『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第七章「継承篇」
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『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の企画の初期段階で、羽原信義監督と福井晴敏氏は「今の時代にあった新しいことをやるべき。ただし、観客が『あ、この場面知ってる!』という映像的な記憶は随所に入れよう」と語り合ったという。
その言葉どおり、沖田艦長の命日にかつてのヤマトの乗組員たちが「英雄の丘」に集まって、上空のアンドロメダを見上げる場面など、旧作の印象的な場面が2202では再現されていた。
第1話こそ『宇宙戦艦ヤマト2199』の後を受けた内容だったが、第2話からしばらくは「『あ、この場面知ってる!』という映像的な記憶」が散りばめられ、旧作の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』や『宇宙戦艦ヤマト2』を尊重して作っているように思われた。
しかし、ズォーダーがガトランティスの設定を古代に教えるあたりから、物語は『さらば――』とも『ヤマト2』とも違うものになっていく。旧作のファンはずいぶん戸惑ったのではないだろうか。
波動実験艦「銀河」の登場やヤマトの最終決戦仕様への改装が行われるに至って、旧作の面影はすっかりなくなった――と思いながら観ていた私は、最終回の直前、第25話「さらば宇宙戦艦ヤマト」が映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のラストにそっくりなので驚いた。『ヤマト2』と同じく森雪が死んでいなかったりと多少の違いはあるにしろ、かつての「映像的な記憶」が呼び起こされる内容だった。
あれほど大胆に改変し、旧作から乖離させていたにもかかわらず、いまさらなぜ……。
しかし私は、すぐに作り手の意図を呑み込んだ。
旧作そっくりのこの場面を用意したからこそ、途中で乖離できたのだろう。旧作ファンの脳裏に残る、一番印象的な場面。それをちゃんと再現するから、そこに戻ってくるから、途中の道筋がどんなに逸れているようでも安心してください、期待してください。そう云える自信があったから、道を逸れることができたのだ。
■継承された『宇宙戦艦ヤマト2199』
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2199の第1話は、旧作『宇宙戦艦ヤマト』の第1話を本当によく再現していた。沖田艦長のセリフ「バカメ」に始まり、サーシャの亡骸の美しさと神秘的なBGM、夕陽を浴びてそびえる大和の残骸まで、痺れるほどよく似ていた。
ところが、回を重ねるに連れて、2199は旧作から離れていった。岬百合亜の謎めいた行動、アケーリアス文明の遺跡、森雪の拉致等、予想だにしない展開の連続だった。
それを私たちが大歓迎したのは云うまでもない。何より嬉しかったのは、宇宙戦艦ヤマトシリーズ全体を俯瞰して、作品世界の再構築がなされていたことだった。旧作の第1話で地球艦隊が全滅したのなら土方や山南はどこから出てきたんだとか、次元潜航艇を開発できるほどのガミラスがなぜヤマトとの戦いでは投入しなかったんだといった、場当たり的にシリーズを継続したために生じていたひずみを、2199は手当てして、全体の整合性を図ってくれた。
「『ヤマト』の迷走を見直し、俺たちの世代でケジメをつける」
そう決意してリメイクに臨んだという出渕裕総監督は、言葉どおりに素晴らしい世界を見せてくれた。
だから2199では旧作からの逸脱も楽しくてならなかったが、驚いたのは、すっかり旧作から逸れてしまったと思われた物語が、最後にきっちり旧作の再現に戻ってきたことだった。ベッドに横たわって地球を見つめる沖田艦長。「地球か…何もかも、みな懐かしい」という名ゼリフ。
ああ、これだ。私が好きなヤマトはこれだった。
私は心の底から感動した。
懐かしい場面の再現から始めることで旧来のファンを歓喜させ、途中では旧作から逸脱して「脱線なのか上書きなのか」とハラハラさせながら、最後は再び懐かしい場面を再現してビシッと締める。
2199のこの構成を、2202は踏襲した。
私は、2199と2202とのあいだに断絶を感じ、その思いを記事にしたが、両作を俯瞰して物語の構造に目を向ければ、2202は2199と同じパターンを実践したのであり、2199の方法論の継承者であった。
それでは、2202の逸脱ぶりは何だったのか、という疑問が湧く。
2199の場合は単なる脱線ではなく、宇宙戦艦ヤマトシリーズ全体を俯瞰して作品世界を再構築する壮大な志が感じられた。
一方、2202は、波動実験艦「銀河」やら最終決戦仕様のヤマトやらを出してみたり、すっかりオカルトファンタジー化してしまったりと、2199とは似ても似つかぬアプローチに思える。
■メカデザインの系譜
この疑問に関して、まずはメカデザインの面から考えてみよう。
私は第一作のヤマトのデザインが大好きで、これこそは何も足さなくていいし何も引かなくていい完璧なものだと思っている。
だから、1980年の『ヤマトよ永遠に』や『宇宙戦艦ヤマトIII』での、ヤマト艦首への錨マークのペイントでさえ、ヤマトじゃない気がして好きになれなかった。
まして、唯一無二の存在たるべき宇宙戦艦ヤマトと似て異なる「銀河」は、その存在もデザインも納得しがたかった。
アンドロメダをはじめ『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に登場した地球防衛軍の主力戦艦や巡洋艦が、ヤマトで培った技術を踏まえて建造されたはずなのにヤマトから距離を置いたデザインなのは、物語上もデザイン上もヤマトとの違いを感じさせて、ヤマトの唯一絶対の存在感を侵さないようにとの配慮だったはずだ。[*1]
それを侵した「銀河」。公式サイトに掲げられた「次世代航宙艦艇開発の研究を行なうために、ヤマトの波動システムを含む本体をコピーした同型艦」という「銀河」の説明や、第19話の「ヤマトを継ぐもの、その名は銀河」というサブタイトルは、あたかもヤマトが旧世代として葬られる日が来るかのようだ。
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オリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』のメカデザインは、こんにちでも通用します。少しブラッシュアップするだけで、現代の視聴者の期待に応えるでしょう。少々古風な雰囲気が、かえってデザインに深みを与えるのです。だからメカデザインに関して云えば、ほんの少しブラッシュアップするだけでした。オリジナルの『ヤマト』を知っているファンは、『2199』のデザインに満足してくれるでしょう。新たなファンは、『ヤマト』のデザインが未だ魅力的であることを発見するでしょう。
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まったく同感だ。ヤマトファンが期待したのは、昔のデザインを今の技術・技法で甦らせてくれることだった。2199で新たにデザインされたメカもあるが、オリジナルのメカとの地続き感がとても大事にされていて違和感がなかった。
『宇宙戦艦ヤマト』で作られたものは、ほんの少しブラッシュアップするだけで、こんにちでも通用する――この考え方は、2199という作品全体を貫いている。
他方、波動実験艦「銀河」や最終決戦仕様のヤマトには違和感しか覚えない。
しかし、思えば波動実験艦「銀河」のデザインは、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇 ディレクターズカット』(2012年)に一瞬だけ登場した波動実験艦「ムサシ」のデザインを踏襲したものである。そして「銀河」も「ムサシ」も、艦橋部分のデザインを見ればお判りのとおり、そのエッセンスは『YAMATO2520』(1995年)の第18代宇宙戦艦YAMATOから来たものだろう。
2202に「銀河」を登場させたのは、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇 ディレクターズカット』及び『YAMATO2520』への言及といえそうだ(『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』(2009年)の監督を務めた西崎義展氏の死亡後に、残ったスタッフが完成させたバージョンをディレクターズカットと呼ぶことに疑問もあるが、ここでは公開時の作品名のまま「ディレクターズカット」と表記する)。

だが、『YAMATO2520』のYAMATOがカッコイイなどと云ってられるのは、『YAMATO2520』が宇宙戦艦ヤマトシリーズとはまるで繋がりのない作品で、第18代YAMATOを我が愛する宇宙戦艦ヤマトとは切り離して見ていられるからだ。
『新 宇宙戦艦ヤマト』の名で企画され、今風に云えばリブート作である『YAMATO2520』は、宇宙を本拠地に選んだ者たちの国、セイレーン連邦と、地球中心の国、地球連邦との、人類同士の戦争を背景にしており、異星人と戦った宇宙戦艦ヤマトシリーズの世界を示唆するものは何もない。主役メカの名前こそ、かつての大ヒット作にあやかってYAMATOと付けられているが、作品世界の設定は、明らかにスペースコロニーを本拠地とするジオン公国と地球連邦の戦争を背景にした『機動戦士ガンダム』にならっている。
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だから私も、『YAMATO2520』に関しては、ヤマトの存在感を侵すとか、ヤマトを改変されたと思わずに、シド・ミードのデザインもこれはこれでいいもんだと呑気に構えていた。
けれども、2202の作り手にとっては、『YAMATO2520』も捨ててはおけない作品なのだろう。2202の副監督を務め、メカデザインも行った小林誠氏は、『YAMATO2520』にメカニックデザイナーとして参加していた(VOL.1でのクレジットはメカニックデザイナー。最終作となったVOL.3では、助監督、メカニックデザイン・設定デザイン、美術設定デザイン、コンピューターグラフィックデザインでクレジットされている)。
『YAMATO2520』を視野に入れると、「銀河」やら最終決戦仕様のヤマトやらの位置づけが見えてくる。私にとって――おそらく少なからぬヤマトファンにとって――宇宙戦艦ヤマトは唯一無二の大事な存在だが、2202の作り手にとっては18代もあるヤマト(YAMATO)のうちの単なる一つ、初代の1番艦に過ぎないのだろう。
『YAMATO2520』には、第18代YAMATOとその設計の基になった第17代YAMATOが登場する。これらのYAMATOと『宇宙戦艦ヤマト』のヤマトとを同一世界の存在と考えるのは、メカデザイナーにとって楽しいことに違いない。方や世界的に有名なデザイナー、シド・ミードがデザインしたこの上なくカッコイイ第18代YAMATOがある。もう一方には、やはり世界で知られるマンガ家松本零士氏のスケッチをメカデザイナーの宮武一貴氏がまとめ上げた偉大なヤマトのデザインがある[*3]。両者のいいとこ取りをしながら第2代から第16代までの15ものバリエーションをデザインできるなんて本当に楽しそうだ。世代交代の際には、新世代の設計を活かして前世代が改装されることもあるだろうから、さらに豊富なバリエーションを考えられる。それぞれの世代交代に際して、どのようなコンセプトが新世代への移行を促したのか、その変遷の歴史を考えるのも楽しいに違いない。こんな仕事は、やらずにいられないだろう。
その取り組みはすなわち、宇宙戦艦ヤマトシリーズの世界と『YAMATO2520』の繋がりを太くすることになる。
ファンにしてみれば、シド・ミードのデザインと旧作のデザインという異質なものを混合されても違和感しか覚えないだろう。
松本零士氏及び宮武一貴氏のデザインが魅力的なのは、手描きのマンガやアニメではあり得ないようなゴチャゴチャ感にあり、そのゴチャゴチャしたものが全体としては流麗なフォルムを形作る奇跡のような塩梅にある。
シド・ミードのデザインがかっこいいのは、工業デザイナーらしいシンプルさと現実感に貫かれているからで、松本ヤマトとは対極といえよう。第18代YAMATOは、ゴチャゴチャした松本零士らしさをいったん取り払い、ヤマトのフォルムの本質を突き詰めた上で再構成してデザインされている。だから、紛れもなくシド・ミードのデザインなのにヤマトっぽくもあると思う。
この対極に位置する両デザインのいいとこ取りをするのは、やり甲斐があるだろうが、はたからは無謀に思える。
それでも、おそらく2202の作り手は、『YAMATO2520』と宇宙戦艦ヤマトシリーズを繋げるつもりで臨んでいる。
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西崎義展氏の死後、小林誠氏が監督代行に就任して完成に漕ぎ着けた『宇宙戦艦ヤマト 復活篇 ディレクターズカット』の波動実験艦「ムサシ」とデザインを共有する「銀河」を2202に配したことは、2202年に建造された「銀河」の同型艦が2220年を舞台とする『復活篇』の世界にも存在することを示唆しており、『復活篇』と2202を繋げるものだ。
2202年を舞台とする本作と、2220年を舞台とする『復活篇』と、2520年を舞台とする『YAMATO2520』が、メカデザインを通して繋がったのである。
■リアリティの水準
『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』と2202が共通するのは、メカデザインだけではない。
『復活篇』は、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』(1983年)の17年後を描いており、古代進が地球を救った伝説的な英雄として人々に知られていたり、雪とのあいだに生まれた美雪が佐渡先生の手伝いをしていたりと、17年の歳月に相応しい設定がなされていた。
一方で、原案作成に石原慎太郎氏が加わったためか、『復活篇』は、1930年代の大日本帝国と他国の関係を宇宙に投影し、日本軍が連合国(になぞらえた敵)をこてんぱんにやっつけるという、身も蓋もない話であった。
とはいえ、そういう要素はシリーズ過去作にすでに見え隠れしていたので、『復活篇』だけを捉えてここでどうこう云うつもりはない。

ヤマトに敵対する大ウルップ星間国家連合の中でも、中心的存在の星間国家SUS。その代表であるメッツラー総督は、ヤマトとの戦いに敗れると突如人間の姿に化けるのをやめ、目が吊り上がり口が裂けた化け物の正体を現すのだ。第一艦橋のスクリーン越しに会話していたはずなのに、突然スクリーンから飛び出して宙を舞う様子は、まるでホラー映画『リング』の貞子である。空間的な距離をものともせず、壁があっても通り抜けて出現するメッツラーは、異次元からやってきた巨大な化け物なのであった。
いやはや、さきほどまでの宇宙要塞や宇宙戦艦を使った戦闘はなんだったのか。こんな凄い化け物なら、要塞のハイパーニュートロンビーム砲なんぞに頼らすに、とっととヤマト内に乗り込んで大暴れすればよかったのに。
これまでヤマトが戦った敵は、肌の色や文化が違っても地球人のような姿形で、地球人と同じような言動をしていたのだが、メッツラーは悪魔のようなとんでもなく異質な存在だった。
第1テレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』を作る際に、西崎義展氏は非ヒューマノイド型エイリアンの登場を嫌い、敵ガミラス人の正体がヒューマノイド型ロボットでは感情移入できないと云ってロボット案を却下してしまったそうだ。あの頃の西崎氏はどこにいったのか。
異次元から化け物がやってくる作品があっても、牙の生えた敵が壁を通りぬける作品があってもいいのだが、どの作品にもその作品らしさを保つ上でのリアリティの水準というものがある。ファンタジーにはファンタジーなりの、SFにはSFなりのリアリティがある。『復活篇』は、これまで宇宙戦艦ヤマトシリーズが保ってきたリアリティの水準を乱してしまった。
メッツラーが異次元妖怪に変化してスクリーンから出てきたときが、ミリタリーSFとしての宇宙戦艦ヤマトシリーズが木っ端微塵に打ち砕かれ、つぎはぎとはいえ35年にわたって保ってきた世界観がブチ壊しにされた瞬間だった。
さすがの西崎氏も、一作ごとに新たな星間帝国が地球に襲いかかることの繰り返しに、限界を感じたのだろうか。
ともあれ、あそこから宇宙戦艦ヤマトシリーズのオカルトファンタジーへの変貌は始まっていたのだ。
『復活篇』のラストを念頭に置いた上で2202を観てみれば、2202のオカルト臭さはまだ穏やかなものだった。
ガトランティス人は人間ではないといいながらも、牙もなければ、巨体でもなく、その外見は人間そのものだし、ズォーダーが古代に語りかけるときは地球人の蘇生体の口を借りており、時空を超えて姿を現し、宙を舞うわけでもない。
2202の穏やかなオカルト臭さは、『復活篇』と他の宇宙戦艦ヤマトシリーズとのあいだにあって、オカルトファンタジー路線への導入役を担うかのようだ。
■迷走する『ヤマト』
メカデザインの変遷や、宇宙戦艦ヤマトシリーズのオカルトファンタジー化の流れを考えれば、2202もまたシリーズ全体を俯瞰して作品世界の再構築を試みたといえそうだ。2199がやったことをここでも踏襲した2202は、やはり2199の方法論の継承者と云えようか。
では、2199も2202も同様のことをしたとするならば、両作に対する評価の違いは何だろう。
2199のことを絶賛していた私の友人たちが2202に関しては揃いも揃って否定的で、にもかかわらずネット上では2202に肯定的な意見も見受けられる。こうした意見の違いはなぜ生まれるのだろうか。

「『ヤマト』の迷走を見直し、俺たちの世代でケジメをつける」
『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズのファンで、氷川竜介氏が会長を務めるファンクラブ「ヤマト・アソシエーション」にも所属していた出渕氏は、こんな覚悟で『宇宙戦艦ヤマト2199』の総監督に就任したのである。
出渕総監督のこの言葉に私は感動した。
出渕総監督は言葉どおりのことを実践してくださった。
2012年4月7日、『宇宙戦艦ヤマト2199』の第1話を見た私は、さっそくブログに喜びをこめてこう綴った。
「『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズから38年を経て、遂に私たちの前に我慢も諦めもいらない「ヤマト」が登場した!」
長らく迷走する『ヤマト』を見てきた身としては、迷走なんて微塵もない2199の第1話は宝物だった。
だが、ここには大きな問題が潜んでいる。「迷走」とは何か、ということだ。
『ヤマト』が迷走していたというのなら、宇宙戦艦ヤマトシリーズは「迷走」の部分と「迷走」でない部分に分けられるということだ。
第1テレビシリーズは原点だから別格としても、ではスターシャが死んでいたり生きていたりといくつもの結末が作られた劇場版第一作はどうだろうか。
登場人物をあらかた殺してしまった続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は?
二時間半の映画の内容を全26話に引き延ばし、映画とは異なる結末にした『宇宙戦艦ヤマト2』は迷走だろうか。
古代守とスターシャは新生イスカンダルのアダムとイブになったはずなのに、そのスターシャをあっさり殺し、一作目における希望の象徴だったイスカンダルさえも爆発させてしまった『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』はどうだろう。
古代守まであっさり殺し、赤ん坊だったサーシャがたった1年で17歳相当になったり、さらにはそのサーシャも死んでしまう『ヤマトよ永遠に』は。
大量に新キャラクターをヤマトに乗艦させたかと思えば、一部を下艦させたりと、キャラクターの使い方がふらついた『宇宙戦艦ヤマトIII』は。
あるいは、とっくに死んだはずの沖田艦長がまた登場する『宇宙戦艦ヤマト 完結編』、ヤマトとは名ばかりで「ブルーノア2520」でも「スターライト2520」でも通用しそうな『YAMATO2520』、そしてオカルトファンタジー路線に踏み出してしまった『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』は、いかがなものだろうか。
「『ヤマト』は迷走していた」と云われれば、頷くファンは多いだろう。では、どこまでが良くてどこからが迷走なのかを問われたら、議論百出して、意見が収束しないかもしれない。
ただ、ヤマト映画の興行成績が右肩下がりだったことからも、後年の作品になればなるほど支持する人が減るであろうことは想像にかたくない。
■シリーズを再構築するということ
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2199が行った作品世界の再構築は、宇宙戦艦ヤマトシリーズを第一作中心の世界観に整え直すことであった。
後年の作品の要素は、厳選した上で、第一作との整合性を図れる範囲で使用する。それらは贅沢なデコレーションだ。
これが出渕総監督の云う「『ヤマト』の迷走を見直す」ということだったのだろう。
2202では、『さらば――』をリメイクするという基本的なコンセプトが、そもそも2199の第一作中心主義と衝突していた。かといって『さらば――』中心主義にしたら、主人公を死なせてシリーズに終止符を打つことになってしまう。『ヤマト2』が中心では、大ヒットした『さらば――』のリメイクを謳うほどのインパクトは与えられまい(それに、『さらば――』を好きな人と『ヤマト2』を好きな人は必ずしも重ならないはずだ)。
主軸を定めることのできない2202は、必然的に2199よりも緩い態度で旧作に接することになる。
2202が行った作品世界の再構築とは、前述したように1990年代以降の『YAMATO2520』や『復活篇』(ディレクターズカット版を含む)への橋渡しを兼ねている。
『YAMATO2520』はOVAとして売り出すも売上が伸びず、西崎義展氏の会社ウエスト・ケープ・コーポレーションの倒産もあって、少なくとも七巻以上発売する予定だったのに三巻で打ち切りになってしまった。『さらば――』の制作助手や『ヤマトIII』のプロデューサー等を務めた山田哲久氏は、松本零士色を排したこのOVAについて「西崎は松本さん抜きでも成功すると実証したかったのでしょうが、ファンの共感は得られなかったのです」と述べている。
同様に松本零士氏が関わらなかった『復活篇』の興行収入は、それまでヤマト映画史上最低だった『完結編』の17億円を下回り、5億円に届かなかった。[*2]
このように人気のない作品をあえて取り上げて、しかも良いところを抽出して2202の素材として活かすのではなく、わざわざ類似するメカを押し込んで共通点を作り、それらの作品も同じ宇宙戦艦ヤマトシリーズの一部であるとファンに認識させる。2202を優れた作品にするための取り組みというよりも、乱暴な云い方ではあるが『YAMATO2520』や『復活篇』の地位向上のために2202を利用したようにも思われるのだ。ヤマトファンにもあまり相手にされていない作品に橋渡しするということは、つまりはそういうことになろう。
大のヤマトファンで「『ヤマト』に関わりたくてしょうがなかった」[*2]という出渕裕氏がアニメ業界に入った後に参加できたのが『ヤマトIII』や『完結編』であり、『YAMATO2520』や『復活篇』には関わっていないこと、他方、「突き放してる風にしておきながら実は本当にヤマトが大好き」といわれる小林誠氏が参加したのは『YAMATO2520』や『復活篇』であることも影響しているかもしれない。人間誰しも、自分がやった仕事は肯定的なものとして残していきたいだろう。
『YAMATO2520』や『復活篇』を含めたヤマト関連の権利者からすれば、『YAMATO2520』等の過去の資産を埋もれさせず、新作を機に過去作にも日を当ててその資産価値を向上させる方策があるなら、大歓迎に違いない。

これまで、「ヤマト」や「YAMATO」の名を冠した作品がたくさん作られてきた。
松本零士氏が才能を注ぎ込んだ作品もあれば、同氏がまったく関わらなかった作品もある。ヒットした作品もあれば、ヒットしなかった作品もある。
はたして、宇宙戦艦ヤマトシリーズは迷走していたのか否か。どこからが迷走で、どこまでは迷走ではないのか。リメイクするならどこを取り上げるべきで、どこは捨てるべきなのか。新たな橋渡しを許すのか、拒むのか。
その判断の違いが、すなわち2199と2202の評価の違いに表れているのだと思う。
45年にわたるシリーズのどこにあなたは魅了されたのだろうか。
あなたにとっての「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」とは何なのか。
答えは、ファンの数だけあろう。
リメイクを見るときに問われているのは、あなたのヤマト観なのだ。
[*1] アンドロメダのデザインは、松本零士氏より先に『宇宙戦艦ヤマト』への参加を要請されていたマンガ家小沢さとる氏が、『宇宙戦艦ヤマト』に先行して企画した『ギンガ、ギンガ、ギンガ』のヤマトワンダー号に近い気がする。
[*2] 参考文献 牧村康正・山田哲久 (2015年) 『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』 講談社
[*3] スタジオぬえの加藤直之氏によれば、ヤマトのデザインは、松本零士氏が独自に描いたヤマトのスケッチに宮武一貴氏が波動砲のアイデアを出して付け加え、松本零士氏が考えた細部の設定を宮武一貴氏が小沢さとるマンガのフォルムにならってまとめ上げたものだそうだ。
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第23話『愛の戦士たち』
第24話『ヤマト、彗星帝国を攻略せよ!』
第25話『さらば宇宙戦艦ヤマト』
第26話『地球よ、ヤマトは…』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 田中理恵 麦人 千葉繁 楠見尚己 江原正士 柴田秀勝 赤羽根健治 神田沙也加 内山昂輝
日本公開/2019年3月1日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第六章「オカルト篇」
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ここまで『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』について語る中、私はおかしいと感じることを挙げてきた。
第一章「SF篇」では、第1話冒頭の大戦艦の登場が不自然で理にかなわないと述べた。
第二章「ミリタリー篇」でも、第1話冒頭の大戦艦の登場がおかしいこと、加えてガトランティス艦隊の配置までもがおかしいと述べた。
第三章「断絶篇」では、地球から遠く離れた宇宙の彼方、ガトランティス人たちの中でなぜかズォーダーだけは波動砲の存在も波動砲を撃てない事情も先回りして知っている不自然さを指摘した。
第五章「作劇篇」では、帝星ガトランティスの大帝ズォーダーともあろう者が、なぜか辺境の星・地球の一士官ごときに目をかけて延々と自分の心中を語り続けるおかしさに触れた。
これらに限らず、2202はまったくおかしい、理にかなわないと私は思い続けていた。
だが、2202の最終回に至って、私は自分の考えが筋違いであることに気づかされた。相転移によって物質の状態が変化するように、最終回をもって2202は私の前でその姿を変化させた。
思えば、大戦艦の出現の仕方は伏線だったのかもしれない。ガトランティス艦隊の戦術のなさも、ズォーダーの奇妙な振る舞いも、みんなみんな伏線だったのかもしれない。
第25話で映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)のラストとそっくりな終わり方をしてから半年後。第26話、すなわち最終回では、ガトランティスとの戦いの後の地球が描かれた。第25話でヤマトとともに敵の本拠地に突っ込んでいった古代進と森雪。彼らの名は、英雄の丘の碑に刻まれていた。
ところがある日、時間断層にヤマトが現れる。時間断層の向こうには高次元世界があり、そこで古代も雪も"生きている"らしい。少なくとも、高次元世界から連れ戻せば、古代も雪も現世の暮らしに戻れるという。
こうして2202の最終回は、高次元世界のあり様と、地球の人々の選択が描かれる。ここでの「選択」については、第四章「社会批評篇」で説明済みだ。
この展開には、多くのヤマトファンが驚いたのではないか。
なぜなら、星間国家同士の戦いの物語なのに、高次元世界という「あの世」、つまりは精神世界、霊魂の世界に言及する展開は、ヤマトファンなら心当たりがあるからだ。
『さらば――』のラスト、島たちにヤマトからの退艦を命じた古代は、みんなを説得するために笑みさえ浮かべて語り出す。
「みんなは俺がこれから死にに行くと思ってるんだろ?そうじゃない、俺もまた生きるために行くんだよ。命というのは、たかが何十年の寿命で終わってしまうような、ちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くものじゃないのか?俺はこれからそういう命に、自分の命を変えに行くんだ。これは死ではない!」
2202の第25話は『さらば――』のラストにそっくりだったが、さすがにこのセリフはなかった。いくらなんでも、今どきこのセリフはないだろうと思ったから、なくても疑問に感じなかったが、とんだ見当違いだった。2202の作り手は、セリフどころかあのとき古代が語った内容を映像で、劇中の真実として描くつもりだったのだ。
そうきたか。『さらば――』のラストで主人公古代は死んでしまう。「これは死ではない」と云ったって、敵艦に突っ込んで爆発しているのだから死んでいる。あのラストを忠実に再現することと、主人公を死なせずに続編への道を残すことは両立すまいと思っていたが、まさかいったん現世界で死なせて、その後、現世界に連れ戻す、すなわち生き返らせるとは。
なんて、なんてよくあるパターンなんだ。私はヤマトシリーズがここにまで至ったことに大変驚いたのだった。
■『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の受け止め方
この世では死んでしまうけど、あの世で神様の助力等を得て生き返るのは『ドラゴンボール』でもお馴染みの展開で、おそらくロールプレイングゲームの普及が影響したものだろうと思う。せっかく育てたキャラクターがゲームの途中で死んでしまって一からやり直すのはしんどいから、一定の条件下で復活できる「世界樹の葉」や「フェニックスの尾」の機能は助かる。
このゲーマーの苦労を低減する手法が、マンガ等の物語世界でもすっかりはびこった感がある。だから2202内で、高次元世界と呼ばれる「あの世」に主人公らを探索に行く物語に発展しても、案外観る側は平然と受け止めるかもしれない。
だが、2202で高次元世界なんぞが出てくるルーツは、ロールプレイングゲームではない。
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『さらば――』を観た観客だって、「そうか、命を変えに行くだけなのか。死ではないんだな」とは思わなかったろう。死を決意した古代が努めて明るく振る舞おうとするから、感動し、涙を流したに違いない。雪の亡骸を抱いた古代がヤマトで突っ込む際に、死んだ仲間たちの姿が見えるのも、英霊になった戦友たちを思い浮かべることの比喩的表現であって、本当に死後の世界から舞い戻ったわけではないのは観客にも判ったはずだ。
それに、『さらば――』の古代が特攻を決意した時点で、森雪は死んでいた。最愛の雪を亡くした古代にとって、雪のいない世界で生きるのは虚しい。雪と二人だけで死出の旅につくのは、古代にとって後追い心中でもある。
心中ものというのがまた江戸時代以降人気のある、観客を泣かさずにおかないジャンルなのだ。映画では、たとえば1969年の『心中天網島』がキネマ旬報ベストテン第1位、『さらば――』の作画が始まった1978年4月公開の『曽根崎心中』がキネマ旬報ベストテン第2位を獲得している。
宇宙艦の中で古代が雪の亡骸に語りかける「星になって結婚しよう」という言葉は、現世に絶望し、来世で結ばれることを願う恋人同士を描いた心中もののセリフとして秀逸であろう。
特攻隊員の悲劇と心中ものの悲劇という、昭和の映画らしい二大要素を併せ持つのだから、『さらば――』を観て泣いた、感動したと云われるのは当然なのだ。
ではなぜ、2202には高次元世界などというものが登場し、古代と雪は"生き返る"のか。
そこには、1970~1980年代の作品に対する福井晴敏氏の見方がある。『宇宙戦艦ヤマト』や『さらば――』等の個々の作品に向き合う以上に、福井氏には、この時代の作品はこういうものだという考えがあるようなのだ。
ヤマト2202と『機動戦士ガンダムNT』のテーマの類似を指摘された福井氏は、次のように答えている。
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似ていますね。やはり、両方ともベースとなっているのは70年代の同じ時期に生まれたものですからね。
『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も当時のヒッピー文化を引き受けた後のニューエイジ文化など、あの辺りの影響をガッツリと受けながら作られているわけですから、発想がどこか似ている。それは『スター・ウォーズ』も一緒ですよね。
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ニューエイジとは、ひらたく云えば、人間の意識の変容を通して高次の存在への進化・一体化を夢想する思想・運動だ。過去二千年間の、西洋占星術でいうところの魚座の時代が終わり、新しい二千年、すなわち水瓶座の時代(Age of Aquarius)が始まるとともに、人間を古い概念から解き放ち、新しい段階へ昇っていこうという運動が、世界的にブームになった。占星術において、水瓶座は反抗、不服従、自由、デモクラシー、博愛等に関係するという。
ニューエイジの影響の最たるものは、石ノ森章太郎氏のマンガ『サイボーグ009 神々との闘い』(1969年)だろう。ここで人類は、古い時代の支配者「神」と決別し、精神世界を探求して次なる進化を見据える。
福井氏がインタビューに答える中で『宇宙戦艦ヤマト』と云っているのは、『さらば――』も一作目もいっしょくたに話しているだけで、具体的には『さらば――』ラストの古代のセリフを念頭に置いてのことだと思う。あるいは、『さらば――』公開時の「宇宙愛」という宣伝文句に当てられたか。『機動戦士ガンダム』に関しては、劇中で示された新しい人類のあり方、ニュータイプを指してのことであろう。

このインタビューはヤマト2202とガンダムNTに関するものだから、ヤマトとガンダムの話ばかりだが、このようなくくり方をするのなら何といっても『伝説巨神イデオン』(1980年)を挙げねばなるまい。『さらば――』が、単に古代のセリフにおいて肉体からの解放を語るだけである一方、『機動戦士ガンダム』は具体的に五感を超越した次の段階へ向かう人間を示し、『伝説巨神イデオン』に至っては肉体から解放された"霊魂"たちの喜びと、新たな"生"への飛躍が描かれる。登場人物全員の死亡と、生死を超越した世界を描いた点で、テレビシリーズ『伝説巨神イデオン』と、その最終回完全版である『THE IDEON 発動篇』(1982年)は行き着くところまで行った作品であり、富野アニメの白眉といえよう。
福井晴敏氏は、その『伝説巨神イデオン』の大ファンなのである。70年代後半に生まれた作品が「ニューエイジ文化など、あの辺りの影響をガッツリと受けながら作られている」と考える福井氏自身、そうして作られた作品の直撃を受けて育っている。
私は、『宇宙戦艦ヤマト』や『さらば――』が、『機動戦士ガンダム』にそれほど似ているとは思わない。もちろんここでは、『宇宙戦艦ヤマト』を研究して『機動戦士ガンダム』が作られたという表面的な話ではなく、思想面において、両者ともにニューエイジ文化などの影響をガッツリと受けたというほど似たような発想をしているかだ。
富野喜幸(現・由悠季)監督に関しては、『機動戦士ガンダム』のニュータイプや『伝説巨神イデオン』から、ニューエイジとの関連を指摘するのも有りかもしれない。
だが、宇宙戦艦ヤマトシリーズを生み出した松本零士氏や西崎義展氏に、それほどまでにニューエイジ的な傾向があったといえるだろうか。松本零士氏はどちらかというと、人間のこの肉体が不格好でみっともないものだとしてもそれでも頑張り続ける姿に重きを置く人だし、ヤクザと付き合いながら興行の世界で身を立ててきた西崎義展氏が、意識の変容だの高次の存在だのというナイーブなものにうつつを抜かすとは思えない。西崎氏は、ガミラス人の正体が人造人間(ヒューマノイド型ロボット)だったことにしようという豊田有恒氏の提案を、その設定では感情移入できないからと却下して、敵を人間臭くしてしまう人物だ。『宇宙戦艦ヤマト』は『西遊記』が元ネタだから、スターシャはお釈迦様に相当するわけだが、どれほど神々しい存在かと思えば、イスカンダルに着いてみたらただの恋する女性だった。
だから、いくら作られた時代が近いとはいえ、『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』もどちらもニューエイジ文化などの影響をガッツリ受けながら作られている……と十把一絡げにくくるのはためらわれる。特に『さらば――』のラストに関しては、ニューエイジ云々よりも、死を美しく描く日本映画特有の傾向が色濃く出たものではないかと思う。
『さらば――』の宣伝の際に、作品のテーマとして西崎氏が口にした「宇宙愛」は、ニューエイジっぽく聞こえるかもしれない。
しかし、新作ヤマトのプロモーションとして1994年に発売されたビデオ『ヤマト わが心の不滅の艦/宇宙戦艦ヤマト 胎動編』の中で、西崎氏は自分なりの「哲学」を次のように語っている。
「常に作り手のベースの中に、どっかにフィロソフィアの選択というのがないと駄目なんですよね。そういう意味で仮に考えれば、基本的に、物質は粒子レベルで不滅であると同時に、人間の命というものもやはり形を変えて一つの不滅のものであると」。
『さらば――』ラストの古代のセリフを彷彿とさせる発言だが、この言葉は素朴な来世思想の域を出るものではなかろう。あるいは、カトリック教徒だった母に影響されるところがあったのか。ともあれ、映画でさえ『タイタニック』や『ある日どこかで』や『HACHI 約束の犬』や『僕のワンダフル・ジャーニー』等々、いくらでも例が挙げられるように、死してなお不滅の命をもって愛を貫きたいという考えは誰もが抱くものであって、「フィロソフィア」というほどのものでもない。
ましてや、ニューエイジのように、自己啓発等による意識の変容や人間と文明の新しい段階への上昇にまで踏み込んで西崎氏が考えることがあったのかは判らない(ニューエイジ周辺では、意識を変容させる手段としてドラッグが利用されることもあったけれど、それと後年の西崎氏が覚せい剤取締法等の違反で収監されたこととは別の話だろう)。
重要なのは、私がどう思うかではなく、福井晴敏氏がどう考えているかだ。
70年代の同じ時期に生まれた作品は、当時のヒッピー文化を引き受けた後のニューエイジ文化などの影響をガッツリと受けながら作られており、発想が似ていると考える福井氏からすれば、「命というのは、たかが何十年の寿命で終わってしまうような、ちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くものじゃないのか?俺はこれからそういう命に、自分の命を変えに行くんだ」という古代のセリフは、高次元世界の存在とその一部になることで生身の人間を超越せんとする思想の表明に――まさにニューエイジ文化の産物そのものに聞こえるのではないか。
『さらば――』をリメイクするなら、古代のセリフで示唆するにとどまっていたものをしっかり描き込み、『さらば――』がニューエイジ文化などの影響下にあることを、そういう思想に基づけば古代がヤマトで突っ込んだ後にも物語があることを示す――。『伝説巨神イデオン』の大ファンである福井氏は、そう発想したのではないだろうか。
かくして、第25話「さらば宇宙戦艦ヤマト」でヤマト乗組員たちの相次ぐ死とヤマトの消滅、森雪が生きているのに敵に突っ込むことを選ぶ古代と彼ら二人の"死"を描いた2202は、次なる最終話「地球よ、ヤマトは…」で、死んだはずの乗組員たちの意識が集う高次元世界へと話を進めた。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第七章「新星篇」こそは、福井氏にとっての『THE IDEON 発動篇』なのだろう。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』を覆う「動機オーライ主義」
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福井晴敏氏は、本作に「現代日本人の心性を乗せて」描いたと述べている。日本では、42は「し・に(死に)」に通じるとか33は「さんざん(惨々)」だからと、42歳や33歳の大のおとなが神社へ厄祓いに行ったりするから、日本人の心性を描くなら駄洒落は欠かせまい。
「大いなる和」とか「縁によって結ばれた」(第14話「ザバイバル猛攻・テレサを発見せよ」)という言葉を使って、偶然の積み重ねでしかない人生を必然のものであるかのように言いくるめてしまうテレサの恐ろしさは、日本人の言霊信仰の根深さを示すようでもある。
しかも、テレサは仏のように蓮の花に坐しながら「考えたことではなく、感じたことに従ってください」と、江戸時代に日本に伝わった陽明学のようなことを説きだす始末(第16話「さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を」)。ニューエイジとは、西洋における東洋思想への接近でもあったから、ここまで描けば確かにニューエイジ色でいっぱいだ。
(陽明学と東西の思想の違いについては、こちらの記事を参照されたい。)
陽明学といえば、そのエートスともいえる「動機オーライ主義」が2202全体を覆っているのも興味深い。
與那覇潤氏は、自著『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』[*1]において、小島毅氏の『近代日本の陽明学』を野口武彦氏が評した際の言葉「動機オーライ主義」を紹介し、学問としての陽明学ではなく一時的な熱狂で突き進む「気分としての陽明学」の問題に触れている。與那覇潤氏が「動機オーライ主義」を説明した部分を引用しよう。
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動機オーライとはもちろん「結果オーライ」の対義語で、「おわりよければすべてよし」ではなく「はじめよければあとはどうなってもよし」、純粋にピュアな気持ちで考えて「今の世の中は間違っている!こっちが正しい!」と心の芯から感じ入ったのであれば、あとは既存の法令や社会の通年はおろか、自分の行為がもちらす帰結についても一切考慮することなく突っ走ってよい、結果は必ずついてくるはずだ(略)というような発想のことです。
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「筋を通す」と云って自分たちの正義を振りかざしたり、他者に迷惑をかけても「悪気はなかった」と弁明したりと、動機オーライな行動は現代の日本でも見受けられる。
ヤマト発進に当たって、古代たちは反逆を起こして軍の艦を強奪し、地球連邦防衛軍の衛星を粉砕する暴挙に出たのに、「テレサの祈りに応える」という動機を認められて許されてしまうこととか、子を案ずる加藤三郎がヤマトを裏切って危機的状況に陥れたのに、小言を食らっただけで元の職務に復帰できることは、典型的な「動機オーライ主義」といえよう。
しかも本作では、過去と未来を見通すテレサがいてくれて、「すべては人の思いが定めること。望めば、望む世界が」と云って(最終話「地球よ、ヤマトは…」)、結果が必ずついてくることを保証してくれる。動機オーライ主義者にはまことに都合のいい設定なのだ。
かつて大日本帝国が国際連盟を脱退したときも真珠湾を攻撃したときも、民衆は大喜びした。国際連盟の総会に臨んだ松岡洋右全権は国内で英雄扱いされたし、真珠湾攻撃が報じられた際は国民からの称賛や激励の声で首相官邸の電話回線がパンクしそうなほどであったという。これらの決定により、やがて亡国の憂き目に遭うことになるのだが、あとがどうなるかよりも、その場で云いたいことを云い、やりたいことをやれば人々は気分が良かったのだ。そんな日本人の心性を確かに本作は描いているし、それを強化しようとさえしている。
地球を、宇宙を救う話なのに、テレビ放映後半のエンディングでは日本の風景ばかりを映して、最後を富士山で締めくくるスケールの小ささには驚いたが[*2](『復活篇』では、その終盤で世界各地の光景を映したというのに)、日本人の心性しか描かないという点で、本作は筋を通してはいよう。
■ありふれた作品へ
面白いのは、宇宙物の『さらば――』にニューエイジ色を強調したアレンジを施すと、これまでにない作品が出来上がるのではなく、かえってあの時代のありふれた作品に近づくことだ。
愛について語り合い、愛あるがゆえに辛い「選択」を迫られるところを見せ場にしたり、超存在がもたらすエネルギーを狙う敵と戦ったり、超文明の遺跡が絡んだり、敵メカのデザインを直線と鋭角を強調した象徴的なものにしたり、仲間の壮絶な最期を描いたり、敵がみずからの肥大化した思いゆえに自滅したり、高次元世界の描写と死んだ仲間の"帰還"を結末にしたりと、2202は様々な要素から構成されるが、これらはどれも1980年公開の映画『サイボーグ009 超銀河伝説』ですでにやられたことだ。2202はなんだか同作を全26話に引き延ばしたようなのだ。
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ちなみに、『サイボーグ009 超銀河伝説』はあまり評判がよろしくない。典型的な展開に新味がないのと、やはり仲間の死と復活が共感しにくいからだろう。それはご都合主義にしか見えなかった。[*3]
なお、『サイボーグ009 超銀河伝説』における仲間の死と復活は、必ずしも作り手の思想的な必然から描かれたわけではないとも思う。『さらば――』の大ヒットに味をしめた東映は、仲間の死で観客の涙をさそう映画を欲したのだろう。けれども人気キャラクターのサイボーグたちが死んだままではシリーズが立ち行かなくなる。そこでいったん死なせながら死後に復活させるという、多分に商業的な要請に従った結末なのではないか。
そもそも『さらば――』のラストが、ヤマトの消滅、古代と雪の死で締めくくられるのだって、興行師として鼻の効く西崎義展氏が特攻シーンは必ず観客に受けると見抜いたからに違いないと云われるので、ニュータイプのような"高尚な"考えと並べるのは筋が違うとも思う。
今後、宇宙戦艦ヤマトシリーズをニューエイジ文化の産物と見なして、水瓶座の時代(エイジ・オブ・アクエリアス)とアケーリアス文明を引っかけたりするようなことは、さすがにないと思うが……。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は不自然ではなかった
さて、2202の企画の早い段階で、現世を離れて永遠の命の世界を探訪するこのラストを決めていたのだろう。2202全編はこのラストに向けて、このラストに違和感のないトーンで設計されたのだと思うといろいろ得心がいく。
ガトランティス人を人造人間と設定し、愛しあうことを必要とせずクローニングで増殖する彼らは果たして人間といえるのかと疑問を呈したのも、一人ゼムリア人からの複製であるサーベラーの葛藤を描いたのも、肉体を機械で強化した波動実験艦「銀河」の乗組員を登場させ、人間性とは何かを問いかけたのも、すべては『さらば――』ラストの古代のセリフを受けて、命を、生を、宇宙いっぱいに広がって永遠に続くものを描くために必要だったのだろう。そういうことはガンダムシリーズでやればいいじゃないかとも思うけれど、とにかく、それを描こうとしたのが2202だったのだ。
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しかし、『サイボーグ009 超銀河伝説』が超常現象のシーンなどを散りばめたことでオカルト色を帯びてしまったように、2202もニューエイジ以上にスピリチュアル、もっと云えばオカルト的な作品になってしまった。
どだい、2202でニューエイジ的なことをやるのは難しかっただろう。意識を変革し、高次元の存在に繋がろうとするニューエイジは、自分と社会を変革する運動である。現世でいかにいがみ合い、争っていても、高次元の世界の一員たれば平和で幸せに過ごせるという、平和主義的な面を持っている。『機動戦士ガンダム』も『THE IDEON 発動篇』も激しい戦争を描きつつ、争いのない世界を志向していた。2202が、最後にヤマトで敵に突っ込む『さらば――』のラストの再現にこだわる限り、本作には最後まで相容れることのない「敵」の存在が必要であり、それは『機動戦士ガンダム』や『THE IDEON 発動篇』のような作品に昇華する際の足枷になる。
一方では高次元世界での魂の平安と永遠に続く命を描こうとし、他方では和解できない敵を描こうとする。高次元世界の超越者に繋がることのできる主人公でさえ、なおも戦い続けねばならない相手――それはもう悪魔とか悪霊と呼ぶしかないだろう。
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ズォーダーが、波動砲の存在も波動砲を撃てない事情もあらかじめ知っていたのも不思議ではない。悪魔は、主人公の隠し事を知っていて、主人公を不安に陥れるものだ。
ズォーダーは、たかだか辺境の星・地球の一士官でしかない古代に延々と自分の心中を語り続けたが、オカルトファンタジーにおいてなぜ悪魔が主人公に付きまとうのか疑問を呈しても意味がない。『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』のピエロがなぜ排水口にいて、わざわざ少年に語りかけるのかなんて考えなくても、排水口にピエロがいて語りかけてくるだけで怖いではないか。
ガトランティスがヤマトの乗組員一人ひとりの家庭の事情まで知った上で、闇に落とそうと誘惑を仕掛けるのも、悪魔の常套手段といえる。
物語上の位置づけだけではない。視覚的にも演出的にも、ガトランティスの扱いは悪魔の群れに相応しかった。
第1話冒頭に登場した大戦艦が、真っ黒い十字架の形をしていたのは象徴的だ。私は大戦艦の登場の仕方が不自然で理にかなわないと述べたけれど、悪魔が理にかなった行動をしてくれるはずがないのだった。
第1話冒頭のガトランティス艦隊が、陣形を組んだりせずに、ただたくさん出現するだけなのも当然なのだ。悪霊たちが、襲いかかるときに陣形を組んだりするはずがない。ハリー・ポッターシリーズに登場するディメンター(吸魂鬼)は、無闇矢鱈と飛び回り、ただわらわらと襲ってくるから恐ろしい。
「白色彗星」と呼ばれる白いガス体の中から出てきた「滅びの方舟」の中枢部は、翼を広げた悪魔のようで、『ファンタジア』の「はげ山の一夜」に現れる悪魔にそっくりだ。
2202をオカルトファンタジーとして印象づける上で、本作のメカデザインやメカの描写はとても貢献していた。
2199が素晴らしいSFアニメだったので2202にも同じようなものを期待してしまい、不自然な描写に驚き困惑してきたが、2202もSFアニメだろうなんて私の思い込みでしかなかったのだ。
ミリタリー物として不充分なのも当然だった。オカルトファンタジーなのだから。
最終回までのあいだに、作品に対してどんなに否定的な意見が出されようと、作り手たちは平気だったに違いない。最終回まで見なければ2202の何たるかは判らない。最終回を見た上で云えと、作り手たちは思ったことだろう。
だが、これで宇宙戦艦ヤマトシリーズと云えるのだろうか。
私には、2202という作品が、2199だけでなく従来の宇宙戦艦ヤマトシリーズとも異なるものに感じられたのだが、話はこれで終わらない。
(つづく)
[*1] 参考文献 與那覇潤 (2011年) 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 文藝春秋
[*2] テレビ放映の第19話~第25話に使われたこのエンディングは、戦艦大和が建造された呉や古代進の故郷三浦半島等の、遊星爆弾が落ちる前の景色で構成されている。最後の富士山は、特別上映の配給元である松竹のロゴを模しているが、松竹のロゴが山梨県新道峠から撮影したものであるのに対し、2202のエンディングは三浦半島側から見た富士山になっている(宝永火口が見える)。
[*3] とはいえ、『サイボーグ009 超銀河伝説』を上映する館内には、町田義人氏の歌声に合わせて主題歌『10億光年の愛』を口ずさむ人や、すすり泣く人もいた。久しぶりに『サイボーグ009』が映画になったのは、ファンにとって嬉しいことではあった。
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第19話『ヤマトを継ぐもの、その名は銀河』
第20話『ガトランティス、呪われし子ら』
第21話『悪夢からの脱出!!』
第22話『宿命の対決!』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 田中理恵 麦人 石塚運昇 楠見尚己 江原正士 東地宏樹 赤羽根健治
日本公開/2018年11月2日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第五章「作劇篇」
![宇宙戦艦ヤマト2199 4 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71qgeKAMGaL._SL160_.jpg)
たとえば、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第9話「ズォーダー、悪魔の選択」。
帝星ガトランティスの大帝ズォーダーともあろう者が、なぜか辺境の星・地球の一士官ごときに目をかけて延々と自分の心中を語り続ける。
それを聞かされた古代は古代で、ズォーダーの長広舌から解放されると三隻のガミラス艦に向かい、三隻に分乗している民間人らすべてに声が届く状態で、艦内の森雪一人への個人的な思いを長々と告白する。
いずれも相当に恥ずかしい展開だ。
このように時と場所を考えない長広舌は、日本の映画やテレビ作品でしばしば見かけるところではある。福田靖氏が脚本を担当した『LIMIT OF LOVE 海猿』をニューヨークで上映した際は、フェリーの沈没という一刻を争う状況下で主人公が長電話し、あまつさえヒロインにプロポーズまでする展開が爆笑をかったという。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』もニューヨークで上映したら爆笑してもらえるのではないだろうか。
とりわけ、第9話のクライマックスは『LIMIT OF LOVE 海猿』を上回ると思う。
飛行中のガミラス艦から外に出て、空中に身を投じる森雪。100式空間偵察機で雪を追う古代。だが、明らかに古代は間に合っていないから、雪は地面に叩きつけられて死ぬか、地を覆う溶岩に焼かれて死ぬと思われるが、なぜか雪も古代も青く輝く謎の空間に入り込み、いつまでも落下していられる。
ふわふわと宙に浮いている雪を、偵察機の外に出てしまった古代が空中で抱きしめたのが、雪が身を投じてから二分後。古代はなんの推力も持たないはずだが、空を飛べるようになったのか、なぜか雪ともども機内に戻って、コクピット内で雪を抱く。何にもぶつからずにいつまでも落下していられる不思議な空間で、いちゃつく二人。挙句に古代は婚約者の雪にプロポーズ。たしかに雪がヤマトに乗艦するかしないかで二人が仲違いしたことがあったけど、あれで婚約は破棄したことになっていたのか。二人の関係の薄さに驚愕。
波動砲を撃つと二人がはじき出されて助かるという真田さんの謎理論の下、ヤマトが放った波動砲と思しき光が二人を包むまでが、雪が身を投じてから五分後。その約40秒後にコスモタイガー山本に発見され、なぜか寝てしまう古代。
こう文字に書いて読んでみても、劇中で起きていることが何なのかよく判らない。少なくとも、ニューヨーカーが笑いそうなポイントがたっぷりあるのは間違いなかろう。
2202はどの回も多かれ少なかれこんな感じで、そんな話を今ここでしなくてもと思うような生硬な独白、長広舌に尺を取るかと思えば、状況や背景に関する丁寧な説明は端折られたり、真田さんの一方的な謎理論のつぶやきで済まされたり、観ている側は教えてもらっていない複雑な設定を劇中人物だけが共有して納得しているらしかったりと、受け手の置いてきぼり感が凄まじい。
『LIMIT OF LOVE 海猿』は、たとえ長ゼリフがバカバカしくても云わんとするところは判るし、主人公たちの置かれた状況も受け手に判るし、どんな危険が迫っているのか、どう解決しようとしているのかも判るから、なんだかんだ云って観れば手に汗握るし感動するし共感もする。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』にはそれがない。
なぜこんなことが起きてしまうのだろうか。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の制作プロセス

少し長くなるが、福井晴敏氏とともに脚本を担当した岡秀樹氏が語る脚本の制作過程を引用しよう。
---
まず福井さんが作られた構成メモという書類がありまして、それを熟読したうえで、1話30分の物語に落とし込むためのロングプロットを僕が起こします。
構成メモの時点では多分に“小説的”なところもありまして、各話ごとに切り分けられてはいますが、長さもまちまちなんです。
福井さん曰く「切り捨てられることを前提に、たくさん書いてある」とのことで、登場人物の心情とか、裏事情などを理解してもらうために、あえて多くの情報がこめられているわけです。
つまり「すべてを脚本にせよ」という性質のものじゃないんですが、それだけにどこを拾ってどこをスルーすべきかという取捨選択が難しい。勘どころを掴むまでは苦労しました(笑)
そうやって書かれたプロットを福井さんと羽原監督に見ていただいて、OKが出たら全体会議となります。
全体会議で出た色々な意見を受けて次は脚本化です。まずは僕が「ゼロ稿」と呼ばれるものを作ります。「初稿」は、あくまでも福井さんが書かれるものですから僕が書くのはそのたたき台に当たるものですね。
もちろん、その「ゼロ稿」も福井さんと羽原さんに様々な意見をいただいて何度か書き直すんですが、それでOKとなったものを再び全体会議にかけ各パートの意見をもらい、今度は福井さんが持って帰って徹底的に書き直します。
福井さんが書き上げてきたものが全体会議で承認されると、それがようやく「初稿」となります。必要とあれば、第二稿以降は福井さんが直接書いています。
その間に僕のほうは次のロングプロットに着手して、あとはひたすらその繰り返しですね。
(略)
ただ、脚本が全てということではなく、さらにアクションやビジュアル面でのアイデアが、小林(誠)副監督を中心とした方たちから出されて、それが絵コンテに反映されていくわけです。
その過程で、脚本にあった要素がいくつか整理されていくこともあります。
「2202」の脚本はもとから長めに書かれています。でも、それでいいんだとスタッフ間での申し合わせがありました。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておいてくれという意味です。
その上で、さらに新たなアイデアが出てくれば豪快に盛り込んでいく。そうやって完成した映像が皆さんがご覧になられているものなわけです。
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以上の発言から、次のことが判る。
(1) 脚本の基になるのは福井晴敏氏の構成メモ。小説家の福井晴敏氏らしく多分に小説的なメモであり、切り捨てねばならないほどたくさんのことが書いてある。岡秀樹氏にとっては、どこを拾ってどこをスルーすべきかという取捨選択が難しい。
(2) 脚本は長めに書かれている。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておく。
(3) 脚本完成後でもアクションやビジュアル面でのアイデアが小林誠副監督たちから出されて、絵コンテに豪快に盛り込まれていく。その過程で、脚本にあった要素が整理されてしまうこともある。
(2) 脚本は長めに書かれている。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておく。
(3) 脚本完成後でもアクションやビジュアル面でのアイデアが小林誠副監督たちから出されて、絵コンテに豪快に盛り込まれていく。その過程で、脚本にあった要素が整理されてしまうこともある。
他の作品でSF考証を担当することの多い堺三保氏が、「脚本の決定稿が絵コンテ化されてアフレコ台本になるまでの間にドンドン変わっていくので、コンテとアフレコ台本のチェックをさせてくださいと頼んでいる」と述べているように、アニメの制作において脚本完成後に変わっていくことは多いのだが、特に2202では、脚本段階では存在しないアイデアが絵コンテ化以降に盛り込まれることがあるようだ。

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羽原:なにせ福井さんのアイデアがすごくて、山のように出てくるんで「ちょっと入りません」みたいな話をしながら調整させてもらっています。フィルムを作る段階でもコンテを見てもらって「ここはもうちょっとこういうセリフにしたほうがいいんじゃないか」とかいろいろアドバイスをいただいたりしながら作っているので、僕は監督っていう立場ですけれど、今回のヤマトは特にみんなで作ってる印象がすごく強いんです。
(略)
羽原:大体すごいアイデアは小林さんなんですよね。(略)僕らが考える前にどんどん出てくるので、僕はもう「ええ!すっげえ!!」と言っているだけです(笑)
G:福井さんも泣く泣く外さなければならないぐらいに盛りだくさんのアイデアを出してくるし、小林さんもまた本編に入らないぐらいにアイデアを出してくると。
羽原:本当にたくさんあって、いつもびっくりです。
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岡氏や羽原監督の話を要約すれば、こういうことだろう。
(a) 本編に収まりきれない福井晴敏氏の多分に小説的なアイデアを、岡秀樹氏や福井氏自身が脚本にしようとするが、1話30分の枠に収まるような脚本になっていない。
(b) 小林誠副監督たちからもメカや描写に関するアイデアがたくさん出される。絵コンテ以降にこれらのアイデアが盛り込まれることもある。
(c) 羽原監督は福井氏や小林誠副監督が大量のアイデアを出すことを歓迎している。
(b) 小林誠副監督たちからもメカや描写に関するアイデアがたくさん出される。絵コンテ以降にこれらのアイデアが盛り込まれることもある。
(c) 羽原監督は福井氏や小林誠副監督が大量のアイデアを出すことを歓迎している。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は1話30分枠である。全26話ということも初めから判っていたはずだ。
にもかかわらず、2202の制作プロセスからは、思いついてしまうアイデアを削ろうとする努力が感じられない。
小説ならいい。雑誌の連載回数を増やすことも、単行本のページ数を増やすことも、編集部と相談すればできないことではない。かつて福井晴敏氏が脚本を担当した映画『人類資金』(2013年)は、上映時間は140分しかないのに(それでも邦画としては長めだけど)、映画制作と並行して執筆された小説版は全七巻に及んだ。
一方、尺の決まっている映像作品では、尺に収めることが重要だ。
もちろん、ただ削ればいいわけではない。受け手が理解し、共感し、感動できるように充分な情報と説明と描写を提供し、しかも、あれもこれもと欲張らずにきっちり尺に収めねばならない。尺に対して過不足ない作品にするのが、もっとも難しいことなのだ。
どうも、2202の制作プロセスの記事を読むと、そして完成した作品を見ると、このもっとも難しいところに責任をもって取り組んでいる人がいないようだ。ストーリーや設定を検討している段階ならともかく、脚本作り、絵コンテ作りが進行している中でのこれはどうしたことか。

絵コンテマンや演出家が取捨選択するということは、なくしても構わない贅肉がたくさんあるということだ。もしも、どこも作品に欠かせない筋肉として昇華させていたら、取捨選択を他人に任せられるはずがない。完成度が高ければ高いほど、ここを削れば矛盾が生じる、この描写は欠かせないといった重要な場面・セリフだけになるはずだ。
ましてや、もともと枠に収まらないボリュームの脚本なのに、さらに副監督らがアイデアを豪快に盛り込んだりしたら、それでも放映枠は30分だからと何かしらを削除したら、グチャグチャになってしまうだろう(自分のアイデアを盛り込みたい人は、とうぜん他人のアイデアを削るだろう)。
上のインタビューでは言及されていないが、SF考証の小倉信也氏だってきっといろいろ考えていたはずだ。
できあがった作品では、真田さんが謎理論の断片を急いで口走るだけだったりでわけが判らなかったが、もしかしたら周到な設定が用意され、惑星とか重力とかヤマトの機能等々の特性を充分に説明できれば、受け手も腑に落ちる理屈が存在したのかもしれない。
それをどれだけ作品で活かせるか、受け手が納得できるように伝えられるかも、脚本家や演出、監督のバランス感覚があればこそだ。
多くの特撮番組やアニメの脚本を手がける小林靖子氏が脚本家としてデビューしたきっかけは、『特捜エクシードラフト』放映時に勝手に書いて送ったシナリオが東映のプロデューサーの目に止まったからだという。無名の小林氏が会社勤めのかたわら書いた脚本のどこが注目されたのだろうか。
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東映のプロデューサーさんと当時のメインライターさんが読んでくださって、「結構使えるかも」っていうことで連絡くださったんです。
(略)
後でお会いした時に言われましたね。「マニアックじゃないところがよかった」って。大抵、特撮好きの人が書くシナリオは「好き」が溢れてしまって、設定が凝りすぎな場合があるんですよ。でも、テレビ作品は、それを求めているわけではない。私はそういう方向は全然興味なかったので、お話1本、30分作品として尺ちょうどいいぐらいで、構成できていたんでしょうね。
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そのジャンルを好きな人がやりがちな「あれもこれも盛り込みたい」という欲望に、小林氏は囚われていなかったのだ。『特捜エクシードラフト』放映の翌1993年、『特捜ロボ ジャンパーソン』で早くも小林氏は脚本家デビューする。
尺とボリュームのバランスが大事だなんて、いまさら云うまでもないことだ。
■生まれる「時間」
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マンガ原作のアニメ脚本を書くのが意外と大変。
(略)
実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど、マンガを映像にすると“疑似三次元”になる。たとえばですね、「時間」が生まれるんですよマンガからアニメに映像化した時に。
(略)
マンガをページをめくりながら読んでると、時間経過とか距離移動とかあんまり気になりませんよね。でも映像にした途端、画の中に奥行きが出るのと、映像なので時間がどうしても流れるわけです。それが実はコマとコマの間ですごく重要な細部になったりする。例えば『ジョジョ』なんかだと、ジョジョがいつまででも走りながら、ずっとしゃべってるんですけど、実写では「この人、どこを走ってるの?」ってなってしまうから映像的な処理が必要になるんです。ちゃんと映像に翻訳して落とし込まないといけない。この人はどれくらいの距離を走っているんだろうと測ったりもします。ホントに細かい設定なんですけど、そういうところからキャラの心情描写を書きこまなければならないんです。
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たとえば、100メートルを走るあいだに五分もしゃべり続けたらおかしいから、脚本を書く際は100メートルでしゃべりきれるセリフに収めなければならない。あるいは五分間しゃべり続けられるようなシチュエーションに改変しなければならない。マンガではなんとなく許される表現でも、実際に時間が流れる映像作品ではおかしくなってしまうから、細部まで配慮する必要がある。それが「映像化する」ということだ。
小林氏が「実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど」とわざわざ付け加えているのは、映像にすると「時間」が生まれることに気づかないで描かれた絵コンテや完成したアニメーションを実際に目にしているからだろう。
2202の第9話「ズォーダー、悪魔の選択」は、これに気づかずに(無頓着に)作った典型的な例だろう。火急の際でありながら、のんびり長ゼリフをしゃべり続ける登場人物たち。セリフのやりとりが終わるまで、古代と雪を乗せたままいつまでも落下し続ける偵察機。
時間経過や距離移動の妥当性にまで落とし込んだ心情描写になっていないから、ニューヨーカーでなくても笑うしかないシーンになってしまうのだと思う。
第11話「デスラーの挑戦!」では、ヤマトの乗組員たちが、デスラー砲で撃たれてから、このままだと何が起こるか、どう対処すべきかについて話し始めて、破壊されることなくまんまと逃げおおせていた。撃たれた後に対処して間に合うのだから、デスラー砲恐るるに足らず。
小林氏のインタビューでは、ご自身の経験から、マンガからアニメに映像化した場合について語っているが、氏が述べていることは小説から映像化した場合についても同じことだ。
小説もマンガと同じく「時間」がない。正確にいうなら、受け手が時間の流れを止めたり、巻き戻したり、素早く進めたりできる。読者はページをめくる手を止めて、そのページをじっくり読んでもいいし、気になる箇所に戻ってもいい。何ページも続く独白でも、難しい用語が交ざる会話でも、さっと読み進めたり読み返したりしながら理解を深めることができる。
この特性を利用したのが、推理小説の最終章の前にある「読者への挑戦」のページだ。推理作家は、あえて読者にページをめくる手を止めさせて、トリックが解明できてから先を読むよう促すことがある。本は読者の手の中にあるから、解明できなくても読み進めることはできるのだが、それでは悔しい思いをする。そんな思いをするのも小説の楽しみの一つだ。
映像作品はそうはいかない。始まったが最後、ラストに向けて一方的に進行する。登場人物が周囲の状況を気にせず何分も話していたら受け手に笑われるし、さりとて大事なセリフや出来事はゆっくりと判りやすく、受け手の印象に残るように話さなければならない。小説家が考慮する必要のないそのチューニングにこそ、脚本家の、絵コンテマンの腕が問われる。
映像作品でも、Blu-ray Discやテレビ放映の録画、配信であれば、一時停止したり、場面を戻したりできるじゃないか、と思う方がいるかもしれないが、何度も見返して作品を分析するのが目的ならいざしらず、初見の鑑賞で一時停止や早戻ししてもらわないと理解できないようなら映像作品として失敗だ。
作り手なら、ここで受け手の感情を盛り上げようとか、ここはいったんクールダウンさせようといった計算を働かせているはずだ。しかし、一時停止や場面の戻しをされたら、計算してやってきたことが台無しになる。そしてなにより、映像作品としてもっとも大事なリズムが壊れてしまう。台無しになってもたいして影響のない作品は、最初から失敗作だ。
もしかすると、2202の出来には、福井晴敏氏が小説家であることが影響しているのかもしれない。2202は、小説の作法でつくられているのではないか。
2202で、しばしば物語の核心になると登場人物が突っ立ったまま演説をはじめてしまうのは、映像の力を理解していない・信じていないとしか思えない。
小林靖子氏は、映像化すると「時間」が生まれるから大変と述べているが、「時間」を生み出せることは映像作品の強みでもある。
受け手に対して、どのタイミングでどんな映像を見せ、どんな音を聞かせるか、すべては作り手の思いのままだからだ。映像作品において、作り手は受け手の時間感覚を支配できるのである。突然大きな音を立てて驚かせたりもできるし、素早い動きでスピードを実感させたりもできる。五感のうちでも重要な視覚と聴覚を刺激して、受け手に「体感」させられる。
これこそが映像作品の醍醐味のはずなのだが、アイデアを詰め込むことに汲々としていた2202で、はたしてそれを味わえただろうか。
(つづく)
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第15話『テレサよ、デスラーのために泣け!』
第16話『さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を』
第17話『土星沖海戦・波動砲艦隊集結せよ!』
第18話『ヤマト絶体絶命・悪魔の選択再び』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 内山昂輝 神田沙也加 田中理恵 麦人 千葉繁 石塚運昇 東地宏樹 赤羽根健治 池田昌子 井上和彦
日本公開/2018年5月25日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】