『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第四章「社会批評篇」
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『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第一章公開直後のインタビュー記事の福井晴敏氏の発言が私の目を引いた。
「波動砲封印問題は原発問題と、ガミラスとの同盟は日米安保と重なります。他にもいろいろと、すべて現代日本に当てはめられることばかりなんです」
原子力発電所を巡っては、いろいろ複雑な問題がある。アニメーション作品の枠を使ってそこに切り込むとは、なんと大胆な。私は作り手の気概に感心し、原発問題が描かれるのを待った。
ところが、待てども待てども原発問題は描かれない。波動砲封印問題には第13話で一定の結論が出たが、原発問題らしきものには触れなかった。そうこうしているうちに、2202は最終回を迎え、原発問題を取り上げないまま終わってしまった。
原発問題を取り上げる構想は見送られたのだろうか。なかなか複雑な問題だから、作り手の手に余ったのだろうか。そんな風に思っていたところに見つけたのがこの記事だった。公開されたのは2018年10月25日、2202の第五章「煉獄篇」(第15話~第18話)が公開される直前である。ここで福井晴敏氏はこう述べている。
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たとえば『ヤマト』に波動砲があるじゃないですか。あれが『2199』の最後で使っちゃダメということになった。でも使わないと世の中、成り立っていかない。これはさっき言った原発問題にもそのまんま当てはめられるから、身近に感じられますよね。
でもいまのリメイク版の波動砲の設定は余剰次元っていう、別の次元をつぶしたパワーで撃つみたいなことになってるんだけれども、その部分はわかりにくし、いま生きていく上で何かに例えられない。だから普通の生活に例えられないSF設定って、どうしてもコアユーザー向けになってしまうんですよね。
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……絶句した。
波動砲を、使わないと世の中が成り立っていかないものと捉え、それを原子力発電所に重ねられると考えていたのか。
■重ならない二つのもの
後世の人のために書き添えておくと、ヤマト2202が制作・公開された2010年代、日本では多くの原子力発電所が停止していた。
2011年3月11日に起きた東日本大震災、海を震源とする大地震は未曽有の津波を生じさせ、これが福島第一原子力発電所の事故を引き起こした。一方で、同じ東日本大震災の被災地であっても深刻な事故には至らず、それどころか付近の住民の避難先となって活躍した女川原子力発電所の例もあるから、原発は必ず事故を起こすとか、原発はおしなべて危険というわけではない。事故には事故ごとの原因とそこに至る経緯があり、それは個別に究明し、解決されるべきものなのだが、当時の政府は、電力会社に実質的な圧力をかけて全国のすべての原発を停止に追い込んだ。そのため、使わないはずだった古い火力発電所を稼働させたり、もちろんその原料を大量に輸入することになり、年間何兆円もの莫大な出費と膨大な労力を要することになった。
これはエネルギー政策の大転換だが、国会の審議を経て決められたわけではない。民主的な手続が踏まれていないことを批判する声もあった。政権が変わっても、与党が変わっても、その状況は継続した。それが2010年代の日本だった。
使わないと世の中、成り立っていかないから、みんなで腹をくくって使っちゃおう。というのが、原発問題に関する本作の作り手の思いであり、波動砲封印問題に仮託したものなのだろうか。
浅い、浅すぎる。
いや、浅いというより間違っている。
私はここで原発の稼働の是非や、エネルギー政策の良し悪しを論ずるつもりはない。本稿で指摘したいのは、波動砲封印問題が原発問題には重ならないことだ。
福井氏は、「原発問題にもそのまんま当てはめられるから、身近に感じられますよね」「生活に例えられないSF設定って、どうしてもコアユーザー向けになってしまう」「現代を映す鏡にならなくては意味がない」とおっしゃっている。
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大陸を吹き飛ばし、恒星のフレアも次元断層をもぶち破る、最大最強の兵器、波動砲。かつてSF小説の中だけに出てきた絶対兵器に相当するものを、人類は本当に手にしてしまった。
広島、長崎を壊滅させ、数十万人の人を死に至らしめた核兵器は、時代とともにその威力を増している。それがあまりにも凄まじいため、核兵器の使用をいかに封印するかが20世紀後半以降の人類の課題だ。日本政府は、1994年以来、毎年国連に核兵器廃絶決議案を提出し、多くの国の賛同を得ている。また、2017年には国連で核兵器禁止条約が成立し、この成立に貢献した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を授与された。こうした決議や条約は、核を持つ国と持たない国の思惑がうごめく国際社会にあって、なんとか核兵器を封印しようとする取り組みである。
2013年の段階で沖田艦長とスターシャの約束と波動砲の封印を描いた2199は、核兵器禁止条約の成立を先取りしたともいえ、世界人類の悲願を踏まえた、まさに現代を映す鏡に他ならない。
他方、原子力発電とは何かといえば、電気を供給して人々の生活を豊かで便利なものにし、もって世の泰平に貢献するものだ。私がこうしてブログの記事を公開できるのも、あなたが手許の機器でこの記事を読めるのも、夜でも部屋を明るくしたり暑い日に涼んだり医療機器を稼働させて命を救えるのも、ひとえに電気が供給されるおかげだ。
事故を起こさないように気をつけなければならないし、万が一事故が起こればその対応に苦労するが、原子力発電のそもそもの目的は原子力の平和利用なのであって、戦争の道具の核兵器とは位置づけがまったく違う。ときどき原爆と原発を区別せずに、原発の事故が核爆発かのごとく騒ぐ人がいるけれど、異なる問題を混同するような言動は世の中の迷惑になるだけだ。
2009年、第44代米国大統領に就任したバラク・オバマは、プラハの演説で「核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を明確に宣言する」と述べ、ノルウェー・ノーベル賞委員会はノーベル平和賞の授与でこれに応えた。それはオバマ大統領と国際社会との、核兵器のない世界を築くという約束だ。オバマ大統領は在任中に世界のすべての核兵器をなくすことはできなかったが、ロシアとのあいだで新戦略兵器削減条約(新START)を発効させ、現職の米国大統領では初めて広島を訪れる等の活動を行った。
そんなオバマ大統領が、仲間たちみんなが合意すれば約束を破っても構わないとばかりに、もしも大統領補佐官や国務長官、国防長官らと一緒に核ミサイルの発射ボタンを押していたら、私たちは「使わないと世の中、成り立っていかない」などと云って受け入れられるだろうか。オバマ大統領が周りのみんなと一緒になって核ミサイルの発射ボタンを押すなんて、とてもバカげた妄想だが、2202の第13話で乗組員が一丸となって波動砲を撃つのは、そういうことに重なるのである。波動砲を向けた先にいるのはゴーランド率いるガトランティス艦隊であり、ヤマトの攻撃で多くのガトランティス乗組員が殺された。原発を稼働させて、国民の生活や産業を支えるのとはわけが違う。
このように性質の違う問題を、重ねられると考えて現代を映したつもりになるのは、あまりにも乱暴だ。
「使わないと世の中、成り立っていかない」と云って最終兵器の引き金を引くことを肯定するなど、世界から核兵器をなくすために努力している多くの人を愚弄するものだし、それが原発問題に重なるなんて、原発の安全な稼働のために大勢の人が尽力している現状であまりに失礼な言い草だ。
その程度の認識だから、せっかく2199で除かれた「宇宙放射線病」という用語を、うかつにも使ってしまうではないだろうか。詳しくは「『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話」をご参照いただきたいが、2202を観ていると現実社会に対する認識の甘さを感じる。
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不本意でもやらざるを得ないことは、人生にたびたびあるかもしれない。だからといって、波動砲の引き金を引くことを持ち出すのは飛躍し過ぎだ。この状況をもってして社会の映し鏡とするのはいくらなんでも無理がある。独りよがりに過ぎるであろう。
しいて原発問題を当てはめるなら、波動砲ではなく波動エンジンのほうだろう。
波動エンジンは宇宙を航行するためのものであり、兵器としての使用が第一目的ではない。波動エンジンを使わなくても宇宙を航行できることはできるが、所要時間やエネルギー量、補給等の面で、恒星間旅行では現実的ではない。
そんな波動エンジンを停止せざるを得なくなったらどうするか。エネルギー供給が止まる、機械が止まる、日常の生活にも困る。このままでは、人々を救うという旅の目的を達成できないのではないか。使わないと世の中、成り立っていかないのではないか。――というアジェンダの設定の仕方であれば、身近に感じられ、生活にたとえられ、現代を映す鏡として意味あるものに感じられたかもしれない。
ビートたけしさんの往年のギャグに「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」というものがあった。一人だったらやってはいけないと判ることでも、周りもやるなら構わない。倫理感も合理的な判断も消え失せる。そんな人間の愚かさと恐ろしさを痛烈に皮肉ったギャグだと思った。たとえ一人になっても何が正しいか考えようという努力を放棄し、「同志との彼我一体的な心情的連帯感」に呑み込まれ、みんなで同じことをすれば安心するのはいかにも日本人らしい。
2202における波動砲封印問題の"解決方法"を見て思い出したのがこのギャグだった。2202はブラック・コメディなのだろうか。私には笑えないのだが。
■釣り合わない選択肢
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その最たるものが、全編を通じたクライマックスである最終回の国民投票だ。
2202がどのような結末を迎えるか問われた福井晴敏氏は、次のように語っていた。
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これまで視聴してきた側は、古代たちがどう戦い、どう苦しんできたのかを画面の向こう側のこととして、観て、知っているわけですが、最終的な選択というのがまた突きつけられることになります。
でも、それに答えられるのは、観ているあなた達なんです。
これは比喩ではないですし、画面の向こうから語りかけるわけではないんですが、本編を観ながらいきなり自分が当事者になった感覚を味わうことになると思います。
それは、フィクションの中で想像してということではなく、観ている人たちもつい数年前にこのような選択を突きつけられたはずで、その時にどうしましたかということを改めて考えさせる最終回になっていると思います。
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ここでいう「つい数年前」とは、2011年の東日本大震災を指しているのだろうか。観ている人たちが一様に何かを迫られたつい数年前の出来事といえば、東日本大震災をおいてないと思う。
巨大地震と太平洋岸の大津波、そして大火災は、東日本の広範囲にわたり大きな被害をもたらした。原子力発電所、火力発電所、水力発電所が停止し、各地の送変電設備は故障して、日本各地に電力不足を引き起こした。東京電力では輪番停電を実施し、多くの家庭や事業所が停電の影響を被った。
最終回で提示された「最終的な選択」とは、古代進と森雪の二人の命と、時間断層のどちらを取るかという選択だった。
外界よりも時間が10倍進む時間断層。これを使えば10日かかることを1日で、10年かかることを1年で終えられる。短期間に波動砲艦隊を揃えられたのも、時間断層内に軍需工場を設けたからだ。この時間断層を利用すれば、高次元世界にいる古代と雪を救出できるという。ただ、古代と雪の救出作戦を決行すれば、時間断層は消滅し、二度とその恩恵にはあずかれない。それでも二人を救出するか。それとも時間断層を維持するか。
2202の最終回ではこの選択を国民投票に付すこととし、救出を呼びかける真田さんと、時間断層の必要性を訴える芹沢虎鉄統括司令副長が、それぞれ地球連邦の国民に演説する。はたして投票の結果はいかに。国民は古代と雪を救出すべきと考えるのか、時間断層の存続に軍配を上げるのか――。
福井氏の念頭にあるのが東日本大震災だとすれば、私にはこの「最終的な選択」があの大災害の状況とどう結びつくのか今一つピンと来ない。
あのとき、人の命を犠牲にしてでも設備を存続しろなんて声があっただろうか。被災地に取り残された人、孤立した人を救うために、多くの人が努力したし、原発事故に対処するために危険な任務を遂行した人もいた。被害の大きい人も小さい人も、被災地から遠く離れて安全だった人も、自分や家族や周囲の人、見ず知らずの人のために、それぞれが自分にできることをしていたと思う。
それとも、福井氏の念頭にあるのは、中東で日本人の渡航者が武装組織の人質になった事件だろうか。このとき、救出のために武装組織に身代金を払う払わないで、世論はずいぶん割れた。
しかし、この事件の人質と古代・雪とでは帰れなくなった事情が違い過ぎる。武装組織との交渉という難題が横たわっている人質事件に比べれば、古代・雪の場合は遭難事故のようなもので、そこに行きさえすれば助けられると判っているのだ。
古代と雪の救出と、時間断層の存続を天秤にかけることにたとえられる、つい数年前に突きつけられた「このような選択」とは、何を指すのだろうか。私にはよく判らない。

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「最終的な選択」「自分が当事者になった感覚を味わうことになる」というからには、2202を観てきた側が身につまされるような、身に覚えがある選択肢が用意されるべきだろう。だが、およそ時間断層の存続を選ぶ国民がいるとは思えないのだ。
なぜなら、時間断層の存在は政府のトップシークレットとして、国民に隠蔽されてきたからだ。2202を観ている観客/視聴者とは違い、劇中の国民はそんなものの存在も、地球復興にどう役立ったのかも、対ガトランティス戦にどんな意味を持つのかも、まるで知らされていなかった。突然芹沢がテレビに出てきて、時間断層は役に立ちますと云ったところで、大多数の国民にとって何の重みもありはしない。
人間は、いま持っているものを失うことはとても恐れるが、いま持っておらず、これから得られるかもしれないものについてはそれほど重視しない。行動経済学のプロスペクト理論では、これを損失回避性と呼ぶ。ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーによれば、得られることによる満足度の上昇に比べて、失うことによる満足度の低下は二倍以上だという。人間の行動が必ずしも合理的ではないことを明らかにしたこの理論により、ダニエル・カーネマンはノーベル経済学賞を受賞した。
時間断層の存在を知らなかった国民にとって、時間断層を「自分たちが持っているもの」として実感するのは難しい。産業に役立つとか「地球百年の大計を考えて判断を下すべき」と芹沢が訴えたところで、大多数の国民は関心を持たないだろう。もうガミラスとの戦争からの復興も進み、ガトランティス戦での傷も癒えてきた国民には、今の生活さえ損なわれなければそれでいいのだ。
もしも政府が早くから時間断層の存在を公にし、国家の基盤として大々的に宣伝・活用していたなら話は違っていたはずだ。すみやかに復興できたのも時間断層のおかげ、対ガトランティス戦を切り抜けたのも時間断層のおかげと国民も認識できただろうし、時間断層を活用した産業が発展し、日々の糧を得るのに時間断層が欠かせないという人も増えていたに違いない。
そんなときに、これから時間断層を消滅させます、時間断層を利用していた企業は潰れます、関連産業に従事していた人やその家族はもう食べていけませんと云われたら、猛反発されたはずだ。人間は、いま持っているものを失うことをとても恐れるから。
けれども、芹沢たちはそうしてこなかった。
他方、ガミラスとの戦争でヤマトが地球を救ったことは誰でも知っている。第十一番惑星にガトランティスが侵攻したとき、生き残った子供はヤマトが救ってくれると信じていた。帝星ガトランティスが太陽系を襲ったときも、人々はヤマトに期待した。ヤマトは希望の象徴として人々の胸にしっかり刻み込まれているのだ。
それはヤマトという船だけでなく、乗組員も同じである。英雄の丘に建てられた亡き沖田艦長の像が、ヤマトの乗組員が英雄視されていることを示している。沖田艦長だけでなく、ガトランティスとの戦いで犠牲になった乗組員たちみんなの名も丘の碑に刻まれているのだ。
その乗組員の中でも戦術長だった古代進と船務長だった森雪が、高次元世界で"生きて"いる。居場所も判っているし、助けられる。いま助けなければ、二人の存在は永遠に失われる。
この状況下で国民投票をしたら、多くの票が二人の救出に流れるだろうことは想像にかたくない。
2202の最後を飾る「最終的な選択」を、身近に感じられ、生活にたとえられるものにしようと思うなら、時間断層の恩恵にあずかる市井の人々を描くべきだった。時間断層で急速に培養したワクチンに救われて喜ぶ子供とか、時間断層から続々と届けられる復興資材に沸く人々とか、それらによって暮らしぶりが変わっていく歳月とか、描こうと思えばできることはたくさんある。
そのような、生活に密接に絡んだ時間断層の存在意義を見せられた上で、国民投票のシークエンスが展開したなら、観ている側も自分ならどうするだろうと当事者になった感覚を味わったかもしれない。
あるいは、ヤマトが希望の象徴として尊重されておらず、乗組員たちの名が碑に刻まれるようなこともなく、古代も雪も政府の制止を振り切って勝手に危険地帯に足を踏み入れて帰れなくなった連中であるとされていたなら、それでも救出すべきと思うのかと問うのであれば、現実感をもって受け止めたかもしれない。
二人の救出を訴える真田さんは、全国民に向けて演説する。「英雄だから犠牲を払ってでも救う価値があると考えるのは間違っています。もし、彼と彼女を救うことで自分もまた救われると思えるなら、……ぜひ二人の救出に票を投じてください。」これは設問の仕方が間違っている。劇中において古代と雪が英雄扱いされているのは揺るぎない事実であり、その否定しようのない前提がある上で「彼と彼女を救うことで自分もまた救われると思えるなら」と論を進めるのは、とどのつまり二人の英雄と自分とを同一視してくださいと持ち掛けているに等しい。国民のナルシシズムをくすぐっているだけだ。
まったく無名の、どんな功績があるかなんてほとんどの国民が知りもしない赤の他人だけれど、そんな人を救うことで自分もまた救われると思えるなら……と問いかけてはじめて、観ている人たちに自分が当事者になった感覚を味わわせることができるだろう。私たちが現実に目にするのは、国民的英雄と自分とを同一視できるような機会ではなく、見知らぬ他人が窮地に陥っている場面ばかりなのだから。
おそらくこの国民投票も、作り手の中では現代を映す鏡としての位置づけであり、作り手にこれを書かせた現実の何かがあるのかもしれない。
だが、現実の捉え方が浅く、あるいは見当違いなために、残念ながらピンと来ない。いま生きていく上での何を何にたとえているのか判らないのだ。2202には随所にメタファーらしきものが見え隠れするけれど、中途半端なメタファーは見る者をイラつかせるだけだ。
福井氏は「SFの社会批評的な機能って、とくに大人が見るときには重要なところだ」と述べている。
大人の鑑賞に堪えられる批評を展開するには、現実を的確に捉え、深い洞察力をもって、充分に掘り下げる必要があるだろう。
(つづく)
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第11話『デスラーの挑戦!』
第12話『驚異の白色彗星帝国・ヤマト強行突破!』
第13話『テレザート上陸作戦・敵ミサイル艦隊を叩け!』
第14話『ザバイバル猛攻・テレサを発見せよ』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 内山昂輝 神田沙也加 田中理恵 麦人 千葉繁 石塚運昇 東地宏樹 赤羽根健治
日本公開/2018年1月27日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第三章「断絶篇」
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 3 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/713QxBvHtKL._SL160_.jpg)
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は、旧作『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のリメイクであると同時に『宇宙戦艦ヤマト2199』の続編でもある。
だが、リメイクとしての要素と続編としての要素、その配分はずいぶん違う。
シリーズ構成と脚本を担当した福井晴敏氏は「『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』ではなく、いわゆる続編を作って欲しいと言われたらやっていなかったかもしれないです」と語っている。
ならば『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のリメイクに徹すれば良さそうなものだが、2199の続編という位置づけにもしたのは、次のような経緯であったという。
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最初は『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)のリメイクをただ担当してほしいというオファーだったんですけど、せっかくアニメで『宇宙戦艦ヤマト2199』(2012年)を劇場上映したばかりですし、そちらのお客さんを繋ぎとめずに1から単品で作るのはリスキーだろう……というわけで、続編という形で描かせてもらうこととなりました。
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要は、これから作る『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のリメイクに、『宇宙戦艦ヤマト2199』のファンを引きずり込んで、安定した集客を図ろうとしたわけだ。
だから、続編といっても2199をリスペクトしようとか、その設定を尊重しようという思いは薄かったのではないかと思う。2199は成功作とはいえない、という認識から2202が構想されているらしいこと、2199とのいくつもの断絶が生じていることは、以前の記事「『宇宙戦艦ヤマト2199』の総括と『2202 愛の戦士たち』」で述べたとおりだ。2202の入り口にこそ2199と共通する要素をいくつか蒔いてあったけれど、ひとたびファンを引きずり込めば、あとは『さらば――』のリメイクとして、それもみずからヤマトの大ファンではなく距離感があると公言する福井氏が今の市場に投下するに相応しいと独自に考えたあり様に改造していったのだ。
だから、たとえば2199のオリジナルキャラクターたち(新見、星野、岬ら)を、諸事情からヤマトに乗れなかったことにして、そうそうに退場させてしまった。
同時に古代進という人物を、2199の冷静沈着な(戦術長に相応しい)性格から、旧作の(とても艦長代理が務まるとは思えない)感情的な男に変えてしまった。本作は古代が思い込みで突っ走らないと始まらないことから、副長の真田さんともあろう者がみずからの役割を放棄し、古代を艦長代理にしてしまう。あまりにも無茶苦茶だし、細部に至るまで納得感のあった2199の続編としてみれば理解に苦しむ展開だが、『さらば――』のリメイクに軌道修正する過程としてみれば、さもあらんというところだ。
無茶な展開になろうとも2199から強引に軌道修正した2202だが、それでも苦労したと覚しいのが、デスラーと波動砲の扱いだ。
■デスラーを巡る矛盾
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けれども、『さらば――』のデスラーは、たかだか地球人の一士官でしかない古代とも心を通わせる武人になってしまう。とすれば、『さらば――』のリメイクである2202でも、デスラーの人物像は大きく変えざるを得ない。それは判る、判るのだが、ではいったいどうやって、2199で自国民をも殺してガミラス星を捨てようとした恐るべき独裁者を、聞き分けの良い武人にするのか。これぞ2202の作り手の手腕が試されるところだと思った。
その手法は驚くべきものだった。2199の設定を無視、あるいは矛盾が生じても放置したのである。
デスラーが首都バレラスを攻撃したのは、首都に巣食う裏切り者を一掃するためとされた。バレラスに裏切り者が何人いたのか判らないが、子供を含む多数の国民を抹殺することを、それしきのことで正当化しようというのである。たとえば、今の日本で、首都にテロリストが紛れ込んだから核爆弾を落として首都の人間を全員抹殺しますと発表して、国民の賛同を得られるだろうか。そんな決定をした人物を立派な為政者として受け入れるだろうか。デスラーを正当化するのであれば、バレラス一帯に住むすべてのガミラス人がデスラーにとって許せない、ガミラスに害をなす人間であったと説明しなければならないのに、軍の裏切り程度のことではまるで説明にならない。
しかも、おびただしい国民の大虐殺を図ったデスラーは、国民の命を救うために行動していたのだという(@_@;)
デスラーの過去が明かされる第15話「テレサよ、デスラーのために泣け!」は、ギャグなのか?と首をひねる場面から始まる。
卓を囲んだ側近たちを前に、デスラーの叔父エーリクが語る。「我らが母星の寿命は尽きかけている。もってあと百年。」外で轟く雷の音。「……そして、我々純血のガミラス人は他の星では長くは生きられない。」母星の寿命がもってあと百年と聞いても動じなかったのに、純血のガミラス人は他の星では長くは生きられないと聞いて驚愕する側近たち。
観客は、驚く側近たちに驚いてしまう。驚くところが違うのだから。
太古より、少なくともイスカンダルがビーメラ人を救済しようとした400年前(2199第16話「未来への選択」)より昔から「ゲシュタムの門」、すなわち亜空間ゲートを管理し、銀河系間を自在に旅していたガミラス人にとって、他の星での適応性なぞはとっくの昔に判っていたはずだ。新事実は母星の寿命が短いことのほうなのに、ピントのずれた会話をする人たちである。
劇中人物が驚くことと観客/視聴者が驚くとこは違うから、演出的には、母星の寿命が短いことを告げたセリフのあとに驚愕する側近の描写があり、ガミラス人が母星を離れては長くは生きられないというセリフのあとに雷鳴が轟いて事態の重さを観客/視聴者に感じさせるべきであった。この回を担当したスタッフは、2199を見ておらず、2199の設定も知らず、自分が何をしているか判っていなかったのだろう。
だいたい、星の寿命が尽きるとは何なのか。
母星というからには恒星サレザーではなく惑星ガミラスのことを指しているのだろうが、惑星は何十億年も存在し、その変化は極めてゆっくりとしか起こらない。遊星爆弾が撃ち込まれて環境が激変するならともかく、惑星の寿命があと百年で尽きるという状況で、表立った現象が何もおこらないのだろうか。寿命が尽きる間際まで気づかなかったなんて、ガミラス人は愚鈍で蒙昧ということか。大マゼラン銀河、小マゼラン銀河はおろか天の川銀河にも及ぶ星間国家を築きながら、惑星科学の片鱗もなかったのだろうか。

かつて地球人類にも、青い発光ダイオードを作ることはできないと考えられていた時代があった。けれども、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏らの研究により1993年に高輝度青色発光ダイオードが実用化されてからというもの、以前からあった赤色と1995年に実用化された緑色と併せることで三原色を揃えられるようになり、フルカラー表示を活かした機器が街の景色を急速に変えていった(この業績により、三氏はノーベル物理学賞を受賞)。20世紀の地球人でさえブレイクスルーを成し遂げたのに、ガミラス人は何をしているのだろうか。
2199で描かれた偉大なガミラス人は、2202になった途端にボンクラばかりになってしまったようだ。
しまった、また2202のおかしいところを指摘してしまった。こんなことをしていたら、ちっとも論が進まない。
ともかく、デスラーは国民が移住できる星を急いで探す必要に迫られており、すべてはガミラスの民のためであったというのである。そのためには独裁も虐殺も正当化されるというのが、2202の流れであった。
そして太陽系へ侵攻したのも、地球が移住先の候補だったからであり、遊星爆弾による攻撃で地球の環境を改造してガミラス人が住みやすくしていたのだという。
困ったことだ。作品に矛盾を来して説明がつかなくなってしまうから2199が慎重に排除した要素を、またぞろ復活させてしまうとは。
ガミラス人が地球への移住を望んでおり、地球人にとって"汚染"と思われた攻撃はガミラス人にとって快適な環境へ改造する行為だったという設定は、旧『宇宙戦艦ヤマト』に存在したものだ。しかし、この設定にはいくつもの問題があるため、削除するのがもっとも妥当な解決策だった。このことは先の記事「『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話」で述べたとおりだ。
にもかかわらず、2202はこの設定を復活させてしまった。遊星爆弾による攻撃がガミラス人に快適な環境への改造でないことは明らかなはずなのに。キーマンはじめ多くのガミラス人が地球人と同じ環境で暮らす2202の世界にあって、かつて地球人類を絶滅の危機に追い込んだガミラスの攻撃が、地球人には"汚染"でもガミラス人には環境改造であるはずがない。ガミラスの攻撃はガミラスフォーミングだった、という設定を捨てたからこそ、2199では偶然にも森雪がガミラス人の中で過ごすエピソードを作り得たのであり、その延長線上での2202の描写の数々(地球人の藪がガミラス艦の乗組員として健在であるとか)のはずだ。
それに、『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』において地球人とガミラス人の起源は同じであることが明かされており、その伏線として2199劇中でガミラス人のDNA配列が地球人と同じであることが突き止められている。
これらの前提がありながら、ガミラス人だけ母星を離れては長く生きられないとか、地球の"汚染"がガミラスフォーミングであるとか述べるのは、いくらなんでも無理があるだろう。
あの保身に汲々としていたゲールが、寿命が縮むのも覚悟の上でバラン星に駐在していたとでもいうのだろうか。銀河方面作戦司令長官にまで上り詰めた者が、母星を離れた僚友たちが早死にするのを知らなかったとでもいうのだろうか。
2202はこんなおかしな状況を積み重ねた挙句、ヴォルフ・フラーケンら現政権側の人々がデスラーを迎え入れる描写で終わる。
デスラーは首都を破壊しようとした大罪人だというのに、ガミラスの人々は何を考えているのだろうか。
福井晴敏氏は、2202の内容が「現代日本に当てはめられることばかりなんです」と述べているが、デスラーを巡る描写は、民を見放し、苦しめる為政者を性懲りもなく選挙で勝たせてしまう日本国民の愚かさを表現しているのだろうか。
■反故にしたもの
![宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51LofgF4TdL._SL160_.jpg)
2199の終盤において、ヤマトの波動砲は封印された。映画『星巡る方舟』では、波動砲を撃てなくても機略を尽くして戦うヤマトが描かれた。
しかし、『さらば――』をリメイクするなら封印されたままというわけにはいかないだろう。2199のラストで示されたのは、ヤマト一隻に限らず、波動砲のない世の中を作るという決意だったからだ。この新たな設定を尊重したら、『さらば――』の目玉であるアンドロメダを出せないだろうし、波動砲を備えた地球艦隊とガトランティス軍の戦いも描けない。
波動砲の封印という設定は、まるで安易な続編を許さない出渕総監督が深謀遠慮の末に仕掛けた続編そのものの封印であるかのようであるが、ともあれ、2202を始めた以上、どこかの時点で封印を解かねばならないのは明らかだった。ヤマトも、地球艦隊も。
どの時点で、どうやって封印を解くのか。それはとても興味をそそられる問題だった。
ところが、封印は驚くほどアッサリ解かれた。
波動砲の発射口に取り付けられた封印のための蓋を、改装作業にかこつけて外してしまったのである。アッサリ過ぎる!
あとは撃つだけとなったわけだが、古代はなんだかグジグジしている。
ガトランティスの面々がバラン星でのヤマトの活躍を観測し、一様に波動砲の威力に恐怖する中、なぜかズォーダーだけは波動砲の存在も波動砲を撃てないことも先回りして知っており、ニヤニヤしている。
第十一番惑星でヤマトに助けられた斉藤は、艦橋に乗込むと古代に食ってかかる。「あんた、何ためらってんだ!?何でヤマトは撃たねえんだ、波動砲を!」
第十一番惑星に立ったキーマンは、ヤマトが沈んだ地平を眺めながら、ヤマトは以前のヤマトではないとつぶやく。
不思議なことに、ヤマトが波動砲という強力な兵器を持っていながら使わないのは、ただ古代一人の心の持ちようの問題であると宇宙中に知れ渡っているのだ。
私にはまったく判らなかった。どうもこの作品は、波動砲を撃たない理由を、亡き沖田艦長がスターシャと約束してしまったことに求めているらしい。
そんな馬鹿なと思ったが、続くどの回を見ても、古代は「沖田さんが」とか「スターシャとの約束が」とか、そんなことばかり云っている。どうやら、本当に沖田艦長とスターシャが交わした約束を尊重するかどうかしか気にしていないようなのだ。
この葛藤は第13話まで続く。
その間、誰も口にしないのだ。なぜ波動砲を使わないことになったのか。スターシャが波動砲の封印を要請しなければならなかった背景も、沖田艦長が受け入れた理由も誰一人として気にしない。だから、ただ単に古代が意地っ張りのように見えて滑稽だったし、それしきのことを宇宙中で大騒ぎするドラマを見るのは苦痛だった。
なぜ古代は、斉藤に食ってかかられたとき答えなかったのだろう。宇宙が引き裂かれてしまうのだと。敵味方の区別なくみんな死んでしまうおそれがあるのだと。
太古に繁栄した覇権国家イスカンダルの恐ろしいところは、宇宙を引き裂き、大災厄をもたらす波動砲を、みずからの征服欲を満たすためには平気で使うところにあった。波動砲こそは最終兵器、宇宙を破壊する兵器だった。
破壊力の大きさでいえば、ガミラス帝国に逆らったオルタリア人を惑星ごと焼き尽くした惑星間弾道弾だって充分凄まじい威力である。しかるに、波動砲にばかりスターシャがうろたえるのは、単なる戦争での勝ち負けを超越した災厄を宇宙にもたらすからに他ならない。
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 2 [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/S/aplus-media/sota/4b51f624-6ec4-41e0-b5cf-529fd19ab1fa._SL160_.jpg)
2199の設定を反故にして、2202ではアンドロメダも他の戦艦も何のためらいもなく波動砲を撃ちまくった。古代も真田さんも、スターシャとの約束を守るかどうかしか頭になく、約束を交わすことで何を守っていたのか忘れていた。
いや、『さらば――』のリメイクではアンドロメダをはじめとする地球艦隊が波動砲を撃ちまくるシーンが必須だと考えた作り手は、波動砲の封印にまつわる問題を単にスターシャとの約束の有無に矮小化し、そこに主眼を置くことで、波動砲の性質に関する真の問題から受け手の目をそらそうとしたのかもしれない。深く考えていなかっただけかもしれないが。
結局、この問題は第13話においてヤマトの乗組員みんなの合意で約束を破ることで解決とする。
なんのことはない、第1話の時点ですでに波動砲艦隊計画を推進していた芹沢虎鉄と同じ結論にたどりついただけなのだ。
壮大な遠回り――たいへんな労力を費やしながら、これらの描写が示したのは2199との断絶であった。
(つづく)
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 3 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71HamyacIwL._SL160_.jpg)
第7話『光芒一閃!波動砲の輝き』
第8話『惑星シュトラバーゼの罠!』
第9話『ズォーダー、悪魔の選択』
第10話『幻惑・危機を呼ぶ宇宙ホタル』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 田中理恵 麦人 千葉繁 石塚運昇 東地宏樹 赤羽根健治
日本公開/2017年10月14日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第二章「ミリタリー篇」
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 2 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/717nBmncZHL._SL160_.jpg)
SFのサブジャンルにミリタリーSFというものがある。
堺三保氏はミリタリーSFの定義を論じる中で、次の点を重要な条件として挙げている。
(1) 主人公が軍人である。
(2) 戦争が、舞台設定であると同時に、物語のテーマでもある。
(3) 戦闘の詳細な描写があり、戦術や戦略に関する専門的かつ技術的な言及がある。
(4) 舞台は未来かつ地球外のいずこかである。
(2) 戦争が、舞台設定であると同時に、物語のテーマでもある。
(3) 戦闘の詳細な描写があり、戦術や戦略に関する専門的かつ技術的な言及がある。
(4) 舞台は未来かつ地球外のいずこかである。
条件により強弱はあるものの、『宇宙戦艦ヤマト』はこれらをほぼ満たしている。それまでのアニメーション作品には珍しく、『宇宙戦艦ヤマト』はミリタリーSFだったのだ。
■『宇宙戦艦ヤマト』が拓いた道
ヤマト以前のテレビアニメでも、人類を襲う○○星人や○○帝国といった類いが登場したことはある。だがそれは、司令官や将軍と呼ばれる幹部が毎回一体ないし二体程度の戦闘獣とかを送り込んで主役メカに挑むような、およそ軍隊とも戦争ともいえないものだった(それはそれで面白いのだが)。
SFの外に目を向けても、戦争物のテレビアニメは珍しかった。ヤマト以前となると『アニメンタリー 決断』や『0戦はやと』くらいだろうか。主人公が軍人ということであれば『のらくろ』も挙げられるかもしれないが、あのギャグアニメを戦争物と捉える人はいないだろう。
『宇宙戦艦ヤマト』はミリタリーSFの地平を切り拓いたアニメと云える。ヤマトがミリタリー色のある作品になったのは、戦記マンガを得意とする松本零士氏の参画が寄与したのかもしれない。
ミリタリーSFの魅力はいろいろある。現実の戦争を取り上げると「史実」が足枷になりかねないが、ミリタリーSFであれば架空の戦争、架空の軍隊、架空の戦場を舞台に、作り手の思いを強く打ち出したり、現実では描きにくい(戦争のある面を極限まで突き詰めるような)展開を含めることができる。このような魅力の存在を視聴者に知らしめたのが、『宇宙戦艦ヤマト』だった。
その意味で、ガミラスに勝利した古代の独白の場面は、やはり『宇宙戦艦ヤマト』の大きな見どころの一つだったと思う。
勝てば嬉しい、負ければ悔しいという単純な感情に基づく作品が多い中、ヤマトの攻撃で廃墟と化したガミラスの都市を見下ろしながら、古代進はこうつぶやいた。
「地球の人もガミラスの人も幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。……我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か……くそでも食らえ!」
ここで描かれたのは、勝者の虚しさだった。
このセリフに至るまでに、『宇宙戦艦ヤマト』は古代進がたった一人の肉親である兄・守の戦死の報に触れるところから物語を始めるとともに、民間人も含めた戦争の犠牲や、進が戦災孤児であることを描いていた。それら戦争物としての積み重ねがあるから、このセリフが観る者の心に響くのである。
■道を進む『宇宙戦艦ヤマト2199』
![宇宙戦艦ヤマト2199 2 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81LuEaHXOWL._SL160_.jpg)
2199のミリタリー色については語るまでもないだろう。
その作風を形づくるにあたって、スタッフは海上幕僚監部に取材協力を仰ぎ、乗組員の敬礼や用語・口調にもリアリティを追求した。時代設定は2199年なのに、なぜ21世紀初頭の自衛隊にならうのか疑問に思う人がいるかもしれないが、2199は古代たちの属する組織を「国連宇宙軍」とすることで、現在の国際社会の枠組みが23世紀末まで存続したのであろうことを示唆している。
2199は、戦争というものが愚かな行き違いから起こることも描き、自分たちに理があると思うことですら、戦争では信じられないことにも言及した。
戦争状態にあっては、人種や民族の差別が悲しい形で顕在化することも、老兵や少年兵すら駆り出さねばならなくなる国家の末路をも示した。
堺三保氏が「つまりミリタリーSFとは、戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、戦争という行為そのものを題材としてとらえ、作者自身の戦争観をさらけ出している作品のこと」と述べたとおり、2199は作り手の戦争観をさらけ出し、もって我々受け手の戦争観に内省を迫った。
『宇宙戦艦ヤマト』では古代が一人で担った役割を、2199は古代と山本玲の二人に担わせたことも、戦争をより多面的に描く上で功を奏した。
『宇宙戦艦ヤマト』第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」では、ガミラス人捕虜に憎しみをぶつけるのも助けようとするのも共に古代進だったが、2199の第10話「大宇宙の墓場」では古代と同じく天涯孤独の山本がガミラス人に憎しみをぶつける一方、古代は冷静に接しようと努めており、人間の多面性を目に見える形で示していた。
戦闘シーンの工夫も2199ならではだろう。
2199では宇宙という立体的な空間を存分に活かし、円筒形や十字型の陣形に展開したガミラス艦隊がヤマトを襲った。劇中で陣形に関する詳しい説明はないものの、映像を見ればドメルの指揮する艦隊はひと味違うことが判るようになっていた。
さすがというしかない。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とミリタリー
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 1 [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/S/aplus-media/sota/479e9ce9-3de7-4f73-83fb-684d2fdee93e._SL160_.jpg)
ところが、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第一章「嚆矢篇」は――というか第1話は、何だかおかしな始まり方だった。
どことも知れぬ宙域に集結した地球とガミラスの連合艦隊が、どことも知れぬ惑星を占拠したガトランティス艦隊と交戦する。ガトランティス艦隊はこれといった陣形も取らず、ふわふわ浮いているだけ。以前の記事でT.Nさんが「これなら拡散波動砲のように広域を照射できる艦首砲一発で全てを薙ぎ倒せるでしょう」と指摘したとおり、ガトランティス艦隊はアンドロメダが拡散波動砲を撃ってくれるのをただ待っているかのようだった。対する地球・ガミラス連合艦隊も、ぼんやりと集まってただ前進するだけ。戦闘の仕方になんの工夫もないのである。
いや、工夫がないと云っては失礼かもしれない。これが工夫だったのだから。
羽原信義監督は、艦隊の描き方についてこう述べている。
---
やっぱり物量を見せてあげるのがいいのかなと考えました。「2199」の時は、わりと艦隊の並び方とかきちんとやっていて、今回どうしようかなと思ったんですけど、そこはなるべくケレン味と迫力が出るようにしました。
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艦艇やミサイルをたくさん並べるのが2202の工夫だったのだ。
加えて、両艦隊が交戦するさなか、ガトランティス艦隊の奥から巨大な十字架のような岩塊が出現する。他の空母や駆逐艦をはるかに凌駕する途方もない岩塊が砕け散ると、その岩塊はほとんどただの岩だったようで、中からはやや大型の戦艦が現れる。
艦隊戦を交え、ガトランティス側も多くの艦艇を失っていたというのに、なぜ、味方の被害が甚大になるまで大戦艦が岩をまとって後方に隠れていたのかは判らない。戦艦大和が機動部隊の後ろに控え、結局大和が活躍する前に機動部隊が壊滅してしまったミッドウェー海戦の大敗北を持ち出すまでもなく、いくらなんでもそれはないだろうと云いたくなる展開だ。
しかも、ぼんやりと集まってただ前進していたガミラス艦隊は、案の定大戦艦の雷撃旋回砲の一撃で全滅。一方、ふわふわ浮いていただけのガトランティス艦隊もアンドロメダの拡散波動砲の一撃で全滅。艦隊戦の醍醐味がまるでない結末を迎えるのである。
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 2 [Blu-ray]](https://m.media-amazon.com/images/S/aplus-media/sota/e7c1bf83-77fa-4b01-90b1-71d8ca882417._SL160_.jpg)
作り手の戦争観はよく判らなかったし、受け手に戦争に対する内省を迫ることもなかった。
ここには、作り手の原作の捉え方も関係していよう。
2199と2202それぞれの原作、すなわち『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト』の違いに関して、福井晴敏氏はこう述べている。
---
現在は、我々は平和に暮らしているけど、受験戦争をはじめ他者を押しのけないと勝てない、生き残れないという状況は続いている。
「戦争で全滅すれすれまで行った我々というのは、もっとそんな争いではなくて、愛し合い、分かり合わないといけないんじゃないか?」という思いが込められた作品が、最初に作られた『宇宙戦艦ヤマト』という作品なんですよね。
それに続いた『さらば宇宙戦艦ヤマト』は、劇中では1年しか経っていないんですが、ガミラスとの戦いの後の状況を「戦後」という状態を描くことで、まさにあの時代を描こうとした。
それは、これから70年代が終わった80年代になって、バブル退廃期がいよいよ始まるというタイミングで、「このままで本当に良かったのか?」と思っている状況ですよね。
そして、そこに巨大な彗星で移動する敵が現れて、強大な力によって「グローバリズムに従え」と言ってくる。それに対して、「従いたくない。人間性を失うくらいなら死にます」と敵に突っ込んで死んでいったという凄い話を描いている。
---
「あの戦争とは一体なんだったのだろうか?」ということを描こうとしたのが『宇宙戦艦ヤマト』、他方「戦後」を描こうとしたのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』というわけだ。「グローバリズムに従え」云々はともかく、両作を観た人は誰しもほぼ同じように感じたことだろう。
しかし、戦後の時代だからこそ、いまさらながらの「特攻」の描き方が物議を醸し、作り手の戦争観が問われる事態を招いたのが『さらば宇宙戦艦ヤマト』だったのではないか。
それなのに、『宇宙戦艦ヤマト』はあの戦争とはなんだったのかを描こうとしたけれど、『さらば――』は戦後を描こうとしたと整理してしまうことで、『さらば――』のリメイクに取り組む福井氏から戦争というテーマが抜け落ちてしまったのではないか。
だから、軍人の暴走やそれを容認してしまう高官等、大日本帝国の失敗に類似したエピソードを挿入しながら、そのエピソードとの距離感を取ることが(批判的な観点を加えたり、2199の第11話~第13話のように現代に描く意義を掘り下げたりといったことが)できなかったのではないか。
本作の作り手は、戦争を、アクションを見せるための舞台装置くらいにしか考えていないのかもしれない。
なお、福井氏がどういう思いで「グローバリズムに従え」とか「バブル退廃期」と云っているのか私にはよく判らない。
1980年代といえば、日本が経済力で世界を圧倒した時代だ。世界時価総額ランキングの上位50社中32社を日本企業が占め、東京の不動産を担保にすればアメリカ全土が買えるといわれ、ハリウッドでは米国人が日本人の習慣に合わせようと苦労する映画や、恐るべき陰謀の糸を引くのは日本企業だったという映画が作られ、そんなハリウッドの映画人を嘲笑うかのように日本企業がハリウッドの大手映画会社を買収してしまい、米国では日本企業の強さが盛んに研究された。そんな中、誰が誰に向かって「グローバリズムに従え」と云ったというのか。
「バブル退廃期」というと、まるで2202が作られた2010年代は退廃していないかのようだが、何をもってして80年代が退廃していたと主張するのかもよく判らない。2010年代になっても人気を博すガンダムシリーズも『ちびまる子ちゃん』も『クレヨンしんちゃん』もこの頃に誕生したのだが、そんなに退廃しているだろうか。
■『ヤマト』と『ガンダム』

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『ガンダム』の場合は、全てにおいてどこか辻褄を合わせないといけない。
宇宙世紀という世界に生きている人間ならこうであろうという部分まで突き詰めないといけないというのがあります。
『ヤマト』に関しては、そんなところを突き詰めていくと、「なぜ、海で運用する艦船の形状にこだわっているんですか?」と言われた場合に、その説明は何も無いわけです。
それこそ、『ガンダム』の場合は「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」というようなメカニックのリアリティのある理屈があるんですが、『ヤマト』はそもそもそういう発想で作られていない。なのでそうした部分を突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させようとすると、『ガンダム』よりも劣ったものになってしまう。
だから、別のところで戦わないとならない。
『ヤマト』に関しては、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じになるけれど、その代わりにそうした語り口だからこそできる「大きな話」がある。
「大きな話」というのは、大振りということではなく、子細を見ると俺たちが今生きている世界がそこに投影されているんだという豪華さを見せることができる。
それこそ、何万隻もの艦隊戦とか。そこが『ヤマト』の肝かなと。
---
『機動戦士ガンダム』にも、海で運用する艦船に模して艦体の"上面"にだけ艦橋が存在する宇宙戦艦マゼランや宇宙巡洋艦サラミスが登場するし、そもそも「ガンダムは、なぜ人型の形状にこだわっているんですか?」と云われたら、スポンサーからの要請ですとしか答えようがないと思うのだが……。
「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」などという後づけのお話でも「リアリティのある理屈」と受け止め、そういう発想で作られていたと信じられるほど、福井氏はガンダム関連の情報に浸りっぱなしで育ったのだろう。
ならば、ヤマトにおいてもどんどん突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させて商売すればよかろうと思うのだが、それをやってもヤマトはガンダムよりも劣ったものになると福井氏の中で決めつけられているのが、ヤマトもガンダムも好きな身としては残念だ。

それまでのロボットアニメは、『マジンガーZ』(1972年)の敵メカの名が「機械獣」だったように、『ウルトラマン』に登場する怪獣のロボット版だった。だから『ウルトラマン』の怪獣のように毎回姿形の異なるロボットが現れ、そのロボット独自の必殺技で主役メカを苦しめた。『マジンガーZ』第1話の敵が、目からミサイルを発射するガラダK7と、二つの首から光線を放つダブラスM2だったように。
だからこそ、『機動戦士ガンダム』の第1話を見た私は腰が抜けるほど驚いた。目から光線もミサイルも出さず、全身緑色の地味な敵メカというだけでも珍しいのに、同じデザインのメカが三体も現れたのだ。それまでの"常識"では、敵メカが三体も現れるのであれば、翼竜型のメカザウルス・バドと、トリケラトプスのようなメカザウルス・ザイと、アパトサウルスのようなメカザウルス・ズーが一斉にゲッターロボを襲ったように、それぞれ個性的な形状をしているものだった。だから同じデザインのメカがいくつも現れることにたいへん驚いた。しかも第1話だけでなく、話数が進んでもこのメカはずっと出続けたのだ。

『宇宙戦艦ヤマト』の第1話には、同じデザインで全体が緑色のガミラス艦が複数現れて、地球艦隊を完膚なきまでに叩きのめしていたのだから。同型のガミラス艦はその後も登場し続けた。
軍艦なんだから同型艦が複数出るなんて当たり前というなかれ。ロボットアニメに限らず、ヤマト以前は、和製サンダーバードともいえる『ゼロテスター』(1973年)でさえ、毎回異なる特徴を持つ敵が一体か二体ずつ登場していた。敵"怪獣"の独自性を軸にしてストーリーが組み立てられていたからだ。『宇宙戦艦ヤマト』がいかに画期的だったか、『機動戦士ガンダム』がいかに『宇宙戦艦ヤマト』のフォーマットを忠実になぞったかが判る。
福井氏は「だから、別のところで戦わないとならない」と云って、本来は近しい関係にあるヤマトとガンダムを別物扱いしてしまった。「『昔々、あるところに……』というくらいのザックリとした感じ」といえば誰もがご存知『スター・ウォーズ』のことだが、福井氏はヤマトをガンダムよりも『スター・ウォーズ』に近いものとして捉えていたのだろうか。その結果が何万隻もの艦隊戦なのか。ミリタリー色なんて消し飛ぶはずだ。
ちなみに、スター・ウォーズシリーズはミリタリーSFになることを慎重に避けていた。工夫を凝らして設定を作り込むことで、戦争物にならないようにしてあるのだ。
2202はこの周到さが足りなくて、外形的にはミリタリーSFのままなのに内実が伴っていないから、観客は期待ギャップを感じてしまう。宇宙戦艦ヤマトの名を冠した作品が、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じでよいと考えているのなら、そのザックリ感を受け手と共有するための緻密な戦略を考案するべきだった。
おそらく、ザックリとした感じでよいという考えの中には、「動機オーライ主義」で作劇しても許されるという思いもあるのではないかと私は推察している。この「動機オーライ主義」については、後で触れるとしよう。
同じインタビューで福井氏は『宇宙戦艦ヤマト2202』と『機動戦士ガンダムNT』に触れて「同時期に関わっていた作品なので、同じものをやっていてもつまらないという意識はあったと思います」とも語っているから、福井氏が同時期にヤマトとガンダムに関わっていたことも、2202の方向性に影響したのかもしれない。
ミリタリー物の雄であった『宇宙戦艦ヤマト』、その魅力をさらに推し進めた『宇宙戦艦ヤマト2199』。なのに『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』はそこから後退している。これでは『宇宙戦艦ヤマト』のファンは、ましてや『宇宙戦艦ヤマト2199』のファンは楽しめない。
2202が回を重ねるたび、私はそんなことを考えていた。
だが、それはまだ序の口だった。終盤に向けて、2202は驚くべき展開を見せることになる。
(つづく)
![宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 2 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71vlWcOYH%2BL._SL160_.jpg)
第3話『衝撃・コスモリバースの遺産』
第4話『未知への発進!』
第5話『激突!ヤマト対アンドロメダ』
第6話『死闘・第十一番惑星』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 麦人 千葉繁 神谷浩史 田中理恵 石塚運昇 東地宏樹 江原正士 赤羽根健治
日本公開/2017年6月24日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【genre : アニメ・コミック】
『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第一章「SF篇」
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「くだらん奴がくだらんということは、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんということは大変面白いということでしょう。」
他人が作ったものをくだらないとかつまらないと云うのは勇気がいる。自分がくだらん奴でつまらん奴だと白状するようなものだからだ。
私はこれまで、たびたび『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の感想を聞かれながら、この作品をきちんと取り上げられずにいた。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』のことが判らなかったからだ。
判らないとつまらないは違う。判らなくても面白い作品はいくらでもあるし、判らないけど凄いと感じる作品もいくらでもある。
けれども本作は、いったい何が描かれているのか、作り手は何をしたいのか、何を考えてこうしているのかサッパリ判らなくて、その結果、共感できず、楽しめず、惹かれることがないままでいた。それは「つまらない」にとても近い。
つまらないと感じる作品は少なくない。しかし、つまらないならつまらないなりに理解して、なぜつまらないと感じるのか、共感したり楽しんだり惹かれたりすることを何が妨げているのか、たいていは判るものだ。その原因は作品の側にあったり、自分の側にあったりする。ときには面白いのに好きになれないことも、面白いかどうかは脇に置いて肯定的に受け止めることもある。それもこれも、自分なりに作品を理解すればこそだ。
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表面的なことを取り上げて、文句をつけるくらいはできよう。しかし、世の中には出来が悪くてくだらないけど面白くて好きになってしまう作品だってあるのだから、表面的にあそこが悪い、ここが悪いと云ってみても詮ない気がした。
世評を見るに、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は賛否両論のようだ。もちろんどんな作品だって、100%の人に支持されたり100%の人に否定されたりすることはないだろう。『宇宙戦艦ヤマト2199』だって肯定する人もいれば否定する人もいた。ただ、2199と2202では様子が違うように感じている。
卑近な例で恐縮だが、『宇宙戦艦ヤマト2199』が公開されていた頃、私の友人たちは2199の話題で持ちきりだった。みんな、2199を観られる喜びに興奮し、大絶賛していた。仲間うちには、私のように第1テレビシリーズがいいという者もいれば、ヤマトIIIがお気に入りという者もいて、ヤマトへの思いは様々だったが、こと2199に関しては口を揃えて褒めそやした。
ところが2202の公開時は違った。どこにガッカリしたとか、どんなにガッカリしたとか、そんな会話が止まらなかった。それはそれで盛り上がったけれど。
私の身の回りでは否定的な意見が圧倒的だったとはいえ、ネット上では2202に肯定的な意見も見つけられる。こうした意見の違いはなぜ生まれるのだろうか。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の最終回を鑑賞し、しばらく時間を置いた後、私はようやく自分なりの受け止め方を見出した気がした。理解したというのはおこがましいが、自分なりに腑に落ちた気がしたのである。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とは何だったのか。なぜ2199に歓喜した人が2202には否定的なのか。2202に否定的な人がいる一方で肯定する人もいる、その分岐点はなんなのか。
これまでの記事と重複するところもあるけれど、思うところを綴ってみたい。
『宇宙戦艦ヤマト2199』に関する過去の記事は、こちらから参照願いたい。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に関連するこれまで記事は以下のとおり。
「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』対談 第二章までを巡って」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』の総括と『2202 愛の戦士たち』」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話」
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に関連するこれまで記事は以下のとおり。
「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』対談 第二章までを巡って」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』の総括と『2202 愛の戦士たち』」
「『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話」
第一章「SF篇」
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』について考えることは、『宇宙戦艦ヤマト2199』について考えることでもある。2199のどんな要素に私は惹かれたのか、その要素は2202でどう扱われたのか。それを考えることで、2202の輪郭がはっきりしてくる。
そして『宇宙戦艦ヤマト2199』について考えることは、もちろん『宇宙戦艦ヤマト』について考えることでもある。『宇宙戦艦ヤマト』が好き、という想いから、すべては始まっているからだ。
■本流の中の本格
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日本の30分枠の連続テレビアニメが『鉄腕アトム』(1963年1月1日~1966年12月31日)から始まったことの影響だろう、テレビアニメはその草創期からSFアニメが多くを占めていた(まだ「SFアニメ」という言葉はなかったけれど)。豊田有恒氏は当時を振り返った著書において、アニメの本流はSFものだったと述べている。
たとえば『鉄腕アトム』にやや遅れて放映を開始した『エイトマン』(1963年11月7日~1964年12月31日)の脚本陣は、原作者でもある平井和正氏に加えて、半村良氏、豊田有恒氏、加納一朗氏、桂真佐喜(辻真先)氏と、後にSF作家・推理作家として大活躍する面々が顔を揃える。『スーパージェッター』(1965年1月7日~1966年1月20日)も、筒井康隆氏、眉村卓氏、加納一朗氏、半村良氏、豊田有恒氏、桂真佐喜(辻真先)氏、山村正夫氏といったそうそうたる顔ぶれだ。各氏の脚本をそのままアンソロジーにしても売れるのではないかと思う。
『宇宙エース』(1965年5月8日~1966年4月28日)でテレビアニメに参入したタツノコプロは、脚本の執筆をSF作家に頼みはしなかったものの、SF作家であり翻訳家でもある小隅黎氏に作品全般のSF考証を依頼することでSFとしての質を担保した。
おかげで『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年10月1日~1974年9月29日)にはヴァン・アレン帯を降下させて地球の環境を激変させるV2計画のような、子供にはなんのことやら判らないがとにかく凄さはビリビリ感じられる作戦が登場し、とても興奮させられた。私なんぞは長じてヴァン・アレン帯とは何かを調べることで、秘密結社ギャラクターが企んでいたことやガッチャマンたちがどうやって防いだのかをようやく理解し、その壮大さに打たれ、『ガッチャマン』に惚れ直したくらいだ。
小隅黎氏は、本名の「柴野拓美」でも同人誌『宇宙塵』の主宰者として(むしろこちらのほうが)よく知られており、また『サイボーグ009』の暗殺者編にはギルモア博士の親友コズミ博士として登場している。小隅黎氏こそは、アニメ作品におけるSF考証(SF設定)の先駆けとなった人物だ。
そんな風にSFアニメが連発される中でも、豊田有恒氏らのアイデアに基づいた『宇宙戦艦ヤマト』(1974年10月6日~1975年3月30日)は異彩を放つ存在だった。スーパーヒーローがいない、ロボットも出ない、怪獣(機械獣や鉄獣メカを含む)さえも出ない、秘密基地もなければ舞台が地球ですらない。SF小説では普通のこの設定が、テレビアニメでは極めて珍しかった。
地球全体がすでに放射性物質で汚染されている(アイザック・アシモフ著『宇宙の小石』等を彷彿とさせる)大掛かりな設定や、未知の異星文明からもたらされる高度な科学技術の情報といったアイデア(ジョン・ヴァーリイ著『へびつかい座ホットライン』のようなと書こうとして、ヤマトの発表のほうが先行していることに気がついた)のオンパレードは、SF作家豊田有恒氏の面目躍如たるものがある。
だからこそSFファンにも歓迎され、創設からずっと海外作品しか受賞していなかった星雲賞のメディア部門(映画演劇部門)を、日本の作品では初めて受賞したのだろう(1975年度の第6回に受賞)。
中には、『宇宙戦艦ヤマト』がSFとしていかほどのものかと云う意見もあるかもしれないが、少なくとも同作とその続編が70年代の日本のSFブームの一翼を担ったのは間違いない。
■SFアニメ『宇宙戦艦ヤマト2199』
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なお、「SFとは何か」を考え出すとたいへんなことになりそうだから、ここでは長山靖生氏の著書『日本SF精神史』の一部を引用しておこう。同書の中で氏はSFを「科学的空想を加えることで改変された現実を描いたものとしたい。この『科学』のなかに、自然科学だけでなく、社会科学や人文科学(言語実験など)も含めるなら、およそ今日、SFと認識されている傾向のほとんどすべてをフォローできるだろう」と説明している。それはファンタジーや風刺物と境界を接しつつ、しかしそれらとは異なる燦然たる魅力を放つものだ。
『宇宙戦艦ヤマト2199』がSFらしさを追求していることは、様々な面から感じられた。
その一つが、スタッフに科学考証とSF考証を設けたことだろう。科学考証だけ、SF考証だけならともかく、科学考証とSF考証のそれぞれに専門家を配した作品はちょっと珍しいかもしれない。
『宇宙戦艦ヤマト2199』では、科学考証に(ヤマトを見たことがきっかけで天文学を志した)天文学者の半田利弘氏を、SF考証に『ガメラ2 レギオン襲来』等で知られる鹿野司氏を迎え、『宇宙戦艦ヤマト』に狂喜してから40年を経た大人でも納得できるようなしっかりした作り込みがなされていた。
「科学考証」はある分野に関して科学的に正確かどうかを指摘する役割だろうと察しがつく。SFが科学的空想を加えた作品であるのなら、「科学」に関する描写をしっかりすれば、それだけ「科学的空想」の切れ味も鋭くなるというものだ。
では、「SF考証(SF設定)」とは何をするのか。これについては、当の鹿野司氏が『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のSF考証を担当した際に説明している。
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基本的にはシナリオ会議に参加して、「こういう風にした方がいい」というアドバイスやアイデアを出したり、「ここはSF的にどうだろうか?」と意見を言うという感じですね。
(略)
『THE ORIGIN』に限らず、こうした作品はそもそもがフィクションであり、完全な絵空事であり、嘘なわけです。ただ、1から10まで全てを嘘で作ってしまうと、誰もリアリティを感じてくれません。そこで、こだわりを持って作品を作ろうとしている監督やプロデューサーが、作品にリアリティを出したいと思った場合は、いろんなところの考証を付けたいと思うわけです。
(略)
自分の場合、リアルな科学についてはわりと詳しいと思っています。そこで、完全なファンタジーの物語に対して、自分の知っている今の科学の延長上で説明できるようなことを付けたりすることで、何かを感じてくれる人がいるんじゃないかと思っているんです。だから、そうした現実的な科学に準じた考証をやって欲しいという監督さんがいれば、作品に参加させてもらうという感じですね。
旧作の『宇宙戦艦ヤマト』作中に七色星団というのが出てくるんですが、『ヤマト2199』では、地球側の名称としてタランチュラ星雲と呼ばれているんです。これには元ネタがありまして。このタランチュラ星雲というのは実在していて、『ヤマト2199』が制作される10年以上前にハッブル宇宙望遠鏡が七色に輝く美しい星団の写真を撮ったことで発見されたんです。そのニュースを聞いた時、まだ新しいヤマトの仕事があるとも決まってなかったんですが、「これは七色星団のネタに使える」と思ったんですね。そして、実際に『ヤマト2199』の仕事を請けた際には、このネタを使わせてもらいました。劇中ではたった2回くらいしか台詞として出て来ないんですが、その台詞を覚えていて、宇宙についての図鑑を観た時に連想して、興味を持ってくれる人がいるかもしれないなと。そういう形で、全ての人に理解してもらおうと思ってはいないですが、現実のアイデアをフィクションの中に盛り込んでいくことで、何かフックがかかるみたいに、いろんな方の琴線に触れる要素が込められるんじゃないかと考えて、SF考証をやっています。
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大マゼラン銀河の中にあるタランチュラ星雲は、まさに七色星団と呼ぶに相応しい存在だ。あの七色星団が実在するのかと思うとワクワクする。
しかも、『宇宙戦艦ヤマト2199』は科学的な正確さへの配慮ばかりではなく、ガミラスの言語を考案するほどのこだわりがあるかと思えば、時にはあえて現実味を損なってでもケレン味を効かせた演出があって大いに楽しい。時々挿入される小学生でも嘘と判る洒落っ気たっぷりの描写をニヤニヤ笑って見ていられるのは、他の描写がしっかりしているからだ。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とSF
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ところが、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第一章「嚆矢篇」は――というか第1話は、何だかおかしな始まり方だった。
どことも知れぬ宙域に集結した地球とガミラスの連合艦隊が、どことも知れぬ惑星を占拠したガトランティス艦隊と交戦する。そのさなか、ガトランティス艦隊の奥から巨大な十字架のような岩塊が出現。他の空母や駆逐艦をはるかに凌駕する大きさで、小惑星と呼びたいほどのこの物体はいったい何か。固唾を飲んで見守る中、岩塊は粉々に砕け散る。物体のほとんどはただの岩だったようで、中から出てきたのはやや大型の戦艦だった。
開始から10分もしないこの段階で、私はもう何が何やら判らずにいた。
劇中で「大戦艦」と呼ばれるとはいえ、出現したカラクルム級戦闘艦はヤマトやアンドロメダよりも大きいだけで、ガミラスのゼルグート級一等航宙戦闘艦やデウスーラII世に比べればむしろ小さい。単なるやや大型の戦闘艦が、なにゆえこんなにものものしく登場しなければならないのか。
しかも、なぜ岩石に包まれているのか。
『宇宙戦艦ヤマト』の原型となる豊田有恒氏の企画では、小惑星そのものを宇宙船にして宇宙を旅する案だった。小惑星をくり抜いて居住区画や動力部を設け、小惑星を構成する鉱物をエネルギーに変換して動力源にする。同時に、ただの小惑星に偽装して宇宙戦艦であることを隠し、敵の目を欺く設定だ。まことに豊田氏らしい、SF的な発想だ。
また、『ヤマトよ永遠に』では小惑星イカルスの中にヤマトが隠されていた。小惑星に偽装して宇宙戦艦であることを隠す豊田氏の初期のアイデアを受け継いだ設定だろう。
だから小惑星のような岩塊の中から戦艦が現れることそのものには、ヤマトファンはむしろ親しみがある。問題は、この艦隊戦のさなか、いったい何をやっているかだ。
岩塊に偽装したからといって、戦況が有利になるわけでもない。砕けた岩塊を使って(ヤマトのアステロイドリングのように)戦闘するわけでもない。科学的な理由づけも、SF的な発想も、全然感じられない。
そして『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のラストに登場した超巨大戦艦ならともかく、たかが大戦艦一隻にこのものものしさはなんなのだろうか。私にはさっぱり判らなかった。
加えて、偽装した岩塊を十字型に見せるために、大戦艦は艦首を「上」に、艦尾を「下」に向けた状態で航行していた。
宇宙に上下左右なんてないから、どちらの方角に艦のどの面を向けても構わないことではある。上下を意識するなんて、科学的にはまったくおかしい。ただ、地球の重力圏に住む視聴者と作り手が感覚を共有するために、艦橋がある面を「上」、反対側を「下」にした画にするのが宇宙物のSFアニメ一般に見られる暗黙の了解だ。たとえ科学的におかしくても、それを是正するところまでは求めませんよという、云うなれば受け手側から作り手側への救済だ。上下がない状況を描きつつ、視聴者が感覚的にも納得できる映像を作るのは、おそらく作り手にたいへんな負担を強いるだろうから(これをサラッとやってのけるジョージ・ルーカスは凄い)。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第1話の冒頭でも、すべての地球艦、ガミラス艦、ガトランティス艦は、「上下」を同じにした状態で描かれていた。なのに、大戦艦だけは艦首を「上」に、艦尾を「下」に向けた状態で出現した。観ている側からは、大戦艦が立ち上がっているように見えた。

――と思いきや、偽装を解いた大戦艦はアッという間に艦橋がある面を「上」に、反対側を「下」に、艦首を「前」に、艦尾を「後ろ」にして、上下の向きを他の艦と同じにして前進しはじめた。
なんだったのだろう、この登場の仕方は。視聴者が暗黙のうちに了解している不文律をわざわざ破っておきながら、何の説明もない。これまでの艦隊戦が科学的にはまったくおかしいことを受け手に思い出させ、あえてリアリティがないことを暴露しながら、そしらぬ顔で元の艦隊戦の描写に戻す意図が、私にはチンプンカンプンだった。

第2話では、さらに驚くことが待っていた。
地球連邦の新型艦、アンドロメダ級の二番艦から五番艦の進宙式で、四隻は一様に海水面に設けられたカタパルト上を加速して上空に飛び出している。『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』にも『宇宙戦艦ヤマト2』にもなかったカタパルトは、船の進水式で使う進水台と、宇宙に荷物を射出するマスドライバ―を引っかけたものであろうが、その形状がおかしいのだ。
アンドロメダ級の各艦が滑走するカタパルトは、水面に平行に伸びた後、急にカーブして水面とは垂直の方向へ伸びている。地表にいる人間から見て、真上の方向に宇宙艦を打ち上げるのだ。
マスドライバ―ならカーブさせて真上に打ち上げる必要はない。真っ直ぐ伸ばして宇宙艦が充分に加速できるようにすれば良いだけだ。
ヤマトやアンドロメダのみならず、ヤマト以前の「きりしま」でさえ大気圏内をふわふわ飛行できるのだから、アンドロメダ級の最新鋭艦が空を飛ぶのにカタパルトを要するはずがない。だから、このカタパルトは式典用の飾り程度のものであって、本当の意味でのマスドライバ―ではないのかもしれない。たぶんカタパルトに似せてるだけで、本当はどんな形状でどこを向いていても構わないのだ。
そう考えておきたいところだが、それでも宇宙戦艦ヤマトシリーズにおける宇宙艦が現代の化学ロケットのように真上に打ち上げられる絵は、23世紀の作中世界を200年後退させたかのようで異様な光景であった。
そしてなにより、あえてカタパルトをカーブさせるという発想が、私には受け入れがたかった。
なぜなら、アニメにおけるSF考証の道を拓いた小隅黎氏が、SF考証の仕事を振り返って後悔することとして挙げたのが、カーブしたカタパルトだからだ。

主人公らの乗るブルーアース号は、カタパルト上を加速して地球から飛び出し、衛星軌道で待機する光子ロケットとドッキングすることで宇宙航行が可能となる。小隅黎氏という知恵袋があればこその凝った設定だ。ブルーアース号の発射シーンは毎週のオープニングでも流れたから、ご記憶の方も多いだろう。このブルーアース号のカタパルトが、やはり途中から上に向かってカーブする形なのだ。
前述のとおり、マスドライバ―をカーブさせる必要はないから、小隅黎氏はこんな映像になるのを止められなかったことを悔やんだという。
マスドライバ―がカーブした絵になるかどうかなんて、脚本をチェックするだけでは判るまい。SF考証を担当することの多い堺三保、金子隆一、小林伸光の三氏は、「脚本の決定稿が絵コンテ化されてアフレコ台本になるまでの間にドンドン変わっていくので、コンテとアフレコ台本のチェックをさせてくださいと頼んでいる」そうだ。それでも小林氏は、『救命戦士ナノセイバー』で地球の軌道上わずか100キロのところを飛んでいる宇宙船の遥か向こうに地球が描かれるという大ポカを防げなかったという。
ともあれ小隅黎氏が明かな失敗例としてマスドライバ―の件を具体的に挙げたことが、私には強く印象づいていた。よもや『宇宙の騎士テッカマン』から40年以上を経た2017年になって、SFアニメでは古典的な失敗例といえるマスドライバ―のカーブを目にするとは思っていなかったので、私は驚いたのだ。
SFアニメが好きな御仁なら知っていてしかるべき失敗談だと思ったし、よしんば小隅氏のエピソードを知らなくてもマスドライバ―をデザインする過程でスタッフの誰かがおかしいと指摘するべきだと思ったし、マスドライバ―でないのならあまりにも無意味な構造物で、しかも宇宙戦艦ヤマトシリーズの世界観を台無しにしていると思った。
これでSFアニメといえるのだろうか。エンディングにはSF考証のクレジットがあったけれど、SF考証は機能しているのだろうか。
第一章「嚆矢篇」、すなわち第1話と第2話を早く観ようと特別上映の初日初回に駆けつけた私は、暗澹たる思いで劇場を後にしたのだった。

第2話においてたかが式典のために惑星表面でのワープを行ったのに、第6話で急にダメだと云われてもわけが判らない。ワープインは良くて、アウトはダメなのだろうか。そんな理屈があるだろうか。
それに「グラビティ・ダメージ」とは何なのだろう。米国テキサス州にあるマンガ・おもちゃの専門店のことだろうか。重力の影響を云っているようだが、では「重力の影響で」と語らないのはなぜだろうか。どうして波動エンジンが使えなくなるのだろうか。
このあたりから、真田さんらヤマトの乗組員たちの云っていることが私には判らなくなった。真田さんや徳川さんは、わけの判らないことをまくし立てて、あれができる、これができないと口走るばかり。自分たちだけ納得して事を進めるので、観ている側は置いてけぼりを食らった気分だ。2199のときはこんな風に感じたことはなかったのに、2202のセリフには終始違和感が付きまとった。

以上に述べた、第1話の大戦艦の登場と第2話のアンドロメダ級新型艦の進宙式の二点はともにメカに関することだが、長山靖生氏がSFの定義に関連して「自然科学だけでなく、社会科学や人文科学も含める」と書いているように、SFらしさはメカの描写だけで語るものではない。
いくつものSFアニメに関わっている高島雄哉氏は、SF考証についてこう語っている。
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SF考証は作品世界の法則そのものを決定する仕事です。たとえば年代設定は、その世界の科学力や社会基盤のレベルを決めるという意味で、SF設定の典型であり根幹であると言えるでしょう。登場人物の衣食住から思想まで、あるいは作品の世界観や物語の構造についても、SF考証はできるかぎり細部まで理解した上で、世界を設定しなければならないのです。
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高島氏のこの話は、「考証」だけでなく「設定」にも踏み込んだ説明だ。後に高島氏はみずからの仕事を「設定考証」と呼んでいる。
ともあれ、本作にはガトランティスという異星人が登場するから、地球とは異なる彼らの社会構造を描くことでSF的な魅力を発揮することもできたはずだ。
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2199でのガトランティスが、基幹艦隊が一万隻しかないガミラスの版図を侵すことができず、捕虜までとられていたこととの矛盾をおいておくとしても、250万隻の大戦艦を運用するのにいったい何億人の乗組員が必要になるのか、整備や補給を行う要員は何十億人になるのか、さらには彼らを養い、整備や補給のための機材、設備、物資を生産するための産業とそれに従事する人口はどれだけの規模になるのか、それを支える社会はどのような構造を強いられるのか。これらもまたSFとしては描いておきたい重要な点であろう。
ところが、2202は驚くほどガトランティスの社会を描かない。作品を観る側は、社会の一員として現実の世界を生きているというのに。2202は、受け手との接点を作るまいとしているかのようだ。
ガトランティスに関する描写といえば、ひと握りの支配者と、山のような艦艇の存在ばかり。しいていうなら、兵站も産業力も無視し、戦闘員と艦艇の数ばかりを重視して敗北した大日本帝国のような発想だ。2199がガミラスの街の描写を挿入し、軍隊を支える民間人や反体制派の市民まで描いて社会全体に目配りしたのとは対照的で、その世界観はあまりに薄い。
以前の記事で、2199におけるデスラーの入浴シーンが意味するものについて述べたことがある(「『宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘』 なぜデスラーは風呂に入るのか?」参照)。支配者層に関してだけでも生活の描写を挿入すれば、作品世界はずいぶんと奥行きを増すだろうに、2202にはそれもなかった。
各話のおかしく感じる点をこの調子で挙げていると切りがないのでもうやめておく。どの回もおかしな描写、おかしなセリフの連続で、見ているこちらの頭がおかしくなりそうだった。
もしかすると、劇中では言及されない、説得力に満ちた秘密の設定があったりするのかもしれない。けれども、それは観客/視聴者にとっては無と同じだ。
なにしろ、せっかくリメイクするのだから、今度こそは白色彗星ではなく豊田有恒氏の本来のアイデアである白色矮星に直すチャンスだったのに、デタラメもいいところの白色彗星が再び現れるのだから、本作をつくるに当たっては旧作の「いくらなんでも今見たらそれはないだろう」という点を正すつもりすらなかったのかもしれない。
ちなみに、SF作品に登場する宇宙艦隊はいくつもの惑星や恒星を運んでいることがある。惑星上でなければ実現不可能なほどの巨大な軍事施設を建設し、惑星ごと戦場に運んで艦隊の構成の一部にしたり、数個の恒星を持ってきて敵艦隊にぶつけることで相手を一掃したりするためだ。豊田氏が『宇宙戦艦ヤマト』の続編のアイデアを求められたときに、大きさは地球程度しかなくても質量は太陽ほどもある白色矮星を運搬し、その高重力で進路上のものを呑み込む敵を提案したのも、この流れにあるだろう。
ところが、恐るべき高密度の天体である矮星というものを理解しない西崎義展プロデューサーによって、白色矮星案は単なる氷や塵の集まりである彗星(ほうき星)に変えられてしまった。ガトランティスは高密度の矮星をも制御する超科学を有するはずだったのに、彗星の氷や塵に紛れて移動する弱そうな敵になってしまったのだ。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』がリメイクされると知ったとき、私はいくらなんでもいまさら「彗星」はないだろうと思った。だから第2話で真田さんが、迫りくる帝星ガトランティスを「未知のクエーサーだ」と説明し、「彗星」と呼ばなかったことに少しばかり安堵した。けれども、結局劇中では「白色彗星」という呼び方が定着してしまう(2202の敵の名称を「白色彗星」と「帝星ガトランティス」の二つに絞ったのは、シリーズ構成と脚本を担当した福井晴敏氏の発案であるという。一緒に脚本を担当した岡秀樹氏は、「「白色彗星」という言葉の響きはやはり大切じゃないですか。みんなの耳にすごくなじんでるわけで。それを捨てたらみんな怒るでしょ?」と云うのだが……)。
ほうき星の特徴である長い尾をあまり映さなかったのが、せめてものエクスキューズなのだろうか。

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この心情については、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』等で知られる押井守監督の次の言葉を引用すればお判りいただけるだろうか。
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僕は現実的なものには、興味があまりないんですよ。
SFが好きなのも一緒で、妄想できるものだから。日常的なドラマを作りたいと思ったこともない。結局、日常から何かしら飛躍していないと、僕としてはものをつくる動機が生まれない。
SFが僕をこうさせたのか、もともとこういう人間だからSFが好きなのかは分からない。とにかく、僕は人間にあまり興味がないんですよ。自分の人生も含めて、どこか他人事なんです。上の空で生きているってよく言われます。人類の運命とか存亡とか、そういうことには興味津々。でも人間の心的葛藤には全然興味がわかない。
SFにも文芸寄りのSFっていっぱいありますが、僕には「そんなSFだったら文芸作品を読めばいいじゃん」としか思えない。男女の関係だとか肉親の確執だとかって話は、聖書から延々と続く世界ですよ。やればやるほど分からなくなるに決まっている。
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■トークショーの夜
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小倉氏が本作に関わることになったのは、『機動戦士ガンダムUC』で付き合いのあった福井氏が声をかけたからだという。
トークショーはお二人の思い出話が中心で、いくつか印象的な発言があった。
小倉氏は福井氏と初めて会ったとき、ボールと紐を使って地球と月の距離を説明したという。福井氏は、地球と月の遠さを理解しておられなかったのだ。
なかなか理解しにくいところだから、そういう人は少なくないと思うが、私は、地球、月、そしてサイド3の位置関係を把握することが『機動戦士ガンダム』の世界を理解する上で重要なことだと考えていたから、ガンダムが好きで、創作を志すほどの人物が理解していなかったことには驚いた。
また、福井氏がSF考証に関連して「『できません』という人はいらないんです。やりたいストーリーや展開等があって、その説明をしてくれる人を求めているのであって、科学的にできないとか云って欲しいのではない」と語っていたのも印象的だった。福井氏はSF考証を、それはできませんと云う人、邪魔立てする人と捉えているのだろうか。
映画やテレビで、科学的にあり得ない描写に出食わすたび、私はなぜ誰も止めなかったんだと思ってしまう。宇宙服を着ずに宇宙遊泳するシーンなんぞを目にすると、受け手は間違いなく興醒めする。考証はそんな事態を防ぐ大事な働きなので、できないことをできないと云ってくれるのは重要なことだと思うのだが。
もちろん鹿野司氏の次の言葉が示すように、SF考証のプロが、ただ「できません」と云って終わりにすることはないだろう。
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自分の場合は「ここはこうなっているからやめてほしい」というような否定的な話はせず、逆に素直に考えるとうまく行かないような話でも、「それは実はこうなっているから正しい」というようにするのが好きなんです。脚本家やクリエイターの方々のアイデアはなるべく活かしてあげたい。多少無茶なことを書いていても、やりたいことが判れば「ここをこうすると本物っぽくなりますよね」とアドバイスするようにしています。
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2202のSF考証を担当した小倉氏も、福井氏の言を受けて当然のことながら「どうすればできるかを考える」とおっしゃっていた。
とはいえ、SF考証のアドバイスが聞き入れられるか、どう受け止められるかは、聞く側がどれだけ耳を傾けるかや、聞く側のSF的な下地の有無にもよるだろう。
その点、2199は素晴らしかった。作り手がSF好きであることが作品から滲み出ていて、毎回観るのが楽しみだった。
その具体例は多々あるが、筆頭はバラン星に関するエピソードだろう。
天の川銀河と大マゼラン銀河の中間に位置するバラン星には亜空間ゲート「ゲシュタムの門」が設けられ、銀河間を結ぶ広大なネットワークのハブになっている。これだけでもワクワクするほどスケールの大きなSF的発想だが、2199ではこのネットワークを利用してヤマトが旅の遅れを一気に取り戻すと同時に、ゲートを破壊してガミラス基幹艦隊をバラン星付近に足止めし、後にヤマト一隻でガミラス本星に打ち勝つ布石となる。加えて、ガミラスの大軍がヤマトに出し抜かれた根本には、バラン星がガス惑星であることを活かしたヤマトの機略があった。
SF的発想と科学的考察が、バラン星の登場する2199第18話はもちろんのこと、この後のストーリーにも見事に噛み合っており、私は膝を打ちたい気持ちだった。
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私は、福井氏の言葉を聞いて、だからわけの判らないセリフが多いのかとひとり納得した。
2202を観ていると、古代たちが無茶な作戦を決行するときや、何やら危機に見舞われたとき、真田さんらが早口で解説を始め、何か聞きなれない単語を連発することがよくあった。その解説は、劇場で一度鑑賞しただけでは聞き取るのも難しいぞんざいなものだった。
ときどき斉藤が「つまり○○ということか」などと細部を端折って云い替えたりしていたけれど、これがまたあまりに雑な説明で、ホントに真田さんはそんなことを云ってたのかと聞き返したくなるほどだった。脚本を書く人が元々考えていたのは斉藤が話した程度のことで、そこにもっともらしさを付け加えるため真田さんに難しいことを云わせたのではないかと思った。
真田さんの解説に本当に真実味を持たせたいなら、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズのワープ航法の解説シーンのように、受け手の腑に落ちるようにきちんと説明するべきだ。
あるいは、2199の第10話で異次元断層からの脱出方法を話し合うシーン。「なるほど。理論的には可能です。」という真田さんの言葉を受けて、技術科の新見薫が「波動砲はその射線上に強力な次元波動を発生させます。計算ではこの次元断層の位相境界面を狙えば、発生した干渉波で開口部が形成されるはずです」と述べ、干渉波で開口部が形成される模式図も示す。新見はゆっくりとした口調で話すから聞き取りにくさは感じないし、これを出されたらヤマトファンはぐうの音も出ない「波動」というキラーワードを中心に「位相」とか「境界面」といった波に関係する用語でセリフが構成されているから判りにくいとも思わない。模式図まであるおかげで、視覚的にも納得しやすい。架空の理論であってもこうして説明されれば、違和感は覚えないのだ。その上で、「しかし波動砲を撃てば、残存エネルギーをほとんど使ってしまうことになります」と付け加えるから、受け手にはヤマトがどういう危機に陥ったのかとてもよく判る。
けれども2202は真田さんや徳川さんの早口のセリフで済ませてばかりで、全般的に劇中できちんと原理を説明しようとする意思が感じられない。何も高度な理論を展開してくれというのではない。どうせフィクションなのだから、見せ方、聞かせ方、架空の用語と実在の用語のバランスでいくらでも印象を変えられるはずなのに、本作では独りよがりな言葉ばかりが連発されて、受け手としては煙に巻かれたようにしか思えない。ここには現実世界との地続き感がない――ギャップを埋める努力が感じられないのだ。
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第7話「光芒一閃!波動砲の輝き」において、ガトランティスの250万隻の大戦艦が人工太陽のエネルギーを使って地球を破壊しようとしたとき、観測していた西条未来が「人工太陽に多数のコロネホール発生。敵艦隊へのエネルギー流出が認められます」と報告していた。
私には「コロネホール」に聞こえたが、これはもちろん「コロナホール」であろう。人工太陽のエネルギーが大戦艦によって吸い取られ、コロナに温度の低い箇所ができたために「コロナホール」と呼んだのだ。「コロナホール」のような用語が挿入されるのは悪くない。あいにく早口で聞き取りにくいし、「コロネホール」か「コロナホール」か判然としないうちに先に進んでしまうので、ポカンとした人が多いと思うが。
わけの判らないことを云うのは真田さんに限らない。
たとえば第12話でズォーダー大帝は「相転移次元跳躍の準備に入れ」と命じていた。皆さんは「相転移次元跳躍」とは何か判るだろうか。「相転移」は熱力学でお馴染みだし「次元」も「跳躍」も一般的な言葉だけど、組み合わさって「相転移次元跳躍」になると、おそれながら私には何を云ってるのか判らない。第12話ではそれ以上「相転移次元跳躍」に言及しないから、受け手はすっかり置いてきぼりだ。
ようやく第18話になってサーベラーが「帝星ガトランティス、相転移次元跳躍!」と叫び、それとともにガトランティスが土星の傍に出現する。そのことから察するに、相転移次元跳躍とはワープやゲシュタムジャンプの類いらしい。だが、なまじっか日本語で「相転移次元跳躍」などと云われるものだから、この描写に相転移がどう関わるのか気になって仕方がない。考えても判らないし、考えているうちに話は進んでしまうしで、フラストレーションが募るばかりだ。こんなことならガトランティスジャンプとかズォーダー航法とか、現実にはない言葉ばかり使ってくれたほうがよっぽどいい。
実はきちんとした説明を用意したのだが、尺と内容のバランスが悪くて入れられなかったのだろうか。それとも、"やりたいストーリーや展開"が先行する中、せめてひと言挿入し、何か理屈っぽいことを示唆してSFらしさのアリバイ作りをすることだけを目論んだのだろうか。
第12話でひと言触れた言葉が、次に出てくるのが第18話というのもあんまりだが。
トークショーでは、現在進行中の『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』に関する言及はなかった。
ただ、小倉信也氏と福井晴敏氏の仲が良いこと、お二人とも楽しくお仕事されているらしいことは伝わってきた。
それは何よりなことであるが、2202はSFとしてどうなんだろうと考える私の心は晴れなかった。
SFアニメの雄であった『宇宙戦艦ヤマト』、その魅力をさらに推し進めた『宇宙戦艦ヤマト2199』。なのに『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は後退している。これでは『宇宙戦艦ヤマト』のファンは、ましてや『宇宙戦艦ヤマト2199』のファンは楽しめない。
トークショーの会場を後にする私は、そんな風に考えていた。
もっとも、福井氏自身がインタビューに応えて「『ヤマト2202』に関しては、歴史やSFものではなく、「風刺もの」という捉え方をしています」と話しているのだから、そもそもSFとしての魅力を期待するものではなかったのかもしれない。
そして、やがて2202は驚くべき展開を見せることになる。
(つづく)
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第1話『西暦2202年・甦れ宇宙戦艦ヤマト』
第2話『緊迫・月面大使館に潜行せよ』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 麦人 千葉繁 てらそままさき 神谷浩史 田中理恵 久川綾 赤羽根健治 菅生隆之 神田沙也加
日本公開/2017年2月25日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】