『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 日米映画のアジェンダの違い
今、不安に感じている人が多いのではないか。
今や会社は一生を捧げて帰属する集団ではなくなり、繰り返される組織再編と人の出入りにより隣の人が何をしているかも判らなくなっている。
地域では、かつてのように醤油が切れたら隣の家から分けてもらう長屋感覚はなくなり、マンション住人の8割はろくに挨拶も交わさない。
家族でさえ一緒に食卓を囲まない家庭もあろう。
一方で、それを積極的に肯定する人もいるだろう。
わずらわしいしがらみに捉えられ、人目を気にしてやりたくもないことに時間を割くのは真っ平だと思う人も多い。そうでなければ、自治会やマンション管理組合やPTAの役員は、立候補者ですぐに埋まっているはずだ。
はたして私たちは集団を大切にし、顔見知りと固まって生きる方がいいのか、個人として自由に振る舞い、住む場所も勤め先も時勢に応じてドンドン変える方がいいのか。
與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』は、そんな世の中のあり方を、歴史をたどりながら考察する本だ。
本書の著者は、中国と日本を社会の両極端と見なす。世界で最初に自由と平等を実現し、骨の髄まで自由に振る舞うことが身についている中国と、19世紀半ばまで強固な身分制度を維持し、職業選択の自由はおろか、住む場所を変えることも、旅することも許されなかった日本。本書は二つの社会を対比しながら、なぜそうなったのか、どこで違いが生じたのかを、ここ千年の出来事から解き明かす。
このように書くと、反論する人もいるだろう。中国が自由と平等の社会なのか、日本の方が自由で平等ではないかと。
そう思われる人は、ぜひとも本書を手に取るべきだ。目から鱗の驚きを味わえることは必至である。
一例を挙げれば、周囲が残業していると自分も帰りづらいと感じる日本人従業員と、いつでも転職をためらわない中国人従業員では、どちらが自由に振る舞っているだろうか。
中国も日本も、いきなりこんにちの姿になったわけではない。ときには中国が日本のように、ときには日本が中国のように揺れ動きながら、幾世代もの人々の考えと行動の結果として今がある。中国と日本を両端に置いて、各時代の人々をそのあいだのどこに位置付くか、どちらの方を向いているかで配置し直すとき、新たなものが見えてくる。
その光景は、多くの人にとって新鮮な驚きに満ちているだろう。あるいは、長年不可解に思っていた疑問が氷解して爽快さを味わうだろう。
たとえば平清盛は何をしようとしたのか、源頼朝は何を阻止したのか、戦国時代に日本人は何を選択したのか、なぜ大正デモクラシーから軍国主義が生まれたのか、なぜ田中角栄が首相になると高度経済成長が止まったのか。
各時代にはその時代なりのアジェンダ設定がある。それは驚くほど現在の私たちの課題に似ているのだ。
そして本書が面白いのは、歴史上の誰かが考えたこと、実行したことを明らかにすると、その顛末が今の私たちにとっては予言であるかのように、先のことが見通せてくる点だ。
その意味で、本書の白眉は『第10章 今度こそ「中国化」する日本――未来のシナリオ』だろう。著者は、これからの日本人の選択次第で、この国は中国のようにも北朝鮮のようにもなり得ると云う。
え? そんなことは考えられないって?
そう思うなら、やっぱり本書を手に取るべきだ。日本はこれまでに中国化しそうなこともあったし、現在の北朝鮮のような方向に進んだこともあった。今も、どちらかに向かって日本は進んでいるのだ。

ところで、本書の気になるところや面白いところに付箋を貼っていたら、ほとんど全ページに、いや同じページの数ヶ所に付箋を貼ることになって、本がヤマアラシのようになってしまった。
そんな中で私がとりわけ注目したのは次の文である。
---
ヨーロッパの近代というのは、カトリックとプロテスタントがお互い「正義の戦争」を掲げて虐殺しあう16世紀の宗教戦争への反省から生まれたので、道徳的な価値判断を政治行為から切り離そうとする傾向が強い(いわゆる政教分離)。
端的にいえば、たとえば「正しさ」のための政治(戦争)といっても、それは誰にとっての「正しさ」なの? という問い返しが常について回るのが、西洋風の近代社会の本義であったわけです。
『第5章 開国はしたけれど――「中国化」する明治日本』 158ページ
---
なるほど、だから日本映画と欧米の映画はアジェンダ設定が異なるのだ!
(つづく)
【追記】
本書は「中国化」と日本の「再江戸時代化」との比較を中心に考察しているため、明治以来頻繁に論じられた「西洋化」の記述が乏しい。その点、著者が「中国化」と「西洋化」を比較して論じたこちらの会見が興味深いので紹介しておこう。
日本記者クラブ 著者と語る『中国化する日本』
「危機に立つ日本型民主主義―西洋化か中国化か」
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 [書籍]
著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]
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今や会社は一生を捧げて帰属する集団ではなくなり、繰り返される組織再編と人の出入りにより隣の人が何をしているかも判らなくなっている。
地域では、かつてのように醤油が切れたら隣の家から分けてもらう長屋感覚はなくなり、マンション住人の8割はろくに挨拶も交わさない。
家族でさえ一緒に食卓を囲まない家庭もあろう。
一方で、それを積極的に肯定する人もいるだろう。
わずらわしいしがらみに捉えられ、人目を気にしてやりたくもないことに時間を割くのは真っ平だと思う人も多い。そうでなければ、自治会やマンション管理組合やPTAの役員は、立候補者ですぐに埋まっているはずだ。
はたして私たちは集団を大切にし、顔見知りと固まって生きる方がいいのか、個人として自由に振る舞い、住む場所も勤め先も時勢に応じてドンドン変える方がいいのか。
與那覇潤著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』は、そんな世の中のあり方を、歴史をたどりながら考察する本だ。
本書の著者は、中国と日本を社会の両極端と見なす。世界で最初に自由と平等を実現し、骨の髄まで自由に振る舞うことが身についている中国と、19世紀半ばまで強固な身分制度を維持し、職業選択の自由はおろか、住む場所を変えることも、旅することも許されなかった日本。本書は二つの社会を対比しながら、なぜそうなったのか、どこで違いが生じたのかを、ここ千年の出来事から解き明かす。
このように書くと、反論する人もいるだろう。中国が自由と平等の社会なのか、日本の方が自由で平等ではないかと。
そう思われる人は、ぜひとも本書を手に取るべきだ。目から鱗の驚きを味わえることは必至である。
一例を挙げれば、周囲が残業していると自分も帰りづらいと感じる日本人従業員と、いつでも転職をためらわない中国人従業員では、どちらが自由に振る舞っているだろうか。
中国も日本も、いきなりこんにちの姿になったわけではない。ときには中国が日本のように、ときには日本が中国のように揺れ動きながら、幾世代もの人々の考えと行動の結果として今がある。中国と日本を両端に置いて、各時代の人々をそのあいだのどこに位置付くか、どちらの方を向いているかで配置し直すとき、新たなものが見えてくる。
その光景は、多くの人にとって新鮮な驚きに満ちているだろう。あるいは、長年不可解に思っていた疑問が氷解して爽快さを味わうだろう。
たとえば平清盛は何をしようとしたのか、源頼朝は何を阻止したのか、戦国時代に日本人は何を選択したのか、なぜ大正デモクラシーから軍国主義が生まれたのか、なぜ田中角栄が首相になると高度経済成長が止まったのか。
各時代にはその時代なりのアジェンダ設定がある。それは驚くほど現在の私たちの課題に似ているのだ。
そして本書が面白いのは、歴史上の誰かが考えたこと、実行したことを明らかにすると、その顛末が今の私たちにとっては予言であるかのように、先のことが見通せてくる点だ。
その意味で、本書の白眉は『第10章 今度こそ「中国化」する日本――未来のシナリオ』だろう。著者は、これからの日本人の選択次第で、この国は中国のようにも北朝鮮のようにもなり得ると云う。
え? そんなことは考えられないって?
そう思うなら、やっぱり本書を手に取るべきだ。日本はこれまでに中国化しそうなこともあったし、現在の北朝鮮のような方向に進んだこともあった。今も、どちらかに向かって日本は進んでいるのだ。

ところで、本書の気になるところや面白いところに付箋を貼っていたら、ほとんど全ページに、いや同じページの数ヶ所に付箋を貼ることになって、本がヤマアラシのようになってしまった。
そんな中で私がとりわけ注目したのは次の文である。
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ヨーロッパの近代というのは、カトリックとプロテスタントがお互い「正義の戦争」を掲げて虐殺しあう16世紀の宗教戦争への反省から生まれたので、道徳的な価値判断を政治行為から切り離そうとする傾向が強い(いわゆる政教分離)。
端的にいえば、たとえば「正しさ」のための政治(戦争)といっても、それは誰にとっての「正しさ」なの? という問い返しが常について回るのが、西洋風の近代社会の本義であったわけです。
『第5章 開国はしたけれど――「中国化」する明治日本』 158ページ
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なるほど、だから日本映画と欧米の映画はアジェンダ設定が異なるのだ!
(つづく)
【追記】
本書は「中国化」と日本の「再江戸時代化」との比較を中心に考察しているため、明治以来頻繁に論じられた「西洋化」の記述が乏しい。その点、著者が「中国化」と「西洋化」を比較して論じたこちらの会見が興味深いので紹介しておこう。
日本記者クラブ 著者と語る『中国化する日本』
「危機に立つ日本型民主主義―西洋化か中国化か」

著者/與那覇潤
日本初版/2011年11月20日
ジャンル/[歴史]


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