『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【後編】

■石ノ森章太郎が明かしたこと
1960年代の後半、石ノ森章太郎氏はある作品に執着し、なんとしてでもその要素を自作に取り入れてみたかったのだと思う。
「神々との闘い編」の元ネタ、いやそれどころかブラック・ゴースト(黒い幽霊団)との戦いを終えて以降の『サイボーグ009』の方向性を決定づけたもの、それはおそらく日本SF史に名高い小松左京氏の名作『果しなき流れの果に』だ。
『S-Fマガジン』の1965年2月号から11月号にかけて連載され、翌1966年に単行本にまとめられた『果しなき流れの果に』は、日本SFの金字塔であり、日本SFのオールタイムベストを選べば毎回のように1位になる名作中の名作だ。
では、以下に『果しなき流れの果に』の内容と、石ノ森章太郎氏への影響を見てみよう。
『果しなき流れの果に』の序盤では、大阪と和歌山の府県境にある石舞台式古墳と、古墳の地下から発見されたオーパーツが焦点となる。オーパーツとは、ありえない場所、ありえない時代に存在する人工物のこと。古墳の下の白亜紀の地層から、しかもの岩の中から、あろうことか永遠に砂が落ち続ける砂時計が出てきたのだ。高度な工業技術がなければ造り得ない古墳自体もオーパーツだった。そして、古墳の中の岩壁を通り抜けて出入りする何者かの影。
史学部の教授と理論物理学研究所の若き助手らはこの謎を調べようとするが、教授は古墳の中で重傷を負わされ、謎の言葉をつぶやくだけの生ける屍となってしまう。研究所の老教授は殺され、またある者は行方不明となり、調査は完全に行き詰まる。
『COM』の1969年10月号から1970年12月号にかけて連載された「神々との闘い編」も同様の展開だ。
「神々との闘い編」は、ジョー(009)とフランソワーズ(003)が石舞台古墳で老人の死に遭遇するところからはじまる。謎の言葉をつぶやいて死んだ老人は、その日その少し前までイースター島にいた考古学者だった。ギルモア研究所のジョーは、老学者が残した言葉と、イースター島にいた人が石舞台古墳の岩壁を通って出現した謎を調べようとするが、手がかりは何もなく調査は完全に行き詰まる。同時に彼らは何者かに襲われるようになり、アイザック・ギルモア博士は死んでしまう。
「神々との闘い編」の元ネタが『果しなき流れの果に』であることは、石ノ森章太郎氏自身が明らかにしている。古墳で死んだ老人――眼鏡をかけた太った学者――の名が「小松」なのだ。眼鏡、太ってる、「小松」と三拍子揃ったら、SFファンが思い浮かべる人は一人しかいない。
導入部を『果しなき流れの果に』そっくりにし、しかも小松左京氏を模したとしか思えない人物を冒頭で死なせたことは、「神々との闘い編」が小松左京氏の『果しなき流れの果に』の単なるパクリではなく、『果しなき流れの果に』を踏まえつつもそれを凌駕し、小松左京氏すら届かなかった高みを目指す野心作であることを高らかに宣言したものだろう。

砂時計と古墳の謎が解けないまま、『果しなき流れの果に』は唐突に「エピローグ(その2)」となり、関係者すべての死が描かれる。物語の中盤だというのに「エピローグ」が出てくるのがおかしいし、「その1」を飛ばして「その2」になるのも不可解だ。奇妙な構成に読者が戸惑う間もなく、物語は未来へ、過去へ、パラレルワールドへと、時空を超えて飛躍していく。
「神々との闘い編」の連載第8回では、ジョーがイースター島を訪れるエピソードが描かれる。イースター島訪問は連載第1回の最初のページにも描かれていたので、そのときの出来事を改めて描いたのかもしれない。このあたりから時系列を無視して断片的なエピソードが描かれるようになり、読者は物語のどの部分を読んでいるのか判らなくなる。
『果しなき流れの果に』では、21世紀中葉の人類が、太陽の超巨大フレアにより絶滅の危機に瀕する様子が描かれる。滅亡寸前の人類を救うため、宇宙の彼方からやってくる異星人。生き残る者と滅ぶ者の選別の後、異星人に救われた者たちは過去の地球に連れていかれ、人類の祖先にさせられる。
この異星人来訪の部分と『幼年期の終り』から着想を得て、石ノ森氏は「天使編」を描いたのではないかと思う。また、滅亡に瀕した未来の人類が太古に移住して人類の祖先になるくだりは、「移民編」の元ネタになったのではないだろうか。
やがて『果しなき流れの果に』は、歴史を変えようとする勢力とそれを許さない超越者との、あらゆる時間とあるゆる空間にわたる戦いの物語であることが明らかになる。
神とはなにか?
伝説とは?
歴史とは?
文明とはなんだ?
そして人間とは……?
生命(いのち)とは……?
死とは……?
肉体とは……?
精神(こころ)とは……?
そして――そして神とはなんなんだ!?
「神々との闘い編」のプロローグに掲げられたこれらの問いは、まさに小松左京氏が『果しなき流れの果に』で追究したことだ。
「歴史を変えて、なぜいけない?」――『果しなき流れの果に』の主人公はこう問いかける。「そうすれば、人類は、はるかに短い期間内に、野獣状態を脱し、一万年かかって達成できた歴史が、百年で達成できる。」
この問いに、石ノ森章太郎氏は『サイボーグ009』「海底ピラミッド編」で答えている。時を旅して歴史を変え、人類の進化を促してきたサン・ジェルマン伯爵に、ジョーたちは相談、いや、お願いをした。
「地球人はたぶんアンタの"干渉"のおかげで――技術だけを早く進化させ過ぎた……!精神(こころ)の発育がそのスピードについて来れなかった……。このままでは生物として不完全になる!――そう……地球人はもうアンタのドレイじゃないんだ。――ひとりでやっていけるほどに成長しているかどうかはわからないが……とにかくこれ以上"干渉"はしてもらいたくないんだ!!」
ミステリアスにはじまった『果しなき流れの果に』は、「エピローグ(その2)」の後、目まぐるしく舞台が変わっていく。登場人物は、厳しい訓練の末に上位の(超常)能力を使えるようになる。
そして舞台は、ときに恐竜が闊歩する白亜紀や人類が誕生する原始の時代に移り、ときに人類の後に別の生物が文明を築いた遠い未来の地球に移る。紀元前の日本列島や、第二次世界大戦の空襲中の神戸が描かれ、古墳時代で墳墓にカモフラージュした基地を建設したり、戦国時代で大名たちを手玉に取ったり、さらには25世紀へ、45世紀の未来へ、宇宙へと飛ぶ。

「001の指導で、00ナンバーたちの超人への"脱皮"が始まる。やがて……改造人間の超能力者――超能力戦士・エスパー・サイボーグの誕生だ……!
ここから物語は――高山に海底に、そして宇宙空間へと広がる"超人"たちと"神々"との闘いになり……一転、二転、意外な展開をし……アルマゲドン(最終戦争)へと突入する――。(略)舞台は、ミクロの――精神の世界からマクロの大宇宙の果てまで、とスケールも大きくなる……。」
「神々との闘い編」連載第5回や連載第10回は、心の中の探索に費やされた。石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」の世界を時間的、空間的に広げるだけでなく、インナースペース(内宇宙、精神の世界)をも扱うことで、『果しなき流れの果に』を超えようとしたのだろうか。
「神々との闘い編」で描かれた心の中の探索は、とびきり観念的で、読者には理解しにくく、受け入れがたい描写だったと思う。後年の『サイボーグ009』では、心の中の探索を人情噺と絡めることで娯楽性を高める試みがなされている。それは、1980年の「ザ・ディープ・スペース編」において、石ノ森流インナースペースの旅として一応の完成を見たようだ。
『果しなき流れの果に』は、パラレルワールドを転々とすることで、人類の様々な運命を見せている。ある世界では滅亡の危機を迎え、またある世界では新天地を求めて他の恒星系に進出していく。
「移民編」以降の『サイボーグ009』では様々なエピソードが語られ、相互に矛盾が生じることもあったが、作者が矛盾を意に介さなかったのは、『果しなき流れの果に』の手法にならってパラレルワールドとして扱うつもりだったのかもしれない。
また、『果しなき流れの果に』では、歴史を変えようとする者たちが様々な時代、様々な場所にオーパーツを仕掛けていき、歴史の改変を許さない者たちがオーパーツを抹消する、その攻防が描かれているが、『サイボーグ009』も「神々との闘い編」のあたりからオーパーツが物語上の欠かせないアイテムになっていく。それは最終長編となった「時空間漂流民編」(1985年~)でも変わらない。
『果しなき流れの果に』の終局においては、主人公の親子関係と、彼が孤児になった経緯が明かされる。なんと、戦いの相手は自分の親だったのだ。
この展開に、石ノ森ファンはニヤリとするに違いない。戦いの相手が親だった、兄妹だった、そんなパターンの石ノ森作品がなんと多いことか。
石ノ森章太郎氏は、生前、『サイボーグ009』の完結編ではジョーの親についても明かされ、ジョーが少年鑑別所に入った経緯も明らかになると語っていた……。
■ますます影響を受けた「2012 009 conclusion GOD'S WAR」
『果しなき流れの果に』から多くの影響を受けたとおぼしき『サイボーグ009』だが、「天使編」や「神々との闘い編」の段階ではまだ取り入れていない要素があった。作者自身の登場である。
砂時計の謎を追う史学部の教授――番匠谷教授――は、名前こそ「小松」ではないものの、でっぷり肥って、太い黒縁の、ボックス型の眼鏡をかけて、精力的に多方面で活躍しているというプロフィールから、小松左京氏自身の投影とみて間違いなかろう。放送メディアへの出演も多かった小松左京氏は、『果しなき流れの果に』の中に、番匠谷教授がテレビを通して時空を超えたメッセージ――警告――を発信する描写を織り込んだ。
すでに明らかになっているように、「2012 009 conclusion GOD'S WAR」には石ノ森章太郎氏自身が登場するはずだっだ。20世紀に生きる石ノ森氏(石ノ森氏の没年は1998年)が、21世紀のイワン(001)から時空を超えたメッセージ――警告――を受け取り、その内容をマンガを通して発表するという構造で語られるはずだっだ。
「神々との闘い編」の連載中止以降、石ノ森章太郎氏の頭の中で完結編の構想が変化するなか、これは『果しなき流れの果に』からの影響が強化された部分といえよう。
一方で、「怪物島編」以降の、相互に矛盾が生じていた数々のエピソード(「移民編」や「天使編」等を含む)は、イワンのメッセージに刺激された石ノ森章太郎の"創作"だったということで片付けられた。

「天使編」で言葉のみ語られた「収穫」も、『果しなき流れの果に』を読んでいると実態が判る。
「天使編」の「神」は、人間を造ったのは自分たちであり、「収穫」に来たのだと告げる。ゼロゼロナンバーサイボーグたちは、「収穫」とはいったい何か話し合うが、「神」の真意がどこにあるかは判らない。
その「収穫」を、明確に描いていたのが『果しなき流れの果に』だ。
そこでは「収穫」の様子と、「収穫」された後の人類が描かれる。
宇宙と生命とその進化を管理し、収穫する者たちのソサイエティと、収穫された者の運命が、人類の惨めでむごたらしい境遇が、次々と明らかになる。
「レジスタンス…抵抗だ!」
「収穫」が何か判らないながら、「神」と闘う覚悟を決めたジョー(009)は云う。
この言葉は、『果しなき流れの果に』の「収穫」の実態が念頭にあると、受ける重みが全然違う。収穫後の悲惨な運命を知っていれば。
石ノ森章太郎氏は、『果しなき流れの果に』の人類が何も知らずに「収穫」されて、惨めな境遇に突き落とされたことから、せめて自作では抵抗する姿を描こうとしたのではないか。「神」と「収穫」を巡るサイボーグたちの議論は、もしも『果しなき流れの果に』の登場人物たちが「収穫」されるかどうかをあらかじめ選べたのなら、必ずしや交わしたであろう会話になっている。
人間の進化を管理し、収穫するなど絶対に許してはならない。そう思わせるだけのインパクトが、『果しなき流れの果に』にはあったのだ。
だからこそ石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」の小松博士のいまわの際に「神は悪魔……!」と云わせたのではないか。
そして、石ノ森章太郎氏の思いは――。
……人間を見守り、ときに干渉する超越者――そのような存在を想定する文化が、真に健全なものといえるだろうか。
世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中の、あらゆる神々と闘うということは、世界中の伝説、神話、そして信仰を生み出してきた文化と闘うということだ。世界中で伝説、神話、そして信仰を生み出してきたもの、今も生み出し続けるもの、それは世界中の人間であり、人間の文化である。
これと闘わなければ、闘って「神々」を生み出す文化を、人間の性質を改めなければ、「神々」はいなくならない。
「神々」と闘うということは、そういうことではないだろうか。
「ああ なんじらわが同胞よ
まことはわが造りしかかる神は
一切の神々と等しく 人間の
作為であり 狂想であったのだ!
この神は人間であったのだ
しかも 人間と自我との貧弱な
一部分であったのだ」
石ノ森章太郎氏は、「神々との闘い編」連載第2回にニーチェの著書『ツァラトストラかく語りき』のこの部分を引用した。[*2]
平井和正氏が『幻魔大戦』を小説化した際に高次の宇宙意識体として書いたフロイを、石ノ森章太郎氏はマンガ『幻魔大戦』(1967年)で犬のような異星人として描いた。マンガのフロイは、ちょっと大柄のセントバーナードにしか見えないのだ。この描き方に、きっと平井和正氏は落胆し、不本意に感じたことだろう。
同じく平井和正氏が原作を提供した『エリート』(1965年)では、作画の桑田次郎氏は、有史以前から人類を見守ってきた宇宙生命体アルゴールを虚空に浮かぶ巨大な眼として表現した。平井和正氏がフロイに期待したのも、こういう抽象的で宇宙的スケールを感じさせる表現だったに違いない。それを、居間に寝そべる犬にしてしまうのが、石ノ森章太郎らしさなのだ(逆に、後年宗教方面に進んだ桑田次郎氏の場合は、桑田次郎らしさだったかもしれない)。
(石ノ森作品において、犬はある種特別な存在である。そのことについては稿を改めて述べたい。)

石ノ森章太郎氏と小松左京氏には浅からぬ関係がある。
石ノ森章太郎氏は、小松左京・平井和正原作のテレビ番組『宇宙人ピピ』のマンガ化(1965年)を手がけているし、1967年には、小松左京著『エスパイ』(1964年)の題名をもじったマンガ、『Sπ』の連載も行っている。
『エスパイ』は、エスパーのスパイで構成された秘密組織「エスパイ国際機構」の活躍を描くSFスパイ小説。『Sπ』はこれとは関係なく、πナップル日本支部に属するエージェントの活躍を描くドタバタ・スパイアクションだ。内容的にもまるでかぶるところがないのだが、わざわざ『エスパイ』をもじった題を持ってくるところに小松左京氏への敬意と親愛が感じられる。虫コミックス版の作者の言葉には、このマンガは『エスパイ』とは大違いで…、なんてエクスキューズが書いてある。
一方で、小松左京氏は、1966年にコダマプレスから発行された石ノ森氏の『ミュータントサブ』の作品解説を引き受けている。
『サイボーグ009』の「移民編」と「天使編」執筆のあいだには、両氏の対談も行われ、石ノ森氏の「ぜひ一度、小松さんの原作をもらって、ぼくなりにまた新しい形のまんがをつくりだすという作業をやってみたい」という言葉に、小松氏は「やっぱりSFでいきましょう」と応じている(「対談 ジュンを語る」『COM』1968年8月号)。その言葉を実践するように、石ノ森章太郎氏は、小松左京氏の短編小説『くだんのはは』(1968年)のマンガ化(1970年)も行った。
「神々との闘い編」の後半、連載第11回には、009と004がミノタウロスのような牛頭人身の怪人と対峙するシーンがある。
石ノ森氏はこの連載を「長い物語の中から順序も部分も考えずに、ゆきあたりバッタリに思い出して描いていた(略)。何年かのち、あらゆる部分を描き終わったらそれをハメ絵パズルのように並びかえて、一冊(あるいは二冊)の単行本にまとめるとちゃんとした物語になっている」[*3]という描き方で進めていたため、牛頭人身の人物が何者で、なにゆえサイボーグ戦士と対峙したかは判らない。
だが、もしかするとこの牛頭人身の人物は、ミノタウロスではなく「くだん」なのではあるまいか。
「くだん」とは日本各地に伝えられる人面牛身の妖怪だが、小松左京氏の小説『くだんのはは』に出てくるのは、そして石ノ森章太郎氏がマンガに描いた「くだん」は、牛頭人身なのだ。
石ノ森章太郎氏がマンガ化した『くだんのはは』は、『別冊少年マガジン』の1970年4月号に掲載された。これは『COM』に「神々との闘い編」を連載している真っ最中。1970年4月号といえば、「神々との闘い」ではちょうど物語のターニングポイントとなる、001の指導がはじまる回だった。
「神々との闘い」の最終回と石ノ森氏の「休載のことば」が『COM』に掲載されたのは1970年12月号。
奇しくも、同じ1970年12月号の『S-Fマガジン』には、石ノ森章太郎氏がSF作家を題材にしたマンガ『7P』の最終回が掲載されていた。その1ページ目に描かれたのが小松左京氏。そこには、丸い地球がそのまま小松左京氏の顔になった絵があった。石ノ森章太郎氏が、小松左京氏を地球全体のような大きな存在として見ていたことがよく判る。
■もう一つのオールタイムベスト
「神々との闘い編」は、そのテーマ、構成、時間的・空間的な広がりと、どこから見ても『果しなき流れの果に』を意識したことは明白だ。
だが、「神々との闘い編」のプロット――超人的なサイボーグ戦士が一人ずつ不可解な事態に直面するエピソードが続き、全員揃ったところで物語が大きく転がりだす流れ――は、もう一つの傑作小説からの影響を感じさせる。日本SFのオールタイムベストを『果しなき流れの果に』と争う傑作、光瀬龍氏の『百億の昼と千億の夜』だ。
『百億の昼と千億の夜』では、"超人"たちがそれぞれアトランティスの滅亡や、何億年も続く永劫の戦いといった驚くべき事態を目撃するエピソードが続く。そして彼ら"超人"が一堂に会した後、神や文明、進化、そして宇宙の謎を巡って物語が大きく転がりだす。

『果しなき流れの果に』は壮大で読み応えがあるものの、難解ではない。一方、『百億の昼と千億の夜』は観念的な描写や示唆に留まる記述が多く、読みとおすにも骨が折れる(個人の感想です)。
また、小松左京氏が壮大なドラマの中にも人情味や生活感を漂わせるのに対し、『百億の昼と千億の夜』はただ無常観に貫かれている。
「神々との闘い編」が『サイボーグ009』の中でもとりわけドラマ性が希薄で、難解に感じられるのは、その"雰囲気"までも『百億の昼と千億の夜』に感化されたからではないか。
■天才の挑戦
はるかな過去とはるかな未来を行ったり来たりした『果しなき流れの果に』は、最後に"現代"にたどり着く。そして物語は、今を生き、今を死ぬことに集約され、思いがけぬ感動が待っている。
その構成に接して、私は「神々との闘い編」と同じく『COM』に連載されたもう一つの壮大なマンガのことを思わずにはいられなかった。手塚治虫氏の『火の鳥』だ。
漫画少年版(1954年~1955年)や少女クラブ版(1956年~1957年)の『火の鳥』は、永遠の命を得た主人公を軸にして、歴史を順にたどっていく構想だったと思われるが、1967年に『COM』ではじまった『火の鳥』は、「黎明編」で日本の歴史のはじまりを描いた後、次の「未来編」で人類の後に別の生物が文明を築く遠い未来の地球を描いた。そして「ヤマト編」では古墳時代が、「宇宙編」では人類が他の恒星系に進出した26世紀が描かれた。
作者他界のため未完に終わった『火の鳥』は、遠い過去と遠い未来を描いた後に、徐々に近い過去、近い未来のエピソードを紡ぎ、最後は"現代"の作者にたどり着く構想であったという。

「最後には未来と過去の結ぶ点、つまり現代を描くことで終わるのです。それが、それまでの話の結論に結びつき、それが終わると、黎明編から長い長い一貫したドラマになるわけです。したがって、そのひとつひとつの話は、てんでんばらばらでまったく関連がないように見えますが、最後にひとつにつながってみたときに、はじめてすべての話が、じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています。」[*4]
手塚治虫氏のこの構想は、あたかも過去や未来を目まぐるしく旅した『果しなき流れの果に』のエピソードを、一つひとつじっくり描こうとするかのようだ。そして『果しなき流れの果に』と同じテーマ――神とはなにか?、歴史とは?、文明とはなんだ?、そして人間とは?、生命(いのち)とは?、死とは?という「神々との闘い編」に通じるテーマ――を、手塚治虫氏なりに探求するものに思える。
私はCOM版「黎明編」からはじまる『火の鳥』も、『果しなき流れの果に』に触発された作品だと考えている。
それに、手塚氏の「てんでんばらばらでまったく関連がないように見えますが、最後にひとつにつながってみたときに、はじめてすべての話が、じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています」という言葉と、石ノ森氏の「長い物語の中から順序も部分も考えずに、ゆきあたりバッタリに思い出して描いていた(略)。あらゆる部分を描き終わったらそれをハメ絵パズルのように並びかえてまとめるとちゃんとした物語になっている」という言葉は、相似形としかいいようがない。
石ノ森章太郎氏が「天使編」を中止し、描き直しを企てた理由は、ここらへんにもありやしないか。
「神々との闘い編」執筆前のSF界、マンガ界の状況を見てみよう。
この時期は、歴史に残る傑作が次々に誕生していた。
「神々との闘い編」執筆までの石ノ森作品と類似テーマの作品
1964年
『幼年期の終り』 1964年、本邦初訳
1965年
『果しなき流れの果に』小松左京 『S-Fマガジン』1965年2月号から11月号に連載、1966年7月に単行本
『百億の昼と千億の夜』光瀬龍 『S-Fマガジン』1965年12月号から1966年8月号に連載、1967年1月に単行本
1966年
「地下帝国ヨミ編」 『週刊少年マガジン』1966年30号~1967年13号
1967年
『火の鳥』「黎明編」 『COM』1967年1月号~1967年11月号
『幻魔大戦』 『週刊少年マガジン』1967年18号~52号
『火の鳥』「未来編」 『COM』1967年12月号~1968年9月号
1968年
「移民編」 『冒険王』1968年2月号~1968年5月号
『2001年宇宙の旅』 日本公開1968年4月11日
『猿の惑星』 日本公開1968年4月13日
『火の鳥』「ヤマト編」 『COM』1968年9月号~1969年2月号
1969年
『章太郎のファンタジーワールド ジュン』1969年2月号を最後に石ノ森氏の申し出により連載中止
「天使編」 『冒険王』1969年2月号~1969年6月号
『火の鳥』「宇宙編」 『COM』1969年3月号~1969年7月号
『リュウの道』 『週刊少年マガジン』1969年14号~1971年52号
『火の鳥』「鳳凰編」 『COM』1969年8月号~1970年9月号
「神々との闘い編」 『COM』1969年10月号~1970年12月号
※ 一般的に月刊誌の1月号は前年12月に発売されるものだが、ここでは雑誌記載の年次にしたがい分類した。
1964年に世界のSF史に残る傑作『幼年期の終り』の日本語訳が発行され、翌1965年には日本SFの最高傑作『果しなき流れの果に』が、少し遅れて同年末にそれに匹敵する傑作『百億の昼と千億の夜』の連載がはじまった。『果しなき流れの果に』、『百億の昼と千億の夜』ともに連載終了の翌年には単行本になっている。
石ノ森章太郎氏がSF大作『幻魔大戦』を共作して平井和正氏のSFマインドを浴びていた頃、『COM』ではマンガ史に残る傑作『火の鳥』「黎明編」がはじまっている(石ノ森氏も、「黎明編」の連載と時を同じくして『COM』に『章太郎のファンタジーワールド ジュン』を開始している)。
そして『火の鳥』「未来編」を追うようにして、『サイボーグ009』「移民編」の連載開始。同年、『幼年期の終り』のアーサー・C・クラークの原作を得て、映画史に残る傑作『2001年宇宙の旅』が公開される。いまだにシリーズの新作がつくられる人気作品『猿の惑星』も同月に公開され、人類の後に別の生物が文明を築いた世界を見せた。
1969年、石ノ森章太郎氏が「天使編」を連載していた頃、『火の鳥』は「ヤマト編」を経て「宇宙編」に突入し、そのクライマックスを迎えようとしていた。ここで、石ノ森氏は「天使編」を中断させてしまう。
傑作『幼年期の終り』や『果しなき流れの果に』にインスパイアされて「天使編」を描きはじめてみたものの、「天使編」はエピソードが時系列に並び、一本調子に進んでいく判りやすい物語だ。
他方、横目で『火の鳥』を見ていた石ノ森氏は、これもまた『果しなき流れの果に』にインスパイアされた、しかも『果しなき流れの果に』のように過去と未来を行き来して、さらに物語を雄大に膨らませた、挑戦的な作品であることに気づいたはずだ。
史上最高の傑作が続々登場するのを前にして、天才・石ノ森章太郎[*5]は何を考えたか。
彼は、『果しなき流れの果に』のスケールと『百億の昼と千億の夜』の深遠さと『火の鳥』の大胆な構成をすべて取り込み、すべてを超越する、最高にスケールが大きく、最高に深遠で、最高に複雑な物語に挑戦しようとしたのではないだろうか。それが「神々との闘い」だったのではないだろうか。

晩年ですら、膨大な量の原稿を執筆しながら、寝る前に必ず小説を一冊読むか映画をビデオで一本観ていた石ノ森章太郎氏。[*6]
たいへんな読書家として知られ、先行作品を貪欲に取り込んだ石ノ森氏が、何を読み、何を目にしていたか。石ノ森作品を考える上で、それはぜひ知っておきたいところだろう。
『サイボーグ009』のことを、特に「神々との闘い」のことを考えるとき、私はそんな風に思っていた。
最後に、『サイボーグ009』をはじめ数々の石ノ森原作アニメの脚本を手がけた辻真先氏が、石ノ森章太郎氏について語った言葉を紹介してこの稿を閉じたいと思う。[*7]
---
さらに、独自のコアみたいなものがあるのはすごいですね。石ノ森さんが仮に「あいつ、うまいな」って誰かをマネしたとしても、オウムがマネをしているうちに自分の声を忘れてしまうことにはならない。ブレない独自のコアがあるから、いろいろなことができる。それが作家としてはうらやましいし、読者としては「次も新しいものを描いてくれるだろう」と安心して読める理由になっていました。石ノ森さんは最後まで、読者に損をさせない、誠意ある仕事をしていましたよ。
---
[*1] 「サイボーグ009"その世界"のこれから」『サイボーグ009その世界』の「あとがき」1978年発行
[*2] ニーチェ 『ツァラトストラかく語りき』 竹山道雄訳 新潮文庫 1953年1月13日発行
コメント欄の補足も参照願いたい。
[*3] 「休載のことば」 『COM』1970年12月号
[*4] 「『火の鳥』と私」 『火の鳥』「未来編」1968年12月20日発行
[*5] 『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』(2018年8月22日発行)収録のインタビューで
――これが石ノ森章太郎という萬画家をもっとも表現している、と思う石ノ森作品を問われた藤子不二雄A(安孫子素雄)氏曰く、
「石ノ森章太郎は天才的漫画家です。彼の描いたすべての作品が、代表作といえましょう!」
――作家としての石ノ森先生をどのようにみているか問われた、さいとう・たかを氏曰く、
「天才です。私は章太郎のファンでしたからね。よく本人にも言いましたよ、『おまえは天才で、俺は職人だ』って。」
[*6] 1989年5月から石森プロに参加した早瀬マサト氏のインタビューから 『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』収録 2018年8月22日発行
[*7] 辻真先氏のインタビュー 『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』収録 2018年8月22日発行

作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]

- 関連記事
-
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【後編】 (2018/09/28)
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【中編】 (2018/09/27)
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【前編】 (2018/09/25)
- 『裏切りのサーカス』は押井守版サイボーグ009だ (2012/11/23)
- 『009 RE:CYBORG』 「神々との闘い」との闘い (2012/10/30)
- 『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』 石ノ森章太郎が描こうとしたこと (2012/05/02)
- 『サイボーグ009 移民編』 作家の良心 (2012/05/02)
『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【中編】

■『サイボーグ009』の完結編はどれ?
『サイボーグ009』は何度も完結しそこなっている。
新編集長が打ち出した頑迷な方針のため『週刊少年キング』の連載が打ち切られた後、石ノ森章太郎氏は「ミュートス・サイボーグ編」の単行本化に当たって20ページも加筆し、一応の結末を示した。
翌年、ラインナップを多様にするためSFを欲していた『週刊少年マガジン』[*1]に迎えられてはじまった「地下帝国ヨミ編」は、完結編としての意気込みに相応しい傑作だった。石ノ森章太郎氏が完結編のつもりで描いた「地下帝国ヨミ編」をもって『サイボーグ009』の完結と捉えるファンもいるだろう。だが、その後石ノ森章太郎氏自身の手で続きが描かれた以上、今「地下帝国ヨミ編」を完結編と呼ぶのは適切ではあるまい。
掲載誌を『冒険王』に移した後、いくつかの中編を経てはじまった「天使編」(1969年2月号~1969年6月号)は、作者みずから"いままでの総決算ともいうべき構想ではじめた「長いすさまじい最後の戦い」の記録"と呼ぶ作品だったが、物語のターニングポイントとなる、001の指導がはじまるところで中断。
だが、ほとんどすぐに、「天使編」は「神々との闘い」に形を変えて『COM』誌上で再開(1969年10月号~1970年12月号)した。本来ならば、『サイボーグ009』は「神々との闘い編」をもって完結していたはずだ。ところが、おそらく『サイボーグ009』史上はじめて、読者の支持が得られない、人気が出ない事態に陥り、連載半ばにして休載せざるを得なくなる。
その後発表されたおびただしいエピソードは、いずれも番外編の位置づけであり、完結編そのものは作者のたび重なる読者への約束にもかかわらず、遂に描かれずじまいだった。
したがって、現在『サイボーグ009』の完結編といえば、タイトルが発表されただけで終わった「2012 009 conclusion GOD'S WAR」のことであり、その内容をうかがわせるものとして「2012 009 conclusion GOD'S WAR」の原型であろう「神々との闘い編」、さらにその原型である「天使編」を含めたフワッとしたものを指す。
石ノ森章太郎氏の構想ノートや断片的な原稿を踏まえた、小野寺丈氏の手による小説『サイボーグ009 完結編』とそのマンガ化作品も存在する。
「天使編」、「神々との闘い編」、そして「2012 009 conclusion GOD'S WAR」が、語り口こそ違えども、内容は同じようなものであったろうことは、以前の記事で述べたので、ここでは割愛する。
本稿で論じたいのは、「天使編」や「神々との闘い編」そして「2012 009 conclusion GOD'S WAR」の発想がどこから来て、どんな形になるはずだったかということだ。

「天使編」の元ネタを探るのは容易い。天使のような翼が生えた異星人が出てくる作品は、そう多くないからだ。
人類が他の知的生命体によって生み出され、育成されているというアイデアのことを<人類家畜テーマ>と呼ぶが、「天使編」は<人類家畜テーマ>の傑作として名高いアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』が下敷きだと考えられる。
「天使編」に出てくる凶暴な猿人たちの描写には、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』の影響もあるだろう。『2001年宇宙の旅』と同時期に公開された『猿の惑星』の要素も取り入れたのかもしれない。[*2]
おっと、『幼年期の終り』に"天使"は出てこない。それは判っている。石ノ森章太郎氏が素晴らしいのは、アレンジの仕方だ。
――大国間で軍事目的の宇宙開発競争が過熱していた頃、地球に多数の円盤が飛来し、異星人が現れる。彼らはなんと背中に黒い翼が生えた"悪魔"の姿をしていた。彼らオーバーロードは人類を指導し、人類の次なる進化を促す。やがて人類は、オーバーロードさえ到達できない、オーバーマインドへと進化していく……。

それは、異星人(超越者)の手によって別の存在へ"進化させられる"ことがハッピーエンドであるとした『幼年期の終り』への、異議申し立てでもあったろう。
こうしてみると、「天使編」が中断してしまった理由はよく判る。
『幼年期の終り』は、オーバーロードの助けを借りて人類が次の段階に進化するところで終わってしまうからだ。『幼年期の終り』のオーバーロードは人類の味方だから、彼らと戦う必要はない。次の段階に進化することは、アーサー・C・クラークとしてはある種のハッピーエンドだった。
けれども、人類の進化に介入する異星人を敵と見なした「天使編」では、異星人との決戦こそがクライマックスになるはずだ。ゼロゼロナンバーサイボーグたちがイワン(001)の助けを借りて*みずから*進化することは、過程にすぎない。
ところが、進化した後のことなんてアーサー・C・クラークは書いていない。かろうじて、進化するときの壮絶なイメージシーンはあるけれど、それを『サイボーグ009』に取り込んでも話が続かない。
絶妙なアレンジャーだった石ノ森章太郎氏が、ここで筆が止まってしまったのはもっともだと思う。
もちろん、「天使編」をはじめたときは、もっと描き続けられるはずだったのだろう。『幼年期の終り』をベースにして導入部を描き終えたら、別の先行作品に乗り換えて元ネタにするつもりだったに違いない。しかし、判りやすい冒険マンガが求められる掲載誌の性格もあって、壮絶なイメージシーンを連発するわけにもいかず、中断とあいなるわけだ。

異議申し立てといえば――。
「神々との闘い編」の中断から8年後、1978年に発行された『サイボーグ009その世界』の「あとがき」[*3]によれば、三度目の挑戦となる「神々との闘い」(完結編)は、第一部「天使編」(もちろん『冒険王』に連載された既出の「天使編」とは別物だろう)と第二部「悪魔編」から構成され、世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中の、あらゆる神々と、サイボーグ・ナンバーとの"生と死とを賭けた壮絶な最後の闘い"となるはずだった。
既出の「天使編」は、同タイプの天使が複数いただけだから、「あらゆる神々」ではない。あの段階では「"神"との闘い」と呼ぶべきだった。
中断した「神々との闘い編」では、異星人を目撃した世界各地の古代人が、それぞれの地域で目撃した事象を"神"の事績として伝承し、それがこんにちの世界中の伝説、神話、そして信仰の対象になっていることが示唆された。したがって、古代から人類に干渉してきた異星人と闘うのは、世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中のあらゆる神々と闘うことでもあった。
あらゆる神々と闘う――そのモチーフは、「天使編」の前年、1968年に発表された「ローレライの歌編」ですでに宣言されていたと思う。このエピソードに"神々"は出てこないが、あらゆる神々――世界中の伝説、神話、そして信仰の対象――と闘わねばならない理由が明らかにされている。
――かつて迷信に支配された村人に魔女と呼ばれて肉親を殺され、自身も大怪我をさせられた女性がいた。村人に復讐するために生き延びた彼女は、優れた科学者になると、みずからの発明を使って村を襲い、人々を恐怖に陥れた。そんな彼女に、ジョー(009)は異議を申し立てる。
「…あなたの気持ちはわかる!でもぼくはやっぱり間違っていると思う。一つの憎しみはまた一つの憎しみを増やすだけなんだ!憎むのなら、迷信を、人々の理性を奪った迷信を憎むべきだった!そして…この村から迷信をなくすことを考えるべきだった!今の行動は、また一つ迷信を…間違った考え方を人々の心に植え付けるだけなんだ!」
そう、『サイボーグ009』に出てくる神々は――神を自称し、あるいは神を模し、ときに神と目されることもあるが、ただそれだけの存在だ。
ギリシャ神話の神々をかたどった「ミュートス・サイボーグ編」のサイボーグたちはもとより、地底人に神と崇められる「地下帝国ヨミ編」のブラック・ゴースト、その総統である魔神像の中の頭脳や、旧約聖書のモーゼに扮した「中東編」の老人や、「天使編」「神々との闘い編」「海底ピラミッド編」の異星人、「エッダ編」の時間旅行者、「アステカ編」の科学者、「イシュタルの竜編」の古代人のクローンと、いずれも一皮むけば、進んだ科学を有するだけの文明人であった。
こうして『サイボーグ009』は、完結編こそ描かれないまでも、シリーズを重ねながらギリシャ神話、アブラハムの宗教、ゲルマン神話(北欧神話)、アステカ神話、メソポタミア神話等の世界中の伝説、神話、そして信仰の対象の中の神々を取り上げて、その化けの皮を剥がし、迷信から人々を解放しようとした。
ときにはゼロゼロナンバーサイボーグ自身が神になる。
「神々との闘い編」連載第4回では、アフリカで密猟監視官を務めるピュンマ(008)と、無知のために禁猟区を侵した原住民の娘との恋が語られる。病気の父のために禁猟区でオカピの心臓を集めていた彼女について、ピュンマは仲間たちに打ち明けた。
「彼らの間に数かぎりなくある迷信のひとつを……頭から信じてやったことだったのだ。ぼくは薬で父親の病気をなおし……娘には……迷信と……迷信によってくる無知の何たるかを説いた!…娘はすなおだった。迷信を信じたおなじ心が、科学や文化をも抵抗なくうけいれたんだ。」
しかし、プラスチックのパイプや鉛のボンベでできたピュンマの身体は、娘にとっては化け物のそれだった。
「娘の『科学』は、おなじ次元でたちまち『迷信』と同化してしまった。そして、娘は妖怪――あるいは神とちぎりを結んだという罪の意識を胸に抱いて……湖の底に沈んでいった……!」
迷信から逃れられなかった娘は、「神」に近づき過ぎた人間であることに耐えられなかったのだ。迷信と、迷信が生み出す「神」が不幸の源泉となることが、ここでハッキリ語られる。
もっとも――伝説、神話、信仰の対象を迷信扱いしながら、一方で精神の進化に憧れ、インナースペース(内宇宙、精神の世界)の迷宮に好んで入ってしまうのが、石ノ森章太郎氏の嗜好の面白いところではある。

「天使編」の元ネタは『幼年期の終り』だと書いたが、実のところ事態はもっと複雑だろうと考えている。
石ノ森章太郎氏が気になっている、ぜひともパクってみたい、もとい挑戦してみたい作品は別にあり、でもそのまま取り入れるのは難しいので、ワンクッション置く意味で『幼年期の終り』でくるんでみた、というところではないかと思うのだ。
なぜなら、「天使編」及び「神々との闘い編」の元ネタと思われるその作品は、「天使編」の前年に描かれた「移民編」の元ネタでもあるからだ。ある作品を元ネタにして「移民編」を描いたのに、また同じ作品を元ネタにしようというのだから、石ノ森氏の執着はたいへんなものだ。
読者諸氏は不思議に思われなかっただろうか。同じ『サイボーグ009』の中に、人類の起源に関する話が「移民編」と「天使編」と複数あるのを。しかも、これらがほぼ同時期に描かれているのを。
「移民編」、「天使編」、そして「神々との闘い編」を描いていた1968年~1970年の石ノ森章太郎氏は、はたから見るとエピソード間に矛盾を来すのもお構いなしに、人類の起源を探る本編を描き続けていた。
「海底ピラミッド編」(1977年~)にも、神を自称し、人類の進化を促すサン・ジェルマン伯爵なる異星人らしき人物が出てくる。「移民編」や「天使編」よりずっと後の、(キャラクターが共通するだけでストーリー上は本編と関係のない)番外編と銘打たれた作品ではあるが。
■「神々との闘い」が生まれる必然
1960年代後半は、石ノ森章太郎氏に変化を促す時期だった。

同書において、齋藤貴義氏は「『009』をはじめとするそれまでの作品群は、あくまで「SFガジェットを持ちこんだアクション作品」だったといえる。それが『幻魔大戦』では、(略)物語の構造自体にSFの"マインド"を取りこんだのだ。」とまで書いている。
1968年4月11日に、アーサー・C・クラーク原作の映画『2001年宇宙の旅』が公開されたことも、無視するわけにいくまい。
スタンリー・キューブリック監督の実験的な映像は、まさに石ノ森好みで、『リュウの道』[*4]や「神々との闘い編」の表現に明らかな影響を見て取れる。人類の進化や、進化の過程であらわになる暴力性や、進化に関わる超越者というテーマも、かつて「ベトナム編」で人類の闘争の歴史を振り返り、この時期すでに最終戦争後の世界と人類の起源を扱う「移民編」に着手していた石ノ森氏にとって、親しみやすいものだったに違いない。

『幼年期の終り』と同じく異星人(超越者)によって別の存在へ"進化させられ"てハッピーエンドというアーサー・C・クラーク流の終わり方の『2001年宇宙の旅』は、どちらかというと内容面では異議申し立てしたい映画だったかもしれない。
『幻魔大戦』に関していえば、同作は少年マンガ週刊誌に連載されただけあって娯楽色が濃厚で、ストーリーも追いやすく、『2001年宇宙の旅』ほども難解ではない。
実験的な表現で知られる『章太郎のファンタジーワールド ジュン』の後なので、今の私たちは「神々との闘い編」が複雑で難解であることを受け入れてしまいがちだが、『ジュン』にはついて来られた"まんがエリートのためのまんが専門誌"『COM』の読者でさえ音を上げるほど、「神々との闘い編」は特異な作品であった。
それでも1960年代後半に「天使編」が、そして「神々との闘い編」が生まれたのは必然であった。
石ノ森章太郎氏にとって、もっと刺激的なことが、もっとたくさんこの時代に起きていたのだ。
(つづく)
[*1] 宮原照夫氏(『サイボーグ009』連載時の少年マガジン副編集長)のインタビューから 『サイボーグ009コンプリートブック』収録 2001年10月19日発行
[*2] 石ノ森章太郎氏が映画の話をすると、好きなSF映画に必ず登場するのが、『2001年宇宙の旅』と『猿の惑星』、それに『宇宙戦争』であったという。
――小野寺丈 著 「リュウの道」第1回から 『僕が見ていた石ノ森章太郎』
[*3] 「サイボーグ009"その世界"のこれから」 『サイボーグ009その世界』の「あとがき」1978年発行
[*4] 『リュウの道』は、『2001年宇宙の旅』が描いた超越者による人類の進化の促進と、『猿の惑星』シリーズが描いた核戦争による人類文明の滅亡と突然変異の発生が、もしも同時に起こったら、というところに発想の原点があろう。石ノ森章太郎氏の代表作の一つだが、科学の進歩と事実の積み重ねから、核戦争による突然変異の発生というアイデアが通用しなくなった現在、新たな読者を獲得していくのは難しいかもしれない。

作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]

- 関連記事
-
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【後編】 (2018/09/28)
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【中編】 (2018/09/27)
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【前編】 (2018/09/25)
- 『裏切りのサーカス』は押井守版サイボーグ009だ (2012/11/23)
- 『009 RE:CYBORG』 「神々との闘い」との闘い (2012/10/30)
- 『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』 石ノ森章太郎が描こうとしたこと (2012/05/02)
- 『サイボーグ009 移民編』 作家の良心 (2012/05/02)
【theme : 漫画】
【genre : アニメ・コミック】
tag : 石ノ森章太郎
『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【前編】

その本とは、2018年に発行された『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』。
2018年は、1938年1月25日に生まれ、1998年1月28日に没した、石ノ森章太郎氏の生誕80周年にして没後20周年である。そのため、石ノ森氏に関する本がいくつも発行されたり、氏の半生を描いたテレビドラマ『ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語』が放映されたりした。『サイボーグ009』を軸にしながら、石ノ森作品全般の紹介や関係者へのインタビュー等で構成されたこの本もその一つだ。
この本の「『009』誕生、そして最初の完結」と題された記事において、幕田けいた氏は、1961年に石ノ森章太郎氏が世界SF大会の取材の名目で行った世界一周旅行に言及し、次のような疑問を投げかけている。
---
香港から東京に戻る飛行機の機内で、たまたま目にした雑誌「LIFE」に掲載されていた記事「Man Remade To Live In Space」を読み、アメリカで研究されている概念"サイボーグ"を知ったという。
ただし、この石ノ森がのちに語っている逸話にはちょっとした謎もあって、当該の「LIFE」は1960年7月発行。時期的には世界旅行と1年のずれがある。宇宙空間での活動のために体を改造するという記事内容は、実際に『009』作中でも言及された設定なので、石ノ森が読んでいるのは確実。もしかしたら、SF大会で入手した古雑誌だったのだろうか?
---
雑誌『LIFE』の記事がサイボーグのヒントになり、それが『サイボーグ009』に結実したということは、石ノ森章太郎氏が小学館の文庫版第1巻のあとがきや秋田書店の四六版上製本第5巻のあとがきその他で述べているから、009ファンにはよく知られた話だ。
けれども、私が疑問に感じたのは、『LIFE』の記事がヒントになった話はいつまで紹介され続けるのだろうということだった。その話は、もういいのではないだろうか。

私は、石ノ森章太郎氏が『LIFE』の記事をヒントにサイボーグの構想を得たという話は、ジョージ・ルーカスが『千の顔を持つ英雄』に影響を受けたという話と同じようなものだろうと考えている。
ジョージ・ルーカスはスター・ウォーズ・シリーズを構想するに当たって、神話学者ジョーゼフ・キャンベルが著した神話の構造に関する理論書『千の顔を持つ英雄』に大きな影響を受けたという。たしかにスター・ウォーズ・シリーズには神話的な要素が多々見受けられるので、ルーカスはかなり意識して神話を研究し、創作の参考にしたのかもしれない。
だが、スター・ウォーズ・シリーズを作る上で影響を受けたものについて話すなら、神話に関する理論書に言及する前に、ルーカスには挙げるものがあるはずだ。黒澤明監督の映画やレンズマンシリーズといった、スター・ウォーズ・シリーズに先行する数々の娯楽作だ。
ルーカスは、さすがに黒澤映画を完全に無視することはできないと考えたのだろう。『隠し砦の三悪人』に影響を受けたことは認めている。
けれども、ルーカスが黒澤映画からいただいたアイデアはその程度ではない。『隠し砦の三悪人』に留まらず、『姿三四郎』からも『七人の侍』からも『椿三十郎』からもたくさんのアイデアの借用が見られる。『隠し砦の三悪人』は、黒澤映画を代表して名前を挙げられたに過ぎないだろう(詳しくは「スター・ウォーズに見る黒澤明」参照)。
善悪の勢力が銀河を二分して戦う設定や大まかなストーリーラインは、E・E・スミスの名著レンズマンシリーズを下敷きにしたと思われる。「フォース」とか「シールド」とか「トラクタービーム」とか通貨単位の「クレジット」といったスター・ウォーズ世界で使われる用語も、E・E・スミスの作品に登場するものだ(詳しくは「『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』 それは新しい考えか?」参照)。
だからジョージ・ルーカスには、神話の構造などという抽象的な話をする前に、まずストーリーは何に基づいており、キャラクターはどこから持ってきて、メカデザインやコスチュームデザインは何を真似たのか等を明らかにし、その上で全体に磨きをかける際に神話の理論を援用したんだといった具体的な話を聞きたいものだ。
もちろん、ルーカスにそんなことを話す義務はない。どんなに他者のアイデアをパクろうが真似ようが、どのアイデアをどう組み合わせるのか、その裁量がルーカスにある以上、完成したスター・ウォーズ・シリーズはルーカスだから作れた唯一無二の作品だ。
それに、元ネタになった諸作品にはそれぞれの著作権者がいるので、下手なことを云って権利問題に発展するのは避けたいはずだ。

『サイボーグ009』に関しても『LIFE』の記事がヒントですと云われたら、海外の雑誌にまで目を通す作者のアンテナの高さに感心こそすれ、それにケチをつける人はいないだろう。
けれど、多くの方がお気づきのように、『サイボーグ009』にはもっと直接的な元ネタがある。アルフレッド・ベスターのSF小説『虎よ、虎よ!』(別題『わが赴くは星の群』)だ。
この小説の主人公は、謎の科学者集団によって身体を改造されてしまう。改造人間となった彼は科学者集団のアジトを脱出し、奥歯に隠されたスイッチで起動する加速装置を駆使して、孤独な戦いを続けていく。
『LIFE』誌なんか関係なく、『虎よ、虎よ!』を読んでいればサイボーグ009の設定を作れることはお判りいただけるだろう。
それどころか、「奥歯に隠されたスイッチで起動する加速装置」という009の特徴は、『LIFE』を読んだだけでは絶対に出てこない。『虎よ、虎よ!』をパクればこそだ。
秘密の科学者集団に改造されたサイボーグが彼らのアジトを脱出し、孤独な戦いに身を投じる展開は、『サイボーグ009』のみならず『仮面ライダー』にも共通する。
しかも、『虎よ、虎よ!』の主人公は、改造の際に、顔に虎のような模様を彫られている。怒りがつのると顔の模様が浮き出るという設定は、『仮面ライダー』のマンガ版にも受け継がれている(マンガ版の本郷猛は、この"傷痕"を隠すために仮面をかぶる)。
■『LIFE』の記事をヒントにしたという伝説
『サイボーグ009』の開始に当たっては、もう一つのエピソードがある。アイデアが時代の先を行き過ぎて、なかなか出版社に受け入れられなかったというものだ。
少年画報社の『週刊少年キング』で『サイボーグ009』の連載がはじまる前のことを、石ノ森章太郎氏は次のように語っている。[*1]
---
サイボーグのアイデアは、アメリカのグラフ雑誌『LIFE』の記事からだった。集英社の『日の丸』という月刊誌の編集者に話したのだが、ムズカシスギルと断られ、代わりに『テレビ小僧』が生まれた。
---

人の記憶はあやふやだから、記憶食い違いが生じるのは仕方がないが、このエピソードに関しては、私は逆にサイボーグ(改造人間)のヒントが『LIFE』の記事によるものではない傍証だと考えている。現在では『虎よ、虎よ!』の題で知られるベスターの小説が、『わが赴くは星の群』の邦題で講談社から発行されたのは1958年だからだ。『テレビ小僧』連載の前年には、サイボーグが活躍する小説が日本で入手可能だったのだ。
『サイボーグ009』のプロトタイプと云われる作品に、1963年発表の短編『敵 THE ENEMY』がある。この作品では、宇宙空間での活動のために改造されたサイボーグ37号が、次々に襲い来る敵と戦う様子が描かれている。これはたしかに、宇宙空間での活動のための肉体改造に関する『LIFE』の記事の内容に近い。
『LIFE』誌の記事「Man Remade To Live In Space」によって石ノ森章太郎氏が知ったのは、サイボーグの概念そのものではなく、おそらく「CYBORG(サイボーグ)」という用語だ。この記事は「CYBORG」という用語を考案したマンフレッド・クラインズとネイザン・S・クラインに取材し、「CYBernetic ORGanism」の略称である「CYBORG」という語を紹介している。
時系列でいえば、次のような経緯だったはずだ。
(1) 1958年 『わが赴くは星の群』、講談社から発行(『虎よ、虎よ!』の題で早川書房から発行されるのは1964年6月)。
(2) 1959年 改造人間(サイボーグ)の話が集英社に受け入れられず、代わりに『テレビ小僧』を連載開始。
(3) 1960年~1963年 1960年7月発行の『LIFE』の記事「Man Remade To Live In Space」を目にして、「CYBORG(サイボーグ)」という用語と、サイボーグなら真空中でも宇宙服なしで活動できるというアイデアを知る。
(4) 1963年 宇宙空間での活動のために改造されたサイボーグ37号を主人公とする『敵 THE ENEMY』を発表。
(5) 1964年 『週刊少年キング』1964年30号(7月19日号)にて『サイボーグ009』連載開始。はじまりは、ジョーが少年鑑別所を脱走するところから。
(6) 1964年末 『別冊少年キング』1965年1月号に読み切り短編『サイボーグ戦士』掲載。サイボーグが作られた目的・背景を考えるように少年キングの山部徹郎編集長から要請された石ノ森章太郎氏は、「反戦をテーマに」据えることとし、ブラック・ゴーストの「未来戦計画」――成層圏戦争用兵士としてサイボーグを開発する構想――や、001~008が拉致・改造された経緯を、後付けの短編として執筆する。この短編は、『サイボーグ009』単行本化の際に、「誕生編」の冒頭部に位置づけられた。[*2]
こう考えれば、『LIFE』の記事をヒントにしたという話も、サイボーグ物が受け入れられず『テレビ小僧』がはじまったという話も両立する。

ただし、『LIFE』の記事が直接ヒントになったのは短編『敵 THE ENEMY』のほう。『サイボーグ009』は、「サイボーグ」という用語を受け継いだに過ぎない(連載開始時は、成層圏戦争用兵士としてサイボーグを開発する背景はなかったから)。
『千の顔を持つ英雄』をいくら読んでも血沸き肉躍る大宇宙の冒険活劇はできないように、『LIFE』の記事を読んだだけでは奥歯のスイッチで加速するサイボーグは誕生しない。サイボーグ物の発想の原点は、『虎よ、虎よ!』(『わが赴くは星の群』)なのだ。
そして、ジョージ・ルーカスが具体的なネタ元を説明しないように、石ノ森章太郎氏もあえて『虎よ、虎よ!』からのパクリに触れたりはしない。『LIFE』の記事をヒントにしたという説明は、とても無難な回答であろう。
■はじまりだけではない
よく知られているように、石ノ森作品にはパクリと思われるものが多い。たとえば、
・『漫画少年』1955年1月号から連載されたデビュー作『二級天使』の、二級天使(Angel Second Class)が一人前になるために人間界で人助けをする設定からして、フランク・キャプラ監督の映画『素晴らしき哉、人生!』(日本公開は1954年2月6日)そのままだし、
・会うたびに成長している謎の少女とのロマンス『昨日はもうこない だが明日もまた…』(1961年)は『ジェニーの肖像』(本邦初訳は1950年発行、映画版の日本公開は1951年7月3日)に*想を得た*ものだし、
・異星の知的生命体に取りつかれた主人公が、その生命体の力を得て犯罪捜査を行う『アンドロイドV』は、ハル・クレメントの『20億の針』だし(同アイデアを使った作品では『ウルトラマン』が有名)、
・人間の刑事とロボットの刑事がコンビを組む『ロボット刑事』のアイデアは、アイザック・アシモフの『鋼鉄都市』のパクリだし、
・人類文明の後を犬とロボットが受け継ぐ『ドッグワールド』は、クリフォード・D・シマックの『都市』が元ネタだし、
・新人類の主人公がサナギマンに変身する『イナズマン』は、ジョン・ウィンダムの『さなぎ』からの着想だろうし、
・サナギマンがさらに蝶のようなイナズマンに変身するのは、額に特殊な触毛が生えた新人類が活躍するヴァン・ヴォークトの『スラン』がベースだろう。

ペルシダー・シリーズでは、そんな地底世界に勇敢な地上人がやってきて、ヒトを解放し、帝国を建設する。それを「地下帝国ヨミ編」では、やってきた地上人がブラック・ゴーストだったら、という形で取り入れている。[*3]
また、「地下帝国ヨミ編」のラストシーンが、レイ・ブラッドベリの短編小説『万華鏡』をベースにしていることは、つとに有名だ(「地下帝国ヨミ編」の『週刊少年マガジン』連載は1966年30号~1967年13号、『万華鏡』を含む短編集『刺青の男』の日本での発行は1960年)。
こんなことをくどくど書いたのは、パクリばっかりでけしからんと云いたいからではない(私は、パクリは創作活動の大事な要素だと考えている)。はたまた、こんなに元ネタに気がつきましたと自慢したいのでもない。
『LIFE』の記事をヒントに『サイボーグ009』が構想された――という建前的な話よりも、石ノ森作品を考察する上では、先行作品の何をどう取り込んで成立したか、どこが流用でどこが石ノ森章太郎独自のヒネリなのかを探求することが大切だと思うからだ。
特に未完のままで作者が他界してしまった『サイボーグ009』の完結編を考える上では。
『虎よ、虎よ!』を元ネタにして『サイボーグ009』がはじまったように、とうぜんのことながら『サイボーグ009』の終わりにも元ネタがある。
(つづく)
[*1] 「あとがき」 『サイボーグ009』小学館 文庫版第1巻 1976年6月20日発行
[*2] 桑村誠二郎氏(少年キングの『サイボーグ009』担当編集者)のインタビューから 『サイボーグ009コンプリートブック』収録 2001年10月19日発行
[*3] 「地下帝国ヨミ編」執筆の少し前に、ペルシダー・シリーズの第1巻である『地底世界ペルシダー』がハヤカワ・SF・シリーズの一つとして早川書房から発行されている。
『地底世界ペルシダー』の発行は1966年8月20日。
「地下帝国ヨミ編」の連載は『週刊少年マガジン』1966年30号~1967年13号。
ペルシダー・シリーズが複数の出版社から競って発行されたり、映画化されたりして注目を集めるようになるのは、「地下帝国ヨミ編」連載よりも後のこと。

作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]

- 関連記事
-
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【後編】 (2018/09/28)
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【中編】 (2018/09/27)
- 『サイボーグ009』の秘密と「天使編/神々との闘い」の正体 【前編】 (2018/09/25)
- 『裏切りのサーカス』は押井守版サイボーグ009だ (2012/11/23)
- 『009 RE:CYBORG』 「神々との闘い」との闘い (2012/10/30)
- 『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』 石ノ森章太郎が描こうとしたこと (2012/05/02)
- 『サイボーグ009 移民編』 作家の良心 (2012/05/02)
『SUNNY 強い気持ち・強い愛』と『サニー 永遠の仲間たち』、少し『タクシー運転手 約束は海を越えて』

ストーリーは原作映画とほぼ同じである。主人公たち六人組の暮らす現代と、彼女らが回想する高校時代を並行してたどりながら、ままならない人生の切なさと仲間たちとの輝かしい日々を描き出す。
映画冒頭のテレビ番組で安室奈美恵デビュー25周年を報じていたから、劇中の「現代」は2017年だ。主人公・奈美が淡路島から転校してきた理由が、阪神・淡路大震災で父の職場が壊滅したためなので、「高校時代」は1995年であろう。これは2017年に40歳になった女性たちの物語なのだ。
韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』は、映画公開の2011年を現代として、25年前、すなわち1986年の高校時代を振り返っていた。
両作品は同じような設定で、時代もそれほど異なるわけではないが、映し出される光景はまるで違う。『SUNNY 強い気持ち・強い愛』は必ずしも1995年でなく前後2~3年でも構わなかっただろうが、『サニー 永遠の仲間たち』が振り返るのは、どうしても1986年でなければならなかったはずだ。
![タクシー運転手 約束は海を越えて [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71KhxZqcjAL._SL160_.jpg)
特に全斗煥(チョン・ドゥファン)将軍がクーデターで実権を握った後に起きた1980年の光州事件は、諸外国にも衝撃を与えた。韓国南部の光州市で、民主化を要求する市民たちと軍・警察が衝突、激しい抗争に発展し、多くの民間人が殺されたのだ。
韓国は戒厳令下にあったため、何が起きているのかはっきりしたことが判らない中、危険を冒して光州市に潜入し、軍に武力鎮圧される市民の姿を映像に収めて日本国に脱出したのが、ドイツ公共放送連盟東京支局の特派員ユルゲン・ヒンツペーターだった。彼の活躍により、光州市の惨状を世界が知ることになる。
"青い目の目撃者"と呼ばれるヒンツペーター記者と、彼を乗せたタクシーの運転手キム・サボクの決死行をモデルに映画にしたのが『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)である。
外信記者を乗せて民主化のために走り回っていたというキム・サボクが、映画では金に困った冴えない親父キム・マンソプとして描かれたり等の違いはあるが、独裁者朴正煕(パク・チョンヒ)が倒された後の民主化ムードを一瞬で吹き飛ばし、新たな軍事独裁政権の幕開けを告げた光州事件の衝撃を、この作品はよく表している。
(相対的に)自由と民主主義に溢れる隣国日本を対置させることで、独裁政権下の韓国の危険と不自由さを感じさせたのも印象深い。

『サニー 永遠の仲間たち』の舞台である1986年は、民主化宣言が出る直前だ。この映画では、民主化運動の闘志たる兄が登場したり、少女たちの喧嘩が政府と民衆の抗争に重ね合わされたりして、少女たちの生き様と、自由と民主主義を渇望する国民の戦いが重なる構図になっている。
すなわち、『サニー 永遠の仲間たち』は、主人公の女性たちが高校時代を懐かしむだけの映画ではないのだ。彼女たちの回想を通じて、韓国の市民一人ひとりが軍事独裁政権下の生活と圧制に抗した日々を想い起し、あるいは当時生まれていなかった若者は政府と戦う勇気と先人の苦労を知り、いま手にしている平和と民主主義の大切さを噛みしめる作品なのだ。
だからこそ、40代女性の回顧映画に留まらず、国民みんなの共感を得て、韓国で740万人を動員する大ヒットになったのだろう。

日本版リメイクの『SUNNY 強い気持ち・強い愛』と同じく2018年に公開されたベトナム版リメイク映画『Thang Nam Ruc Ro』(眩しい五月)も、韓国版の構図に似ている。
ベトナム版は、時代を2000年と1975年に設定している。25年を隔てた二つの時代を描くのは韓国版と同じだが、ベトナムで1975年といえばベトナム戦争最後の年だ。こちらの映画は、1975年4月30日にサイゴン政権が崩壊する前の南ベトナムを舞台に据えて、ゴ・ディン・ジエム大統領の圧制に対抗するべく結成された南ベトナム解放民族戦線とサイゴン政権が戦った動乱の時代を振り返る。南北ベトナムの統一後、経済発展を続ける平和な現在と対比しながらだ。
このように両国版とも国民すべてに関係する社会の変化を踏まえた作りになっているが、日本版はそのような歴史的・社会的な視点を持ちえない。日本国には、よりよい社会にしようと皆が立ち上がり、自由と平和を獲得した国民共通の思い出がないからだ。
代わりに『SUNNY 強い気持ち・強い愛』が描くのは、1990年代の風俗ファッションだ。本作は、"コギャル"と呼ばれた当時の女子高生の生態図鑑になっている。
とはいえ、それこそが大根仁監督の狙いであろう。
本作をつくるに当たり、大根仁監督は「90年代後半、20世紀最後のどんちゃん騒ぎを象徴する存在である“コギャル”のことはいつか物語にしたいと思っていました。彼女たちがアラフォーになる今、機は熟したのかなと。」と述べている。
原田眞人監督のテレビ映画『盗写 1/250秒 OUT OF FOCUS』(1985年)を愛し、映画『SCOOP!』(2016年)としてリメイクしたほどの大根監督にとって、いつか物語にしたいと思っていたコギャルのこととは、原田監督がコギャルを描いた1997年の『バウンス ko GALS』に返歌を送ることだったのかもしれない。
いくらコギャルの映画を撮りたくても、1990年代ならともかく21世紀にそんな機会がそうそうあるはずがない。しかし、40代の女性が高校時代を振り返る『サニー 永遠の仲間たち』の手法を使えば、そしてコギャル世代が40歳前後になる"今"ならば、コギャル映画を世に送り出すことが可能だろう。大根監督はそう考えたのではあるまいか。


「日本版で描かれるのは、女子の革命。決して周りに合わせることなく、ギャル自らが自分たちのルールと価値観を作った“ガールズ・ブラボー”な時代です。オヤジたちにNOを突き付けて波風を立て、男社会の中でアイデンティティを確立しようとした彼女たちが、女子の在り方を変えたとも言えます。」
残念なのは、よしんば90年代がガールズ・ブラボーな時代だったとしても、女子の革命であったとしても、それが国民みんなの共通の思い出ではないことだ。
たとえば本作は、韓国版の七人組「サニー」を六人組に減らしている。転校生のナミを奈美へ、リーダーのチュナを芹香に、保険の外交員になる太っちょのチャンミを不動産営業の梅に、金持ちと結婚するジニを裕子に、ミス・コリア志望のおしゃれ好きなポッキを美容師志望の心(しん)に、モデルの美少女スジを奈々に置き換え、原作に忠実に対応させながら、本作はメガネの文学少女クムオクだけを消してしまった。原作の個性的なメンバーを一律コギャルに置き換えた中に、コギャルらしからぬ文学少女の占める場所はなかったのだろう。
90年代にもメガネの文学少女はいたと思うが、本作は女子高生の物語にするだけでなく、女子の範囲をも狭めてしまった。
たしかに七人組は多すぎかもしれない。韓国版は124分の中にエピソードがぎゅう詰めで、かなり目まぐるしい展開だった。日本版同様118分のベトナム版も、六人組に改変している。余裕をもって描くなら六人がいいとこなのだろう。
だが、一人でも多くの観客に共感してもらうには、できるだけ多くの人生模様を描きつつ、共通項を見出したほうがいいはずだ。
コギャル文化の掘り下げに集中した本作は、韓国版のスタンスとはまるで逆だ。
クムオクを削ったことで弱まったものは他にもある。
貧困の描写だ。
奈美(=ナミ)は高給取りの夫と暮らす主婦、芹香(=チュナ)はビジネスに成功した大富豪、裕子(=ジニ)は金持ちと結婚して玉の輿と、大人時代の彼女たちは裕福な暮らしぶりを見せつける。本作には生活にゆとりがない梅(=チャンミ)や、転落人生を歩む心(=ポッキ)も登場するが、心がアルコール依存症を病んでいるせいもあり、貧困問題より生活のすさみ方が気になってしまう。
韓国版では、ここに家族の厄介者になっている無職のクムオクが加わることで、否応なしに貧富の差が浮かび上がるようになっていた。
日本で90年代に高校生といえば、就職氷河期に直面した、いわゆるロスジェネ世代だ。思うように就職できず、低収入を強いられる人が多かった世代である。
この二十数年、日本国で起きているのは貧困層の増加と格差の拡大、そして階級社会化だ。
韓国版に負けず劣らず、日本版でも貧困問題を取り上げる余地はあったと思うのだが。
かように、韓国版と日本版では、ストーリーがほぼ同じでも印象が大きく違う。
少女たちの喧嘩が政府と民衆の抗争に重ね合わされ、国民みんなが一体となって戦う様子を演出した韓国版の乱闘シーンは、日本版では遊園地のプールの出来事になった。水着姿ではしゃぐ客たちに交じって、水鉄砲を撃ったりする少女たちは、喧嘩というより楽しいじゃれ合いのようだ。とても国民みんなの戦いには感じられない。
韓国の観客は、老若男女誰もが『サニー 永遠の仲間たち』の少女たちに、その後ろで民主化のために戦う学生・市民たちに声援を送り、拍手喝采したに違いない。
日本映画『SUNNY 強い気持ち・強い愛』を観ながら、日本国には皆で社会をこんなに良くしたんだと振り返る思い出がないのかと、さみしさを噛みしめた。

監督・脚本/大根仁
出演/篠原涼子 広瀬すず 板谷由夏 小池栄子 ともさかりえ 渡辺直美 池田エライザ 山本舞香 野田美桜 田辺桃子 富田望生 三浦春馬 リリー・フランキー
日本公開/2018年8月31日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [音楽]

- 関連記事
-
- 『SUNNY 強い気持ち・強い愛』と『サニー 永遠の仲間たち』、少し『タクシー運転手 約束は海を越えて』 (2018/09/09)
- 『サニー 永遠の仲間たち』 彼女が変わらない秘密 (2012/07/19)
『インクレディブル・ファミリー』 世界は女で回ってる
![インクレディブル・ファミリー MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71c-Tj4B74L._SL160_.jpg)
2004年公開の『Mr.インクレディブル』は、スパイアクションの傑作だった。ジョン・バリーが音楽を手がけた頃の007シリーズ、その音楽にそっくりな曲に乗せて、アクションと秘密兵器をてんこ盛りにした映画だった。
ちょうど本家007シリーズの空白期間に公開されたこともあり(『007/ダイ・アナザー・デイ』を最後にピアース・ブロスナンがジェームズ・ボンド役のシリーズが終わり、ダニエル・クレイグが『007/カジノ・ロワイヤル』でジェームズ・ボンド役に就く前の時期だった)、痛快スパイアクションを渇望する観客を楽しませてくれた。
ブラッド・バード監督が大作スパイアクション映画『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の監督に招かれたのも、もっともな面白さだ。
その上『Mr.インクレディブル』は、超人的な能力を持つスーパーヒーローチームの物語でもあり、親子、夫婦の不和を乗り越える家族の物語でもあった。
■インクレディブル・ファミリーの原型
![ファンタスティック・フォー[超能力ユニット] [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81q8uVBrJuL._SL160_.jpg)
Mr.インクレディブルのネーミングは、もちろんファンタスティック・フォーのリーダー、Mr.ファンタスティックが元ネタであろう。けれども体が頑丈で怪力を持つところは、ファンタスティック・フォーのメンバー、ザ・シングからのものだ。
Mr.ファンタスティックのゴムのように伸び縮みする能力は、こちらではMr.インクレディブルの妻イラスティガール(弾力女子)のものになっている。
ファンタスティック・フォーの紅一点、インヴィジブル・ガールの透明化能力とエネルギーシールドを作る能力は、Mr.インクレディブルとイラスティガールの娘ヴァイオレットに受け継がれている(ヴァイオレットの名は、Mr.ファンタスティックとインヴィジブル・ガールの娘ヴァレリアのもじりだろうか)。
Mr.インクレディブルとイラスティガールの長男ダッシュの「若い男の子がスーパーヒーロー」というコンセプトは、ファンタスティック・フォーの最年少メンバー、ヒューマン・トーチに通じる。ただし、ヒューマン・トーチの能力、すなわち全身から火を放ち、空中浮揚するところは、ダッシュの弟ジャック・ジャックが再現していた(ダッシュの超高速で動ける能力は、DCのフラッシュ又はマーベルのクイックシルバーから)。
ジャック・ジャックが多様な能力を秘めているところは、Mr.ファンタスティックとインヴィジブル・ガールの息子フランクリンのようでもある(ちなみに、「ジャック」はバード監督の息子の名)。
Mr.インクレディブルの友人であるスーパーヒーロー、フロゾンは、そのツルンとした外見や、みずから発生させた氷の上をスノーボードで疾走する姿から明らかなように、ファンタスティック・フォーの友人で、サーフボードで空中を疾走するシルバーサーファーに相当しよう。フロゾンがインクレディブル一家にあそこまで肩入れするのは、ファンタスティック・フォーとシルバーサーファーの関係が下敷きにあればこそだ。
Mr.インクレディブルの敵シンドロームも、かつて敵ではなかったのにMr.インクレディブルを逆恨みして敵対したり、超能力がなくても各種の科学兵器を発明して強敵たり得るところなど、Mr.ファンタスティックを逆恨みした天才科学者ドクター・ドゥームを踏襲したキャラクターに違いない。
![Mr.インクレディブル MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71vXoPcxSiL._SL160_.jpg)
さて、『Mr.インクレディブル』という題名だとMr.インクレディブルだけが主人公のようだが、原題は『The Incredibles』。「途方もない人たち」という意味と、「インクレディブル一家」という意味を掛けたものだろう。ブラッド・バード監督がかつて手掛けたアニメ番組『ザ・シンプソンズ』(シンプソン一家)と同様のネーミングだ。
だから続編『Incredibles 2』の邦題が『インクレディブル・ファミリー』になったのは、より原題の意味に近くなって喜ばしい。これなら「インクレディブル一家」という意味にも取れるし、「途方もない家族」と解釈することもできる。
そして『インクレディブル・ファミリー』は、前作に負けず劣らず充実したスパイアクションだ。
21世紀を代表するスパイアクション映画『ミッション:インポッシブル』シリーズでも最大のヒット[*]となった第四作『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』を監督しただけあって、ブラッド・バードのスパイアクションの腕は冴えている。冒頭から前作のクライマックスを凌ぐほどのアクションが炸裂し、そこから一転、陰謀がインクレディブル一家を巻き込むサスペンスを経て、最後は一大スペクタクルが待ち受ける。主演がトム・クルーズでもおかしくない、豪快なアクション大作だ。
『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の次にブラッド・バード監督が手掛けた『トゥモローランド』(2015年)は、これまた面白くて素晴らしい作品だったのに、興行的に振るわなかったのは残念だ。
シリーズ物よりオリジナル作品を優先するブラッド・バード監督は、『ミッション:インポッシブル』シリーズ第五作のオファーを断り、『スター・ウォーズ エピソードVII/フォースの覚醒』の監督も断って『トゥモローランド』に専念したのに、結果的にディズニーに大赤字を負わせてしまった。
『トゥモローランド』の次に監督したのが、シリーズ化された『インクレディブル・ファミリー』なのは皮肉な巡り合わせだが、本作がブラッド・バード監督最大のヒットとなり、ディズニー/ピクサーに莫大な利益をもたらしたのはめでたいことだ。

しかし、前作『Mr.インクレディブル』公開からの14年は、続編制作を困難なものにしかねなかった。
1960年代風のスパイアクションは後発の『怪盗グルー』シリーズが何度も繰り返してしまったし、方々の映画会社に自社作品の映画化を持ちかけていたマーベルはマーベル・シネマティック・ユニバースを成功させてスーパーヒーロー映画の大量生産を成し遂げた。前作の特徴であったものが、今や珍しくもなんともなくなってしまったのだ。
1960年代風といえば、本作の中でインクレディブル一家が見ているテレビにアニメ番組の『科学少年J.Q』(原題『Jonny Quest』)の第8話「The Robot Spy」が映っていることから、その日が1964年11月6日であることが判る。再放送の可能性もあるけれど、『科学少年J.Q』だけでなくテレビドラマ『アウター・リミッツ』(1963年~1965年)を見ている場面もあるから、本作の時代設定が1964年であることは間違いあるまい。

劇中でも使用されるMr.インクレディブルのテーマソング『たたかえMr.インクレディブル』、フロゾンのテーマソング『アイツはフロゾン』、そしてイラスティガールのテーマソング『ゴーゴー・イラスティガール』は、いずれも名曲揃い。これらを収めたサウンドトラック盤は必聴だ。
とはいえ、前作と同じくマイケル・ジアッチーノが担当した音楽は、全体的には前作ほど60年代らしく感じない。前作の楽曲はジョン・バリーが甦ったかのようだったが、本作ではそれほどジョン・バリーの再現に努めてはいないようだ。映画全体が、『ミニオンズ』のような徹底した60年代らしさを訴求しようとは考えていないようなのだ。
スーパーヒーロー映画としては、前作同様に充実した内容で楽しませてくれる。
Mr.ファンタスティックのエピゴーネンであるイラスティガールは、ドアの隙間から手を差し込んで錠を開けたり、冷凍室に閉じ込められて伸び縮みできなくなったりと、2005年の映画『ファンタスティック・フォー [超能力ユニット]』と同じことを繰り返してみせる。
対する敵のスクリーンスレイヴァーが催眠技術で人々を操るのは、ファンタスティック・フォーの敵パペット・マスターを模したものだろうか。このスクリーンスレイヴァーというキャラクター、1960年代らしくテレビ受像機や各種モニターを介して人々を操るのだが、これはスマホのスクリーンを見て下を向いてばかりいる2010年代の大衆への痛烈な皮肉であろう。パソコンの画面で勝手に立ち上がる「スクリーンセイバー」と、奴隷商人を意味する「スレイヴァー(slaver)」を掛け合わせたネーミングも秀逸だ。
しかも、前作ではインクレディブル一家とフロゾンくらいしか登場しなかったスーパーヒーローが、今回は新世代のメンバーを加えてわんさか登場し、敵味方に分かれて大暴れ。
敵の陰謀も、個人的な満足を得ようとした前作のシンドロームの悪事よりも社会的に影響の大きい企みとなり、はるかにスケールアップした。
とはいえ、あの手この手でスーパーヒーロー映画が繰り出される昨今、スーパーヒーローの増員や多少の陰謀では差別化は図れない。
前作は、スーパーヒーローが非合法化され、その上スーパーヒーローが次々抹殺されるというマンガ『ウォッチメン』をその映画化の前に先取りしたが、本家『ウォッチメン』の映画が2009年に公開され、さらに公的機関の管理下に置かれそうになったスーパーヒーローたちが敵味方に分かれて戦う『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年)まで公開された後となっては、本作の今さら感は拭えない。
だが、本作の真価は、1960年代風のテイストやスーパーヒーローの活躍ではない。
■「他に例がないもの」
長年、ピクサーへ来るようにジョン・ラセターから誘われていたブラッド・バードが、ようやく入社を決めたときにラセターから出された要求は一つだけ。「ずっと作りたかった映画を作ること」だった。
10年以上にわたり、スーパーヒーローの家族に関する作品を作りたいと思っていたブラッド・バードは、さっそく『Mr.インクレディブル』に取り組んだ。その背景には、『ザ・シンプソンズ』等の制作に追われた90年代、三人の子宝に恵まれながらブラッド・バード自身が仕事と家庭のバランスに悩んだ経験があったという。
『トゥモローランド』が完成し、本作の脚本執筆に取りかかっていた2015年当時のインタビューで、ブラッド・バード監督はスーパーヒーロー物の興隆が長続きするとは思えないとして、時代を超えたものを作る重要性を強調した。
「スーパーヒーローの部分には興味がないのです。より興味を抱くのは、家族のダイナミックな関係や、スーパーヒーロー的なものがそこにどう関わるかということです。この方向性はとても興味深いと思うし、他に例がないものです。」
![ファンタスティック・フォー:銀河の危機 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81gKAqJbC3L._SL160_.jpg)
ファンタスティック・フォーの特徴は、アメコミ史上はじめてのヒーローチームということだけでなく、同時に家族でもあることだ。Mr.ファンタスティックとインヴィジブル・ガールは夫婦であり、ヒューマン・トーチはインヴィジブル・ガールの弟だ。他のスーパーヒーローも結婚したり親族関係が語られることがあるけれど、もっとも古く、たった四人のヒーローチームのうちの三人が家族であるという点で、ファンタスティック・フォーの特異な地位は揺るがない。
ブラッド・バード監督がファンタスティック・フォーをモデルにインクレディブル・ファミリーを創造したのは、個々の特殊能力を真似したかったわけではなく、家族でありながらスーパーヒーローチームというファンタスティック・フォーが提示したモチーフを掘り下げたかったからなのだろう。
バード監督は『Mr.インクレディブル』において、会社をクビになった上にそれを家族に打ち明けられず、何とか稼ごうとしてあがく父親という、およそスーパーヒーローらしからぬ切ない中年男を描き出した。この作品の結論は、家庭のことは妻に任せきり、その代わり稼ぐことについては夫だけが悩むという"役割分担"はもうやめて、みんなで悩みと苦労を分かち合おうという新たな家族像を提示することだった。
そして本作――。
Mr.インクレディブルことボブと、イラスティガールことヘレンが、働き手と家事の役割を交替するアイデアは、前作公開時からバード監督の中にあったという。しかし、完璧なストーリーを思いつくのに何年も要したのだった。
このストーリーが実に面白く、「他に例がないもの」になっている。スーパーヒーローのはずのMr.インクレディブルが家事に専念し、悪との戦いが繰り広げられるのをテレビで見ているだけだなんて、そんなスーパーヒーロー映画が他にあろうか。
スーパーヒーロー映画として見た場合、本作は完全にイラスティガールが主人公になっている。これがまた本作を際立たせる点だ。
2010年代、マーベル・シネマティック・ユニバースの名の下にスーパーヒーロー映画が量産されたにもかかわらず、『キャプテン・マーベル』が公開された2019年まで女性が主人公の映画はなかった。ライバルといえるDCエクステンデッド・ユニバースに目を向けても、女性の主演映画は『ワンダーウーマン』(2017年)とその続編(2019年)しかない。スーパーヒーロー映画に欠かせない天才科学者も、2018年に『ブラックパンサー』が公開されるまで男性に占められていた。
スーパーマンが受ければ『スーパーガール』(1984年)、英雄コナンが受ければ『レッドソニア』(1985年)、バットマンが受ければ『キャットウーマン』(2004年)、デアデビルはそれほど受けなかったが『エレクトラ』(2005年)等、男性ヒーローの人気にあやかる形で女性が主人公のアメコミ(スピンオフ)映画が作られたこともあったけれど、興行的にも批評的にも成功した女性スーパーヒーロー映画は『ワンダーウーマン』が初めてだろう。そんな状況でブラッド・バード監督は、『ワンダーウーマン』公開のはるか前から女性を主人公に据えたスーパーヒーロー映画を作ろうとしていたのだ。
しかも『ワンダーウーマン』でさえ、女性が男性と並んで戦う話であり、男性が家庭を守る映画ではなかった。現実の世界では、妻が稼ぐ一方、夫が家事に専念する家庭だって少なくないと思うが、ことスーパーヒーロー映画では前代未聞の設定だ。
たしかに、本作は時代に縛られない、時代を超えた映画といえよう。

ただ、これは米国においてのこと。日本ではいささか事情が異なる。
なにしろ、日本にはセーラームーンやプリキュア等の女性スーパーヒーローがたくさんいるし、彼女たちの主演映画も山のように作られている。日本の観客にとっては、イラスティガールが前面に出て大活躍しても、さほど新鮮ではあるまい。
夫と妻が役割を交替するのも、日米では受け止め方が異なるだろう。
多くの国では、家の外に出る稼ぎ手が経済力を持っている。だから夫だけが稼ぎ手であれば、世帯収入すべてが夫の手中にあることになる。ところが日本では、夫が稼いだ金は妻の管理下に置かれ、夫は妻から小遣いをもらうケースが少なくない。この場合、夫が自由にできるのはわずかな小遣いに限られ、稼ぎ手ではない妻のほうが経済力を持つことになる。深尾葉子氏は、このような夫婦の関係を、水生昆虫タガメがくちばしをカエルに挿して肉を吸い取る様になぞらえ、「タガメ女」と「カエル男」と名付けている。カエルがあちこちで獲物を捕らえ、自分の養分にしようとしても、すべてはタガメに吸い取られてしまうのだ。
家事をボブに任せたイラスティガールことヘレンは、社会に活躍の場を得て生き生きして見える。だが、カエルに取りついて養分を吸うタガメの場合、わざわざカエルの立場になって喜ぶかは疑問である。
もちろん、日本にだって「タガメ女」「カエル男」でない男女はたくさんいよう。女性みずから稼ごうとすると、有形無形の障害が立ちはだかるのが問題であることは云うまでもない。
ともあれ本作は、夫婦や親子のあり方を問うて家族に変化を促す物語であり、スーパーヒーロー映画にありがちな都合のいいアジェンダ設定――宇宙からの侵略者や悪の秘密結社との闘いにかまけて、目の前の家族との良好な関係構築というもっと難しいことを後回しにする――を打ち破る、特筆すべき作品といえよう。
さらに云えば、本作が提示するのは単なる男女の役割交替ではなく、圧倒的に女性中心に回っている真の世界像だ。
本作の悪役イヴリンは、幾重もの意味で新しいキャラクターだ。007シリーズには登場したこともない女性の黒幕であること、『ブラックパンサー』のシュリ王女に続く女性の天才科学者であること。そして、映画に出てくる女性の黒幕といえばせいぜい魔女とか欲望の塊のおばさんとか、あまり知的な人物ではないことが多いのに、本作のイヴリンは天才的頭脳を駆使して、世界の人々のメンタリティを変えようとする。
イヴリンには、大金持ちだがお人好しの兄ウィンストンがいるけれど(ウィンストンのほうが黒幕だと考えた観客もいることだろう)、初期段階の構想ではネルソンという悪い兄がいて、兄のほうが真の黒幕とされていた。そしてイヴリンは電気を操るシェレクトリック(Shelectric=彼女(she)+電気(electric))となってインクレディブル一家を襲うはずだった。
しかし、女性――それも超能力を持ち出したりせず、頭脳を駆使して悪事を働く女性――の黒幕が好ましいという作り手の判断から、現在のイヴリンが創造されたという。
おかげで、彼女の兄はただの善良な脇役となり、電気を操るスーパーヒーローとして別途ヘレクトリクス(He-Lectrix=彼(he)+電気(electric))が誕生した。

事実、Mr.インクレディブルが大暴れすると訴訟沙汰になったのに、イラスティガールの活躍には誰もが拍手喝采する。そしてテレビに出演したイラスティガールは、「ヒーローを男に任せてはおけません」と演説まではじめてしまう。
Mr.インクレディブルことボブはといえば、これまでヘレンが完璧にこなしていた家事に挑戦して、まったく手も足も出ないことが判明する。
家事労働者としても、家の外での稼ぎ手としても、女性のほうが男性に勝ることを本作は強調する。
今後の政策のキーパーソンとなるヘンリエッタ・セリック大使も女性、スーパーヒーローのスーツを作る凄腕デザイナーのエドナ・モード(007シリーズのQに相当する)も女性、新世代スーパーヒーローの中で唯一個性的に振る舞うのももちろん女性のヴォイドだけ。一方で、社会の底辺でうごめく性根が腐ったアンダーマイナーは男性である。
こうしてイラスティガール対イヴリンの、女性対女性の戦いを中心に据えた本作は、男性の出る幕がほとんどなく、それどころか男性はトラブルメーカーにしかならないことを示しながら展開する。
「他に例がないもの」を作ろうとするブラッド・バード監督の意気や良し。
ただ、ここまでくるとミサンドリー(男性嫌悪)のように感じなくもない。
劇中では、突然動き出したインクレディビールに驚いた男性が女性の陰に隠れたり、調理器を前にした男性が女性から「あなたにもできる」と諭されるテレビコマーシャルが流れたりもする。
男性はそこまで役に立たない生き物でもないと思うが、家父長制を肯定するような傾向が見られるピクサーにおいて(一例として、こちらの記事の2016年5月16日のコメントを参照されたい)、本作はとても挑戦的で、「時代を超えたもの」と云えるだろう。
こうして、前作時点で構想していたことを見事作品に結実させたブラッド・バード監督だが、2018年に公開されるはずだった『トイ・ストーリー4』の制作が遅れ、代わりに2019年に公開予定だった本作が2018年に前倒しされることになったため、本作に盛り込むのをあきらめたアイデアがたくさんあるという。たとえば、本作の敵スクリーンスレイヴァーは、AI絡みの複雑なプロットをあきらめて急遽こしらえたキャラクターだそうだ。
是非ともシリーズ第三弾を作って、また我々を楽しませて欲しいものだ。
[*] 『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』の興行成績は、本記事公開後に中国のものが加わり、『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』を上回った。
![インクレディブル・ファミリー MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71c-Tj4B74L._SL160_.jpg)
監督・脚本/ブラッド・バード
制作総指揮/ジョン・ラセター
出演/クレイグ・T・ネルソン ホリー・ハンター サラ・ヴォーウェル ハック・ミルナー サミュエル・L・ジャクソン ソフィア・ブッシュ イーライ・フチーレ ジョン・ラッツェンバーガー ジョナサン・バンクス イザベラ・ロッセリーニ ブラッド・バード マイケル・バード
日本語吹替版の出演/黒木瞳 三浦友和 綾瀬はるか 山崎智史 斎藤志郎 木下浩之 加藤有生子
日本公開/2018年8月1日
ジャンル/[アクション] [スーパーヒーロー] [ファミリー]

tag : ブラッド・バードジョン・ラセタークレイグ・T・ネルソンホリー・ハンターサラ・ヴォーウェルハック・ミルナーサミュエル・L・ジャクソン黒木瞳三浦友和綾瀬はるか