『サウンド・オブ・ミュージック』 おじさんからの手紙
![サウンド・オブ・ミュージック 製作50周年記念版 ブルーレイ(3枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61UdBfe3jiL._SL160_.jpg)
お元気ですか。
実写映画のBlu-ray Discを贈るのは初めてでしたが、『サウンド・オブ・ミュージック』は楽しんでもらえたでしょうか。
これまで贈るのは本ばかりで、たまに『ズートピア』などのアニメーション映画のBlu-ray Discを贈るぐらいでしたが、Y**ちゃんも大きくなったのでそろそろ実写映画も楽しめるかなと思いました。
『サウンド・オブ・ミュージック』はもともとブロードウェイで大ヒットしたミュージカル・シアター(歌や踊りがたくさんあるお芝居)で、それを少し改変して映画化したのが本作です。
でも、この映画には少し難しいところがあったかもしれません。
おじさんは子供の頃からこの映画が大好きでしたけど、初めて観たときは判らないことがたくさんありました。判らないところがあっても映画は楽しいのですが、判らないことを調べてみると、世界の歴史や文化についていろいろ知ることができます。
いろんなことを知った上で映画を観れば、ますます映画を楽しめて、深く味わうことができます。
Y**ちゃんもいつかこの映画について調べようと思うかもしれません。そのときのために、この映画を理解する上でおじさんなりに大事だと思うことを、ここにいくつか書き留めておきます。
映画は、観た人それぞれが自分なりに受け止めれば良いものですから、ここに書いたことにあまり囚われる必要はありません。これらの知識を参考にしてもしなくても構わないので、自由に映画を楽しんでもらえれば嬉しいです。
映画は険しい雪山の映像からはじまりますね。街中に暮らす私たちには見慣れない光景で、ちょっと意表を突かれます。『サウンド・オブ・ミュージック』を監督したロバート・ワイズは優れた映像センスを持つ人で、『ウエスト・サイド物語』でもニューヨークを上空から捉えた映像で観る者をハッとさせました。
『サウンド・オブ・ミュージック』ではカメラが険しい山々を越えると、緑に囲まれた美しいザルツブルクの街が見えてきます。カメラがぐいぐい迫って丘の上の草原をのびのびと歩くマリア先生の姿を捉え、さらにアップになって彼女はタイトル曲「サウンド・オブ・ミュージック(音楽の響き)」を歌い出します。雄大な山々の光景から、草原を散策するマリア先生まで続く映像の美しさは、目を奪われますね。
音声解説を聞くと、ロバート・ワイズ監督はこの映像でマリア先生の活力を表したかったそうです。
また、ここで重要なのは、鋭い山々を見せて観客の気持ちを険しくさせた後に、緑に囲まれたザルツブルクの街並みを見せて観客の心を解きほぐし、ザルツブルクが素晴らしいところであることを観客に印象づけて、ザルツブルクを(マリア先生たちの大切な故郷を)好きになってもらうことにあります。
おじさんが旅行代理店のツアーに申し込んでザルツブルクへ行ったときは、ツアー客の半数が『サウンド・オブ・ミュージック』を好きな人たちでした。みんな映画を観てザルツブルクに行きたくなったのです。この映画にはそんな風に街を好きにさせてしまう魅力があります。
冒頭のシーンは同時に、ザルツブルクを出るには山を越えなければならない地理関係を観客の頭に自然に刷り込み、映画のクライマックスへの伏線としています。美しい映像と美しい音楽の裏には、緻密な計算があるんですね。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』を大ヒットさせた脚本家スティーヴン・マクフィーリーは、「ひとつのシーンが複数の意味を持たないのなら、おそらくその場面を映画に入れるべきではないんです」と語っています。『サウンド・オブ・ミュージック』は、複数の意味を持つシーンでいっぱいです。

さて、ザルツブルクのノンベルク修道院で修練していたマリア先生は、修道院長からトラップ家の家庭教師をするように云われます。物語の始まりです。
この仕事を引き受けたマリア先生が「自信を持って」と自分を励ましながらたどり着いたトラップ邸で待っていたのは、世にも恐ろしい光景でした。
七人の子供たちは、全員揃いの制服を着用させられ、ゲオルク・フォン・トラップ大佐[*]が吹く笛に合わせて一糸乱れず行動することを強要されていました。笛が鳴れば即座に整列、笛の音色ごとに各人の行動が決められているのです。子供たちにはそれぞれ名前があるのに、お父さんは名前を呼んでもくれません。笛に気づかず、本を読むのに夢中になっていたブリギッタは、本を取り上げられてしまいました。
トラップ家では音楽も禁止です。歌ったり楽器を演奏したりすることは許されません。トラップ大佐がダメと云ったらすべてダメなのです。トラップ家の子供たちには行動の自由がなく、一人ひとりの個性や違いも尊重してもらえないのでした。
このように、全員が同じように行動しなければならず、他の人と違うことを云ったりやったりすると叱られてしまうことを「全体主義」と云います。
ゲオルク・フォン・トラップ大佐は、個々の人間の気持ちを踏みにじり、全員が機械のように整然と動くことを望む、恐ろしい全体主義者だったのです。
映画『サウンド・オブ・ミュージック』は実話をヒントにして作られた物語ですが、史実に則しているわけではありません。実在のマリアさんによれば、ゲオルクさんは決して恐ろしい父親ではなかったそうです。『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台はオーストリアでも、作ったのは米国の映画会社の人ですから、オーストリアの人にとっても史実と違うところがいろいろあるかもしれません。
音声解説で、ロバート・ワイズ監督はこう語っています。「私は制作当初から決めていたからね、実際の話には詳しくなるまいと。傑作といわれるミュージカルを映画化するために私は雇われたわけだ。そこで考えたんだ、私の役目はできる限りいい形で脚本を映像にすることだってね。もしも自分の中に実際の物語と脚本の相違点があふれていたら、それらが思考を邪魔して重荷になっていただろうね。」
ですから作中の描写が本物らしいかどうかを考えるよりも、この作品をつくった人たちが作中の表現を通して何を訴えようとしたのかを考えながら鑑賞するとよいでしょう。
全体主義の世の中では、一人ひとりのやりたいことはあきらめ、好きなものは手放さなければなりません。何しろ歌いたい曲を歌うことすらできないのです。
この映画のトラップ家は音楽を禁止されていましたが、全体主義の世の中では禁止されるばかりではなく、歌う曲を決められてしまうこともあるでしょう。「全員で同じ曲を歌うように」と決められて、好きでもない曲をみんなで歌わされるのも全体主義です。それどころか、全体主義の世の中では全員が同じ曲を好きだと云わねばならないかもしれません。

トラップ家の子供たちは、みんな窮屈な思いをして辛そうです。『サウンド・オブ・ミュージック』を観ていると、全体主義の恐ろしさがよく判ります。
マリア先生は、トラップ大佐が一方的に決めた窮屈な規則から子供たちを解放しました。見栄えがいいだけで動きづらい制服なんかやめさせて、汚れてもいい遊び着や、一人ひとりの個性に合わせた服を着させました。彼らは山へ行ったり街へ繰り出したり湖で遊んだりと自由を満喫します。音楽の素晴らしさに触れ、思う存分歌います。
マリア先生と、マリア先生がトラップ家に持ち込んだ音楽は、やがてトラップ大佐にも変化をもたらします。湖の表面を覆った氷が春の陽射しを受けて溶けていくように、子供たちやマリア先生の歌声に触れたトラップ大佐は温かな心を取り戻していくのです。
トラップ家を支配していた全体主義は、こうして消えていきました。
そのきっかけになったのは歌ですが、ここでの歌はあくまで比喩に過ぎません。もちろん音楽は素晴らしいし、歌をうたうことも素敵です。でも、歌をうたったから大佐が人間らしい気持ちを取り戻せたという単純なことではありません。
自由な活動が制限されたり、他者から何かを強要されても、それに屈せず自分がやっていることの素晴らしさを訴え続けること、その大切さが映画に込められているように思います。

せっかくトラップ家に馴染んで、みんなと仲良く過ごせるようになったマリア先生ですが、女男爵のエルザから「大佐とあなたは惹かれ合っている」と指摘されて動揺し、急いで修道院に帰ってしまいます。
ここにも説明が必要でしょう。
マリア先生は修道女になるため修練している身です。修道院長から世間の風に触れるように云われてトラップ家にやってきましたが、それは一時的なこと。いわば修練の一環に過ぎないと思っています。修道院長はマリア先生が修道女に向いていないのではないかと感じていて、修道女になることが自分にとって本当に良いことなのか頭を冷やして考えさせるために修道院の外に出したのですが、マリア先生は修道女になる夢をあきらめていません。
ノンベルク修道院を含むカトリックの教会で修道女になるには、修練を積んだ上で三つの誓願を立てる必要があります。「清貧の誓願」「従順の誓願」「貞潔の誓願」がそれで、三つ目の「貞潔の誓願」とは平たく云えば「私は結婚しません」と約束することです。修道院長から「結婚してはいけません」と禁じられるのではなく、一人の人を愛したり、結婚したり、家庭を持ったりするよりも修道女として生きるほうが大事だと自分から誓うのです。
マリア先生がエルザの指摘に動揺したのは、図星だったからでしょう。知らず知らずのうちにトラップ大佐に惹かれていた気持ちを見透かされ、さらに大佐もマリア先生に惹かれていると云われてどうしようもなくこみ上げてくる想いを自覚してしまったのでしょう。
でもトラップ大佐を愛するということは、「貞潔の誓願」を立てられないことを意味します。こんなに動揺する自分はまだまだ修練が足りない、このままでは修道女になれないと思ったマリア先生は、トラップ大佐とトラップ家から距離を置くために修道院に逃げ帰ったのです。
けれどもマリア先生は、トラップ大佐への愛を押し殺して修練するのが解決ではないことを修道院長に諭され、トラップ家に戻って大佐と結婚します。ここで修道院長が歌う「すべての山に登れ」はとても感動的ですね。

一つは見てのとおり、自分の道を見つけるように修道院長に諭されたマリア先生が、トラップ大佐との愛に生きることを選ぶ話です。
もう一つ、ここにも全体主義と個人主義のせめぎ合いを見ることができます。
修道院もまた、全員に揃いの制服を着させ、厳しく規則を定め、自由に歌うことを禁じて、規則を破ったら床にキスをさせたりするところです。修道院の人たちは心優しい良い人ばかりなので気づきにくいですが、実は全体主義に覆われた頃のトラップ家にそっくりなのです。
自由奔放で、院内でも歌を口ずさんでしまうマリア先生は、全体主義に馴染まない自由な生き方を象徴しています。
決して修道院が全体主義的だと云いたいのではありません。修道院はそこで生きることを望んだ人たちが集まる場所なので、その人たちにとっては修道院の規則も、院内で歌うのが聖歌だけであることも、締め付けとは感じられないでしょう。
でも、その生き方に適していない人、心の奥底では望んでいない人に押し付けたら、全体主義になってしまいます。修道院長は、修道生活は素晴らしいものなんだからここで修練に励めば良いとは決して云いません。何ごとも心から望んだ人だけが参加するべきで、本心では納得できていない人に無理をさせるとその人を歪めてしまうことを院長は知っているのです。
マリア先生は、一度は修道女を目指して修練してみました。しかし、修道女に適していないことが本人にも周囲の人にも明らかになりました。それが判っただけでも修練したことには意義があったのでしょう。
マリア先生が院長と話し合い、修道院を出るくだりは、必ずしも怖い人が押し付ける怖いものが全体主義なのではなく、心優しい人たちによる平和的なものも全体主義になりかねないこと、そして全体主義にならないためには参加しない自由が確保されるべきであり、ときには自分の許を去ることを勧める必要があることを示しています。
エルザの指摘に動揺したマリア先生は修道院に逃げ込み、全体主義に屈しようとしました。自分で考えたり判断する苦労から逃げ、他人の決めたことにただ従うだけの精神的怠慢に陥ろうとしたのです。でも修道院長はそれを認めませんでした。修道院長のように、本当にその人のためになることを考えて、その人の判断を尊重してあげることは、個人主義のお手本と云えるでしょう。
こうしてマリア先生は、再び全体主義から逃れることができたのです。
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トラップ大佐と結婚したマリア先生は、――いや、子供たちにとってマリア先生は家庭教師ではなくお母さんになったのですから、「マリア先生」と呼ぶのはやめて単に「マリア」と表記しましょう――トラップ大佐と結婚したマリアは、七人の子供とともに幸せに暮らすかと思えました。
ところが、またも全体主義がマリアに襲いかかります。しかも今度はとてつもなく大きな相手、国家規模の全体主義です。
トラップ大佐とマリアが長い新婚旅行に出ているあいだに、ザルツブルクの光景は一変しました。街中に鉤十字の旗が掲げられるようになったのです。
時は1938年、ザルツブルクを含むオーストリアは、隣国ドイツに併合されました。
全体主義といえば歴史上もっとも有名なのが、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が支配していた当時のドイツです。国家社会主義ドイツ労働者党とその協力者たちはナチとかナチスと呼ばれ、当時のドイツは他国から「ナチス・ドイツ」と呼ばれていました。このナチス・ドイツが強引にオーストリアをドイツの一部にしたために、国家としてのオーストリアは消滅し、ナチスのシンボルである鉤十字をあしらった旗が街のいたるところに掲げられることになったのです。
本作ではあまり具体的に描写されていませんが、ナチスは自分たちのやり方に異を唱える人を弾圧したり、ユダヤ人ら他民族を虐殺したりして、多くの人を苦しめました。オーストリア併合の翌年には、支配圏を拡大するため他国に侵攻し、第二次世界大戦を引き起こしました。
ナチス・ドイツをモデルにしたのが、『サウンド・オブ・ミュージック』のBlu-ray Discと一緒に贈った『スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望』(1977年)の銀河帝国です。
『サウンド・オブ・ミュージック』は前世紀のヨーロッパを舞台にした歌と踊りでいっぱいの映画ですが、『スター・ウォーズ』は宇宙を股にかけた大冒険。まったく違うタイプの映画に思えますけど、実は「全体主義と戦う」という点で同じテーマの作品です。
突然四番目のエピソードを贈られたから面食らったでしょうね。しかし、「エピソードIV」と書いてあっても、スター・ウォーズ・シリーズは『エピソードIV/新たなる希望』が最初に作られたのです。発表順ではこれが第一作です。
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しかも、素顔を見る限り白人の男性ばかり。白人の男性しか活躍していないということは、白人でない人や女性は社会の片隅に追いやられていることを意味します。男性が悪いとか白人が悪いということではなく、偏った傾向の一部の人だけが活躍する社会は、どこかに犠牲を強いているのです。
一方、帝国と戦う反乱同盟軍は、女性のレイア姫が指導的な立場だったり、はみ出し者のハン・ソロや人類ではないチューバッカを受け入れたことでも判るように、性別や種族に関係なくいろんな人が協力する集団です。
この映画は、偏った傾向の人々による偏った支配に、多様な人々が異を唱えて抵抗する物語でした。
第二次世界大戦の頃から数十年、ナチスは頻繁に映画やマンガ等の悪役として描かれました。『スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望』の監督ジョージ・ルーカスがユダヤ系アメリカ人のスティーヴン・スピルバーグ監督と組んで制作した『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)も、ナチス・ドイツと戦う話でした(ユダヤ系アメリカ人とは、主にヨーロッパでの迫害を逃れて米国に移住したユダヤ人とその子孫のことです)。
『スター・ウォーズ エピソードIV/新たなる希望』は遠い宇宙の果ての物語で地球の歴史には関係しませんが、民衆を苦しめる連中を描くときは、やはりナチスを連想させるように表現しているのです。
トラップ大佐とマリアの不在中、歌の練習をしていた子供たちのところに地方長官がやってきて、音楽祭を例年どおり開く話をします。これが国家規模の全体主義の恐ろしいところです。音楽祭が中止されれば、全体主義の世の中になったことや自由に活動できないことが人々を動揺させ、不満が募るでしょう。他方、例年どおり開催されれば世の中が悪くなったことに気がつきにくい。全体主義者は狡猾です。全体主義は必ずしも音楽を禁止するばかりではありません。それどころか音楽を通じて全体主義を強化するのです。
でも、音楽祭を開く人にとって、みずから音楽祭を開きたいと思うことと、音楽祭を開くように命令されることとは違います。オーストリアからはすでに自由がなくなっていたのです。
地方長官がドイツの人間ではないことにも注意が必要です。彼はれっきとしたオーストリアの人です。さきほどナチス・ドイツがオーストリアを強引に併合したと書きましたが、すべてのオーストリア国民が併合を嫌がったわけではありません。当時のオーストリアには、いわゆるオーストリア・ナチスと呼ばれる、ドイツのナチスに共鳴する考え方の人々がいましたし、その他にも併合に賛成する人はたくさんいました。トラップ家の長女リーズルの恋人ロルフも、ナチスの活動に熱心なあまりリーズルに会いに来なくなりましたね。
国家にはたくさんの人がいますから、どんな施策に対しても全員が賛成したり全員が反対することはありません。賛成の人も反対の人もいる中で、いかに多くの人を幸せにして、後世の人に良い国を繋いでいくか。私たちはいつだって難しい舵取りを迫られています。
さて、祖国が大変なことになったのを知り、急いで新婚旅行から戻ったトラップ大佐の許に、ドイツ海軍からの召集令状が届きます。今でこそ退役しているトラップ大佐ですが、1914年から1918年にかけて起きた世界大戦では有能な潜水艦艦長としてたくさんの軍艦や商船を撃沈しました。ナチス・ドイツはそんなトラップ大佐を軍隊に復帰させ、戦争の片棒を担がせようとしていたのです。
これまで様々な困難に立ち向かってきたマリアですが、今度は相手が悪すぎました。国中が全体主義に染まっているのです。歌や踊りで心を開かせることもできませんし、修道院のように話し合いでそれぞれの道を歩むことにもできません。『スター・ウォーズ』の反乱同盟軍は全体主義の帝国と戦火を交えましたが、七人の子供たちを抱えたトラップ大佐とマリアが国を相手にそんなことはできません。そこで一家の選んだ方策が、国から逃げることでした。
戦うことが必要なときもありますが、逃げるのもとてもいい選択です。国家というのはたくさんの人の集まりですから、人が逃げていなくなったら国家はどんどん痩せ細ります。もしかしたら戦うのと同じくらい国家にダメージを与えるかもしれません。
実際、ナチス・ドイツからたくさんの科学者らが米国へ逃げ出し、またナチス・ドイツがたくさんの科学者らを追放してしまったために、(他にも要因はありますが)ナチス・ドイツは衰亡し、第二次世界大戦後、米国は超大国として繁栄することになります。
どんな集団でもそうですが、たくさんの人が気持ちよく居られるようにしないと、存続することはできないのです。

本作後半の山場が音楽祭の場面です。ナチスに監視される中でどうやって逃げるのだろうとハラハラしますね。同時に、素晴らしい歌が次々に聴けて、ミュージカル映画としても盛り上がるところです。
特に感動的なのが、トラップ大佐が歌う「エーデルワイス」でしょう。
音楽祭に出るために練習してきたのは子供たちであって、大佐は成り行きから同行する破目になっただけ。なのに、ナチスを欺くために大佐もしっかり歌わなければなりません。果たして大観衆を前にトラップ大佐はちゃんと歌えるのか。映画を観る人の目は釘付けになってしまいますね。
その緊張が高まったところでトラップ大佐が静かに歌い出したのが「エーデルワイス」。この曲は映画の前半でも歌われましたが、あれは大佐にも歌える歌はあるんだよということを示す意味と、大佐が音楽の素晴らしさを思い出したことを示す意味に加えて、音楽祭のシーンでこの曲を歌うための伏線だったんですね。同じ曲でありながら、後半での印象は前半とはまったく異なります。
エーデルワイスは和名を西洋薄雪草といって、ヨーロッパの高山に咲く白くて可愛らしい草花です。日本で桜や菊の花をめでる人が多いように、オーストリアを象徴する花として愛されています。
ナチス・ドイツに併合され、その管理下で開かれる音楽祭は、もうオーストリアの祭典とは云えなくなってしまいました。そんな場で、オーストリアを離れざるを得ないトラップ大佐が、オーストリアを象徴する花の歌をうたいます。ロバート・ワイズ監督によれば「彼のメッセージは"祖国を忘れず、ナチスに感化されることなく、愛する国を守ってほしい"というものだ」。トラップ家への共感を示して、観衆も「エーデルワイス」をうたいます。「(オーストリアの象徴たる)エーデルワイスよ、我が祖国を永遠に祝福したまえ(Edelweiss, Edelweiss, Bless my homeland forever)」という大合唱に、ナチスの手先たちはうろたえます。
このシーンが表しているのは、ナチスの全体主義への抵抗です。併合されても祖国を思う気持ちは変わるまいぞ、全体主義に魂までは渡さないぞ、美しいエーデルワイスが咲く祖国の大地を蹂躙させはしないぞ、という思いが歌に託されているのです。
事実を基にしたとはいえ、映画はあくまでフィクションです。実際にはオーストリアが併合されたとき、オーストリアにはこの併合を支持する人がたくさんいました。
だからこのシーンは、映画の作り手の願いが込められたものといえるでしょう。オーストリアを併合したナチス・ドイツはその後戦争したり大勢を虐殺して、オーストリアの人たちも散々な目に遭います。もしもあのとき併合を拒絶できていれば、違う道を歩めたかもしれません。過去に戻ってやり直すことはできませんが、同じことを繰り返さないように私たちは未来に備えることができます。このシーンからは、映画の作り手の強い強い思いを感じます。

優しいメロディーと小さな花を歌う素朴な詞、そして劇中の観衆が合唱する印象から、この曲がオーストリアに古くから伝わる民謡か何かだとつい勘違いしそうです。それくらい「エーデルワイス」は映画の中のオーストリアに馴染んでいましたが、劇映画はそれでも構わないのです。本作の主眼はオーストリアの歴史や文化を正確に写し取ることではなく、物語を通じて世界の人たちに作り手の思いを伝えることにあるのですから。
さらにおじさんは、この曲が併合当時のオーストリア国歌のもじりではないかと考えています。オーストリア国歌はこんな内容でした。
「素晴らしい祖国を永遠に祝福したまえ! 緑のモミよ、金色の穂よ、その地を優しく飾りたまえ」
詩人オットカール・ケルンシュトックが書いたもともとの詞では、この「祖国」とは「ドイツの地」のことでした。そして歌詞にはドイツ人と祖国(ドイツとオーストリアが合併してできる国)を褒め称える言葉が続いていました(オーストリアの国民にはドイツ語を話すドイツ人が多かったのです)。何世紀も遡ればドイツもオーストリアも同じ神聖ローマ帝国の一部でしたから、両国のあいだには密接な関係がありました。
一方、「エーデルワイス」の詞はこうです。
「エーデルワイスよ、エーデルワイスよ、我が祖国を永遠に祝福したまえ」
オーストリア国歌に似ていますね。けれどもこの歌にドイツ人や祖国を褒め称える言葉はありません。あくまでエーデルワイスの美しさをめでる詞が続きます。
平和な国を作ろうと考えるなら、こんな歌こそうたうべきだ。そんな思いがこの詞を書かせたのかもしれません。
ユーラシア大陸の西のほうでナチス・ドイツが猛威を振るっていたのと同じ頃、ユーラシア大陸の東の端では大日本帝国という国が個人の自由を制限し、戦争で国内外の多くの人を死なせていました。大日本帝国は日本列島や朝鮮半島、台湾島などにまたがる帝国でした。第二次世界大戦の結果ナチス・ドイツが滅亡し、その地に新たにドイツ連邦共和国やドイツ民主共和国、オーストリア共和国が誕生したように、大日本帝国も戦争で滅亡して、その地には日本国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国といった新しい国が誕生したり、一部の地域は他国に帰属することになりました。
このように個人の自由が奪われたり、戦争で多くの人が死ぬことは、いつの時代も、世界のあちらでもこちらでも起きています。ですから、『サウンド・オブ・ミュージック』の作り手が訴えることは、いつでもどこでも観る人の心に響くのです。
本作は、トラップ一家が山越えする場面で終わります。
実際にトラップ一家がオーストリアを脱出するときは、徒歩ではなく列車を使ったそうです。史実とは異なりますが、これも一種の比喩表現です。山の峰を歩く一家の映像に被せて、「すべての山に登れ」のコーラスが響きます。「どんな山が現れても、すべて乗り越えよう。狭い小さな道しかなくても、あらゆるやり方で進んでいこう……」という歌詞そのままに親子で山を越えていく姿は、観る者に勇気を与えてくれますね。
以上、『サウンド・オブ・ミュージック』についてあれこれ書きましたが、本作にはまだまだたくさんの意味が込められています。Y**ちゃんが気づいたものも、まだ気づかないものもあるでしょう。判らないところは、いろいろ調べてみると作品の面白さが深まると思います。また、Y**ちゃん自身がいろいろ経験を積むことで、見落としていたものに気づくこともあるでしょう。
できれば、何年か後にまた映画を観返してみてください。きっと、前に観たときとは違う魅力を感じるはずです。何度も観れば、何度も新しいものを発見できる。これはそんな映画です。
これからのY**ちゃんの人生が豊かなものであることを祈念しています。
[*] 実在のゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・トラップの海軍での階級は少佐ですが、この映画では海軍大佐(captain)とされています。
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監督・制作/ロバート・ワイズ
出演/ジュリー・アンドリュース クリストファー・プラマー エリノア・パーカー リチャード・ヘイドン ペギー・ウッド アンナ・リー チャーミアン・カー ニコラス・ハモンド ヘザー・メンジース デュエン・チェイス アンジェラ・カートライト デビー・ターナー キム・カラス ポーティア・ネルソン ベン・ライト ダニエル・トゥルーヒット ノーマ・ヴァーデン
日本公開/1965年6月26日
ジャンル/[ミュージカル] [ファミリー]

【theme : ミュージカル映画】
【genre : 映画】
tag : ロバート・ワイズジュリー・アンドリュースクリストファー・プラマーエリノア・パーカーリチャード・ヘイドンペギー・ウッドアンナ・リーチャーミアン・カーニコラス・ハモンドヘザー・メンジース
『ハンターキラー 潜航せよ』は面白い上に面白い
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いやはや、『ハンターキラー 潜航せよ』はなんて面白い映画なんだ。
よくもまぁこんなに面白く作れるものだと感心した。
ロシア海域でロシアと米国の原子力潜水艦が沈没した。両者が交戦したわけではない。何者かによりどちらも沈められたのだ。
その頃、ロシアではドゥーロフ国防相がザカリン大統領を拘束し、クーデターを起こしていた。ドゥーロフ国防相は米国と開戦し、ロシアの全権を掌握しようと企んでいたのだ。
これを察知した米軍は、ネイビーシールズの四人の精鋭と、ジョー・グラスが艦長を務める攻撃型原子力潜水艦(ハンターキラー)のUSSアーカンソーを差し向けて、なんとロシア大統領の救出を命じる。かくして、米軍がロシア領内でロシア軍と戦いながらロシア大統領の救出を図るという、前代未聞の作戦がはじまった。
一方で、米統合参謀本部のドネガン議長は、ドゥーロフ国防相の動きに武力で対抗すべきと主張。ロシアに向けて空母打撃群を派遣した。ジョー・グラスが一刻も早くロシア大統領を救出してクーデターを頓挫させなければ、米ロ両国が交戦状態に陥るのは必至だった。
――と簡単にプロットを記しただけでも、『ハンターキラー 潜航せよ』の面白さはお判りいただけると思う。
本作は、不可能な任務に挑む特殊部隊モノの面白さと、潜水艦の隠密行動を描く海洋サスペンスの面白さを兼ね備え、さらには潜水艦同士や潜水艦対駆逐艦の戦いも挿入されて、面白い上に面白い。
潜水艦を舞台にした映画は、密かに行動しなくてはいけないとか、音を立ててはいけないとかになりがちで、それはそれでもちろん面白いのだけど、映像に躍動感がなくて地味な絵になりやすい。その点、本作は潜水艦の任務と並行して、シールズによる敵司令部への潜入や激しい銃撃戦を描くことで、緩と急、動と静がバランス良く配置されている。銃声が鳴り響く山中の戦いに興奮した次の瞬間には、物音一つ立ててはいけない海中の緊張感を味わうわけで、そのハラハラドキドキの繰り返しが実に巧い。
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本作の公式サイトには「潜水艦テクノロジーの急激な発展という現実に、フィクションが追いつくことができなくなった結果だ」とあるが、作品に国際情勢を織り込むのが難しかったせいもあるのではないかと思う。
第二次世界大戦中の話であれば、潜水艦と駆逐艦が戦うシチュエーションにはこと欠かなかった。冷戦中も、米ソの対立を軸に物語を展開することができたろう。21世紀に米軍の潜水艦に対抗できる力を持ち、かつ米国と対立しそうな国といえばロシアくらいなものだろうが、ではどうやってロシアとのあいだで潜水艦が出動するほどの事態を演出するのか。ロシアを友好的な国として描いたら対立軸を作れないが、さりとて敵国扱いするのが適当なのか。戦闘シーンはどこまでエスカレーションさせて良いのだろうか。ロシア市場を含めた世界各国で映画を受け入れてもらえるようにするには、誰を悪人にして誰を善人にすれば良いのか。
本作はこれらの問題を解決するために、ロシアという国と対立するのではなく、あくまで国防相ドゥーロフの陰謀に対抗する形にした。これにより、ロシア軍が動いていてもロシアという国と対立しているのではない図式ができた。
物語上ロシア人と戦うことは避けられないが、その分、ロシアのザカリン大統領とアンドロポフ艦長を理性的で信頼できる人物として描き、米ロの精鋭が共闘する場面も織り交ぜて、ロシア人がみな悪いかのようなステレオタイプに陥らないようにした。
このあたりのバランスの取り方を楽しむのも、本作のような映画の醍醐味だ。
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USSアーカンソーのエドワーズ副長は、ロシアのアンドロポフ艦長らを救出したり、アンドロポフ艦長をアーカンソーの制御室に立ち入らせることに反対する。ここでエドワーズ副長が代表しているのは、同じ組織・集団に所属する者で固まり、他集団の者を排除し近寄らせないことで安心を得る「集団主義的秩序」である。
他方、グラス艦長は、アンドロポフ艦長がロシア海軍所属であることよりも彼個人の人となりを見て信頼関係を結ぼうとする。グラスが代表しているのは「個人主義的秩序」である。山岸俊男氏はこの二通りの社会のありようを「安心社会」と「信頼社会」と呼んで区別した。
「安心社会」では同じルールに従う者が集まっているので、その集団内にいる限り、騙されたり傷つけられるおそれは少ない。その代わり、新しい知見を得たり社会が発展する機会を得たりするのが難しく、社会は停滞し閉塞感に覆われるやもしれない。
「信頼社会」では、社会の一人ひとりが「相手が信頼できる人間かどうかを見極めるための社会的知性」を必要とされるが、その代わりに集団内にはない知見を得たり、新たな飛躍のきっかけを掴んだりできる。
日本はどちらかというと「安心社会」、米国はどちらかというと「信頼社会」であるという。
アメリカ映画である本作でも、エドワーズ副長の意見を退け、グラス艦長が他者への信頼を貫くことで、よそ者であるアンドロポフ艦長から有用な情報を得ることに成功する。結果、不可能と思われた任務を達成することができるのだ。
「他者への信頼」というテーマは、本作のクライマックスを最大限に盛り上げる。緊張が頂点に達するクライマックスにおいて、グラス艦長は何の行動も起こさないのだ。ミサイルを撃ち合ったり潜航したりの派手な戦闘で盛り上げてしかるべきところ、グラス艦長が駆使するのは他者への信頼のみ。
ここに至って、本作はアクション映画であることを放棄し、「他者への信頼」というテーマに殉じた。それは評価の分かれるところかもしれないが、私は大いに共感した。本作が序盤からずっと描いてきたのは「誰を信頼するか」「それをどう見極めるか」ということであり、その到達点が「他者を信頼し、あえてみずからは動かない」グラス艦長の決断であった。
本邦でこういう映画を作ろうとすると、生硬なセリフの応酬に終始したり、主要人物が長広舌をふるったりするうるさい映画になりがちだ。長ゼリフでくどくど説明してあげないと日本の観客には判らないと作り手に思われているのか、セリフに頼らなければ表現できないほど作り手の力量が不足しているのか、その両方なのか、いろいろ意見はあるだろう。
本作では、グラス艦長が短いセリフをビシッと決めるのが印象的だ。危機を乗り越えたグラス艦長がアンドロポフ艦長とザカリン大統領に近づいて口にするのは、ただ「感謝します」という言葉だけ。こういう男がかっこいい。
参考文献
山岸俊男・吉開範章(2009)『ネット評判社会』 NTT出版
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監督/ドノヴァン・マーシュ
出演/ジェラルド・バトラー ゲイリー・オールドマン コモン リンダ・カーデリーニ ミカエル・ニクヴィスト トビー・スティーヴンス
日本公開/2019年4月12日
ジャンル/[アクション] [サスペンス]

【theme : アクション映画】
【genre : 映画】
tag : ドノヴァン・マーシュジェラルド・バトラーゲイリー・オールドマンコモンリンダ・カーデリーニミカエル・ニクヴィストトビー・スティーヴンス
『アベンジャーズ/エンドゲーム』 ありがとうアベンジャーズ
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こんな映画が作れるとは!
『アベンジャーズ/エンドゲーム』には感服するばかりだ。
2008年の『アイアンマン』にはじまり、11年の歳月と21作品に及んだマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、22作目の『アベンジャーズ/エンドゲーム』で遂に堂々たる結末を迎えたのだ。
過去、映画界でこんなことはなかっただろう。
MCUは全世界の興行収入が100億ドルを超える大ヒットシリーズで、アベンジャーズだけを見ても第一作『アベンジャーズ』が15億ドル以上の興収を叩き出し、第二作『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』が14億ドル、第三作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が20億ドル以上に達する凄まじさだ。なのにマーベル・スタジオは、作ればまたヒットすると判りきっているMCUの物語にけりをつけてしまった。無理にでも続編を作って儲け続けようとする会社が多い中で、とてつもない英断だ。
映画の本数だけでいえば、男はつらいよシリーズや007シリーズのほうが多いけれど、それらの長寿シリーズに一貫した物語はない。作れる限り、作り続ける。その繰り返しなだけだ。
MCUのヒーローたちは、誰もが主役級で自身の人気シリーズを持っているのに、クロスオーバーすることでそれぞれの物語が緊密に絡み合い盛り上がり、本作において一斉にすべての物語が終焉を迎えた。
アメコミではしばしば目にする手法だが、それをそのまま映画に持ち込むなんて、そしてそれを成功させてしまうなんて、いやはや脱帽だ。
もちろん、これからもマーベル・シネマティック・ユニバースの名の下で、マーベルのマンガを原作にした映画が作られていくだろう。ヒーローたちが集結してアベンジャーズを名乗ることもあるだろう。だが、とにもかくにも多くの作品群に広がっていた作品世界に一つの区切りがついたのだ。
マーベル・スタジオのケヴィン・ファイギ社長は、これまでの22作品を「インフィニティ・サーガ」という呼び名でくくっている。
「私たちは、これまでにないやり方でシリーズを終わらせたかったのです。ハリー・ポッターもロード・オブ・ザ・リングも原作本が少ないから終わりました。でも私たちは、22本もの映画を通して物語を完結させるのが面白いだろうと考えたのです。」
マーベルの無限ともいえる膨大な原作があればこその発言だろう。
シリーズ全体を通してのメッセージも強烈だ。
MCUの幕開けとなった『アイアンマン』は、天才発明家のトニー・スタークがその優れた科学力を兵器に使うのはやめようと決意する物語だった。科学技術をどう使うかという問題は、アイアンマンシリーズを貫くテーマである。
並行して描かれたハルクやキャプテン・アメリカの物語も、科学技術の使い方の是非を問う姿勢が背景にあった。マイティ・ソーが活躍したのは、「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」世界だ。
こうして科学技術のあり方を問い続けたMCUは、『ブラックパンサー』で明確なメッセージを打ち出した。その使い方をしっかり考え、科学技術を発展させてこそ、多くの命を救い、人々を幸せにできるということ。科学技術を発達させ、世界中の人がその恩恵に与れるようにすることが、ヒーローたる者に求められる崇高な行いであること。そのメッセージが共感を呼んだから、『ブラックパンサー』はヒーロー単体の映画としてはMCU最大のヒットを飛ばしたのだろう。
映画『ブラックパンサー』をもってMCUのメッセージは観客に充分すぎるほど伝わったと思うが、ダメ押しに登場したのがサノスだった。

しかし、無農薬の作物には相当の手間がかかるから大量生産できないし、品種改良しなければ野菜や果物は育ちにくく味や栄養が劣ったままであろう。添加物を加えない食品は痛みやすく(食中毒を起こしやすく)長持ちしないおそれがある。それでも裕福な人なら作物を厳選して、おいしいものを満足のいくまで食べられるかもしれないが、こんな生産性の低いことをしていては世界人口を支えられない。本来は、農薬の使い方はどうあるべきか、添加物はどのようなものが良いのか等を検討するべきであろうが(そしてそういう検討はとっくになされているのだが)、農薬全否定、添加物全否定に陥って抜け出せない人もいるようだ。それは、世界人口を支えなくても良いという考え、――見知らぬ人を切り捨てても良いという考え方に直結しよう。
それをサノスは実行に移した。世界人口の半分を亡きものにし、自分用の農園で自分一人が納得できる野菜作りをして、均衡の取れた(持続可能な)世界になったと喜んだ。サノスが恐ろしいのは、これに近い考え方の人が現実にいるからだ。科学の研究や技術の発達に背を向け、無農薬、無添加等を良いことととする生産者、流通業者、消費者の行き着く先は、サノスの世界であることを本作は示している。
だからこそ、科学の鎧をまとったアイアンマンや、科学の力で超人になったキャプテン・アメリカらは、全力でサノスを叩き潰さねばならなかった。たとえ勝利する可能性が1400万605分の1であっても、戦わなければならなかった。


前作の最後に、サノスによって世界中の半分の人々が消し去られた。残ったのはアイアンマン、ハルク、ソー、キャプテン・アメリカ、ブラック・ウィドウ、ホークアイ――つまり、マーベル・シネマティック・ユニバースのフェイズ1に登場し、これまでユニバースを支えてきた古参ヒーローたちだ。
世界の人々の半分が消滅し、それはヒーローといえど例外ではなかった、という云い訳を用意することで、フェイズ2以降に登場したドクター・ストレンジやブラックパンサー、スパイダーマン、スカーレット・ウィッチ、ファルコン、ウィンター・ソルジャー、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのほとんどのメンバーたちにいったん退場していただき、フェイズ1のヒーローたち(と本作でマーベルとの契約が切れるその役者たち)の最後の見せ場を作ったのだ。
フェイズ2以降のヒーローで活躍するのは実質的にアントマンだけであり、彼をあえて前作には登場させなかった(彼は通常とは異なる時空間にいた)ことを伏線にして、古参ヒーローの引退と新ヒーローたちへの交代を見届ける役を務めさせる。この壮大な仕掛けに心底感心した。
しかも、徹頭徹尾戦闘の連続だった『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』に比べ、本作はなんと静かで物悲しいことか。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』では、観客がMCUの作品を隅々まで知っていることを前提にして、キャラクターの紹介や背景説明を省いた激しい戦闘の連続を描くことができた。
本作もまた観客がMCUの作品を隅々まで知っていることを前提にしているが、それは『インフィニティ・ウォー』とは反対にキャラクターの内面をじっくり描き、一人ひとりの物語に決着をつけるためだった。両作とも、作り手がこれまで作ってきた作品世界に自信を持ち、足を運んでくれる観客を信頼しているからできることだろう。
各キャラクターのこれまでの苦悩と葛藤を知る観客には、本作の初期メンバーたちの物語が胸に迫るに違いない。
アイアンマンことトニー・スタークの傲慢さの裏には、父への反発が隠れていた。アイアンマンシリーズは、そんなトニーの心情と父への思いの変化を軸にしていた。
本作でみずからも父となり、また父の思いに直接触れたトニーは、かつて傲慢な億万長者だったことなど微塵も感じさせない安らかな表情をしている。
怪物ハルクに変化することを恐れ、人目を避けて暮らしつつ、危機が迫るとハルクの力を利用して乗り切っていたブルース・バナーは、自分がハルクであることと折り合いを付けられるようになった。ブルースが、ハルクでもある自分を肯定して人前に出られるようになるなんて、あの『インクレディブル・ハルク』の悲劇からは考えられなかったことだ。
父から立派な王になることを期待され、みずからもその期待に応えようと苦悩していたマイティ・ソーは、ソーらしさを受け入れてくれる母との会話を経て、自分なりの生き方を見つけた。
素性の知れない孤独なスパイだったブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフは、アベンジャーズの面々を家族と呼ぶほどに愛し、家族への愛に身を捧げた。ナターシャにとってそれは本望だったに違いない。
ホークアイは本作で改めて妻子の愛おしさ大切さを実感していたが、私はアベンジャーズのメンバーとの、特にブラック・ウィドウとの関係の描き方が感慨深かった。
フェイズ1ではブラック・ウィドウと強い絆で結ばれていたはずのホークアイは、フェイズ2でアベンジャーズを脱退し、フェイズ3の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』ではブラック・ウィドウと対立してしまう。
しかし、本作でホークアイとブラック・ウィドウの変わらぬ絆の強さが描かれたのは嬉しかった。ブラック・ウィドウと行動を共にするのがホークアイなのは、しごくもっともだと思う。

私がMCU全作を通じて一番悲しかったのが、スティーブとマーガレット・"ペギー"・カーターとの別れだった。わりと明るく楽しく観られた『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』だが、最後の最後にスティーブとペギーが70年という時間で引き裂かれてしまうラストはとてもショックだった。
それだけに、おそらくはアベンジャーズの中でもっとも過酷で痛ましい人生を歩んだであろう(にもかかわらず常に一番不屈であろうとした)スティーブが、本作でようやく個人としての慎ましく幸せな暮らしを手に入れたことに涙を禁じ得ない。
本作は単なる『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の続編ではなく、シリーズ物の最後のエピソードというだけでもない。
11年にわたり22本もの映画を生み出してきた作り手たちと、それらに付き合ってきた受け手とが共有する長い長い物語。その「世界」と「歴史」があるからこその感動に満ちたフィナーレなのだ。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』と『アベンジャーズ/エンドゲーム』の監督はアンソニーとジョーのルッソ兄弟、そして脚本はクリストファー・マルクスとスティーヴン・マクフィーリーという、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』から続くチームが手がけたが、本作を作り上げたのは彼ら四人だけではない。『ドクター・ストレンジ』のスコット・デリクソン監督はストレンジというキャラクターをどう扱うべきか彼らと意見交換したし、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の監督・脚本を務めたジェームズ・ガンも彼らに協力し、ガーディアンズの登場シーンにザ・スピナーズの「The Rubberband Man」を流すことを提案した。『マイティ・ソー バトルロイヤル』のタイカ・ワイティティ監督と脚本家エリック・ピアソンも協力し、クリストファー・マルクスとスティーヴン・マクフィーリーが脚本を書いた『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』以降にソーの身に起きた変化を反映させた。本作を手がけた四人のチームは、毎週のように他の監督や脚本家たちと話し合ったという。
この素晴らしい物語を紡いでくれた多くの人たちに感謝の意を表したい。たくさんの楽しさをありがとう。感動をありがとう。勇気と元気を与えてくれてありがとう。
ありがとう、アベンジャーズ。

監督/アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ
出演/ロバート・ダウニー・Jr クリス・エヴァンス マーク・ラファロ クリス・ヘムズワース スカーレット・ヨハンソン ジェレミー・レナー ドン・チードル ポール・ラッド ジョシュ・ブローリン ブリー・ラーソン カレン・ギラン グウィネス・パルトロー ダナイ・グリラ ベネディクト・ウォン ジョン・ファヴロー ベネディクト・カンバーバッチ クリス・プラット ゾーイ・サルダナ トム・ホランド エリザベス・オルセン アンソニー・マッキー チャドウィック・ボーズマン トム・ヒドルストン デイヴ・バウティスタ ポム・クレメンティエフ セバスチャン・スタン サミュエル・L・ジャクソン ナタリー・ポートマン レネ・ルッソ ロバート・レッドフォード フランク・グリロ ヴィン・ディーゼル ブラッドリー・クーパー
日本公開/2019年4月26日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー] [SF]

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【genre : 映画】
tag : アンソニー・ルッソジョー・ルッソロバート・ダウニー・Jrクリス・エヴァンスマーク・ラファロクリス・ヘムズワーススカーレット・ヨハンソンジェレミー・レナードン・チードルポール・ラッド