『最後の忠臣蔵』の販売戦略
【ネタバレ注意】
12月14日は元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)の討ち入りの日として知られるが、1985年の12月14日は映画『サンタクロース』が封切られた日だ。
サンタクロースが登場する映画は少なくないが、そのものズバリの題名のこの映画は、その年のクリスマスシーズンの目玉作品として注目されていた。公開当初の出足は上々で、正月休みの興行成績にも期待が高まった。
ところが、興行・配給側の予想だにしないことが起こった。
12月25日を境にパッタリ客足が途絶えてしまったのである。当時のキネマ旬報によれば、盛り上がったのはクリスマスまでで、その後はまったくダメだったらしい。
考えてみれば当たり前である。クリスマスが終わったのに、サンタクロースじゃないだろう。
この作品により、映画界はクリスマスにかかわる映画が興行できるのは12月25日までだと思い知ったようだ。2009年の『Disney's クリスマス・キャロル』が早くも11月14日に封切られたのは、そのときの教訓があるからだろう。
同じように、忠臣蔵といえば12月だ。
正確には、討ち入りが行われた元禄15年12月14日は旧暦であり、西暦1703年1月30日のことを指す。だから1月末に向けて盛り上げても良さそうなものだが、映画でもテレビでも忠臣蔵モノは秋から年末にかけて公開・放映するのが一般的だ。残念なことに、正月第一弾ロードショー(12月中旬~1月中旬)にはかからない。
たしかに、年が明けて三が日も過ぎたら、「12月14日の討ち入り」なんて不似合いに感じるだろう。それこそ、クリスマス後の『サンタクロース』である。
ともかく、どういうわけか日本人は忠臣蔵が大好きだ。歌舞伎や人形浄瑠璃の演目になって300年、映画やテレビドラマでも数多く作られている。300年も同じ題材を観続けて、よく飽きないものだ。
映画界としては、こんなに人気のある題材は、稼ぎどきの正月第一弾で興行したいことだろう。
そこにうってつけなのが、『最後の忠臣蔵』である。
この映画は、忠臣蔵の後日談を描いている。すなわち、討ち入りの12月14日より後の物語であり、興行を12月中旬~1月中旬に行っても違和感がない。この作品なら、忠臣蔵人気と、稼ぎどきの正月第一弾ロードショーとを両立させられるのだ。
実際、映画『最後の忠臣蔵』の封切り日は、12月14日より後の最初の週末である12月18日となった。
そしてこの物語は、討ち入りが終わるところから始まる。
今年もテレビでは忠臣蔵を取り上げるが、すべての忠臣蔵関係の番組は、本作のいい宣伝になるだろう。忠臣蔵関係の番組が面白ければ面白いほど、その後日談である本作も観たくなるというものだ。
さて、ここから先は、『最後の忠臣蔵』の内容を知りたくない人はご遠慮願いたい。結末を知りつつも楽しむのが忠臣蔵なので、『最後の忠臣蔵』もその結末に触れたからといって面白さが半減するわけではないが、念のためご注意いただきたい。
本作は、元禄赤穂事件にかかわった人物の中でも謎の多い寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)と瀬尾孫左衛門(せお まござえもん)を取り上げ、なぜ二人が他の赤穂浪士とは行動を別にしたのか、その謎について一つの説を提示する。忠臣蔵が好きな人には、たいへん興味深いところだろう。
それと同時に、この作品の基底にあるのは、娘の結婚という普遍的なドラマでもある。
娘の結婚を繰り返し取り上げた監督といえば、小津安二郎だろう。
特に『晩春』(1949年)は、長年続いた父と娘の二人暮しに終止符を打ち、娘を送り出す父を描いて、『最後の忠臣蔵』に通じるものがある。『晩春』では、父と娘の間に性的なイメージがあるとして論争になったが、『最後の忠臣蔵』の父娘は実の親子ではないことから、男女の関係がより強調されている。
特に『晩春』が他の小津作品に比べて印象深いのは、そのラストシーンだ。
娘の結婚を描いた小津映画のラストでは、娘のいなくなった寂しさの漂うことが多いのだが、とりわけ『晩春』は家の中にポツンと取り残された父の孤独が印象的だ。それは寂しさを通り越して残酷ですらある。たった一人取り残された男がこれから何をするのか、観客が不安に思うほどの残酷さを感じさせて映画は終わる。
この不安を突き詰めたのが『最後の忠臣蔵』だと云ったら、うがちすぎだろうか。
娘を送り出した瀬尾孫左衛門が、その後にしようとすること、それはハラキリである。忠臣蔵は赤穂浪士たちの切腹で終わるのであり、『最後の忠臣蔵』もその流れを汲んでいる。
制作のワーナー エンターテイメント ジャパンとしても、ここは外せないところだ。
本作はワーナー エンターテイメント ジャパンが本格的に手がけたローカル・プロダクションの第一弾である。もはやハリウッド・メジャーといえども、ハリウッドで作った映画を全世界で公開すれば商売になる時代ではない。メジャー各社は、各国の事情に合わせてその国向けの映画を作るローカル・プロダクションに力を入れ始めている。
とはいえ、本作は日本国内だけで公開するわけではない。2010年10月にハリウッドで開催されたプレミア試写会での好評を受け、米国でも公開予定だ。
日本発の本格的サムライ映画は、グローバルコンテンツとして世界に売れる作品である。そこには、サムライ、ハラキリ、ニンジャ等が欠かせない。
本作と同じくワーナーが配給した『ラスト サムライ』でも、サムライ、ハラキリ、ニンジャはしっかり含まれていた。明治時代にニンジャが出るのはデタラメすぎるが、このときは監督らアメリカ人スタッフが「どうしてもニンジャを撮りたい」と希望したそうである。何が米国の観客に受けるのかを考えたら、当然の配慮だろう。
さすがに『最後の忠臣蔵』にはニンジャが登場する余地はないが、その代わりハラキリは『ラスト サムライ』以上にじっくり見せてくれる。
もちろん、映画用に切腹シーンを付け足したわけではない。原作に沿った展開だ。
寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門は、本来であれば他の浪士たちと一緒に切腹していたはずだ。それなのに、大石内蔵助の命により生きていかざるを得なくなる。
すなわち、使命を達した暁には死ぬることができるわけだが、それをどう見るかは人それぞれだろう。
私は、死を目の前にした正岡子規が病の床で書いた言葉を思わずにはいられない。
竹中正治氏のブログで教えていただいた、『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく)の一節である。
---
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
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『最後の忠臣蔵』 [さ行]
監督/杉田成道 脚本/田中陽造 原作/池宮彰一郎
制作総指揮/ウィリアム・アイアトン
出演/役所広司 佐藤浩市 桜庭ななみ 山本耕史 風吹ジュン 田中邦衛 伊武雅刀 笈田ヨシ 安田成美 片岡仁左衛門
日本公開/2010年12月18日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]
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12月14日は元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)の討ち入りの日として知られるが、1985年の12月14日は映画『サンタクロース』が封切られた日だ。
サンタクロースが登場する映画は少なくないが、そのものズバリの題名のこの映画は、その年のクリスマスシーズンの目玉作品として注目されていた。公開当初の出足は上々で、正月休みの興行成績にも期待が高まった。
ところが、興行・配給側の予想だにしないことが起こった。
12月25日を境にパッタリ客足が途絶えてしまったのである。当時のキネマ旬報によれば、盛り上がったのはクリスマスまでで、その後はまったくダメだったらしい。
考えてみれば当たり前である。クリスマスが終わったのに、サンタクロースじゃないだろう。
この作品により、映画界はクリスマスにかかわる映画が興行できるのは12月25日までだと思い知ったようだ。2009年の『Disney's クリスマス・キャロル』が早くも11月14日に封切られたのは、そのときの教訓があるからだろう。
同じように、忠臣蔵といえば12月だ。
正確には、討ち入りが行われた元禄15年12月14日は旧暦であり、西暦1703年1月30日のことを指す。だから1月末に向けて盛り上げても良さそうなものだが、映画でもテレビでも忠臣蔵モノは秋から年末にかけて公開・放映するのが一般的だ。残念なことに、正月第一弾ロードショー(12月中旬~1月中旬)にはかからない。
たしかに、年が明けて三が日も過ぎたら、「12月14日の討ち入り」なんて不似合いに感じるだろう。それこそ、クリスマス後の『サンタクロース』である。
ともかく、どういうわけか日本人は忠臣蔵が大好きだ。歌舞伎や人形浄瑠璃の演目になって300年、映画やテレビドラマでも数多く作られている。300年も同じ題材を観続けて、よく飽きないものだ。
映画界としては、こんなに人気のある題材は、稼ぎどきの正月第一弾で興行したいことだろう。
そこにうってつけなのが、『最後の忠臣蔵』である。
この映画は、忠臣蔵の後日談を描いている。すなわち、討ち入りの12月14日より後の物語であり、興行を12月中旬~1月中旬に行っても違和感がない。この作品なら、忠臣蔵人気と、稼ぎどきの正月第一弾ロードショーとを両立させられるのだ。
実際、映画『最後の忠臣蔵』の封切り日は、12月14日より後の最初の週末である12月18日となった。
そしてこの物語は、討ち入りが終わるところから始まる。
今年もテレビでは忠臣蔵を取り上げるが、すべての忠臣蔵関係の番組は、本作のいい宣伝になるだろう。忠臣蔵関係の番組が面白ければ面白いほど、その後日談である本作も観たくなるというものだ。
さて、ここから先は、『最後の忠臣蔵』の内容を知りたくない人はご遠慮願いたい。結末を知りつつも楽しむのが忠臣蔵なので、『最後の忠臣蔵』もその結末に触れたからといって面白さが半減するわけではないが、念のためご注意いただきたい。
本作は、元禄赤穂事件にかかわった人物の中でも謎の多い寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)と瀬尾孫左衛門(せお まござえもん)を取り上げ、なぜ二人が他の赤穂浪士とは行動を別にしたのか、その謎について一つの説を提示する。忠臣蔵が好きな人には、たいへん興味深いところだろう。
それと同時に、この作品の基底にあるのは、娘の結婚という普遍的なドラマでもある。
娘の結婚を繰り返し取り上げた監督といえば、小津安二郎だろう。
特に『晩春』(1949年)は、長年続いた父と娘の二人暮しに終止符を打ち、娘を送り出す父を描いて、『最後の忠臣蔵』に通じるものがある。『晩春』では、父と娘の間に性的なイメージがあるとして論争になったが、『最後の忠臣蔵』の父娘は実の親子ではないことから、男女の関係がより強調されている。
特に『晩春』が他の小津作品に比べて印象深いのは、そのラストシーンだ。
娘の結婚を描いた小津映画のラストでは、娘のいなくなった寂しさの漂うことが多いのだが、とりわけ『晩春』は家の中にポツンと取り残された父の孤独が印象的だ。それは寂しさを通り越して残酷ですらある。たった一人取り残された男がこれから何をするのか、観客が不安に思うほどの残酷さを感じさせて映画は終わる。
この不安を突き詰めたのが『最後の忠臣蔵』だと云ったら、うがちすぎだろうか。
娘を送り出した瀬尾孫左衛門が、その後にしようとすること、それはハラキリである。忠臣蔵は赤穂浪士たちの切腹で終わるのであり、『最後の忠臣蔵』もその流れを汲んでいる。
制作のワーナー エンターテイメント ジャパンとしても、ここは外せないところだ。
本作はワーナー エンターテイメント ジャパンが本格的に手がけたローカル・プロダクションの第一弾である。もはやハリウッド・メジャーといえども、ハリウッドで作った映画を全世界で公開すれば商売になる時代ではない。メジャー各社は、各国の事情に合わせてその国向けの映画を作るローカル・プロダクションに力を入れ始めている。
とはいえ、本作は日本国内だけで公開するわけではない。2010年10月にハリウッドで開催されたプレミア試写会での好評を受け、米国でも公開予定だ。
日本発の本格的サムライ映画は、グローバルコンテンツとして世界に売れる作品である。そこには、サムライ、ハラキリ、ニンジャ等が欠かせない。
本作と同じくワーナーが配給した『ラスト サムライ』でも、サムライ、ハラキリ、ニンジャはしっかり含まれていた。明治時代にニンジャが出るのはデタラメすぎるが、このときは監督らアメリカ人スタッフが「どうしてもニンジャを撮りたい」と希望したそうである。何が米国の観客に受けるのかを考えたら、当然の配慮だろう。
さすがに『最後の忠臣蔵』にはニンジャが登場する余地はないが、その代わりハラキリは『ラスト サムライ』以上にじっくり見せてくれる。
もちろん、映画用に切腹シーンを付け足したわけではない。原作に沿った展開だ。
寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門は、本来であれば他の浪士たちと一緒に切腹していたはずだ。それなのに、大石内蔵助の命により生きていかざるを得なくなる。
すなわち、使命を達した暁には死ぬることができるわけだが、それをどう見るかは人それぞれだろう。
私は、死を目の前にした正岡子規が病の床で書いた言葉を思わずにはいられない。
竹中正治氏のブログで教えていただいた、『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく)の一節である。
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悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
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監督/杉田成道 脚本/田中陽造 原作/池宮彰一郎
制作総指揮/ウィリアム・アイアトン
出演/役所広司 佐藤浩市 桜庭ななみ 山本耕史 風吹ジュン 田中邦衛 伊武雅刀 笈田ヨシ 安田成美 片岡仁左衛門
日本公開/2010年12月18日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]


⇒comment
No title
こんばんは。例示されている『晩春』は私も好きな作品で、繰り返し見たりしてます。
結末については、やっぱりそう来るのか、と、途中で読めました。それは、武士の美学、武士のおきて(命令と服従)。辟易します
。封建がよみがえるか‥、と。ただ、私は外部者として、観客なのでたのしみはしますが。。。大石は組織の幹部としては誠に優秀なのでしょう。であるがゆえに理不尽かも。。。
映画自体は、ビジュアルアートとしても、日本文化のショーケースとしても水準以上で見ごたえがあると思いました。上映中、退屈しなかったし寝ることもなかったです。
武士を生きる過酷さと、反面、家族(擬似家族)愛と武士の間に流れる忠義と友情(誤解が解けたときの素直さ)。その両極端なまでの揺れが大きな効果を生んでます。これにたいがいの人はやられるのではないでしょうか。
私も愛や友情、忠義ではやられました。涙がこぼれっぱなし。自分自身の愛に重ねるからなので、なおさらにです。だからこそ、生きて欲しかった。。。。です、ハイ。生きて、女達の愛にこたえるのが武士の務め(新武士というジャンルでもあればね)であってほしかった。
でも彼らは規律の人たちだから、そこから抜け出せないんですよねえ。近代の自由人なんていう(これまた)自由じゃなきゃ、という「しがらみ」が無い武士は実は化せられた運命と命令の中で最大限に己を発揮する究極の自由人かもしれませんね。
抜け出さないからこそ、主君亡き後の家臣たちは世間の仕打ちにも評判にも耐えて耐えて、トップの娘の輿入れには参集する。この絵は、もうお決まりとはいえ、泣けますね。絵作りも見事、かと。紋付が見事に決まった男達。。その中の見事なまでの姫。
ただ武家嫌いの私としては、個人的なツボは女性陣の可音、ゆう、の2人。2人が孫佐にかけるせつなき一言がたまりませぬ。
私の今のところの結論は、美学や務め(流行の言葉で言えば、duty)はやっぱりろくなことが無い、です、ハイ。
あと、文楽の調べがまだ頭の中で響いているのは困りますねえ。
442部隊、武士の家計簿、ロビンフッド、パッチギ!、最後の忠臣蔵。この並べ方にはなにか意図のようなものを感じます。偶然では無さそうですが。。
結末については、やっぱりそう来るのか、と、途中で読めました。それは、武士の美学、武士のおきて(命令と服従)。辟易します

映画自体は、ビジュアルアートとしても、日本文化のショーケースとしても水準以上で見ごたえがあると思いました。上映中、退屈しなかったし寝ることもなかったです。
武士を生きる過酷さと、反面、家族(擬似家族)愛と武士の間に流れる忠義と友情(誤解が解けたときの素直さ)。その両極端なまでの揺れが大きな効果を生んでます。これにたいがいの人はやられるのではないでしょうか。
私も愛や友情、忠義ではやられました。涙がこぼれっぱなし。自分自身の愛に重ねるからなので、なおさらにです。だからこそ、生きて欲しかった。。。。です、ハイ。生きて、女達の愛にこたえるのが武士の務め(新武士というジャンルでもあればね)であってほしかった。
でも彼らは規律の人たちだから、そこから抜け出せないんですよねえ。近代の自由人なんていう(これまた)自由じゃなきゃ、という「しがらみ」が無い武士は実は化せられた運命と命令の中で最大限に己を発揮する究極の自由人かもしれませんね。
抜け出さないからこそ、主君亡き後の家臣たちは世間の仕打ちにも評判にも耐えて耐えて、トップの娘の輿入れには参集する。この絵は、もうお決まりとはいえ、泣けますね。絵作りも見事、かと。紋付が見事に決まった男達。。その中の見事なまでの姫。
ただ武家嫌いの私としては、個人的なツボは女性陣の可音、ゆう、の2人。2人が孫佐にかけるせつなき一言がたまりませぬ。
私の今のところの結論は、美学や務め(流行の言葉で言えば、duty)はやっぱりろくなことが無い、です、ハイ。
あと、文楽の調べがまだ頭の中で響いているのは困りますねえ。
442部隊、武士の家計簿、ロビンフッド、パッチギ!、最後の忠臣蔵。この並べ方にはなにか意図のようなものを感じます。偶然では無さそうですが。。
Re: No title
魚虎555さん、コメントありがとうございます。
公式サイトによれば、安田成美さん演じるゆうは、原作にはいないそうですね。また、作品を『曾根崎心中』に重ね合わせるのも、映画での工夫だとか。
私は、脚本の田中陽造氏は案外本当に『晩春』あたりを意識していたのではないかと思っています。少なくとも、武士の忠義の物語を、道ならぬ恋の物語に改変しようという意図はあったのでしょう。
可音が孫左衛門に惚れているのは明らかで、孫左衛門も可音に特別な感情を抱いていることは薪割りのシーンで示唆されます。しかし、二人は主従の関係にあり、また孫左衛門は大石内蔵助に命を捧げている身ですから、まかり間違っても二人が結ばれることはない。そのため、可音は別の人に嫁ぐことで自分の心を殺し、孫左衛門も自分の命は大石内蔵助のものであることをみずからに判らせる。あれは心中だったのだ、という解釈もできるわけで、美学・美徳というよりも、無念さが込められているのかもしれません。
孫左衛門と可音の関係は、主従であり、父娘であり、恋人でもある。多重の意味を持ってしまうのが切ないところです。
さすが『ツィゴイネルワイゼン』の田中陽造氏だと思います。
ブログでの作品の並べ方には、それほど深い意味はありません。ただ、鑑賞しても取り上げない作品が多い中で、たまたま取り上げた作品がこれらであったということです。
公式サイトによれば、安田成美さん演じるゆうは、原作にはいないそうですね。また、作品を『曾根崎心中』に重ね合わせるのも、映画での工夫だとか。
私は、脚本の田中陽造氏は案外本当に『晩春』あたりを意識していたのではないかと思っています。少なくとも、武士の忠義の物語を、道ならぬ恋の物語に改変しようという意図はあったのでしょう。
可音が孫左衛門に惚れているのは明らかで、孫左衛門も可音に特別な感情を抱いていることは薪割りのシーンで示唆されます。しかし、二人は主従の関係にあり、また孫左衛門は大石内蔵助に命を捧げている身ですから、まかり間違っても二人が結ばれることはない。そのため、可音は別の人に嫁ぐことで自分の心を殺し、孫左衛門も自分の命は大石内蔵助のものであることをみずからに判らせる。あれは心中だったのだ、という解釈もできるわけで、美学・美徳というよりも、無念さが込められているのかもしれません。
孫左衛門と可音の関係は、主従であり、父娘であり、恋人でもある。多重の意味を持ってしまうのが切ないところです。
さすが『ツィゴイネルワイゼン』の田中陽造氏だと思います。
ブログでの作品の並べ方には、それほど深い意味はありません。ただ、鑑賞しても取り上げない作品が多い中で、たまたま取り上げた作品がこれらであったということです。
No title
お返事有難うございます。
>さすが『ツィゴイネルワイゼン』の田中陽造氏だと思います。
であるならば、孫佐の役は、丹精で実直な演技の中に時折、破綻が見える癖をもつ役所さん(13人の刺客でも気になりました)ではなくて、「歩いても歩いても」で上手さを示した安部寛や、または伊武雅刀に務めてもらいたかった、と個人的にはややため息です。竹中直人や香川照之だけは勘弁して欲しかったので、それはよかったですが。
呉服問屋の主と若旦那、大石倉之助などの主要な登場人物もきりっと締まる演技を見せて、そして、竹、風、室内の光などが構図も決まり露出も良し、という三拍子そろった背景ともいえる、それらが、主役達の存在を際立たせていたと思います。エンタテイメントとして構成がよく、払ったお金の元は取れました(笑)。
命を主君に預ける、そのことが本作品のテーマであることも理解しておりますが、あまりにも盲目的な。。。まあ、それが日本であり、サムライなのだ、ということなんでしょう。どうもそこんところは好きになれませんね。物語としては面白いのですが。。。
ガーウイン卿と緑の騎士、アーサー王とランスロット、吟遊詩人、の世界とはずいぶん違うなあ、とおもうと、日本以外の国でこの映画が鑑賞されるときには、ふーん変わった風習だねえ、という風にまた好奇の目で見られることかとおもうと、明治以降の日本の対外への”売り”とは、「ユニークさ」ということ、そんなことを自虐的に思います。
主君との一種の契約を結ぶわけですから、その観点から契約履行がなされるのをz(私たち観客が)見届けるという鑑賞姿勢も可能です。それに、世話する・世話される、期待する・期待にこたえる、という主従関係が下敷きになっているので、サムライの男どもにとっては主従関係が人生の柱であり、それ以外は付属品。
このぶれない価値観の展開が見事でわかりやすい。それがゆえに、その価値観にささやかな抵抗を試みるおゆうさんの一言が重く響きます。彼女の役(とりっくすたーですなあ、一種の)は、あれしかありえなかった。
孫佐と可音に通いあう愛は、本当、晩春を思い起こします。Loveではない淡いそれでいて保護や信頼を基礎においた暖かい関係がかつての日本には割と普遍的にありえたように思います(私はその時代を生きてないので実体験ではありませんが)。
無骨な世界に咲く、一輪の花ふたつ。時代と男社会に振り回された人生だけに、その可憐さもたくましさも、いつまでも印象に残ります。これも、今じゃもう見られなくなりつつある世界ですね。
まあ、感情移入してしまうと両眼が常に漏水状態になるという大変な映画でした。忠臣蔵なんていつまで繰り返すのかなあ‥と、あまり感心もありませんでしたが、見方が少し変わりました。今年の時代劇映画では、「13人の刺客」よりこちらの方を好みます。
ハリウッドと日本文化が手を組めばこんな面白いエンタティメントになるのか、というよき見本作な気がします。こういう民族派映画は、国を問わず、今後もどしどし作って欲しいものです。「瞳の奥の秘密」なんて、とっても映画らしさを味わえましたし。。
>さすが『ツィゴイネルワイゼン』の田中陽造氏だと思います。
であるならば、孫佐の役は、丹精で実直な演技の中に時折、破綻が見える癖をもつ役所さん(13人の刺客でも気になりました)ではなくて、「歩いても歩いても」で上手さを示した安部寛や、または伊武雅刀に務めてもらいたかった、と個人的にはややため息です。竹中直人や香川照之だけは勘弁して欲しかったので、それはよかったですが。
呉服問屋の主と若旦那、大石倉之助などの主要な登場人物もきりっと締まる演技を見せて、そして、竹、風、室内の光などが構図も決まり露出も良し、という三拍子そろった背景ともいえる、それらが、主役達の存在を際立たせていたと思います。エンタテイメントとして構成がよく、払ったお金の元は取れました(笑)。
命を主君に預ける、そのことが本作品のテーマであることも理解しておりますが、あまりにも盲目的な。。。まあ、それが日本であり、サムライなのだ、ということなんでしょう。どうもそこんところは好きになれませんね。物語としては面白いのですが。。。
ガーウイン卿と緑の騎士、アーサー王とランスロット、吟遊詩人、の世界とはずいぶん違うなあ、とおもうと、日本以外の国でこの映画が鑑賞されるときには、ふーん変わった風習だねえ、という風にまた好奇の目で見られることかとおもうと、明治以降の日本の対外への”売り”とは、「ユニークさ」ということ、そんなことを自虐的に思います。
主君との一種の契約を結ぶわけですから、その観点から契約履行がなされるのをz(私たち観客が)見届けるという鑑賞姿勢も可能です。それに、世話する・世話される、期待する・期待にこたえる、という主従関係が下敷きになっているので、サムライの男どもにとっては主従関係が人生の柱であり、それ以外は付属品。
このぶれない価値観の展開が見事でわかりやすい。それがゆえに、その価値観にささやかな抵抗を試みるおゆうさんの一言が重く響きます。彼女の役(とりっくすたーですなあ、一種の)は、あれしかありえなかった。
孫佐と可音に通いあう愛は、本当、晩春を思い起こします。Loveではない淡いそれでいて保護や信頼を基礎においた暖かい関係がかつての日本には割と普遍的にありえたように思います(私はその時代を生きてないので実体験ではありませんが)。
無骨な世界に咲く、一輪の花ふたつ。時代と男社会に振り回された人生だけに、その可憐さもたくましさも、いつまでも印象に残ります。これも、今じゃもう見られなくなりつつある世界ですね。
まあ、感情移入してしまうと両眼が常に漏水状態になるという大変な映画でした。忠臣蔵なんていつまで繰り返すのかなあ‥と、あまり感心もありませんでしたが、見方が少し変わりました。今年の時代劇映画では、「13人の刺客」よりこちらの方を好みます。
ハリウッドと日本文化が手を組めばこんな面白いエンタティメントになるのか、というよき見本作な気がします。こういう民族派映画は、国を問わず、今後もどしどし作って欲しいものです。「瞳の奥の秘密」なんて、とっても映画らしさを味わえましたし。。
Re: No title
魚虎555さん、こんにちは。
役所広司さんがキャスティングされたのは、一つには生臭さが無いからかなと思います。
人里離れた一軒家で、妙齢の女性と二人だけで暮らす中年男……誰が演じても生臭く(あるいは嘘臭く)なりそうなところなのに、役所広司さんは「現代人の考える武士らしさ」を巧く表現していましたね。
また、大商人を演じた笈田ヨシさんの存在感も素晴らしいです。
孫佐衛門が使命を果たす姿は、盲目的というよりは、おっしゃるとおり「一種の契約」なのでしょう。ただ、私はここでは「契約」よりも「約束」という言葉を使いたいと思います。「約束」と見れば、この作品が今に通じる普遍的な物語であると感じるのですが…。
これからもローカル・プロダクションは増えるでしょうが、ハリウッド系列でありながら日本らしさにこだわった本作が、成功例になるといいですね。日本の「ユニークさ」が"売り"になるのであれば、私はどんどん売るべきだと思います。日本発で世界にウケるものの一つにニンジャがありますが、韓国のテレビドラマ『太王四神記』を見ていたら、4世紀の高句麗にニンジャ軍団が出てきて驚きました。たとえ起源は日本でも、売れるなら他国が売ってしまいます。売れるうちが花なのだと思います。
ローカル・プロダクションの取り組みでは、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントが中心になって制作した『レイン・フォール/雨の牙』の例もありますが、あちらは逆にハリウッド系列であることを強調してゲイリー・オールドマンをキャスティングしてみせたりしました。しかし、ハリウッドらしさを強調した映画を観るなら、ハリウッド映画を観ればいいわけで、というか、ハリウッド映画では客を呼べないからローカル・プロダクションに力を入れだしたわけで。観客に足を運ばせるのはやっぱり難しい。
日本としての"売り"に立ちかえるのが、大切なのかもしれません。
役所広司さんがキャスティングされたのは、一つには生臭さが無いからかなと思います。
人里離れた一軒家で、妙齢の女性と二人だけで暮らす中年男……誰が演じても生臭く(あるいは嘘臭く)なりそうなところなのに、役所広司さんは「現代人の考える武士らしさ」を巧く表現していましたね。
また、大商人を演じた笈田ヨシさんの存在感も素晴らしいです。
孫佐衛門が使命を果たす姿は、盲目的というよりは、おっしゃるとおり「一種の契約」なのでしょう。ただ、私はここでは「契約」よりも「約束」という言葉を使いたいと思います。「約束」と見れば、この作品が今に通じる普遍的な物語であると感じるのですが…。
これからもローカル・プロダクションは増えるでしょうが、ハリウッド系列でありながら日本らしさにこだわった本作が、成功例になるといいですね。日本の「ユニークさ」が"売り"になるのであれば、私はどんどん売るべきだと思います。日本発で世界にウケるものの一つにニンジャがありますが、韓国のテレビドラマ『太王四神記』を見ていたら、4世紀の高句麗にニンジャ軍団が出てきて驚きました。たとえ起源は日本でも、売れるなら他国が売ってしまいます。売れるうちが花なのだと思います。
ローカル・プロダクションの取り組みでは、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントが中心になって制作した『レイン・フォール/雨の牙』の例もありますが、あちらは逆にハリウッド系列であることを強調してゲイリー・オールドマンをキャスティングしてみせたりしました。しかし、ハリウッドらしさを強調した映画を観るなら、ハリウッド映画を観ればいいわけで、というか、ハリウッド映画では客を呼べないからローカル・プロダクションに力を入れだしたわけで。観客に足を運ばせるのはやっぱり難しい。
日本としての"売り"に立ちかえるのが、大切なのかもしれません。
おはようございます。
この物語と「曽根崎心中」を重ね合わせた意図をはかりかねておりました。
ナドレックさんのコメントを伺って納得いたしました。
私としては、あくまで「赤穂浪士」としての最後だったと考えているのですが…
ナドレックさんのコメントを伺って納得いたしました。
私としては、あくまで「赤穂浪士」としての最後だったと考えているのですが…
Re: おはようございます。
ほし★ママさん、コメントありがとうございます。
私は原作を読んではいませんが、原作は赤穂浪士としての最後が描かれているのだろうと推察します。
ただ、男女の関係を描き続けた田中陽造氏は、本作へアプローチするにあたって自分なりの立脚点を必要としたのではないかと思うのです。それが『曾根崎心中』なのではないかと。
私は、孫左衛門の心は可音とともにあったと(だからこその回想シーンだと)思いたいのですが、あのラストを「大石内蔵助との情死」とする意見もあるようです。
ここは受け手がそれぞれに解釈するところですね。
私は原作を読んではいませんが、原作は赤穂浪士としての最後が描かれているのだろうと推察します。
ただ、男女の関係を描き続けた田中陽造氏は、本作へアプローチするにあたって自分なりの立脚点を必要としたのではないかと思うのです。それが『曾根崎心中』なのではないかと。
私は、孫左衛門の心は可音とともにあったと(だからこその回想シーンだと)思いたいのですが、あのラストを「大石内蔵助との情死」とする意見もあるようです。
ここは受け手がそれぞれに解釈するところですね。
ナドレックさん、こんにちは!
ゆうは原作には無かったのですね!?小説は寂しいのですね…。
浄瑠璃の心中と忠臣の意味づけがあれ?
と思いました。
全部が全部上手く行くものを創るのは出来ないですね…。
確かに池宮作品が、浄瑠璃の演出効果のお陰で美しく仕上がりました。
これは多分アメリカ人向けに考えられたのかな?と思います。
感性で観る外国人からみればエキゾチックで、喜びそうです。美しさを出したかった!日本的なモノを出したかった!
のだと思います。
ですから曽根崎心中と忠臣蔵をよく知る日本人向けには創っていない部分だなー。
と思いました。
しかし、そこを割り引いても、なかなか良かったのではないかと思いました。
ゆうは原作には無かったのですね!?小説は寂しいのですね…。
浄瑠璃の心中と忠臣の意味づけがあれ?
と思いました。
全部が全部上手く行くものを創るのは出来ないですね…。
確かに池宮作品が、浄瑠璃の演出効果のお陰で美しく仕上がりました。
これは多分アメリカ人向けに考えられたのかな?と思います。
感性で観る外国人からみればエキゾチックで、喜びそうです。美しさを出したかった!日本的なモノを出したかった!
のだと思います。
ですから曽根崎心中と忠臣蔵をよく知る日本人向けには創っていない部分だなー。
と思いました。
しかし、そこを割り引いても、なかなか良かったのではないかと思いました。
Re: タイトルなし
愛知女子さん、こんにちは。
私は、人形浄瑠璃が外国人に受けるのかちょっと疑問に思っています。米国には(パロディ等を除くと)大人向けの人形劇の伝統はないし。そのため『曾根崎心中』を絡ませたのは、外国人向けというよりもやっぱり日本の観客を意識してのことではないかと思いました。
どうなんでしょうね。
私は、人形浄瑠璃が外国人に受けるのかちょっと疑問に思っています。米国には(パロディ等を除くと)大人向けの人形劇の伝統はないし。そのため『曾根崎心中』を絡ませたのは、外国人向けというよりもやっぱり日本の観客を意識してのことではないかと思いました。
どうなんでしょうね。
No title
ナドレックさんへ
パンフレットを調べてみました。
脚本の田中陽造氏が、可音と茶屋修一郎の出会いをその時代に大ヒットしていた人形浄瑠璃の「曽根崎心中」が上演されていた芝居小屋を2人の出会いの場にしたんだそうです。
「曽根崎心中」の内容が可音や孫左衛門の想い、さらには死んでいく者の想いを少しずつ明かしていく構成から、お客さんにこれが恋の話であることを伝えやすいと思われたそうです。
原作の孫左衛門は 可音に対して邪な想いを抱いて苦悩する部分はなんだか現代劇になってしまう為やめたそうです。
孫左衛門にとっては主人の大石が自分の神であり、言ってみれば可音は神の子供ですから愛情はあっても邪な想いはない。
可音のひたすら孫左衛門に恋とも知らず恋をする少女の一途さがチャーミングだと思われたそうです。
ですから、外国受けを狙った訳では無いようでした…。
自分でもよく分からない文庫になりました…。
どうぞお許し下さいませ。
パンフレットを調べてみました。
脚本の田中陽造氏が、可音と茶屋修一郎の出会いをその時代に大ヒットしていた人形浄瑠璃の「曽根崎心中」が上演されていた芝居小屋を2人の出会いの場にしたんだそうです。
「曽根崎心中」の内容が可音や孫左衛門の想い、さらには死んでいく者の想いを少しずつ明かしていく構成から、お客さんにこれが恋の話であることを伝えやすいと思われたそうです。
原作の孫左衛門は 可音に対して邪な想いを抱いて苦悩する部分はなんだか現代劇になってしまう為やめたそうです。
孫左衛門にとっては主人の大石が自分の神であり、言ってみれば可音は神の子供ですから愛情はあっても邪な想いはない。
可音のひたすら孫左衛門に恋とも知らず恋をする少女の一途さがチャーミングだと思われたそうです。
ですから、外国受けを狙った訳では無いようでした…。
自分でもよく分からない文庫になりました…。
どうぞお許し下さいませ。
Re: No title
愛知女子さん、こんにちは。
そうですか、原作には可音に対して邪な想いを抱いて苦悩する部分なんてあるのですか。その部分を膨らませた方が面白そうな気もしますけど、削ってしまうとは脚色の妙ですね。跡形もなく削ったわけではなく、通奏低音として流れているようにも思いますが。
パンフレットって、そんなことまで書いてあるんですね。やっぱり買わなきゃダメだなぁ。
そうですか、原作には可音に対して邪な想いを抱いて苦悩する部分なんてあるのですか。その部分を膨らませた方が面白そうな気もしますけど、削ってしまうとは脚色の妙ですね。跡形もなく削ったわけではなく、通奏低音として流れているようにも思いますが。
パンフレットって、そんなことまで書いてあるんですね。やっぱり買わなきゃダメだなぁ。
No title
少し時間がたってから思うこととして、孫左の行動は腑に落ちます。
三代に渡り取り立ててくれた内蔵助は絶対的な主であり、彼から命じられた御用が済んだら、彼の元へ旅立つのは、とっても自然なこと。本当、完成した美学です。(私は嫌いですが)
だから、孫左が可音に色恋を感じる場面など無くて本当に良かったです。
ただ、おゆうさんとは恋があってもよかったと思いますが、それすら切り捨てた孫左はサムライ中のサムライであり、まあ、なんというか‥‥ それは大ばか者と呼んであげたいです。町人になっておゆうさんと幸せに生きていくという道もあったのになあ。
でもそれをすれば、水戸黄門漫遊記の結末みたいで、やっぱり可笑しいかもしれませんね。
ということで、映画は脚本そのものだ、ということに改めて思いを馳せています。上質の切り口を見せてくれた映画(脚本)でした。
三代に渡り取り立ててくれた内蔵助は絶対的な主であり、彼から命じられた御用が済んだら、彼の元へ旅立つのは、とっても自然なこと。本当、完成した美学です。(私は嫌いですが)
だから、孫左が可音に色恋を感じる場面など無くて本当に良かったです。
ただ、おゆうさんとは恋があってもよかったと思いますが、それすら切り捨てた孫左はサムライ中のサムライであり、まあ、なんというか‥‥ それは大ばか者と呼んであげたいです。町人になっておゆうさんと幸せに生きていくという道もあったのになあ。
でもそれをすれば、水戸黄門漫遊記の結末みたいで、やっぱり可笑しいかもしれませんね。
ということで、映画は脚本そのものだ、ということに改めて思いを馳せています。上質の切り口を見せてくれた映画(脚本)でした。
Re: No title
魚虎555さん、こんにちは。
討ち入り直前に逐電した瀬尾孫左衛門を、立派な赤穂浪士として描いたのが本作であり、であるならばあの最後は、おっしゃるとおり「自然なこと」でしょう。
しかしながら、やはり私は子規の言葉を思います。
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」
病床の子規の思いは如何ばかりか。
討ち入り直前に逐電した瀬尾孫左衛門を、立派な赤穂浪士として描いたのが本作であり、であるならばあの最後は、おっしゃるとおり「自然なこと」でしょう。
しかしながら、やはり私は子規の言葉を思います。
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」
病床の子規の思いは如何ばかりか。
ううーーん、で
ナドレックさんは、この映画を好き。。と思ったのか、否と思ったのか、どっちでしょう。
私は、気持ちはわかるけど、どうしても相容れないものを感じて、素直に見れませんでした。
でも、対象が外国人だった・・・と考えると、合点がいくような気もします。
私は、気持ちはわかるけど、どうしても相容れないものを感じて、素直に見れませんでした。
でも、対象が外国人だった・・・と考えると、合点がいくような気もします。
Re: ううーーん、で
この映画が好きかと問われると、好き…じゃないところが多々あります。人に勧めることはないでしょう。
ただ、悔しいことにボロ泣きしたのも事実で、もう「泣かせに来たな!」と判っているのに、手の上で転がされまくりました。
ただ、悔しいことにボロ泣きしたのも事実で、もう「泣かせに来たな!」と判っているのに、手の上で転がされまくりました。
No title
私は、ラストについては己を必要としている者(ゆう)のために再び生きていく、というハッピーエンドでもよかったか、とは思いつつもあのラストこそが孫佐の心に添うものであったと思います。
なぜなら、彼は己が死すべき時と思い定めた時にに死ねなかった者だから。
主命とはいえ、死に時を失ったがために武士の誇りも失い(最後に報われたものの)嘲りも受けたのです。主命を果たしたとき、やっと大石のもとに参ずることができる時が来たのです。
大石内蔵助との情死という見方には与しかねますが、可音に心が動くことがあろうとも、孫佐の心中は大石>可音だったのでしょう。
為すべきことをすべて為し心残りのない孫佐の心に、為したいことの未完を思い心残りのある子規の言葉を曳いても・・・と私は思います。
なぜなら、彼は己が死すべき時と思い定めた時にに死ねなかった者だから。
主命とはいえ、死に時を失ったがために武士の誇りも失い(最後に報われたものの)嘲りも受けたのです。主命を果たしたとき、やっと大石のもとに参ずることができる時が来たのです。
大石内蔵助との情死という見方には与しかねますが、可音に心が動くことがあろうとも、孫佐の心中は大石>可音だったのでしょう。
為すべきことをすべて為し心残りのない孫佐の心に、為したいことの未完を思い心残りのある子規の言葉を曳いても・・・と私は思います。
Re: No title
行けよポイントマンさん、こんにちは。
孫佐の心情はおっしゃるとおりでしょう。私もそう思います。
しかしその心情を察することは、自殺を肯定するものでしょうか。
これは江戸時代の物語…ではありません。映画の作り手は現代において史実にはない孫佐の人生を創作しました。現代の観客にこの物語を贈りました。主人公が自殺する物語です。
その真意は?観客に何を期待するのか?
孫佐の心情はおっしゃるとおりでしょう。私もそう思います。
しかしその心情を察することは、自殺を肯定するものでしょうか。
これは江戸時代の物語…ではありません。映画の作り手は現代において史実にはない孫佐の人生を創作しました。現代の観客にこの物語を贈りました。主人公が自殺する物語です。
その真意は?観客に何を期待するのか?
自殺を肯定する訳ではないですが
「汚くてもいいから生きていく」という生き方はおそらく現代的な人生観であって、「高潔な、自分に恥じない生き方をしなければ生きている理由がない」という武士らしい考え方を遂行出来るマゴザの強さに涙しました。
カネの母親が「侍はイヤだから町家に」というのは、そういう武士的な強すぎる心を忌避しての事でしょう。そして、マゴザは武士を捨てられない。周り全員が風評に乗ってるだけで皆、武士の格好で武士を捨てているのに。マゴザの揺れ動く心のさまがちゃんと描かれているだけに、それをおして踏み切る強さに打たれます。
カネの母親が「侍はイヤだから町家に」というのは、そういう武士的な強すぎる心を忌避しての事でしょう。そして、マゴザは武士を捨てられない。周り全員が風評に乗ってるだけで皆、武士の格好で武士を捨てているのに。マゴザの揺れ動く心のさまがちゃんと描かれているだけに、それをおして踏み切る強さに打たれます。
Re: 自殺を肯定する訳ではないですが
ふじき78さん、こんにちは。
> 「汚くてもいいから生きていく」という生き方はおそらく現代的な人生観
現代日本にそのような人生観が広まっているでしょうか。それが定着していれば、日本が自殺大国にはなっていないと思います。
> 「高潔な、自分に恥じない生き方をしなければ生きている理由がない」
このあと孫左衛門が生きていくと、それは「高潔でなく」「自分に恥じた生き方」になってしまうのでしょうか。
内蔵助に託された使命は果たしたのに。たとえば、赤穂浪士の供養をして生きたら、恥ずかしいのでしょうか。
そもそも大石内蔵助らが血判を提出して義盟を結んだのは、藩士一同の殉死をもってお家再興を嘆願するためだったはず。お家再興の望みが絶たれ、吉良邸への討ち入りに方針転換した時点で、殉死を誓った血判は意味がなくなっています。
そして討ち入り後に赤穂浪士が切腹したのは、幕府の評定により切腹を命じられたことによります。死罪とするか助命するか、幕閣でも意見の食い違いがあったといいますから、場合によっては赤穂浪士は切腹を命じられなかったかもしれない。少なくとも、討ち入りを終えた赤穂浪士は自主的に腹を切ることはせず、幕府に出頭しています。
ましてや、討ち入りに参加しなかった孫左衛門が切腹する必然性は、少なくとも理屈の上ではない。
私も、「このあと孫左衛門はのんびりと長生きしました」では締まりのない作品になってしまうと思います。
しかし、私たちはなぜ、理屈の上では必然性のない自殺に、共感し、感銘してしまうのでしょう。
「強さ」について述べるならば、私は「汚くてもいいから生きていく」方が強い生き方だと思います。「自分に恥じない生き方」を生きて全うすることこそ、強さではないでしょうか。
生死のいずれを選ぶかという問題については、以前『樺太1945年夏 氷雪の門』の記事でも触れました。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-154.html
はたして、死んだ電話交換手が強くて、生き続けた電話交換手は弱かったのか。
そんなことも考えずにはいられません。
> 「汚くてもいいから生きていく」という生き方はおそらく現代的な人生観
現代日本にそのような人生観が広まっているでしょうか。それが定着していれば、日本が自殺大国にはなっていないと思います。
> 「高潔な、自分に恥じない生き方をしなければ生きている理由がない」
このあと孫左衛門が生きていくと、それは「高潔でなく」「自分に恥じた生き方」になってしまうのでしょうか。
内蔵助に託された使命は果たしたのに。たとえば、赤穂浪士の供養をして生きたら、恥ずかしいのでしょうか。
そもそも大石内蔵助らが血判を提出して義盟を結んだのは、藩士一同の殉死をもってお家再興を嘆願するためだったはず。お家再興の望みが絶たれ、吉良邸への討ち入りに方針転換した時点で、殉死を誓った血判は意味がなくなっています。
そして討ち入り後に赤穂浪士が切腹したのは、幕府の評定により切腹を命じられたことによります。死罪とするか助命するか、幕閣でも意見の食い違いがあったといいますから、場合によっては赤穂浪士は切腹を命じられなかったかもしれない。少なくとも、討ち入りを終えた赤穂浪士は自主的に腹を切ることはせず、幕府に出頭しています。
ましてや、討ち入りに参加しなかった孫左衛門が切腹する必然性は、少なくとも理屈の上ではない。
私も、「このあと孫左衛門はのんびりと長生きしました」では締まりのない作品になってしまうと思います。
しかし、私たちはなぜ、理屈の上では必然性のない自殺に、共感し、感銘してしまうのでしょう。
「強さ」について述べるならば、私は「汚くてもいいから生きていく」方が強い生き方だと思います。「自分に恥じない生き方」を生きて全うすることこそ、強さではないでしょうか。
生死のいずれを選ぶかという問題については、以前『樺太1945年夏 氷雪の門』の記事でも触れました。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-154.html
はたして、死んだ電話交換手が強くて、生き続けた電話交換手は弱かったのか。
そんなことも考えずにはいられません。
もう一言
今はかなり壊れてきてますが、「命は大切」というのは、ちょっと前から武士の時代までそんなに違和感のない理屈だと思います。その大切な命を捨てて何かを成し遂げようとする、その心に泣かされるのでしょう。
そして、大切な命を捨てる行為を皆がして赤穂の名前を高めているのだから、同じ仲間の自分もやらずには申し訳ない。生きているだけで、赤穂に「悪名」を残すような生き方は申し訳ない。こんな感じじゃないでしょうか。
正しくはないかもだけど「名を惜しめ」という時代ですし。
そして、大切な命を捨てる行為を皆がして赤穂の名前を高めているのだから、同じ仲間の自分もやらずには申し訳ない。生きているだけで、赤穂に「悪名」を残すような生き方は申し訳ない。こんな感じじゃないでしょうか。
正しくはないかもだけど「名を惜しめ」という時代ですし。
こんばんは。
なるほど。
ここで『晩春』か…。
目から鱗です。
正岡子規の
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」
そして
「汚くてもいいから生きていく」方が強い生き方だと思います。
「自分に恥じない生き方」を生きて全うすることこそ、強さではないでしょうか。
どちらも嬉しい言葉ですね。
TB、ありがとうございました。
ここで『晩春』か…。
目から鱗です。
正岡子規の
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」
そして
「汚くてもいいから生きていく」方が強い生き方だと思います。
「自分に恥じない生き方」を生きて全うすることこそ、強さではないでしょうか。
どちらも嬉しい言葉ですね。
TB、ありがとうございました。
Re: もう一言
ふじき78さん、コメントありがとうございます。
> 大切な命を捨てて何かを成し遂げようとする、その心に泣かされるのでしょう。
もしもそういう展開だったら、判らないではありません。
ただ、内蔵助から託された使命を果たした後に命を捨てて何が成し遂げられるのか、ちょっと立ち止まって考えてしまうのです。
はたして、武士にとって名を惜しむとはどのような行動を指すのでしょう。
内田樹氏は『日本辺境論』の中で新渡戸稲造の『武士道』を紹介し、次のように述べています。
---
武士道を成文化した文書は存在しません。(略)それは結局「匂い」なのです。場を領する「空気」なのです。
---
元禄赤穂事件から300年、日本人は、赤穂浪士が切腹したことから来る空気に呑まれているのかもしれません。
切腹といっても、赤穂浪士は必ずしも自主的にやったわけではないし、ましてや本当に腹を切ったのは間新六郎くらいだったようですが。
> 正しくはないかもだけど「名を惜しめ」という時代ですし。
沖田艦長なら「明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ。」と云うかも:-)
> 大切な命を捨てて何かを成し遂げようとする、その心に泣かされるのでしょう。
もしもそういう展開だったら、判らないではありません。
ただ、内蔵助から託された使命を果たした後に命を捨てて何が成し遂げられるのか、ちょっと立ち止まって考えてしまうのです。
はたして、武士にとって名を惜しむとはどのような行動を指すのでしょう。
内田樹氏は『日本辺境論』の中で新渡戸稲造の『武士道』を紹介し、次のように述べています。
---
武士道を成文化した文書は存在しません。(略)それは結局「匂い」なのです。場を領する「空気」なのです。
---
元禄赤穂事件から300年、日本人は、赤穂浪士が切腹したことから来る空気に呑まれているのかもしれません。
切腹といっても、赤穂浪士は必ずしも自主的にやったわけではないし、ましてや本当に腹を切ったのは間新六郎くらいだったようですが。
> 正しくはないかもだけど「名を惜しめ」という時代ですし。
沖田艦長なら「明日の為に今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ。」と云うかも:-)
Re: こんばんは。
えいさん、こんにちは。
この映画のラストが、娘を送り出した男が家に一人たたずむカットで終わっていたら、どんな印象だったろうかと思います。
『晩春』と同じになってしまいますが、はたしてそこから先を映像で見せる必要があったのか…。
この映画のラストが、娘を送り出した男が家に一人たたずむカットで終わっていたら、どんな印象だったろうかと思います。
『晩春』と同じになってしまいますが、はたしてそこから先を映像で見せる必要があったのか…。
ツイッターのように短く言葉を返してみる
それが誰かはよく知らないんですが、「マシン六郎」って呼ぶ名前だったらかっこいいな、とか思った。
Re: ツイッターのように短く言葉を返してみる
ふじき78さん、こんにちは。
ちなみに新六郎は通称で、間新六郎の本名は間光風だそうです。一見では読めませんよね、これ。「かんこうふう」?
「はざま みつかぜ」さんなんだそうです。日本人の名前は難しい。
ちなみに新六郎は通称で、間新六郎の本名は間光風だそうです。一見では読めませんよね、これ。「かんこうふう」?
「はざま みつかぜ」さんなんだそうです。日本人の名前は難しい。
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『最後の忠臣蔵』('10初鑑賞165・劇場)
☆☆★-- (10段階評価で 5)
12月25日(土) 109シネマズHAT神戸 シアター2にて 14:15の回を鑑賞。
最後の忠臣蔵
 
赤穂浪士の討ち入りから16年。
大石内蔵助(片岡仁左衛門)から、生き証人として討ち入りの真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよとの使命を受けていた寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は、全国を渡り歩き...
最後の忠臣蔵
監督は 杉田成道。
原作は池宮彰一郎。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの後、
姿を消し、生き残った二名の男、
瀬尾孫左衛門、寺坂吉右衛門に、
焦点を当てた作品です。
主演は役所広司、佐藤浩市。
桜庭ななみ、山本耕史、笈田ヨシ、
伊武雅刀、安田成美等が共演。
討
最後の忠臣蔵
『生き尽くす。 その使命を、その大切な人を、守るために。』
コチラの「最後の忠臣蔵」は、池宮彰一郎の同名小説を映画化した12/18公開のセンチメンタル時代劇です。監督は、 ...
最後の忠臣蔵
『四十七人の刺客』などで知られる池宮彰一郎の同名小説を、テレビドラマ「北の国から」シリーズの演出を手掛けた杉田成道が映画化。
物語:赤穂四十七士の最後の生き残り・寺坂 ...
最後の忠臣蔵
最後の忠臣蔵'10:日本◆監督:杉田成道「北の国から」(TVシリーズ)「ラストソング」「優駿 ORACION」◆主演:役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ、山本耕史、風吹ジュン、安田成美 ...
「最後の忠臣蔵」感想
池宮彰一郎原作。年末時代劇スペシャルの定番「忠臣蔵」の後日談を、実力派・役所広司、佐藤浩市主演で映画化。 本作の影響で、悪役のイメージの強い吉良上野介義央だが、地元...
最後の忠臣蔵
『最後の忠臣蔵』を有楽町の丸の内ピカデリーで見てきました(ネタバレあり)。
(1)この映画はどうしても『十三人の刺客』と比べたくなってし...
最後の忠臣蔵
今年の映画は今年のうちに!第二弾・・・
最後の忠臣蔵 (上)
近年、主に藤沢周平の小説を原作とした正統派時代劇が積極的に映画化されていますが、それらにほぼ共通するのは封建制が成熟しきった江戸時代における「武士の生き様」を描いている点で、本作のテーマは、たとえば『必死剣 鳥刺し』のそれとほとんど差異はないでしょう。
最後の忠臣蔵 (下)
本作のテーマ表現のもうひとつの核となる武士の生き様についての描写もまた「美しさ」を伴って表現されていたということになると思います。『必死剣 鳥刺し』における「武士の生き様」は、そのレビューでも書いたとおり、ラストシーンの壮絶な殺陣に代表される剣によって
『最後の忠臣蔵』を新宿ピカデリースクリーン7で観て、涙ふじき☆☆☆☆
五つ星評価で【☆☆☆☆日本人ならこの映画を観て泣け】
この映画を観て泣かない奴はとりあえず鬼畜米英なので、明日から
「Hey JAP! めそめそスンナヨ。ちぇけ ...
『最後の忠臣蔵』
----昨日は、三が日の最後ということで、
三社詣りの後、フォーンも一緒に映画館へ。
でも、まさか正月からこんな映画を観るとは…。
討ち入り切腹なんて、あまりにも年始にふさわしくないよね。
フォーンはあきれちゃった。
「う~ん。
ぼくも監督がテレビ出身の杉田成道...
「最後の忠臣蔵」なんだかなぁ・・・
凄く面白くこの映画を見た方、感動した方は、気分を害する可能性があるので、読まないでください・・・。
幻視の共同体に殉じる美しさ~映画「最後の忠臣蔵」
?幻視の共同体に殉じる美しさ~映画「最後の忠臣蔵」 最近の時代劇はおしなべてできがいい。突出した作品はなくとも、そこそこのレベルが並ぶ。そして、それぞれの作品の共通項は「人間」である。「義」と「情」のかっとうの果てに、人間のアイデンティティを探る。 こ
「最後の忠臣蔵」
こりゃヒドい。粗製濫造気味である昨今の時代劇の中にあって、とりわけ質の低さが目立つシャシンだ。何より演出が最低。メリハリも何もなく、ただ漫然と面白くもない筋書きを追うのみ。監督の杉田成道はテレビ出身だが、まさに低視聴率に喘いだ挙げ句に1クールで終了...
「最後の忠臣蔵」
2010年/日本
監督/杉田 成道
出演/役所 広司
佐藤 浩市
桜庭 ななみ
池宮彰一郎の同名小説の映画化。主演は役所広司。・・・なんか、時代劇で役所広司ってよく観るなあ。「十三人の刺客」もそうだったよね。・・・私が観る邦画が時...
『最後の忠臣蔵』・・・ ※ネタバレ少々
2010年:日本映画、杉田成道監督、役所広司、佐藤浩市、桜庭みなみ、山本耕史、風吹ジュン、安田成美出演。
最後の忠臣蔵
『最後の忠臣蔵』 (2010・日本) 2h13 監督 : 杉田成道 出演 : 役所広司、桜庭ななみ、佐藤浩市、片岡仁左衛門、安田成美 最後の忠臣に与えられた使命。 色々有った上での最後のエピソードを見せられている感じ。 人形浄瑠璃とかいいからその色々有っ
「最後の忠臣蔵」
いいよねえ、演出も演技も美術も撮影もすべて堂に入ってて。
そうか?
あら、またあなたのあまのじゃくが始まった。近頃こんなかっちりとできた時代劇ないんじゃないの。
まあねえ、技術的には言うことないけどねえ。
じゃあ、何が気にいらないの?
忠臣蔵の討ち入り前夜...
最後の忠臣蔵
★★★★☆ 年配の人なら誰でも知っている忠臣蔵だが、それは主君の仇討ちのため、吉良邸に討ち入りするまでのお話であった。ところが本作は、生き残った二人の赤穂浪士の討ち入り後の話なのである。 一人は討ち入りを後世に伝え、残された遺族に支援金を与える役割を担っ
2010-40『最後の忠臣蔵』を鑑賞しました。
映画を鑑賞しました。秊 2010-40『最後の忠臣蔵』(更新:2010/12/26) 評価:★★★★☆ みなとみらいのワールド・ポーターズにあるワーナー・マイカル・シネマズで観賞しました。 『ノルウェーイの森』を観ようとしたら満席で…
十六年
映画【最後の忠臣蔵】/手前の願いはただひとつ
【最後の忠臣蔵】
監督:杉田成道
出演:役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ、安田成美
誰もが知る忠臣蔵の、誰も知らない二人の生き残り
「吉良邸討ち入りで死んだ46人、生き残った二人は16年後偶然出会う。
討ち入りの様子を後世に伝え、残された家族にひもじい思いをさせないために
「最後の忠臣蔵」
わが国の様々な美に溢れている。
もう遠い昔のように思えるが、かつて安倍晋三が首相だったとき、彼は「美しい国」という言葉をテーマに掲げていた。
政治のキャッチコピーとしては分かりづらい等の批判を浴びていたが、芸術の世界においてはこれほど武器になるものは...