『若おかみは小学生!』 ちゃんとした仕事

高坂希太郎監督の言葉にビビった。
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この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。
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こんな難しいことを考えて映画を作っていたのか!
「五蘊」なんて意味が判らないどころか、読めない人もたくさんいるだろう。「五蘊」は「ごうん」と読み、人間を構成する五つの塊を指す仏教用語だ。
しかし、優れた作品とは、作り手の徹底した考察の果てにあるのだと思う。私は、理屈を踏まえ、考え抜かれた作品が好きだ。
楽しくて素敵で感動的で、ちっとも難しいと感じさせない『若おかみは小学生!』だが、終始安心して観ていられるのは、細部まで追求し尽した完成度の高さによるものだろう。
人物の動きにしろ、背景の絵にしろ、ストーリーにしろ、些細なセリフの一言にしろ、すべてがパーフェクトという映画は滅多にない。映画作りには予算や時間や技術や経験等々の制約があるから、何かしら至らないところが生じるのは仕方がない。だが、その大なり小なりの"至らないところ"は、確実に観客の心に影を落とし、鑑賞後の満足感を(ときに大きく)損ってしまう。
『若おかみは小学生!』にはそれがない。あまりに良くできていて、呆気にとられる。
何といっても、躍動感でいっぱいの絵がいい。動いているところはもちろん、止まっている人物さえ今にも動き出しそうだ。微笑んだ口許の、満面の笑みになる直前の口角の上がり具合。主人公おっこの後ろ姿の、子供らしく華奢でありながら、元気が詰まった繊細な描線。
脚本と演出のコミュニケーションも上手い。
しばしば、脚本ですべてを説明しようとする脚本家がいる。そんな人が書いた映画は、説明的なセリフでいっぱいだ。一方で、脚本に書かれたことしか説明しない監督がいる。そんな映画は説明不足でストーリーが判りづらい。はたまた脚本家はちゃんと書いたつもりでも、絵コンテや編集の段階で削られたり改変されたりして、結果的に言葉足らずになる映画もあろう。
ところが本作には、そんな齟齬が微塵もない。セリフで伝えること、絵で伝えること、セリフが出しゃばらないこと、そのバランスが取れていて、脚本家と監督がきちんとコミュニケーションできているのがよく判る。
『若おかみは小学生!』は、すべてのスタッフの仕事がちゃんとしていて、全体の調和がとれているのだ。
もちろん、どの映画でもたいていのスタッフはちゃんと仕事をするのだろうが、全体で見ればどこかに綻びがあったり、ちゃんとした仕事が生かされていなかったりする。
けれども本作は、作品全体がまとまって、極めて美しいハーモニーを奏でている。こんな映画体験はそうそう味わえるものではない。全体を見通せるのは監督だけだから、この素晴らしさは高坂監督の卓越したディレクションによるのだろう。
それもそのはず。高坂希太郎監督は、あのうるさい宮崎駿監督の下で『風立ちぬ』や『ハウルの動く城』や『千と千尋の神隠し』や『もののけ姫』の作画監督を務めた人物なのだ。
作品づくりに打ち込む宮崎駿監督が、監督の求めるクオリティに達しない絵を持ってきたアニメーターを罵倒する様子を、NHKのドキュメンタリー番組で目にしたことがある。失礼ながら、素人目にもその絵は(他のアニメ作品では問題ない水準かもしれないが)宮崎アニメに採用されるはずはないと思ったけれど、それにしてもひどい罵り方だった。高坂希太郎氏は、そんな人物の下で、他ならぬ作画監督を何作も務めてきたのだから恐れ入る。
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スタジオジブリそのものが宮崎駿の作品を作る会社なので、宮崎さんは王様です。
(略)
宮崎さんは口では『いろんな人の意見を聞いて作っている』って、言いますけど、言える人はごく一部。みんな、何も怖くて言えないですよね
(略)
宮崎さんは必ず代替案を出せというんですけども、みんな萎縮しちゃうんです。
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こう語る高坂監督は、自分が監督するに当たって宮崎駿監督を反面教師にしたという。
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宮崎さんは良いが、自分はそれではダメだと思ったので、『反論、大歓迎』と言いました。(略)代替案はなくていいから、『とりあえず何かあったら言って』と。それでもやっぱり言ってくる人は少なかったですけどね。
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なるほど、作品全体から調和が感じられるのは、高坂監督のこの姿勢によるのかもしれない。
おっこのお父さんとお母さんの会話は、お母さん役の鈴木杏樹さんの意見を取り入れたものだという。お母さんのセリフの収録の際、鈴木杏樹さんから、両親があまり旅館のことについて関心を持っていないと突っ込まれたのを受けて、お父さん役の薬丸裕英さんの収録がはじまる前に急遽セリフを変えたのだそうだ。[*1]
たしかに、おっこの祖母がもう70歳であることを気にかけたお父さんが「旅館のこと、考えなきゃな」と云った直後に死んでしまうエピソードがあるから、おっこが若女将として活躍する流れが自然に感じられる。「反論、大歓迎」で、鈴木杏樹さんの突っ込みに即座に反応した高坂監督だから到達できた調和であろう。
公式サイトのスタッフアンケートもユニークだ。映画の公式サイトに、作品に関するスタッフのコメントが載るのは珍しくないが、本作のコメントは「高坂さんとの仕事で印象に残っている事象」、「高坂さんの要望で苦労したこと」という問いに対する回答なのだ。
作品ではなく、監督について語らせるなんて、ちょっと他に例が思い浮かばない。黒澤明のような伝説的な監督ならともかく、はじめて長編アニメーション映画を作った監督[*2]にこの扱いは破格のことだろう。それだけ、高坂監督と仕事することが、スタッフにとって強烈な体験だったに違いない。
で、冒頭の言葉になるわけだ。監督がここまで突き詰めて考えているのなら、スタッフはもう信頼して付いていくしかないではないか。
なにしろ映画オリジナルのお神楽のシーン、そのお神楽の舞の物語は、映画全体の物語とシンクロしているというのだ。
これを云うとネタバレになるからとためらう高坂監督に、テレビアニメ版『若おかみは小学生!』の増原光幸監督が追及して語らせたところによれば、――その昔、村に狼が現れて、子供が殺められてしまったという。狼を退治すべく村人が追っていくと、自然に湧き出した温泉で狼が傷を癒している。それを見た村人は、矢を射ることができなくなってしまった。深い山の中、自分も傷を負っていた村人は、狼と一緒に湯を浴びる。その湯が花の湯温泉のいわれとなった――という舞を、映画の冒頭で舞っているそうなのだ。[*1]
そこまでお考えでしたか!
このお神楽の表すものについて、劇中では何の説明もない。だが、その必要はないのである。肝心なのは、監督の中でテーマと表現方法がしっかり確立できていることなのだ。
だからこそ、原作でもあまり触れられていない「両親の死」のエピソードを、作品全体のバランスを崩さずに挿入できたりするのだろう。

高坂監督は、こうも云っている。
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物語は11~2歳の女の子が超えなければいけないハードルが有り、今時の娘には理不尽に映るかも知れない作法や接客の為の知識、叡智を身に付けて行く主人公の成長を周辺の人々も含め、悲喜こもごもと紡いで行く。
(略)
主人公おっこの元気の源、生き生きとした輝きは、春の屋旅館に訪れるお客さんに対して不器用ではあるが、我を忘れ注がれる彼女の想いであり、それこそがエネルギーなのである!
ある役者が言っていた。役を演じている時に生きている実感があり、家に帰りひとりになると自分が何者か解らなくなると。詰り自分では無い何かになる。他人の為に働く時にこそ力が出るのだと!
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本作は労働の喜びに溢れている。
『ひみつのアッコちゃん』や『魔法のプリンセス ミンキーモモ』は、子供の主人公が颯爽たる大人の職業人に変身する物語だった。働く大人はカッコイイのだ。
まして、本作のおっこは、変身せずとも小学生のまま老舗旅館の若女将になって活躍するのだから、こんなカッコイイ主人公はおるまい。原作小説が子供に人気なのもむべなるかな。
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旅館って、仕事としても特殊ですよね。自分の感情の手当ばかりに一生懸命になると、生業として成り立たない。そこは興味を持ちました。自分のことよりも人のことに尽くすことで、得られない力が得られる。これが面白く描けたらいいな、と。
(略)
仕事って、自分で選ばなくちゃいけないとか、やりがいがないといけないとか、楽しくないといけないとか、いろいろ今はあるじゃないですか。でも、それは「エンゲージリングは給与の3倍」みたいな呪文のようなものだと思うんですよ。そんなことにとらわれてはいけない。
それこそ映画では、主人公が成長して、両親の死を乗り越えていきますが、「人感万事塞翁が馬」だと思うわけです。禍福はあざなえる縄の如し。何がいいか、何が悪いか、なんてことは最後までわからない。
その意味で、旅館業は興味深いわけです。自分よりまず先に、お客さんにいかに喜んでもらえるかを考える。そこにはやっぱり、成長があると思うわけです。
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――と、高坂監督は云うのだが、同じインタビューの中で、監督をやるのは吐きそうなほどきついというのに、どうしてそこまで頑張れるのかを尋ねられ、「やっぱり見てくれる人のことを考えたら、力が出るんですよ。喜んでもらえると思ったら、踏ん張れる。不思議と頑張れる。そういう経験は、この業界に入ってから、よく感じましたね。」と語っているから、お客さんに喜んでもらおうすることで力が湧いてくるのは、アニメーターも旅館業も(そしてもちろん他の職業も)変わらないのだろう。

実のところ、「子供も働く里」というモチーフこそ、宮崎駿監督、高畑勲監督と仕事をしてきた高坂監督が、両監督から受け継いだ重要な特色であろうと思う。
花の湯温泉で働く子供はおっこだけではない。温泉街で一番大きな旅館の跡取り娘で、おっこのライバルともいえる秋野真月(あきの まつき)も旅館のために働いてるし、菓子屋の娘・池月よりこも店の手伝いに忙しい。
しかもこの温泉街に、高坂監督は裏設定を仕込んでいた。温泉街を走るタクシーやリムジンはEV車(電気自動車)ばかりで、エンジン音もなければ排気ガスも出さないのだ(外からやってきたグローリー水領のクルマは除く)。その上、地熱発電があり、山の上の高原では野菜を作り、牧畜もしているという。観光資源として温泉もあることで、花の湯温泉はある程度自給自足できる一つのクニ(別世界)になっているのだ。
現実と非現実のバランスを少し変えて創造した、子供も労働に従事できる独立国。それが花の湯温泉だ。
これはまさに、高坂監督がアニメの世界に入るきっかけとして挙げる『未来少年コナン』(1978年)――宮崎駿監督のあの傑作テレビアニメで描かれた理想郷、ハイハーバーを思わせる世界観だ。ハイハーバーも農業や漁業を営みながら、大人も子供も皆で働く村だった。『風の谷のナウシカ』の風の谷を挙げてもいい。宮崎駿監督最大のヒット作(であり高坂希太郎氏が作画監督を務めた)『千と千尋の神隠し』も、異世界の湯屋で小学生が働く話だった。
やはり高坂監督がその名を挙げる『アルプスの少女ハイジ』――高畑勲監督の名作のアルプスの村も、ヤギ飼いのペーターに代表される、子供が元気に働く世界だった。高畑勲氏が監督し、宮崎駿氏が場面設計・美術設計を担当した『太陽の王子 ホルスの大冒険』の東の村も同様だ。
一方で、『未来少年コナン』にはハイハーバーとは対照的な工業都市インダストリアがあり、『風の谷のナウシカ』には風の谷とは対照的なトルメキアがあった。『アルプスの少女ハイジ』にはアルプスの村とは対照的な大都会フランクフルトがあった。
宮崎駿、高畑勲両氏が繰り返し描いたのは、「都会」と「反都会的な理想の共同体」の対比であった。
だが、『平成狸合戦ぽんぽこ』が理想郷を存続させる運動の敗北を描き、『かぐや姫の物語』が「理想の共同体」の消滅に直面して茫然とする主人公を描いたように、「都会」と「反都会的な共同体」の対立関係は永続的なものではなかった。
たとえ環境に優しいEV車でも、それを作るには工業社会の工場が必要だし、それを動かすには電気エネルギーをもたらす巨大な機械設備が必要だ。一定以上の人口に衛生的な住環境や医薬品を与えるには工業の力が必要で、それを提供するために人が集まった場所が「都会」なのだ。「反都会的な理想の共同体」といえども、「都会」の支えがなければ存続できない。一方を支持するのは両方を支持することであり、一方を否定するのは両方を否定することだ。なのに両者を対立関係で捉えていては、永続的な社会は構築できない。
高坂監督が、子供も働く「理想の共同体」というモチーフを宮崎・高畑両氏から受け継ぎながら、両氏の作品と一線を画しているのは、「都会」と「反都会的な共同体」を対立関係では捉えていないことだ。
花の湯温泉を「反都会的な共同体」とするならば、ここでの「都会」は大規模なショッピングセンター等がある外の世界だ。おっこが口にする決まり文句「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない。すべてを受け入れて、癒してくれる。」という言葉どおり、花の湯温泉は「都会」で傷つき、疲れた人を受け入れ、その傷を癒して「都会」の暮らしに還れるように元気を取り戻させる。その見返りに、花の湯温泉は「都会」が生み出す工業製品の恩恵にあずかり、みずからの存続に役立てる。温泉街の住民も、ときにはショッピングセンターに繰り出して気晴らしをする。
本作に見られるのは、「都会」と「反都会的な共同体」の共存であり、一方がもう一方を支えることで双方が持続する協力関係なのだ。
宮崎駿・高畑勲両監督の作品が好きで、昔からずっと観てきた私は、『若おかみは小学生!』が両監督の作品の素晴らしいところをしっかり受け継ぐだけでなく、そこから一歩踏み出した新しい世界を見せてくれたようで嬉しかった。
『未来少年コナン』を見たときに抱いた疑問――インダストリアの工業力と生産力があれば、理想郷とされる農村ハイハーバーよりもたくさんの人を養い、安定した生活を送らせてあげられるのに、という疑問への答えが、今ようやく示されたように思う。

「原作を読んできた子どもや、かつて子どもで読者だった大人もターゲットにしていますが、映画ですから間口を広げないといけない。それは意識しましたね。」
高坂監督がこう語るように、『若おかみは小学生!』は大人も子供も楽しめる作品だ。
だが、平易な表現に努めていながら、本作にはところどころ説明が欠落した箇所がある。
たとえば、おっこがなぜウリ坊や美陽(みよ)が見えなくなるのか、という点について、本作には明確な説明がない。大人の観客には「それが成長するということなのだ」と判るだろうが、子供の観客にはもしかしたら判りにくいかもしれない。
けれども、それを説明しないのは大事なことだ。
李相日(リ・サンイル)監督は、『許されざる者』についてこう語っていた。
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できれば若い人に観てほしい。自分がそうだったように、そのときはわからなくても、あるとき、気づくものがあるのがこの映画だと思うので。観てすぐ全部理解できる映画は、すぐに忘れてしまう。すべてわかって、手に入れてしまうと、取っておく必要がなくなるので。だから、何か引っかかるものがあるという、ある種の違和感は、実はすごく大切で、その違和感こそが共感に繋がると思うんです。
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高坂希太郎監督も、劇中ですべてを説明しようとはせず、観客に「気づく自由」を残している。
本作を観て、すぐに全部を理解したり納得したりする必要はない。違和感も引っかかりも大切に取っておき、おっこが働く姿がなぜこんなにも凛々しく見えるのか、仲の良いウリ坊や美陽や鈴鬼がいなくなることがなぜ大団円なのか、考え続けるのが良いと思う。
そうしてこの映画が観客の胸に残り続けるといいなと、心から思う。
[*1] 特番『劇場版公開直前!「先出ししちゃうよ若おかみ!」』に、増原光幸監督、小林星蘭さんと一緒に出演した高坂希太郎監督の発言
2018年9月20日 26時5分~26時35分(2018年9月21日 2時5分~2時35分)、テレビ東京にて放映
[*2] 高坂希太郎氏の劇場用アニメーション初監督作品は、上映時間6分の『CLOVER』(1999年)。次に監督したのが47分の『茄子 アンダルシアの夏』(2003年)。オリジナルビデオアニメに、30分の『A-Girl』(1993年)と、54分の『茄子 スーツケースの渡り鳥』(2007年)がある。

監督/高坂希太郎
出演/小林星蘭 水樹奈々 松田颯水 遠藤璃菜 小桜エツコ 一龍斎春水 一龍斎貞友 てらそままさき 薬丸裕英 鈴木杏樹 設楽統 小松未可子 ホラン千秋 山寺宏一 折笠富美子 田中誠人 花澤香菜
日本公開/2018年9月21日
ジャンル/[ドラマ]

『クワイエット・プレイス』 機内上映で観てはいけない
 - A Quiet Place -](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91HRnMpf4oL._SL160_.jpg)
間違っても旅客機に乗ったときの機内上映などで観てはいけない。
周囲がざわついていたり、騒音がやまないようなところで鑑賞できる映画ではない。
それが『クワイエット・プレイス』(静かな場所)。静寂の中に身を置いて、息を殺して観る映画である。
悲鳴を上げてしまいそうな恐怖、声を漏らすほどの痛み――。静寂の中、それらの想いは観客にも伝わり、観ているほうまで叫び出しそうになる。
でも、駄目だ。絶対に声を上げてはならないのだ。いけないと思えば思うほど、声を上げそうになる緊張感。その極度のストレスがこの映画を並外れたものにしている。

SF作家ジョン・ウインダムの『トリフィドの日』(1951年)は、流星雨が降り注いだ日を境に、人間が食肉植物トリフィドに襲われるようになり、滅亡の瀬戸際に追いやられる小説だ。トリフィドは植物だから目を持っていない。だが、音に反応することができ、音を立てた獲物に襲いかかる。
この、知能はないが音には反応する怪物というアイデアは、ゾンビ映画等に連綿と受け継がれてきた(「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」参照)。
多くの作品では、音さえ立てなければ怪物に気づかれないことを重視し、どちらかといえば怪物の弱点――主人公が脱出できる余地を残すための方便――として扱っていたように思う。『トリフィドの日』とその映画化作品『人類SOS!』をかなり忠実になぞった『映画クレヨンしんちゃん オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃』でも、化物サボテンからすぐに逃れて、しんちゃんたちは反撃に移っていた(子供向けの『クレヨンしんちゃん』で、あまり観客を怖がらせるわけにもいくまいが)。
その点、本作ほど「音を立ててはいけない」ことに焦点を絞り、徹底して突き詰めた映画はまたとあるまい。
音がないことは、人間に圧迫感をもたらす。鳥のさえずりや虫の鳴く音等に溢れているのが自然界であり、何も音がしないのは不自然なことだからだ。
ましてや、音を立ててはいけないと強要され続けるなんて、登場人物は――息を詰めて見守る観客も――緊張が解けることがない。
そこに追い討ちをかけるように、彼らを襲う危機また危機。おもちゃで遊びたがる幼児、不意の転落、迫り来る出産予定日……。どれも音が発生しそうなものばかりだ。
はたして母親は声を上げずに陣痛、そして出産を乗り切れるのか。赤ん坊が生まれたら泣き声はどうするのか。普通なら何のことはない日常の生活音まで、この世界では命取りだ。
この危機を彼らがいかに切り抜けるか、切り抜けられるか。もう全編が見どころだ。


音もなく色彩もないながら(音もなく色彩もないからこそ)、2011年の第84回アカデミー賞で作品賞をはじめとする5部門を制した『アーティスト』。その記事に書いたように、かつて映画には音がなく、それで充分面白かった。バスター・キートンやチャールズ・チャップリンや小津安二郎の、モノクロの無声映画が大好きな私には、音声が余計なものだと感じることがある。さらに云えば、映画に色彩があることも過剰なサービスだ。何のために音を付けるのか、色彩がないと本当に成り立たないのか、そこに無頓着な映画が多いように思う。
声を出してしゃべるわけにいかない本作の主人公たちは、手話や仕草で気持ちを伝える。登場人物がセリフを話してくれることに慣れている観客にとって、これは新鮮な体験だろう。登場人物の意図を汲み取ろうと画面に集中することで、普段以上に作品にのめり込んでしまうだろう。
それにより、登場人物の感じる恐怖が、悲しみが、切なさが、いつになく胸に迫る。トーキー(音のある映画)が出現する前の時代、音に頼らず豊かな表現方法を工夫していた無声映画の素晴らしさが、ここに甦っている。
本作は、色彩の使用にも慎重だ。
一見するとただのカラー映画だが、劇中の時間を落ち葉の季節に限定し、色彩を調整することで、使用する色を絞り込んでいる。枯葉の黄色、枯草の茶色、トウモロコシの黄色、トウモロコシ畑の緑色等を中心に、中間色で構成された独特の色合いの映像が続く。それだけに、クライマックスの電飾の色はショッキングだ。黒澤明監督の名作『天国と地獄』で、モノクロ映画なのに唯一煙突から立ち昇る煙だけがピンク色だったときのような、強烈な印象を与える。
劇中の時間の経過にもかかわらずいつも同じ季節なのは、予算が限られたためでもあるだろうし、同じ理由でロケ地が限られ、景色に変化を付けられなかったのかもしれないが、そういった制約をものともしない、見事に計算された映像である。
本作の原案を考え、脚本を書いたブライアン・ウッズとスコット・ベックは、ともにアイオワ州で育ち、中学生の頃から一緒に映画作りをしてきた仲間だという。彼らはバスター・キートンやチャールズ・チャップリンらの無声映画を山ほど観て大学時代を過ごし、セリフを配した映画で一世を風靡したジャック・タチが大好きだった。
そんな彼らの、会話も説明もなしに魅力的なストーリーを紡ぎたいという想いが、音に反応する怪物と、音を立てたら殺されるというアイデアと結びついて、本作は生まれたという。
とはいえ、脚本のリライトも担当したジョン・クラシンスキー監督は、一般の観客にとって馴染みのない映画にはしたくなかった。実験的な無音の映画だと思って欲しくはなかったという。そのため、数々のホラー映画の音楽を手がけたベテラン、マルコ・ベルトラミによる劇伴が、本作では適度に使われている。
ジョン・クラシンスキーの脚本家としての腕は2012年の『プロミスト・ランド』で証明済みだが、大手映画会社の作品では初の監督作となる『クワイエット・プレイス』で、監督としての優秀さも見せつけてくれた。本作は、「映画を鑑賞するのではなく、体験させたい」という彼の思いが結実した作品だ。
本作の脚本に関しては、もう一人、重要な役割を果たした人物がいる。少女リーガンを演じたミリセント・シモンズだ。
実際に聴覚障害で、人工内耳を付けている彼女は、クライマックスの父親のセリフ「I love you(私はあなたを愛している)」を、「I've ALWAYS loved you(私はずっとあなたを愛していた)」に変えるよう提案した。
父親役でもあるジョン・クラシンスキー監督は、このセリフに涙したという。
これがどんなに素晴らしいセリフであることか。映画をご覧になった方には云うまでもないだろう。
 - A Quiet Place -](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91HRnMpf4oL._SL160_.jpg)
監督/ジョン・クラシンスキー
脚本/ブライアン・ウッズ、スコット・ベック、ジョン・クラシンスキー
出演/エミリー・ブラント ジョン・クラシンスキー ミリセント・シモンズ ノア・ジュープ ケイド・ウッドワード レオン・ラッサム
日本公開/2018年9月28日
ジャンル/[ホラー] [SF] [サスペンス]
