を律することができます。
『宇宙戦艦ヤマト2199』のテレビシリーズは各回で異なるテンポでしたから、シリーズ全体を通してのリズムは感じられませんでした。でも『追憶の航海』は早いテンポで統一され、明確なリズムがあります。だから私は本作を「2時間の劇場映画」と呼ぶにやぶさかではありません。それも優れた映画だと思います。

>主人公やサブキャラの死が感動を与えるわけではないということを、地味に証明したのではないかと思います。

重要なポイントですね。
『さらば――』以降の宇宙戦艦ヤマトシリーズには「さまざまな人が犠牲になったことによって、私たちはここにたどり着けました。だから自分の人生を大切にしなければいけない」という考え方がこもっているように思います。『2199』でも、ドメルが「死んでいった部下のために戦いをやめるわけにはいかない」というセリフを口にします。
個人ではなく集団を守るのが人間の本能でしょうから、集団内の犠牲を悼む気持ちは誰もが持っているわけですが、さりとて、過去多くの犠牲を出したことが未来の選択肢を狭めてはならないと思います。

こういうところで経済用語を使うといささか不謹慎に思われるかもしれませんが、過去の犠牲者とはサンク・コスト(埋没費用)なんですよね。今後どんな選択をしようと、過去に埋没したもの(犠牲者)が甦るわけではない。未来のことは、あくまでこれから犠牲が生じるかどうかだけで判断しなければならない。けれども人間は、過去の犠牲の大きさに引きずられて未来の判断を誤りがちです。
名将ドメルといえども、死んだ部下のことが判断に影響したのだとすると、大局を見られる人物ではなかったのかもしれません。

過去の呪縛に囚われないためには、過去の犠牲と未来とを切り離して考えるトレーニングが必要でしょう。
そうはいっても実社会で判断ミスを繰り返すわけにはいきません。ですから、アニメ・映画等のフィクションを通した思考訓練は、結構有意義ではないかと思います。
本作を、そのような視点から鑑賞しても面白いでしょうね。

総集編ではないに納得です

ナドレックさん、こんにちは。

自分も劇場で前夜祭、11日と18日の舞台挨拶と参加し、今回の追憶の航海を見てきました。
このとてつもなく濃いヤマト2199をどのように2時間にまとめるのか?
どう考えても不可能じゃないか?と思って最初は不安でした。

最初の前夜祭では切られた名シーンの数々に唖然としながら見ていました。
なんでこれを切ったのーとか。
しかし、2回目、3回目を見ているうちに、なぜこのシーンを選んだのか?
を考えながら全体を見るうちに、これは「宇宙戦艦ヤマト」ではなく、
「宇宙戦艦ヤマト2199」の劇場版なのだと気づかされました。

2199は旧作を元にリアレンジされている作品ですが、
「追憶の航海」は、2199でリアレンジされた部分のみを意図的に
抽出したのではないかと思います。
2199の登場人物や新しい解釈、新たなシーンなどですね。

自分は20代のヤマトファンでして、最初に見たヤマトは、
ビデオで親が録っていた旧作劇場版でした。
だから、ヤマトといえば自分の中では旧TVシリーズではなく劇場版なのですが、
「追憶の航海」と一緒に劇場版を見ると妙にしっくりくるという感じがしました。
うまく、相互補完をしているというか、どちらも内容を削って
全体のテンポをよくしていますが、追憶の航海で削られてしまった部分は
劇場版で既に描かれていたりするので。
逆に、劇場版での古代のガミラス星での台詞の意味を、
追憶の航海によって真に理解できるのではないかと思います。
旧作と2199は違う作品でありながら、やはり同じ作品であるということをあらためて感じました。

追憶の航海の印象としては、やたら沖田艦長がアグレシッブで、
死中に活を見いだすことが「沖田戦法」であることが、強調されていたように思えます。
一見ただ突撃しているだけに見えても、実は生存率が高く、
効果的な戦略を取っていることが分かるは流石沖田艦長ですね。
やはりこれぐらい無茶をしなければ地球を救う奇跡など起こせなかったのでしょう。

あとエンディングがとてもよかったですね。
むらかわ先生による絵に暖かみがあって、皆笑顔であったのが良かったです。
YRAなんかも聞いていると桐生と百合亜とアナライザーの絵もにやりとさせられますしね。
「BLUE」は水樹さんが「愛の星」の妹分のような感じで作ったと言っていました。
この曲は同じく愛がテーマですが、青さを取り戻した地球で、
しばらくたった後の人々の歌なのではないでしょうか。

追憶の航海では星巡る方舟の伏線が張ってあるのでしょうか?
個人的には「こんな結末認められるかよーー」と叫んだバーガーが再登場しそうなので、非常に楽しみです。

続編あるか?

ナドレックさん、こんにちわ。

T.Nです。

追憶の航海はただの総集編ではない、という見解をとても興味深く読みました。
総集編という意識を一切捨てて、一つの映画として見るという観点は私はもっていませんでした。

総集編という意識で見た私の場合、ヤマト2199で描写された大量の要素が2時間という枠から抜け落ちてしまい、つまらなく感じてしまったのですが、あくまで一つの映画として見れ ば、追憶の航海には十二分に楽しめる要素があるという指摘になるほどと思いました。

私はこの映画 については、次の事を念頭に置いて見ていました。

「ヤマト世界の描写に関して、自分が考察で書いた事と製作者の考えにはどれぐらいの相違があるのか」

ヤマト2199の世界描写は10人が見れば10人とも異なる見解を持ちうるものですが、ことデスラーとガミラスの今後がどうなるかについて、私が考察文で書いて、今「同人小説ヤマト続編」で書いている内容とどれぐらいの乖離があるのだろうか、ということを考えながら映画を見ていました。

劇場特典のシークレットファイルの見出し「ガミラスの今後:きびしくも明るい未来」や、映画のエンドクレジットのヒスの絵から、どうも製作者は「デスラーのいないガミラスはうまくいく」という方向性で考えているように見えます。とな ると、ヤマト出現の噂が流れただけで蜂起が相次ぐ程に鬱積している2等臣民の怒りにヒス達がどのように対処したと製作者達は考えているのかが気になるところです。バレラスのガミラス民族はめでたしめでたしでも、被征服民の立場ではどうなるのか。彼らの怒りが正に帝国のアキレス腱になるのではないか、と私には思えます。政治上の利害対立を解決するのに「愛」は問題解決の手段になりえない、というのは政治学の常識と思いますが、ヒスは問題解決のためにどのような政策を用意したのか。そこらへんについての製作者の考えを知ることが出来れば、と個人的に思っています。(私は2等臣民への現実的な政策としてはカエサルやアウグストゥスが行った政策しかないのではないか、と 思っているのですが、それについては今書いている同人小説の中で言及します)

また、「続編があるのかないのか、あるとしたらどのような形になるか」が巷間で話題となっていますが私は続編を作るのは困難を極めるだろうと思っています。ここまでガミラス愛を持っている製作者達がデスラーをズォーダー大帝の用心棒で終わらせてしまうとは私には考えにくいです。かといってガルマン・ガミラスを建国しようにもついていく人間がいないし・・・。そして何よりも続編の製作を困難にしているのは「ヤマト2199の世界でズォーダー大帝が地球にやって来たら地球は絶対に助からない」という事です。ヤマト2199でガミラスが旧作と比べ1万隻余の艦隊を動員出来るほど強化されている以上 、都市要塞も数万隻の艦隊をお供に引き連れていると考えるべ きでしょう。そうなるとアンドロメダ級が十数隻いようがテレサがいようがとてもじゃないが防ぎきれない。いくら都市要塞の上と下が弱点でも攻撃すら出来ないでしょう。ガミラスが地球と共闘するとしても、「スターシャの要請でガミラスが動く」とするのでは、単にご都合主義である以上に「武力による救済」というデスラーが行ってきたことをイスカンダルも行うという矛盾が生じてしまう。劇場特典のブルーレイについているブックレットの、「星巡る箱舟の先がどうなるかは本当にファンの人次第」という記述を見る限り、おそらく続編は作ろうという話が持ち上がってはいても物語をどうすればいいのか全くの暗中模索の状況なのではないかと私は想像しているのですが、どうでしょ うか?(今書いている同人小説ではデスラーがガミラスに復権するという方向で書いていますが、小説の中ではデスラーとズォーダー大帝のおかげでヒスもユリーシャもメルダも地球もとんでもない目に遭わされる)

あと、今書いている考察文の補論と(同人小説)ヤマト続編の現状ですが、「ヤマト2199のデスラーはアレクサンドロスか?」のコメント欄に書いた文章を論文の形式にまとめた部分が4万5千字余り、ヤマト続編部分が1万5千字となっています。ですが、ガミラスとガトランティスの社会 と軍事の記述が当初考えていたよりも大幅に膨れ上がり、全体としては10万字を超えるかもしれません。まだまだ完成まで時間がかかりそうなので、とりあえず今できた分だけ投稿したいのですが、可能でしょうか?

続編あるか? おまけ

T.Nです。

ついでに、「愛では問題は解決しない」の典拠になった文章を引用しておきます。
これを見る限りでは、デスラーがヤマトのとんでもないアンチテーゼになりうるように思えます。


――愛と正義が不可分である事の指摘自体は、エンターテインメントとしてのフィクションの世界においてなんら独創的なことではない。子供向けアニメのここしばらくの常道で言えば、正義のために戦う主人公は愛によって戦いのむなしさを知り、いったんは挫折する。そして大体の場合は、この愛による挫折は敵味方の対立を克服するより高次の正義へと主人公を導くのである(典型的には『宇宙戦艦ヤマト』を想起されたい)。一見近代的正義の立場への愛を媒介とした移行にも見えるこうした筋立てがしかし、極めて安易なものであることはいうまでもないであろう。ここでは問題の提起とその解決が混同されている。つまらない誤解や行き違い、つまりコミュニケーション・ギャップだけが問題であるなら、愛は解決になりうる。落ち着いて再び話し合えば、明らかにそこに存在する解決に到達できるからである。しかし、解決自体の所在、もしくは存在自体が不明である抜き差しならない利害対立や生存闘争の場においては、愛は問題を提起するだけで、それ自体では何らの解決をももたらしはしない。
 さらに愛、ことに利他心としての愛は大規模な社会においては社会形成の基礎として不十分に過ぎるということは、少なくともヨーロッパ近代思想史を学んだ者であれば当然の前提としてふまえておかねばならないことである。利己心をもとにした同感による社会秩序形成の理論をつくりあげたデイヴィッド・ヒュームやアダム・スミスが言うように、具体的な実存としての人間の愛する能力には限界がある。それは利己心に比べて必ずしも弱いというわけではないが、明らかにその到達範囲において限界があるのだ。家族や友人関係といった狭いスケールの社会関係を律するのにはそれなりの有効性を発揮するとしても、見ず知らずの人間までを愛するわけには行かない。しかし、市場経済のネットワークなどを通じて日常的に見ず知らずの他人ともシステマティックに関係付けられている大規模な社会の運営においては、愛に頼るわけにはいかない。それゆえに近代的な意味での「正義」は、愛とは分離された峻厳さを獲得している。誰であれ無差別に扱うという公正さを保つためには、特定の誰か、何かへの固着を意味する人間的愛は引っ込められねばならない。
(稲葉振一郎 『ナウシカ解読』 窓社 P.78~79)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%AB%E8%A7%A3%E8%AA%AD%E2%80%95%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%87%A8%E7%95%8C-%E7%A8%B2%E8%91%89-%E6%8C%AF%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4943983871/ref=la_B004LQPVTE_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1414287860&sr=1-6

Re: 総集編ではないに納得です

オブチ1号さん、こんにちは。
私は本作を観ながら「もしやスターシャが死亡しているのでは」と気が気ではありませんでした。
さすがにその展開はありませんでしたね:-)

>「追憶の航海」は、2199でリアレンジされた部分のみを意図的に抽出したのではないかと思います。

そうですか、なるほど。
森田繁氏が『追憶の航海』と旧シリーズの劇場版第一作の構成が似ていることに愕然としたというように、私も両作はよく

似ていると感じていたので、オブチ1号さんのご指摘は新鮮でした。

ストーリーの根幹はほぼ同じなのに、取捨選択が異なる理由としては、時代背景の違いもあるでしょうね。
たとえばワープ航法や、大陸をも吹き飛ばす最終兵器。
SFのアイデアとしては、『宇宙戦艦ヤマト』が作られた1974年当時すでに珍しいものではありませんでしたが、日本のテレビ番組ではこれまでにないものだったと思います。だから当時はワープしたり波動砲を撃ったりするのは見どころでした。
しかし現在ではワープや波動砲に新鮮味はありません。旧シリーズから40年を経てどのように表現するか、という興味は湧くものの、それだけでは見どころたり得ない。だから『追憶の航海』で初ワープや初波動砲を取り上げなかったのは正解だと思います。
同様に、再放送を待つしかなかった時代は、総集編で掬い取ってくれなければ名場面を見るのもかないませんでしたが、DVDや録画したものをいつでも再生できる現在では同じ配慮は不要でしょう。
両作を見比べるのも面白そうですね。

>これは「宇宙戦艦ヤマト」ではなく、「宇宙戦艦ヤマト2199」の劇場版なのだと気づかされました。

加戸監督もインタビューで、まさにそのことをおっしゃってますね。

エンディングは、絵はもちろんのこと、『BLUE』もとてもいい曲でしたね。
33万6千光年の旅を締めくくるに相応しい歌だと思います。

Re: 続編あるか? (あるいは、『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』とマクロス考)

T.Nさん、こんにちは。

>政治上の利害対立を解決するのに「愛」は問題解決の手段になりえない、というのは政治学の常識と思います

この点を考える上でうってつけの映画が公開中です。
ニコール・キッドマン主演、オリヴィエ・ダアン監督の『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』です。
『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』の話からズレるようですが、少々お付き合いください。

OECDやIMFにタックス・ヘイヴンと見なされているモナコ公国は、昔から富裕層が租税回避に利用していました。大富豪や巨大企業に税金逃れの手段を提供するタックス・ヘイヴンは、他国から見れば脱税を手伝うにっくき存在です。
でも、タックス・ヘイヴンと呼ばれる国からすれば、大きな産業のない小国が存在感を示すための知恵だったりします。

時に1962年、アルジェリア戦争の戦費負担に苦しんだフランスは、モナコに逃れたフランス人やフランス企業から徴税してフランスに納めるようモナコに迫りました。
モナコがこれを拒否したために、フランスはモナコ国境を封鎖し、モナコに圧力をかけます。経済的にも軍事的にもフランスに依存していたモナコは、かつてない危機に直面します。
この歴史的事件を背景にして、ハリウッド女優からモナコ公妃に転身した実在の人物グレース・ケリーの活躍を描いたのが『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』です。

興味深いのは映画に対する評価の落差です。
この映画は第67回カンヌ国際映画祭のオープニング作品として上映され、ブーイングを浴びるとともに、各紙に酷評されました。映画評論サイトRotten Tomatoesによれば好意的な評論家は9%しかおらず、平均点は10点満点中3.3点に留まります。Metacriticでは100点満点で21点にしかなりません。
けれども私はこの映画を観て、日本では受けが良いのではないかと思いました。
案の定、日経、読売各紙は好意的に紹介し、Yahoo!映画では投稿数116件の平均が5点満点で3.95点、ぴあ映画生活では48人が採点して100点満点中75点でした(いずれも2014年10月30日現在)。すんごい高評価とはいかないものの、おおむね好意的な扱いです。
なぜこのような差が生じるのでしょうか。

『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』は、ヒッチコック調の凝った画作りで、サスペンスの味付けも上品にまとめられ、なかなか面白く観られます。
しかしこの映画には大きな欠陥がありました。以下、ネタバレをご容赦ください。

フランスの圧力が強まる一方、他国からは見放されたモナコ公国は絶体絶命です。
そこでグレース公妃は一計を案じ、舞踏会に各国代表を招きます。フランスのド・ゴール大統領、米国のマクナマラ国防長官らを前にして、舞踏会の主催者であるグレースは一世一代の大演説をぶち上げます。これが映画のクライマックス。グレース・ケリーは長々と演説して「愛の力」の素晴らしさを説き、その言葉は各国代表の胸に染み込んでいきます。
舞踏会のシークエンスが終わると、「1963年5月 フランスは封鎖を解いて撤退した」という説明文が出て、映画は幕切れとなります。
なんと、政治上の利害対立が「愛」によって解決されるのです。

辛口に評された理由は様々でしょうが、私はこの映画が好評を博すはずはないと思いました。
フランスの国庫の困窮は解決されていませんし、大富豪が税金逃れしている実態も解決されていないのに、愛の素晴らしさを演説すればみんなが酔いしれて拳を下してくれるなんて、そんな物語が共感を呼ぶはずはないと思ったからです。
もちろん、現実にはこんなお伽話はあり得ません。モナコ公国はフランス政府の求めに応じて、モナコのフランス人とフランス企業から徴税し、フランスに納めることにしたのです。だからフランスは封鎖を解いたのですが、この映画は政治面、外交面での現実的な行動を描かなかったので、まるでグレースの愛の言葉が功を奏したかのような印象を与えてしまいます。
映画の作り手としては、事実を捻じ曲げてでもグレース公妃をドラマチックに活躍させたかったのでしょう。しかしその結果は酷評の嵐でした。

他方、日本ではこういうお伽話が歓迎されます。
なにしろ日本は、クビライ・カアンの国書に対して返事も出さずに神社でお祈りしていた国です。元寇に際して日本のトップ亀山上皇が行ったのは、「敵国降伏」と書いた額を神社に奉納することでした。
平安時代に編まれた『古今和歌集』の序文は「天地を動かし、鬼神をも感激させ、武人の心さえもなごやかにするのが歌だ」と主張し、それから千年以上のちの昭和時代においても『古今和歌集』の序文そのままに、アイドル歌手の歌によって星間戦争が終息するというアニメが作られてヒットします。このアニメは日本人の感性に合致したようで、今に至るも同様のモチーフの続編が作られています。
2012年には大林宣彦監督が『この空の花 長岡花火物語』を発表し、戦争を起こさないために大切なのは平和への祈りだと訴えてキネマ旬報ベスト・テンの次点に食い込みました。
現在の日本社会を見回しても、具体的・現実的な方策で荒療治する人より、(問題を先送りして)耳触りのよいことを口にする人の方が支持されているような気がします。


過去の宇宙戦艦ヤマトシリーズにも似たような傾向がありました。
T.Nさんが引用した文献が『宇宙戦艦ヤマト』に言及しているのも、そこに日本らしいお伽話を見て取ったからでしょう。
愛の到達範囲に限界があることは、愛とは何かを考えれば明らかなはずですが、西崎義展プロデューサーは「宇宙愛」という言葉を持ち出していましたね。宇宙のすべてを包み込む愛を想定すれば、愛の到達範囲の限界に目をつむることができます。

私が『宇宙戦艦ヤマト2199』を好ましく思うのは、「愛」と「愛を語ること」との違いを認識しており、言葉で愛を語ることをよしとしないからです。
加えて愛の到達範囲を無理に伸ばすのではなく、愛では到達できない世界を信頼(≠正義)という概念でカバーしようと試みているからです。
(信頼についてはこちらの記事を参照願います。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-471.html
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-387.html )

旧シリーズがセリフで表現したことを、『2199』は登場人物の行動で表現しようとします。
沖田艦長は、必要悪と認めながら波動砲を保持します(もちろん波動砲は核兵器の暗喩です)。波動エネルギーを兵器に転用したことをユリーシャに咎められた沖田は、自分たちの行動を見て判断して欲しいと答えます。
百万の美辞麗句を連ねるよりも、現実の行動で示すのが『宇宙戦艦ヤマト2199』です。

波動エネルギー(原子力)を持つ責任の重さを観客・視聴者に認識させるように、ヤマトは12月8日に帰投します。12月8日、すなわち真珠湾攻撃の日を最後に持ってきたのは、12月8日以降に何をするかこそが問われるからでしょう。
現実の世界において日本は、日本人はどうあるべきなのか。『2199』からは、作り手のそんな問いかけまでも感じられます。


ところで、ご紹介いただいた『ナウシカ解読』の記述をたいへん面白く読みましたが、発表から20年近く経つだけあって、やや時代を感じました。
ここでの「近代的」という言葉は、今なら「西洋的」と表現されるところかもしれませんね。
前世紀まで、近代化と西洋化は同一視されることがありましたが、中国のように西洋化せずとも近代化する国が登場した現在、かつて「近代的」と云われたものはヨーロッパのローカルな特性でしかなかったことが明らかになりつつあります。

日本は近代化を図るために、19世紀以降、西洋の文物を取り入れてきましたが、いまだ『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』をこき下ろす欧米の感覚を共有できません。
日本もまた西洋化せずに近代化した国なのでしょうか。はたまた、まだ西洋化が足りないのでしょうか。


>「星巡る箱舟の先がどうなるかは本当にファンの人次第」

作品を愛するファンがいればこそ、続編を期待する声も上がるのでしょうが、実のところ私は続編というものがあまり好きではありません。
私はファーストガンダムが大好きですが、だからこそZガンダム以降を見なかった人間なので、『2199』に続編ができても見るかどうか……。いや、見ますけどね、たぶん(^^;
でも『星巡る箱舟』が作られたことで、ファンサービスとしては充分だと思います。


>とりあえず今できた分だけ投稿したいのですが、可能でしょうか?

はい、T.Nさんのご判断で投稿していただいて結構です。
FC2ブログの追記機能も活用すれば10万字超の記事も収録可能のはずですが、読み易さを考えると一つの記事で10万字超はしんどいでしょう。何回かに分けた方がいいでしょうね。

近頃、時間が取れないので、投稿の反映には少々時間をいただくかもしれません。
その点をご承知いただければ、何ら問題はありません。
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宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海

構成: 森田繁、加戸誉夫
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