『汚れなき祈り』 本当にあった悪魔憑き事件

 【ネタバレ注意】

 男と女では愛情に違いがある。男性は得てして浮気者だが、女性は一人の相手を愛し続ける「純愛」を志向する。
 ――進化心理学はそう説明する。詳しくはこちらこちらの記事をお読みいただきたい。
 男女の愛し方の違いは、愛にまつわる葛藤や悲劇をもたらし、多くの物語を生み出してきた。

 では、同性で愛し合うなら、どんな物語になるだろうか。
 橘玲氏は、エイズが流行する前の調査であると断って、サンフランシスコのゲイについて紹介している。それによれば、100人以上と関係したと答えたゲイは全体の75%で、そのうちの四割近くが1000人以上と経験していた。彼らは特定の相手と長期の関係を維持せず、子供を育てることにもほとんど関心を持たないという(例外はあるだろうが)。
 一方、女性同士の場合は、双方が純愛を志向する。
 リサ・チョロデンコ監督の『キッズ・オールライト』を思い浮かべれば判りやすい。この映画では二人の女性が互いを愛しみ、精子バンクを利用して出産した子供たちと平和な家庭を営んでいる。純愛志向の女性同士は、すぐに浮気したがる男性を相手にするよりも長期的な関係を築けるというわけだ。
 もっとも、それだけでは物語にならないので、『キッズ・オールライト』では一波乱が生じるけれど。

 『汚(けが)れなき祈り』もまた、女性同士の関係を描いた物語だ。
 ただし、この主人公たちは幸せなカップルではない。「長期」とは「永遠」のことではないからだ。
 同じ孤児院で育った娘、アリーナとヴォイキツァは、かつて愛し合う仲だった。外国で働くアリーナは今もヴォイキツァを愛しており、一緒に暮らすべく故国ルーマニアへヴォイキツァを迎えに来る。
 ところがヴォイキツァは、アリーナと離れているあいだに宗教にはまってしまい、その修道院から出ようとしない。アリーナは愛するヴォイキツァを救い出すべく、修道院に乗り込んでいく。
 アリーナの主観からすれば、『汚れなき祈り』はこういう物語だ。

 愛する者を宗教団体から救い出す作品といえば、『愛のむきだし』や『八日目の蝉』が思い浮かぶ。
 日本では新興宗教団体によるテロ事件があったためか、これらの作品のカルト団体は反社会的で、はまってしまった家族を連れ出すのが正しいことのように描かれる。

 だが、その団体が信徒の少ない新興宗教ではなく、国民のほとんどが信仰する伝統的なものだったらどうだろう。
 ヴォイキツァにしてみれば、また修道院側にしてみれば、アリーナの主観とはまったく異なる物語が展開する。ルーマニア国民の約9割が信仰するルーマニア正教の修道院に入り、慎ましく信仰に生きることが、反社会的であるはずがない。ヴォイキツァらは信者のために祈祷の準備をしたり、孤児院を支援したりで忙しく働いている。
 そこへ、まるで信仰心のないアリーナが乱入し、ヴォイキツァを連れ出そうとする。アリーナの言動は、修道院の神父や修道女たちにとって迷惑この上なく、両者は激しく衝突する。

 私は『愛のむきだし』の記事において、「なぜこっちの世界に戻さなければならないのか」と書いた。その宗教を信奉しない者には奇異な集団に見えたとしても、信仰者はそこで幸せかもしれないのだ。外の世界にいるよりも、むしろ平安を得られるかもしれない。
 もちろん反社会的な危険な集団だったら、そこにいさせるわけにはいかないけれど、信仰の有無や価値観の違いが「あっち」と「こっち」を隔てるだけだとしたら、どっちを選ぶかは本人の自由ではないだろうか。

 アリーナも修道院側も、いずれも自分こそ正しいと考えており、自分の善意を理解できない者は異常だと思っている。
 映画の作り手はそのどちらにも距離を置き、観客に安易な感情移入を許さない。

 とはいえ、作り手の描き方は、より修道院側に対して厳しい。はじめのうちこそアリーナの奇矯な振る舞いが目につくものの、やがて神父と修道女たちの異常さに観客は震撼させられる。
 それもそのはず、本作のモデルとなった「悪魔憑き事件」では、修道院を訪ねた娘が死亡し、神父と四人の修道女が不法監禁致死罪で服役したのだ。

 クリスティアン・ムンジウ監督は、国民のほとんどが信仰するルーマニア正教会の修道院を徹底的におちょくっている。
 修道女たちは、木片が黒い十字架に見えると云っては卒倒し、アリーナに罵倒されると悪魔が憑いてると大騒ぎする。目に見えるものは何もないのだが、彼らには悪魔がウヨウヨしているように感じられるのだ。
 恐怖に駆られた彼らは、悪魔に憑かれた(と思われる)アリーナを板に縛りつけ、悪魔祓いの儀式を行う。はりつけにされたアリーナの姿は、十字架上のイエス・キリスト(正教会らしく表記すればイイスス・ハリストス)にそっくりであり、これは悪魔祓いなのかイエスの処刑なのか、どちらが悪魔でどちらが聖なる者なのか、判別がつかないように描かれている。
 そもそも修道院に暮らしていた神父と修道女は12人。そこにアリーナがやって来た。はたしてアリーナは、12人の使徒に加わった13番目の人間なのか、それとも神父の許に暮らす11人の修道女に加わった12番目の人間なのか。イエスを裏切ったイスカリオテのユダは、13人の使徒の12番目だった。神に忠実なのは誰か、裏切り者は誰なのか。
 ムンジウ監督が強調するのは、正と邪、善と悪の区別のもろさだ。正邪も善悪も反転し、その境は融解していく。神父も修道女も伝統的な価値観にしたがって慎ましく暮らしていただけなのに、その人々が一人の娘を悪魔呼ばわりして死なせてしまう恐怖。もとい、神父も修道女も伝統的な価値観に閉じこもり、電気も水道も拒否して小さな世界で暮らしたがために、迷妄に囚われて一人の娘を死なせてしまう恐怖。

 クリスティアン・ムンジウ監督は、次のように語っている。
---
 私たちが、自分や他人に対して日々の習慣として何気なく受け入れていることで、実は知らぬままに相手をコントロールしたり、ダメージを与えたりしていることがある。
 宗教映画として観るだけでなく、この映画を通して、そういうことにも気づいてもらえるとうれしい。
---

 世間から隔絶した集団が、思想・信仰を先鋭化させて危険な領域に踏み込んでしまうのは、決して珍しいことではない。あさま山荘のリンチ殺人や、武装集団のただ中にあって逃げようとしない修道士たちの例もある(同列に扱うなと叱られそうだが)。
 ルーマニアの「悪魔憑き事件」も遠い昔の話ではなく、2005年に起きたことだ。
 私たちはこの事件を、異国の異教の出来事として遠ざけることはできない。


 さらに本作を普遍的なものにしているのは、これが愛の物語でもあるからだ。
 アリーナはヴォイキツァを愛している。けれどもヴォイキツァはアリーナと行動をともにしない。なぜならヴォイキツァの愛は――神に向けられているからだ。
 アリーナはヴォイキツァを愛するゆえに、神父や修道女に嫉妬する。アリーナにとって神は恋仇だ。
 ヴォイキツァにとってアリーナは元彼女でしかなく、大切にしてあげたいが最優先ではない。
 神とは、人間をいつも見ている何者かのことだ。私たちは、その眼差しを擬人化して神と呼ぶ。それは擬人化されているから、愛することも可能なのだ。
 それぞれの想いは「純愛」であるだけに、他者からの説得や忠告では翻らない。
 本作は、修道院という閉鎖社会の悲劇を描くだけではなく、二人の女性と神との三角関係を描いた映画でもあるのだ。

 多くの映画がそうであるように、三角関係は容易には解消しない。
 本作もアリーナの死をもってしかその関係は解消しないのだが、三角関係が解消しても残る二人が結ばれるわけではない。
 自分を愛する者の死に直面して、はじめてヴォイキツァは悟るのだ。神はヴォイキツァの愛に何ら答えていないことに。
 そこに神がいるかどうかすら、もう彼女には判らない。


汚れなき祈り』  [か行]
監督・制作・脚本/クリスティアン・ムンジウ
原案/タティアナ・ニクレスク・ブラン
出演/コスミナ・ストラタン クリスティナ・フルトゥル ヴァレリウ・アンドリウツァ ダナ・タパラガ
日本公開/2013年3月16日
ジャンル/[ドラマ]
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【genre : 映画

tag : クリスティアン・ムンジウ コスミナ・ストラタン クリスティナ・フルトゥル ヴァレリウ・アンドリウツァ ダナ・タパラガ

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内容を

ほとんど知らず、実話だということも知らずに見たもので、随分と戸惑いました。
一体、どういう展開で、どういうオチなのかと。
終わっても何ともスッキリせず、一体何が・・・と頭をかしげていたら、実際に起こった事件だったのですね。
さすれば結末もこうなるのが筋で、物語だったらこうはならないだろうと。
事実は小説より奇なりと申しますが、人間のすることと言ったら、思いもつかないことだと改めて思います。

同性愛にしては、あの二人ではちょっと無理を感じました。
弱い立場のものがお互いに寄せ合ってるうちに、依存性が強くなったのかなあと。
ヴォイキツァは、自分の役割と居場所を見つけたことにより、依存する必要が亡くなったのでしょうね。
年代から言ったら、チャウシェスクスクの子供たちのその後と考えていいのでしょうかね。
「4か月、3週と2日」も、ものすごくもやもやする作品でしたが、まだまだ負の遺産があるのかもと感じました。

Re: 内容を

sakuraiさん、こんにちは。
本作の場合はスッキリしないことが重要ですね。現実とは、なんと不条理なものなのか。
でも、日本にも死者を出した宗教団体があったように、世間から隔離された集団が取り返しのつかないほど先鋭化してしまうのは特別なことではないのかも知れません。
ラストの動かないクルマが、社会に蔓延する不条理を象徴していましたね。
Secret

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