『宇宙戦艦ヤマト2199』 佐渡先生の大事な話
『宇宙戦艦ヤマト2199』の第2話は、とても大事な回だった。
なのにブログで取り上げなかったのは、「云うまでもない」と思ったからだ。
私は反省しなければならない。
大事なことは、はっきり言葉にして伝えなければならないのだ。きっと判っているだろう、察しているに違いない、そんな期待や思い込みは、大事なことを埋もれさせ、誤りを定着させかねない。
■30年以上かけた成果
『宇宙戦艦ヤマト2199』は『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクでありながら、大小様々な改変が試みられている。
本作の総監督とシリーズ構成を担当した出渕裕氏は、リメイクに当たってこう語った。
「長年ファンであった自分の中で良かったところはキチッと残しながら、それに対して、いくらなんでも今見たらそれはないだろうというような話も結構あるわけで、(略)それに対して(理屈を)付けてくことで、それが逆にただ付けて言い訳で終わるんじゃなくて、もっと面白い形に転換できるんだったら、それは積極的にやっていこうと」
その成果が、たとえばデスラーとシュルツの肌の色の違いだ。
オリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』では、第11話を境にガミラス人の皮膚が肌色から青色に変えられた。そのため第9話で退場したシュルツら冥王星前線基地の人員は、ガミラス人でありながら青く描かれることがなかった。放映の途中で肌の色を変えるという大胆な設定変更に視聴者は困惑したが、『2199』ではシュルツたちを植民星出身の二等ガミラス臣民と位置づけることにより、ガミラス本星にいるデスラーたちとの肌の違いを説明している。
デスラーがかつての敵を自軍の一部として編入したため、肌の色の異なる種族がガミラス軍に交ざっているという説明を、出渕総監督は高校生の頃に考えていたのだという。
「『宇宙戦艦ヤマト』は画期的な作品でしたが、放映当時、十代だった私が見ても筋の通らないところが目に付きました。年上のSFファンが『宇宙戦艦ヤマト』はおかしいと指摘するので、私はヤマトを擁護して論争したものです。しかし、そんな私でさえ、あまりにもおかしいと感じることがありました。友人たちに反論しながらも、おかしいところは正したいものだと考えていました。
SFの魅力は、架空の世界であってもリアルに感じさせてくれることです。『宇宙戦艦ヤマト』の数々の非合理な部分を、論理的で納得できるものに変えていく。それが『宇宙戦艦ヤマト2199』で私がやりたかったことです。
私は十代の頃から三十年以上にわたって、どうしようか考えてきました。三十年のあいだ考えたことのありったけを、この作品に反映しました。」
『宇宙戦艦ヤマト2199』の魅力の一つは、多くのヤマトファンを何十年も悩ませ苦しめてきた数々のおかしな点に、まさにドンピシャな回答が示されたことにあるだろう。
科学考証に天文学者の半田利弘氏を、SF考証には日本SF大賞受賞作『ガメラ2 レギオン襲来』の鹿野司氏を迎え、艦艇の乗組員等の描写については海上幕僚監部に取材協力まで仰いで、「今見たらそれはないだろう」という部分を論理的で納得できるものに変えながら、『2199』なりのリアリズムを追求した成果が全26話にぎっしり詰まっている。
■「ヤマトらしさ」の演出
面白いのは、あえて現実味を損なってまでケレン味も効かせていることだ。
たとえば第3話ではじめてワープする描写は、科学的な考慮よりもケレン味を優先した最たるものだろう。このときヤマトは、進行方向に発生させたワームホールに突入すべく猛烈に加速している。艦尾ノズルからまるで月ロケットのようにもくもくと何かを噴射し、艦体はガタガタ揺れる。
実のところ、ワームホールを潜り抜ければワープできるのだから、通常空間で加速しておく必要はない。本来は不自然な描写だろうが、凄まじく加速して、あまりの振動に乗組員が苦しそうにするからこそ、これから凄いことが起こりそうな緊張感を高めることができる。この描写があるからワープ中の静けさが引き立てられ、シーン全体が迫力あるものになっているのだ。
こういう「いい加減なこと」が許されるのは、それが作品世界に破綻をもたらさない範囲に留まっているからだ。
第3話では、通常空間での加速の描写がなくてもワープを描くことはできる。スター・ウォーズシリーズのように、宇宙船が一瞬にしてスッと通常空間から消え去る描き方でもいいはずだ。それをあえて、艦体がガタガタ揺れる描写にしたわけだが、そうしたところで物語上とくに大きな影響はない。影響の出ない範囲を見極めながら、あえて仰々しく描くのがヤマトらしくて楽しい。
第1話の冥王星会戦で、地球艦隊の放ったビームがガミラス艦の装甲に跳ね返されるときもそうだ。
本来は反射角の方向に真っ直ぐビームが進行するべきなのに、『2199』では跳ね返ったビームがグニャリと曲がり、当初の進行方向に戻ってガミラス艦を越えていく。
科学的にはおかしな描写だが、ビームを真っ直ぐ進行させずに、わざわざ旧シリーズの「ヤマトらしさ」「松本零士らしさ」を再現した心意気がファンには嬉しい(光の直進性や反射角の概念は小学三年生くらいで学ぶから、『2199』の客層には洒落でやっているのが判るだろう)。
■特に重要な改変
このようにケレン味たっぷり遊び心どっさりで楽しませてくれる一方、本作は重要な点では科学的にも社会的にも適切な表現になるように注意を払って作られている。
その最たるものが、オリジナルの第1テレビシリーズにあった「放射能汚染」という設定を消し去ったことだろう。
「放射能汚染」、「放射能に汚染された……」という云い回しは、『宇宙戦艦ヤマト』に限らず当時のフィクションでしばしば使われていた。だから、1970年代の子供はなんとなく「"放射能"という物質があって、それに汚染されることが"放射能汚染"なんだろう」くらいに思ったものだ。しかし、大人になれば「放射能汚染」という言葉が誤用であり、何も表現できていないことが判ってくる。せめて「放射性物質による汚染」等の表現にしておくべきだった。
言葉だけでなく、「放射能の地下汚染が進行し、人類絶滅まであと一年」という『宇宙戦艦ヤマト』の設定も、子供の頃はそういうものかと受け止めていたが、大人になって改めて考えると何を云っているのかよく判らない。
放射性物質が地下に進行していく? どんなメカニズムで進行するのだ?
いま絶滅を免れているのに、一年経つとなぜ絶滅するのだ? 放射性物質の特徴は、勝手に崩壊して時間とともに減っていく(放射性物質ではないものに変わっていく)ことなのに、なぜ一年経つと脅威が増すのだ?
「放射能汚染による人類絶滅まであと一年」という設定には、「放射能汚染」というなんだか凄そうな脅威と、絶滅が迫る悲壮感と、生存までの時間が区切られたサスペンスとが感じられ、娯楽作の背景としては面白いアイデアだったと思う。
だが、まともに考えれば、この設定を継承して説得力のある合理的な作品にするのは無理がある。
ましてや、オリジナル『宇宙戦艦ヤマト』では、第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」においてヤマトの乗組員たちが捕虜のガミラス人を調べ、身体的には地球人と変わらないと結論づけたにもかかわらず、最終回(第26話)「地球よ!!ヤマトは帰ってきた!!」においてガミラス人が地球人よりも放射線の強い環境を好むかのような描写がある(それゆえ、森雪がコスモクリーナーDを作動させて、ガミラス人とともに浸入した"放射能ガス"を除去する(放射性物質の濃度を減少させる?)シーンが見せ場になる)。
はたして、ガミラス人は地球人よりも放射線の強い環境を好むのか。放射線が弱まるだけで退却するものなのか。そもそも何のために地球を「放射能汚染」させたのか。汚染された地球に住みたかったのか、汚染されても住めるのか。
劇中の描写があまりにもチグハグで、筋のとおった説明を見つけるのは難しい。
このような状況だから、『2199』から「放射能汚染」の設定を消し去るのは――大英断だったかもしれないが――たしかに必要なことであった。
■「放射能汚染」とは何だったのか
1974年10月から放映されたオリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』に、「放射能汚染による人類絶滅まであと一年」という設定を持ちこんだのは、SF作家の豊田有恒氏だ。
豊田氏こそは、『宇宙戦艦ヤマト』の世界観の設定とストーリーの骨格を考案した人物であり、朝日ソノラマからノベライズ本が発行された頃は豊田氏が「原案」とクレジットされていた。豊田氏が裏番組の原作も担当したことを理由に、「原案」よりも一歩下がった「SF設定」というクレジットにされてしまった経緯は、同氏の著書『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』[*1]に詳しい(なお、「原案者」豊田有恒氏は、人物設定や各種デザイン等を担当した松本零士氏こそ「おおよその原作者」であるとしている)。
同書によれば、西崎義展プロデューサーに請われて新作アニメの設定を作った当時、豊田有恒氏はSF作家に向けられた批難に憤っていたのだという。
1970年代、日本を揺るがす大問題は、大気汚染、水質汚染、土壌汚染等の公害であった。現在よりも規制がずっと緩かったこの時代、工場が出す廃液や煙が、国土を蝕み、人々を病気にして苦しめていた。『ゴジラ対ヘドラ』が公開され、放射性物質にまみれた怪獣ゴジラよりも、工場の廃液や煙を吸収した怪獣ヘドラのほうが恐ろしい脅威として描かれたのもこの頃だ。
同氏によれば、こうして多くの公害が社会問題化してくると、批難の鉾先がSF作家に向いたのだそうだ。SF作家はバラ色の明るい未来ばかり描いて売りまくってきたと、世間からみなされたそうなのだ。
SFの特徴の一つには風刺があり、実際には、人類の行く末に警鐘を鳴らすディストピア物や終末SFも数多く書かれている。バラ色の未来ばかり描いているなんて、とんでもない誤解である。
だが、そういう批難が起こってくると――少なくともそういう批難の鉾先が向けられていると感じた豊田氏は、豊田氏なりの回答として、「放射能」で破滅しかけている地球という舞台設定を考え出した。究極の公害として、地球規模の「放射能」汚染という背景を作り、『西遊記』をヒントにして、遥か遠い星に放射能除去装置を取りに行く旅を構想したのだという。
すなわち、『宇宙戦艦ヤマト』の「放射能汚染」とは、当時の公害の被害を誇張したものなのだ。地下の都市にこもっていても人類の滅亡が近づくのは、土壌汚染、水質汚染のイメージがあるからだろう。
有害物質が土壌に蓄積されただけなら、掘り返したり、そこで農作物を作ったりしなければ、ただちに人体に影響が出ることはないだろう。だが、有害物質が地下水に混入すると汚染は広く拡散され、井戸水を飲んだりすれば人体に健康被害をもたらしかねない。
こうした公害問題を念頭に置きつつ、原爆投下以来、日本人には恐怖の的である放射性物質をも織り込んだのが『宇宙戦艦ヤマト』の設定なのだ。「放射能の地下汚染が進行する」とは、地下水の汚染がジワジワ浸透するようなイメージに、放射性物質の恐怖を重ね合わせた、想像の産物であった。
こうして、バラ色でもなく明るくもない、絶望感でいっぱいの未来像がテレビを通じて発信された(豊田有恒氏が原作者として名を連ねた裏番組『SFドラマ 猿の軍団』も、人類滅亡後の絶望的な未来を舞台にしていた)。
■滅亡をカウントダウンする社会
豊田有恒氏の著書『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』は、氏の記憶に基づいて書かれているから、出来事の正確な日付や詳細な前後関係の記述は乏しい。
たとえば同書には、1970年の大阪万博の後に生じた、高度成長とバラ色の未来に対する反省と反発、そしてSF作家に向けられた批難への、(豊田氏なりの回答である『宇宙戦艦ヤマト』のような)小松左京氏なりの回答が、極めつけの終末テーマ作品『日本沈没』(1973年)であると書かれている。
けれども、小松氏が『日本沈没』の執筆に取りかかったのは大阪万博よりも前、1964年のことであり、そこから9年もの歳月を費やして完成させた作品だから、西崎義展プロデューサーの依頼を受けてから設定の検討をはじめた『宇宙戦艦ヤマト』と同列に語るのはどうかと思う。小松左京氏は、1964年の段階で既に人類が滅亡の危機に瀕する終末テーマの傑作『復活の日』を発表しているし(同作執筆のために地震について調べたことが『日本沈没』発想のきっかけになっている)、日本がなくなって日本人が流浪の民になるアイデアは早くも1965年の『果しなき流れの果に』で披露している。
豊田有恒氏が西崎義展プロデューサーの依頼で新作アニメの設定を検討したのは、同氏の『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』によっても、牧村康正・山田哲久共著『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』[*2]によっても1973年だから、小松氏の諸作とはずいぶん時間の開きがある。豊田氏の本を読むだけだと、誤解が生じかねない。
とはいえ、『宇宙戦艦ヤマト』を作るに当たって原案者がどのような想いを抱いていたか、アイデアの源流がどこから来たかをうかがうには、同書は絶好の本である。
「人類絶滅まで、あと××日」というタイムリミットを設けたのは、『宇宙戦艦ヤマト』の10年ほど前に豊田有恒氏が脚本を手がけたテレビアニメ『エイトマン』の第26話「地球ゼロアワー」(1964年4月30日放映)の手法を流用したのだという。
30分ものの番組といっても、CMを除けば正味22分くらいしかない。そこで「地球ゼロアワー」では、間違って発射されたICBM(大陸間弾道弾)による東京の壊滅が22分後に迫り、これを阻止せんとするエイトマンの活躍を22分で描いたという。この間、番組では、東京壊滅までの残り時間があと何分何秒であるかをテロップで表示し、秒単位で破滅の時が迫ってくる趣向にした。
視聴者に大いに受けたこのアイデアを、テレビシリーズ全体に広げたのが、人類絶滅までの日数が毎回テロップで表示される『宇宙戦艦ヤマト』であった。
タイムリミットが切られているのは、緊迫感を盛り上げるうえで大層役に立つ。「放射能の地下汚染が進行し、人類絶滅まであと一年」という設定がどういう状況を指しているのかよく判らないことは前述したが、とにかく緊迫感が盛り上がるのは間違いない。
当時は、1972年に国際的なシンクタンク、ローマ・クラブが報告書『成長の限界』を発表し、人口増加や環境破壊、資源の枯渇によって人類文明は遠からず成長の限界に達するだろうと警告した頃だ。加えて、1973年には「1999年に空から恐怖の大王がやってきて、人類は滅亡する」という"予言"を紹介した本『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったりで、世の中は終末の予感に覆われていた。人口減に悩む今の日本とは対照的に、当時は人口増加が良くないことと考えられ、近い将来人類は増加する人口を支えきれずに破滅すると思われていたのである。
そんな世相に反応したのが『宇宙戦艦ヤマト』だった。人類滅亡の年とされる1999年を200年ほどずらした2199年、空から遊星爆弾が降ってきて、「究極の公害」によって地球の環境が破壊され、人類の滅亡が迫る。『宇宙戦艦ヤマト』の設定は、当時の流行を見事に取り入れたものだった。それは、当時の世相とは切っても切れないものであり、当時だから納得できる内容だった。
■それは「汚染」ではなかった
同時にそれは、当時の世相におもねった設定と云えるかもしれない。
だが、さすがSF作家たる豊田有恒氏は、それだけで終わらせなかった。
豊田氏の構想では、地球を救う使命を帯びたクルーたちは、行く先々の星で様々な生命体と遭遇するはずだった。地球人とは似ても似つかぬ異星種族と接することで、クルーたちは宇宙の神秘と生命の不思議を思い知らされたことだろう。そしてたどり着いたガミラス星(豊田氏の命名案ではラジェンドラ星)で、クルーたちは地球人とは相容れない生命体に遭遇する。ガミラスの生き物は、放射線量の高い環境でしか生きられず、地球人が「放射能汚染」だと思っていたことは、ガミラスの生物が住みやすい環境に変えるための努力の結果だったのだ。
私たちは忘れがちだが、宇宙は放射線に満ちている。星の爆発や太陽フレア等により、強烈な放射線が放たれるのだ。たまたま地球の人間は磁場と大気というフィルターの下に暮らしているから、宇宙を飛び交う放射線が届きにくく、弱まった放射線を浴びている。
地球上にも放射性物質はゴロゴロしており、勝手に崩壊して放射線を放っている。私たちは日々放射線を浴びているのだが、地球の生物は数十億年にわたって浴び続けているから、もう痛くも痒くもない。
けれども、放射線の量が多くなると、体に変調をきたすであろう。
放射線を塩に例える話を聞いて、上手い云い方だと感心したことがある。
地球の海には多くの生物が棲んでいる。彼等は海の塩分のせいで死んだりしないし、ある程度の塩分は必要ですらある。ところが、塩分濃度が3%程度の通常の海に住む生物を、ヨルダン渓谷にある塩分濃度30%の死海に入れると、強い塩分に耐えられずに死んでしまう。少量なら毒でもなんでもないのに、大量になると害をなすのだ。私たち人間も、日々塩を摂取しているくせに、一気に大量に摂取すると体を壊す(食塩の半数致死量は3g/kg)。
放射性物質は危険でもなければ安全でもない。あらゆる物質と同じように、その特性に応じた取扱いをしなければならないということだ。物質が危険なのではなく、取扱いを誤れば危険なのである。放射性物質にもいろいろあるが、ものによっては私たちが日常生活で接する物質とは桁違いに慎重な扱いを求められることがあるから、そういう場合は特に注意が必要だ。
面白いことに、塩分濃度の高い死海にも、棲息する生物はいる。濃度が高いなら高いなりに、生きていくヤツはいるものだ。クマムシのように、高温でも低温でも、圧力が高くても低くても、宇宙空間で放射線にさらされたって生き延びる生物もいる。
ガミラスの生物も、私たち地球人より放射線量が多い環境で生きる設定だった。地球人がガミラス人だと思っていた連中は地球人に似せて作られたヒューマノイド型のロボットであり、グロテスクな巨大な植物こそがガミラス最後の生物だった。ロボットたちは、植物の移植先として地殻構造の似た地球を選び、放射線量をガミラス並みに高めようとしていたのだ。ガミラスの生物の生態として豊田氏の念頭にあったのは、放射線が多いと身体能力が向上するというホルミシス(放射強精)仮説であった。
地球の生き物とガミラスの生き物は、適した放射線の量が少し異なるだけなのだが、それは相容れない決定的な違いであった。
後年、同様のアイデアを活かして作られたのが『ガメラ2 レギオン襲来』である。地球の酸素濃度を自分にとって最適になるまで高めようとする宇宙生物レギオンと、大気中の酸素が20%程度に留まっていなければ生きていられない地球生物の攻防が、この映画では描かれていた。酸素はある意味で猛毒だが、酸素の解毒剤がなければ呼吸したくないという人間がいないように、すべては程度の問題なのだ。
『ガメラ2 レギオン襲来』は、決して共存できない宇宙生物と地球生物の衝突を通して、そんな異質な存在がいるかもしれない宇宙の広大さと、私たちが住む地球の環境の大切さを実感させた。
1973年の時点で、放射線が多いことを喜ぶ生物を出そうとした豊田有恒氏には敬服せざるを得ない。
放射線は危険で、放射性物質は忌むべきものと思い込んでる人が多い時代に、「究極の公害」として「放射能汚染」を設定しながら、長い旅路の末にたどり着いた宇宙の果てには「放射能」が多いことを好む生物がいるなんて(しかも怪獣ではない)ことを視聴者に突きつける。そして、「放射能」が多いのも世界のあり方の一つであると知らしめる。
この構想が実現していたら、どんなにかショッキングだったことだろう。このSF的どんでん返しは、『宇宙戦艦ヤマト』の評価を一層高めたに違いない。
ちなみに、豊田有恒原案、石津嵐著とクレジットされたノベライズ本では、ヤマトのクルーはイスカンダル星にたどり着くものの、放射能除去装置は入手できない。「放射能」を取り除くことはできないので、放射線が多くても生きていける体に「進化」するよう諭されるのだ。スターシャから肉体改造技術を授けられた古代進と森雪は、新生人類のアダムとイブになるべく地球に帰還するのである。
■頓挫した構想
だが、豊田氏の素晴らしいアイデアは、SFを解さない西崎プロデューサーによって阻まれた。この設定では感情移入できないというのだ。
また、西崎プロデューサーはヒューマノイド型でないエイリアンの登場を嫌った。その結果、出来上がった作品には、やや昆虫に似たビーメラ星人を除けば、地球人と寸分違わぬ(せいぜい肌の色を塗り分けるくらいしかできない)異星人が溢れることになった。
西崎プロデューサーのこの判断は、評価が分かれるところだろう。豊田氏のアイデアに従っていれば、きっとSF的興奮に満ちた面白い作品になったに違いない。けれども、地球人同様の気概を持った勇将ドメルや、カリスマ性たっぷりのデスラー総統の登場が『宇宙戦艦ヤマト』を盛り上げたのは間違いない。『宇宙戦艦ヤマト』があれほど人気を博したのは、異星人を含めたキャラクターたちの人間臭いドラマのおかげでもあった。
ともあれ、豊田有恒氏のアイデアを西崎プロデューサーが阻んだために、オリジナル『宇宙戦艦ヤマト』は中途半端なおかしな作品になってしまった。
ガミラスの攻撃を受けた地球は「放射能」に「汚染」されるが、ガミラス人と地球人は肉体的に変わるところがなく、ヤマトのクルーはガミラス人捕虜と交流できる。なのに、ヤマトに衝突したデスラー艦からガミラス人が乗り込んでくると、ヤマトに充満した放射性物質によってクルーたちは全滅の危機に瀕する。
いったいガミラス人はどういう環境を好むのか、何のために地球を放射性物質で覆ったのか、まったくわけが判らない。
『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクするに当たって、「いくらなんでも今見たらそれはないだろう」という点を正そうと思ったら、オリジナルでの中途半端なおかしさをそのままにするわけにはいかないだろう。
とはいえ、いまさら豊田案を全面採用するわけにもいかない。地球人とガミラス人をまったく異質な生物として描き、とりわけガミラス人はロボットだったなんてことにしたら、『宇宙戦艦ヤマト』にはじまる全シリーズを否定することになってしまう。
さりとて、終盤での大どんでん返しがあればこその「放射能汚染」の設定なのに、どんでん返しを省いて序盤の汚染ばなしだけ繰り返したら、オリジナルと同じく矛盾の噴出を招いてしまう。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手は、激しいジレンマを感じたに違いない。
ここで、『宇宙戦艦ヤマト』を支える核となるアイデアは何かと立ち返ったときに、一年間で往復する旅という設定こそが重要であり、それさえ残せば良いと気づいたのは慧眼であった。
『宇宙戦艦ヤマト』の元ネタになった『西遊記』でも、なぜ三蔵法師と悟空たちが旅をすることになったのか、気にする人は少ないだろう。三蔵は、乱れた世に天竺の経典をもたらすことで衆生を救おうとするのだが、具体的にどのように世の中が乱れたかは読者の興味のあるところではない。『西遊記』にしろ、それを元ネタにした多くの作品にしろ、受け手が興味を持つのは未知の世界を旅する冒険と孫悟空のかっこいい活躍だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の魅力も旅の行程こそにあり、地球の汚染がどんなものかを詳しく述べなくても作品は成り立つ。少なくとも、数々の矛盾を生じさせてまで「放射能汚染」にこだわる必要はない。
かくして『宇宙戦艦ヤマト2199』では、汚染された地球を救うためにヤマトは旅立つものの、その汚染とは何なのか、どんな物質が原因なのか、具体的な説明は省かれた。
これは正しい判断だと私は思う。
■もう一つの理由
「放射能汚染」という設定を払拭すべき理由は他にもある。
大量の放射性物質による汚染という状況をきちんと描くのは難しいのだ。全26話を汚染状況の説明に費やすならできるかもしれないが、地球の様子はせいぜい最初の1・2話で説明を済ませ、ヤマトは宇宙に旅立たねばならない。それっぽっちの時間で、放射性物質の特性や、放射線を浴びた場合の影響を(劇場での特別上映に足を運ぶファンばかりでなく)テレビの前の幅広い視聴者に理解させるのは不可能だ。
アンリ・ベクレルによる放射線の発見から100年以上の時を経てもなお、放射線及び放射性物質に関する人々の理解が深いとはいいがたい。宇宙は放射線に満ちており、人間はいつも放射線を浴びながら暮らしていることさえ知らない人がいるかもしれない。
そんな状況で中途半端に放射性物質による「汚染」なんて話をしたら、放射性物質は危険なもの、きたならしいもの、けがらわしいものと思い込む人が出るかもしれない。この世界のどこもかしこも危険で、きたならしくて、けがらわしくて、そんな中で日々の生活を送らねばならないとなったら、人は耐えられるだろうか。
1945年の原子爆弾の投下は、日本に甚大な被害をもたらした。犠牲の多くは、爆発の熱と爆風、衝撃波によるものだったが、投下時の放射線や投下後に存在した放射性物質が発した強い放射線を浴びて病気になった人も多い。放射性物質は勝手に崩壊して時間とともに減っていくが、崩壊過程で放射線を出すのだ。
だが、原爆がもたらした恐ろしいものはそれだけではなかった。人々の無知と恐怖心が新たな害を生み出していった。病気がうつると恐れたり(放射線を直接浴びた人しか病気にはならないのに)、被爆者から生まれた子供も病気になるのではないかと心配する人が現れて、深刻な差別を生み出したのである。
1970年に少女マンガ誌『りぼん』に連載された『キャー! 先生』は、明るく楽しい学園マンガだったが、物語が進むにつれて悲劇的な展開になっていった。ヒロインの麻子先生は、親が戦争中に広島にいたことから、被爆の影響が自分に遺伝しているのではないか、自分はいつか白血病を発症するのではないかという不安にさいなまれていた。そして、こんな自分は恋人と結婚して家庭をもってはいけないのだと苦しんでいた。この作品では、包容力のある恋人が深い愛で彼女を受け止めて、ハッピーエンドを迎えたが、現実にはそんな恋人(とその家族)ばかりではない。
長年にわたる綿密な、そして膨大な調査によって、被爆の影響の有無が明らかになった今なら、麻子先生に伝えることができただろう。心配しなくてよいのだと。たとえ両親が広島で被爆していても、その影響が遺伝することはないのだと。
白血病どころか、かつては、被爆したら子孫が奇形になるのが当たり前であるかのような残酷な表現も多く見られた。原水爆の恐ろしさを強調する作品をつくることが核戦争への警鐘になると考えられたのであろうが、このような表現は現実にいる被爆者やその子・孫を苦しめ、彼らへの差別を助長することになりかねなかった。
当時は科学的な知見が得られていなかったから、被爆者の子孫を奇形呼ばわりしても仕方がなかったのだろうか。いいや、反戦を訴えるためであろうとも、現に被爆した人やその家族が生きている社会において、人道的に許される表現ではあるまい。
良識ある作り手は、こうした作品を撤回したり(『火の鳥』のCOM版「望郷編」)、改訂したり(『火の鳥』の「羽衣編」や、『サイボーグ009』の「移民編」)することで、誤った表現の改善に取り組んだ。
『宇宙戦艦ヤマト』の遊星爆弾と「放射能汚染」の描写が、原爆投下を模しているのは明らかだ。
たとえ作り手が意図的にそうしたのではなくても、都市を丸ごと破壊する巨大爆弾や「放射能汚染」を描こうとしたら、アニメーターが思い浮かべるのは広島と長崎への原爆投下のイメージしかありえない。日本人なら誰だってそうだろう。だから第1話では、「遊星爆弾による放射能の汚染は、地球の表面はもとより、地下をも着実に侵しはじめていたのである」というナレーションに合わせ、巨大なキノコ雲がもくもくと昇る様子が描かれて、原爆さながらの様相を呈していたのである。
『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクに当たって「放射能汚染」という設定を払拭するのは、人道的にもとうぜんの処置だと思う。過去の誤った表現を改め、差別が起こらないように多くの人が努力しているときに、原爆投下をなぞりながら「放射能」による汚染だの絶滅だのと恐怖を植え付けるような描写を繰り返すわけにはいかない。
こうした様々な要素を勘案すれば、『2199』から「放射能汚染」という設定を取り除くのは必然であったろう。
■佐渡先生のセリフの背景にあるもの
ただ、オリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』の印象は強烈だから、単に汚染物質について言及しないだけでは、少なからぬ観客・視聴者が今回も地球は「放射能汚染」に侵されてるのだと思い込むかもしれない。そこで、ダメ押しに用意されたのが、第2話の佐渡先生のセリフだ。
「放射線の方は、ま、大丈夫じゃろう。」
これは、乗機が墜落して地表に放り出された古代と島を診察したときの、佐渡先生の言葉である。
このセリフが意味するものを受け止めるには、人類絶滅まであと一年と迫った地球の状態について思いを馳せる必要がある。
たび重なる遊星爆弾の攻撃により、地球の海は干上がり、地球は汚染されていた。この汚染の描写として、第1話で敵性植物が毒素を放出する様子が描かれている。古代たちが地下都市に向かう際には、地中深くまではびこった根のようなものが見えるから、ガミラスがもたらした敵性植物が地表を、そして地下をも毒素でいっぱいにしていくのが、『2199』における「汚染」なのだと思われる。
地球人たちは、ガミラスが地球に侵攻した理由を、当初は地球への移住のためだと考えていた。敵性植物による土壌及び大気汚染は、地球人にとっては有害だが、ガミラス人には適した環境なのだろうと推測していた。
だが、ガミラス艦から連絡のためにやってきたメルダ・ディッツ少尉の体を調べることで、地球人とガミラス人には身体上の違いがほとんどないことが判明したため、ガミラスが行っているのはガミラスフォーミング――惑星環境をガミラスに都合良く改造して、移住できるようにすること――ではなく、地球人にもガミラス人にも有害な死の惑星にすることなのだと判ったはずだ。
ガミラスは単に版図を拡大する過程で地球に接触したに過ぎないのであり、恭順の意を示さなかった地球人を殲滅するため、生物兵器を送り込んだに違いない。爆弾の投下だけでは、惑星表面は焦土にできても地下都市の住民まで全滅させるのは難しい。地下深く根を張る敵性植物は、地底に逃げ込んだ地球人を駆除する最終手段なのであろう。敵性植物が繁茂する木星の浮遊大陸は、補給基地であると同時に生物兵器の生産場だったのかもしれない。浮遊大陸を放っておいたら、大陸まるごと地球に投下され、一気に毒素が浸透したかもしれない。
加えて留意すべきなのは、放射線の影響だ。
ガミラスの攻撃を受けて地球は青さを失い、赤く見えるようになっていた。
地球が青く見えていたのは、地球表面の多くを占める海が、青い光を残して太陽光を吸収していたからだ。海が干上がってしまえば、青以外の光を吸収するものはなくなってしまう。地球表面の厖大な水が消失するほどの事態だから、大気の組成もずいぶん変わったことだろう。
大気中の窒素や酸素の分子が、太陽光のうち波長の短い青い光を散乱させていたから、地球の大気は(空は)青かった。これも地球が青く見える原因だったが、地球が赤く見えるということは、大気の大部分を占めていた窒素や酸素の減少も考えられる。
これほど大気に変化が生じれば、宇宙から注ぐ放射線を弱めるフィルターとしての効果も薄れているかもしれない。ことによると磁場でさえ変化して、地表にはかつてない量の放射線が届いているのかもしれない。
だから地表に出るときは放射線からの防護が欠かせないのに、血気にはやった古代と島は勝手にコスモゼロで出撃し、挙げ句の果てに地表に放り出される破目になった。
おそらく彼らの防護服には、放射線を測定する個人線量計が取り付けられていたはずだ。佐渡先生は線量計と彼らの体を調べることで、「放射線の方は、ま、大丈夫じゃろう」と結論付けたのであろう。
このセリフは、本作が「放射能汚染」を前提としていないこと、とはいえ放射線の影響を考慮せざるを得ないほど地球の環境が変わっていることを同時に示して、実に効果的だった。
佐渡先生のセリフを聞いたとき、私はとても感心した。原爆投下後に日本人が背負った悲しみ苦しみ、「放射能汚染」という設定を使うことの是非、創作に携わる者がなすべきこと、してはならないこと――それらの想いが脳裏を去来し、私は感じ入ったのだ。
■もう一つのやめるべきもの
さらに、「放射能汚染」という設定を払拭するのと同じくらい重要な改変が、『宇宙戦艦ヤマト2199』ではなされている。
それを説明する前に、『宇宙戦艦ヤマト』の優れたネーミングについて触れておこう。
豊田有恒氏が新しいSFアニメの設定を考えたとき、作品に付けた仮題は『アステロイド6(シックス)』だった。その題名が『宇宙戦艦ヤマト』に変わったことは、作品を成功させる大きな要因だったと思う。『アステロイド6』も悪くはないものの、題名を聞いてもどんな内容か判らない。『宇宙戦艦ヤマト』なら、宇宙を舞台にした戦いの物語で、戦艦大和のような最大最強の艦が登場することが即座に判る。素晴らしいネーミングだ。
同様に、星間距離をどう表現するかという問題も、ネーミングセンスで解決された。
豊田有恒氏の前書によれば、当初は星間距離をパーセクで表すつもりだったという。パーセクは天文学で使われる単位で、約3.26光年に相当する。SFファンにはお馴染みの言葉だが、残念ながら一般の視聴者には通じにくい。光年だって難しいだろう。1光年は約9兆5千億キロメートルだが、1970年代の視聴者のどれほどがこの遠大な距離をイメージできただろうか。1パーセクと聞いても、とにかく「1」しかないのだからたいした距離じゃないだろうと思われたかもしれない。
視聴者に耳慣れない単位を出しても通じないし、宇宙的なスケールをキロメートルで表していたら何兆、何京という数字の連続になって、これはこれで判りにくい。
ここで名案を出したのが、松本零士氏であったそうだ。『宇宙戦艦ヤマト』内の世界では、「宇宙キロ」という架空の単位を用いることにしたのである。「キロ」であれば視聴者にも馴染みがあるし、本当のキロメートルではなく架空の「宇宙キロ」だから、厳密にどれくらいの距離かを議論する必要はない。
なんでもかんでも「宇宙○○」と名付けるなんて、宇宙アニメの先駆けならではの特権だが、実際にやってしまうとはたいしたセンスだと思う。
おそらくその延長線上にあるのだろう。誰が付けたか知らないが、沖田艦長の病名は「宇宙放射線病」であった。
これも優れたネーミングだとは思う。
前述したように、宇宙は放射線に満ちている。だから宇宙に行くときは、宇宙船の船壁や宇宙服で放射線を防ぎ、身を守る必要がある。けれども、沖田ほどの歴戦の勇士なら、戦闘中に宇宙に投げ出されたこともあっただろう。長時間にわたって宇宙を漂ったことがあるかもしれない。「宇宙放射線病」は、いかにも死線をくぐり抜けて来た勇士らしい病名だ。
しかし、ここで問題なのは、せっかく「宇宙○○」と名付けて架空の病気を演出しても、「宇宙放射線病」ではちっとも架空の病気に思えないことだ。
「宇宙放射線病」とは、宇宙の放射線病のことであろうか。放射線病といえば、少なからぬ人々の脳裏に浮かぶのは、原爆投下後に多くの人を苦しめた障害のことであろう。宇宙には放射線が溢れているのだから、宇宙で放射線病になるのでは架空の病気とは思えない。
はたまた「宇宙放射線病」とは、宇宙放射線による病気であろうか。これもダメだ。宇宙の放射線は、地球の放射線と区別して宇宙線又は宇宙放射線と呼ばれることがあるが、結局は放射線のことなのだ。だから宇宙放射線による病気とは、すなわち放射線による障害のことでしかない。
とどのつまり、「宇宙放射線病」という名前では、沖田艦長が放射線障害で死んだと表明するのとほぼ変わらない。せっかく「宇宙○○」と名付けたのが、これでは無駄になってしまう。
この病名を付けた人が、宇宙には放射線が飛び交っていることを知っていたかどうかは判らない。おそらくは、「放射能汚染」という設定や遊星爆弾が原爆のイメージを引きずっていることに呼応して、原爆投下後の病気をヒントに名付けられたのではないかと思う。「宇宙放射線病」は、「放射能汚染」という設定と表裏一体なのだ。
だからリメイクする上では、「放射能汚染」をやめるのと同じく「宇宙放射線病」もやめるべきだった。放射線障害を連想させる病気によってどんどん衰弱して死んでいく沖田艦長を、半年かけて延々見せるのは、「放射能汚染」と同様に残酷な設定だ。
おそらく「宇宙放射線病」と名付けた人は、架空の病気のつもりだったはずだ。であるならば、リメイクに際しては現実の病気を連想させない、完全に現実にはあり得ない病名にすべきだろうし、そのほうがオリジナルを作った先人の意にも沿うはずだ。
これらの考慮の末に、『宇宙戦艦ヤマト2199』の沖田艦長の病名は「遊星爆弾症候群」になったのだと思う。これなら現実の病気を連想させることはない上に、ガミラスとの戦争の犠牲らしい雰囲気も醸している。
『宇宙戦艦ヤマト2199』は、設定の細部に至るまで、一つひとつの用語までもが本当によく考えられている。科学的にも人道的にも物語の辻褄の上でも。30年以上考え抜いただけのことはある。『2199』は、30年以上の長きにわたり悶々としていたファンの気持ちをすっかり代弁してくれたのだ。
私は心底感服した。
けれども、私は大きな間違いを犯していた。『宇宙戦艦ヤマト2199』の第一章、すなわち第1話と第2話を見たときは判らなかったが、大事なことをおろそかにしていたのだ。
■語るべきこと
『宇宙戦艦ヤマト2199』の第2話を見てから5年後のある日、私は大きなショックを受けた。『2199』とは異なるスタッフの下ではじまった『宇宙戦艦ヤマト2202』、その特別上映の第2話で、「宇宙放射線病」が蘇ったからだ。
訓練飛行を休んだ加藤三郎を案じた月面航空隊の面々が、三郎と真琴の一人息子・翼について次のような会話を交わしていた。
「息子さんの病気、そんなに悪いのか。」
「宇宙放射線病の影響だ。」
「二次発症!?」
「ああ。真琴さん、自分のせいだって。月のサナトリウムなら、多少の進行は抑えられるって。藁をも掴みたい心境なんだろう。」
パンフレットや公式サイトの記載では、翼の病名は「遊星爆弾症候群」になっている。にもかかわらず劇中のセリフでは「宇宙放射線病」だった。
本来使われるべきは「遊星爆弾症候群」だったと思う。『2202』後半の回では「遊星爆弾症候群」と呼ばれているし、第2話のこの会話も「宇宙放射線病」ではなく「遊星爆弾症候群」でなければ明らかにおかしい。
病気の進行を抑えるために月のサナトリウムに来たのは、遊星爆弾の攻撃の標的にならなかった月ならば、遊星爆弾が地球にもたらした汚染を避けられると判断したからだろう。もしも「宇宙放射線病」であるならば、その病気の詳細は判らぬまでも、大気が放射線を妨げてくれる地球を離れて、容赦なく放射線が降り注ぐ月面に行くのは理にかなわない。
どういう経緯で公式資料と劇中のセリフが異なってしまったのか、誰が「宇宙放射線病」というセリフにしたのか、私は知らない。
これが何かのミスなのか、意図的にやったものなのかはともかく、このセリフにした人は、少なくとも「宇宙放射線病」という用語に含まれる「宇宙」「放射線」「病」といった言葉の意味を理解できなかったのだろう。ましてや、まとまって「宇宙放射線病」になったときに想起されるものや、その重みが判らなかったに違いない。
「宇宙放射線病」という用語をやめることがどんなに大切で重要だったか、『2199』の作り手がいかに思慮深く言葉を選んでいたかに思いを馳せることができたなら、こんな間違いはしでかさなかったはずだ。
しかも、この作品が上映されたのは、2011年に発生した大地震と大津波と、それらが引き起こした原子力発電所の事故によって不幸な家族が生まれ、まだ苦しんでいた頃だった。
被爆者とその家族に対する偏見や差別を防ぐため、良識ある作り手が作品を撤回したり改訂したりと努力してきたにもかかわらず、放射線についても人体への影響の有無についても適切に認識されているとはいいがたいことが明らかになったのが、2011年の事故だった。
原子力発電所の事故の後、事故の影響や被害の有無がハッキリしてきても、放射線の影響を恐れ、不安に駆られる人がいた。健康に被害が出るほど放射線を浴びたと思い込んだり、放射線の影響が子供に遺伝すると心配する人がいたのだ。
中には、片親が働き続けながら、一方の親が子供を連れて発電所から遠く離れた土地に「避難」する例も見られた。子供に放射線の影響が出ないようにと、母親が「汚染された」と感じた土地を離れた結果、家族が分裂してしまうといったことが、2010年代には起きていたのだ。
後世の人々は、その原子力発電所の事故程度では、一般市民に健康被害は起きないこと、放射線の影響が遺伝したりしないことを判らせれば良かったのにと思うかもしれない。しかし、当時は、一度思い込んで固まってしまった心を解きほぐすのは容易なことではなかった。
そんなところに、放射線による病気としか思えない「宇宙放射線病」の影響で寝込んでしまった子供が登場し、その影響を避けるために遠く離れた土地へ移り住んだ母親が描かれたのだ。まるで、現実の子連れ避難を助長するような設定だった。しかも『2202』では、片親だけでなく、両親ともに移り住んでいる。これでは、生活費を稼ぎ続けるために移住しなかった片親は面目がない。
現実の移住については様々な考え方があるだろうが、私は、正しい知識を持たずに行動するのを助長するような描写を発信することには共感できない。
その上、「二次発症」と来たものだ。
「二次発症」の詳細は語られていないが、宇宙放射線病(又は遊星爆弾症候群)がどういうものであれ、地球の表面、すなわち一度でも「汚染された」土地に戻ったら病気になりかねないと云っているようにも受け取れる。
詳細が語られていないだけに、いかようにも解釈できて、現実に不安にさいなまれて故郷に帰れずにいる人が、真琴の不安と心配を自分の思いに重ね合わせてしまう怖さがある。
マンガやアニメーションが世界中のいろんな人に親しまれている現状を踏まえ、松本零士氏は「やはり描く時にせりふの一言、一言に思想、宗教、心情、民族間に十分注意して、歴史をうんと学んで描かないと誰かを傷つけることになる」と語っている。
たいへん残念なことに、「宇宙放射線病の影響だ」というセリフは、特別上映からさらに一年以上あとの2018年10月のテレビ放映でも訂正されることはなかった。
また、「かつて汚染されていた土地」に住んだら病気になったことについては、後の回でも何らフォローはなかった。
私は、このような描写がなされたことにショックを受けた。そして、私が大きな間違いをしでかしていたことに気がついた。
私はみんな判っていると思っていたのだ。「放射能汚染」の設定を払拭する必要性も、「宇宙放射線病」をやめた意義も、『2199』を見た人ならば、『宇宙戦艦ヤマト』のことを30年以上考え続けた人ならば、きっと判ってくれるだろうと。だから、そのことを改めて述べる必要も、意義を確かめ合う必要もないと思っていた。
大間違いだった。
良いことは、積極的に語っていかねばダメなのだ。その意味や意義を語り、確かめ合い、認識を共有していかねばダメなのだ。
作り手側の立場の人でも、いまだに「宇宙放射線病」という言葉を使ってしまうことがあるのだ。これは、長年の努力が、いつでも水泡に帰すかもしれないことを示している。
ちゃんと語っていこうと思う。良いことは良いと。声の大小は気にせず、どんなときでも語っていこうと思う。
[*1] 豊田有恒 (2017年) 『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』 祥伝社
[*2] 牧村康正・山田哲久 (2015年) 『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』 講談社
『宇宙戦艦ヤマト2199』 [あ行][テレビ]
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 麦人 千葉繁 赤羽根健治
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]
なのにブログで取り上げなかったのは、「云うまでもない」と思ったからだ。
私は反省しなければならない。
大事なことは、はっきり言葉にして伝えなければならないのだ。きっと判っているだろう、察しているに違いない、そんな期待や思い込みは、大事なことを埋もれさせ、誤りを定着させかねない。
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『宇宙戦艦ヤマト2199』は『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクでありながら、大小様々な改変が試みられている。
本作の総監督とシリーズ構成を担当した出渕裕氏は、リメイクに当たってこう語った。
「長年ファンであった自分の中で良かったところはキチッと残しながら、それに対して、いくらなんでも今見たらそれはないだろうというような話も結構あるわけで、(略)それに対して(理屈を)付けてくことで、それが逆にただ付けて言い訳で終わるんじゃなくて、もっと面白い形に転換できるんだったら、それは積極的にやっていこうと」
その成果が、たとえばデスラーとシュルツの肌の色の違いだ。
オリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』では、第11話を境にガミラス人の皮膚が肌色から青色に変えられた。そのため第9話で退場したシュルツら冥王星前線基地の人員は、ガミラス人でありながら青く描かれることがなかった。放映の途中で肌の色を変えるという大胆な設定変更に視聴者は困惑したが、『2199』ではシュルツたちを植民星出身の二等ガミラス臣民と位置づけることにより、ガミラス本星にいるデスラーたちとの肌の違いを説明している。
デスラーがかつての敵を自軍の一部として編入したため、肌の色の異なる種族がガミラス軍に交ざっているという説明を、出渕総監督は高校生の頃に考えていたのだという。
「『宇宙戦艦ヤマト』は画期的な作品でしたが、放映当時、十代だった私が見ても筋の通らないところが目に付きました。年上のSFファンが『宇宙戦艦ヤマト』はおかしいと指摘するので、私はヤマトを擁護して論争したものです。しかし、そんな私でさえ、あまりにもおかしいと感じることがありました。友人たちに反論しながらも、おかしいところは正したいものだと考えていました。
SFの魅力は、架空の世界であってもリアルに感じさせてくれることです。『宇宙戦艦ヤマト』の数々の非合理な部分を、論理的で納得できるものに変えていく。それが『宇宙戦艦ヤマト2199』で私がやりたかったことです。
私は十代の頃から三十年以上にわたって、どうしようか考えてきました。三十年のあいだ考えたことのありったけを、この作品に反映しました。」
『宇宙戦艦ヤマト2199』の魅力の一つは、多くのヤマトファンを何十年も悩ませ苦しめてきた数々のおかしな点に、まさにドンピシャな回答が示されたことにあるだろう。
科学考証に天文学者の半田利弘氏を、SF考証には日本SF大賞受賞作『ガメラ2 レギオン襲来』の鹿野司氏を迎え、艦艇の乗組員等の描写については海上幕僚監部に取材協力まで仰いで、「今見たらそれはないだろう」という部分を論理的で納得できるものに変えながら、『2199』なりのリアリズムを追求した成果が全26話にぎっしり詰まっている。
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面白いのは、あえて現実味を損なってまでケレン味も効かせていることだ。
たとえば第3話ではじめてワープする描写は、科学的な考慮よりもケレン味を優先した最たるものだろう。このときヤマトは、進行方向に発生させたワームホールに突入すべく猛烈に加速している。艦尾ノズルからまるで月ロケットのようにもくもくと何かを噴射し、艦体はガタガタ揺れる。
実のところ、ワームホールを潜り抜ければワープできるのだから、通常空間で加速しておく必要はない。本来は不自然な描写だろうが、凄まじく加速して、あまりの振動に乗組員が苦しそうにするからこそ、これから凄いことが起こりそうな緊張感を高めることができる。この描写があるからワープ中の静けさが引き立てられ、シーン全体が迫力あるものになっているのだ。
こういう「いい加減なこと」が許されるのは、それが作品世界に破綻をもたらさない範囲に留まっているからだ。
第3話では、通常空間での加速の描写がなくてもワープを描くことはできる。スター・ウォーズシリーズのように、宇宙船が一瞬にしてスッと通常空間から消え去る描き方でもいいはずだ。それをあえて、艦体がガタガタ揺れる描写にしたわけだが、そうしたところで物語上とくに大きな影響はない。影響の出ない範囲を見極めながら、あえて仰々しく描くのがヤマトらしくて楽しい。
第1話の冥王星会戦で、地球艦隊の放ったビームがガミラス艦の装甲に跳ね返されるときもそうだ。
本来は反射角の方向に真っ直ぐビームが進行するべきなのに、『2199』では跳ね返ったビームがグニャリと曲がり、当初の進行方向に戻ってガミラス艦を越えていく。
科学的にはおかしな描写だが、ビームを真っ直ぐ進行させずに、わざわざ旧シリーズの「ヤマトらしさ」「松本零士らしさ」を再現した心意気がファンには嬉しい(光の直進性や反射角の概念は小学三年生くらいで学ぶから、『2199』の客層には洒落でやっているのが判るだろう)。
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このようにケレン味たっぷり遊び心どっさりで楽しませてくれる一方、本作は重要な点では科学的にも社会的にも適切な表現になるように注意を払って作られている。
その最たるものが、オリジナルの第1テレビシリーズにあった「放射能汚染」という設定を消し去ったことだろう。
「放射能汚染」、「放射能に汚染された……」という云い回しは、『宇宙戦艦ヤマト』に限らず当時のフィクションでしばしば使われていた。だから、1970年代の子供はなんとなく「"放射能"という物質があって、それに汚染されることが"放射能汚染"なんだろう」くらいに思ったものだ。しかし、大人になれば「放射能汚染」という言葉が誤用であり、何も表現できていないことが判ってくる。せめて「放射性物質による汚染」等の表現にしておくべきだった。
言葉だけでなく、「放射能の地下汚染が進行し、人類絶滅まであと一年」という『宇宙戦艦ヤマト』の設定も、子供の頃はそういうものかと受け止めていたが、大人になって改めて考えると何を云っているのかよく判らない。
放射性物質が地下に進行していく? どんなメカニズムで進行するのだ?
いま絶滅を免れているのに、一年経つとなぜ絶滅するのだ? 放射性物質の特徴は、勝手に崩壊して時間とともに減っていく(放射性物質ではないものに変わっていく)ことなのに、なぜ一年経つと脅威が増すのだ?
「放射能汚染による人類絶滅まであと一年」という設定には、「放射能汚染」というなんだか凄そうな脅威と、絶滅が迫る悲壮感と、生存までの時間が区切られたサスペンスとが感じられ、娯楽作の背景としては面白いアイデアだったと思う。
だが、まともに考えれば、この設定を継承して説得力のある合理的な作品にするのは無理がある。
ましてや、オリジナル『宇宙戦艦ヤマト』では、第13話「急げヤマト!!地球は病んでいる!!」においてヤマトの乗組員たちが捕虜のガミラス人を調べ、身体的には地球人と変わらないと結論づけたにもかかわらず、最終回(第26話)「地球よ!!ヤマトは帰ってきた!!」においてガミラス人が地球人よりも放射線の強い環境を好むかのような描写がある(それゆえ、森雪がコスモクリーナーDを作動させて、ガミラス人とともに浸入した"放射能ガス"を除去する(放射性物質の濃度を減少させる?)シーンが見せ場になる)。
はたして、ガミラス人は地球人よりも放射線の強い環境を好むのか。放射線が弱まるだけで退却するものなのか。そもそも何のために地球を「放射能汚染」させたのか。汚染された地球に住みたかったのか、汚染されても住めるのか。
劇中の描写があまりにもチグハグで、筋のとおった説明を見つけるのは難しい。
このような状況だから、『2199』から「放射能汚染」の設定を消し去るのは――大英断だったかもしれないが――たしかに必要なことであった。
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1974年10月から放映されたオリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』に、「放射能汚染による人類絶滅まであと一年」という設定を持ちこんだのは、SF作家の豊田有恒氏だ。
豊田氏こそは、『宇宙戦艦ヤマト』の世界観の設定とストーリーの骨格を考案した人物であり、朝日ソノラマからノベライズ本が発行された頃は豊田氏が「原案」とクレジットされていた。豊田氏が裏番組の原作も担当したことを理由に、「原案」よりも一歩下がった「SF設定」というクレジットにされてしまった経緯は、同氏の著書『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』[*1]に詳しい(なお、「原案者」豊田有恒氏は、人物設定や各種デザイン等を担当した松本零士氏こそ「おおよその原作者」であるとしている)。
同書によれば、西崎義展プロデューサーに請われて新作アニメの設定を作った当時、豊田有恒氏はSF作家に向けられた批難に憤っていたのだという。
1970年代、日本を揺るがす大問題は、大気汚染、水質汚染、土壌汚染等の公害であった。現在よりも規制がずっと緩かったこの時代、工場が出す廃液や煙が、国土を蝕み、人々を病気にして苦しめていた。『ゴジラ対ヘドラ』が公開され、放射性物質にまみれた怪獣ゴジラよりも、工場の廃液や煙を吸収した怪獣ヘドラのほうが恐ろしい脅威として描かれたのもこの頃だ。
同氏によれば、こうして多くの公害が社会問題化してくると、批難の鉾先がSF作家に向いたのだそうだ。SF作家はバラ色の明るい未来ばかり描いて売りまくってきたと、世間からみなされたそうなのだ。
SFの特徴の一つには風刺があり、実際には、人類の行く末に警鐘を鳴らすディストピア物や終末SFも数多く書かれている。バラ色の未来ばかり描いているなんて、とんでもない誤解である。
だが、そういう批難が起こってくると――少なくともそういう批難の鉾先が向けられていると感じた豊田氏は、豊田氏なりの回答として、「放射能」で破滅しかけている地球という舞台設定を考え出した。究極の公害として、地球規模の「放射能」汚染という背景を作り、『西遊記』をヒントにして、遥か遠い星に放射能除去装置を取りに行く旅を構想したのだという。
すなわち、『宇宙戦艦ヤマト』の「放射能汚染」とは、当時の公害の被害を誇張したものなのだ。地下の都市にこもっていても人類の滅亡が近づくのは、土壌汚染、水質汚染のイメージがあるからだろう。
有害物質が土壌に蓄積されただけなら、掘り返したり、そこで農作物を作ったりしなければ、ただちに人体に影響が出ることはないだろう。だが、有害物質が地下水に混入すると汚染は広く拡散され、井戸水を飲んだりすれば人体に健康被害をもたらしかねない。
こうした公害問題を念頭に置きつつ、原爆投下以来、日本人には恐怖の的である放射性物質をも織り込んだのが『宇宙戦艦ヤマト』の設定なのだ。「放射能の地下汚染が進行する」とは、地下水の汚染がジワジワ浸透するようなイメージに、放射性物質の恐怖を重ね合わせた、想像の産物であった。
こうして、バラ色でもなく明るくもない、絶望感でいっぱいの未来像がテレビを通じて発信された(豊田有恒氏が原作者として名を連ねた裏番組『SFドラマ 猿の軍団』も、人類滅亡後の絶望的な未来を舞台にしていた)。
![宇宙戦艦ヤマト2199 5 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Kz9PTk1sL._SL160_.jpg)
豊田有恒氏の著書『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』は、氏の記憶に基づいて書かれているから、出来事の正確な日付や詳細な前後関係の記述は乏しい。
たとえば同書には、1970年の大阪万博の後に生じた、高度成長とバラ色の未来に対する反省と反発、そしてSF作家に向けられた批難への、(豊田氏なりの回答である『宇宙戦艦ヤマト』のような)小松左京氏なりの回答が、極めつけの終末テーマ作品『日本沈没』(1973年)であると書かれている。
けれども、小松氏が『日本沈没』の執筆に取りかかったのは大阪万博よりも前、1964年のことであり、そこから9年もの歳月を費やして完成させた作品だから、西崎義展プロデューサーの依頼を受けてから設定の検討をはじめた『宇宙戦艦ヤマト』と同列に語るのはどうかと思う。小松左京氏は、1964年の段階で既に人類が滅亡の危機に瀕する終末テーマの傑作『復活の日』を発表しているし(同作執筆のために地震について調べたことが『日本沈没』発想のきっかけになっている)、日本がなくなって日本人が流浪の民になるアイデアは早くも1965年の『果しなき流れの果に』で披露している。
豊田有恒氏が西崎義展プロデューサーの依頼で新作アニメの設定を検討したのは、同氏の『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』によっても、牧村康正・山田哲久共著『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』[*2]によっても1973年だから、小松氏の諸作とはずいぶん時間の開きがある。豊田氏の本を読むだけだと、誤解が生じかねない。
とはいえ、『宇宙戦艦ヤマト』を作るに当たって原案者がどのような想いを抱いていたか、アイデアの源流がどこから来たかをうかがうには、同書は絶好の本である。
「人類絶滅まで、あと××日」というタイムリミットを設けたのは、『宇宙戦艦ヤマト』の10年ほど前に豊田有恒氏が脚本を手がけたテレビアニメ『エイトマン』の第26話「地球ゼロアワー」(1964年4月30日放映)の手法を流用したのだという。
30分ものの番組といっても、CMを除けば正味22分くらいしかない。そこで「地球ゼロアワー」では、間違って発射されたICBM(大陸間弾道弾)による東京の壊滅が22分後に迫り、これを阻止せんとするエイトマンの活躍を22分で描いたという。この間、番組では、東京壊滅までの残り時間があと何分何秒であるかをテロップで表示し、秒単位で破滅の時が迫ってくる趣向にした。
視聴者に大いに受けたこのアイデアを、テレビシリーズ全体に広げたのが、人類絶滅までの日数が毎回テロップで表示される『宇宙戦艦ヤマト』であった。
タイムリミットが切られているのは、緊迫感を盛り上げるうえで大層役に立つ。「放射能の地下汚染が進行し、人類絶滅まであと一年」という設定がどういう状況を指しているのかよく判らないことは前述したが、とにかく緊迫感が盛り上がるのは間違いない。
当時は、1972年に国際的なシンクタンク、ローマ・クラブが報告書『成長の限界』を発表し、人口増加や環境破壊、資源の枯渇によって人類文明は遠からず成長の限界に達するだろうと警告した頃だ。加えて、1973年には「1999年に空から恐怖の大王がやってきて、人類は滅亡する」という"予言"を紹介した本『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったりで、世の中は終末の予感に覆われていた。人口減に悩む今の日本とは対照的に、当時は人口増加が良くないことと考えられ、近い将来人類は増加する人口を支えきれずに破滅すると思われていたのである。
そんな世相に反応したのが『宇宙戦艦ヤマト』だった。人類滅亡の年とされる1999年を200年ほどずらした2199年、空から遊星爆弾が降ってきて、「究極の公害」によって地球の環境が破壊され、人類の滅亡が迫る。『宇宙戦艦ヤマト』の設定は、当時の流行を見事に取り入れたものだった。それは、当時の世相とは切っても切れないものであり、当時だから納得できる内容だった。
![宇宙戦艦ヤマト2199 6 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51rsaQYgtEL._SL160_.jpg)
同時にそれは、当時の世相におもねった設定と云えるかもしれない。
だが、さすがSF作家たる豊田有恒氏は、それだけで終わらせなかった。
豊田氏の構想では、地球を救う使命を帯びたクルーたちは、行く先々の星で様々な生命体と遭遇するはずだった。地球人とは似ても似つかぬ異星種族と接することで、クルーたちは宇宙の神秘と生命の不思議を思い知らされたことだろう。そしてたどり着いたガミラス星(豊田氏の命名案ではラジェンドラ星)で、クルーたちは地球人とは相容れない生命体に遭遇する。ガミラスの生き物は、放射線量の高い環境でしか生きられず、地球人が「放射能汚染」だと思っていたことは、ガミラスの生物が住みやすい環境に変えるための努力の結果だったのだ。

地球上にも放射性物質はゴロゴロしており、勝手に崩壊して放射線を放っている。私たちは日々放射線を浴びているのだが、地球の生物は数十億年にわたって浴び続けているから、もう痛くも痒くもない。
けれども、放射線の量が多くなると、体に変調をきたすであろう。
放射線を塩に例える話を聞いて、上手い云い方だと感心したことがある。
地球の海には多くの生物が棲んでいる。彼等は海の塩分のせいで死んだりしないし、ある程度の塩分は必要ですらある。ところが、塩分濃度が3%程度の通常の海に住む生物を、ヨルダン渓谷にある塩分濃度30%の死海に入れると、強い塩分に耐えられずに死んでしまう。少量なら毒でもなんでもないのに、大量になると害をなすのだ。私たち人間も、日々塩を摂取しているくせに、一気に大量に摂取すると体を壊す(食塩の半数致死量は3g/kg)。
放射性物質は危険でもなければ安全でもない。あらゆる物質と同じように、その特性に応じた取扱いをしなければならないということだ。物質が危険なのではなく、取扱いを誤れば危険なのである。放射性物質にもいろいろあるが、ものによっては私たちが日常生活で接する物質とは桁違いに慎重な扱いを求められることがあるから、そういう場合は特に注意が必要だ。
面白いことに、塩分濃度の高い死海にも、棲息する生物はいる。濃度が高いなら高いなりに、生きていくヤツはいるものだ。クマムシのように、高温でも低温でも、圧力が高くても低くても、宇宙空間で放射線にさらされたって生き延びる生物もいる。
ガミラスの生物も、私たち地球人より放射線量が多い環境で生きる設定だった。地球人がガミラス人だと思っていた連中は地球人に似せて作られたヒューマノイド型のロボットであり、グロテスクな巨大な植物こそがガミラス最後の生物だった。ロボットたちは、植物の移植先として地殻構造の似た地球を選び、放射線量をガミラス並みに高めようとしていたのだ。ガミラスの生物の生態として豊田氏の念頭にあったのは、放射線が多いと身体能力が向上するというホルミシス(放射強精)仮説であった。
地球の生き物とガミラスの生き物は、適した放射線の量が少し異なるだけなのだが、それは相容れない決定的な違いであった。
後年、同様のアイデアを活かして作られたのが『ガメラ2 レギオン襲来』である。地球の酸素濃度を自分にとって最適になるまで高めようとする宇宙生物レギオンと、大気中の酸素が20%程度に留まっていなければ生きていられない地球生物の攻防が、この映画では描かれていた。酸素はある意味で猛毒だが、酸素の解毒剤がなければ呼吸したくないという人間がいないように、すべては程度の問題なのだ。
『ガメラ2 レギオン襲来』は、決して共存できない宇宙生物と地球生物の衝突を通して、そんな異質な存在がいるかもしれない宇宙の広大さと、私たちが住む地球の環境の大切さを実感させた。

放射線は危険で、放射性物質は忌むべきものと思い込んでる人が多い時代に、「究極の公害」として「放射能汚染」を設定しながら、長い旅路の末にたどり着いた宇宙の果てには「放射能」が多いことを好む生物がいるなんて(しかも怪獣ではない)ことを視聴者に突きつける。そして、「放射能」が多いのも世界のあり方の一つであると知らしめる。
この構想が実現していたら、どんなにかショッキングだったことだろう。このSF的どんでん返しは、『宇宙戦艦ヤマト』の評価を一層高めたに違いない。
ちなみに、豊田有恒原案、石津嵐著とクレジットされたノベライズ本では、ヤマトのクルーはイスカンダル星にたどり着くものの、放射能除去装置は入手できない。「放射能」を取り除くことはできないので、放射線が多くても生きていける体に「進化」するよう諭されるのだ。スターシャから肉体改造技術を授けられた古代進と森雪は、新生人類のアダムとイブになるべく地球に帰還するのである。
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だが、豊田氏の素晴らしいアイデアは、SFを解さない西崎プロデューサーによって阻まれた。この設定では感情移入できないというのだ。
また、西崎プロデューサーはヒューマノイド型でないエイリアンの登場を嫌った。その結果、出来上がった作品には、やや昆虫に似たビーメラ星人を除けば、地球人と寸分違わぬ(せいぜい肌の色を塗り分けるくらいしかできない)異星人が溢れることになった。
西崎プロデューサーのこの判断は、評価が分かれるところだろう。豊田氏のアイデアに従っていれば、きっとSF的興奮に満ちた面白い作品になったに違いない。けれども、地球人同様の気概を持った勇将ドメルや、カリスマ性たっぷりのデスラー総統の登場が『宇宙戦艦ヤマト』を盛り上げたのは間違いない。『宇宙戦艦ヤマト』があれほど人気を博したのは、異星人を含めたキャラクターたちの人間臭いドラマのおかげでもあった。
ともあれ、豊田有恒氏のアイデアを西崎プロデューサーが阻んだために、オリジナル『宇宙戦艦ヤマト』は中途半端なおかしな作品になってしまった。
ガミラスの攻撃を受けた地球は「放射能」に「汚染」されるが、ガミラス人と地球人は肉体的に変わるところがなく、ヤマトのクルーはガミラス人捕虜と交流できる。なのに、ヤマトに衝突したデスラー艦からガミラス人が乗り込んでくると、ヤマトに充満した放射性物質によってクルーたちは全滅の危機に瀕する。
いったいガミラス人はどういう環境を好むのか、何のために地球を放射性物質で覆ったのか、まったくわけが判らない。
『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクするに当たって、「いくらなんでも今見たらそれはないだろう」という点を正そうと思ったら、オリジナルでの中途半端なおかしさをそのままにするわけにはいかないだろう。
とはいえ、いまさら豊田案を全面採用するわけにもいかない。地球人とガミラス人をまったく異質な生物として描き、とりわけガミラス人はロボットだったなんてことにしたら、『宇宙戦艦ヤマト』にはじまる全シリーズを否定することになってしまう。
さりとて、終盤での大どんでん返しがあればこその「放射能汚染」の設定なのに、どんでん返しを省いて序盤の汚染ばなしだけ繰り返したら、オリジナルと同じく矛盾の噴出を招いてしまう。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の作り手は、激しいジレンマを感じたに違いない。
ここで、『宇宙戦艦ヤマト』を支える核となるアイデアは何かと立ち返ったときに、一年間で往復する旅という設定こそが重要であり、それさえ残せば良いと気づいたのは慧眼であった。
『宇宙戦艦ヤマト』の元ネタになった『西遊記』でも、なぜ三蔵法師と悟空たちが旅をすることになったのか、気にする人は少ないだろう。三蔵は、乱れた世に天竺の経典をもたらすことで衆生を救おうとするのだが、具体的にどのように世の中が乱れたかは読者の興味のあるところではない。『西遊記』にしろ、それを元ネタにした多くの作品にしろ、受け手が興味を持つのは未知の世界を旅する冒険と孫悟空のかっこいい活躍だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の魅力も旅の行程こそにあり、地球の汚染がどんなものかを詳しく述べなくても作品は成り立つ。少なくとも、数々の矛盾を生じさせてまで「放射能汚染」にこだわる必要はない。
かくして『宇宙戦艦ヤマト2199』では、汚染された地球を救うためにヤマトは旅立つものの、その汚染とは何なのか、どんな物質が原因なのか、具体的な説明は省かれた。
これは正しい判断だと私は思う。
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「放射能汚染」という設定を払拭すべき理由は他にもある。
大量の放射性物質による汚染という状況をきちんと描くのは難しいのだ。全26話を汚染状況の説明に費やすならできるかもしれないが、地球の様子はせいぜい最初の1・2話で説明を済ませ、ヤマトは宇宙に旅立たねばならない。それっぽっちの時間で、放射性物質の特性や、放射線を浴びた場合の影響を(劇場での特別上映に足を運ぶファンばかりでなく)テレビの前の幅広い視聴者に理解させるのは不可能だ。
アンリ・ベクレルによる放射線の発見から100年以上の時を経てもなお、放射線及び放射性物質に関する人々の理解が深いとはいいがたい。宇宙は放射線に満ちており、人間はいつも放射線を浴びながら暮らしていることさえ知らない人がいるかもしれない。
そんな状況で中途半端に放射性物質による「汚染」なんて話をしたら、放射性物質は危険なもの、きたならしいもの、けがらわしいものと思い込む人が出るかもしれない。この世界のどこもかしこも危険で、きたならしくて、けがらわしくて、そんな中で日々の生活を送らねばならないとなったら、人は耐えられるだろうか。
1945年の原子爆弾の投下は、日本に甚大な被害をもたらした。犠牲の多くは、爆発の熱と爆風、衝撃波によるものだったが、投下時の放射線や投下後に存在した放射性物質が発した強い放射線を浴びて病気になった人も多い。放射性物質は勝手に崩壊して時間とともに減っていくが、崩壊過程で放射線を出すのだ。
だが、原爆がもたらした恐ろしいものはそれだけではなかった。人々の無知と恐怖心が新たな害を生み出していった。病気がうつると恐れたり(放射線を直接浴びた人しか病気にはならないのに)、被爆者から生まれた子供も病気になるのではないかと心配する人が現れて、深刻な差別を生み出したのである。
1970年に少女マンガ誌『りぼん』に連載された『キャー! 先生』は、明るく楽しい学園マンガだったが、物語が進むにつれて悲劇的な展開になっていった。ヒロインの麻子先生は、親が戦争中に広島にいたことから、被爆の影響が自分に遺伝しているのではないか、自分はいつか白血病を発症するのではないかという不安にさいなまれていた。そして、こんな自分は恋人と結婚して家庭をもってはいけないのだと苦しんでいた。この作品では、包容力のある恋人が深い愛で彼女を受け止めて、ハッピーエンドを迎えたが、現実にはそんな恋人(とその家族)ばかりではない。
長年にわたる綿密な、そして膨大な調査によって、被爆の影響の有無が明らかになった今なら、麻子先生に伝えることができただろう。心配しなくてよいのだと。たとえ両親が広島で被爆していても、その影響が遺伝することはないのだと。
白血病どころか、かつては、被爆したら子孫が奇形になるのが当たり前であるかのような残酷な表現も多く見られた。原水爆の恐ろしさを強調する作品をつくることが核戦争への警鐘になると考えられたのであろうが、このような表現は現実にいる被爆者やその子・孫を苦しめ、彼らへの差別を助長することになりかねなかった。
当時は科学的な知見が得られていなかったから、被爆者の子孫を奇形呼ばわりしても仕方がなかったのだろうか。いいや、反戦を訴えるためであろうとも、現に被爆した人やその家族が生きている社会において、人道的に許される表現ではあるまい。
良識ある作り手は、こうした作品を撤回したり(『火の鳥』のCOM版「望郷編」)、改訂したり(『火の鳥』の「羽衣編」や、『サイボーグ009』の「移民編」)することで、誤った表現の改善に取り組んだ。
『宇宙戦艦ヤマト』の遊星爆弾と「放射能汚染」の描写が、原爆投下を模しているのは明らかだ。
たとえ作り手が意図的にそうしたのではなくても、都市を丸ごと破壊する巨大爆弾や「放射能汚染」を描こうとしたら、アニメーターが思い浮かべるのは広島と長崎への原爆投下のイメージしかありえない。日本人なら誰だってそうだろう。だから第1話では、「遊星爆弾による放射能の汚染は、地球の表面はもとより、地下をも着実に侵しはじめていたのである」というナレーションに合わせ、巨大なキノコ雲がもくもくと昇る様子が描かれて、原爆さながらの様相を呈していたのである。
『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクに当たって「放射能汚染」という設定を払拭するのは、人道的にもとうぜんの処置だと思う。過去の誤った表現を改め、差別が起こらないように多くの人が努力しているときに、原爆投下をなぞりながら「放射能」による汚染だの絶滅だのと恐怖を植え付けるような描写を繰り返すわけにはいかない。
こうした様々な要素を勘案すれば、『2199』から「放射能汚染」という設定を取り除くのは必然であったろう。
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ただ、オリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』の印象は強烈だから、単に汚染物質について言及しないだけでは、少なからぬ観客・視聴者が今回も地球は「放射能汚染」に侵されてるのだと思い込むかもしれない。そこで、ダメ押しに用意されたのが、第2話の佐渡先生のセリフだ。
「放射線の方は、ま、大丈夫じゃろう。」
これは、乗機が墜落して地表に放り出された古代と島を診察したときの、佐渡先生の言葉である。
このセリフが意味するものを受け止めるには、人類絶滅まであと一年と迫った地球の状態について思いを馳せる必要がある。
たび重なる遊星爆弾の攻撃により、地球の海は干上がり、地球は汚染されていた。この汚染の描写として、第1話で敵性植物が毒素を放出する様子が描かれている。古代たちが地下都市に向かう際には、地中深くまではびこった根のようなものが見えるから、ガミラスがもたらした敵性植物が地表を、そして地下をも毒素でいっぱいにしていくのが、『2199』における「汚染」なのだと思われる。
地球人たちは、ガミラスが地球に侵攻した理由を、当初は地球への移住のためだと考えていた。敵性植物による土壌及び大気汚染は、地球人にとっては有害だが、ガミラス人には適した環境なのだろうと推測していた。
だが、ガミラス艦から連絡のためにやってきたメルダ・ディッツ少尉の体を調べることで、地球人とガミラス人には身体上の違いがほとんどないことが判明したため、ガミラスが行っているのはガミラスフォーミング――惑星環境をガミラスに都合良く改造して、移住できるようにすること――ではなく、地球人にもガミラス人にも有害な死の惑星にすることなのだと判ったはずだ。
ガミラスは単に版図を拡大する過程で地球に接触したに過ぎないのであり、恭順の意を示さなかった地球人を殲滅するため、生物兵器を送り込んだに違いない。爆弾の投下だけでは、惑星表面は焦土にできても地下都市の住民まで全滅させるのは難しい。地下深く根を張る敵性植物は、地底に逃げ込んだ地球人を駆除する最終手段なのであろう。敵性植物が繁茂する木星の浮遊大陸は、補給基地であると同時に生物兵器の生産場だったのかもしれない。浮遊大陸を放っておいたら、大陸まるごと地球に投下され、一気に毒素が浸透したかもしれない。
加えて留意すべきなのは、放射線の影響だ。
ガミラスの攻撃を受けて地球は青さを失い、赤く見えるようになっていた。
地球が青く見えていたのは、地球表面の多くを占める海が、青い光を残して太陽光を吸収していたからだ。海が干上がってしまえば、青以外の光を吸収するものはなくなってしまう。地球表面の厖大な水が消失するほどの事態だから、大気の組成もずいぶん変わったことだろう。
大気中の窒素や酸素の分子が、太陽光のうち波長の短い青い光を散乱させていたから、地球の大気は(空は)青かった。これも地球が青く見える原因だったが、地球が赤く見えるということは、大気の大部分を占めていた窒素や酸素の減少も考えられる。
これほど大気に変化が生じれば、宇宙から注ぐ放射線を弱めるフィルターとしての効果も薄れているかもしれない。ことによると磁場でさえ変化して、地表にはかつてない量の放射線が届いているのかもしれない。
だから地表に出るときは放射線からの防護が欠かせないのに、血気にはやった古代と島は勝手にコスモゼロで出撃し、挙げ句の果てに地表に放り出される破目になった。
おそらく彼らの防護服には、放射線を測定する個人線量計が取り付けられていたはずだ。佐渡先生は線量計と彼らの体を調べることで、「放射線の方は、ま、大丈夫じゃろう」と結論付けたのであろう。
このセリフは、本作が「放射能汚染」を前提としていないこと、とはいえ放射線の影響を考慮せざるを得ないほど地球の環境が変わっていることを同時に示して、実に効果的だった。
佐渡先生のセリフを聞いたとき、私はとても感心した。原爆投下後に日本人が背負った悲しみ苦しみ、「放射能汚染」という設定を使うことの是非、創作に携わる者がなすべきこと、してはならないこと――それらの想いが脳裏を去来し、私は感じ入ったのだ。

さらに、「放射能汚染」という設定を払拭するのと同じくらい重要な改変が、『宇宙戦艦ヤマト2199』ではなされている。
それを説明する前に、『宇宙戦艦ヤマト』の優れたネーミングについて触れておこう。
豊田有恒氏が新しいSFアニメの設定を考えたとき、作品に付けた仮題は『アステロイド6(シックス)』だった。その題名が『宇宙戦艦ヤマト』に変わったことは、作品を成功させる大きな要因だったと思う。『アステロイド6』も悪くはないものの、題名を聞いてもどんな内容か判らない。『宇宙戦艦ヤマト』なら、宇宙を舞台にした戦いの物語で、戦艦大和のような最大最強の艦が登場することが即座に判る。素晴らしいネーミングだ。
同様に、星間距離をどう表現するかという問題も、ネーミングセンスで解決された。
豊田有恒氏の前書によれば、当初は星間距離をパーセクで表すつもりだったという。パーセクは天文学で使われる単位で、約3.26光年に相当する。SFファンにはお馴染みの言葉だが、残念ながら一般の視聴者には通じにくい。光年だって難しいだろう。1光年は約9兆5千億キロメートルだが、1970年代の視聴者のどれほどがこの遠大な距離をイメージできただろうか。1パーセクと聞いても、とにかく「1」しかないのだからたいした距離じゃないだろうと思われたかもしれない。
視聴者に耳慣れない単位を出しても通じないし、宇宙的なスケールをキロメートルで表していたら何兆、何京という数字の連続になって、これはこれで判りにくい。
ここで名案を出したのが、松本零士氏であったそうだ。『宇宙戦艦ヤマト』内の世界では、「宇宙キロ」という架空の単位を用いることにしたのである。「キロ」であれば視聴者にも馴染みがあるし、本当のキロメートルではなく架空の「宇宙キロ」だから、厳密にどれくらいの距離かを議論する必要はない。
なんでもかんでも「宇宙○○」と名付けるなんて、宇宙アニメの先駆けならではの特権だが、実際にやってしまうとはたいしたセンスだと思う。
おそらくその延長線上にあるのだろう。誰が付けたか知らないが、沖田艦長の病名は「宇宙放射線病」であった。
これも優れたネーミングだとは思う。
前述したように、宇宙は放射線に満ちている。だから宇宙に行くときは、宇宙船の船壁や宇宙服で放射線を防ぎ、身を守る必要がある。けれども、沖田ほどの歴戦の勇士なら、戦闘中に宇宙に投げ出されたこともあっただろう。長時間にわたって宇宙を漂ったことがあるかもしれない。「宇宙放射線病」は、いかにも死線をくぐり抜けて来た勇士らしい病名だ。
しかし、ここで問題なのは、せっかく「宇宙○○」と名付けて架空の病気を演出しても、「宇宙放射線病」ではちっとも架空の病気に思えないことだ。
「宇宙放射線病」とは、宇宙の放射線病のことであろうか。放射線病といえば、少なからぬ人々の脳裏に浮かぶのは、原爆投下後に多くの人を苦しめた障害のことであろう。宇宙には放射線が溢れているのだから、宇宙で放射線病になるのでは架空の病気とは思えない。
はたまた「宇宙放射線病」とは、宇宙放射線による病気であろうか。これもダメだ。宇宙の放射線は、地球の放射線と区別して宇宙線又は宇宙放射線と呼ばれることがあるが、結局は放射線のことなのだ。だから宇宙放射線による病気とは、すなわち放射線による障害のことでしかない。
とどのつまり、「宇宙放射線病」という名前では、沖田艦長が放射線障害で死んだと表明するのとほぼ変わらない。せっかく「宇宙○○」と名付けたのが、これでは無駄になってしまう。
この病名を付けた人が、宇宙には放射線が飛び交っていることを知っていたかどうかは判らない。おそらくは、「放射能汚染」という設定や遊星爆弾が原爆のイメージを引きずっていることに呼応して、原爆投下後の病気をヒントに名付けられたのではないかと思う。「宇宙放射線病」は、「放射能汚染」という設定と表裏一体なのだ。
だからリメイクする上では、「放射能汚染」をやめるのと同じく「宇宙放射線病」もやめるべきだった。放射線障害を連想させる病気によってどんどん衰弱して死んでいく沖田艦長を、半年かけて延々見せるのは、「放射能汚染」と同様に残酷な設定だ。
おそらく「宇宙放射線病」と名付けた人は、架空の病気のつもりだったはずだ。であるならば、リメイクに際しては現実の病気を連想させない、完全に現実にはあり得ない病名にすべきだろうし、そのほうがオリジナルを作った先人の意にも沿うはずだ。
これらの考慮の末に、『宇宙戦艦ヤマト2199』の沖田艦長の病名は「遊星爆弾症候群」になったのだと思う。これなら現実の病気を連想させることはない上に、ガミラスとの戦争の犠牲らしい雰囲気も醸している。
『宇宙戦艦ヤマト2199』は、設定の細部に至るまで、一つひとつの用語までもが本当によく考えられている。科学的にも人道的にも物語の辻褄の上でも。30年以上考え抜いただけのことはある。『2199』は、30年以上の長きにわたり悶々としていたファンの気持ちをすっかり代弁してくれたのだ。
私は心底感服した。
けれども、私は大きな間違いを犯していた。『宇宙戦艦ヤマト2199』の第一章、すなわち第1話と第2話を見たときは判らなかったが、大事なことをおろそかにしていたのだ。

『宇宙戦艦ヤマト2199』の第2話を見てから5年後のある日、私は大きなショックを受けた。『2199』とは異なるスタッフの下ではじまった『宇宙戦艦ヤマト2202』、その特別上映の第2話で、「宇宙放射線病」が蘇ったからだ。
訓練飛行を休んだ加藤三郎を案じた月面航空隊の面々が、三郎と真琴の一人息子・翼について次のような会話を交わしていた。
「息子さんの病気、そんなに悪いのか。」
「宇宙放射線病の影響だ。」
「二次発症!?」
「ああ。真琴さん、自分のせいだって。月のサナトリウムなら、多少の進行は抑えられるって。藁をも掴みたい心境なんだろう。」
パンフレットや公式サイトの記載では、翼の病名は「遊星爆弾症候群」になっている。にもかかわらず劇中のセリフでは「宇宙放射線病」だった。
本来使われるべきは「遊星爆弾症候群」だったと思う。『2202』後半の回では「遊星爆弾症候群」と呼ばれているし、第2話のこの会話も「宇宙放射線病」ではなく「遊星爆弾症候群」でなければ明らかにおかしい。
病気の進行を抑えるために月のサナトリウムに来たのは、遊星爆弾の攻撃の標的にならなかった月ならば、遊星爆弾が地球にもたらした汚染を避けられると判断したからだろう。もしも「宇宙放射線病」であるならば、その病気の詳細は判らぬまでも、大気が放射線を妨げてくれる地球を離れて、容赦なく放射線が降り注ぐ月面に行くのは理にかなわない。
どういう経緯で公式資料と劇中のセリフが異なってしまったのか、誰が「宇宙放射線病」というセリフにしたのか、私は知らない。
これが何かのミスなのか、意図的にやったものなのかはともかく、このセリフにした人は、少なくとも「宇宙放射線病」という用語に含まれる「宇宙」「放射線」「病」といった言葉の意味を理解できなかったのだろう。ましてや、まとまって「宇宙放射線病」になったときに想起されるものや、その重みが判らなかったに違いない。
「宇宙放射線病」という用語をやめることがどんなに大切で重要だったか、『2199』の作り手がいかに思慮深く言葉を選んでいたかに思いを馳せることができたなら、こんな間違いはしでかさなかったはずだ。
しかも、この作品が上映されたのは、2011年に発生した大地震と大津波と、それらが引き起こした原子力発電所の事故によって不幸な家族が生まれ、まだ苦しんでいた頃だった。
被爆者とその家族に対する偏見や差別を防ぐため、良識ある作り手が作品を撤回したり改訂したりと努力してきたにもかかわらず、放射線についても人体への影響の有無についても適切に認識されているとはいいがたいことが明らかになったのが、2011年の事故だった。
原子力発電所の事故の後、事故の影響や被害の有無がハッキリしてきても、放射線の影響を恐れ、不安に駆られる人がいた。健康に被害が出るほど放射線を浴びたと思い込んだり、放射線の影響が子供に遺伝すると心配する人がいたのだ。
中には、片親が働き続けながら、一方の親が子供を連れて発電所から遠く離れた土地に「避難」する例も見られた。子供に放射線の影響が出ないようにと、母親が「汚染された」と感じた土地を離れた結果、家族が分裂してしまうといったことが、2010年代には起きていたのだ。
後世の人々は、その原子力発電所の事故程度では、一般市民に健康被害は起きないこと、放射線の影響が遺伝したりしないことを判らせれば良かったのにと思うかもしれない。しかし、当時は、一度思い込んで固まってしまった心を解きほぐすのは容易なことではなかった。
そんなところに、放射線による病気としか思えない「宇宙放射線病」の影響で寝込んでしまった子供が登場し、その影響を避けるために遠く離れた土地へ移り住んだ母親が描かれたのだ。まるで、現実の子連れ避難を助長するような設定だった。しかも『2202』では、片親だけでなく、両親ともに移り住んでいる。これでは、生活費を稼ぎ続けるために移住しなかった片親は面目がない。
現実の移住については様々な考え方があるだろうが、私は、正しい知識を持たずに行動するのを助長するような描写を発信することには共感できない。
その上、「二次発症」と来たものだ。
「二次発症」の詳細は語られていないが、宇宙放射線病(又は遊星爆弾症候群)がどういうものであれ、地球の表面、すなわち一度でも「汚染された」土地に戻ったら病気になりかねないと云っているようにも受け取れる。
詳細が語られていないだけに、いかようにも解釈できて、現実に不安にさいなまれて故郷に帰れずにいる人が、真琴の不安と心配を自分の思いに重ね合わせてしまう怖さがある。


たいへん残念なことに、「宇宙放射線病の影響だ」というセリフは、特別上映からさらに一年以上あとの2018年10月のテレビ放映でも訂正されることはなかった。
また、「かつて汚染されていた土地」に住んだら病気になったことについては、後の回でも何らフォローはなかった。
私は、このような描写がなされたことにショックを受けた。そして、私が大きな間違いをしでかしていたことに気がついた。
私はみんな判っていると思っていたのだ。「放射能汚染」の設定を払拭する必要性も、「宇宙放射線病」をやめた意義も、『2199』を見た人ならば、『宇宙戦艦ヤマト』のことを30年以上考え続けた人ならば、きっと判ってくれるだろうと。だから、そのことを改めて述べる必要も、意義を確かめ合う必要もないと思っていた。
大間違いだった。
良いことは、積極的に語っていかねばダメなのだ。その意味や意義を語り、確かめ合い、認識を共有していかねばダメなのだ。
作り手側の立場の人でも、いまだに「宇宙放射線病」という言葉を使ってしまうことがあるのだ。これは、長年の努力が、いつでも水泡に帰すかもしれないことを示している。
ちゃんと語っていこうと思う。良いことは良いと。声の大小は気にせず、どんなときでも語っていこうと思う。
[*1] 豊田有恒 (2017年) 『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』 祥伝社
[*2] 牧村康正・山田哲久 (2015年) 『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』 講談社

総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 麦人 千葉繁 赤羽根健治
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]

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【genre : アニメ・コミック】