『アクアマン』 世界は英雄を待っている
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(A king fights only for his own nation. You fight for everyone.)
『アクアマン』は面白い物語のお手本だ。
なにしろそのプロットは1980年の映画『フラッシュ・ゴードン』にそっくりなのだから、面白いに決まっている。
とてもマッチョで、地元ではヒーロー扱いされている男が、異世界に入り込んで超文明に仰天する。ところがそこは高度な科学を有する一方で、倫理観の欠如した王に支配され、戦雲急を告げている。主人公は王に対抗して単身戦うも、マッチョなだけではどうにもにならず、あっさり敗北。王女に助けられた彼は、逃避行の最中に諸国を巡り、王をしのぐ英雄となって、悪王に抵抗する勢力を糾合する……。
こうしてあらすじを書いてみると、『フラッシュ・ゴードン』も『アクアマン』もまったく変わるところがない。
1930年代にマンガ連載がはじまった『フラッシュ・ゴードン』は、映像化されるたびに同じストーリーを繰り返している。1980年版はさすがに照れ隠しにセルフパロディになっているが、2018年公開の『アクアマン』はところどころにユーモアを散りばめつつも大真面目に作っている。それでヒットするのだから、とどのつまり米国人はこういう物語が好きなのだ。
「こういう物語」のルーツをたどれば、『フラッシュ・ゴードン』の原作マンガに影響を与えた(とジョージ・ルーカスが云っている)エドガー・ライス・バローズのSF小説「火星シリーズ」が浮かび上がる。バローズは、異星を舞台にした「火星シリーズ」のみならず、地球の地底世界を舞台にした「ペルシダーシリーズ」等、同趣向の作品を量産し、20世紀初頭の米国で人気を博した小説家だ。
第一作が1912年に発表された「火星シリーズ」は、『ジョン・カーター』の題で2012年に映画にもなったからご存知の方も多いだろう。元南軍騎兵大尉のジョン・カーターが火星(執筆当時は火星人がいるかもしれないと考えられていた)に転生し、火星の人々の超文明に仰天する。ところがそこは高度な科学を持っている一方で、倫理観の欠如した王に支配され(以下略)。
1914年からはじまった「ペルシダーシリーズ」は、『地底王国』の題で1976年に映画にもなったからご存知の方も多いだろう。コネチカット州の鉱山主デヴィッド・イネスが新発明の鉄モグラで地底に行くと、(「火星シリーズ」の超文明の裏返しで)原始的な世界に仰天する。ところがそこは高度な精神文明を持ち、人間を襲う怪物マハールに支配され(以下略)。
エドガー・ライス・バローズだけでなくその亜流作家も含めれば、同趣向の作品がどれだけ発表されたことか。
重力が地球の三分の一の火星ではジョン・カーターが火星人の三倍の跳躍力と三倍の怪力を発揮できる設定や、デヴィッド・イネスと相棒の技師アブナー・ペリーが地上の科学知識を使って原始的な地底人を驚かす設定など、つまりは現代社会では当たり前の知力体力でも異世界では有利に働く設定は、2010年代の日本の「異世界転移」モノなどと呼ばれるジャンルでも見られたようだ。
「人間が異世界へ渡って何らかの活躍をする」だけなら、黄泉国へ行ったイザナギや、冥界を旅したオルフェ等の神話までもが「異世界転移」モノになってしまうが、ここでは、現代社会では当たり前の知力体力でも(物理的特性や技術レベルの異なる)異世界においては有利に働くところがミソだ。このような設定は、ときに受け手の現実逃避や英雄願望といった気持ちの代弁にもなる。マーク・トウェインが1889年に発表した『アーサー王宮廷のヤンキー』も、アーサー王の時代に転移した現代人が科学技術の知識を活かして名声を得るという点で、相通ずるものと云えるだろう。
ところが、本作のアクアマンは人間社会では超人的な能力を発揮するスーパーヒーローだが、母の故郷アトランティスでは他の人々とたいして変わらない。異父弟オーム王との決闘では善戦するも負けてしまう。
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実は「火星シリーズ」のジョン・カーターも、作者バローズが地球と火星の重力の違いを忘れてしまったのか、驚異的な跳躍力や怪力を使うのははじめのうちだけで、だんだん使わなくなってしまう。火星の戦士と相まみえるときは、鍛錬の賜物である剣技を活かして対戦した。
「ペルシダーシリーズ」のデヴィッド・イネスも、地底世界の文明化のためにその知識を役立てはしたが、冒険行においては単身(あるいはヒロインと)危険な土地に放り出されてしまい、科学知識で有利に立ち回るどころではなかった。
これらの作品における地球と火星の重力の違いとか、地上の科学知識があることは、物語序盤で主人公を印象づけるために使われるだけで、ストーリーが転がり出せば用済みなのだ。
では、アクアマンの特徴は何かと云えば、一つには貴種流離譚の変形であることだ。アクアマンことアーサー・カリーは、アトランティスの女王アトランナの息子であり王位継承者だ。地上人のあいだではスーパーヒーロー「アクアマン」と呼ばれ、悪党退治に精を出しているけれど、いずれアトランティスの王位継承問題に決着をつけねばならない。
火星に転生したジョン・カーターも、冒険の末にヘリウム帝国の王女(皇帝の孫娘)と結ばれてヘリウムの王子となるし、デヴィッド・イネスも王の娘と結婚して王族に列せられる。
こうしてみると米国人は、王様も貴族もいない「自由と平等の国」を作ったわりには王様というものに憧れているように見える。アクアマンの名がアーサーであること、誰にも抜けなかったトライデント(三叉槍)を引き抜いて真の王であることを証明してみせることから、アーサー王伝説を題材にしていることは容易に知れるが、かといって現代の米国人がアーサー王伝説に心酔しているわけではない。
100年以上前のSF小説の主人公ジョン・カーターやデヴィッド・イネス、1930年代のマンガの主人公フラッシュ・ゴードン、そして21世紀の大ヒット映画の主人公アーサー=アクアマン、これら大衆文化の主人公に共通する真の特徴は、公明正大な人間であり、王になるよりもっと気高く崇高なことを成し遂げて人々の支持を得る点だ。
ジョン・カーターは戦争に明け暮れる火星の国々を和睦させ、すべての国に号令するWarlord(大元帥)の称号を贈られる。デヴィッド・イネスは地底世界のアモズ族やサリ族、メゾプ族らを同盟させ、ペルシダー帝国を建国し、その初代皇帝に就任する。
フラッシュ・ゴードンは惑星モンゴを旅して森林王国アーボリアや空中都市の鷹族と手を結び、モンゴ全土を支配するミン皇帝を打ち倒す。彼はなんの称号も地位も得ないが、モンゴの民はフラッシュ・ゴードンに感謝する。
そしてアクアマンは、アトランティス一国の王になるだけではなく、他の国々を含めた海底の大戦争をやめさせて、七つの海に平和をもたらす。
ここに共通するのは、自由と平等を信条とする米国人が、聞き分けのない各国指導者を諌め、米国の理念の下に世界を統合するパターンだ。米国人が本当に好きなのはこのパターンなのだ。
これは19世紀に実在した米国史上最大のヒーロー、エイブラハム・リンカーンの事績に重なる。
アメリカ合衆国の state 又は commonwealth を日本では「州」と訳しているが、「州」は一つひとつが連邦を構成する国である。この国々が反目し、北部諸州からなる勢力と南部諸州の勢力に分かれて激突した大戦争が19世紀後半の南北戦争であり、その犠牲者数はいまだ米国史上最大だ。そして奴隷解放宣言を発布してこの戦争を終わらせ、諸州を統合したのが北軍の最高司令官リンカーン大統領なのだ。
海底の国々の大戦争をやめさせ、すべての海に平和をもたらすアクアマンは、まさしく合衆国大統領の役どころだ。

バローズ以前の小説が、みずから王になったり、あるいは王に仕えて成果を上げたりすることをもってハッピーエンドにしていたこととの大きな違いがここであろう。世襲ではなく、みずからの実力と崇高な理念、そして民衆の支持によって栄光を勝ちえて、その者の前では世襲の王ですら指示に従う。それが米国人の好む物語だ。
米国が「世界の警察官」を自認し、世界各地の紛争に介入した第二次大戦後の歴史は、良くも悪くも米国人が大好きなヒーロー物の実践のようでもある。
本作公開時の米国大統領ドナルド・トランプはアメリカ第一主義を掲げ、国際的な枠組みから離脱する意向を打ち出している。そのトランプを支持する人と批判する人で米国は分裂し、深い亀裂が生じていた。
また、英国のEU離脱は世界に衝撃を与えた。他の国々でも、国際的な枠組みを乱してでも自国の主張を優先する動きが目立つようになってきた。
メラ王女「王ならこれまでもいたわ。いま必要なのは王以上の存在なの。」
アーサー「王を超える者とは何だ?」
メラ王女「英雄よ。」
Arthur Curry: I'm no leader. I'm not a king.
Mera: Atlantis has always had a king. Now it needs something more.
Arthur Curry: Well, what could be greater than a king?
Mera: A hero.
もちろん、現実にはどこからともなく英雄が現れて世界を平和にしてくれるなんてことはない。
だからこそ、この映画が必要だ。
私たち一人ひとりの心の中の英雄を育むために。
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監督/ジェームズ・ワン
出演/ジェイソン・モモア アンバー・ハード ウィレム・デフォー パトリック・ウィルソン ニコール・キッドマン テムエラ・モリソン ドルフ・ラングレン ヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世 マイケル・ビーチ ルディ・リン ジュリー・アンドリュース
日本公開/2019年2月8日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー] [SF]

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『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』のそこは違う

ヤマトファンならぜひ読んでおきたいのが、牧村康正氏と山田哲久氏の共著『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』[*1]だ。
西崎義展氏の誕生から死までの全生涯を膨大な証言と資料の検証で紐解いたこの本は、型破りな人物の評伝としてはもとより、アニメ業界、映画業界、芸能ビジネス業界の実態を教えてくれる貴重な書だ。
この本を最後まで読めば、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの続編、リメイク、関連作品が今後も作られるであろうこと、作らねばならないことがよく判る。
だって、平野彰司氏が獄中の西崎義展氏と面会しやすいように養子縁組して息子になり(刑務所では、面会できるのは親族を中心に月二回~七回という制限がある)、拘置所及び刑務所に入っていた西崎義展氏を支え続け、出獄した後は私財をなげうって家族ぐるみで支援し、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を作りたい西崎氏のために資金集めに奔走し、飲んでは荒れ、揉め事を起こす西崎氏に付き合い、その横暴な振る舞いに耐えに耐えて耐え抜いた上で譲り受けた『ヤマト』の権利だから、『宇宙戦艦ヤマト2199』のヒットだけではとうてい割に合わない(西崎義展氏が存命中に作った『復活篇』に関しては、制作にかかわった株式会社ジーベックへのギャラさえ払われない状況だった)。
その『2199』ですら、2009年に出渕裕総監督の下で六話分くらいのシナリオが上がっていたにも関わらず、西崎義展氏が突然「監督は俺がやる」と云い出したために制作が暗礁に乗り上げ、ほぼ一年間宙に浮いていたそうだ。
誰もが煮え湯を飲まされて対立した西崎義展氏に、人生を捧げて尽くし続けた彰司氏の心中は本人のみ知るところだが、本書からは、彰司氏の立場だったら『ヤマト』ビジネスを中断するなんてあり得ないであろうことがひしひしと伝わってくる(だから、主要登場人物が死ぬ作品を作ることもあり得ない)。
本書は独立プロデューサーとして名を馳せた西崎義展氏の生涯をたどっているが、西崎氏といえば何といっても『宇宙戦艦ヤマト』が代表作だから、ヤマト関連の記述が多くを占める。したがって、『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男』という書名は正しいし、ヤマトファンに訴求する内容になっている。けれども個々の作品の特徴や、西崎義展氏がアニメ関連業界に与えた影響の広がりについては、(私の目からすると)あまり書かれてはいない。そこまで書くと人物伝の範疇を超えてしまうから、仕方がないのだろう。
その代わり、アニメ(に限らず)ビジネスでもっとも重要なもの、金の動きはしっかり書かれている。
アニメに関してこれといった実績がなかった独立プロデューサーが、なぜ完全オリジナルのテレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』を作れたのか。『ヤマト』の権利を西崎義展氏が握れたのは、『ヤマト』を作る金を彼が全額負担して成果を誰とも分け合わなくてよかったからだが、そんな金がどこから出てきたのか、西崎氏はどう立ち回っていたのか、ということが判ってたいへん興味深い。
そして、養子になった彰司氏をはじめ、多くの人がどんな風に西崎義展氏に関わり、振り回されたのか。私たちがテレビや映画館で作品を楽しんでいたとき、その裏側でどれほど波乱に満ちた出来事と壮絶な駆け引きが繰り広げられていたか。そういったことどもが、とことん書かれている。
また、西崎義展氏の浪費ぶり、とりわけ多くの愛人への使いっぷりには驚かされる。西崎氏は三度結婚しているが、いつも妻子はほったらかし。ある愛人には、マンションの家賃やゴルフの会員権や現金等で少なく見積もっても一億円以上の金を注ぎ込んだという。関係者が名前を記憶している愛人だけで10人はいるから、愛人全般に費やした金は10億円と見てもまだ足りないかもしれないのだとか。10億円といえば、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』の配給収入全額に等しい。
仕事関係でも愛人関係でも、基本的に金と権力で人間関係を支配したといわれる西崎氏だ。完全な支配を望むがゆえに、金を惜しむことがなかったのだろう。本書には、「愛人の中の本妻」と目された人物が「ヤマトの雪みたいにきれいな人」であったことや、その愛人を西崎氏が殴ったエピソードまで紹介されている。
西崎氏がとくに入れ込んだ愛人が旧華族の人妻・和子であり、腕には「和子命」という刺青までしていたそうだ。劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のパンフレットの西崎氏の写真の下に刷り込まれた「和」の文字は、和子の「和」を意味するのであろうという本書の示唆は、「和」といえば大和の「和」くらいしか頭に浮かばないヤマトファンの思い込みを一蹴する。

西崎義展氏ほど毀誉褒貶の激しい人物も珍しいだろう。『西崎義展の狂気』という題は、常識の枠に収まらない西崎氏の行状を表現しているのだろうが、しかし、氏に関して興味深いのは、氏を貶したり恨みごとを云う人までもが氏を褒めていることだ。
たとえば、西崎氏がクラブやジャズ喫茶の司会者だった頃からの知り合いであるピアニスト・作曲家の宮川泰(みやがわ ひろし)氏は、インタビューに際してこう語っている。
「普通は『あの野郎、嫌なヤツだけど良いところもあるよな』って大体思うんだけど、オレにとって西崎は良いところが1つもないね。見つけられねえよ。」
宮川泰氏を西崎義展氏の大親友と認識する山田哲久氏は、六年間にわたって西崎氏の制作助手を務め、二人の関係を間近で見てきた経験から、この発言に対して次のように述べている。なお、山田哲久氏は西崎氏のそばで『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の制作助手や、『宇宙戦艦ヤマト2』『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』の制作担当、『メーテルリンクの青い鳥 チルチル ミチルの冒険旅行』『宇宙戦艦ヤマトIII』のプロデューサーを務め、ヤマトシリーズを支えてきた人物だ。『宇宙戦艦ヤマト 完結編』制作の途中でウエスト・ケープ・コーポレーションを退社し、その後、日本サンライズ(現サンライズ)に入社、映画『アリオン』や『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』『ガンヘッド』のプロデューサーを務めた。本書の企画者、共著者でもある。
「まあ、100%の本心ではないと思いますけどね。私は宮川さんから『ぼくの才能を本当に絞り出してくれたのは西崎だ』って言われたことがあります。『宇宙戦艦ヤマト』をやりきって、もう新しい曲が出ないと思っていたけど、それでも死にもの狂いで西崎さんの厳しい要求に応え名曲が生まれた。宮川泰さんと阿久悠さんは西崎さんの戦友です。」
事実、宮川泰氏は同じインタビューの中で、西崎義展氏の関与しない『新宇宙戦艦ヤマト』(後の『大YAMATO零号』)の音楽を手がけることに関して、「考えてみるとヤマトのこれまでの6つか7つのシリーズでね、音楽はほとんど出尽くしちゃってるのよ。おしまいのころなんかももう苦労して苦労してね、ヤマトの音楽の流れから離れてもいけないし、といって二番煎じを作ってもいけない。(略)難しいですよ。しかもそれを僕一人でやるんだから」とこぼしている。
本書はこのような西崎義展氏の複雑な人物像を、多面的に描き出す。
西崎氏のプロデューサーとしての活躍ばかりを見てきたアニメファン、ヤマトファンからすれば、本書が突きつける乱脈経営の実態や卑怯卑劣な行為の数々には何より驚かされる。ひと言でいえば、悪いヤツだなぁという印象だ。
過失傷害、恐喝、詐欺などで警察に引っ張られた20代から、悪質な脱税で摘発された40代、銃砲刀剣類所持等取締法、関税法、覚せい剤取締法等の違反で実刑判決を受けて収監された60代まで、西崎氏はたびたび公権力の厄介になっているが、これらの事件はまだ可愛いらしい気がする。会社を作っては潰し作っては潰した西崎氏の行為の中でも、本書で述べられている第一期オフィス・アカデミーの倒産、JAVN(ジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワーク)の倒産、ウエスト・ケープ・コーポレーションの倒産に至る際の、他人を騙し、部下に責任を押し付けて、自分だけとっとと逃げ出す振る舞いは、まったく卑劣極まりない。彼のために莫大な借金を負わされて苦しんだ者、会社を倒産に追い込まれた者、破産させられた者。西崎氏の人生は、そういう不幸を生み出すことの連続だ。
それでも多くの人が西崎義展氏の口車に乗り、苦楽を共にすることを選んだ。『宇宙戦艦ヤマト』の原案者だった豊田有恒氏は、自著の中で西崎義展氏への恨みつらみを吐露しながらも、新作の話を持ちかけられるとつい協力してしまい、宇宙戦艦ヤマトシリーズにアイデアを提供し続けたことを振り返り、西崎氏の"人たらし"ぶりを綴っている。
では、本書『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』から、印象深い記述をいくつか拾ってみよう。
西崎義展氏がアニメ業界で旋風を巻き起こせた秘密は、ショービジネス出身だったことにある。『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』の挿入歌「サーシャわが愛」の歌い手に、NHK紅白歌合戦の大トリも務めた歌謡界の大御所・島倉千代子さんを起用したのはアニメファンにとって驚きだったが、考えてみれば西崎氏はショービジネスこそ本業だったのであり、島倉千代子さんも彼が公演プロデュースを手掛けた歌手の一人に過ぎなかった。
本書の著者は、西崎義展氏の芸能プロダクションで一緒に働いた長島正治氏に取材している。
西崎の仕事ぶりは若い長島を大いに感心させた。いつもノートを持ち歩きチェックをおこたらない。(略)すべての費用を細かく書き出し、長島と二人で予算をまとめた。(略)西崎の緻密さには舌を巻いた。こうした手堅さ、客を引きつける企画構成、プレゼンテーションの巧みさが買われ、(略)さらに仕事は拡大していく。
「さすが日本舞踊の跡取り(西崎緑の血縁)は違う。舞台へのこだわりが半端じゃない。」
西崎義展氏は、日本舞踊の西崎流の初代家元・西崎緑氏の甥ではあったが、跡取りというわけではない。役者志望で劇団・文学座の研究生だったこともあるが、たいして舞台に立ったわけでもない。しかし、西崎氏に何度も煮え湯を飲まされた長島氏をしてこう云わしめてしまうほど、西崎氏の仕事は卓越していたのだろう。
興行の世界にトラブルはつきものである。(略)タレントの女問題でヤクザと揉めることなどは日常茶飯事だったという。ただし、どんなに乱暴な言いがかりでも、即座にトラブルを解決して幕を開けなければ公演プロデューサーは務まらない。生き残るためには「(女を)抱かせ、(酒を)飲ませ、(金を)握らせる」ことなど当たり前の世界である。もともと荒事をいとわない西崎ではあるが、こんな日常に染まっていれば、後年、虫プロやアニメの仕事ぶりに接して「甘っちょろい」と感じても当然であろう。逆にアニメ業界人から西崎を見れば、得体の知れないモンスターと映っても不思議はない。
西崎義展氏の芸能プロダクションは一定の成功を収めていた。しかし、西崎氏のワンマン支配は人心の離反を招き、事業にも悪影響が出てしまう。
ここで西崎氏は卑怯卑劣な行動に出る。不渡り間違いなしの小切手を発行し、不渡りになる直前にまとまった額の現金を持って自分だけヨーロッパへ逃亡したのだ。残された者たちの境遇は悲惨だった。小切手の不渡りのため、ある会社は倒産に追い込まれた。小切手は他人名義のものだったから、振出人になっていた人物は全額の支払い責任を負わされた。
長島正治氏にしても、一円の退職金も払われないまま社長が海外に高飛びしてしまったのだから、たまったものではない(後年、たび重なる西崎氏の仕打ちに怒った長島氏は、西崎氏に騙され金を巻き上げられた者たちが手を組んで反撃する際のキーマンになる)。
一年半の後に帰国した西崎氏は、広告代理店との繋がりを作り、その紹介で虫プロ商事に転がり込んだ。
西崎氏の虫プロ時代にともに仕事をした柴山達雄氏は、こんな言葉を聞かされたという。
「舞台は幕を上げたら最後、途中で下ろすことはできない。だから準備は真剣勝負で緻密にやる。俺は民音(民主音楽協会:引用者注)でその舞台のプロデューサーを長年やってきた。それに比べたらアニメの世界は甘い」
ヤクザ相手に命懸けで舞台の幕を開けてきた西崎氏にしてみれば、アニメを作りたいという純粋な気持ちだけで手塚治虫氏が立ち上げた虫プロなど、甘っちょろくて仕方なかったことだろう。
そんな西崎氏だから、手塚治虫氏から『海のトリトン』の権利を「ひっぺがし」、そのアニメ化作品を我が物として展開することができたのだろうし、アニメ業界でまだ手が付けられていなかった版権ビジネスという鉱脈を掘り当て、キャラクター商品や企業のノベルティーに活用することで、後の『宇宙戦艦ヤマト』制作の軍資金ともなる富を手に入れることができた。
このように書くと西崎氏がアニメ業界人を手玉に取った悪党のようだが、その働きぶりを高く評価する人もいた。
『ワンサくん』のスタッフだった柴山達雄氏は こうも云っている。
「みんな疲れ切っていても質の要求はうるさかった。朝方や深夜のラッシュ試写にも必ずやってくるし、これが本物のプロデューサーだと惚れ込んでしまった」

もちろん『海のトリトン』や『宇宙戦艦ヤマト』も素晴らしい作品だが、テレビアニメ初プロデュースということで、西崎氏がまだあまり口出しできなかった(相対的に富野喜幸(現、由悠季)監督の考えが反映された)『海のトリトン』や、豊田有恒氏、藤川桂介氏、そしてアニメ制作にはじめて参加した松本零士氏の情熱があればこその『宇宙戦艦ヤマト』(1977年に朝日ソノラマから発行された『月刊マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界』収録のインタビューで、西崎義展氏は松本零士氏の貢献がなければ『宇宙戦艦ヤマト』はできなかったと強調している)に引きかえ、前代未聞のミュージカル・テレビアニメ『ワンサくん』に挑んだチャレンジ精神と完成度の高さは、音楽畑を渡り歩いてきた西崎氏ならではのものであり、氏のショービジネスのプロデューサーとしての実績がプラスに作用した結果だと思う。
■「"特攻"は最初に決めていた。」
さて、私が本書を取り上げたのは、日本のアニメビジネスに大変革をもたらした西崎義展氏の足跡をたどりたかったからではない。『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』を読んでいて、どうにも気になる記述があったからだ。
その記述に言及する前に、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』について触れておこう。
1977年夏に劇場版『宇宙戦艦ヤマト』がヒットすると、西崎義展氏はさっそく翌年の夏に続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を公開し、さらなる大ヒットを飛ばした。
両作のヒットが日本のアニメーション史、映画史を書き変える大事件だったことはいまさら私が述べるまでもないが、『さらば――』は大きな問題をはらんでいた。
どれほど力を尽くしても倒すことができない白色彗星帝国。万事休すとあきらめかけたとき、前作で亡くなり英霊となっていた沖田艦長が主人公古代進に語りかける。
「お前にはまだ武器が残されているではないか。戦うための武器が。(略)命だよ。(略)お前にはまだ命が残っているじゃないか。なぁ、古代。人間の命だけが邪悪な暴力に立ち向かえる最後の武器なのだ。(略)死んでしまって何になる、誰もがそう考えるだろう。(略)男はそういう時でも立ち向かって行かねばならないときもある。そうしてこそ、はじめて不可能が可能になってくるのだ。」
この言葉を受けて古代は特攻を決意し、敵に向かってヤマトごと突っ込んでいく。
『宇宙戦艦ヤマト』第一作のファンは、少なからずこのセリフに首をかしげたはずだ。沖田十三はこんなことを云う人ではなかったからだ。
『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズの第1話、どれほど力を尽くしてもガミラス艦隊を倒すことができない沖田は、地球艦隊の撤退を決断し、異議を唱える部下に反転を命じる。このとき、自艦だけでも戦場に留まろうとする古代守(進の兄)に、沖田はこう云ったのだ。
古代「沖田さん、男だったら、戦って戦って戦い抜いて、一つでも多くの敵をやっつけて、死ぬべきじゃないんですか!」
沖田「古代、判ってくれ。」
古代「沖田さん、僕はどうしても逃げる気になれません。見逃してください。お元気で。地球のことをよろしくお願いします。」
沖田「……死ぬなよ、古代。」
沖田十三とは、決して命を投げ出さず、なんとしてでも生き延びて明日に備える人だった。その沖田が、「命が武器だ」などと云うはずはないのだ。

1941年の夏、軍官民から選抜されたエリートたちが、総力戦研究所で二ヶ月かけて日米戦争のシミュレーションを行った。彼らがその専門知識と豊富なデータを駆使して出した結論は「日本必敗」。日米が開戦すれば必ずや大日本帝国が敗北するであろうことを、エリートたちは見通していたのである。当時陸相だった東條英機は、この報告を聞いて蒼ざめたという。そして、若手エリートたちにこう告げた。
「日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。」
「止むにやまれず立ち上がった」「意外裡なことが勝利につながる」という東條英機の言葉と、「立ち向かって行かねばならないときもある」「不可能が可能になってくる」という沖田のセリフの、なんと似通っていることか。
1941年12月、首相になった東條は日米戦争を開始。戦局はほぼ総力戦研究所のシミュレーションどおりに推移して、大日本帝国は大敗北。数百万人の日本人が死ぬことになった。1941年夏の報告に間違いはなかったことを確かめただけの戦争だった。
『さらば――』の沖田のセリフは、まさに失敗するリーダーが、配下の者を破滅に導くときの言葉なのだ。
個人の長い人生においては、頑張ったおかげで不可能と思われたことが達成できたなんて経験もあるかもしれない。だが、個人的に頑張ることと、戦争指導者が部下に命じることとは違う(『さらば――』では、古代進の兄・守や父母ではなく、上司だった沖田が古代を説得している)。しかもここで「命を武器にする」のは、すなわち死を意味するのだ。
『宇宙戦艦ヤマト』第一作からのファンを裏切るような『さらば――』のラストに、松本零士氏は猛反対した。
このラストシーンに対して特攻の美化を良しとせず、たとえ負け戦でも生き残る意志、再建への闘いを描くべきであると主張したのが松本零士である。(略)議論は白熱したが、最終的には全権プロデューサーである西崎が押し切った。(引用者注:当時は制作助手だった)山田哲久によれば、西崎は「宇宙戦艦ヤマト」最後の作品として、ヤマトの消滅、古代進と森雪の死を当初から決めていたという。そして、その最期をいかに盛り上げるかの作劇が西崎の考えどころだった。思想以前に興行師としての勘で、この特攻シーンは必ず観客に受けると見抜いていたに違いない。
白熱した議論を押し切ってまで描いた特攻シーンはわずか8ヶ月後の『宇宙戦艦ヤマト2』の最終回で撤回されてしまうのだから、西崎義展氏にとっては「思想」よりも「受け」が大事だったのだろう。
だが、受ければ良いというものではない。『宇宙戦艦ヤマト』の最初期のファンクラブ、YA(ヤマト・アソシエイション)を立ち上げ、ヤマトファン第一期生といえる氷川竜介氏は、『さらば――』に接して次のように感じたという。
見逃せないのは「親を通じて戦争を知っているギリギリの世代」と自任する氷川たちにとって、やはりラストの特攻シーンは許容しがたいものだったことである。「死んで星になろうとする恋人たち」(古代進と森雪)に無邪気な感動の涙を流す観客を見て、氷川は言い知れぬ危機感を覚えたという。
氷川竜介氏は『宇宙戦艦ヤマト』本放映時に高校二年生。『さらば――』公開時はもう大学生だった。このとき「無邪気な感動の涙」を流した観客とは、たとえば1964年生まれで、学年でいえば氷川竜介氏の七つ下の山崎貴氏あたりの世代になるだろう。
実写版ヤマト『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010年)を監督した山崎貴氏は、『宇宙戦艦ヤマト』本放映時に小学四年生、『さらば――』公開時は中学二年生だ。『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』の文庫版に寄せられた山崎貴氏の「解説」によれば、長野県松本市に住んでいた山崎氏は『さらば――』公開前夜に放送された「オールナイトニッポンスペシャル」から流れてくる東京の劇場前に並んだファンの声に耳を傾けながら、「遠くの方で同世代の人たちが凄く面白いことに参加している」と羨ましがったそうだ。
(なお、山崎貴氏の「解説」には、いくつかおかしな記述がある。これについては別の記事で触れるとしよう。)
山崎貴氏が手がけた『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は『宇宙戦艦ヤマト』の実写版のはずだったが、途中から『さらば――』の実写版になっている。当初はヤマト実写化が自分にオファーされなかったために「のたうち回るほど嫉妬を感じ」たという山崎監督が、希望が叶って自分の手で実写化した結果が『宇宙戦艦ヤマト』よりも『さらば――』のラストを再現することだったのだから、『さらば――』がこの世代に与えたインパクトの大きさが判る。『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の脚本を担当した佐藤嗣麻子氏も、山崎監督と同じ1964年生まれである。
『SPACE BATTLESHIP ヤマト』から三年後の2013年に山崎貴監督が発表した『永遠の0』は、映画の舞台こそ太平洋戦争に移したものの、『さらば――』を再びなぞるような特攻の話だった。この映画には『さらば――』とは無関係な原作小説があるのだが、原作では主人公が特攻しても敵艦に損傷を与えられなかったことや、主人公の遺骸が葬られたことまで描写されているのに対し、映画『永遠の0』は主人公が敵艦にまさに突っ込まんとするところまでしか描いていない。
ヤマトファン諸氏は憶えておいでだろうが、『さらば――』のラストは敵艦に突っ込むヤマトこそ描かれるものの、その特攻の結果は描かれない。画面の奥に遠ざかっていくヤマトが見えなくなり、思わせぶりな小さな光が輝くだけだ(それは白色彗星帝国の超巨大戦艦がヤマトの体当たりを受けて爆発したのかもしれない一方、満身創痍で攻撃できないヤマトでは超兵器で迎え撃つ超巨大戦艦に近づけずに撃墜されたのかもしれないし、ヤマトより先に突っ込んでいった反物質体のテレサが超巨大戦艦と反応して対消滅を起こしたのかもしれない)。
主人公を取り巻く人々の姿が次々映し出されながら、決定的な瞬間はあえて見せず、感傷的な主題歌で盛り上げる。映画『永遠の0』は忠実に『さらば――』のラストをなぞったといえる。
こうして『さらば――』に感動の涙を流した世代は長じて同様の作品を再生産し、より若い世代に感動の涙を流させて、氷川氏が言い知れぬ危機感を覚えたものをまた植え付けていくのである。
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『さらば――』のラストに松本零士氏が反対したのは、このような作品を作ることが氏の信念に反したからだろう。
松本零士氏に密着したドキュメンタリー番組『ザ・バイオグラフィー「松本零士」』(2018年12月)[*2]は、氏のこんな言葉を紹介している。
「みんなが楽しめるものを作りたい。未来への夢を描きたい。だから生き延びたい。生命は生きるために生まれてきた。これを原則にして描きたいわけです。」
『さらば――』の公開から40年を経ても、松本零士氏の信念は変わらない。主人公が死を選ぶようなことは、ましてやそれを「自分の命を、宇宙いっぱいに広がって永遠に続くものに変えに行く」と美化するようなことは、許せるはずもなかった。
本書は、その松本零士氏の思いが、氏や家族の体験に根差すものであると説く。
陸軍航空隊の戦隊長だった松本零士氏の父は、多くの部下や士官学校の同期生を戦争で失った。自身も1944年から南方の戦場で戦っていた。その頃、幼い零士氏は愛媛に疎開していた。
「もう宇和島のほうからね、延々とB-29の大群が広島・呉のほうへ行くわけですよ。私の頭上を通ってんですよ。で、行き帰りに爆弾は落とす機銃掃射はする。そういう現実の戦いを体験してるわけです。」[*2]
戦争が終わり、父は生還できたものの、公職追放になって一家は極貧生活に陥った。野菜を売ったりして、家族七人が食いつなぐ日々だった。
一方、松本零士氏より三歳上の西崎義展氏は、裕福な資産家の家に生まれた。父は大企業の役員を歴任、父方の祖父は東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)の校長で正三位勲二等受章。大学に進む人がまだまだ少ない時代に、父も祖父も親類の男子ほとんどが帝大(東大)を出る家柄であったという。父の妹は日本舞踊の西崎流の創設者で、ラジオ番組にレギュラー出演する有名人だった。
裕福な名門家庭に生まれたことで弘文(引用者注:義展氏の本名)は鷹揚なボンボン気質を身に付けた。(略)戦後の成功者に多く見られる生活苦からの脱出、家族を食わせるための刻苦勉励というパターンを踏んではいない。理不尽な下積み生活を強いられなかったことで他人におもねるような卑屈さを持たなかった反面、弱者への共感やいたわりの心には欠ける。
(略)
西崎の「母方の祖父は海軍大将」だったと雑誌(「キネマ旬報」(引用者注:1983年3月下旬号))にはある。ただし母の旧姓と同姓の海軍大将は実在せず、他のメディアでは一切語られていないことなので事実かどうかは断定できない。「ヤマト」のプロデューサーとしては、祖父は大将クラスのエリート軍人がふさわしいという西崎流のリップサービスだったのかもしれない。ともあれ西崎の頭には、軍人といえば大将、という最高指揮官のイメージがあったことは確かだろう。その発想からすれば、特攻の理不尽さよりも犠牲的精神の崇高さに価値を見出しても不思議ではない。松本の父親が陸軍航空隊の生き残りであり、多くの部下と同期生を失ったことを考えれば、こうした環境、意識の違いが意見の対立につながることは必然である。
松本零士氏と西崎義展氏の意見の対立を、その幼少期からの環境、経験に求めたのは慧眼だと思う。多くの仲間を戦争で失った父の体験を知り、どん底の生活で生き延びることに汲々とした松本氏と、裕福な家庭でNHK交響楽団の定期演奏会に連れて行ってもらったりした西崎氏では、考え方が異なるのはとうぜんであろう。
私はここに、物語を構想する際に誰の視点で見ているかという問題も付け加えたい。
一般的には、受け手はもちろん作り手も主人公の立場で考えることが多いと思う。『さらば――』であれば、追いつめられた古代進の立場でどうすべきかを考えるはずだ。松本零士氏も、古代は特攻するべきか否か、主人公はどう行動するべきかという視点で考えたに違いない。
他方、『さらば――』のラストにおける西崎義展氏の視点は、沖田艦長にあったに違いないのだ。部下を死地に追い込むのは、西崎義展氏の人生そのものだからだ。
アニメ業界に入る前のショービジネス時代に、傾いた会社に部下を残し、自分だけ現金を持ってヨーロッパに高飛びしたことは前述したが、『宇宙戦艦ヤマト』が成功してからも、西崎氏は同様のことを繰り返した。西崎氏には大ヒット作といえばヤマトしかなかったから、なのに派手に金を使って手を広げたから、何度も危機に陥ったのだ。
ヤマトが波動砲を撃っても、ありったけの武器弾薬を注ぎ込んでも、白色彗星帝国を倒せず危機に陥ったように、西崎氏が『オーディーン 光子帆船スターライト』(1985年)を放っても、実写映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』(1987年)を放ってもヒットには結びつかず、経営危機が迫ってきた。
『パッセンジャー』が失敗し、他の事業もうまくいかないJAVNの負債は77億円に達していた。この沈みゆく船に見切りをつけて部下たちが辞めようとしても西崎氏は辞任を許さず、「お前にはまだ命が残っているじゃないか」とばかりにもっとも忠実な部下を代表に就任させると全責任を押し付けて、自分は辞任して逃げてしまった。西崎氏にかわって代表に就いた部下は、超巨大戦艦に突っ込む古代よろしく会社の借金を個人保証して、自己破産に追い込まれたようだ。
ウエスト・ケープの子会社ジュピターフィルムズの代表に任命された山木泰人氏も辛酸を舐めさせられた。
山木氏は、制作を担当した『うろつき童子』シリーズのセールスが好調でウエスト・ケープに貢献していたが、西崎氏は自身が代表を務めるウエスト・ケープの支払いをジュピターに負担させたり、ジュピターの売上はウエスト・ケープに計上したりと、ジュピターの利益を吸い上げながら資金繰りのしわ寄せをジュピターに負わせるようになった。とうぜん、ジュピターの資金繰りはショートする。ジュピターに自己資金を投入し、運転資金の一部を個人の借り入れで賄ってもいた山木氏がたまりかねて談判すると、西崎氏は「ジュピターの代表はお前だろう。お前がなんとかする問題だろう」と相手にしない。さすがに山木氏は西崎氏と決別しようと辞任届を出すが、あろうことか西崎氏は『うろつき童子』の新作づくりを妨害し、自分への服従を求めてきた。
散々な目に遭った山木氏は、西崎氏と袂を分かった後もジュピターの負債を個人で支払わねばならず、借金を返し終わるのに15年近くかかったという。
老練な沖田艦長が若い古代を説得して強大な白色彗星帝国に突っ込ませる『さらば――』のラストは、部下を泥船企業の代表に仕立てて経営責任を取らせる西崎氏の人生とシンクロしている。
部下たちを自己破産や借金苦に追い込みながら、自分はタックスヘイブンとして名高いケイマン諸島に財産を移送していた西崎義展氏は、どんな考えでいたのだろうか。
『さらば――』のラストで特攻を決意した古代が、犠牲になるのは自分一人だけで良いと、島たちに向けて語るセリフがある。
「世の中には、現実の世界に生きて、熱い血潮の通う幸せを作り出す者もいなければならん。君たちは、生き抜いて地球へ帰ってくれ。そして俺たちの戦いを永遠に語り継ぎ、明日の素晴らしい地球を作ってくれ。生き残ることは、時として死を選ぶより辛いこともある。だが、命ある限り、生きて、生きて、生き抜くこともまた、人間の道じゃないのか。」
部下に犠牲を強いる一方、自分はとっとと逃げて生き延びる西崎氏は、自分自身に向けてこんな言葉を繰り返していたのではなかろうか。
■そこは違う
いよいよ、『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』の「気になる記述」について述べるとしよう。
本書は西崎義展氏の生涯をたどった伝記であって、氏が携わったアニメの作品論ではない。だから、アニメを作る上で氏がどう振る舞ったかは書かれていても、作品内容への言及はほとんどない。西崎氏の勝負作であろう『メーテルリンクの青い鳥 チルチル ミチルの冒険旅行』(1980年)[*3]に関しても、不発に終わったことが述べられているだけだ。
そんな中、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』だけはそのラストシーンまで解説されている。それだけこの映画のラストがファンにとっての「事件」であり、西崎氏のビジネス――ファンとの交流と動員――との関わりが大きかったからだろう。
そして、西崎義展氏の長いアニメ人生を綴った本書において、ほとんど唯一『さらば――』に関しては作品内容について著者がコメントしている。
特攻を美化するものとして物議を醸した『さらば――』だが、本書は次のように「擁護」する。
アニメで特攻に近いシーンを描いたのは「ヤマト」だけではない。「鉄腕アトム」は最終回で人類を守るため太陽に向かって特攻し、「風の谷のナウシカ」、「機動戦士ガンダム」でも命と引き換えに共同体を守ろうとするシーンが出てくる。もちろん「ヤマト」の設定が太平洋戦争に直結していることは確かだが、西崎だけが軍国主義者扱いされても、本人は面食らうだけだったに違いない。
たしかに、西崎義展氏は極端な軍国主義者といえるほど強烈な思想の持ち主ではないかもしれない。ヤマトの人気が絶頂の頃、西崎氏はラジオ番組のパーソナリティーまで務めていた。少しでもヤマトの情報を得たい私は、日曜深夜の文化放送『宇宙戦艦ヤマトと乗組員たち』を眠気を我慢しながら毎週聴いたものだ。期待に反して身辺雑記みたいな話が多く、ヤマトの情報はあまり聞けなかったが、そこでも軍国主義的な発言が出た記憶はない。『さらば――』のラストにしても、本書の見立てどおり、まず興行師として「この特攻シーンは受ける」と判断したのだろう。
しかし、だからといって『さらば――』を『鉄腕アトム』や『風の谷のナウシカ』や『機動戦士ガンダム』と同列に扱って良いとも思わない。
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太陽の異常活動のために灼熱地獄と化した地球。人類は地球を脱出して宇宙へ飛び立っていった。ロボットばかりが残った地球で、地球大統領に就任したアトムは、率先して災害対策にあたり続ける。それでも異常気象が進行し、機械の冷却すら難しくなってきたとき、アトムは太陽の活動を抑えるカプセルを手に入れる。これをロケットで太陽近傍に運び、太陽めがけて打ち込めば、地球の気温を元に戻すことができるのだ。危険な任務だが、勇気と責任感に篤いアトムは、みずからロケットの操縦を買って出た。アトムの身を心配し、「気をつけて」と声をかける家族たち。
この状況からお判りのとおり、アトムは特攻するつもりではなかった。
アトムは無事に太陽のそばに近づくと、ロケットからカプセルを発射した。後はカプセルを見届けて地球に帰るのみ。ところが、カプセルは隕石に衝突して、方向がそれてしまう。このままでは太陽の活動を抑えられない。地球の温度は上昇し続け、生物はおろかロボットも全滅してしまうだろう。カプセルの発明者はもう死んでいたから、やり直しもきかない。
咄嗟にロケットを飛び出したアトムは、カプセルにしがみつくと、みずからの力で太陽に誘導することにした。愛する者たちに心の中で別れを告げ、太陽に近づいていくアトム(この時点で地球に人類はいないから、アトムの行動は人類を守るためではない。)。
やがて地球の気温は平常に戻り、人間たちも帰ってきた。そこにアトムの姿はないが、お茶の水博士は信じていた。いつの日か、きっとアトムが帰ってきてくれることを……。
『風の谷のナウシカ』のナウシカは、暴走する王蟲の群れの前に単身立ちはだかった。『機動戦士ガンダム』のリュウ・ホセイはアムロをかばおうとして、アムロに迫るマゼラトップの前にみずから突入した。
アトムとナウシカとリュウに共通するのは、愛する者、大切な仲間の危機を前にして、咄嗟の判断で、みずから行動している点だ。愛する者のために命を投げ出す作品は、日本のアニメに限らない。外国の映画でもしばしばそういう描写は目にするし、自然界に目を向けても、ひな鳥を救うためにみずから囮になる親鳥や、我が子を守るために飢えた牡シロクマを引きつける母シロクマの例もある。いずれも自然な行動といえるだろうし、これをもってして「特攻を美化している」と云う人はおるまい。
『さらば――』が決定的に違うのは、みずからの咄嗟の判断ではないからだ。
『さらば――』では、古代をかばって森雪が撃たれたり、真田志郎が古代を帰還させて自分は爆死することを選んだり、その真田のために斉藤始が盾になって弁慶のごとく銃弾を体で受け止めたりしたが、(あまりに死者が多くて気分が良くないのはともかく)『さらば――』が「特攻を美化している」と云われるのは、それら「みずから」「咄嗟の判断で」犠牲になった者たちを指してのことではないだろう。
『さらば――』のラストは違うのだ。そこでは、どうすればいいか判らなくなった古代の前に、かつての上司、沖田艦長の幻が現れて、命を武器にして戦うようにこんこんと説得するのだ。この説得を受け入れて古代は特攻を決意する。まだヤマトは動くというのに、まだ島をはじめとする18名が一緒にいるというのに、古代は自分一人で特攻しなければならないと思ってしまう。そして今度は島たちに、自分を残して退艦するよう時間をかけて説得する。こうして特攻の準備を整えると、古代は敵国の人々を殺すためにおもむろにヤマトを発進させ、古代たちの長いお喋りのあいだなぜかじっと待っていてくれた超巨大戦艦に静かに突っ込んでいく。退艦したヤマトのクルーも全地球人類も、古代の決意の気高さを称えるように、特攻するヤマトを見送っている。白色彗星帝国の人々さえも、古代の決意を尊重するように、ゆっくりゆっくり近づくヤマトを静かに待ち受ける。
――こんなアニメは他になかろう。カプセルが壊れるのを目にして咄嗟に宇宙に飛び出したアトムや、アムロをかばおうと咄嗟に身を投げ出したリュウと、とても同列には論じられない。お茶の水博士やアトムの両親が太陽に突っ込むように説得することもないし、説得するはずもない。風の谷の人々も、ホワイトベースの面々も、ナウシカやリュウにそんなことをして欲しかったわけではないし、できるものなら引き止めたに違いない。上司に説得されて死にに行く『さらば――』とは大違いだ。
わずかに似た描写として思い浮かぶのは、山崎貴監督の実写映画『永遠の0』だ。あの映画も、上官の説得を受け入れて出撃していく特攻隊員たちを見ているうちに、はじめは特攻する気なんかなかった主人公までもが特攻しようと決意する話だった。
「アニメで特攻に近いシーンを描いたのは『ヤマト』だけではない」と本書には書かれているが、『さらば――』が何を描き、他のアニメが描いたのは何かをきちんと切り分けて考えれば、このような「擁護」が成立しないのは明らかだろう。
(「『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男』 山崎貴監督のここが違う」につづく)
[*1] 牧村康正・山田哲久 (2015年) 『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』 講談社
2017年に講談社+α文庫から加筆・修正した文庫版が発行された。本記事は文庫版に基づいている。
[*2] 『ザ・バイオグラフィー「松本零士」』 ヒストリーチャンネル 2018年12月22日放映

本書ではあまりにも『メーテルリンクの青い鳥 チルチル ミチルの冒険旅行』への言及が乏しいので、少々補足しておこう。
ショービジネス出身でアニメに関するバックグラウンドがなかった西崎義展氏は、ショービジネスの要素をアニメに注入すること――すなわちショービジネスとアニメの融合こそが自分にしかできないこと、自分の強みだと考えていたのではないかと思う。
そのためか、初のアニメプロジュース作品『海のトリトン』では、主題歌を歌う須藤リカとバックを務める南こうせつとかぐや姫の実写映像をオープニングに持ってきて、歌詞も「さあ歌おう 七つの海の音楽会」とあたかも音楽番組のノリだった。ところが本編は富野監督が紡ぐ凄惨な戦いの物語。のんびりした曲調の主題歌は早々にエンディング曲と交替することになり、元々エンディングだったヒデ・夕木の「GO! GO! トリトン」のほうが主題歌であるかのように認識されるに至った。
二番目の作品『ワンサくん』は、歌い叫ぶキャラクターの口の動きが歌詞ときっちり同期するという、当時のテレビアニメとしては驚異的に手のかかったミュージカル作品だったが、『海のトリトン』同様、視聴率は取れなかった。
ショービジネスとアニメの融合に連続して失敗した西崎氏はいったんこの路線をあきらめるのだが、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』と『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のヒットで大成功を収めると、改めてミュージカル・テレビアニメに挑戦する。
キャラクター原案・松本零士、脚本・藤川桂介、音楽・宮川泰、総作画監督・芦田豊雄という『宇宙戦艦ヤマト』を成功させた最強メンバーを再結集させ、題材はかの有名な『青い鳥』の世界初のアニメ化。監督に招聘した笹川ひろし氏は、本書では代表作として『タイムボカン』シリーズが挙げられているが、むろん『タイムボカン』のギャグセンスが買われたのではあるまい。ギャグもSFもアクションも得意な笹川氏は、さらに『メーテルリンクの青い鳥』とよく似た趣向の異世界ファンタジー『ポールのミラクル大作戦』を成功させた実績があったのだ。こうして『ワンサくん』のときに豪語していた「日本のディズニーを目指す」という夢に再び挑んだ西崎氏は、またもオープニング、エンディングに歌手の実写映像を持ってくるという、『海のトリトン』のリベンジにも出た。そしてフジテレビ系の放映枠を得るバーターとして、それまで読売放送で放映していたヤマトをフジテレビ系に差し出すことまでした。美輪明宏さんを起用した唯一のテレビアニメでもある。
こうまでした『メーテルリンクの青い鳥』は不発に終わり、西崎義展氏がミュージカル・アニメを作ることは二度となかった。この路線で当てることができていれば、西崎義展氏の人生は違うものになっていたかもしれない。

著者/牧村康正・山田哲久
単行本発行/2015年9月8日 文庫版発行/2017年12月20日
ジャンル/[伝記]

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