『八日目の蝉』 踏みとどまるために必要だったのは?
【ネタバレ注意】
劇中、母と娘が「男とは何か、女とは何か」を語り合うくだりがある。
母曰く、「薫ちゃんは女なの。薫ちゃんが好きになって、結婚したいと思う人が男のひと。」
この映画に、結婚するに足る男は登場しない。その事件の流れを考えるとき、あまりにも哀しすぎる答えである。
映画『八日目の蝉』に登場する男性は影が薄い。主要な登場人物としては二人しか出ない上、彼らは単に女性を妊娠させる存在でしかない。結婚をちらつかせながら、何もしない。
同じように男性がほとんど出てこない映画『プレシャス』を指して、内田樹氏は「男性嫌悪映画」と呼んだが、『八日目の蝉』はそれとは違う。
本作は男性を嫌悪するというよりも、もっと生き物としての女――母というものを問うているように思う。
はたして女は子供を産めば母なのか?女と母は違うのか?女も母も同じ生き物なのか?
この映画を観て、原作者はきっと40代半ばなのだろうと思っていたら、作者の角田光代(かくた みつよ)氏は案の定1967年の早生まれで、現在44歳だった。加えて、脚本を手がけた奥寺佐渡子(おくでら さとこ)氏は1966年生まれ。つまり、両者とも現実の事件の犯人と同い年(同学年)なのである。
愛した男性には妻がいて、その妻の妊娠に嫉妬して自分も避妊を拒否し、でも身籠った自分は中絶して、なのに妻は子を産んでいて、そして夫婦が不在の家には子供だけが残っている――そこに侵入した彼女がしたことは……。
それはあまりにも悲惨な事件であった。
もしも彼女が、おさなごに手をかけることをギリギリの瞬間で踏みとどまっていたら――いや、踏みとどまるためには、何が必要だったのか。
彼女と同世代の作者は、そんな思いから物語を紡いだのかもしれない。
原作は未読だが、それは二つの章に分かれているそうである。彼女が本妻の娘を連れて逃亡する章と、成長した娘が逃亡の跡をたどる章だ。
映画はこの二つの物語を時系列に追うのではなく、交互に配置して自在に時間軸を行き来しつつ、二人の女の心情を描写する。
これは映画ならではの構成の妙である。二つの物語は、それぞれが一つのロードムービーになっており、それらが重なり合い、補い合いながら、女とは何か、母とは何かを問い続ける。旅の行く先々で、ときには女だけの社会に立ち寄り、ときには田舎の暮らしに触れ、子育てを巡るコミュニティのあり方さえも問いながら、母から子への愛があることを確かめようとする。
その複雑な構成をすんなりと受け入れさせるのは、何といっても脚本の上手さだろう。『パーマネント野ばら』で叙情的でありながら緊密なドラマを味わわせてくれた奥寺佐渡子氏は、本作でも巧みな脚本で飽きさせない。
そして『孤高のメス』で医療問題と命の尊厳を問うた成島出(なるしま いずる)監督が、ここでも「母」と「子」を通して、生命とは何か、親子とは何かを問いかける。
この辛く哀しい物語を体現しているのが、素晴らしい女優陣である。本作に登場する母たち娘たちは、母親として、女として、どう振る舞えばいいのかが判らずにいる。その苦悩を、永作博美さん、井上真央さん、小池栄子さんらが体現している。
本作は、平行した二つの物語から構成されるが、それらは安易な邂逅を避けつつも、大切なもので貫かれている。それは、映画の中で「母」から「子」へ手渡されるものだが、目には見えない。
けれどもそこには確かにあるのだ、大切なものが。誰もが持っているはずなのだ。
報道等で、子供が犠牲となった事件に接するたびに、そこにあって欲しいと願うものだ。それはこの作品の作り手たちの祈りでもあろう。
劇中で手渡されたそれを、私たちは大切にしているだろうか。そしてまた、次の世代に渡せているだろうか。
『八日目の蝉』 [や行]
監督/成島出 脚本/奥寺佐渡子
出演/永作博美 井上真央 小池栄子 森口瑤子 田中哲司 劇団ひとり 余貴美子 市川実和子 平田満 渡邉このみ 風吹ジュン 田中泯
日本公開/2011年4月29日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス]
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劇中、母と娘が「男とは何か、女とは何か」を語り合うくだりがある。
母曰く、「薫ちゃんは女なの。薫ちゃんが好きになって、結婚したいと思う人が男のひと。」
この映画に、結婚するに足る男は登場しない。その事件の流れを考えるとき、あまりにも哀しすぎる答えである。
映画『八日目の蝉』に登場する男性は影が薄い。主要な登場人物としては二人しか出ない上、彼らは単に女性を妊娠させる存在でしかない。結婚をちらつかせながら、何もしない。
同じように男性がほとんど出てこない映画『プレシャス』を指して、内田樹氏は「男性嫌悪映画」と呼んだが、『八日目の蝉』はそれとは違う。
本作は男性を嫌悪するというよりも、もっと生き物としての女――母というものを問うているように思う。
はたして女は子供を産めば母なのか?女と母は違うのか?女も母も同じ生き物なのか?
この映画を観て、原作者はきっと40代半ばなのだろうと思っていたら、作者の角田光代(かくた みつよ)氏は案の定1967年の早生まれで、現在44歳だった。加えて、脚本を手がけた奥寺佐渡子(おくでら さとこ)氏は1966年生まれ。つまり、両者とも現実の事件の犯人と同い年(同学年)なのである。
愛した男性には妻がいて、その妻の妊娠に嫉妬して自分も避妊を拒否し、でも身籠った自分は中絶して、なのに妻は子を産んでいて、そして夫婦が不在の家には子供だけが残っている――そこに侵入した彼女がしたことは……。
それはあまりにも悲惨な事件であった。
もしも彼女が、おさなごに手をかけることをギリギリの瞬間で踏みとどまっていたら――いや、踏みとどまるためには、何が必要だったのか。
彼女と同世代の作者は、そんな思いから物語を紡いだのかもしれない。
原作は未読だが、それは二つの章に分かれているそうである。彼女が本妻の娘を連れて逃亡する章と、成長した娘が逃亡の跡をたどる章だ。
映画はこの二つの物語を時系列に追うのではなく、交互に配置して自在に時間軸を行き来しつつ、二人の女の心情を描写する。
これは映画ならではの構成の妙である。二つの物語は、それぞれが一つのロードムービーになっており、それらが重なり合い、補い合いながら、女とは何か、母とは何かを問い続ける。旅の行く先々で、ときには女だけの社会に立ち寄り、ときには田舎の暮らしに触れ、子育てを巡るコミュニティのあり方さえも問いながら、母から子への愛があることを確かめようとする。
その複雑な構成をすんなりと受け入れさせるのは、何といっても脚本の上手さだろう。『パーマネント野ばら』で叙情的でありながら緊密なドラマを味わわせてくれた奥寺佐渡子氏は、本作でも巧みな脚本で飽きさせない。
そして『孤高のメス』で医療問題と命の尊厳を問うた成島出(なるしま いずる)監督が、ここでも「母」と「子」を通して、生命とは何か、親子とは何かを問いかける。
この辛く哀しい物語を体現しているのが、素晴らしい女優陣である。本作に登場する母たち娘たちは、母親として、女として、どう振る舞えばいいのかが判らずにいる。その苦悩を、永作博美さん、井上真央さん、小池栄子さんらが体現している。
本作は、平行した二つの物語から構成されるが、それらは安易な邂逅を避けつつも、大切なもので貫かれている。それは、映画の中で「母」から「子」へ手渡されるものだが、目には見えない。
けれどもそこには確かにあるのだ、大切なものが。誰もが持っているはずなのだ。
報道等で、子供が犠牲となった事件に接するたびに、そこにあって欲しいと願うものだ。それはこの作品の作り手たちの祈りでもあろう。
劇中で手渡されたそれを、私たちは大切にしているだろうか。そしてまた、次の世代に渡せているだろうか。
![八日目の蝉 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41bSl3o4g-L._SL160_.jpg)
監督/成島出 脚本/奥寺佐渡子
出演/永作博美 井上真央 小池栄子 森口瑤子 田中哲司 劇団ひとり 余貴美子 市川実和子 平田満 渡邉このみ 風吹ジュン 田中泯
日本公開/2011年4月29日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス]


⇒comment
TBありがとうございます。
書かれている通りですね。
全く共感いたします。
こりゃ男には書けない物語だな、と思いましたし、
女性には男親が子に思うものとは違う「物理的な」関係があるのでしょうか。
先日も子供の喉にパンを詰め込んで死なせた母親とか、
子供を放ってパチンコに行って死なせてしまった夫婦とか、
「誰もが持っているはず」の「何か」が欠けている人々のニュースを聞くと、
やるせない気持ちでいっぱいです。
全く共感いたします。
こりゃ男には書けない物語だな、と思いましたし、
女性には男親が子に思うものとは違う「物理的な」関係があるのでしょうか。
先日も子供の喉にパンを詰め込んで死なせた母親とか、
子供を放ってパチンコに行って死なせてしまった夫婦とか、
「誰もが持っているはず」の「何か」が欠けている人々のニュースを聞くと、
やるせない気持ちでいっぱいです。
Re: TBありがとうございます。
KGRさん、こんにちは。
男には書けないですね。ブログの記事を書くのも、ためらわれたくらいです。男性が論評しても、なんだか空々しくなりそうで。
作り手の祈りも、女性が書いてるから説得力が増すのだと思います。
男には書けないですね。ブログの記事を書くのも、ためらわれたくらいです。男性が論評しても、なんだか空々しくなりそうで。
作り手の祈りも、女性が書いてるから説得力が増すのだと思います。
女ならではというか母ならではというか
これは他の方の感想お伺いしていても、
みなさん今一つ受け入れ難いような、完全に共感することは難しいような世界ですよね。
(至極当然です)
自分自身がとても今、「ダメ母」であることを痛感しているせいか(苦笑)、
この話、希和子も恵津子も薫も、それぞれの言い分、飲み込むことができました。
自分自身が至らない、欠陥がある、罪深い、わかっていても、
「母」である以上逃れられない宿命があり、影響も与えている。
母親であるならば多かれ少なかれ思う所の「業」というか。
そこが汲み取れれば共感できるような気がしました。
みなさん今一つ受け入れ難いような、完全に共感することは難しいような世界ですよね。
(至極当然です)
自分自身がとても今、「ダメ母」であることを痛感しているせいか(苦笑)、
この話、希和子も恵津子も薫も、それぞれの言い分、飲み込むことができました。
自分自身が至らない、欠陥がある、罪深い、わかっていても、
「母」である以上逃れられない宿命があり、影響も与えている。
母親であるならば多かれ少なかれ思う所の「業」というか。
そこが汲み取れれば共感できるような気がしました。
Re: 女ならではというか母ならではというか
rose_chocolatさん、こんにちは。
自分は、受け入れ難いとは思いませんでした。とても幸せな展開で良かったと思います(少なくとも現実よりは)。
ただ男の自分よりも、女性の方が、母の方が、もっと深いところで受け止めているんじゃないかという疑念がくすぶってはいます。
とはいえ、本作は母から子への愛があることを確かめる旅路なわけで、そこには共感します。
自分は、受け入れ難いとは思いませんでした。とても幸せな展開で良かったと思います(少なくとも現実よりは)。
ただ男の自分よりも、女性の方が、母の方が、もっと深いところで受け止めているんじゃないかという疑念がくすぶってはいます。
とはいえ、本作は母から子への愛があることを確かめる旅路なわけで、そこには共感します。
こんにちは。
こんにちは。
どんなお話なんだろうと、
原作未読のまま接したのがよかったようで、
かなり楽しめました。
あの宗教施設で、
「あっ、これは映画っぽい」と思い、
ラストで
「やったね」って感じ。
異論承知で言えば、
あのラストの高揚感は
『ブラック・スワン』に通じるものがありました。
どんなお話なんだろうと、
原作未読のまま接したのがよかったようで、
かなり楽しめました。
あの宗教施設で、
「あっ、これは映画っぽい」と思い、
ラストで
「やったね」って感じ。
異論承知で言えば、
あのラストの高揚感は
『ブラック・スワン』に通じるものがありました。
Re: こんにちは。
えいさん、こんにちは。
劇中でも言及しているように、あの宗教施設は現実のカルト集団を髣髴とさせて、90年代らしい要素なのですが、私は60~70年代のカウンター・カルチャー的な映画を思い出しました。その手の映画では、主人公が遍歴を重ねる中で必ず教会や妙な共同体に立ち寄りますよね。そんなところが映画っぽく感じた次第です。
ラストも鮮やかでしたね。
『ブラック・スワン』は、そうですか、こんな感じですか。ますます楽しみです。
劇中でも言及しているように、あの宗教施設は現実のカルト集団を髣髴とさせて、90年代らしい要素なのですが、私は60~70年代のカウンター・カルチャー的な映画を思い出しました。その手の映画では、主人公が遍歴を重ねる中で必ず教会や妙な共同体に立ち寄りますよね。そんなところが映画っぽく感じた次第です。
ラストも鮮やかでしたね。
『ブラック・スワン』は、そうですか、こんな感じですか。ますます楽しみです。
脚本の妙
うまいなああ、と思いましたよ。
本は、完全に前半はキワコの側からの独白みたいなもんで、日記っぽく時系列に書かれて行くのですが、妙に冷静なんですよね。
自分のやってることのまずさを重々わかってて、ときおり「ここで、子供を返そう・・」という部分もあったりすんですが、その都度天使の笑みに引き戻される。
本を読んでると、決して彼女に同情出来ないのですが、許せてしまうのがカオルちゃんの描き方。こんだけ可愛い!「あらあ、お母さんにそっくりねえ」とか、無垢な目でじっと見る・・なんて書いてあると、ものすごくわかる。
映画は、キワコとカオルちゃん、両方の説得力が半端なかったです。
成長した部分は、うーん・・でしたが、写真を持ってきたのはうまかったなあと思いました。この辺も脚本の妙ですね。
キワコは親からの遺産が数千万あって、それを持ってるから最初の逃亡をする!という後押しになったと思います。でもって、カルト教団で、すべてを差し出すという教えに従い、てかここにいるためには差し出さないとならない、ということで、全部差し出します。
余さんも、きわどかったですね。
母性と正義のギリギリの境目は?と言うようなテーマだと思いますが、決して許されないエゴであることを忘れてはならないと思いますです。
本は、完全に前半はキワコの側からの独白みたいなもんで、日記っぽく時系列に書かれて行くのですが、妙に冷静なんですよね。
自分のやってることのまずさを重々わかってて、ときおり「ここで、子供を返そう・・」という部分もあったりすんですが、その都度天使の笑みに引き戻される。
本を読んでると、決して彼女に同情出来ないのですが、許せてしまうのがカオルちゃんの描き方。こんだけ可愛い!「あらあ、お母さんにそっくりねえ」とか、無垢な目でじっと見る・・なんて書いてあると、ものすごくわかる。
映画は、キワコとカオルちゃん、両方の説得力が半端なかったです。
成長した部分は、うーん・・でしたが、写真を持ってきたのはうまかったなあと思いました。この辺も脚本の妙ですね。
キワコは親からの遺産が数千万あって、それを持ってるから最初の逃亡をする!という後押しになったと思います。でもって、カルト教団で、すべてを差し出すという教えに従い、てかここにいるためには差し出さないとならない、ということで、全部差し出します。
余さんも、きわどかったですね。
母性と正義のギリギリの境目は?と言うようなテーマだと思いますが、決して許されないエゴであることを忘れてはならないと思いますです。
Re: 脚本の妙
sakuraiさん、コメントありがとうございます。
誘拐はもちろん重大な犯罪であり、決して許されることではありませんね。本作では、その行為がどれだけ大きな不幸をもたらしたかをこれでもかと描いています。
しかし、同時に作り手が伝えたかったのは、(連れ去りたくなるほどの)子供の愛しさ、子供と暮らすことの幸せであると思います。
実の子でなくても、たった一人で逃亡しながらの子育てであっても、希和子は子供と一緒にいることで、感謝したくなるほどの時間を過ごした。その素晴らしさ!
私は原作を読んでいないのであくまで推測ですが、作者が書きたかったのは希和子と子供の物語だろうと思います。
だけどそれだけでは、まるで子供が可愛ければ誘拐してもいいと受け取られかねないので、成長後の物語を追加して、希和子の犯罪が悲劇を引き起こしたことを付け加えたのではないか。それでも結論はあくまで子供の愛しさ(母性の肯定)に帰結したかった。
私はそんな風に考えます。
ですから、成長後の物語が、希和子と子供の逃避行に比べてパッとしないのは、位置付けからして仕方がないのでしょう。役者さんは頑張っていたと思います。
誘拐はもちろん重大な犯罪であり、決して許されることではありませんね。本作では、その行為がどれだけ大きな不幸をもたらしたかをこれでもかと描いています。
しかし、同時に作り手が伝えたかったのは、(連れ去りたくなるほどの)子供の愛しさ、子供と暮らすことの幸せであると思います。
実の子でなくても、たった一人で逃亡しながらの子育てであっても、希和子は子供と一緒にいることで、感謝したくなるほどの時間を過ごした。その素晴らしさ!
私は原作を読んでいないのであくまで推測ですが、作者が書きたかったのは希和子と子供の物語だろうと思います。
だけどそれだけでは、まるで子供が可愛ければ誘拐してもいいと受け取られかねないので、成長後の物語を追加して、希和子の犯罪が悲劇を引き起こしたことを付け加えたのではないか。それでも結論はあくまで子供の愛しさ(母性の肯定)に帰結したかった。
私はそんな風に考えます。
ですから、成長後の物語が、希和子と子供の逃避行に比べてパッとしないのは、位置付けからして仕方がないのでしょう。役者さんは頑張っていたと思います。
子育ての中で…
受け取るもの大きさを表すことはできません。
その喜びを知った貴和子と知る事の出来なかった恵津子。
恵津子の存在がとても切なかったです。
恵理菜が、母として子に何を与えたいかを見いだし
恵津子もそれに関われるだろうと思えるラストが大好きでした。
そして、出てくる子どもたちがみんな可愛いのが、よかったです。
トラバを有難うございました、私からも送らせて下さい。
その喜びを知った貴和子と知る事の出来なかった恵津子。
恵津子の存在がとても切なかったです。
恵理菜が、母として子に何を与えたいかを見いだし
恵津子もそれに関われるだろうと思えるラストが大好きでした。
そして、出てくる子どもたちがみんな可愛いのが、よかったです。
トラバを有難うございました、私からも送らせて下さい。
Re: 子育ての中で…
ほし★ママさん、こんにちは。
ラスト、良かったですね。いつまでも語り継がれるべき名シーンだと思います。
子供たちも、自然に可愛い子供でした。「子役」と感じさせないところがいいですね。
ラスト、良かったですね。いつまでも語り継がれるべき名シーンだと思います。
子供たちも、自然に可愛い子供でした。「子役」と感じさせないところがいいですね。
No title
凄く大雑把に極論を言うと、子供は愛されていてほしいよね。それが当たり前の社会がいいよね。
Re: No title
ふじき78さん、こんにちは。
そうですね。
理由とかはいらなくて、子供だから許す、子供だから愛するということが社会の当たり前であって欲しいです。
そうですね。
理由とかはいらなくて、子供だから許す、子供だから愛するということが社会の当たり前であって欲しいです。
こんにちは
同じく男性の影が薄く、愛する人の子供を誘拐したという設定では「この子の七つのお祝いに」を思い出したのですが、内容は大きく違いました
呪いの言葉をかけられながら育った幼少期(この子の~)と、愛情を注がれて育った幼少期(八日目)
幼少期の思い出というのは大きくなってもずっと影響を及ぼすものでありますね
血の繋がりだけでは埋められないものがあるのも実感としてわかります
自分自身(かおる)が受け入れられる、許されることを感じられるラストで、苦しいけれど良い作品でした
呪いの言葉をかけられながら育った幼少期(この子の~)と、愛情を注がれて育った幼少期(八日目)
幼少期の思い出というのは大きくなってもずっと影響を及ぼすものでありますね
血の繋がりだけでは埋められないものがあるのも実感としてわかります
自分自身(かおる)が受け入れられる、許されることを感じられるラストで、苦しいけれど良い作品でした
Re: こんにちは
おくやぷさん、こんにちは。
ラストが鮮やかな映画でしたね。こういう終わり方は大好きです。
>血の繋がりだけでは埋められないものがある
それと同時に、血の繋がりがなくてもこれほどの愛情を注げるということ、これほどの愛情を受け止められるということに、大きな意味のある映画でもありました。
幼い子供を前にしたときどう行動するか、まだ生まれていない子供にどう相対するかを、血の繋がりにかかわらず問われているように思いました。
ラストが鮮やかな映画でしたね。こういう終わり方は大好きです。
>血の繋がりだけでは埋められないものがある
それと同時に、血の繋がりがなくてもこれほどの愛情を注げるということ、これほどの愛情を受け止められるということに、大きな意味のある映画でもありました。
幼い子供を前にしたときどう行動するか、まだ生まれていない子供にどう相対するかを、血の繋がりにかかわらず問われているように思いました。
No title
少し時間が空いたのでレコーダーに録画してあった「<span style="background-color:#FFFF00;">八日目の蝉</span>(映画)」を見る。
・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?
レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。
何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。
う~ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。
誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。
彼女の中にあるのは自分の事だけ。
自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。
子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。
しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。
つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。
映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、
彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。
子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。
誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。
彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。
母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。
誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。
子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。
最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。
そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。
本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。
(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)
あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。
誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。
もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)
単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。
設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が<span style="background-color:#FFFF00;">意味</span>不明では説得力が無くなってしまう。
<span style="background-color:#FFFF00;">八日目の蝉</span>に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。
例えば、
あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?
(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)
主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?
あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。
不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)
実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?
ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?
(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)
この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、
『例え誰からも愛されていなかったとしても
(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)
、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』
という事だろう。
結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、
(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)
正解に辿り着けた事になる。
この映画の監督(原作者も?)は、何故か
「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」
と思い込んでいるが、
誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。
例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。
しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、
その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。
そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。
人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。
「料理は愛情」という言葉もある。
大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。
本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。
これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)
・・・全く分からない。結局何を言いたいのか?
レコーダーから消去した後、何度も頭の中で反芻してみるが、どうにも分からない。確か名作扱いされていた筈。
何か見落としているのだろうかと、検索して色々な感想を読んでみる。
う~ん。何故か皆、誘拐犯の女が子供を愛していると、勘違いして作品を見ているようだ。
誘拐犯の女は子供の事など一切愛してはいない。
彼女の中にあるのは自分の事だけ。
自分の欲望を満たす為の道具として子供を利用しているだけだ。
子供を本当に愛しているのであれば、その子供が最も幸せになれるであろう両親に返せばいいだけの事。
しかし彼女は子供の幸せよりも、自分の感情を優先している。
つまり彼女は、口では子供を愛していると言い訳しながら、自分の欲望を満たしているだけ。
映画の中では、誘拐犯の女が「子供の為に苦労苦悩している」かの様な描写が繰り返されるが、
彼女は最も楽な道を選んでいるだけ。
子供が産めなくなり、不倫相手とも別れなければならない という苦痛絶望(半分以上は自業自得でしかないが)から逃れる為に(精神安定剤的に)子供を利用しているだけだ。
誘拐犯の女も母親も、子供の事など一切見てはいない。
彼女等の中では、あの子供は「金で買ったペット」程度の認識だ。
母親は、所有者である自分に懐かない(自分を癒さない)ペットに苛立っているだけ。
誘拐犯の女も、買ってきたペットが本当の親を求めてどんなに鳴いても、全くペットの心情を無視する飼い主同様に自分の都合(欲望)しか頭にない。
子供は誘拐犯を愛していた訳では無く、保護者を求める本能に従い、最も身近にいる人間に懐いていたに過ぎない。
最後の誘拐犯の台詞も、子供の為に発した言葉では無く、自分が母親気分(自己陶酔)を味わう為、周りに母親アピールをする為の発言に過ぎない。
そもそも彼女が誘拐しなければ、子供が食べていない状況にはならなかった訳だからね。
本当に子供の心配をする様な人間であれば、そもそも その子供を不幸な状況に陥らせる行動は取らない。
(何故か、誘拐犯の女はシングルマザーに置き換えられているようだ。(勿論そう見せ掛けられているのもあるが)
あの子供は誘拐してきた子供であって、彼女はシングルマザーでは無い。
誘拐犯の最後の言葉も、(子供の事など一切考えていないのに)母親気取りもいい加減にしろ という怒りしか湧いてこなかった。
もしあのまま逃げ続けていれば、あの子供は義務教育すら受けられない。)
単純に映画の感想を言えば、リアリティーが無い。
設定・世界観がどんなに荒唐無稽でも気にならないが、そこで生きている人間(キャラクター)の行動が<span style="background-color:#FFFF00;">意味</span>不明では説得力が無くなってしまう。
<span style="background-color:#FFFF00;">八日目の蝉</span>に出てくる登場人物は全員が「自分の意思」では無く「シナリオ」に添って動いている。
例えば、
あの状況にいて、戸締まりもせず生まれたばかりの子供を置いて出掛けるだろうか?
(おそらく、ガラスを割って侵入したりすると犯罪色が強くなり、シングルマザーに見せ掛ける事が難しくなるから避けたのではないだろうか?もし合鍵を持っていたとしたら当然鍵を変えるだろうし、用心もするだろう)
主人公の「自分の特殊な状況を誰かに理解してほしい」という心情は理解できるが、それを打ち明ける相手にあれを選ぶだろうか?
あの子が何故ああなのかは後に説明されるが、その前の段階で家に上げたり、心を開く理由が全く分からない。
不倫相手も同様だ。何故?
(配役が逆なら、まだ分からなくもないが)
実の母親も、あまりにも人間的に幼稚過ぎないだろうか?
ようやく帰ってきた子供に、あんな態度を取るだろうか?
(誘拐犯の女をシングルマザー(善)に見せ掛ける為だけに、酷い母親(悪)を演じさせられている様にしか感じない)
この作品に無理矢理 教訓的なものを見出すとするなら、
『例え誰からも愛されていなかったとしても
(おそらく作者的には「誰からも愛されていないと思っていたが、実は愛されていたと気付く事で自分の子供に対する愛情が生み出された」としたかったのだろうが、それは誘拐犯の女が子供を返さない(帰さない)段階で破綻してしまっている)
、自分が誰かを(または自分自身を)愛する事から逃げる理由にはならない』
という事だろう。
結果的に映画の主人公は勘違いとは言え、
(無理矢理ハッピーエンドにしようとした結果)
正解に辿り着けた事になる。
この映画の監督(原作者も?)は、何故か
「人間は、誰かから愛される事で、誰かを愛する事が出来る様になる」
と思い込んでいるが、
誰かを愛する条件に、誰かから愛される必要など無い。
例えば、親(保護者)から愛情を持って育てられた幸せな子供が居る。
しかしその「愛情」は、その親がその子供を育てる場合においての正解に過ぎず、
その子供が自分の子供または誰かを愛する時の正解となるとは限らない。
そもそも愛情とは、その対象に特別な思考・判断を求められるから、人間は「それ」を愛情と呼ぶのではないだろうか。
人真似の愛情は、大抵の場合「自己満足」と認識・評価されるだろう。
「料理は愛情」という言葉もある。
大抵の場合、愛情があれば多少手を抜いても許されるだろう という言い訳に用いられる。
本来は、食べさせる相手の為に労力を惜しまない状態の事であり、手抜きとは真逆だ。
これは、料理に限らず「全ての人間関係」に当てはまる言葉でもある。(人間以外でも同じ)
Re: No title
正宗さん、こんにちは。
お名前が記入されておりませんでしたが、同じ文章をあちこちに投稿されていて、ところによっては「正宗」と名乗っていらっしゃるようなので、ここでも正宗さんと呼ばせていただきます。
名前の記入が面倒になるほどあちこちに投稿されているので、再び当サイトに来られることはないかもしれません。しかし、いつかご覧になる日があるかもしれませんので、この返事を書いておきます。
正宗さんは、本作を観ても何を云いたいのか判らなかったとのこと。
そんなときは無理に解釈したり、理解したりしようとせずに、放置しておけば良いと思います。
映画は観客の心の中で完成すると云われます。判らない映画というのは、完成させるためのピースがまだ心の中にないのでしょう。数年後、数十年後にもう一度観たら、スッと腹に落ちる、なんてこともあると思います。
この作品には、知らなくてもいいけれど、知っていると理解を深める一助になることがあります。
というか、私は映画を観ている最中に気がついて、そのことを反芻しながら観ていましたので、それを知らなかったらどういう感想を抱くのか判りません。もしかしたら、本作をどう受け止めれば良いか判らずに、頭を抱えたかもしれません。ともかく、それを知った上で観たことにより、この作品は私にとって特別に感慨深いものになりました。
映画が公開され、私が感想をブログに書いた当時は、インターネット上でそのことに言及する記事は見当たりませんでした。原作者角田光代氏もそのことに触れていないようでした。
原作者が敢えてそれを前面に出しておらず、多くの人が知らないのであれば、私もわざわざ暴くような余計なことはするまい。そう考えて、ブログでは遠回しな書き方に留めたつもりです(そうでもない?)。
今では多くの人が気づいたようで、そのことに言及した記事が多々見られます。もうハッキリ書いてもいいでしょう。
本作を理解する上で重要なこと、それは、実話がベースであることです。
現実の事件がどのようなものであったのか、そのあらましはネットを検索すればすぐに判るでしょうから、ここでは説明しません。
ただ、本作には事実をなぞった部分と作り手がこしらえた全くの創作の部分があり、その分岐点はハッキリしています。
ですから、事実をなぞった部分についてその現実味を云々しても詮ないことです。現実にそうだったのですから。
私はこの映画を観たとき、てっきり誰もが現実の事件がベースであることを前提に論評しているものとばかり思っていました。ところが、映画の公開より四年も前に原作が発表されていたにもかかわらず、この作品と事件を関連づけて言及している記事は見当たりません。そのことが私にはショックでした。あれほど世間を騒がせた事件なのに、みんな忘れてしまったのか、忘れることができるのかと。
今でこそ、検索すれば簡単に事件の全容を知ることができます。しかし、事件の発生当時は違いました。まず、起きた事象が報じられ、あまりの悲劇に世間は騒然としましたが、その段階では事件性の有無は判りませんでした。被害者宅に同情が寄せられ、励ますための募金活動が呼びかけられたりもしました。その後です。これが故意による犯罪であり、加害者がいることが判ったのは。しばらくして犯人が判明し、その動機や背景が明らかになるたびに、世間は衝撃を受けました。この間の気持ちの変遷は言葉にしようがありません。
犯人と同世代の角田光代氏も、ショックを受けたに違いありません。同時代に生きる、同世代の女性が犯した大罪を、どのように受け止め、理解すべきなのか、悩んだであろうことは想像に難くありません。
いや、私は原作を読んでいませんでしたが、この映画を観て、きっと原作者は犯人と同世代だろうと思ったのです。十数年も前のこの事件にこだわり、ここまで掘り下げて作品にするなんて、作者と犯人とのあいだに共通点がある(おそらく同い年の女性)に違いないと考えたのです。そして、この事件に対する作者の想いは、現実の事件とは*異なるところ*に表れているだろうと思いました。
現実と同じことを書いた小説なら、ただの実録物に留まります。しかしこの作品は、現実と同じ境遇の下、現実と同じ心理が働いて犯行現場にたどり着き、そこから大きく現実から乖離して、空想の世界へ羽ばたきます。それは作者が、そんな境遇に陥った犯人に辿らせたかった人生、せめて現実から乖離して欲しかったところなのではないかと思います。
ですから、現実離れした展開を批判しても詮ないことです。現実には何が起きたかを知った上で、あえて現実から乖離させているのですから。
実際の事件を知っていると、本作の見方が変わるかもしれません。
数十年後で構いません。いつの日かもう一度本作を観て、改めて考えてみるとよろしいのではないかと思います。
お名前が記入されておりませんでしたが、同じ文章をあちこちに投稿されていて、ところによっては「正宗」と名乗っていらっしゃるようなので、ここでも正宗さんと呼ばせていただきます。
名前の記入が面倒になるほどあちこちに投稿されているので、再び当サイトに来られることはないかもしれません。しかし、いつかご覧になる日があるかもしれませんので、この返事を書いておきます。
正宗さんは、本作を観ても何を云いたいのか判らなかったとのこと。
そんなときは無理に解釈したり、理解したりしようとせずに、放置しておけば良いと思います。
映画は観客の心の中で完成すると云われます。判らない映画というのは、完成させるためのピースがまだ心の中にないのでしょう。数年後、数十年後にもう一度観たら、スッと腹に落ちる、なんてこともあると思います。
この作品には、知らなくてもいいけれど、知っていると理解を深める一助になることがあります。
というか、私は映画を観ている最中に気がついて、そのことを反芻しながら観ていましたので、それを知らなかったらどういう感想を抱くのか判りません。もしかしたら、本作をどう受け止めれば良いか判らずに、頭を抱えたかもしれません。ともかく、それを知った上で観たことにより、この作品は私にとって特別に感慨深いものになりました。
映画が公開され、私が感想をブログに書いた当時は、インターネット上でそのことに言及する記事は見当たりませんでした。原作者角田光代氏もそのことに触れていないようでした。
原作者が敢えてそれを前面に出しておらず、多くの人が知らないのであれば、私もわざわざ暴くような余計なことはするまい。そう考えて、ブログでは遠回しな書き方に留めたつもりです(そうでもない?)。
今では多くの人が気づいたようで、そのことに言及した記事が多々見られます。もうハッキリ書いてもいいでしょう。
本作を理解する上で重要なこと、それは、実話がベースであることです。
現実の事件がどのようなものであったのか、そのあらましはネットを検索すればすぐに判るでしょうから、ここでは説明しません。
ただ、本作には事実をなぞった部分と作り手がこしらえた全くの創作の部分があり、その分岐点はハッキリしています。
ですから、事実をなぞった部分についてその現実味を云々しても詮ないことです。現実にそうだったのですから。
私はこの映画を観たとき、てっきり誰もが現実の事件がベースであることを前提に論評しているものとばかり思っていました。ところが、映画の公開より四年も前に原作が発表されていたにもかかわらず、この作品と事件を関連づけて言及している記事は見当たりません。そのことが私にはショックでした。あれほど世間を騒がせた事件なのに、みんな忘れてしまったのか、忘れることができるのかと。
今でこそ、検索すれば簡単に事件の全容を知ることができます。しかし、事件の発生当時は違いました。まず、起きた事象が報じられ、あまりの悲劇に世間は騒然としましたが、その段階では事件性の有無は判りませんでした。被害者宅に同情が寄せられ、励ますための募金活動が呼びかけられたりもしました。その後です。これが故意による犯罪であり、加害者がいることが判ったのは。しばらくして犯人が判明し、その動機や背景が明らかになるたびに、世間は衝撃を受けました。この間の気持ちの変遷は言葉にしようがありません。
犯人と同世代の角田光代氏も、ショックを受けたに違いありません。同時代に生きる、同世代の女性が犯した大罪を、どのように受け止め、理解すべきなのか、悩んだであろうことは想像に難くありません。
いや、私は原作を読んでいませんでしたが、この映画を観て、きっと原作者は犯人と同世代だろうと思ったのです。十数年も前のこの事件にこだわり、ここまで掘り下げて作品にするなんて、作者と犯人とのあいだに共通点がある(おそらく同い年の女性)に違いないと考えたのです。そして、この事件に対する作者の想いは、現実の事件とは*異なるところ*に表れているだろうと思いました。
現実と同じことを書いた小説なら、ただの実録物に留まります。しかしこの作品は、現実と同じ境遇の下、現実と同じ心理が働いて犯行現場にたどり着き、そこから大きく現実から乖離して、空想の世界へ羽ばたきます。それは作者が、そんな境遇に陥った犯人に辿らせたかった人生、せめて現実から乖離して欲しかったところなのではないかと思います。
ですから、現実離れした展開を批判しても詮ないことです。現実には何が起きたかを知った上で、あえて現実から乖離させているのですから。
実際の事件を知っていると、本作の見方が変わるかもしれません。
数十年後で構いません。いつの日かもう一度本作を観て、改めて考えてみるとよろしいのではないかと思います。
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トラックバックの反映にはしばらく時間がかかります。ご容赦ください。八日目の蝉
3月24日(木)@一ツ橋ホール。
ほぼ2週間ぶりの一般試写会。
この間ムダになった試写状たくさん。
八日目の蝉
八日目の蝉
優しかったお母さんは、
私を誘拐した人でした。
2011.2.13 SUN
スペースFS汐留
☆2011年4月29日公開
【監督】成島出
【原作】角田光代
【脚本】奥寺佐渡子
【主題歌】中島美嘉「Dear」
【CAST】
井上真央 永
「八日目の蝉」誘拐した育ての母の足跡を辿った先にみた4年間の愛情と同じ過ちを繰り返さないでほしい想い
映画「八日目の蝉」は角田光代原作の「八日目の蝉」を映画化した作品で、生まれたばかりの頃から4歳まで誘拐犯に育てられた娘が大学生となり、その事件と向き合いながら自身も誘 ...
八日目の蝉(試写会)
角田光代のベストセラーの映画化、といっても原作は未読で、ドラマも未見だけど。
不倫相手の子供を堕ろした希和子(永作博美)は、不倫相手の夫婦の間に生まれた4ヶ月の赤ちゃん恵理菜を咄嗟に誘拐してしまう。妊娠した子供につける予定だった薫という名前を誘拐した赤...
試写会「八日目の蝉」
2011/4/6、有楽町のよみうりホール。
地震以来、多くの試写会が中止になり、
公開延期となった映画も中止になった映画も散見される中、
1か月ぶりの試写会参加となった。
節電に配慮したのかどうかよくわからないが、
17:45開場、18:15開演と、中途半端では...
八日目の蝉
試写会で見ました。原作を読んでから見たので、あーこの辺削ったかーと本と比べてしま
2011年3月24日 『八日目の蝉』 一ツ橋ホール
震災後初の試写会鑑賞です。
今までとは違う何かを感じて・・・
『八日目の蝉』
【ストーリー】
子どもを身ごもるも、相手が結婚していたために出産をあきらめるしかない希和子(永作博美)は、ちょうど同じころに生まれた男の妻の赤ん坊を誘拐して逃亡する。しかし、...
八日目の蝉
角田光代の同名ベストセラー小説を映画化。生まれてすぐに誘拐された少女が大学生になってからの姿と、誘拐した犯人が逃亡を続ける4年間の両方を描いたヒューマンドラマだ。出演は『花より男子ファイナル』の井上真央と『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』の永作博美。共...
八日目の蝉 2011.4.4
タイトル:「八日目の蝉」 Yahoo!映画:http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id338475/ 日にち:2011年4月4日(月) 場所:都内試写室(試写会)==================== 心に深い闇を抱えた女性4人が描かれています。 不倫の末、不倫相手とそ
八日目の蝉
直木賞作家・角田光代の同名ベストセラーを「花より男子ファイナル」の 井上真央と「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」の永作博美の共演で映画化 したヒューマン・サスペンス・ドラマ。不倫相手の赤ちゃんを誘拐した 女性が、捕まるまでの4年間にわたって母と娘として濃…
八日目の蝉
2011/04/29公開 日本 147分監督:成島出出演:井上真央、永作博美、小池栄子、森口瑤子、田中哲司、市川実和子、平田満、渡邉このみ、劇団ひとり、余貴美子、田中泯、風吹ジュン
優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした。
子どもを身ごもるも、相手が結婚してい...
八日目の蝉
角田光代のベストセラー『八日目の蝉』の映画化。同じように大ヒット小説が原作となっている、先日見た『阪急電車』とは全く違い、こちらは重い話がテーマになっています。今日は、5/1と言う事で、映画の日。混んでいました。
井上真央は、花男から一皮剥けたんじゃ無...
映画:八日目の蝉 永作博美が突出して良いところが、長所でもあり欠点?!
愛人の娘を誘拐して逃亡する女性と、その成長した娘のストーリーが平行して物語を進む。
井上真央演ずる、0才~4才まで誘拐され、その時に刷り込まれた「母」のイメージのトラウマを持ったまま、大学生になった恵理菜。
ちょっとしたきっかけで自分のルーツを探る旅に。
...
映画「八日目の蝉」を観ました!!(2011-05)
映画「八日目の蝉」を観ました!!
八日目の蝉/井上真央、永作博美、小池栄子
直木賞作家の角田光代さんの同名小説を映画化したサスペンス・ヒューマンドラマです。NHKでドラマ化されたときにうっかり観逃してしまったんですよね。やっぱり最初から観てないと ...
『八日目の蝉』 (2011) / 日本
監督: 成島出
出演: 井上真央 、永作博美 、小池栄子 、森口瑤子 、田中哲司
公式サイトはこちら。
原作読了しています。
もともと読売新聞連載小説でしたが、途中でついていけなくなり、挫折。f^^;
ですのでこれは一気に読みたかったし、そして映画化...
八日目の蝉
4月20日(水)ニッショーホールにて試写会「八日目の蝉」を鑑賞。
4月も下旬だというのに、まだ少し肌寒いこの頃、気持ち厚めのパーカーを着込んで虎ノ門へ。
上映開始15分前に会場入りし、...
八日目の蝉
2011年 日本
監督:成島出
出演:井上真央
永作博美
小池栄子
森口瑤子
八日目の蝉が見たもの。
ネタバレ有りです。
雨の日に起きた誘拐事件。
誘拐さ ...
八日目の蝉 ちょっと冗長すぎるが・・・
【=24 -6-】 今日は連休の谷間で電車がらがらかと思いきや、けっこう仕事の人も多いのだなあという混み具合、仕事があることはいいことだ!
さてこの映画、角田光代の原作は友人が貸してくれたので読んだが、読後の評価はきっと分かれてしまうだろうと思っていた。
...
『八日目の蝉』
---- この映画、前に行ったとき
満員で入れなかったってヤツだよね。
「うん。とにかく人気が高い。
原作が角田光代の代表作にしてべストセラーだからかなと思ったけど、
これは見事に映画になっていたね」
----映画になっていた…どういうこと?
「簡単に言えば、
映画と...
「八日目の蝉」
不倫相手の赤ちゃんを誘拐した女性が、警察に逮捕されるまでの4年間にわたりその子を我が娘として強く愛し続けた逃亡生活の顛末と、そんな誘拐犯に育てられた少女がやがて大学生へと成長したのち、果てしなく遠く感じていた自らの過去と向き合う姿を描いた直木賞作家...
八日目の蝉
「八日目の蝉」
監督
成島出
出演
井上真央(秋山恵理菜=薫)
永作博美(野々宮希和子)
小池栄子(安藤千草)
森口瑤子(秋山恵津子)
田中哲司(秋山丈博)
市川実和子(沢田久美(エステル))
平田満(沢田雄三)
「八日目の蝉」*成島 出監督作品
監督:成島 出
原作:角田光代
脚本:奥寺佐渡子
音楽:安川午朗
主題歌:「Dear」中島美嘉
挿入歌:「ドーターズ」ジョン・メイヤー
出演:井上真央、永作博美、小池栄子、森口瑤子、田中哲司、渡...
成島出監督 「八日目の蝉」
原作を読み終わった時から、観たくて観たくて、しょうがなかった映画。
映画の日には映画館が満席で悔しい思いもしました。
そして今日、やっと公休
朝、早起きをして観てきました(^-^)v
ふ、不覚!
原作も読んでて、冷静に観てるつもりだった筈なのに…
な...
八日目の蝉 監督/成島 出
【出演】
井上 真央
永作 博美
小池 栄子
【ストーリー】
不実な男を愛し、子供を身ごもった女、野々宮希和子。母となることが叶わない絶望の中、同時期に男の妻が女の子を出産したことを知る。「赤ちゃんを一目見たい、見たらけじめがつけられる…」夫婦の留守
八日目の蝉 (2011) 147分
優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした。
八日目の蝉
公式サイト http://www.youkame.com/
直木賞作家・角田光代の原作小説は未読。
生後4ヶ月の娘を夫の愛人に誘拐される。
4年後誘拐犯は捕まり、娘・秋山恵理菜=薫(井上真央)は戻って来たけれど・・・
冒頭、捕まった誘拐犯・野々宮希和子(永作博美)が裁判...
確かに愛はそこにあった。『八日目の蝉』
誘拐犯の女と誘拐された少女との逃亡劇とその後の少女の人生を描いた作品です。
八日の目の蝉(2011-027)
角田光代の同名ベストセラー小説を映画化。
生まれてすぐに誘拐された少女が大学生になってからの姿と、
誘拐した犯人が逃亡を続ける4年間の両方を描いたヒューマンドラマ。
不倫相手の子供を生まれてす...
No731『八日目の蝉』~子どもに降り注ぐ母の無償の愛~
場内では、時折すすり泣く声が聞こえたり、上映後も、トイレで目を真っ赤にした女性の姿を見たりきっと、子どもを持つ母親の琴線に触れるドラマなんだろうなと思った。永作博美の力演で、誘拐した子どもであっても、わが子以上に愛し、一緒に過ごせる時間も限られてたもの...
八日目の蝉
角田光代の小説を映画化。
成島出が監督。
誘拐する女性、希和子には永作博美、
誘拐され、薫と名付けられた、
少女には渡邊このみ。
すごく可愛い女の子です。
その後実家に帰され、
恵理菜と呼ばれた女性を、
井上真央が演じます。
小池栄子、森口瑤子、田中哲司が...
映画「八日目の蝉」
映画「八日目の蝉」を鑑賞。
「八日目の蝉」感想
角田光代原作のサスペンス小説を、「孤高のメス」の成島出監督、「サマーウォーズ」の奥寺佐渡子脚本で映画化。
とにかく、何をさしおいても女優陣、特に主要人物を演じる3人の演技がハンパなく素晴らしい。この御三方の存在自体が、本作に魂を吹きこむアイ...
八日目の蝉
優しかったお母さんは、
私を誘拐した人でした。
上映時間 147分
原作 角田光代
脚本 奥寺佐渡子
監督 成島出
出演 井上真央/永作博美/小池栄子/森口瑤子/田中哲司/市川実和子/平田満/渡邉このみ/劇団ひとり/風吹ジュン
誘拐犯の女と誘拐された少女との逃亡劇と、その...
八日目の蝉
あの女の子は反則です。かわいすぎる。。。
「八日目の蝉」
なんといっても、エンディングがいい。ひとことキメ台詞を言ったらスパッと切り上げ、即暗転。実にすっきりしたエンディングだ。
物語は終わっているのに、だらだら弛緩した映像を垂れ流すようなエンディングは、性に合わないってことでしょ。
お、よく知ってるな。
耳に...
八日目の蝉・・・・・評価額1750円
蝉は何年間も地中で成長し、やっと地上に出て成虫になると、僅か七日で死ぬという。
仲間が皆死に絶える中、もしも生き残った「八日目の蝉」がいたとしたら、それは蝉にとって幸せな事なのだろうか?不幸なの...
映画『八日目の蝉』
なんとなくあらすじを知っていて、見ないだろうと思ってた。
去年NHKのドラマでやってた時、知らなくて、
ちょうど『Mother』にはまっていた頃に、似たようなテーマのドラマを
やってたんだなぁ・・...
『八日目の蝉』
□作品オフィシャルサイト 「八日目の蝉」□監督 成島 出□脚本 奥寺佐渡子□原作 角田光代□キャスト 井上真央、永作博美、小池栄子、森口瑤子、田中哲司、市川実和子、平田 満、劇団ひとり、余貴美子、田中 泯、風吹ジュン■鑑賞日 5月1日(日)■劇場 チネチ
映画『八日目の蝉』劇場鑑賞。
ちょうど1年前、ドラマの第1回が放映された後 多くのネッ友さんからお薦めいただいて 1週遅れて見始めて、すっかりはまって
◆『八日目の蝉』◆ ※ネタバレ有
2011年:日本映画、成島出監督、井上真央、 永作博美、小池栄子、森口瑤子、田中哲司出演。
『八日目の蝉』
優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした。
『八日目の蝉』
監督・・・成島出
原作・・・角田光代
出演・・・井上真央、永作博美、小池栄子、森口瑤子、田中哲司、市川実和子、平田満、劇団ひとり、余貴美子、田中泯、風吹ジュン...
■映画『八日目の蝉』
どうしようもない男とのどうしようもない不倫に傷ついた女性が、不倫相手の男性と奥さんの間に生まれた赤ちゃんを誘拐したことから起こる悲しい物語を描いた映画『八日目の蝉』。
誘拐犯の女性・野々宮希和子を永作博美、彼女に誘拐されて数奇な人生を送ることとなった...
映画「八日目の蝉 」他人と違う経験を自分がどう感じるか
「八日目の蝉」★★★★☆
井上真央、永作博美、小池栄子、森口瑤子出演
成島出 監督、
147分、2011年4月29公開
日本,松竹
(原作:原題:八日目の蟬/ 角田光代)
→ ★映画のブログ★
八日目の蝉
試写会が当たったので行ってきました。不倫相手・秋山丈博田中哲司の子供を身ごもった野々宮希和子永作博美は、丈博に子供は堕ろすように言われ、きちんと妻・恵津子森口瑶子と離婚してからもう一度子供を作ろうと言われるが、実は妻のほうも妊娠していた。堕胎した希和子...
映画「八日目の蝉」@よみうりホール
八日目の蝉 (2011)
日本
監督:成島出
原作:角田光代
出演: 井上真央、永作博美、小池栄子、渡邉このみ、森口瑤子、田中哲司、劇団ひとり、余貴美子、風吹ジュン、市川実和子、他
久しぶりの劇場鑑賞
しかも邦画
そして重いテーマ・・・凹
生まれてすぐに誘拐され、犯人の女によって4
(映画)八日目の蝉
永作博美が演じた野々宮希和子と幼児誘拐の件とその後の恵理菜が自分に起こったことを結果的に確かめに行く旅を交互に見せる演出もさることながら
八日目の蝉
★★★★
エンゼルたちのウォーズ
二人の女性の違いは、人と魂で向き合っているかどうかである。
エンゼルさんが希和子に語った言葉が真理だ。
実母は娘の心を理解しようとせず、自分を母親だと認...
八日目の蝉
親となったら子供を「八日目の蝉」にしちゃいけないってことですね-。
映画 「八日目の蝉」
映画 「八日目の蝉」
八日目の蝉
原作を読んでいてなお、さらなる感動が・・・
* * * * * * * *
原作を読んだばかりだったのですが、さっそく映画も見ました。
しかし、正直さほど期待はしていなかったのですが、
これはまた・・・!
思いがけず新たな
八日目の?
2011年5月3日(火) 15:25~ TOHOシネマズ川崎1 料金:1300円(シネマイレージデー) パンフレット:未確認 『八日目の?』公式サイト 檀れい主演のドラマを一話だけ観た。小説は、例によって読んでいない。 ドラマでは、岸谷五朗との恋愛未満な描写があったりした...
【八日目の蝉】愛情と自分探しの旅
八日目の蝉
監督: 成島出
出演: 井上真央、永作博美、小池栄子、森口瑤子、
田中哲司、田中泯
公開: 2011年5月
原作は角田光代氏の同名小説。未読です。
しかし、2...
八日目の蝉
不実な男を愛し子を宿すが、母となることが叶わない絶望の中で、男と妻との間に生まれた赤ん坊を連れ去る女、野々宮希和子(永作博美)と、その誘拐犯に愛情いっぱいに4年間育てられた女、秋山恵理菜(井上真央)。実の両親の元に戻っても普通の生活は望めず、心を閉ざし
「八日目の?」
「八日目の?」ユナイテッドシネマ豊洲で観賞
2011-039
角田光代さんの同名小説。
蝉は7日間しか生きられない。
8日目を生きればみなくてもいいものを見てしまう。
というような事を言っているのだそうです。
がそんなメッセージは全く感じ取ることが出
『八日目の蝉』('11初鑑賞65・劇場)
☆☆☆★- (10段階評価で 7)
5月6日(金) 神戸国際松竹 スクリーン2にて 16:00の回を鑑賞。
【八日目の蝉】
監督:成島出
出演:永作博美、井上真央、小池栄子、田中哲司、森口瑤子
優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした。
「不倫相手との子供を堕胎したことでもう子供を持つことは出来なくなってしまった野々宮希和子、妻からの嫌がらせも不実な相手も全て断ち切る
八日目の蝉
「八日目の蝉」は角田光代が手掛けた初の長編サスペンス。映画「八日目の蝉」の監督は『孤高のメス』の成島出。映画「八日目の蝉」の主役の恵理菜役には井上真央。対する希和子役には永作博美。...
映画レビュー 「八日目の蝉」
八日目の蝉
【公式サイト】 【allcinema】
角田光代の同名小説を永作博美と井上真央の主演で映画化。監督は成島出。不倫相手の赤ちゃんを奪い、4年間にわたる逃亡生活中の母親として子供への深い...
「八日めの蝉」
「おかあちゃん、働くよ。そして、これからはいっぱいキレイなところを見に行こう。美味しいものを食べよう!」
不実な男を愛し、子供を身ごもった女、野々宮希和子。母となることが叶わない絶望の中、同...
「八日目の蝉」 答えの出ないテーマが重い
監督 成島出
八日目の蝉
角田光代原作の同名小説を映画化したヒューマン・サスペンス。誘拐された少女と犯人の女との逃亡劇、その後の運命を描く。監督は「孤高のメス」の成島出。出演は「太平洋の奇跡 ...
八日目の蝉
さて、映画とドラマ両方見たので感想を書きたいと思います
ちなみに映画を見てドラマ版が凄く気になっていたタイミングでNHKが2夜連続集中再放送をしてくれて凄く助かりました
ちなみに原作は読んだことな...
八日目の蝉
『八日目の蝉』を渋谷東急で見てきました。
(1)この映画は、TVなどで幾度となく予告編が流され、また書店では随分と以前から原作の文庫版が山積みとなっていましたから、制作側もかなり力を入れているのでしょう。
おそらく、『告白』とか『悪人』の線を狙っているの...
八日目の蝉
★★★★ 自分は堕胎したため、子供の産めない体になってしまった希和子。そして捨てられた愛人の本妻には、可愛い女の子が産まれる。 ある雨の日のことである。愛人の家に不法侵入した希和子は、赤ん坊を誘拐して自分の子供として育てながら、4年間の逃亡生活を送るのだ
『八日目の蝉』をパルコ調布キネマで観て、役者がみんないいわあふじき☆☆☆☆
五つ星評価で【☆☆☆☆役者と脚本】
●井上真央、意外にいいなあ。銀行の手先CMより何倍もいい。『おひさま』は見とらんから知らん。名前を与えられたり、余計に振られたり、 ...
映画:八日目の蝉
久々の映画記事。見たけど記事にしていない作品が溜まってきた。今週末はブログに専念したい。と言うわけでその1弾は八日目の蝉です。
mini review 11545「八日目の蝉」★★★★★★★☆☆☆
誘拐犯の女と誘拐された少女との逃亡劇と、その後の二人の運命を描いた、角田光代原作のベストセラー小説を映画化したヒューマン・サスペンス。監督は、『孤高のメス』など社会派エンターテインメント作品で定評のある成島出。誘拐された少女の大学生時代を井上真央が演じ...
八日目の蝉
テレビシリーズは良かったけれど、
キャストを変えて映画化すると聞いても
何度も観たいという話ではなかったので
観る気はありませんでした。
丁度公開している時に、
テレビで数人の映画評論家が
この映画の感想を言っていて、
男性は、けちょんけちょんでした。...
八日目の蝉 【映画】
どうにも身動きができない
どうやって出てゆけばいいんだろう
あんたとなら出ていける気がする
大人になってから
感情のラインにくっきりと溝をみる時がある
愛について不満が出るときは相手に自分を委...
八日目の蝉
恵理菜は、過去の呪縛をとかなくては前にすすめない。
『八日目の蝉』'11・日
あらすじ希和子は不実な男を愛し、子を宿すが、母となることが叶わない絶望の中で、男と妻の間に生まれた赤ん坊を連れ去る・・・。解説日本アカデミー賞11部門制覇(作品賞・主演...
『八日目の蝉』'11・日
あらすじ希和子は不実な男を愛し、子を宿すが、母となることが叶わない絶望の中で、男