『ウエスト・サイド物語』 マリアの不思議
【ネタバレ注意】
『ウエスト・サイド物語』は云わずと知れたミュージカル映画の金字塔だ。
いや、ミュージカルというジャンルにとどまらず、映画がどれほどの高みに昇れるか、芸術としても娯楽としても至高の存在たり得るかを示す作品だろう。テンポの良いストーリー運び、印象的な音楽、華麗なダンス、スタイリッシュな映像、個性的な役者たち。どれを取ってもこれ以上ないほど素晴らしい。
もちろん、原作であるブロードウェイミュージカルが優れているのであろうが、俯瞰を多用した鋭いカメラアングルで群舞や街並みをスクリーンに収めた鮮やかさは、映画ならではの魅力だ。
『ウエスト・サイド物語』のブロードウェイでの初演は1957年。映画は1961年に公開されている。以来、半世紀以上にわたり舞台も映画も世界中で親しまれてきた。
これほど長いあいだ観客に支持されるのは、作品の完成度の高さもさることながら、そのテーマが普遍的だからだろう。
イタリア系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人の抗争を描いた『ウエスト・サイド物語』は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を下敷きにしている。『ロミオとジュリエット』ではキャピュレット家とモンタギュー家の争いが背景にあった。『ロミオとジュリエット』の初演は1595年頃と云われるが、その源流はギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』までたどれるという。『ピュラモスとティスベ』は隣り合う二家族の憎み合いを描いていた。
対立する二つのグループ。両者が憎み合う中、踏みにじられてしまう若い男女の愛。
いつの時代もこの悲劇の構造は人々の涙を誘う。
人間は、世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けし、戦争せずにはいられない生き物である。[*]
このことは1954年のロバーズ・ケイブ実験が端的に示している。
オクラホマ大学はロバーズ・ケイブ州立公園で11歳の少年たちのサマーキャンプを二つ開催した。二つのグループは互いの存在を知らなかったが、別のグループがいることに気がつくと、相手への敵愾心に燃え上がった。少年たちは過去に面識がないことを条件に選ばれていたから、お互いに何の恨みも因縁もない。なのに二つのグループは激しく対立し、「俺たち」が「奴ら」に打ち勝つためには暴力も辞さなかった。
この危険な実験は、二つのグループが接触すると必ずや争いが生じることを示している。
私たちはその争いにいつも悩まされているからこそ、憎み合いの中で命を落とすカップルの物語に心を打たれるのだろう。
ところが『ウエスト・サイド物語』には、『ロミオとジュリエット』とも『ピュラモスとティスベ』とも異なる特徴がある。
それはマリアが死なないことだ。
『ロミオとジュリエット』ではロミオもジュリエットも命を落とす。『ピュラモスとティスベ』ではピュラモスもティスベも命を落とす。
それなのに『ウエスト・サイド物語』ではトニーが命を落とす一方、マリアは生き残る。
神話の時代から語り継がれた定番のストーリーだというのに、なぜ『ウエスト・サイド物語』では結末を改変してマリアが生き残ることにしたのだろうか。
『ウエスト・サイド物語』のポイントは、時代設定を現代にしたことだ。
16世紀の英国で書かれた『ロミオとジュリエット』の舞台は、14世紀のイタリアの地方都市ヴェローナであった。その都市は実在するし、14世紀に貴族同士で争ったことも事実だが、16世紀の英国の観客にしてみれば「昔々あるところに……」と云われるのと同じだろう。物語の構造には共感しても、我がこととしては受け止めにくかったに違いない。
だが、プエルトリコからニューヨークへの移住がブームになった1950年代の米国において、『ウエスト・サイド物語』の設定は他人事ではない。それだけにプエルトリコ系アメリカ人が歌う「アメリカ」の歌詞は社会性を帯びざるを得ない。
また、当時は東西冷戦の緊張が世界を覆っていたことも忘れてはならないだろう。
『ウエスト・サイド物語』のブロードウェイでの上演と映画化とのあいだの1958年には、やはり二つのグループの対立を描いた『大いなる西部』が公開されている。『大いなる西部』が冷戦下の寓話を意図して作られたことから判るように、この時代を東西両陣営の対立と切り離して語ることはできない。
現実社会を色濃く反映しているからこそ、『ウエスト・サイド物語』の二つのグループの対立は解消しない。
劇中、イタリア系の若者たちとプエルトリコ系の若者たちはトニーの死に大きなショックを受ける。映画では、これをきっかけに和解するかもしれないことが示唆される。
しかし現実社会の対立が容易には解消せず、冷戦の終結も映画公開から30年後になったように、『ウエスト・サイド物語』も両グループの和解までは描かずに幕を閉じる。
まさにそれが、マリアが死なない理由だろう。
『ロミオとジュリエット』では、対立していたキャピュレット家とモンタギュー家双方から犠牲が出ることで、両家は憎み合う愚かさに気づき和解する。『ピュラモスとティスベ』でも、子供を一人ずつ失った両家の親は深く反省する。
対立するグループのどちらも同じく犠牲を出せば、公平に罰を受けたことになる。だから残された者たちはみな一様に後悔し、和解に向けて歩み出す。
主人公の恋人たちが死をもって退場している以上、残された登場人物だけで物語にけりを付けるには、和解で締めくくるしかない。
逆にいえば、現実社会同様に対立が解消しないまま終わらせるなら、両グループから公平に犠牲者が出る結末を改変することだ。
一人トニーは犠牲になる。
しかしマリアが死ななければ、両グループの犠牲は公平ではない。
かといって、マリアの所属するプエルトリコ系グループが勝利するわけでもない。
生き残ったマリアは、どちらのグループも非難する。みんなの憎しみがトニーを殺したのだと責め立てる。
そこからどうやって物語にけりを付けるのか?
誰がけりを付けるのか?
『ウエスト・サイド物語』で、物語の結末を委ねられたのは観客だ。
トニーの死を目撃し、マリアに責められた両グループの若者たちは、一人また一人とその場を後にする。ただ黙って現場を去っていく。
それは、劇場を後にする観客の姿そのものである。マリアの非難の言葉を噛み締めながら一人また一人とその場を去るのは、私たち観客なのだ。
私たちは容易には解消しない現実世界の対立の中で生きているから、せめてお話の世界では和解に接して安らぎたいと思う。
だが、それを許さないのが『ウエスト・サイド物語』だ。
私たち自身が現実の対立を解消しない限り、マリアの非難はいつまでも心に響き続けるのだ。
東西冷戦は20世紀で終結した。
しかし、私たちは新しい「俺たち」と「奴ら」の対立に直面している。
両者の憎しみを抑えるには、不断の努力が必要だ。少しでも気を緩めれば、そこには悲劇が待っている。
その悲劇を描いた『ウエスト・サイド物語』は、今こそ観るべき映画である。
[*] 橘玲 (2012) 『(日本人)』 幻冬舎
『ウエスト・サイド物語』 [あ行]
監督/ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス 原作/ジェローム・ロビンス、アーサー・ローレンツ
作曲/レナード・バーンスタイン 制作/ロバート・ワイズ、ソウル・チャップリン
出演/ナタリー・ウッド リチャード・ベイマー ジョージ・チャキリス リタ・モレノ ラス・タンブリン タッカー・スミス デヴィッド・ウィンターズ トニー・モルデンテ サイモン・オークランド ジョン・アスティン ネッド・グラス
日本公開/1961年12月23日
ジャンル/[ミュージカル] [青春] [ロマンス]
『ウエスト・サイド物語』は云わずと知れたミュージカル映画の金字塔だ。
いや、ミュージカルというジャンルにとどまらず、映画がどれほどの高みに昇れるか、芸術としても娯楽としても至高の存在たり得るかを示す作品だろう。テンポの良いストーリー運び、印象的な音楽、華麗なダンス、スタイリッシュな映像、個性的な役者たち。どれを取ってもこれ以上ないほど素晴らしい。
もちろん、原作であるブロードウェイミュージカルが優れているのであろうが、俯瞰を多用した鋭いカメラアングルで群舞や街並みをスクリーンに収めた鮮やかさは、映画ならではの魅力だ。
『ウエスト・サイド物語』のブロードウェイでの初演は1957年。映画は1961年に公開されている。以来、半世紀以上にわたり舞台も映画も世界中で親しまれてきた。
これほど長いあいだ観客に支持されるのは、作品の完成度の高さもさることながら、そのテーマが普遍的だからだろう。
イタリア系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人の抗争を描いた『ウエスト・サイド物語』は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を下敷きにしている。『ロミオとジュリエット』ではキャピュレット家とモンタギュー家の争いが背景にあった。『ロミオとジュリエット』の初演は1595年頃と云われるが、その源流はギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』までたどれるという。『ピュラモスとティスベ』は隣り合う二家族の憎み合いを描いていた。
対立する二つのグループ。両者が憎み合う中、踏みにじられてしまう若い男女の愛。
いつの時代もこの悲劇の構造は人々の涙を誘う。
人間は、世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けし、戦争せずにはいられない生き物である。[*]
このことは1954年のロバーズ・ケイブ実験が端的に示している。
オクラホマ大学はロバーズ・ケイブ州立公園で11歳の少年たちのサマーキャンプを二つ開催した。二つのグループは互いの存在を知らなかったが、別のグループがいることに気がつくと、相手への敵愾心に燃え上がった。少年たちは過去に面識がないことを条件に選ばれていたから、お互いに何の恨みも因縁もない。なのに二つのグループは激しく対立し、「俺たち」が「奴ら」に打ち勝つためには暴力も辞さなかった。
この危険な実験は、二つのグループが接触すると必ずや争いが生じることを示している。
私たちはその争いにいつも悩まされているからこそ、憎み合いの中で命を落とすカップルの物語に心を打たれるのだろう。
ところが『ウエスト・サイド物語』には、『ロミオとジュリエット』とも『ピュラモスとティスベ』とも異なる特徴がある。
それはマリアが死なないことだ。
『ロミオとジュリエット』ではロミオもジュリエットも命を落とす。『ピュラモスとティスベ』ではピュラモスもティスベも命を落とす。
それなのに『ウエスト・サイド物語』ではトニーが命を落とす一方、マリアは生き残る。
神話の時代から語り継がれた定番のストーリーだというのに、なぜ『ウエスト・サイド物語』では結末を改変してマリアが生き残ることにしたのだろうか。
『ウエスト・サイド物語』のポイントは、時代設定を現代にしたことだ。
16世紀の英国で書かれた『ロミオとジュリエット』の舞台は、14世紀のイタリアの地方都市ヴェローナであった。その都市は実在するし、14世紀に貴族同士で争ったことも事実だが、16世紀の英国の観客にしてみれば「昔々あるところに……」と云われるのと同じだろう。物語の構造には共感しても、我がこととしては受け止めにくかったに違いない。
だが、プエルトリコからニューヨークへの移住がブームになった1950年代の米国において、『ウエスト・サイド物語』の設定は他人事ではない。それだけにプエルトリコ系アメリカ人が歌う「アメリカ」の歌詞は社会性を帯びざるを得ない。
また、当時は東西冷戦の緊張が世界を覆っていたことも忘れてはならないだろう。
『ウエスト・サイド物語』のブロードウェイでの上演と映画化とのあいだの1958年には、やはり二つのグループの対立を描いた『大いなる西部』が公開されている。『大いなる西部』が冷戦下の寓話を意図して作られたことから判るように、この時代を東西両陣営の対立と切り離して語ることはできない。
現実社会を色濃く反映しているからこそ、『ウエスト・サイド物語』の二つのグループの対立は解消しない。
劇中、イタリア系の若者たちとプエルトリコ系の若者たちはトニーの死に大きなショックを受ける。映画では、これをきっかけに和解するかもしれないことが示唆される。
しかし現実社会の対立が容易には解消せず、冷戦の終結も映画公開から30年後になったように、『ウエスト・サイド物語』も両グループの和解までは描かずに幕を閉じる。
まさにそれが、マリアが死なない理由だろう。
『ロミオとジュリエット』では、対立していたキャピュレット家とモンタギュー家双方から犠牲が出ることで、両家は憎み合う愚かさに気づき和解する。『ピュラモスとティスベ』でも、子供を一人ずつ失った両家の親は深く反省する。
対立するグループのどちらも同じく犠牲を出せば、公平に罰を受けたことになる。だから残された者たちはみな一様に後悔し、和解に向けて歩み出す。
主人公の恋人たちが死をもって退場している以上、残された登場人物だけで物語にけりを付けるには、和解で締めくくるしかない。
逆にいえば、現実社会同様に対立が解消しないまま終わらせるなら、両グループから公平に犠牲者が出る結末を改変することだ。
一人トニーは犠牲になる。
しかしマリアが死ななければ、両グループの犠牲は公平ではない。
かといって、マリアの所属するプエルトリコ系グループが勝利するわけでもない。
生き残ったマリアは、どちらのグループも非難する。みんなの憎しみがトニーを殺したのだと責め立てる。
そこからどうやって物語にけりを付けるのか?
誰がけりを付けるのか?
『ウエスト・サイド物語』で、物語の結末を委ねられたのは観客だ。
トニーの死を目撃し、マリアに責められた両グループの若者たちは、一人また一人とその場を後にする。ただ黙って現場を去っていく。
それは、劇場を後にする観客の姿そのものである。マリアの非難の言葉を噛み締めながら一人また一人とその場を去るのは、私たち観客なのだ。
私たちは容易には解消しない現実世界の対立の中で生きているから、せめてお話の世界では和解に接して安らぎたいと思う。
だが、それを許さないのが『ウエスト・サイド物語』だ。
私たち自身が現実の対立を解消しない限り、マリアの非難はいつまでも心に響き続けるのだ。
東西冷戦は20世紀で終結した。
しかし、私たちは新しい「俺たち」と「奴ら」の対立に直面している。
両者の憎しみを抑えるには、不断の努力が必要だ。少しでも気を緩めれば、そこには悲劇が待っている。
その悲劇を描いた『ウエスト・サイド物語』は、今こそ観るべき映画である。
[*] 橘玲 (2012) 『(日本人)』 幻冬舎
![ウエスト・サイド物語 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51DsYjph9RL._SL160_.jpg)
監督/ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス 原作/ジェローム・ロビンス、アーサー・ローレンツ
作曲/レナード・バーンスタイン 制作/ロバート・ワイズ、ソウル・チャップリン
出演/ナタリー・ウッド リチャード・ベイマー ジョージ・チャキリス リタ・モレノ ラス・タンブリン タッカー・スミス デヴィッド・ウィンターズ トニー・モルデンテ サイモン・オークランド ジョン・アスティン ネッド・グラス
日本公開/1961年12月23日
ジャンル/[ミュージカル] [青春] [ロマンス]

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⇒comment
たまたま来ましたが映画の内容を映画の背景に繋げ、文章の運びが圧巻ですね。ウエストサイド物語をそのように見たことがありませんでした、とても興味深く読ませてもらいましたーー!
Re: タイトルなし
りいさん、コメントありがとうございます。
実のところ、子供の頃に本作を観たときはマリアが生き残る理由が判りませんでした。マリアも後を追う方がお話としては美しいのに、と思いました。
午前十時の映画祭のおかげで改めて本作を観て、感じたことをしたためてみた次第です。
何度観てもいい映画ですね!
実のところ、子供の頃に本作を観たときはマリアが生き残る理由が判りませんでした。マリアも後を追う方がお話としては美しいのに、と思いました。
午前十時の映画祭のおかげで改めて本作を観て、感じたことをしたためてみた次第です。
何度観てもいい映画ですね!
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ニューヨークのスラム街。 対立するプエルトリコ系のシャーク団とイタリア系のジェット団。 それぞれのグループに属していたトニーとマリアは許されざる恋に落ちてしまう…。 ミュー...
ウエストサイド物語(’61)
先日阿佐谷図書館で、「錨を上げて」に続いて、午後から「ウエストサイド物語」を見ました。
合間が1時間程あったのですが、その間下のラウンジで、新聞や、その前日ここで検索
「ウエスト・サイド物語」
「新・午前十時の映画祭」にて観賞。
ウエスト・サイド・ストーリー
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[ウエスト・サイド物語(原題:WEST SIDE STORY)]
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