『樺太1945年夏 氷雪の門』 生と死を分かつのは?

氷雪の門 【ネタバレ注意】

 「原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。」
 竹中正治氏は、日経ビジネス オンラインの記事で、このような日本的二分法の危うさについて述べている。
 「興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。」

 このような二分法は、日本人の考え方の端々に見受けられる。「けっこう」どころか、たいへん根の深い問題である。
 ただ、これは必ずしも日本人特有の考え方とは云えないかもしれない。
 この二分法の問題については、いずれ稿を改めて述べたいと思う。


 今回注目したいのは、竹中正治氏の記事に寄せられた次のコメントだ。
 「一度降伏したら、煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからないのにおいそれと降伏できるはずもなく、少しでも有利な条件を付けようと必死の覚悟で抗戦するのは当たり前です。」
 記事には、同様のコメントがいくつも付いている。

 映画『樺太1945年夏 氷雪の門』でも、「日本は無条件降伏したっていうじゃない!」と人々がショックを隠せない場面がある。

 『樺太1945年夏 氷雪の門』は、樺太の戦いの過酷な状況を題材としている。
 1945年6月に沖縄が戦火にさらされたことは日本人なら誰もが知るところだが、日本国内で戦場になった地として樺太もあることは、あまり認識されていないかもしれない。
 その理由は、沖縄と異なり今では日本の領土ではなく、住民たちが散り散りになっており、戦場の跡を自由に訪れるのも叶わないためだろうか。

 1945年8月9日に参戦したソビエト連邦は、南樺太に進撃した。当時、樺太には、戦火を避けて疎開している人も多かった。日本政府がソ連からの宣戦布告を受領したのは、翌日のことである。[*5]
 その攻撃は、日本がポツダム宣言を受諾してもなお止むことはなかった。日本から停戦のための軍使を何度送っても殺され、日本人と朝鮮人の婦女子を乗せた避難船は撃沈された。[*1][*2][*5]
 この映画は、ソ連軍が迫る中、樺太の電話網の維持に務めた電話交換手たちとその家族を描いた物語だ。
 電話交換手たちはみな若い女性であり、実際に舞台となった真岡郵便電信局では8月20日に9名が命を落としている。


 ただ、『樺太1945年夏 氷雪の門』は、樺太の戦いを描いた唯一の映画でありながら、あまり知名度が高いとはいえない。
 なにしろ、企画・制作に9年もかけて完成しながら、公開10日前になって上映が中止されてしまったのだ。ソ連が莫大な予算で東宝から映画の興行権を買い取ったのだという。その5ヶ月後、東映系にて劇場公開されるものの、それは北海道・九州での2週間のみの上映にとどまった。

 沖縄戦が『ひめゆりの塔』の大ヒットによって世間に認識された[*4]ことを考えると、本作が限定公開にとどまったために、映画のみならず樺太の戦いの存在を知らしめる貴重な機会が損なわれたといえる。

               

 本作を語る上では、いくつもの論点がある。
 たとえば次の点である。

 1. 1945年の樺太の戦いとはどのようなものだったのか。
 2. 1974年当時の映画の作り手(および日本人)は、戦争をどのように考えていたのか。
 3. なぜ、映画の公開を中止しなければならなかったのか。それで何を守れたのか、何を捨てたのか。

 1点目と3点目については、幾つもの文献や報道が存在する。
 一観客である私としては、2点目について考えてみたい(3点目については別記事参照)。

 ちなみに、1点目と2点目、すなわち樺太の戦いから映画公開までには、29年の歳月が流れている。
 2点目から現在までは、36年もの歳月だ。

 時が経てば、当時は判らなかったことも知り得るし、冷静に振り返ることができる……はずである。
 しかるに竹中正治氏の記事に寄せられた「一度降伏したら、煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」というコメントは、2010年に書き込まれたものである。
 「日本は無条件降伏したっていうじゃない!」というセリフは、1974年に書かれたものである。
 そして、1945年の状況については、ひめゆり学徒の生存者が次のように証言している。
---
米軍の船からは「穴にいる者は出てこい。泳げる者は泳いできなさい。傷ついた者は助けてやる。食べ物いっぱいあります」とマイクの呼びかけが続いていますが、捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺されると教えられていた女生徒たちには、それが悪魔の声に聞こえた
 ――島袋淑子さん・照屋菊子さんの証言[*4] 強調は引用者
---

 竹中正治氏は記事へのコメントについて、「無条件降伏という厳し過ぎる条件を要求した連合国が悪いという反論であろうが、悲しむべき無知である。」と述べている。
 そして、日本が受諾したポツダム宣言を引用して、こう述べている。
---
当時の軍国主義イデオロギーに比べると、なんと民主的で人権に配慮した宣言だろうか。
---

 竹中氏が無知と形容するのは、直接的には2010年のコメントを書き込んだ者に対してである。

 しかし、ポツダム宣言の内容については、1945年当時の人々も無知だったろう。
 1945年から2010年に至るまで、どれだけの人が正確に理解していたか。
 それは1974年の映画制作者とて同じだろう。

 なぜなら、本作を観るに、映画の作り手は歴史家として過去を冷静に振り返るよりも、死んだ電話交換手たちに同情し、その心情に共感しているからだ。
 もちろん、大衆向けの映画において、観客が共感できるように作るのは一般的なアプローチだ。
 とくに、本作の結末が悲劇的なものである以上、観客が9名の電話交換手に対して「かわいそう」という当たり前の感情を、抱けるようにする必要があったろう。
 しかし、真岡郵便電信局事件から29年を経たときに、そのような取り上げ方でいいのだろうか。

               

 9名の乙女はなぜ死んだのか?
 実は、彼女たちはソ連兵に撃たれたわけでも、砲撃の被害に遭ったわけでもない。
 悲しむべきことに、「捕虜になれば女の子は裸にされ」ると考えた彼女たちは、貞操を守るために服毒自殺したのである。
 「もうみんな死んでいます。私も乙女のまま潔く死にます。みなさん、さようなら……」
 9人目の自殺者は、真岡局から泊居局への電話回線を開き、このような言葉を残している。[*3]

 ちなみに、稚内公園に建てられた彼女たちの慰霊碑には、当初「日本軍の命ずるまま青酸苛里をのみ」と書かれていたそうだ。
 碑文を刻む際に、なぜ日本軍が命令したことにしたのかは判らない。軍部を悪者に仕立ててこと足れりと考える者がいたのかもしれない。
 いまでは、「今はこれまでと死の交換台に向かい(略)静かに青酸苛里をのみ」と書き換えられている。[*3]

 このような死は、真岡郵便電信局だけではない。
 樺太の大平炭鉱病院では23名もの看護師たちが自殺を図り、6名が亡くなった
 真岡中学の軍事教練助教官は、みずからの妻子4人と隣家の体育教官の妻子2人の首をはねた後、みずから割腹自殺しており、英語教諭は妻子4人を殺害後にカミソリで自刃している。[*3]
 米兵が上陸した沖縄でも、多くの人々が自殺した。
 まさに人々は、陸軍省の戦陣訓の本訓其の二 第八のとおりに行動したのだ。
---
「『生きて虜囚の辱めを受けず』――死んでも捕虜になってはいけないという、この戦陣訓の言葉が沖縄県民全体に大きな犠牲を強いました。とくに女子学生たちはそれを守りきりましたからね。」
 ――宮良ルリさんの証言[*4]
---


 『樺太1945年夏 氷雪の門』は、電話交換手たちの死で終わる。
 次々と服毒した彼女たちは床に倒れ、その美しい死に顔が、映画のクライマックスとなる。

 しかし、これだけでは「9名の乙女はなぜ死んだのか?」という問いに答えていない。
 映画では、重要なことが描かれていないのだ。

 なんと、同じとき、同じ場所にいたにもかかわらず、生き延びた人もいたのである。
 彼らの生死を分けたものはなにか?
 映画はそのことに触れない。

 村山三男監督は、1974年公開時のパンフレットで次のように述べている。[*3]
---
私は、この映画でソ連が悪い、日本が悪いなどと問題にするつもりはありません。互いに相手があっての戦争ですからね。むしろ戦争そのものの悲惨さの真実を描きたい。だから関係者という関係者には全部お会いしたといっても過言じゃない。お陰でノイローゼになりかけた
---

 関係者という関係者には全部お会いしたのなら、9名の乙女が死んだときに電話交換室にいた人の話も聞いたのではないだろうか。
 生存者がいたことは知らなかったのだろうか。

 1989年に出版された川嶋康男著『「九人の乙女」はなぜ死んだか』によれば、真岡郵便電信局から生還した職員は11名いる。彼らはソ連兵の捕虜となった。
 このうち5名が女性であり、さらに3名は電話交換手である。
 1945年8月20日、電話交換室には12名が勤務しており、9名だけが自殺したのだ。

 生き延びた電話交換手がいたことは、川嶋康男氏がその著書によって知らしめたことであり、1974年当時、村山三男監督らは知らなかったのかもしれない。
 あるいは、生き延びた3名の立場を考慮して、あえて映画では描かなかったのかもしれない(詳しくはコメント欄を参照)。
 
 いずれにしろ重要なのは、映画の作り手の思いが、服毒自殺した女性たちに重なっていることである。
 劇中、ソ連兵が来たら女性は何をされるか判らない、ということが繰り返し語られる。
 それは、戦時中から現代に至るまで蔓延する「捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺される」「煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」という恐れだ。
 いまもむかしも、我々日本人は戦争をこのように捉えているのだ。
 だから、追い詰められた彼女たちが死を選ぶのは仕方がない。映画はそう云っているように思える。
 同じ境遇にありながら電話交換手の生死を分けたもの、映画はそこには踏み込まず、避難民に「戦争は嫌だ」と叫ばせることで、すべては戦争のせいだと結論付ける。

 しかし、電話交換手の生死を分けたものはたった一つしかないのだ。

 それは毒を飲んだか飲まないかの違いである。
 生き延びた3名とて、積極的に毒を飲まないことを選んだわけではない。激しい砲撃と迫るソ連兵の恐怖に、身動きできなかったというべきかもしれない。
 確実なのは、服毒しなかった女性はソ連兵に凌辱されることもなく、戦後も存命であったことだ。

               

 日本人は、「捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺される」「煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」と考えていたが、これは同時に、立場が逆転すれば「捕虜にした女の子は裸にして、戦車でひき殺す」「煮て殺しても焼いて殺しても構わない」ということでもある。
 日本兵の行動を律するために公表された戦陣訓は、そもそも日本兵の放火、略奪、婦女暴行を止めさせるためのものであったという。
 若松孝二監督の『キャタピラー』でも、山村から中国に出征した男が、現地の女性を凌辱し惨殺する場面が何度も映し出される。

 このように、攻め入ったら放火、略奪、婦女暴行でも何でもする、攻め込まれたら放火、略奪、婦女暴行でも何でもされる、という考えが、竹中正治氏の云う二分法の背景にはあるのではないか。


 もっとも、停戦のための軍使を射殺したソ連軍とて、民主的で人権に配慮したポツダム宣言を理解していたのかは疑問である。
 ただ、9名の電話交換手に関していえば、角田房子氏の「酷な言い方だが、九人の交換手の自決はあまりに早かった」という意見[*2]に同感だ。
 当時の支配的な考え方からすれば、死を選ぶのは自然なことかもしれないが。

 いや、当時だけではない。

 先日の記事でも述べたとおり、現代日本は世界有数の自殺大国である。
 日本に自殺が多い理由について、WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士は次のように語ったという。
 「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。(略)自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。」
 同じように、英エコノミスト誌は次のように論評したという。
 「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。」

 「生き恥をさらす」という言葉がある。
 私たち日本人には、生き長らえることを恥ずかしいと思う文化がある。
 対語として「死に恥をさらす」という言葉もあるが、これが使われる例はあまり見ない。

 川嶋康男氏はその著書で、生き延びた電話交換手のその後について触れている。[*3]
---
生き残ったことが、それほど恥なのか――。
(略)
あるマスコミ人は、取材だといって真顔で「なぜ死ななかったのか」と、生き残ったことを逆なでするような質問を浴びせてきたという。
(略)
集団自決した「九人の乙女」の「死」と、その場で死ねなかった交換手の「生」とを対比させ、一方を「死の美学」を持って称え、他方を「敵前逃亡」のごとく蔑視するという旧体制の論理を賛美することにならないか。
---


 『樺太1945年夏 氷雪の門』のラスト、電話交換手たちの死に顔は美しい。
 しかし、いかに猛毒の青酸カリとて、1秒もたたずに即死するわけではない。死ぬまでに数分は要することから、映画とは違って、もがき苦しみ、断末魔の凄まじい形相となる。[*3]

 私は常々、日本映画が死を美しく描きすぎると思っている。
 本作は、電話交換手たちの死を美化せず、もっと苦しいものとして見せても良かったのではないか。
 遺族の感情を配慮したのかもしれないが、死は美しくなんてないことを示すのが、「戦争そのものの悲惨さの真実」を描くことではないかと思う。

 そして、交換手たちの死で終わる『樺太1945年夏 氷雪の門』は史実の一つの面に過ぎず、みずからの手で命を絶ったりしなければ生きながらえることもできるのだと、語り継ぐ必要がある。


[*1] 毎日新聞 1992年10月1日「ソ連軍の攻撃だった 終戦七日後サハリンからの避難船撃沈 潜水艦魚雷で 司令部報告に明記」[*2]
[*2] 角田房子 (1994) 『悲しみの島サハリン――戦後責任の背景』 新潮社
[*3] 川嶋康男 (1989) 『「九人の乙女」はなぜ死んだか』 恒友出版
[*4] 香川京子 (1992) 『ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ』 朝日新聞社
[*5] 2010年公開時のパンフレット 監修:藤村建雄


『樺太1945年夏 氷雪の門』  [か行]
監督/村山三男  脚本/国弘威雄  原作/金子俊男  助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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椰子の実

劇中、電話交換手たちが『椰子の実』を合唱するシーンがある。
『椰子の実』は心に沁みる名曲だが、作詞した島崎藤村は、戦陣訓の作成にも参画している。
なんたる皮肉か!

No title

私の論考を取り上げてくださり、ありがとうございます。
ナドレックさんの論考にも感銘致しました。

Re: No title

たけなか まさはるさん、こんにちは。
わざわざコメントをいただき恐縮です。
この記事は長くなりすぎたので割愛したことが幾つかあります。
それらもいずれ取り上げたいと思っております。
そのときにはまたご覧いただけると幸いです。

史実?

 真岡郵便電信局事件における電話交換手の数は、資料により異なる。
 各資料の発表年と死者数及び生存者数を整理すると、下のとおりである。


1965年 事件当時の真岡郵便局長・上田豊蔵著『"交換台に散った乙女"の真相』
    (『逓信文化』1965年4月号所収・『「九人の乙女」はなぜ死んだか』に全文収録)

    死者9名

1967年 事件当時の真岡郵便局物品主任・桜井千代子著『女交換手真岡に玉砕す』
    (『文藝春秋』1967年9月所収・『完本・太平洋戦争』に全文収録)

    死者9名 生存者3名(2名は実名、1名はNさんと表記)

1972年 金子敏男著『樺太一九四五年夏 ――樺太終戦記録――』(映画の原作)

    死者9名 生存者1名(氏名については触れず)

1974年 映画『樺太1945年夏 氷雪の門』3月の公開を中止。実際に公開したのは8月。

1989年 川嶋康男著『「九人の乙女」はなぜ死んだか』

    死者9名 生存者3名(3名とも実名で記載)


 1974年に公開された映画『樺太1945年夏 氷雪の門』が、企画・制作に9年をかけたというのは、上田局長が手記を発表した1965年からのことを指すに違いない。
 上田局長は、前年の1964年に歌謡曲『氷雪の門』がヒットしたことにより真岡郵便電信局事件について不正確な話が広まるのを懸念して、手記を発表したという。


 こうしてみると、映画制作時に生存者のいたことが判らなかったはずはない。
 なにしろ、原作にした『樺太一九四五年夏 ――樺太終戦記録――』に、少なくとも1名は生存者がいたことがハッキリ書かれているのだから。

 おそらく、生存者(とくにNさん)が、生き残りがいることを映画化するのに抵抗したのではないだろうか。
 それもあって、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』は実話と銘打ちつつ、青酸カリの入手経路や死亡時の状況等について創作している。


 上のように、各資料での死者数こそ変わらないものの、生存者がいたことは初期には伏せられており、明らかになってからも全員の実名はなかなか公表されなかった。
 それは、生存者本人が生き延びたことを公にしたくなかったためだろう。
 生き延びたために肩身の狭い思いをするとしたら、それこそ悲劇である。

No title

なかなか深い考察、感銘しました。

Re: No title

asaさん、コメントありがとうございます。
この映画を観るまで、樺太の戦いについてはよく知りませんでした。
しかし、題材が題材ですから、映画を観て終わりにもできませんでした。
歴史から学ぶものは多いと痛感する次第です。

ラストシーン

今日やっと映画を観ることができました。どなたかと感じたことを語り合いたかったところに、このような深い洞察を拝見させていただき感激です。
私は、ラストシーンに、慰霊碑の前に立つ年を重ねた男女が印象的です。なぜ、そのシーンを最後にもってきたのか。その二人の表情からどんなメッセージを汲み取ることができるか。
まだこだわっている私です。どうか、御意見お聞かせください。

Re: ラストシーン

 hideminさん、コメントありがとうございます。
 本作は、慰霊碑に始まり慰霊碑に終わる映画でしたね。
 映画の作り手が込めた想いは単純ではないでしょうが、私が一番感じるのは今を生きる者の責務です。
 慰霊碑を見つめる男女は、故人の冥福を祈るとともに、生きている自分たちがすべきことを決意しているようにも見えます。樺太の戦いのみならず、過去そして現在の戦争にまつわる出来事を昔ばなしに終わらせないこと、それが慰霊碑のシーンに込められているのではないでしょうか。

 私自身は、風化させてはいけないことと、風化させるべきことがあると思います。
 風化させてはいけないのは、過去の事実とその原因、是正策及び再発防止策等です。
 風化させるべきことは、主に感情的なものです。たとえソ連兵憎しと思っても、ソ連という国がすでにありません。後世の人間は、当事者にはできなかった歴史的な検証ができるのですから、感情を排して冷静に見つめる必要があるでしょう。

 すでに監督はじめスタッフの方々の多くが故人となられているので、本作を観る私たちは、慰霊碑を見る男女と同じ立場にあると思います。本作をどのように受け止めて、何を語り継いでいくか、それが私たちに問われるのだと思います。

No title

お返事ありがとうございました。慰霊碑に始まり慰霊碑に終わる・・・まさにそこにこの映画の格が在るのだと思います。共有化できたこと、嬉しく思います。 hidemin

No title

追記・・・格ではなく核でした。hidemin

Re: No title

>hideminさん

私もいずれ氷雪の門へ足を運びたいと思います。
そして、宗谷海峡の向こうの地をこの目で見たいと思っています。

映画同好会(名前検討中

レンタルで 借りて 見たいなぁ 

Re: 映画同好会(名前検討中

村石太マンさん、いらっしゃいませ。
さすがに本作はレンタルされていないようです。
販売はされていますよ。
Secret

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