『アンチクライスト』 私を泣かせてください

 最初の10分間だけで映画代を払う価値があった、と『カールじいさんの空飛ぶ家』の感想に書いたが、『アンチクライスト』は冒頭の5分を観ただけで大満足だった!

 これまでもたびたび引用している岡田斗司夫氏の言葉「映画の原点っていうのは、『人に、見たことないものを見せるんだ』ということ」が、本作にも見事に当てはまる。
 見たことのないものとは、何も視覚効果を駆使した異星や遠未来の景色や、特殊メイクで生み出した怪物ばかりではない。普段の生活では覗き得ないアングル、他人の体に密着するほどのアップ、極めてゆっくりと再生される動作、そんなものも日常の中では見ることがない。
 ラース・フォン・トリアー監督はそれらの映像を絶妙なセンスで繰り出し、私たちを悲嘆と苦痛と絶望に満ちた映画の世界に取り込んでいく。はたして、次の瞬間に何が映し出されるのか、どんな音を発するのか、想像もつかない観客は片時も目を離すことができない。

 ラース・フォン・トリアー監督のイマジネーションは驚くほど豊かだ。
 「悲嘆」は出産中の鹿が象徴する。
 「苦痛」は腹の裂けた狐だ。
 「絶望」は土に埋められたカラスである。
 そして、「悲嘆」「苦痛」「絶望」の三人の乞食は、動物や人形の姿を借りて私たちの周りに付きまとう。
 そのイマジネーションに接するのは、聖書や神話を読むことにも似ている。


 とりわけ印象深いのは冒頭のプロローグである。
 そこでは、ヘンデル作曲のオペラ『リナルド』に登場するアリア『私を泣かせてください』の歌声に乗せて、男と女の愛し合う姿と、一人息子の死が描かれる。
 モノクロームの映像の中、降りしきる雪と、こぼれおちる水と、宙を舞う縫いぐるみ等がスローモーションで再生され、観客は待ち受ける悲劇を察していながらどうすることもできず、ただ運命の残酷さに魅了される。

 『私を泣かせてください』は、運命の残酷さを嘆き悲しむ曲である。
 十字軍の騎士リナルドと恋人のアルミレーナが愛を確かめ合っているところへ、突如としてイスラームの魔女が現れ、アルミレーナを連れ去ってしまう。魔女に囚われたアルミレーナは、異教徒であるエルサレム国王の求愛を拒んで、この曲を歌うのだ。
 "喜びに満ちた懐かしの天上から、こんな地獄に連れてこられ、いまは苦痛の虜でしかない。主よ、私を泣かせてください"、と。
 騎士リナルドは、恋人を救うために旅立つ。リナルドに惚れた魔女が誘惑してくるものの、リナルドはその誘惑をはねのける。

 ところが『アンチクライスト』では、連れてこられた地獄こそがエデンと呼ばれる緑の地なのである。そして、連れてくるのは他ならぬ恋人自身だ。あろうことか、苦痛に囚われて嘆いている恋人が、彼女を救おうとする男を淫らに誘惑する。
 その誘惑をはねのけては、自分の恋人を拒絶することになるのだ。何たる苦痛。


 オペラ『リナルド』は、18世紀の作品らしく十字軍の勝利に終わる。そしてエルサレム国王も魔女もキリスト教に回心する。
 しかし『アンチクライスト』には回心する先がない。
 男は恋人という苦痛を抱え込むばかりである。
 本作はもともと「地球は神ではなくサタンによって創造された」という内容だったという。

 災厄に見舞われ、苦痛の虜となった私たちは、もう元の暮らしには戻れないのだろうか。


アンチクライスト [Blu-ray]アンチクライスト』  [あ行]
監督・脚本/ラース・フォン・トリアー
出演/シャルロット・ゲンズブール ウィレム・デフォー ストルム・アヘシェ・サルストロ
日本公開/2011年2月26日
ジャンル/[ドラマ] [サスペンス] [ホラー]
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【theme : ヨーロッパ映画
【genre : 映画

tag : ラース・フォン・トリアー シャルロット・ゲンズブール ウィレム・デフォー ストルム・アヘシェ・サルストロ

⇒comment

冒頭5分

息をのみました。素晴らしかった。
あとは、ずっと眉間にしわ寄せ、歯を食いしばって見てたような。。。
なんでしょうねえ。
トリアーは、「奇跡の海」以外はどうしてもだめ。黒板のきーーっという音聞かされてるみたいな不愉快な気持ちにさせられるのですが、見る価値はある。
でもなんか、トリアーにあざ笑われてる気分になるんですよね。
幸せそうな表情で窓から飛び出し行く子供の顔なんて、彼じゃなきゃ絶対に撮らない。
なんとも、もやもやさせられてます。

Re: 冒頭5分

sakuraiさん、こんにちは。
私はラース・フォン・トリアー作品初体験だったので、けっこう感激しました。

> 幸せそうな表情で窓から飛び出し行く子供の顔なんて、彼じゃなきゃ絶対に撮らない。

もう、天使の羽根で飛んじゃいそうでしたね。

本作には監督自身の鬱病経験が活かされているのかもしれないとも思います。ウィレム・デフォー演じる男は監督のセラピスト、患者である女は監督自身。あるいは、鬱病を改善しようとする自己と悪化し続ける自己に分裂した状態のメタファーかも。

監督が「わたしはいつも、自分のために映画を作っているのであって、観客のことを考えたことはない」と云ってるは流石です:-)
http://www.cinematoday.jp/page/N0018122

この悲しみが憐れみにより、私の殉教者からの鎖を打ち砕いてくれますように

ようやく観ました。
“人の心のどこかをズタズタに引き裂く、凶器のような作品“と聞き、久しぶりに〈衝撃的な映像体験〉を得ることができる強烈無比な物語かと思いハードルを上げて鑑賞しましたが・・・それ故か残念ながら個人的にそこにまで至る作品ではありませんでした(同監督の「ドッグウィル」の方が衝撃度は大きかったです)し何より嫌だったのが18禁のレイティングに分けているのに修正が施されているのは特にいただけなかったです。「ぼくのエリ~200歳の少女~」ばりに決してやるべきでなかったボカシが不快レベルに嫌でしたね。
・・・まあ個人的に不満なのはそれくらいで後は(本当は容易にあーだこーだと評価することは本来できない作品なのですが)邪悪で凄まじい悲しみと絶望、そして作家として監督としての誠意に満ち満ちたとてつもなく恐ろしい(時にシャルロット・ゲンズブール演じる〈女〉の二面性が表れる場面が)ホラーであり、男と女という埋まることのできない永遠の距離感を逆説的なキリスト教的宗教観を色濃く混ぜ込み容赦なく表現した悲劇のラブストーリーにも思えました。
ストーリーも巧みでモノクロームのオープニングから物語の象徴である〈悲観〉〈悲しみ〉〈絶望〉の“三人の乞食”と称される〈シカ〉〈キツネ〉〈カラス〉。
そして、ラストに現れる“あの存在”もそこですでにあるモノとして現れていてオープニングとエンディングの繋がりが見事に重なった構成力も見事でした。
〈女〉の視点から見るレンズベビーという映像をぼかして(こういうボカシなら全然かまわないんですがね)崩せるレンズを巧みに使用し全てがはっきりとした物は出さずに抽象的で曖昧に映る、不安に満ち満ちた映像も、山小屋エデンを取り囲む自然の美しくもあり不気味で弱肉強食に満ち満ちた恐ろしい映像から、監督のラース・フォン・トリアー自身が4歳か6歳頃に発症した不安発作の凄まじい苦しみ(「ドッグウィルの告白」というメイキングドキュメンタリーからも不安発作に苦しむ監督の姿が見れる。・・・あんまりおもしろい作品ではないんですがね)からくるイメージと、精神世界を探求する幾度も行ったシャーマンの旅で得たイメージと、3年前(2006年)に発症した“もう映画が作れない”と思う程の鬱病時に自分が受けたセラピーを元にウィレム・デフォー演じる〈男〉の行ったセラピーをシーンに混ぜ込み、この作品を作ったと本作のメイキングで語っており、また“この映画を作るのが一種の治療であり、出来上がったことは治療の成果だ”と語る姿に(カンヌ映画祭もヒトラー発言程度でこの人を追い出すようなことをしないでほしかったですな)監督のみならずモノを創る、才能をもった人々の〈業〉としかいいようのない深淵を観た気がします。そして、とてつもなく暗く重い映画なのに現場は明るかったというのも不思議です。人間ってなんだろうなぁと(笑)
またどうでもいい余談ですが、僕も監督や劇中の〈女〉程ではないですが、若干の躁鬱病を患っているのであの世界に共感できたのが、この作品を気に入ったのも〈賛〉の方に傾いたのことに非常に大きく作用しました。(鬱時はもう本当にやりきれなく、あの映像のように何もかもがどこか歪んで安定することのできない視点になるのです。人と一言も喋りたくも無いですし)
これまで監督は作品内に異様な環境やルール・現実や運命に痛めつけられる女達を容赦なく描き続けましたが、その後に特異な希望や道を提唱していましたが、この作品以降は絶望に満ち満ちた結末を提示してゆくのか、それともこれまでになかったまったく新しい道を提示するのか非常に楽しみな監督であります。
・・・「メランコリア」ここでも公開してくんないかなぁ。限定上映でいいからさ。

Re: この悲しみが憐れみにより、私の殉教者からの鎖を打ち砕いてくれますように

アン・ノウンさん、こんにちは。
返事が遅くなってスミマセン。
本作の撮影現場は明るかったのですか!
ちょっと意外な気もしますが、本作の雰囲気を考えると作中と現実とで気持ちを切り替えるのが撮影を続ける秘訣なのかもしれませんね。
鬱病の経験を前面に出す映画作家は珍しいと思いますが、本作の場合はそれが作品の出来に結びついているように思います。

映像美を楽しむ映画なのに、ボカシがあるのは残念でした。

No title

こんにちは、TBありがとうございました。

超スローモーションで映し出される冒頭のモノクロシーンが非常によかったです。セックスの背徳と陶酔がうまい具合に息子の旅立ちにつながっていた、と書いたら不謹慎かもしれませんが。

おっしゃる通り、映画は見世物でもあるわけですよね。それこそ河童を捕獲したから見せてやるとか、美人芸能人の醜聞をこっそり教えてあげるとか、人間の感知能力を超えたマクロやミクロの世界を構築とか・・・極端に言えば、よそ様の家の営みを覗き見したい、という密かな願望を満たす装置なのではないかなと思います。それは、よそ様の世界の危機とかよそ様の戦争とかよそ様の冒険でもいいのですが。

そういう意味では、この作品もそうですけど、トリアー監督はすごく映画らしい映画を撮っているのかなとも思います。デヴィッド・リンチに似ているような気もします。『イレイザーヘッド』なんて作品もありましたしね(笑)

Re: No title

Questさん、こんにちは。
本作は不謹慎な映画なので、コメントも不謹慎になるのは仕方ないですね:-)
私はタルコフスキー作品を観ると寝てしまうのですが、本作はタルコフスキー作品をなぞらえながら退屈させないのが凄いと思いました。
Secret

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