『樺太1945年夏 氷雪の門』の圧力とは?
『樺太1945年夏 氷雪の門』という作品そのものについては、先日の記事で取り上げた。
ここでは、1974年3月に予定していた公開が中止された事情について触れておきたい。
1974年、東宝は幾つかの作品の公開を止めている。
ソ連からは、3本の映画について抗議があった。
『キネマ旬報』1974年4月下旬号に掲載の座談会「映画■トピック・ジャーナル」によれば、それは次の作品である。
『イワン・デニーソヴィチの一日』 NCC配給
『モスクワわが愛』 東宝配給
『樺太1945年夏 氷雪の門』 JMP配給
『イワン・デニーソヴィチの一日』は、1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンの処女作の映画化である。
その作家活動が国家反逆罪に当たるとされたソルジェニーツィンは、1974年2月にソ連を追放された。
もちろんこの映画は、ソ連の制作ではない。
イギリスとノルウェーの合作による『イワン・デニーソヴィチの一日』の日本での公開は、原作者の国外追放が世界中で話題になっていた時期だから、ソ連にとって面白いはずがない。
東宝は配給会社のNCCから興行を打診されていたが、ソ連からの日本で上映しないでくれという申し入れを受けて、こんな話題性が満点の作品なのに興行を断ってしまう。
『キネマ旬報』によれば、「モスフィルムが製作した『モスクワわが愛』が東宝配給ということがからんでいるから」だそうだ。
本作は、ソ連とのしがらみがない松竹系の劇場で公開されている。
『イワン・デニーソヴィチの一日』を犠牲にしてでも東宝が尊重しようとした東宝映画(東宝の制作子会社)とモス・フィルム合作の『モスクワわが愛』については、ソ連側が作品の一部をカットすると云いだした。
『キネマ旬報』は、「ソビエト側は、三角関係がオモシロくない、という。」「カットされたら話がつながらなくなる。日本側は頭を抱えている」と報じている。
そして『樺太1945年夏 氷雪の門』に関するソ連からの抗議については、「要するに第二次大戦の恥部には触れてくれるな、ということだと思う。」「契約としては単なる興行契約だけだったから、東宝はすぐにハズしたわけだ。反共映画だ、みたいな形で参院選などがからんだら、やっかいなことになるのを避けたのだろうね。」と報じている。
折りしも、1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙を控えた頃のことである。
『キネマ旬報』の同号の「日本映画紹介」コーナーには、公開作品として本作のあらすじが掲載されており、興行中止がいかに急な決定だったかが判る。
なお、『キネマ旬報』における本作の紹介記事は、このあらすじ紹介のみであり、興行中止がなければ座談会に取り上げられることもなかったはずだ。
独立プロの自主配給では、話題性に乏しかったのであろう。
この座談会では、東宝の姿勢に対し、「『モスクワわが愛』はちょっと違うけれども、後の二本はつっぱねたって、国交断絶になるわけでなし、妙に弱腰になると後で困るんじゃないかな」という意見もあるものの、「金持ちケンカせず、というところですよ」と結ばれている。
これだけでは、結びの発言の意味が不明だが、それは『キネマ旬報』1974年9月上旬号の座談会を読むと判る。
ここでは、東宝の関係会社である東京映画が制作した『太陽への挑戦』の公開見送り問題を取り上げている。
『太陽への挑戦』は、第10回参議院議員通常選挙で初当選した糸山英太郎氏をモデルにした映画だが、選挙違反事件を受けて東宝は公開を止めてしまった。
座談会の出席者からは、選挙違反事件の話題性を考えれば公開しない手はないとの声が強かったが、東宝の判断は次の事情によるのだろうとしている。
・このころ東宝は、『人間革命』『日本沈没』『華麗なる一族』のヒットに恵まれており、攻撃材料になるような映画を公開するくらいなら、多少の損には眼をつむっても波風を立てるべきではないと考えるだけの余裕があった。
・何よりも世論の袋叩きを恐れている会社である。よくいえば良心的、悪くいえば勇気がない。
・当時は社長が静養中で、森、馬渕両氏が社長代行をしている状況であった。
座談会では、「東映や日活だったら何の躊躇もなくやっちゃうんだろうが」として、8月に『樺太1945年夏 氷雪の門』を公開した東映の岡田茂社長の次の言葉を紹介している。
「『氷雪の門』はソビエト映画じゃない、日本映画なんだ。東宝や東映がやらなくても誰かが上映して、当然反ソ的な意味合いというものが出てくる。しかし大手にまかしておけば最初から喧嘩するようなことをやるはずがないじゃないか」
この言葉を受けて、座談会の出席者は、「東宝と東映の体質というのはすごい違いだ」と述べている。
以上の『キネマ旬報』の記事の他、当時は当たり前すぎて取り上げられていない世情を勘案すると、『樺太1945年夏 氷雪の門』の公開中止の背景として次のことが挙げられよう。
(1) 1973年10月からの第一次オイルショックにより、日本経済は大混乱。そんな中、1974年7月には参院選を控えていた(この参院選で、与党は大敗を喫することになる)。
(2) 1960年の日米安保条約の改定以来冷え込んでいた日ソ関係を打開すべく、1973年10月に17年ぶりの日ソ首脳会談が開かれた。ソ連は、二島返還の提案を撤回したままだったが、この会談でようやく北方四島の問題が未解決であることを日ソで確認したところである。
(3) 東宝には、スキャンダラスな興行になって、世間や圧力団体から叩かれることを恐れる体質があった。
(4) 当時の東宝は、ヒット作に恵まれており、関連会社が制作してみずからが配給する予定だった作品をお蔵入りさせてもこたえないだけの余裕があった。
ましてや、制作・配給は他社が行い、東宝としては興行契約を結んだだけの作品を外したところでダメージではなかった。
(5) ソ連から3本の映画について抗議を受けたが、東宝の子会社が制作し、みずから配給する予定の『モスクワわが愛』に比べれば、他の2本は東宝にとって重要ではなかった。
ところで、2010年の『樺太1945年夏 氷雪の門』リバイバル時のパンフレットの表紙には、こう書かれている。
36年前
ソ連の圧力によって
封印された幻の名作
そして、イントロダクションには次の記述がある。
---
当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。
---
しかし上に紹介したように、自粛したのは配給会社ではなく、興行会社としての東宝である。
また、私が参照した『キネマ旬報』1974年4月下旬号には、このパンフレット同様に「ソ連大使館から抗議」と書かれているが、ウィキペディアによれば「パーティーの席上、モスフィルム所長が苦言を口にした」のだという。
「ソ連の圧力」という文句から想像されるものと、パーティーの席で苦言を口にされたのとでは、ずいぶんイメージが異なる。
そもそも、当時のソ連にとっては、国外追放にしたソルジェニーツィン原作の『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がよほど刺激的だったのではないか。
それを公開した松竹には、何か不利益が生じただろうか。
せっかくリバイバルするのだから、1974年当時に何があったのか具体的に記しておければ、なお良かったろう。
ソ連という国はもう存在しない。したがって、「ソ連の…」「ソ連が…」と書いたところで、もう抗議してくる者はいない。
だからこそ、よりいっそう正確な記述が求められると思うのだが、いかがだろうか。
『樺太1945年夏 氷雪の門』 [か行]
監督/村山三男 脚本/国弘威雄 原作/金子俊男 助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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ここでは、1974年3月に予定していた公開が中止された事情について触れておきたい。
1974年、東宝は幾つかの作品の公開を止めている。
ソ連からは、3本の映画について抗議があった。
『キネマ旬報』1974年4月下旬号に掲載の座談会「映画■トピック・ジャーナル」によれば、それは次の作品である。
『イワン・デニーソヴィチの一日』 NCC配給
『モスクワわが愛』 東宝配給
『樺太1945年夏 氷雪の門』 JMP配給
『イワン・デニーソヴィチの一日』は、1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンの処女作の映画化である。
その作家活動が国家反逆罪に当たるとされたソルジェニーツィンは、1974年2月にソ連を追放された。
もちろんこの映画は、ソ連の制作ではない。
イギリスとノルウェーの合作による『イワン・デニーソヴィチの一日』の日本での公開は、原作者の国外追放が世界中で話題になっていた時期だから、ソ連にとって面白いはずがない。
東宝は配給会社のNCCから興行を打診されていたが、ソ連からの日本で上映しないでくれという申し入れを受けて、こんな話題性が満点の作品なのに興行を断ってしまう。
『キネマ旬報』によれば、「モスフィルムが製作した『モスクワわが愛』が東宝配給ということがからんでいるから」だそうだ。
本作は、ソ連とのしがらみがない松竹系の劇場で公開されている。
『イワン・デニーソヴィチの一日』を犠牲にしてでも東宝が尊重しようとした東宝映画(東宝の制作子会社)とモス・フィルム合作の『モスクワわが愛』については、ソ連側が作品の一部をカットすると云いだした。
『キネマ旬報』は、「ソビエト側は、三角関係がオモシロくない、という。」「カットされたら話がつながらなくなる。日本側は頭を抱えている」と報じている。
そして『樺太1945年夏 氷雪の門』に関するソ連からの抗議については、「要するに第二次大戦の恥部には触れてくれるな、ということだと思う。」「契約としては単なる興行契約だけだったから、東宝はすぐにハズしたわけだ。反共映画だ、みたいな形で参院選などがからんだら、やっかいなことになるのを避けたのだろうね。」と報じている。
折りしも、1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙を控えた頃のことである。
『キネマ旬報』の同号の「日本映画紹介」コーナーには、公開作品として本作のあらすじが掲載されており、興行中止がいかに急な決定だったかが判る。
なお、『キネマ旬報』における本作の紹介記事は、このあらすじ紹介のみであり、興行中止がなければ座談会に取り上げられることもなかったはずだ。
独立プロの自主配給では、話題性に乏しかったのであろう。
この座談会では、東宝の姿勢に対し、「『モスクワわが愛』はちょっと違うけれども、後の二本はつっぱねたって、国交断絶になるわけでなし、妙に弱腰になると後で困るんじゃないかな」という意見もあるものの、「金持ちケンカせず、というところですよ」と結ばれている。
これだけでは、結びの発言の意味が不明だが、それは『キネマ旬報』1974年9月上旬号の座談会を読むと判る。
ここでは、東宝の関係会社である東京映画が制作した『太陽への挑戦』の公開見送り問題を取り上げている。
『太陽への挑戦』は、第10回参議院議員通常選挙で初当選した糸山英太郎氏をモデルにした映画だが、選挙違反事件を受けて東宝は公開を止めてしまった。
座談会の出席者からは、選挙違反事件の話題性を考えれば公開しない手はないとの声が強かったが、東宝の判断は次の事情によるのだろうとしている。
・このころ東宝は、『人間革命』『日本沈没』『華麗なる一族』のヒットに恵まれており、攻撃材料になるような映画を公開するくらいなら、多少の損には眼をつむっても波風を立てるべきではないと考えるだけの余裕があった。
・何よりも世論の袋叩きを恐れている会社である。よくいえば良心的、悪くいえば勇気がない。
・当時は社長が静養中で、森、馬渕両氏が社長代行をしている状況であった。
座談会では、「東映や日活だったら何の躊躇もなくやっちゃうんだろうが」として、8月に『樺太1945年夏 氷雪の門』を公開した東映の岡田茂社長の次の言葉を紹介している。
「『氷雪の門』はソビエト映画じゃない、日本映画なんだ。東宝や東映がやらなくても誰かが上映して、当然反ソ的な意味合いというものが出てくる。しかし大手にまかしておけば最初から喧嘩するようなことをやるはずがないじゃないか」
この言葉を受けて、座談会の出席者は、「東宝と東映の体質というのはすごい違いだ」と述べている。
以上の『キネマ旬報』の記事の他、当時は当たり前すぎて取り上げられていない世情を勘案すると、『樺太1945年夏 氷雪の門』の公開中止の背景として次のことが挙げられよう。
(1) 1973年10月からの第一次オイルショックにより、日本経済は大混乱。そんな中、1974年7月には参院選を控えていた(この参院選で、与党は大敗を喫することになる)。
(2) 1960年の日米安保条約の改定以来冷え込んでいた日ソ関係を打開すべく、1973年10月に17年ぶりの日ソ首脳会談が開かれた。ソ連は、二島返還の提案を撤回したままだったが、この会談でようやく北方四島の問題が未解決であることを日ソで確認したところである。
(3) 東宝には、スキャンダラスな興行になって、世間や圧力団体から叩かれることを恐れる体質があった。
(4) 当時の東宝は、ヒット作に恵まれており、関連会社が制作してみずからが配給する予定だった作品をお蔵入りさせてもこたえないだけの余裕があった。
ましてや、制作・配給は他社が行い、東宝としては興行契約を結んだだけの作品を外したところでダメージではなかった。
(5) ソ連から3本の映画について抗議を受けたが、東宝の子会社が制作し、みずから配給する予定の『モスクワわが愛』に比べれば、他の2本は東宝にとって重要ではなかった。
ところで、2010年の『樺太1945年夏 氷雪の門』リバイバル時のパンフレットの表紙には、こう書かれている。
36年前
ソ連の圧力によって
封印された幻の名作
そして、イントロダクションには次の記述がある。
---
当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。
---
しかし上に紹介したように、自粛したのは配給会社ではなく、興行会社としての東宝である。
また、私が参照した『キネマ旬報』1974年4月下旬号には、このパンフレット同様に「ソ連大使館から抗議」と書かれているが、ウィキペディアによれば「パーティーの席上、モスフィルム所長が苦言を口にした」のだという。
「ソ連の圧力」という文句から想像されるものと、パーティーの席で苦言を口にされたのとでは、ずいぶんイメージが異なる。
そもそも、当時のソ連にとっては、国外追放にしたソルジェニーツィン原作の『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がよほど刺激的だったのではないか。
それを公開した松竹には、何か不利益が生じただろうか。
せっかくリバイバルするのだから、1974年当時に何があったのか具体的に記しておければ、なお良かったろう。
ソ連という国はもう存在しない。したがって、「ソ連の…」「ソ連が…」と書いたところで、もう抗議してくる者はいない。
だからこそ、よりいっそう正確な記述が求められると思うのだが、いかがだろうか。
『樺太1945年夏 氷雪の門』 [か行]
監督/村山三男 脚本/国弘威雄 原作/金子俊男 助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]


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ウィキペディア
記事本文を書いた2010年当時、本作に関するウィキペディアの記述はあっさりしたものだったが、2016年現在、「製作の経緯」「上映中止と上映館削減」「JMP役員の裏切り」「その後の波紋」等が記載され、たいへん充実がはかられていることを書き添えておく。
詳しくはウィキペディアをご覧いただくとして、ここには参考文献、脚注、注釈に挙げられた書誌を転記しておく。
・国弘威雄「戦争映画の難しさ」(のち国弘威雄著『私のシナリオ体験-技法と実践』1977年、映人社に加筆して収録)(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
・国弘威雄脚本「樺太一九四五年夏 氷雪の門」(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
・座談会「映画と政治の狭間で問われる表現の自由」(『シナリオ』1974年6月号、シナリオ作家協会)
・AVジャーナル1973年11月号、1974年7月号、1974年8月号
・「映画 北の舞台」(昭和55年(1980年)発行 朝日新聞北海道報道部編)
・『日本映画監督協会の五〇年』(柿田清二、1992年)
・『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(金子俊男、1972年)
・『死なないで!-一九四五年真岡郵便局「九人の乙女」』(川嶋康男文、大宮健嗣絵、1995年)
・『女たちの太平洋戦争 北の戦場樺太で戦った乙女たちの生と死』(谷川美津枝、1995年)
・『九人の乙女一瞬の夏-「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決』(1989年刊『「九人の乙女」はなぜ死んだか』の増補)(川嶋康男、2003年)
・「キネマ旬報」74年4月上旬号
・「週刊民社」昭和53年7月14日号
・第076回国会 参議院運輸委員会 第4号
・北海道新聞1973年4月28日夕刊
・北海道新聞1975年9月9日朝刊~17日朝刊、10月17日朝刊
・北海道新聞1984年4月13日朝刊
・報知新聞1974年3月9日
・ディリースポーツ1974年3月14日
・読売新聞1974年3月17日(日)18面記事
・サンケイ新聞1975年9月11日朝刊
・毎日新聞1975年9月12日朝刊、13日朝刊
・朝日新聞1975年11月18日夕刊
詳しくはウィキペディアをご覧いただくとして、ここには参考文献、脚注、注釈に挙げられた書誌を転記しておく。
・国弘威雄「戦争映画の難しさ」(のち国弘威雄著『私のシナリオ体験-技法と実践』1977年、映人社に加筆して収録)(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
・国弘威雄脚本「樺太一九四五年夏 氷雪の門」(『シナリオ』1973年8月号、シナリオ作家協会)
・座談会「映画と政治の狭間で問われる表現の自由」(『シナリオ』1974年6月号、シナリオ作家協会)
・AVジャーナル1973年11月号、1974年7月号、1974年8月号
・「映画 北の舞台」(昭和55年(1980年)発行 朝日新聞北海道報道部編)
・『日本映画監督協会の五〇年』(柿田清二、1992年)
・『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(金子俊男、1972年)
・『死なないで!-一九四五年真岡郵便局「九人の乙女」』(川嶋康男文、大宮健嗣絵、1995年)
・『女たちの太平洋戦争 北の戦場樺太で戦った乙女たちの生と死』(谷川美津枝、1995年)
・『九人の乙女一瞬の夏-「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決』(1989年刊『「九人の乙女」はなぜ死んだか』の増補)(川嶋康男、2003年)
・「キネマ旬報」74年4月上旬号
・「週刊民社」昭和53年7月14日号
・第076回国会 参議院運輸委員会 第4号
・北海道新聞1973年4月28日夕刊
・北海道新聞1975年9月9日朝刊~17日朝刊、10月17日朝刊
・北海道新聞1984年4月13日朝刊
・報知新聞1974年3月9日
・ディリースポーツ1974年3月14日
・読売新聞1974年3月17日(日)18面記事
・サンケイ新聞1975年9月11日朝刊
・毎日新聞1975年9月12日朝刊、13日朝刊
・朝日新聞1975年11月18日夕刊