『僕のワンダフル・ライフ』 生きる目的

『僕のワンダフル・ライフ』には感激した。
犬を題材にした映画は多い。ジャンルも犬の扱いもそれぞれだから一概には云えないが、大半の映画は犬と関わる人間のドラマだ。あるいは人間を犬に擬して、人間で描きたいことを犬に演じさせたファンタジーだ。観客が人間なのだから、犬を出しても人間ドラマにするのは間違っていない。それらの中には素晴らしい作品もたくさんある。
だが、判ってないな~と思うことも少なくない。犬の映画に来る観客には、犬が好きな人が多いだろう。犬好きにとって人間は脇役なのだ。犬が人間のそばにいるところを見たいのではなく、ましてや人間のように思考して人間のように振る舞う犬が見たいのでもない。犬らしい、犬そのものをいっぱい見たいのだ。
犬好きが重視するその最大のポイントを、しっかり押さえてくれるのがラッセ・ハルストレム監督だ。前作『マダム・マロリーと魔法のスパイス』のように異文化、異国の人々に丁寧に配慮した映画を作るハルストレム監督は、相手が人間でなくてもその存在を最大限に尊重する。同監督の『HACHI 約束の犬』は、犬好きを感服させるとともに、大泣きさせる映画だった。そして本作『僕のワンダフル・ライフ』は、『HACHI 約束の犬』以上に犬目線で、犬主体の犬ドラマだった。素晴らしい!!
本作はベイリー、バディ、ティノ、エリーといった犬たちが、人間と交流しながら生きていく物語だ。彼らにとって人間が大切な存在であるときもあれば、そうでもないときもある。本作のベイリー、バディ、ティノ、エリーは同じ犬の生まれ変わりという設定なので、彼らの人間への接し方が変わるわけではない。犬はいつでも愛情たっぷりなのに、人間のほうがそれに応えられないことがある。
本作は、そんな人間との暮らしを、ベイリー(あるいはバディ、ティノ、エリー)のモノローグで楽しく楽しく綴っていく。モノローグの連続がなぜ楽しいかといえば、犬は楽しい生き物だからだ。犬は全力で遊び、全力で甘え、全力で舐める。犬目線であれば、何もかも楽しい。本作はその様子をあますところなく描き出す。

『僕のワンダフル・ライフ』が素晴らしいのは、犬は本当にこういうことをするな、たしかにこう思っているんだろうな、という、その迫真の度合いが半端ではないからだ。そして、好きなら顔を舐めればいいのに、どうしてこの男女は舐め合わないんだろう、といった人間観察が、ユーモアたっぷりで鋭いからだ。一緒にいれば楽しいのに、一緒に遊べば楽しいのに、なぜ人間にはそれができないのだろう。
原始、人間はオオカミに餌をやり、一緒に狩りをするようになった。オオカミは狩りの役に立ったから、人間は彼らとともに過ごすことが多くなった。飼い慣らされたオオカミが、やがて犬になった。そんな通説に反論するのが、進化人類学の研究者ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズ夫妻だ。夫妻は、犬の助けがなくても人間は他の大型肉食動物より狩りに秀でていたこと、人間は狩りで競合する肉食動物を生かしておかず、オオカミも絶滅に追い込んでいることを挙げ、人間の側にオオカミと共存する必然性はなかったと説明する。
人間が彼らを選んだわけではないのだ。彼らが人間を選んだのだ。食料と安全な居場所を提供してくれる存在として。代わりに彼らが人間に与えたのが、愛情だ。楽しい時間だ。モフモフした彼らがそばにいるだけで、人間は癒される。
犬の一生は短い。個体差はあるものの、せいぜい14~15年くらいしか生きていない。対する人間は何十年も生きるから、たいていの場合、犬は死ぬまで人間に面倒を見させることができる。ここは犬の身勝手なところだ。彼らは残された人間がどんなに悲しむかも知らずに、とっとと逝ってしまうのだ。犬からたっぷりと愛情をもらっていた人間にしてみれば、急にその供給が途絶えるのだからたまったものではない。まれに人間が先に逝くと、犬は大パニックに襲われるという。それほど犬と人間との絆は強い。

短いあいだしか生きられなかった犬だけど、どこかで生まれ変わって平和に暮らしているんじゃないだろうか。今、目の前にいる犬は、一緒に暮らしたあの犬の生まれ変わりじゃないだろうか。犬を亡くした人ならすがりつきたくなるようなそんな思いを、形にしたのがこの物語だ。
生まれ変わりなんて本当にあるのか?
そんなことはどうでもいいのだ。残された人間には物語が必要だ。やがて別の犬と暮らしたとしても、それは前の犬に対して申し訳ないことじゃない、悪いことをしてるんじゃない、そう肯定してくれる物語が必要なのだ。
犬と引き裂かれたままでは、人間は死んだも同然だから。
本作の原題は『A Dog's Purpose(犬の目的)』。題名が示すとおり、主人公の犬が生まれ変わりを繰り返しながら生きる目的を探求する、哲学的な作品だ。
生まれ変わりを通して、主人公は何度も一生を送りなおす。あるときは他の犬に恋をして、暖かな家庭を持つのが目的だと思う。またあるときは警察犬になり、任務を全うした喜びを人間と分かち合いたいと思う。
他方、人間は過去の出来事に囚われて苦しんだり、未来に起りそうなことに喜んだり、見込みが潰えて絶望したりと、過去や未来のことに気持ちが左右されてばかりいる。一緒にいれば楽しいのに、独りで過ごしていたり、わざわざいがみ合ったりする。
様々な境遇を経て、ベイリーがたどりつく結論はシンプルだ。
「ただ今を生きる。今を一緒に生きる。それが犬の目的。」
(Just be here now. Be - here - now. That's it. That's a dog's purpose.)
たしかにそうだ。
人間も犬とおんなじだ。地球上の生きとし生けるものに違いがあろうはずがない。これは人間にとっても真理であろう。

監督/ラッセ・ハルストレム
出演/ブリット・ロバートソン K・J・アパ ジョン・オーティス ペギー・リプトン デニス・クエイド ジョシュ・ギャッド
日本公開/2017年9月29日
ジャンル/[ドラマ] [犬] [ファミリー] [ファンタジー]

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『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』には脱帽だ
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『猿の惑星』シリーズのリブート第一作『猿の惑星:創世記』(2011年)に、私はいささかの不満があった。旧シリーズに濃厚だった人種差別や人権問題を重視する姿勢が、リブート版からはあまり感じられなかったのだ(詳しくは「『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』に欠けているもの」を参照されたい)。
代わって『創世記』が強調したのは、自然破壊の問題であり、科学技術に依存することへの批判だった。猿たちは虐げられた人種や民族のメタファーというよりも、人間のエゴイズム――自然破壊の犠牲者として描かれた。
それはそれで重要な観点だが、何も『猿の惑星』シリーズでやらなくてもいいのではないか。人種差別や人権問題への目配りができなくては、旧シリーズの精神に反するのではないか。そう考えて、『創世記』にはあまり満足できなかった。
しかし、『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』はまったく違う。まるで旧シリーズと同じ1960~1970年代の映画のような風刺と反骨精神に満ちており、差別や人権の問題にどっぷりと入り込んだ作品だ。
リブート第一作『創世記』では、猿たちが自分の置かれた境遇を自覚するまでが描かれた。続く第二作『新世紀(ライジング)』での、猿の国の勃興と人間との対立を経て、本作では自由を求める猿たちと守旧派たる人間たちとの壮絶な戦いに突入する。
とはいえ、「War for the Planet of the Apes(猿の惑星のための戦い)」という題名にもかかわらず、本作はアクション満載の戦闘シーンでスカッとさせる映画ではない。猿たちは人間たちに捕らえられ、鎖で繋がれ、労働を強制され、ことあるごとに鞭で打たれる。それは、許しがたい奴隷制度の復活だ。戦いとは、奴隷の身分におとしめられた猿たちが、知恵をめぐらせ、人間に抵抗することを指している。そしてまた、戦争の愚かさ、憎しみ合うことの虚しさに気づいていく"内なる戦い"でもある。
驚くべきは人間側の設定だ。それはマカロー大佐に率いられた、白人男性を中心とする冷酷無比な軍隊だ。
白人男性を全体主義的圧制者として描くのは珍しくない。典型的なのがスター・ウォーズ・シリーズだ。このシリーズでは、白人の男性で構成された帝国軍に、女性リーダーの下に集まった種々雑多な種族からなる反乱同盟軍が挑んでいた。
ただ、お揃いの黒い軍服に身を包んだ帝国軍は、明らかにナチス・ドイツをモチーフにしていた。第二次世界大戦後に全体主義下の軍隊を描く映画が、ナチス・ドイツに材をとるのはとうぜんであったろう。
『聖戦記』の特徴は、ナチス・ドイツとの戦いに勝利した、自由と平等の国であるはずのアメリカを、全体主義的な圧制者として据えたことだ。大佐の軍隊は星条旗を掲げ、米国の国歌を奏でている。映画の作り手は、米国とて差別と全体主義から自由ではないと訴えているのだ。
通常、米国の映画ではこういう風に星条旗を扱わない。過去の記事で述べたように、映画に出てくる星条旗は自由と平等の象徴であり、多くの場合、勇気をもって気高い行為に及ぶ者が見上げる旗として描かれる。
米国に限るまい。自国の旗を、悪の軍団の象徴として掲げる映画には、なかなかお目にかからない。
大佐の軍隊の目的は、病気の人間を根絶やしにして、健康な人間だけで生き延びようというものだ。病気の人間だけでなく、それを邪魔立てする者も生かしてはおかない。優生思想、選民思想を歪めた考え方だが、人々の多様性を許さず、一定の型にはめようとする(はまらない人間は攻撃する、排除する)動きは、残念ながら現実にまま見られる。
米国もまた、その病魔に侵されている。映画の作り手たちの危機感は、並々ならぬものがあるのだろう。
しかも、大佐の軍隊のマークはΑΩ(アルファオメガ)だ!兵士たちはΑΩの入れ墨を彫り、星条旗にもΑΩをスプレーで書き、隊列を組んで「我々は最初であり、最後である!」と唱和している。私はその描写に溢れ出る作り手たちのアナーキーさにぶっ飛んだ。
ΑΩ(アルファオメガ)は新約聖書に見られる言葉だ。Α(アルファ)はギリシャ文字の最初の文字、Ω(オメガ)は最後の文字であり、「ΑΩ」は「最初から最後まで」、「すべて」を意味する。新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、「私はアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである。」という主の言葉が書かれている。すなわち、ΑΩはキリスト教に深く帰依する者が崇める言葉であり、「私は――」とみずからを主語にして口にするとき、その者は神なのだ。それが狂信的な一団のスローガンとなっている。
多くの米国人が大切にしているもの――国家と宗教――を、これほど皮肉たっぷりに歪めて描く映画は滅多にあるまい。
ΑΩは、旧シリーズ第二作『続・猿の惑星』に登場するコバルト爆弾に書かれていた文字でもある。この映画では、コバルト爆弾が世界の終末(最後の審判の日)をもたらす装置とされ、狂信的なミュータントたちの信仰の対象だった。
本作ではさらに進んで、信仰の対象に留まらず、ΑΩが他者を抹殺する軍隊の思想的原動力になっている。
そんな、国家主義と信教の強制を唱える軍団に、人権を奪われ、奴隷扱いされてきた種々雑多な種族(ここではチンパンジーやゴリラやオランウータン)が団結して戦いを挑むのが本作だ。掲げられていた星条旗は、火に包まれて地に落ちる。
国家への不信感と、伝統的価値観への反逆に彩られた本作は、まさに1960~1970年代の公民権運動や反戦運動の記憶を甦らせるものである。


奴隷として虐げられる人々。偉大なリーダーが民を引き連れて圧制から逃れるが、豊かな大地を目の前にしてリーダーは死んでしまう。これはモーセがユダヤ人を引き連れてカナンの地を目指した物語そのままだ。
とすると、シーザー率いる猿たちは、旧約聖書を信奉するユダヤ人のメタファーでもあろう。一方、新約聖書の言葉を過大に解釈して自由と平等を妨げているアルファオメガ軍団は、キリスト教系の過激派だ。米映画界にユダヤ人・民主党支持者が多いことを思えば、本作は、キリスト教右派と彼らに支援されている共和党勢力と戦いながら、民主党の目指す社会を打ち立てようとする話にも見えてくる――と考えるのは、うがち過ぎだろうか。
同時に、本作はマカロー大佐が抱える苦悩と壮絶な決意をも描き、悪魔のような人物であっても勧善懲悪で切り捨てることはできないのだと世の中の複雑さを訴える。
こんな映画を観ると、米映画界の、ひいては米国社会の度量と心意気に圧倒される。
その凄さは彼我を置き換えてみればよく判る。この映画がやっていることを日本に置き換えれば、日の丸を掲げて「君が代」斉唱を強制し、靖国神社で軍人のコスプレをするような悪の軍団を相手に、アイヌや在日コリアンを彷彿とさせる人々が団結して戦いを挑む話になろう。あるいは、技能実習制度の名の下で人身取引や強制労働にさらされた外国人が蜂起するようなものか。そんな映画を170億円近い大金を投じて作るわけだ。日本ではスポンサーがつきそうもないし、たとえ制作できたとしても、物議を醸して上映に苦労するのではないだろうか。
国旗や国歌には人それぞれの思いがあるだろう(あるいは何も思うところはないだろう)。それをとやかく云うつもりはない。私が『猿の惑星:聖戦記』を観て感心するのは、こんな強烈な映画でも作れること、こんな映画でも社会に受け入れられることだ。
人種差別や人権問題に目配りした旧シリーズの精神はどうしたんだ、と考えていた私の不満は、完全に払拭された。

旧シリーズの登場人物と共通するコーネリアスやノバ等の名前や、×印の磔台といった意匠を散りばめたり、オランウータンを指導的地位に就けたりして、旧シリーズとの一体感を醸し出そうとしている本作は、他にも多くの映画の記憶に彩られている。
もっとも目につくのは、1979年の『地獄の黙示録』の影響だろう。捜索の旅の末にたどり着いた辺境の地に、禿げ頭の「大佐」が支配する軍隊が独自の世界を作っている。それは『地獄の黙示録』にそっくりだ。アルファオメガ軍団のアジトには、『Apocalypse Now(地獄の黙示録)』をもじった「Ape-ocalypse Now(地獄のサル黙示録?)」なんて落書きまで書かれている。
そうかと思うと、終盤では映像の色合いや編集が1950年代風になり、モーセの生涯を描いた『十戒』(1956年)の影響を隠そうともしない。実に面白いディレクションだ。
本作はまた、リブート第一作が言及した自然と人間との関わりについても忘れてはいない。
ただしそれは、科学技術を進歩させることを批判的に捉えたり、人間活動の犠牲として自然を描いたりするものではない。本作が描くのは、人間のやることなどしょせんちっぽけなものでしかないということだ。本作の終盤で、人間たちは大自然の力――大雪崩――の前にひとたまりもなく壊滅してしまうのだ。
これこそ、自然に対峙したときに描かれるべきことだろう。結果的に猿たちを助けた大雪崩は、「出エジプト記」における海割れの奇蹟(モーセたちを追ってきた軍が海に呑まれて全滅する)に相当するものだが、聖書の物語と大自然の壮大さとを同時に表現する展開は見事である。
そして本作は、素晴らしい世界の建設を次の世代に託して幕を閉じる。
それがはかない望みかもしれないことを、猿と人間の立場が逆転しただけで結局は階級社会になってしまった旧シリーズを見てきた私たちは知っているのだが、自由と平等を求める気持ちはいつだって消せないのだ。
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監督・脚本/マット・リーヴス 脚本/マーク・ボンバック
出演/アンディ・サーキス ウディ・ハレルソン スティーヴ・ザーン アミア・ミラー カリン・コノヴァル ジュディ・グリア テリー・ノタリー ガブリエル・チャバリア タイ・オルソン
日本公開/2017年10月13日
ジャンル/[SF] [アクション] [ドラマ]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : マット・リーヴスアンディ・サーキスウディ・ハレルソンスティーヴ・ザーンアミア・ミラーカリン・コノヴァルジュディ・グリアテリー・ノタリーガブリエル・チャバリアタイ・オルソン
『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』のヒミツ

『ウォルト・ディズニーの約束』の公開後、またも実在の人物を取り上げた映画の監督をオファーされたジョン・リー・ハンコックは、二度それを断っている。だが、脚本を読んで彼は考えを変えた。そして作り上げたのが、『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』だ。
映画が描くのは世界的なハンバーガーチェーンのマクドナルド。誰もが知るこの企業の名前が「マクドナルド」なのは、ハンバーガーレストランを考案し、営業しはじめたのがマクドナルド兄弟だからだ。ではマクドナルド兄弟とその一族は、世界的なハンバーガーチェーンの経営で成功し、富と栄光を得られたのか。
答えは否だ。マクドナルド社の公式サイトに書かれた会社の歴史は、レイ・クロックなる人物の成功物語だ。そこにはわずかに、地方都市でマクドナルドという兄弟が効率的なレストラン運営をしていたこと、彼らが代理人を探していたことが記されている。あとはマクドナルドコーポレーションを創業したレイ・クロックが、いかに素晴らしい仕事をしたかという話ばかりだ。
しかし、マクドナルド兄弟が本当に代理人を探してまでハンバーガーレストランをチェーン店化したいと考えていたなら、彼らはその後も創業家としてマクドナルド社にかかわり続けたに違いない。マクドナルド社とは無関係な「ザ・ビッグM」というハンバーガーレストランを細々と営むことにはならなかったはずだ。
『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』は、画期的なハンバーガーレストランを考案し、仕事に誇りをもっていたマクドナルド兄弟が、他人にアイデアを利用され、不本意なものに作り変えられ、あろうことかマクドナルドのビジネスから追い出される過程を描いている。
マクドナルド兄弟が考案したのは、早くて安くて手軽に食べられるレストランの運営方法だった。後にファーストフードレストランと呼ばれることになるそれは、味と品質とサービスにこだわるマクドナルド兄弟ならではのものだった。
日本マクドナルドの創業者、藤田田氏の回顧録だったと思うが、はじめてマクドナルドの店舗を見たとき、厨房の床が濡れていないことにとても驚いたという話を読んだことがある。日本では、料理店の厨房といえば水やら汁やらが飛び散ってビショビショなのが当たり前。料理人は長靴を履いて仕事をする。ところがマクドナルドでは床が乾いており、店員が長靴を履くこともない。それを目にして、これまでにないレストランだと実感したそうだ。
さて、1954年、マクドナルド兄弟が数店舗のレストランで堅実な経営をしていたところに、セールスマンのレイ・クロックが現れる。様々な商材を扱ってきたこの男が、ミルクシェイク用ミキサーの販売で苦戦しているときに、ミキサーを八台も買いたいと連絡してきたのがマクドナルド兄弟だったのだ。
ここから映画は、マクドナルド兄弟と契約して巨大なレストランチェーンを立ち上げていくレイ・クロックと、地方都市にとどまってマクドナルドの名に恥じないレストランを営もうとするマクドナルド兄弟との攻防戦になっていく。マクドナルド兄弟はレイ・クロックに様々な注文をつけて、マクドナルドというレストランはどうあるべきかを説き続ける。チェーンを拡大して利益を上げたいレイ・クロックは、兄弟の細かい注文がわずらわしい。いちいち兄弟の承認を得ていたら、彼の思い描く偉大なレストランチェーンは実現できないのだ。
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『ウォルト・ディズニーの約束』ではあまり描かれなかった契約の問題が、本作では焦点となる。契約の文言がレイ・クロックの暴走を抑え、あるいはマクドナルド兄弟の足をすくう。
『ウォルト・ディズニーの約束』のような甘いラストは待っていない。最終的にマクドナルド兄弟がマクドナルドから追い出され、レイ・クロックが富と栄光を独り占めにすることは、多くの人の知るところなのだから。
ここには、自分が苦労して生み出し、大切にしていたものを、他人に好きにされてしまう不条理がある。自分が考えた「マクドナルド」(あるいは「メアリー・ポピンズ」)が変質し、違うものになっていくのに、世間の人々はそれを「マクドナルド」(あるいは「メアリー・ポピンズ」)として受け入れ、喜んでいる残酷な事実がある。
そこには同時に、他人が考案したものを取り上げ、勝手にいじってでも成功しようとする人間の貪欲さがある。
■帝国のヒミツ
ハンバーガー帝国を築く礎が、不動産にあるのも面白い。レイ・クロックは、チェーン店を支配するために土地を押さえた。
それまで、フランチャイジーが店を出すときは、土地を借りてその上に店舗を構えていた。土地を買うのに比べればそのほうが手元の資金が少なくて済むからだ。
ところがレイ・クロックは、不動産会社を立ち上げて店舗用の土地を購入し、それをフランチャイジーに貸し出した。こうすることでクロックは、マクドナルドのフランチャイザーとしてロイヤルティーを得るだけでなく、マクドナルド社とは別の大地主として地代を稼ぎ、そのうえ発言力を増すことに成功した。
外食産業で伸びていると思わせながら、実は不動産業で権力を握るレイ・クロックのやり口に、私は中内功氏が率いたダイエーグループを思い出した。
かつて大手スーパーとしてその名を轟かせたダイエーは、小売業でありながら他業種企業のM&Aを繰り返し、「戦略なき拡大」と揶揄された。そのM&Aの目的が、実は相手企業そのものよりもその企業が持つ不動産であると喝破して、ダイエーの本質が不動産業であると論じたのが山根節氏[*1]だ。土地所有にこだわることなく小売業として急成長したイトーヨーカ堂(現セブン&アイ)とは対照的に、ダイエーは土地を所有し、それを担保に借入れをした。ダイエーの店舗ができると生活のインフラが整ったことになり、周辺を含めて地価が上がる。地価の上昇分が担保余力を生み、さらに店舗投資をするときの資金を生み出す。そしてまた、新しく投資した土地の地価が上がっていく。この好循環により、"不動産業"のダイエーは成長した。
不動産を背景にした権力構造について、山根節氏は次のように説明している。
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不動産による含み益はフローの利益と違って、経営効率の追求の結果としてもたらされるものではない。株主や従業員などに分配される実現利益でもない。資金に困ったときなどに企業が売却でもしない限り、表面に現れない。しかし不動産の実質的所有者(つまりオーナー)の権力の支えになる。何故ならばたとえフローの利益の上で業績が悪くても、十分な含み資産を持っていれば、銀行などがオーナーの経営権に介入することはできない。経営能力に難があっても、オーナーの地位は安泰である。したがって拡大の証しとして、含み資産を築き上げることができれば、オーナーの存在を世の中にアピールすることができる。不動産の含み益は、まさに「所有権」を誇示する論拠となる。
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こうして建設された巨大な企業グループは、「ダイエー帝国」と呼ばれるまでになった。バブル崩壊後の地価の暴落により、この帝国は瓦解してしまったが、本作の副題に「ハンバーガー帝国のヒミツ」と名付けたのは、創業者(ファウンダー)の野望と権力志向を上手く表していると思う。
■成功のヒミツ
マクドナルド兄弟の目から見れば、とんでもないオオカミ野郎で許しがたいほど強欲なレイ・クロックだが、米国人が共感し、応援するのはマクドナルド兄弟ではなく、レイ・クロックのほうではあるまいか。
劇中のクロックがクラレンス・フロイド・ネルソン博士の『(The Power Of The Positive(積極性の力)』のレコードに耳を傾けて自分を鼓舞する姿に、共感・共鳴する人は少なくないはずだ。この架空の学者の架空のレコードは、あきらかに1952年にノーマン・ヴィンセント・ピール博士が発表した本『The Power of Positive Thinking(積極的考え方の力)』をモデルにしている。マーブル協同教会で60年以上にわたり牧師を務めたピールは、ポジティブシンキングを唱えて多くの人に影響を与えた。
また、朗読を吹き込んだレコードを販売して人々を啓発するネルソン博士のスタイルは、アール・ナイチンゲールが1956年に発表した『ザ・ストレンジスト・シークレット』にならっているともいわれる。
ピール牧師の人気は、米国におけるキリスト教の変容を表している。森本あんり氏によれば、変容の最たるものが成功に関する考え方であるという。
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アメリカでは、成功は神の祝福の徴(しるし)と考えられている。神が幸運を与えてくれなければ、どんなに努力しても、成功することはない。逆に、成功していれば、それは神が祝福してくれたことの証である。
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この論法でいけば、どの町にもマクドナルドの看板を立て、世界中にチェーンを拡大して大成功するのは、神に祝福されることなのだ。他方、素晴らしいレストランの運営方法を考案しておきながら、それを広めず、儲けようとしないのは、せっかく神が与えてくれたチャンスをふいにしている。
レイ・クロックがマクドナルドを世界に広めてくれたおかげで、世界中の人々が早くて手軽でおいしい食事にありつけるようになった。その結果、彼は富と栄光を手に入れた。
みんなを幸せにして、神に祝福されたのは、レイ・クロックか、マクドナルド兄弟か。
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オットー・メスマーの創造したフィリックス・ザ・キャットを真似して、ウォルト・ディズニーはジュリアス・ザ・キャットを作った。猫ばかりじゃまずいと、ディズニーはウサギのオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットを考案するが、その権利をユニバーサルに握られて悔しい思いをする。ウサギがダメならネズミだとばかり、ディズニーはオズワルドによく似たミッキーマウスをデビューさせて、対抗する。
幸いにもミッキーマウスは人気を得るが、ミッキーマウスの開発の中心であり、アニメーション作りでも中心人物だったアニメーターのアブ・アイワークスが、映画の成功にもかかわらず自分は称賛されないことに不満を抱いてディズニーの許から去ってしまう。
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P・L・トラヴァースがウォルト・ディズニーの改変に怒ったのは、レイ・クロックがマクドナルド兄弟の意向を無視してミルクの入っていないミルクシェイクもどきを売り出し、ディック・マクドナルドを激怒させたことを思わせる。[*2]
『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』のエンディングでは、クロックの妻が莫大な財産を寄付に注ぎ込んだことが紹介される。その慈善的精神は称賛されようが、同時に考慮しておくことがある。『熱狂する「神の国」アメリカ』の著者、松本佐保氏は次のように語る。
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聖書には多くの財産を持っていると天国の門を入れないとあり、その財産を捨てる「喜捨」(仏教やイスラム教とも共通)を奨励する教えがありますが、それは「喜んで捨てる」のであって、強制的にお金を徴収される税を忌み嫌うのです。
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病に倒れたマック・マクドナルドを見舞いに来たレイ・クロックが、病室の壁の十字架を目にして気圧される場面は、この映画のテーマが米国の変容した宗教と、ひいてはそれが引き起こす社会の歪みであることを示している。
成功が神の祝福の徴と考えられている米国で、大成功したレイ・クロックと、クロックに追い込まれて兄が病気になってしまったマクドナルド兄弟の、どちらが神に祝福されているかは明白だ。だが、本当にそう判断して良いのだろうか。ここまで人を追い詰めて、他人の持ち物をむしり取ることが、本当に神の意に適っているのだろうか。病室の十字架は、マクドナルド兄弟が敬虔なキリスト教徒であることを示すとともに、十字架を見て気圧されるレイ・クロックが敬虔さを忘れていたことを知らしめる。
ジョン・リー・ハンコック監督は、みずから脚本も手掛けた『しあわせの隠れ場所』でも、短いが重要な場面を挿入していた。
この映画は、米国南部の裕福な白人家庭がホームレスの黒人少年を引き取り、共に暮らしていく感動物語だ。教養があり、社会的にも経済的にも成功している白人一家は、ホームレスの少年よりも圧倒的に神に祝福されているはずだった。だが、はじめて少年と食卓を囲んだとき、白人一家がすぐに食事に手を付けようとするのに対し、黒人少年は手を組んで感謝の祈りを捧げはじめた。白人一家はあわててフォークを元の位置に戻すと、一緒に祈りを捧げるのだった。
成功者である自分たちは、神に祝福されているし、その行為はことごとく正しい。傲慢にもそう思い込んで、敬虔さを、真の信仰を置き去りにしてきたのではないか。そう気づかせる場面だった。
レイ・クロックは、こんな言葉を残している。
「勇気を持って、誰よりも先に、違ったことをしよう。チャレンジしない限り、決して成功は無い。あきらめず頑張り通せば、夢は必ず叶う。」
素晴らしい言葉だ。こんにちに至るまで、マクドナルドコーポレーションの創業者(ファウンダー)レイ・クロックを尊敬し、人生の手本にしてきた人は多いはずだ。
彼はこんな言葉も残している。
「もしも競争相手がおぼれていたら、そいつの喉にホースを突っ込んでやる。」
これが成功するということなのか。神に祝福された者のすることなのか。
映画のラスト、レイ・クロックは成功者としてスピーチするために、身支度を整え、去っていく。その後ろ姿が鏡に映っている。
だが、鏡の像はピントがボケて、誰の姿なのかはっきりしない。自身の成功を誇りながら他人を踏みにじっているその人物は、レイ・クロックなのかもしれないし、彼の後に続こうとする有象無象の野心家たちかもしれない。ひょっとすると、それは客席にいるあなたなのかもしれない。
[*1] 山根節・山田英夫・根来龍之 『「日経ビジネス」で学ぶ経営戦略の考え方』 日本経済新聞社、1993
[*2] 後年、シェイクはミルクを入れたものに戻されたという。

監督/ジョン・リー・ハンコック
出演/マイケル・キートン ニック・オファーマン ジョン・キャロル・リンチ リンダ・カーデリーニ パトリック・ウィルソン B・J・ノヴァク ローラ・ダーン
日本公開/2017年7月29日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]

tag : ジョン・リー・ハンコックマイケル・キートンニック・オファーマンジョン・キャロル・リンチリンダ・カーデリーニパトリック・ウィルソンB・J・ノヴァクローラ・ダーン
『ウォルト・ディズニーの約束』 原作者が出した驚きの条件
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そんな条件を出したのか! それはあんまりじゃないの!?
映画『メリー・ポピンズ』が大好きな私は驚いた。
■ウォルト・ディズニーを描いたはじめての映画
『ウォルト・ディズニーの約束』は、オーストラリア出身で英国を拠点に活動する児童文学作家P・L・トラヴァースと、アニメーション映画の巨人ウォルト・ディズニーの攻防を描いた作品だ。攻防とは穏やかではないが、これはまさに原作者と映画制作者の戦いといえる映画なのだ。
P・L・トラヴァースが書いた児童文学作品『メアリー・ポピンズ』を映画にしようと考えたウォルト・ディズニーは、トラヴァースに何度も映画化を申し入れた。だが、彼女はまったく相手にしてくれない。一徹なディズニーは20年以上も打診し続け、頑固なトラヴァースは徹底的に断り続けた。
しかし、何年も新作を発表できずにいたトラヴァースは、金銭的な必要に迫られて、とうとう映画化を認めてしまう。そこから名作映画『メリー・ポピンズ』が完成するまでを描いたのが『ウォルト・ディズニーの約束』だ。
ウォルト・ディズニー・カンパニーの映画が、しばしば原作から大きく乖離してしまうことはよく知られている。ディズニーにはディズニーのやり方があるということなのだろう。ディズニーが作りたい映画と原作とのあいだに齟齬があれば、原作のほうがディズニーに合わせるべきと考えるのが、ディズニーなのかもしれない。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの扱いはその最たるもので、悲恋物語『人魚姫』はハッピーエンドの映画『リトル・マーメイド』に変えられてしまうし、『アナと雪の女王』に至っては原作との共通点を見つけるほうが難しい。ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン原作の『美女と野獣』やE・R・バローズ原作の『ターザン』は、ステレオタイプの悪者が登場して、そいつをやっつける物語になってしまった。原作で描かれた主人公の苦悩や葛藤は影を潜め、あるいは変質してしまう。
アンデルセンにしろバローズにしろ、映画を観たら怒り出すに違いないが、幸いというべきか、これらの原作者たちはとっくの昔に亡くなっている。だから、映画の内容についてディズニーと対立することはなかった。
しかし、『メリー・ポピンズ』は違った。原作者がまだピンピンしており、自分の作品を改変するなど許さないと息巻いている。一方、ディズニーはいつもの調子で、歌と笑いが満載のハッピーな映画にする気でいっぱいだ。両者が衝突しないわけがなかった。
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・アニメーション映画の制作会社であるディズニーに対して、アニメーションはダメと云い渡す。
・数々の楽曲でアカデミー賞を受賞し、歌が自慢のディズニーに対して、ミュージカルはダメと云い渡す。
・脚本には原作者の承認を得なければならないと云い渡す。
映画『メリー・ポピンズ』を好きな私は、本作の展開に興味津々だった。映画が完成することは判っている。1964年に公開された『メリー・ポピンズ』は、たくさんの賞を受賞し、長きにわたって世界中の人に愛されてきた名作だ。劇中で歌われる「チム・チム・チェリー」や「2ペンスを鳩に」や「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」は、無意識に口ずさんでしまうほど素晴らしい曲だし、アニメーションと実写を組み合わせたシークエンスの楽しさは抜群だ。つまり、完成した映画は、トラヴァースの出した条件をことごとく反故にしたものになっているのだ。
『ウォルト・ディズニーの約束』は、ウォルト・ディズニーがあの手この手でP・L・トラヴァースに心を開かせ、譲歩を引き出し、誰もが知る名作映画の完成にこぎ着けるまでの長い道のりを描いている。あの名曲や名場面がどのようにして生まれたのか。どうやってトラヴァースに認めさせたのか。頑固なトラヴァースでさえ受け入れてしまうほど素晴らしい映画の制作秘話は、映画『メリー・ポピンズ』を好きな人はもちろん、そうでない人にも興味深いに違いない。
映画は二人の偉大な創作家のぶつかり合いを通して、創作とは何か、創作物の意義とは何かを問い、さらには生きていく上でフィクションの手助けを必要とする人間というものを掘り下げていく。
完成した映画に涙するトラヴァースの姿を目にして、観客も大きな感動に包まれるに違いない。
トラヴァース役のエマ・トンプソンと、ウォルト・ディズニー役のトム・ハンクスの名演技もあって、『ウォルト・ディズニーの約束』はとても素敵な映画に仕上がっている。
ところが、そんな調和のとれた結末とは裏腹に、P・L・トラヴァースが現実に申し入れた条件は厳しかった。
■描かれなかった後日談
米アカデミー賞の13部門にノミネートされ、うち5部門を獲得。主演のジュリー・アンドリュースはアカデミー賞だけでなくゴールデングローブ賞や英国アカデミー賞までも受賞。作詞作曲のシャーマン兄弟はアカデミー賞の作曲賞も歌曲賞もとった上に、グラミー賞まで受賞した。世界中で大ヒットし、1964年の公開以来、数十年のときを経ても愛され続ける『メリー・ポピンズ』。
そんな名作が放っておかれるわけがない。
『キャッツ』や『レ・ミゼラブル』、『オペラ座の怪人』等で知られるロンドンミュージカル界の大プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが、『メリー・ポピンズ』を舞台化しようとP・L・トラヴァースに接触したのは、映画公開から30年を経た1994年のことだった。すでにシャーマン兄弟による素晴らしいミュージカルナンバーがあるのだから、ロンドンやブロードウェイでも充分に通用すると考えたのだろう。
だが、トラヴァースは舞台化を拒否した。映画『メリー・ポピンズ』を引き合いに出し、もう二度と自著を原作として提供することはないと断ってきたのだ。長く粘り強い交渉の末、マッキントッシュはトラヴァースに舞台化を認めさせることに成功するが、そのときトラヴァースが出した条件は厳しいものだった。
・舞台化に際して米国人は参加させないこと
・特に映画版に関わった人間は――シャーマン兄弟が存命中にもかかわらず――参加させないこと

トラヴァースは、映画『メリー・ポピンズ』をこう評している。「あの手の映画としては魅力的で良い作品でしょう。でも、私の本とは似ても似つきませんね。」
完成した映画以上に、彼女は映画を作る過程が許せなかったのだろう。
アニメはダメと云ったのに結局アニメのキャラクターが続々登場し、ミュージカルはダメと云ったのにメリー・ポピンズもバートもミスター・バンクスさえも歌い出し、バート役にディック・ヴァン・ダイクは認めないと云ったのにディック・ヴァン・ダイクがキャスティングされ、脚本は原作者の承認を得ることと云ったのに、ウォルト・ディズニーは最終決定権は自分にあるといって彼女の意見を却下した(トラヴァースは、映画制作では脚本の承認権限よりも、編集権のほうが重要であることが判っていなかった)。
ウォルト・ディズニーは、必ず『メアリー・ポピンズ』を映画化するという娘との約束は果たしたかもしれないが、P・L・トラヴァースとの約束を守ったとはいえない。
彼女はこの仕打ちを忘れなかった。トラヴァースの原作小説には何冊もの続編があったから、ウォルト・ディズニーはそれらも映画化したいと懇願したが、彼女は金輪際映画化を認めなかった。
挙げ句の果てに、彼女がマッキントッシュに出した条件が「米国人は参加させないこと」だったのだ。ディズニーはダメとか、ハリウッドの映画人はダメとかではない。米国人はダメ。
30年以上前のロサンゼルスでの経験が、いかに嫌なものだったのかが察せられる。
『ウォルト・ディズニーの約束』は商業映画だから、観終わった観客をいい気分で送り出さねばならない。映画を観たトラヴァースがショックと怒りのあまり泣き出したことを、感動で泣いているかのように描くことも必要だったのだろう。
だが、現実はそんな風に調和的ではない。そこには、真に描かれるべきことがあるはずだ。
(つづく)
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監督/ジョン・リー・ハンコック
出演/エマ・トンプソン トム・ハンクス ポール・ジアマッティ ジェイソン・シュワルツマン ブラッドリー・ウィットフォード コリン・ファレル ルース・ウィルソン B・J・ノヴァク メラニー・パクソン アニー・ローズ・バックリー キャシー・ベイカー レイチェル・グリフィス
日本公開/2014年3月21日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]

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