『終の信託』 作文には書けないもの

 さすがは周防正行監督だ。『終(つい)の信託』は144分もの長さがありながら、名人芸ともいえるショットの積み重ねで、一瞬の無駄もない。
 いや、一瞬の無駄もなく切り詰めに切り詰めたからこそ、この緊迫したドラマを144分で描けたのだろう。しばしばインタビュー等で作品のテーマや狙いを語る作り手がいるけれど、『終の信託』は144分かけなければ周防正行監督の伝えたいことを表現できない、まさにそんな映画である。

 2007年の『それでもボクはやってない』で法廷を描いた周防正行監督は、本作では法廷審理に入るより前の、検事による調書作成を取り上げている。
 この調書がとりわけ重要なのは、刑事訴訟法321条及び322条が、調書を証拠として認めているからだ。たとえ公判で被告人が無罪を主張しても、調書の内容が罪を認めるものであれば、それが証拠とされてしまうのである。[*]
 だが、『終の信託』が描き出すのは、この調書が検事の作文でしかない恐しさだ。

 本作は、長らく意識の戻らない患者への延命治療を中止した医師が主人公だ。
 検事はときに恫喝し、ときに甘言で、医師の証言を引き出し、検事の主張することに「はい」と同意させていく。その内容を調書にまとめるわけだが、調書の文言は検事に都合良く選ばれ、省略され、検事のストーリーに沿った言葉だけが並べられていく。
 そこに書かれたことは嘘ではない。だが、たかだか数枚の調書に、どれほどの真実が宿るというのか。

 それを観客に実感させるため、周防監督は事件の経緯を詳細に描き出す。医師と患者の触れあいや交流の深まり、それぞれの感情や死生観をもたらした過去の出来事も含めて、じっくり丁寧に描いていく。
 だから検事が調書を読み上げても、医師と患者の長い人間関係を見てきた観客には、一片の真実も感じられない。
 心肺停止状態で病院に担ぎ込まれた患者に対する医師の懸命な治療と、ようやく心臓が動き出したときの安堵感。その詳しい経緯を知っている観客は、検事の「患者はしばらくして自発呼吸をした」なんて一文では実態からほど遠いことを実感する。
 そんな調書に、いかほどの真実が、当事者の感情が、人生の軌跡が、思いや信念が、そして人間同士の愛情が書き留められるというのだろう。
 『終の信託』は、医師の決断や患者の願いの背景に、調書にはとても書けないほどの豊かな人生と溢れる愛情が存在することを示している。

 にもかかわらず、人が人を裁くとはどういうことか。
 検事も裁判官も人の子である。人から称賛されたいし、手柄も立てたい。そんな彼らが、調書を証拠として人を裁く司法制度とは何なのだろう。
 朔立木(さく たつき)のペンネームで活躍する原作者は、高名な刑事弁護士であるという。
 弁護士が公判で被告人に有利な供述を引き出しても、取調べ段階で検事の作文した調書が証拠とされてしまう。そのやりきれなさはいかばかりか。


 そして大沢たかおさんが演じる検事の無情さ、憎々しさに、嫌悪感を抱く観客もいるだろう。本作の検事は、ヒール(悪役)に見えるだろう。
 だが、ここで嫌悪感を抱いたり、検事を悪役と見たりする危険性も、周防正行監督は承知している。
 検事の口にすることは間違っていない。第三者が知るよしもない医師と患者の交流に基いて延命治療を止めました、なんて弁明を認めていたら、法治国家は成り立たない。定められた手続き、定められたルールから逸脱した者は、裁かれねばならない。その刑罰は、悪いヤツだから厳罰に処して、善い人だから軽くするのではなく、法律の規定にのっとって、犯罪に比例したもっとも軽いものでなければならない。

 そういうことを踏まえて周防監督が作り上げた検事の人物像は、医師の思いに同化している観客には嫌悪すべき人間に見えるだろうが、もしも取調べシーンだけを見たら(事件の経緯を知らずに見たら)犯意を隠した容疑者を突き崩す敏腕検事にも見えるように、ギリギリの線を狙ったものだ。
 大沢たかおさんの演技も、感情を押し殺しているように見える一方で、冷徹な計算を働かせているようにも見えて秀逸だ。

 そして本作は、単なる制度の良し悪しを越えた、生と死、愛と情の問題を私たちに突きつける。

 延命治療を続けるかどうかの判断は、人類にとってとても新しい問題だ。
 過去数百万年のあいだ、生と死は人間の力ではどうにもならないことだった。自力では生きられず、意思表示できない状態でも、医療により延命できる時代――それは人類史上ここ数十年のことでしかない。
 そのため私たちの思考や感情は、このような事態に適応していない。生と死の線引きを人間が判断するのは、人類がはじめて遭遇する課題であり、そこにはまだ確立された「慣習」がない。

 ましてそれを司法制度で裁かねばならないとは、私たちが直面している問題はなんと大きいのだろう。
 いったい、私たちが裁いているのは何なのだろうか。


[*] 検面調書の特信性とは

終の信託【Blu-ray】(特典DVD付2枚組)終の信託』  [た行]
監督・脚本/周防正行
出演/草刈民代 役所広司 浅野忠信 大沢たかお 細田よしひこ 中村久美
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス]
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【theme : 日本映画
【genre : 映画

tag : 周防正行 草刈民代 役所広司 浅野忠信 大沢たかお 細田よしひこ 中村久美

⇒comment

TBを・・・

ありがとうございました。
司法と医療のありかたについては、いろいろと難しい問題がありますね。
尊厳死についても・・・。
医師も大変ですが、患者の周囲の人々も、人の死に直面して、いかに正しい答えを引き出すことができるか。
こういう作品を映画化するのは、とても勇気のいることだろうと思います。
本作は、かなり見ごたえのある作品でした。

超難問に

真正面から、ぶち当たった監督の気概は素晴らしいと思いましたが、映画として見ると、今回は素直に素晴らしい・・とは感じられませんでした。
監督自身も、上映前の番宣で言ってましたが、奥様を好きすぎるようで。
彼女を第三者的に冷静に撮れてなかったような。
どうしても彼女が抱えた覚悟の重さを感じられなくて、どこか中途半端に感じてしまいました。
ラブストーリーにしてしまった無理があったような気がします。
緻密な脚本、検事の持って行き方の怖さとうまさは十二分にわかったのですが。。。

Re: TBを・・・

Julien(徒然草)さん、コメントありがとうございます。
日本人は法律をあまり守りませんが、良くも悪くも世の中が回っているのは慣習とか因習があるからなのでしょう。ところが医療の発達等により、これまでの慣習や因習にない事態が生じると、私たちはどうしたらいいのか判りません。
本作のように結論を急がない作品が、議論を重ねる上では必要なんでしょうね。

Re: 超難問に

sakuraiさん、こんにちは。
監督の夫が妻の出演で撮った映画は、ぼんやりしたものになってしまうことがありますね。
ただ私は、本作に関してはあまり気になりませんでした。検事との対決が面白くて。

周防監督は本作をラブストーリーだとおっしゃっていますが、そこに着目すると恐ろしい映画のような気がします。
医師は、患者の妻が夫に愛情を注いでいる姿を見て、患者の命を断とうと決断するわけですが、はたしてそこに嫉妬はなかったのか、独占欲はなかったのか。信託されたのは自分だけだという自負が、妻への対抗心をかき立てなかったのか。
そんなことを考えながら、ミステリーとして見るのも面白いかもしれません。

No title

映画の中では「生きたくない」という意思表示がされていながら、最後のテロップが出るまではそれはあやふやな状態です。役所広司演じる人物が自分の為に「生きたくない」と言うだけでなく、「家族のために生きたくない」と言っています。「妻は介護ばかりの人生だった」と。逆に言えば、この役所広司の意思表示がなければ、家族が自分達の生活を楽にする為に医師に共謀を持ちかけて夫を殺害したという筋立てを展開する事も可能じゃないかと思いました。

Re: No title

fjk78deadさん、こんにちは。
本作の検事は無茶苦茶やってるように見えますが、現実はもっとひどくて誤認逮捕、冤罪が横行していますね。
つい先ごろも、徳島県警が裁判官の許可の下で無実の女性を19日間も勾留しました。
https://jp.reuters.com/article/idJP2017091101001049

警察や検察は好みの物語をでっちあげられるし、裁判官はそれを易々と認めてしまう。
恐ろしい世の中だと思います。
Secret

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