『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』 石ノ森章太郎が描こうとしたこと
[草稿]
1969年から月刊COMに連載された『サイボーグ009』の『神々との闘い』編は、読者に不評で休載に追い込まれてしまった。その難解な物語や前例のない構成に、読者は付いていけなかったのだろう。
だが、本当はこのときに完結させておくべきだったと思う。
当時、著者に非難の便りを送ったファン諸氏に、「ここで完結させなかったら、著者は完結できないまま世を去ってしまうのだぞ。それでもいいのか」と迫ったなら、誰もが連載継続を望んだはずだ。
その意味で、石ノ森章太郎という作家を信じて付き合い続けることができなかった読者諸氏の罪は重い。
人気作の『サイボーグ009』でありながら、読者の反発により連載を続けられなかったのだから、当の『神々との闘い』を長らく単行本に収録しなかったのもとうぜんだ。はじめて単行本化した朝日ソノラマ刊『サイボーグ009その世界』のあとがきで、「ジョーはいまやアナタのジョーだ」と述べているのは、著者といえども描きたいように描けない心情を表している。
著者は、「早く完結編を描いてくれ」という読者の声と、描いたのに読者に反発されてしまったという事実の間で、死ぬまで悩んだに違いない。それこそが、長らく再開できなかった理由だろう。
2012年、残されたご子息・小野寺丈氏と、石森プロの早瀬マサト氏の手により、遂に『サイボーグ009 完結編』のマンガ連載がはじまった。
2012年は、石ノ森氏が再構想した完結編『Conclusion God's War』の舞台となる年だ。作品化するには、この年がタイムリミットだった。
連載マンガの序盤の展開を読む限り、それは小野寺丈氏が石ノ森氏の創作ノートに基づいて1巻だけ刊行した小説『2012 009 conclusion GOD'S WAR』と同じ内容のようだ。
それらを目にして改めて感じるのは、完結編の構想が『天使編』や『神々との闘い』から大きく変わってはいないということだ。
■完結編はどうなるのか?
『Conclusion God's War』は二部からなり、まずゼロゼロナンバーサイボーグたちが奇妙な事件に遭遇する第一部、そして"超人"すなわちエスパー・サイボーグとして"神々"と闘う第二部から構成されたはずだ。
そもそも1969年に書かれた『天使編』は、こんな話だった。
■天使編
雪に覆われた山村で、009と007が遭遇する奇妙な事件。
事件の成り行きを描いた後、サイボーグたちが決戦のために超人になろうとするところ(すなわち第二部に入るところ)で中絶。
第一部が山村の事件だけからなるシンプルなストーリーで、すぐに第二部に突入してしまうのは少々淋しい。
そこで『天使編』の4ヶ月後に改めて連載を開始した『神々との闘い』では、第一部のエピソードを増やしている。
■神々との闘い
ゼロゼロナンバーサイボーグたちがそれぞれ事件に遭遇する。009と003は考古学者の死に立ち会い、004はUFOを目撃、002と005は精神を乗っ取られる等々。
このあと、サイボーグたちが決戦のために超人になろうとするエピソードと、"神々"に迫ろうとするエピソードとが交差しつつ、雪に覆われた山村が出てきて『天使編』の山村事件を示唆して中絶。
その後、再構想した『Conclusion God's War』は、『神々との闘い』の語り口が読者に受けなかったことを踏まえて、全体的なストーリーはそのままに、エピソードを総とっかえして化粧直しするはずだったのだろう。
長期にわたる連載のあいだに各キャラクターにファンがついているので、第一部では001から009まで全員に均等にエピソードを割り振り、見せ場を用意する。
そして第二部では、『サイボーグ009その世界』のあとがきで第二部を「悪魔編」と呼んでいたように、第一部で"神"や"天使"に見えていた存在が悪魔の本性を剥き出して、"超人"たちと戦うのだ。
■何を描こうとしたのか?
2008年3月28日にBS2で放映した「とことん!石ノ森章太郎 第六夜 未完の大作・サイボーグ009」では、劇場版第1作と、三つのテレビシリーズからセレクトした8話を取り上げた。
その一つ、テレビ版第1シリーズの第2話「Xの挑戦」は名作の誉れ高い。
戦うために改造されたサイボーグX(エックス)ことナックが、恋人ミッチィに告げるセリフは、原作にも通じる悲哀に満ちている。
「判ったかい、僕はこの機械の一部なんだ。君と楽しくバラを育てていた、あのころの僕ではない。」
30分のオリジナルストーリーながら、アクションありテーマ性ありで、見ごたえ充分の作品だ。
これはやはり、脚本の辻真先氏の功績が大きいだろう。
ただ、気になったのは、「天国で幸せになろう」とか「魂が救われる」というセリフだ。
石ノ森章太郎氏のマンガには、「天国」や「魂」という言葉はあまり出てこない。永井豪氏や石川賢氏とは対照的に、石ノ森章太郎氏は「天国」「地獄」「魂」といったオカルト的なもの(目で見たり、触れて感じたりできないもの)を、ほとんど扱わないのだ。
石ノ森章太郎氏の膨大な作品群を見渡しても、オカルト的なものは、わずかに『ブルーゾーン』ぐらいだろうか。その『ブルーゾーン』ですら、エクトプラズム(生命)の力に機械で対抗する話だ。
それよりも石ノ森作品に頻繁に登場するキーワードは「精神」だ。そしてその延長としての超能力モノならば、山ほど執筆している。
しかし石ノ森章太郎氏の描く「精神」は、オカルト的なものではなく、
「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。」(クラークの第三法則)
という領域で捉えるべきだろう。
すなわち、それは脳科学等の進歩によっていずれ解明されるべきもの、理論的な説明がつけられるはずのものなのだ。
石ノ森章太郎氏の作品には、しばしばオーパーツ(場違いな加工品)が登場するが、心霊現象はほとんど取り上げない。オカルト雑誌ならどちらも扱うところだが、石ノ森章太郎氏にとっては全く別物なのだろう。
一方、辻真先氏は、後年、桂真佐喜の名で『聖魔伝』の原作を書いている。辻真先・石川賢版『デビルマン』ともいうべきこのマンガには、神や悪魔、天上界や魔界が登場する。
『サイボーグ009』の『天使編』『神々との闘い』にも、神や天使が登場するが、決定的に異なるのは、石ノ森章太郎氏が描く神や天使は、単に異星人だということだ。人間が勝手に「神」と呼ぶのであり、彼ら自身はみずからを「神」とは称さない(「造物主」であるとは云うが、これは科学技術を用いて人間の進化の過程に関与したという意味に過ぎない)。
永井豪氏や石川賢氏(や辻真先氏)の幾多の作品では、神や悪魔と称する存在が超常的な力でハルマゲドンを戦っている。
しかし、石ノ森章太郎氏の『神々との闘い』がそんな方向に行くことはない。「神」というキーワードこそ同じでも、石ノ森章太郎氏はそれを科学で解明できるもの(異星人)として扱うのだから。
こう考えてみれば、平井和正氏と石ノ森章太郎氏の共作『幻魔大戦』がうまくいかなかったのも、とうぜんと云えるだろう。
人智を超えた存在を表現しようとする平井和正氏に対し、石ノ森章太郎氏は宇宙意識体フロイですら超能力を持った犬として描いてしまう。二人は水と油なのだ。容易にはオカルトに飛び込もうとしない石ノ森氏を、平井和正氏はスケールの大きいものを描けないヤツと思ったかもしれない。
だが、そもそも人智を超えた世界を描く気があるかどうか、そこで二人の志向は違っていたのだ。
ゲーテは、『ファウスト』の中で次のように述べている。
すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩に過ぎず、
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
永井豪氏や石川賢氏や辻真先氏や平井和正氏といった作家たちは、短命な人間の肉体を超える、永遠なるものを描こうとした。手塚治虫氏も、「転生」を大きなテーマに据えている点において、ゲーテの系譜に連なろう。
ゲーテに対して、ニーチェは次のように書いた。
過ぎ行かざるもの、
これは汝の比喩に過ぎぬ!
神、このいかがわしきものは、
詩人が不正にも拵え上げたもの…
移ろい行くもの、過ぎ行くもの、つまり短命な肉体の方こそ実態であり、永遠なる魂や神は創作者の空想の産物だ。
石ノ森章太郎氏の立ち位置は、このニーチェの言葉に近いのではないだろうか。
石ノ森章太郎氏は『サイボーグ009その世界』のあとがきにて、いずれ発表する『神々との闘い』では「00ナンバーたちが"超人"へ脱皮し…"超人"たちと"神々"との闘いになる」と述べていた。
これすなわち、「神は死んだ」と叫び、超人たることを説く、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に通じよう。
中断したCOM版『神々との闘い』において、サイボーグたちは語り合う。
004「からだなんてモノは考え方ひとつなんだ。肉体なんて血と肉でできていようが、プラスチックと鉄でできていようがおなじなんだ! 精神(こころ)の入れモノに過ぎない!」
008「そ…そうだろうか。
そうだろうか!?」
ニーチェは書いている。
「わたしは誓って言う、友よ」とツァラトゥストラは言った。「あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、はやく死ぬだろう。もう何も恐れることはない!」
(本稿中絶)
『サイボーグ009』 [本]
作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]
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1969年から月刊COMに連載された『サイボーグ009』の『神々との闘い』編は、読者に不評で休載に追い込まれてしまった。その難解な物語や前例のない構成に、読者は付いていけなかったのだろう。
だが、本当はこのときに完結させておくべきだったと思う。
当時、著者に非難の便りを送ったファン諸氏に、「ここで完結させなかったら、著者は完結できないまま世を去ってしまうのだぞ。それでもいいのか」と迫ったなら、誰もが連載継続を望んだはずだ。
その意味で、石ノ森章太郎という作家を信じて付き合い続けることができなかった読者諸氏の罪は重い。
人気作の『サイボーグ009』でありながら、読者の反発により連載を続けられなかったのだから、当の『神々との闘い』を長らく単行本に収録しなかったのもとうぜんだ。はじめて単行本化した朝日ソノラマ刊『サイボーグ009その世界』のあとがきで、「ジョーはいまやアナタのジョーだ」と述べているのは、著者といえども描きたいように描けない心情を表している。
著者は、「早く完結編を描いてくれ」という読者の声と、描いたのに読者に反発されてしまったという事実の間で、死ぬまで悩んだに違いない。それこそが、長らく再開できなかった理由だろう。
2012年、残されたご子息・小野寺丈氏と、石森プロの早瀬マサト氏の手により、遂に『サイボーグ009 完結編』のマンガ連載がはじまった。
2012年は、石ノ森氏が再構想した完結編『Conclusion God's War』の舞台となる年だ。作品化するには、この年がタイムリミットだった。
連載マンガの序盤の展開を読む限り、それは小野寺丈氏が石ノ森氏の創作ノートに基づいて1巻だけ刊行した小説『2012 009 conclusion GOD'S WAR』と同じ内容のようだ。
それらを目にして改めて感じるのは、完結編の構想が『天使編』や『神々との闘い』から大きく変わってはいないということだ。
■完結編はどうなるのか?
『Conclusion God's War』は二部からなり、まずゼロゼロナンバーサイボーグたちが奇妙な事件に遭遇する第一部、そして"超人"すなわちエスパー・サイボーグとして"神々"と闘う第二部から構成されたはずだ。
そもそも1969年に書かれた『天使編』は、こんな話だった。
■天使編
雪に覆われた山村で、009と007が遭遇する奇妙な事件。
事件の成り行きを描いた後、サイボーグたちが決戦のために超人になろうとするところ(すなわち第二部に入るところ)で中絶。
第一部が山村の事件だけからなるシンプルなストーリーで、すぐに第二部に突入してしまうのは少々淋しい。
そこで『天使編』の4ヶ月後に改めて連載を開始した『神々との闘い』では、第一部のエピソードを増やしている。
■神々との闘い
ゼロゼロナンバーサイボーグたちがそれぞれ事件に遭遇する。009と003は考古学者の死に立ち会い、004はUFOを目撃、002と005は精神を乗っ取られる等々。
このあと、サイボーグたちが決戦のために超人になろうとするエピソードと、"神々"に迫ろうとするエピソードとが交差しつつ、雪に覆われた山村が出てきて『天使編』の山村事件を示唆して中絶。
その後、再構想した『Conclusion God's War』は、『神々との闘い』の語り口が読者に受けなかったことを踏まえて、全体的なストーリーはそのままに、エピソードを総とっかえして化粧直しするはずだったのだろう。
長期にわたる連載のあいだに各キャラクターにファンがついているので、第一部では001から009まで全員に均等にエピソードを割り振り、見せ場を用意する。
そして第二部では、『サイボーグ009その世界』のあとがきで第二部を「悪魔編」と呼んでいたように、第一部で"神"や"天使"に見えていた存在が悪魔の本性を剥き出して、"超人"たちと戦うのだ。
■何を描こうとしたのか?
2008年3月28日にBS2で放映した「とことん!石ノ森章太郎 第六夜 未完の大作・サイボーグ009」では、劇場版第1作と、三つのテレビシリーズからセレクトした8話を取り上げた。
その一つ、テレビ版第1シリーズの第2話「Xの挑戦」は名作の誉れ高い。
戦うために改造されたサイボーグX(エックス)ことナックが、恋人ミッチィに告げるセリフは、原作にも通じる悲哀に満ちている。
「判ったかい、僕はこの機械の一部なんだ。君と楽しくバラを育てていた、あのころの僕ではない。」
30分のオリジナルストーリーながら、アクションありテーマ性ありで、見ごたえ充分の作品だ。
これはやはり、脚本の辻真先氏の功績が大きいだろう。
ただ、気になったのは、「天国で幸せになろう」とか「魂が救われる」というセリフだ。
石ノ森章太郎氏のマンガには、「天国」や「魂」という言葉はあまり出てこない。永井豪氏や石川賢氏とは対照的に、石ノ森章太郎氏は「天国」「地獄」「魂」といったオカルト的なもの(目で見たり、触れて感じたりできないもの)を、ほとんど扱わないのだ。
石ノ森章太郎氏の膨大な作品群を見渡しても、オカルト的なものは、わずかに『ブルーゾーン』ぐらいだろうか。その『ブルーゾーン』ですら、エクトプラズム(生命)の力に機械で対抗する話だ。
それよりも石ノ森作品に頻繁に登場するキーワードは「精神」だ。そしてその延長としての超能力モノならば、山ほど執筆している。
しかし石ノ森章太郎氏の描く「精神」は、オカルト的なものではなく、
「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。」(クラークの第三法則)
という領域で捉えるべきだろう。
すなわち、それは脳科学等の進歩によっていずれ解明されるべきもの、理論的な説明がつけられるはずのものなのだ。
石ノ森章太郎氏の作品には、しばしばオーパーツ(場違いな加工品)が登場するが、心霊現象はほとんど取り上げない。オカルト雑誌ならどちらも扱うところだが、石ノ森章太郎氏にとっては全く別物なのだろう。
一方、辻真先氏は、後年、桂真佐喜の名で『聖魔伝』の原作を書いている。辻真先・石川賢版『デビルマン』ともいうべきこのマンガには、神や悪魔、天上界や魔界が登場する。
『サイボーグ009』の『天使編』『神々との闘い』にも、神や天使が登場するが、決定的に異なるのは、石ノ森章太郎氏が描く神や天使は、単に異星人だということだ。人間が勝手に「神」と呼ぶのであり、彼ら自身はみずからを「神」とは称さない(「造物主」であるとは云うが、これは科学技術を用いて人間の進化の過程に関与したという意味に過ぎない)。
永井豪氏や石川賢氏(や辻真先氏)の幾多の作品では、神や悪魔と称する存在が超常的な力でハルマゲドンを戦っている。
しかし、石ノ森章太郎氏の『神々との闘い』がそんな方向に行くことはない。「神」というキーワードこそ同じでも、石ノ森章太郎氏はそれを科学で解明できるもの(異星人)として扱うのだから。
こう考えてみれば、平井和正氏と石ノ森章太郎氏の共作『幻魔大戦』がうまくいかなかったのも、とうぜんと云えるだろう。
人智を超えた存在を表現しようとする平井和正氏に対し、石ノ森章太郎氏は宇宙意識体フロイですら超能力を持った犬として描いてしまう。二人は水と油なのだ。容易にはオカルトに飛び込もうとしない石ノ森氏を、平井和正氏はスケールの大きいものを描けないヤツと思ったかもしれない。
だが、そもそも人智を超えた世界を描く気があるかどうか、そこで二人の志向は違っていたのだ。
ゲーテは、『ファウスト』の中で次のように述べている。
すべて移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩に過ぎず、
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
永井豪氏や石川賢氏や辻真先氏や平井和正氏といった作家たちは、短命な人間の肉体を超える、永遠なるものを描こうとした。手塚治虫氏も、「転生」を大きなテーマに据えている点において、ゲーテの系譜に連なろう。
ゲーテに対して、ニーチェは次のように書いた。
過ぎ行かざるもの、
これは汝の比喩に過ぎぬ!
神、このいかがわしきものは、
詩人が不正にも拵え上げたもの…
移ろい行くもの、過ぎ行くもの、つまり短命な肉体の方こそ実態であり、永遠なる魂や神は創作者の空想の産物だ。
石ノ森章太郎氏の立ち位置は、このニーチェの言葉に近いのではないだろうか。
石ノ森章太郎氏は『サイボーグ009その世界』のあとがきにて、いずれ発表する『神々との闘い』では「00ナンバーたちが"超人"へ脱皮し…"超人"たちと"神々"との闘いになる」と述べていた。
これすなわち、「神は死んだ」と叫び、超人たることを説く、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に通じよう。
中断したCOM版『神々との闘い』において、サイボーグたちは語り合う。
004「からだなんてモノは考え方ひとつなんだ。肉体なんて血と肉でできていようが、プラスチックと鉄でできていようがおなじなんだ! 精神(こころ)の入れモノに過ぎない!」
008「そ…そうだろうか。
そうだろうか!?」
ニーチェは書いている。
「わたしは誓って言う、友よ」とツァラトゥストラは言った。「あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、はやく死ぬだろう。もう何も恐れることはない!」
(本稿中絶)
![サイボーグ009 ~Conclusion God’s War~序章~ [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/21KFHCQ9FVL._SL160_.jpg)
作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]


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