『Fukushima 50』 ようやく現れた映画

『沈まぬ太陽』で渡辺謙さんと、『空母いぶき』等で佐藤浩市さんと組んだ若松節朗監督の、名優二人を中心に据えた群像劇は見事だった。
『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)は、スケールの大きさといい、ドラマの密度といい、日本映画屈指の作品であろうと思う。
アメリカ同時多発テロ事件――多くの犠牲者を出した2001年9月11日の大事件――から10年後の映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が、このテロ事件を真っ直ぐに取り上げているのを見て、公開当時、私は次のようにしたためた。
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(米国は、ここ数年発表された)比喩的な物語ではなく、ストレートにテロの遺族が主人公の映画を作れるほど事件から距離を置き、素材として扱えるようになるまでに10年を要した。
(1年前の)2011年の東日本大震災を映画にできるほど震災から距離を置き、素材として扱えるようになるには、どれだけの時を要するだろうか。
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東日本大震災から2年後に公開された『遺体 明日への十日間』は、震災から距離を置いて見るとか、素材として扱うこととは正反対の映画だった。そのときはまだ、映画を作り、上映することそのものが死者への弔いであり、ご遺族と悲しみを分かち合うことだった。
2011年3月11日の大地震と大津波から9年後、2020年3月6日にその映画は現れた。
地震と津波が引き起こした福島第一原子力発電所の事故と、決死の覚悟で事故対応に当たった人々――一時期、現場の作業員が約50名になったことから「フクシマ50」と通称される――を描いた『Fukushima 50』だ。
本作の上映中、涙が止まらなかったのは、家族への愛情が、人と人との思いやりが、映画の中に溢れていたからだ。
家族とのあいだにだって、いや、否応なく顔を合わせる家族だからこそ、いさかいがあったりギスギスしたり、やりにくいことがあったりもする。けれども、死を目前にしたときに家族に書き残す言葉は、温かで、愛に溢れている。
作業員一人ひとりに家族がいる。その家族一人ひとりに、言葉に尽くせない思いがある。決死の行動に出る際に、結婚指輪を残していこうか付けていこうか逡巡する作業員。誰もが、お互いのこと、その家族のことを気づかい思いやる姿に、私は涙を止めようがなかった。
一方で、本作は湿っぽくなりすぎず、たいへん面白い娯楽作に仕上がっている。これはとても大事なことだと思う。
以前、韓国映画『戦火の中へ』を取り上げて、朝鮮戦争中の悲惨な実話を扱ったこの作品が、悲しさ辛さを描くばかりではなく、抜群に面白いアクション映画でもあることを紹介した。
韓国映画には、極めて政治的だったり、悲惨だったり、リアルな問題だったりを取り上げても、同時にエンターテインメント性たっぷりで観客を楽しませる作品が少なくない。『タクシー運転手 約束は海を越えて』なんて、多くの民間人が殺された光州事件の悲劇を描きながら、クライマックスは大挙して登場したタクシーのカーチェイスになってしまう。カーチェイスのシーンがなくたって充分に楽しめるし、光州事件の悲惨さの前にはカーチェイスの軽やかさがかえって浮いているようにも感じるのだが、どんなに重いメッセージを扱おうとも、観客は歴史を学びに来ているのでもなければ政治運動のために来ているのでもないのだからまずは楽しませようと工夫する韓国映画のスタンスには頭が下がる思いだった。

一見してお判りのように、本作はパニック映画の定石を踏んでいる。
高層ビルの大火災を描いた『タワーリング・インフェルノ』(1974年)あたりを思い出していただくと良いだろう。高さ10メートルを超える大津波などあるはずがないと慢心しているところに大津波が襲ってSBO(Station Blackout:全電源喪失)が起こってしまうところとか、現場に襲いかかる第二第三の危機とか、複数の対策を並行して進めても、どれもなかなか功を奏さないところとか、トップが無能で現場に更なる負担を強いることとか、脚本家が映画のためにこしらえたストーリーのように話が進む。
もちろんこれは脚本家が映画のためにこしらえたストーリーなのだが、実話をベースにしながら娯楽映画の定石を外さないから、迫真性と面白さが両立している。
東日本大震災と福島第一原子力発電所事故は日本の歴史上まれに見る大災害だから、これまでにないパニック大作がつくれることは映画人なら誰しも思ったはずだ。しかし、事故の重さや遺族の気持ち等々を考えると、エンターテインメント性の追及はためらわれる、というのが正直なところだったろう。
だからこその9年の歳月であり、その歳月があればこその距離の取り方であろうと思う。
災害の迫力や、危機また危機の連続がもたらす緊迫感、官邸や東電本店の混乱を描く一方で被災者や作業員(原発の作業員もまた被災者である)やその家族たちに目配りするそれらすべてが、本作をズッシリとした重みがありながら"面白い"映画にしている。
言うまでもなく、たった122分の映画であの大災害のすべての面を描くことはできない。『Fukushima 50』は2011年3月11日からのわずか数日間の出来事を描いたにすぎないし、その数日間の出来事でさえ、作り手は取捨選択を繰り返さなければならなかったはずだ。
それゆえ、東日本大震災を題材にした作品がもっともっと作られて、本作とは違う角度から描く映画や、本作が扱えなかった出来事を知らしめる映画が世に出ていくといいと思う。
同じ原作者の本に基づいた『日本のいちばん長い日』でさえ、ほぼ一日のことを描いた1967年版とそこに至る数ヶ月をも描いた2015年版とでは印象も情報もまったく違った。東日本大震災にしても、そこに至る数年間やそこからの数年間等、取り上げるべきことはたくさんある。
だからこそ、エンターテインメント性も兼ね備えた本作が公開された意義は大きい。映画は商業的に成功しなければ後が続かないからだ。
本作以上にエンターテインメント寄りの映画が出てきてもいいし、より深刻なタッチになっても良いと思う。
これまでにも東日本大震災や原発事故を扱う映画がないわけではなかったが、どちらかというと小規模な公開に留まっていた。
本作の公開を機に、様々な作品がより一層あの出来事を掘り下げて、これからも人々の記憶に残し続けることが大切であろうと思う。

監督/若松節朗 脚本/前川洋一
出演/佐藤浩市 渡辺謙 吉岡秀隆 緒形直人 火野正平 平田満 安田成美 佐野史郎 富田靖子 吉岡里帆 段田安則 篠井英介 田口トモロヲ 津嘉山正種 萩原聖人 堀部圭亮 小倉久寛 泉谷しげる 斎藤工 ダンカン 中村ゆり
日本公開/2020年3月6日
ジャンル/[パニック] [ドラマ]

『荒野の用心棒』と『用心棒』は天と地の違い

傑作をリメイク・翻案すればそれもまた傑作になるほど、世の中あまくはない。
せっかくリメイクするなら、元になった作品の魅力を寸分たがわず再現すれば良さそうなものなのに、物語を膨らませたり削ったり、「現代風」にしてしまったりと、原作からずいぶん変えてしまうことが少なくない。
映画プロデューサーの松江陽一氏がかつて語ったところでは、「アメリカのシステムで、作品にシナリオライターのクレジットがつくためには、その脚本の根本的な改革をやらなければいかんということがある」のだとか[*1]。
これは、黒澤明、菊島隆三、小国英雄という最強脚本家チームが書いた脚本を米人脚本家がガタガタにしてしまった『暴走機関車』を指しての発言だが、アメリカに限らず、いらぬ手直しをしたばっかりにもともとの魅力を損なう例は少なくない。
黒澤明監督の映画は傑作名作ばかりだから、リメイク・翻案されることもしばしばだ。ちゃんと面白い映画になることもあるが、いかんせん元の黒澤映画が素晴らし過ぎるので、どうにも物足りないのは致し方ない。
ところが、黒澤映画の中でもとりわけ面白い部類の『用心棒』(1961年)をリメイクし、『用心棒』に負けず劣らず――いや、ことによると『用心棒』以上に――面白い映画に仕立て上げたのがセルジオ・レオーネ監督だ。
出来た傑作が『荒野の用心棒』(1964年)。
なにしろクリント・イーストウッドがかっこいい!
エンニオ・モリコーネの音楽に痺れる!
汗みどろの男のクローズアップを連発するセルジオ・レオーネの演出のねちっこさ!
どれをとってもいかしている。
『荒野の用心棒』を観ると再び『用心棒』を観たくなり、『用心棒』を観るとまた『荒野の用心棒』を観たくなってしまうから切りがない。この二本を交互に観つづけるだけで、一生楽しめそうである。
■『用心棒』にとことんそっくり
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一つの町に二人のボス。二つの勢力の殺し合いが続く中、どちらの勢力にも与しない居酒屋はすっかり寂れ、儲かってるのは隣の棺桶屋ばかり。そんな町に、氏名不詳の凄腕の男がやって来る――。
登場人物はほぼそのままだし、人物関係もストーリーもほぼ同じ。広場を挟んで二つの勢力の根城があり、その真ん中に居酒屋が位置するオープンセットの作りまでよく似ている。
とはいえ、『用心棒』は時代劇だが『荒野の用心棒』は西部劇。黒澤明監督は『用心棒』を撮るに当たって「西部劇の文法に学ぶ」気持ちで臨んだそうだが[*2]、いくら西部劇っぽかったとしても、時代劇を西部劇としてリメイクするには変えざるを得ないところもある。
『用心棒』は刀で斬りあうが、『荒野の用心棒』は銃で撃ち合う。刀しか持たない『用心棒』の主人公にとって卯之助が持つ拳銃は脅威だが、みんなが拳銃を持つ『荒野の用心棒』では、卯之助に相当する人物ラモンの得物はライフルだ。
刀で斬れば静かに殺せるから、『用心棒』では亥之吉が知らせるまで事件の発生を誰も気づかないが、銃での殺しは誰もが音で気づくので、『荒野の用心棒』では誰かが知らせる必要はない。だから、『用心棒』と『荒野の用心棒』とでは事件の現場にいる人物が変わってくるし、そこに至るシチュエーションも、主人公の行動も変わってくる。
『用心棒』と『荒野の用心棒』を比べると、そういう変化は随所に見られる。
変えざるを得ないところがあってもストーリーは同じままに保とうとして、無理が生じることもある。
『用心棒』の登場人物が徒歩で移動するのに対し、『荒野の用心棒』では馬での移動が基本だ。馬だと徒歩よりはるかに早く移動できてしまうのに、『荒野の用心棒』では『用心棒』と同じように移動に時間をかけているため、町はずれの事件現場がべらぼうに遠い場所に感じられる。
こんなに遠いと、銃撃があっても誰にも聞こえないのではないかと心配になるが、たとえ描写が不自然になろうとも、『荒野の用心棒』は『用心棒』の面白いストーリーをとことん大事にする。その心掛けはリメイクの鑑といえよう。
問題は、『荒野の用心棒』作り手が、『用心棒』をリメイクする許可を得ていなかったことだ。

だが、『荒野の用心棒』は、『用心棒』という著作物を、そっくりそのまま『荒野の用心棒』なる著作物に仕立てたものだった。各場面の流れも俳優の動きもセリフ回しも、極めて忠実に再現していた。
『荒野の用心棒』の公開後、セルジオ・レオーネ監督の許に、『用心棒』の二人の脚本家、黒澤明監督と菊島隆三氏の署名つきの手紙が届いた。
'Signor Leone — I have just had the chance to see your film. It is a very fine film, but it is my film. Since Japan is a signatory of the Berne Convention on international copyright, you must pay me. — Akira Kurosawa.'
(レオーネさん―私はあなたの映画を見る機会がありました。とてもすばらしい映画です。しかし、それは私の映画です。日本は国際的な著作権に関するベルヌ条約の加盟国ですから、あなたは私に支払いをしなくてはなりません。 ―黒澤明)
この頃すでに国際的な映画賞をたくさん受賞して高名だった黒澤監督から「すばらしい映画」と書かれた手紙を受け取ったセルジオ・レオーネ監督は、大喜びしたという。
しかし、これは著作権を巡る争いのはじまりだった。『荒野の用心棒』の制作陣は『用心棒』の製作会社である東宝に訴えられ、巨額の示談金を払うことになる。
なお、後年黒澤明監督は、『荒野の用心棒』を振り返って次のように語っている。
「イタリア製の『荒野の用心棒』、あれは不愉快だったから、当時ぼくは見ませんでした。今にいたるまで見てない。」[*3]
ちなみに、メチャクチャかっこいい『荒野の用心棒』のオープニング曲『さすらいの口笛』(原題「Titoli」)は、エンニオ・モリコーネが歌手ピーター・テーヴィスのためにアレンジした『Pastures of Plenty』(1962年)から、テーヴィスの歌声部分を取っ払って流用したものだ。
テーヴィスは、『さすらいの口笛』は自分の曲からのコピーだと主張したという。
■面白さは『用心棒』以上かも

なにしろ『用心棒』に負けず劣らず――いや、ことによると『用心棒』以上に――面白いのだ。
『隠し砦の三悪人』が典型的だが、黒澤明監督は、主人公たちに次々と難題が降りかかる、先の読めない面白さを得意とする。だが、それは同時に、観る者に物語が行き当たりばったりであるかのような印象も与えてしまう。
『用心棒』も面白い映画ではあるが、伏線も何もなしに唐突なエピソードが出てきたり、話の流れが突然ねじ曲がったり、すり変わったりする。
対立する一方の勢力、丑寅一家は、兄・丑寅と弟の亥之吉が率いるヤクザだと思って観ていたら、中盤でもう一人の弟・卯之助(仲代達矢)が急に現れて三兄弟で一家を構えいることが判ったりする。意外性があって面白いといえば面白いが、『姿三四郎』でライバル檜垣源之助を倒したら『續姿三四郎』で檜垣の弟が続々出てきた支離滅裂さを思い出さないでもない。
徳右衛門の愛人ぬいの登場も唐突だ。観客はぬいのことを知らないから、なぜぬいを人質にとっただけで形成が逆転するのか判らない。
その点、『荒野の用心棒』は、後々の展開を予感させる伏線を張り巡らせ、観客の興味をそそり続ける。
卯之助に相当する弟ラモンは、やはり序盤にはいないけれど、みんながラモンの噂話をするので、かえってラモンの不在が強く印象づけられる。ぬいに相当する美女マリソルも冒頭から登場し、その謎めいた存在感で観客の興味を引く。
しかも、『用心棒』では二つの勢力の対立がじょじょに深まる様子を丁寧に描いたが、丁寧過ぎていささかまだるっこしかった。
そこを『荒野の用心棒』はスッパリ端折っている。
『用心棒』では、対立が深まると思えば膠着状態に陥り、膠着状態を打開しようと権謀術数を巡らせる段階があったけれど、『荒野の用心棒』は膠着状態なんかすっ飛ばして、銃撃戦になだれ込むのだ。乱暴と云えば乱暴だが、とにかくスピード感があって、テンポがいい。
『荒野の用心棒』が登場人物を刈り込んで、人物関係をシンプルにしたのも功を奏している。
『用心棒』では清兵衛一家と丑寅一家の対立が物語の中心だが、清兵衛一家には名主の絹屋多左衛門が肩入れし、丑寅一家には造酒屋の徳右衛門が肩入れすることで、ヤクザ同士の抗争と富豪の主導権争いという社会の裏と表の対立が描かれていた。このいささか複雑な構図を、『荒野の用心棒』ではバクスター一味とロホ兄弟の対立だけに絞ることで、判りやすくしている。登場人物が少ないということは、登場人物一人ひとりを紹介したり、その位置づけを説明する場面を割愛できるわけだから、映画はますますスピーディーになる。
構図の簡素化の最たるものは、真の敵をラモス一人に絞り込んだことだ。
『用心棒』では、悪知恵を巡らせるのが丑寅、主人公を圧倒する武器――回転式拳銃――を持つのが卯之助、ぬいを愛人にして隷属させるのが徳右衛門と、奸計・暴力・背徳をそれぞれ別の人物に代表させた。だが『荒野の用心棒』では、悪巧みするのもラモス、ライフルで主人公を圧倒するのもラモス、マリソルを愛人にするのもラモスだ。
ラモスの兄ミゲルは、一味のボスなのに可哀想なほど影が薄い。だが、ラモスの印象があまりにも強烈だから、そんなことは気にならない。
両作は、映画全体のトーンも異なる。
『用心棒』は切った張ったの世界でありながら、全体的には喜劇だ。佐藤勝氏の剽軽な音楽に乗せて、誰も彼もが滑稽でバカな役を演じている。深刻そうなのは、居酒屋の親爺くらいだ。
黒澤監督は自作をこう語っている。
「『用心棒』はむしろある意味では喜劇です。だいたいこんなばかな話はない。隣に棺おけ屋がいたりね。設定からして、実に喜劇的です。出てくるやつらといえば、みんなそれぞれ、りこうそうな顔をして、じつは全員抜けている。仲代にしても、粋なかっこうはしているけれども。そうそう、仲代がやってたマフラー、あれ、イギリス製ですからね。ともかくある意味でメチャクチャなんだ。ドラマだって、分析していったら穴だらけでしょう。それをただ一気に、おもしろがらせておしまいまで見せてしまう。その徹底的に楽しさだけを追及していく作品、それもまた映画なのだと思うんです。」[*3]
他方、『荒野の用心棒』に剽軽さなんてない。誰一人として滑稽な演技はしない。そこにあるのは、血生臭い、争いばかりだ。
どちらのトーンを好むかは人それぞれだが、少なくとも滑稽なセリフや喜劇的なシチュエーションはスピード感を削いでしまうから、テンポの良さとスピード感を重視するなら『荒野の用心棒』に軍配が上がる。
■『用心棒』とはまったく違う映画

しかし、両作の最大の違いはその世界観だ。作り手が描こうとする世界のありさまがかけ離れているために、両作を交互に観れば飽きが来ないほど、大きな振幅をもたらしている。
両作を決定的に分かつもの――。
それを象徴するセリフがある。
夫の小平、幼子の金助と引き裂かれ、徳右衛門の愛人にされたぬい。たまたま彼らの境遇を知った主人公は、ぬいの監禁された家に単身乗り込み、機転と剣の腕とで一家を解放する。『用心棒』中盤の見どころだ。
その場面で、こんな言葉が交わされる。
主人公に感謝し、土下座する小平、ぬい、金助。
主人公「ばか! 何をグズグズ……。」
土下座し続ける三人。面を上げない。
主人公「やめろ! 哀れな奴は大嫌いだ!メソメソしてやがると叩っ斬るぞ!」
一家は土下座したまま動かない。
主人公、丑寅たちがやってくるのを気にしながら「ええい、丑寅だぞ。」小平を無理矢理立ち上がらせて、金を持たせる。「失せろ!」
小平「では、お礼はまた改めて。」
主人公「ばか! 二度とこんなところへ来るんじゃねえ。」
小平「ありがとうごぜえます。ありがとうごぜえます。」
一家は、夜の闇に消えていく。
主人公「ばか! 何をグズグズ……。」
土下座し続ける三人。面を上げない。
主人公「やめろ! 哀れな奴は大嫌いだ!メソメソしてやがると叩っ斬るぞ!」
一家は土下座したまま動かない。
主人公、丑寅たちがやってくるのを気にしながら「ええい、丑寅だぞ。」小平を無理矢理立ち上がらせて、金を持たせる。「失せろ!」
小平「では、お礼はまた改めて。」
主人公「ばか! 二度とこんなところへ来るんじゃねえ。」
小平「ありがとうごぜえます。ありがとうごぜえます。」
一家は、夜の闇に消えていく。
『荒野の用心棒』でも、夫のフリオ、幼子のヘススと引き裂かれ、ラモンの愛人にされているマリソルの境遇を知った主人公は、マリソルの監禁された家に単身乗り込み、一家を解放する。
だが、そこでのやりとりは、『用心棒』とは決定的に違う。

主人公「この金を持ってけ。しばらく食える。国境を越えろ。できるだけ遠くへ行け。」
フリオ「どうお礼を言ったら。」
一家の背中を押す主人公「礼はいい。早く行くんだ。」
マリソルは振り返って「どうして親切に?」
主人公「どうして? 昔、助けられなかった女がいた。行け。」
マリソル「……。」
主人公「行くんだ。早く逃げろ。」
フリオ「どうお礼を言ったら。」
一家の背中を押す主人公「礼はいい。早く行くんだ。」
マリソルは振り返って「どうして親切に?」
主人公「どうして? 昔、助けられなかった女がいた。行け。」
マリソル「……。」
主人公「行くんだ。早く逃げろ。」
『用心棒』の主人公は悪党たちを叩っ斬り、弱い者たちを助けるが、そのわけを誰も尋ねない。主人公も語らない。
一方、『荒野の用心棒』では一度だけ、この場面で主人公の行動の理由が問われている。『用心棒』の主人公以上に寡黙で、本音を語らず行動する『荒野の用心棒』の主人公が、マリソルの「どうして親切に?」という問いに答えてただ一度、胸の内を口にする。
このセリフから判るのは、『用心棒』と『荒野の用心棒』が、同じストーリー、同じような人物関係に基づいて作られながら、主人公の行動原理がまったく異なっていることだ。
『用心棒』の主人公の行動に、劇中の誰もその理由を訊かないのは、訊く必要がないからだ。主人公が語らないのも、語る必要がないからだ。訊かなくても、主人公が語らなくても観客には判る。
『用心棒』の主人公は、しばしば櫓の上に昇り、清兵衛一家と丑寅一家が争うのを楽しそうに眺めている。彼の眼下で、ヤクザたちは殺し合い、死んでいく。これぞまさに「高みの見物」だ。
死ぬのはヤクザだけではない。名主である絹屋も、敵対した造酒屋も、争いに加わった者たちはことごとく命を落とし、あるいは正気を失ってしまう。かつては絹市で潤っていた町も、もうおしまいだ。
これほどの殺戮を引き起こし、町を崩壊させたのは自分でありながら、『用心棒』の主人公は「さて、これでこの宿場も静かになるぜ。」とひとりごちて去っていく。
こんな真似は、並みの人間にはできない。悪人だから殺し合いをさせていいとか、思いどおりに殺し合いがはじまったら楽しいなんて、並みの人間の感覚ではない。
そう、櫓の上から人間たちのぶざまな殺し合いを眺める『用心棒』の主人公は、「天」なのだ。人間を超越した強さを持ち、弱い者は無条件で助け、悪党どもは根絶やしにする。彼こそはヒューマニズムの権化。善がヒトの姿となって降臨した超人だ。
黒澤監督は『乱』(1985年)の製作発表の席で「天の視点から、人間のやっていることを俯瞰の目で描きたい。」と語り、愚かにも殺し合い、次々に死んでいく人間たちの世のはかなさ、虚しさを描いたが、四半世紀近く前の『用心棒』ですでに「人間のやっていることを俯瞰の目で」見る「天の視点」を描いていたのだ。
死屍累々たる町を俯瞰する構図の、なんと虚しく殺伐としたことか。両陣営の対立がじょじょに深まっていく様子は喜劇調であっただけに、殺し合いを続けた挙句、とうとう人の姿が消えてしまった町の寒々しさはひとしおだ。冷戦下の1955年に、『生きものの記録』でエスカレートする核兵器開発競争の恐怖を描いた黒澤監督であるから、本作における二大勢力の殺し合いのエスカレートもまた、東西両陣営が軍拡競争を続けた冷戦構造を思わせる。
この主人公から見れば、人間はみんな醜く弱い生き物だ。
清兵衛一家や丑寅一家、絹屋の多左衛門や造酒屋の徳右衛門ばかりではない。主人公に助けを求められた棺桶屋は怖気づいて逃げてしまうし、居酒屋の親爺は中立と云えば聞こえはいいが、要は何もしようとしない。
小平がぬいを奪われたのは、そもそも小平が博打に手を出して借金を作り、その借金のカタに家もぬいも取られたからだ。おめおめぬいを奪われながら、ぬいのためにも子供のためにも何もしないでしょんぼりするだけの小平もまた、超人たる主人公には腹立たしい存在だ。
ぬいはぬいで、主人公がせっかく助けに行っても、腰を抜かして逃げることもできやしない。主人公に「ばか!」と怒鳴りつけられて、引きずり出される始末だった。
こんなどうしようもない人間どもを前にして、天から降臨した超人が大掃除をして去っていく。それが『用心棒』という映画の構図だ。天は強くて善なるものであり、地上は醜く弱い者たちの世界だ。「天」に掃除してもらわなければ、地上がきれいになることはない。

棺桶屋は殺し合いのただ中で平然と主人公を助ける度胸があるし、居酒屋の親爺は弱い者を守るためにみずから銃をとり、自分よりも強い相手に立ち向かう。
フリオがマリソルを奪われたのは、イカサマをしたとラモスに難癖を付けられたからで、女房を手放すほど借金を作ったわけじゃない。フリオがマリソルを奪い返そうとしないのは、子供を殺すを脅されているからだ。自分からぬいをくれてやったんだとうそぶく小平とは大違いだ。
マリソルも見上げたもので、助けに来た主人公の後ろに敵がいることを教えて主人公を救ってくれる。彼らは醜くもなければ弱くもない。
『荒野の用心棒』の主人公も、超人でもなんでもない。凄い早撃ちではあるけれど、ただそれだけのことで、天上から人間たちを見降ろしているわけではない。彼が町にいるのは、バクスター一味とロホ兄弟のあいだを巧く立ち回って金を得たいからだ。マリソルと関わったのも、ロホ兄弟の留守宅に忍び込んで金のありかを探っているときに、偶然彼女と出くわしたからに過ぎない。
そんな彼がマリソルたち家族を助けるからには、理由が必要だった。善の超人ではない彼が、金にもならないことのために動く理由が。
それが「昔、助けられなかった女がいた」というセリフだ。ただの人間でしかない彼には、悔恨の念や、善いことをしたいという葛藤がある。それを『荒野の用心棒』は描いている。
人間は醜いだけでも弱いだけでもない。その代表がこの主人公なのだ。金のためには人殺しも厭わない男――そんな彼でさえ、不幸な女を見れば助けたいと思う。人間誰しも心の中に善いものを持っている。毅然として生きていける。そう主張するのが『荒野の用心棒』だ。
だから、『用心棒』の悪党たちがどいつもこいつも小粒なキャラクターなのに対して、『荒野の用心棒』のラモスは桁違いに凶悪に描かれる。『用心棒』の悪党は醜く弱い人間たちの一人に過ぎないが、人間を毅然とした善い者として描く『荒野の用心棒』には、みんなを不幸に陥れる、飛び抜けた「悪」が必要だった。それが、ラモスなのだ。
『用心棒』のラストは、町の大掃除を済ませた超人の後ろ姿で終わる。結局人間たちには何もできなかった。「天」からやってきて「天」に帰る超人の力にすがるだけだった。
『荒野の用心棒』のラストは、主人公が去った後の町の景色で終わる。残った人間たちが、きっとここを活気あふれる地にするだろう、そんな希望を感じさせる光景だ。天から見下ろす者は、ここにはいない。地上の人間たちが、精一杯生きるだけだ。
口笛の名手アレッサンドロ・アレッサンドローニが孤独なメロディーを奏でる『さすらいの口笛』の、口笛の後ろで繰り返される短いコーラスが耳に残る。
We can fight!
We can fight!
[*1] 『キネマ旬報』1969年3月下旬号(『黒澤 明集成III』1993年4月21日初版 1997年12月24日改訂版 所収「青柳哲郎氏記者会見と松江陽一氏証言の矛盾」)
[*2] DVD-BOX「黒澤明 THE MASTERWORKS 2」解説書 山田宏一
[*3] 『世界の映画作家3 黒沢明』 「黒澤明、自作を語る」 荻昌弘 1970年3月 キネマ旬報社
『用心棒』 [や行]
監督・脚本/黒澤明 脚本/菊島隆三
出演/三船敏郎 仲代達矢 東野英治郎 山茶花究 加東大介 河津清三郎 山田五十鈴 渡辺篤 司葉子 沢村いき雄 藤原釜足 志村喬
日本公開/1961年4月25日
ジャンル/[時代劇] [アクション]

監督・脚本/セルジオ・レオーネ 脚本/ドゥッチオ・テッサリ、ヴィクトル・A・カテナ、ハイメ・コマス
原作/黒澤明、/菊島隆三
出演/クリント・イーストウッド ジャン・マリア・ヴォロンテ マリアンネ・コッホ ホセ・カルヴォ ヨゼフ・エッガー アントニオ・プリエート ジークハルト・ルップ ウォルフガング・ルスキー マルガリータ・ロサノ
日本公開/1965年12月25日
ジャンル/[西部劇] [アクション]

【theme : マカロニ・ウェスタン】
【genre : 映画】
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