『ダンケルク』
これは映画か。
あまりに激しい緊張を強いられた私は、気持ちが悪くなるほどだった。いや、気持ちが悪くなった。
そのとき、確かに私は戦場にいた。絶望的な浜辺にいた。水没する船倉にいた。墜落する飛行機にいた。銃弾が降り注ぐ中にいた。死体が転がるあいだを歩いた。
そして、わずかに美しいものを見た。海の冷たさにもかかわらず、暖かいものがながれていた。勇気が閃いていた。暗く、荒れ果てた世界に、わずかだけれど確かにあった。
これが映画か。
『ダンケルク』 [た行]
監督/クリストファー・ノーラン
出演/フィオン・ホワイトヘッド トム・ハーディ マーク・ライランス キリアン・マーフィ ケネス・ブラナー トム・グリン=カーニー ジャック・ロウデン ハリー・スタイルズ アナイリン・バーナード バリー・コーガン ジェームズ・ダーシー
日本公開/2017年9月9日
ジャンル/[サスペンス] [戦争] [ドラマ] [アクション]
あまりに激しい緊張を強いられた私は、気持ちが悪くなるほどだった。いや、気持ちが悪くなった。
そのとき、確かに私は戦場にいた。絶望的な浜辺にいた。水没する船倉にいた。墜落する飛行機にいた。銃弾が降り注ぐ中にいた。死体が転がるあいだを歩いた。
そして、わずかに美しいものを見た。海の冷たさにもかかわらず、暖かいものがながれていた。勇気が閃いていた。暗く、荒れ果てた世界に、わずかだけれど確かにあった。
これが映画か。
![ダンケルク ブルーレイ&DVDセット(3枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81SQxTgnkGL._SL160_.jpg)
監督/クリストファー・ノーラン
出演/フィオン・ホワイトヘッド トム・ハーディ マーク・ライランス キリアン・マーフィ ケネス・ブラナー トム・グリン=カーニー ジャック・ロウデン ハリー・スタイルズ アナイリン・バーナード バリー・コーガン ジェームズ・ダーシー
日本公開/2017年9月9日
ジャンル/[サスペンス] [戦争] [ドラマ] [アクション]

【theme : サスペンス・ミステリー】
【genre : 映画】
tag : クリストファー・ノーランフィオン・ホワイトヘッドトム・ハーディマーク・ライランスキリアン・マーフィケネス・ブラナートム・グリン=カーニージャック・ロウデンハリー・スタイルズアナイリン・バーナード
『新感染 ファイナル・エクスプレス』 生き残るのは誰だ?
![新感染 ファイナル・エクスプレス [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/919YWlWkUeL._SL160_.jpg)
いやもう、面白いったらない。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』は、パンデミックの恐怖とノンストップアクションが組み合わさった、見事としかいいようのない娯楽作だ。
あえてジャンル分けをするならば、本作はゾンビ映画になるのだが、あまりにも面白い要素がいっぱいで、もはやジャンルなんてどうでもいいほどだ。
疾走する高速列車を舞台にした本作は、暴走列車を描いた『アンストッパブル』のように手に汗握るし、移動中の主人公たちを誰も彼もが襲ってくる『藁の楯 わらのたて』のように油断がならないし、列車の中を後方車両から前方車両へ進撃する『スノーピアサー』を凌ぐ駆け引きに舌を巻く。
抜群に面白いアクション映画である上に、絶体絶命の状況下の人々を描くパニック映画としてもズバ抜けている。襲ってくるのはウイルスに侵された感染者だが、雪崩を打ったように湧いて出るその群れは、『滅びの笛』のペスト菌を運ぶネズミの大群のようである。もはや彼らは人間ではないから、虫やら鳥やら魚やらの大群が襲う動物パニック映画さながらだ。
作品全体から発せられる風刺も強烈だ。
多くの人がテレビの生中継で事故の様子を見つめる中、修学旅行の高校生242人を含む304人もの乗客・乗員をみすみす犠牲にしてしまい、なのに船長ら乗組員15人はいち早く乗客を捨てて逃げていたというセウォル号沈没事故や、旅客機の客として搭乗した経営者が客室乗務員らを愚弄した挙げ句、すでに出発した機を搭乗ゲートに引き返させたナッツリターン事件や、政府の許可の下で販売された「子供にも安全」な殺菌剤で死者1006人、負傷者4306人が生じたといわれる加湿器殺菌剤事件、そして一向に解消されない経済格差や、罪を犯しても特赦を受けてのうのうとしている金持ち等の現実を思えば、本作に登場する、大災害が起きているのに「国民の皆さんの安全は確保されています」と気休めにもならない白々しいことを云う政府や、自分のことしか考えていない身勝手な常務や、乗客を見捨てる乗務員等の描写は、実社会の鏡といえる。
本作の主人公も、自分のことしか考えないファンドマネージャーだ。客に損をさせても気にならないが、自分が損するのは絶対に嫌な男。自分が助かるためならば、感染者から逃げてくる人を締め出しても平気な男だ。
主人公とは対照的な人たちもいる。侠気に富んだ労働者階級の男もいるし、友だち思いの少年少女もいる。誰にでも優しく親切なお婆さんもいる。主人公は裕福で狡賢いから、対極の存在として無能なホームレスも登場する。
貧者と富者、強欲な者と無垢な者が一緒に危機に直面したとき、それぞれがどんな反応をするのか。状況が変われば、行動も変わるのか。その興味も本作を面白いものにしている。
風刺を効かせたゾンビ映画は珍しくないだろうが、本作はとりわけ政治的、経済的な色合いが濃い。
その特徴が強く出たのが、感染者が暴れ回る事態を、テレビではデモ参加者の暴動と伝えたことだ。
韓国では大規模なデモが多発する。2013年に就任した朴槿恵(パク・クネ)大統領が五年の任期をまっとうできずに引きずり降ろされたのも、退陣を求める大規模なデモが繰り返されたからだった。ゾンビの大量発生による混乱を、本作は大規模デモがもたらす社会の転覆に重ね合わせる。

以前、私は、米国でゾンビ映画が盛んな理由について考えてみた(「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」参照)。
西洋では、社会秩序を保つために、理性で感情や直感的な行動を抑え込まねばならないとされている。不断の努力で理性を保たなければ、秩序が崩壊してしまう。その恐怖に常にさらされているから、ゾンビ(=理性を喪失した存在)がはびこる映画が真に迫り、そんな世界で生き延びるために戦う主人公に感情移入するのだろうと考えた。
一方、東洋では、合理主義を振りかざして理屈をこね回すよりも、人間の素直なまごころに身を委ねたほうが調和が取れると考える。無知蒙昧だが質朴な者こそ人間のお手本だとされる東洋では、理性を喪失した世界に恐怖を感じない。そのため、西洋のようにはゾンビ映画が盛り上がらないのではないか。
けれども、2016年の邦画『アイアムアヒーロー』は、日本なりのゾンビ映画のあり方を示したと思う(「『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?」参照)。
ここでは、今の社会の秩序なんて素晴らしくもなんともない。質朴だけれど要領が悪い主人公は、社会に適合して上手く立ち回ってる嫌なヤツらに見下されて生きてきた。そいつらがゾンビ化したことで、主人公は彼らを退治する大義名分を手に入れる。
米国映画では、非人間(ゾンビ)にならないということは理性を保って社会秩序を維持することを意味したのに、日本映画では、非人間(ゾンビ)にならないということは小賢しい社会性なんぞに巻き取られず、素直に自然に生きることだった。
では、韓国映画は? 私が『新感染 ファイナル・エクスプレス』に関心を寄せた最大の理由はそこだった。
日米のゾンビ映画は、それぞれの社会・文化の違いを如実に表しているように思えたが、『アイアムアヒーロー』一本を東洋のゾンビ映画代表として扱って良いものか。他に東洋発のゾンビ映画(それも、社会に受け入れられてヒットしたもの)があれば、どのような内容になるのだろうか。そんな疑問を抱いていたところに公開されたのが、『新感染 ファイナル・エクスプレス』だった。
そしてこの映画を観て、なるほどと膝を打った。
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街で感染者(ゾンビ)たちが暴れてもテレビは暴動と報じているし、列車内でゾンビが発生しても乗務員は暴力事件と報告している。怪物の出現とか謎の病気の蔓延とかではなく、普通の人間が起こす事件の延長線上の出来事と捉えているのだ。
まもなく、これが何かの感染による異常事態であると判ってくるのだが、ゾンビと人間の差異を端的に示す場面は後半に用意されている。ゾンビが発生した車両から逃げてきた主人公たちが、ゾンビのいない車両へ移ろうとするのを、その車両の人間たちが全力で阻止するのだ。
後方にはゾンビの群れ、前方には自分が助かるために主人公たちを見捨てて扉を閉めてしまった人間たち。主人公の目に映る両者の姿に違いはなかった。後方から襲いくるゾンビも、前方で主人公を締め出す人間たちも、目をむいて顔を真っ赤にして、ただただ醜い。
そう、ここに差異はないのである。主人公自身が、別の車両にいたときは逃げてくる人間を締め出して、自分だけ助かろうとしたのだった。
社会的に成功している常務も、裕福なファンドマネージャーも、どいつもこいつも感染しなくたってゾンビ(非人間)と変わらないではないか、と主張する点で、本作は『アイアムアヒーロー』に近い。労働者階級の男やお婆さんやホームレスのほうがまだ人間味があることからも、無知蒙昧で質朴なことを良しとする東洋的な思想が窺える。
だが、『新感染 ファイナル・エクスプレス』の徹底の度合いは、『アイアムアヒーロー』どころではなかった。
『アイアムアヒーロー』では売れないマンガ描きの主人公や元看護師の女性らがまがりなりにも生き延びるが、本作の登場人物はことごとく死んでしまう。身勝手な常務や、乗客を見捨てる乗務員だけではない。侠気に富んだ労働者の男も、親切なお婆さんも、無能なホームレスも、友だち思いの少年も少女も、みんなみんな死んでしまう。この人は無知蒙昧で質朴なようだから助かってもいいんじゃないの、なんて生ぬるいことは云わせない。
最後に残るのは、哀れ幼児と妊婦だけだ。
生き残り組に妊婦がいるのは、大人の女性に意味があるのではなく、まだ胎児なら死なせるには及ばないということだろう。
かつて同じような物語があった。富野喜幸(現・富野由悠季)監督の傑作アニメ『伝説巨神イデオン』(1980年~)だ。あの作品でも、過酷な戦いで大人ばかりか少年も少女も死んでいき、幼児と胎児だけが最後に残る希望だった。登場人物すべてが死に、胎児(メシア)に導かれて霊魂からやり直す(輪廻転生する)という、極めて東洋的な作品だった。
■韓国のゾンビ映画
『アイアムアヒーロー』では成人男性、成人女性が生き残れるのに、『新感染 ファイナル・エクスプレス』で幼児と胎児(を宿す女性)しか生き残れないのはなぜだろうか。このような違いがあっても、『新感染 ファイナル・エクスプレス』と『アイアムアヒーロー』は東洋的とひとくくりにしてしまって良いのだろうか。
ここには韓米日の子供観、ひいては人間観の違いがあると思われる。
韓国、米国、日本における0歳から15歳までの子を持つ父親又は母親に、「子供は幼い時期は自由にさせ、成長に従って厳しくしつけるのがよい」と考えるか否かを問うと、図のようにはっきりと違いが出る。

この図は、少し古いが総務庁(現・内閣府)が1995年に公表した「子供と家族に関する国際比較調査」の結果だ。
米国では、ちゃんとした人間になるために幼いときから厳しくしつける必要があると考えられている。韓国では反対に、幼い子供に厳しいしつけは必要ないと思われている。これはそのまま、身につけた理性を保つことで社会秩序を守らなければと考える米国のゾンビ映画と、無垢な幼子が最大の希望と考える韓国のゾンビ映画との違いに符合しよう。
東洋であっても、明治以降に西洋文明を導入してきた日本では、子供のしつけに関する考え方が割れている。これは、社会に適合して賢く立ち回る人間にうさん臭さを感じながらも、それなりに知識と経験を身につけた大人だから生き残れる日本のゾンビ映画に符合する。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』の終盤で、ラスボスともいえる常務が理性を失って子供じみた振る舞いになるのも、このような人間観によるのだろう。大人になる過程で身につけた、悪知恵や卑劣な性根がはがれ落ち、無垢な子供――人間の真髄が現れたのだ。
主人公が我が子の誕生を思い出すのも、それがもっとも人間の美しい瞬間だからだ。誰でも生まれたときは純粋で美しい。自分勝手なファンドマネージャーだった彼も、生まれた我が子は愛おしく、大切にしようと思ったはずだ。彼自身、幼い頃は美しい心根を持っていたはずなのだ。
どこで道を誤ったのか。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』の作り手は、大人にやり直すチャンスを認めない。
『新感染 ファイナル・エクスプレス』の原題は『釜山行』。その名のとおり、主人公を乗せた列車はソウルを発って釜山(プサン)を目指す。
北の朝鮮民主主義人民共和国から大軍が押し寄せて朝鮮戦争が勃発し、朝鮮半島のほとんどが朝鮮人民軍に呑み込まれたとき、韓国に最後に残された地が南端の釜山だった。釜山橋頭堡の戦いでなんとか朝鮮人民軍を食い止めることに成功し、それから彼らを北に追い返して今の韓国がある。だから釜山は希望の地、反撃に転ずるための最期の砦なのだ。
映画は、韓国全土を覆う爆発的な感染にどう対処するかを描かないまま終わるけれど、幼児と妊婦が安全な釜山にたどり着けたということは、これから人間側が反転攻勢に出ることを示唆している。
幼子のような無垢の状態からもう一度、人の世を生まれ変わらせる。それしか方法はない。
それが本作の示す希望であり絶望なのだろう。
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監督/ヨン・サンホ
出演/コン・ユ チョン・ユミ マ・ドンソク キム・スアン チェ・ウシク アン・ソヒ キム・ウィソン
日本公開/2017年9月1日
ジャンル/[ホラー] [アクション] [パニック]

『ワンダーウーマン』の二段構えのラスト
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何と、こんなアレンジで来たか!
映画『ワンダーウーマン』についてほとんど白紙の状態で観に行った私は、意表を突いた設定に驚いた。
この映画については白紙でも、ワンダーウーマンを映画デビューさせるためにスーパーマンとバットマンが前座を務めたような『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で彼女の勇姿は目にしていたし、リンダ・カーター主演の1970年代のテレビドラマも見ていたから、基本設定は知っている。だから、アマゾネスの島からやってきた鉄腕美女ワンダーウーマンが、ドイツ軍をバッタバッタとなぎ倒す、そんな映画だろうとタカをくくっていた。
ところが、アマゾネスの島のワンダーウーマンがドイツ軍をバッタバッタとなぎ倒しているというのに、この映画はどうもおかしい。米国軍人スティーブ・トレバーの乗った飛行機がやけに古臭いし、ドイツ兵の服装も野暮ったい。
原作やテレビ版と同じような話だと思いこんでいて、すぐには判らなかったのだが、この映画はなんと第一次世界大戦を舞台にしていたのだ!
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けれども、敵役がナチス・ドイツならコテンパンにやっつけていい時代は終わっている。第二次世界大戦当時を舞台にした映画『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』(2011年)でキャップが戦った相手は、ナチス・ドイツそのものではなく、その中に巣くう秘密結社ヒドラだった。これは、ナチス・ドイツの非道は許さないが、今のドイツのことを思えば、ドイツだからと敵扱いするのはもうやめようというハリウッドからのメッセージにほかなるまい。
キャプテン・アメリカに負けじと、女もナチス・ドイツを許さない姿勢を誇示していたワンダーウーマンが、2017年に銀幕に登場するに当たって、ドイツをどう描くのか、誰を悪者扱いするのか。私はそこに興味があった。
だから映画がはじまって、相変わらず戦争中が舞台で、ドイツが敵だと判ったとき、私は一瞬『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』よりも後退した世界観だと思ってしまった。
うかつだった。ドイツ相手のアクション映画を撮るだけであれば、第二次世界大戦を舞台にすればこと足りる。
■あだ名は"ワンダーウーマン"だった
世界大戦のさなか、アマゾネスの島に不時着した米国軍人スティーブ・トレバーを助けたダイアナは、スティーブとともに島を出て、ワンダーウーマンとなってドイツ軍と戦う――というテレビシリーズ同様のストーリーを繰り返しながら、この映画はあえて第一次世界大戦当時を舞台にすることで、ナチス・ドイツを敵扱いするステレオタイプやプロパガンダから脱している。いや、少し云い方を変えよう。この映画は、ナチス・ドイツを敵扱いするステレオタイプやプロパガンダに陥ることなく、1970年代のテレビドラマと同じようなストーリーを描くことに成功している。
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リンダ・カーターのドラマが好きだったパティ・ジェンキンス監督は、スパイダーマンの映画に1960年代のアニメのテーマ曲が流れたり、『レゴバットマン ザ・ムービー』にやはり1960年代のテレビドラマのテーマ曲が流れたりしたように、本作でもドラマ版の主題歌を流したかったそうだ。残念ながら、今回の映画にあの軽快な主題歌が似合うシーンを見つけることはできなかったけれど、エンドクレジットの謝辞にはマンガ家のジョージ・ペリッツやジム・リーやクリフ・チアンらだけでなくリンダ・カーターの名も上げている。
ジェンキンス監督は、ワンダーウーマンばかりか、リチャード・ドナー監督の『スーパーマン』(1978年)も大好きだった。『スター・ウォーズ』の影響も大きいけれど、自分が今こうしているのは『スーパーマン』を観たからだと述べている。
実際、ダイアナがロンドンにやってきたときの幾つかのエピソード――回転ドアに戸惑うユーモラスなシーンとか――は、スーパーマンのメトロポリスでの出来事へのオマージュだと云われる。
長年映画化が取り沙汰されながら、これまで映画化できなかった『ワンダーウーマン』が、パティ・ジェンキンス監督によってはじめて映画になり、評価、興行成績ともに大成功を収めた理由が判るような気がする。
サンドラ・ブロックやキャサリン・ゼタ=ジョーンズやオルガ・キュリレンコやアンジェリーナ・ジョリーら数々の女優がワンダーウーマン役として噂されてきた(アンジェリーナ・ジョリーは監督候補としても検討された)。しかし、スーパーマンといえば今もってクリストファー・リーヴの印象が強いように、ワンダーウーマンといえばやっぱりリンダ・カーターなのだ。絶世の美女であり、気高く逞しいワンダーウーマンは、元ミス・ワールドアメリカ代表のリンダ・カーターだから演じ得た。それほどキャラクターが確立しているワンダーウーマンの映像化は、スーパーマンやワンダーウーマンの魅力を知り尽した――高校時代のあだ名が"ワンダーウーマン"だったほどの――ジェンキンス監督だからできたのだろう。

リチャード・ドナー降板後のスーパーマンシリーズや『マン・オブ・スティール』に感情移入しにくい理由の一つは、すぐに主人公や敵キャラが大げさなスーパーパワーを発揮して何でも壊してしまうからだ。考えてみて欲しい、『ドラゴンボール』の主人公孫悟空が連載早々いきなり超サイヤ人になって元気玉を放ったら、誰もが白けてしまったはずだ。あれは、ちょっと力の強いだけだった主人公が天下一武道会に出たり数々の敵と戦いながら強くなっていく過程がきちんと描かれているから面白いのだ。
『スーパーマン』大好き少女だったジェンキンス監督は、本作でワンダーウーマンのパワーを丁寧に段階的に描いている。
実は、ワンダーウーマンが西部戦線の無人地帯を突破するシークエンスは、カットされるところだったという。映画会社からすれば、ワンダーウーマンが銃撃を浴びながらジリジリ前進する画なんて地味なだけで、早く派手な戦闘シーンに移ったほうが見栄えがすると思われたのかもしれない。
だが、ジェンキンス監督は、ダイアナの決意と自己肯定を描くためにこのシークエンスは欠かせないと主張した。実際、あの描写があるから、ワンダーウーマンが頼りになることや、不屈の闘志の持ち主であることが、観客にも肌感覚で伝わってくるのだ。いきなり神をも倒すスーパーパワーを発揮されていたら、こうはいかないだろう。
本作でワンダーウーマンを演じたガル・ガドットも素晴らしい。ミス・ユニバースのイスラエル代表で、前年公開の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』でワンダーウーマンを演じ、バットマンとスーパーマンの顔色をなからしめるほどの強烈な印象を残したガル・ガドットは、美貌も存在感も申し分ない。
彼女は、再撮影のとき妊娠五ヶ月だったという。すでにお腹が大きくなっていたので、コスチュームの腹部を緑の布に変えておき、撮影後の視覚効果で見え方を調節したそうだ。スタッフ・キャストが協力し合い、仕事と妊娠を両立できたのは喜ばしいことだ。

本作の時代設定が第一次世界大戦末期の1918年に変えられたのは、その時代のほうが適切だと考えられたからだという。「第一次世界大戦で、私たちははじめて自分たちの文明の根本を見つめることになりました。しかし、私たちはその歴史を本当に知っているとはいえません。この時代は、目の前にいない相手を殺せる機械化された戦争や、女性の権利についての問題等があり、とても興味深いときなのです。」
1918年は、激しい政治運動のおかげでようやく一部の英国女性に参政権が認められた年である。といっても、英国男性が21歳以上なら参政権が認められていたのに、女性は世帯主か、世帯主の妻か、5ポンド以上の不動産所有者か、大卒者のいずれかで、30歳以上に限るという、厳しく制限されたものだった。英国で男女ともに21歳以上に参政権が認められるのは、10年後の1928年を待たねばならない(日本で女性参政権が実現するには、さらに時代が下って、大日本帝国が壊滅した第二次世界大戦後、日本を占領したダグラス・マッカーサーに「婦人の解放」を命令してもらわねばならなかった)。
このように女性の権利が制限された時代を背景にすることは、スーパーヒロインを際立たせるのに打ってつけだ。堂々と政治のことに口を挟んだり、みずから戦場へ赴こうとするダイアナは、21世紀なら特別ではないかもしれないが、20世紀初頭ではその言動だけで誰からも注目されるのだ。
ダイアナがスーパーヒロインなのは、時代設定だけによるものではない。
彼女は母ヒッポリタ女王から、「武術を学ぶな、家の中で勉強しろ」と厳しく命じられてきた。けれども、彼女は親の云うことを聞かない反骨精神の持ち主だった。親に内緒で鍛錬を続けたおかげで、彼女はアマゾネス最強の戦士になれた。
親の云うことをきいて(親の期待どおりに行動して)、みずからの可能性を潰してしまう子供は少なくない。たとえば、男女の数学の能力を計測すると有意な差は見られないのに、女子は自分が数学が苦手であると思い込んだり、理系の進路を避けたりするという。こういった女子は、男子に比べて親や社会から数学の能力を期待されて来なかったのだと云われる。
現代社会でもありがちなこのような親の態度をはね返し、興味のあることに熱心に取り組んだダイアナは、子供の観客にとって立派な規範となろう(ヒッポリタ女王は、親にとっての反面教師となろう)。

第一次世界大戦は、飛行機、戦車、潜水艦といった科学兵器が投入され、相手の顔を見ることなく殺せる機械化戦争の幕開けでもあった。とりわけ残虐な兵器が、本作で取り上げられた毒ガスだ。
本作が他のスーパーヒーロー物とひと味違うのは、これが戦争映画だからだ。スーパーヒーローはどの映画でも派手な戦いを繰り広げるが、多くは現実離れした世界での現実離れした戦いだ。本作のように現実の戦争に赴いて、実在した兵器を巡って実在した軍隊と戦う作品は、戦争映画に分類されるべきだろう。
前述したように『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』も第二次世界大戦中の話だったが、あれはヒドラという架空の敵との架空の戦いを描いていた。そうすることで、現実にも劇中でも戦時プロパガンダ用のキャラクターだったキャプテン・アメリカを、戦争物から解放し、全世界に通用する普遍的なスーパーヒーローへと脱皮させる映画だった。
本作は違う。ワンダーウーマンの名の下に現代的な女性を100年前の戦場に立たせ、戦争とは何か、人間はどうあるべきかを問うた作品だ。人類史上はじめて全世界規模で戦われ、人類の戦争史にとどめを刺す「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれた第一次世界大戦を題材にしたところに、戦争映画としての本気度が現れていよう。
本作で描かれるのは、ドイツ帝国を中心とする中央同盟国と英仏等からなる連合国との戦いだが、主人公ダイアナは戦争の陰に軍神アレスがいると考え、アレスの探索に邁進する。これでアレスを退治して平和を取り戻すなら、なんてことはないスーパーヒーロー物だが、そうは問屋が卸さない。
ダイアナはドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフ将軍こそ軍神アレスのうつせみの姿とにらみ、ルーデンドルフとの一対一の対決に臨む。現実のエーリヒ・ルーデンドルフは第一次世界大戦後も政治的影響力を保ち、アドルフ・ヒトラーと協力関係を結んだりしたが、本作ではワンダーウーマンとの戦いに敗れ、毒ガス散布作戦の半ばで死んでしまう。
人々を操って争いを起こしていたアレスは死んだ。これで人々の心は晴れ、戦争は終わるはずだ。――そう考えたダイアナは、ほっとしたように周囲を見回すが、ドイツ兵は毒ガスを搬送し、毒ガス散布作戦は着々と進められている。
なぜだ!? なぜ、アレスに操られているわけでもないのに、みんな戦争をやめないのだ!?

これまでも、アレスさえ倒せば戦争は終わると楽観視するダイアナに何か云いたそうだったスティーブは、はじめて強い口調で語りかける。「僕だって悪者のせいにしたい。だけど、そうじゃないんだ。戦争はみんなに責任があるんだ」と。
スティーブがダイアナに説明することは、戦争をテーマにしたマンガ『サイボーグ009』で主人公009が聞かされたことと同じだ。
人気マンガ『サイボーグ009』の完結編として描かれた「地下帝国ヨミ編」の終盤で、世の中のすべての争いを考え出し、命令していた「黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)」の総統を目の前にした009は、こいつさえ倒せば世界から戦争がなくなると思う。しかし、総統は笑いながら、「黒い幽霊団」を滅ぼすことはできないと説く。
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「黒い幽霊団」ヲ殺スニハ地球上ノ人間ゼンブヲ殺サネバナラナイ!
ナゼナラ「黒い幽霊団」ハ人間タチノ心カラ生マレタモノダカラダ
人間ノ悪ガ ミニクイ欲望ガ作リアゲタ怪物ダカラダ!
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『サイボーグ009』の劇場版アニメでもテレビアニメでも同様のセリフがあるから、憶えている方も多いだろう。
スティーブの言葉を聞いたダイアナは、人間はみんな同じなんだと悟る。
映画の冒頭で、スティーブがドイツ軍を指差して、あれは悪いヤツらだと説明したのを鵜呑みにしていたダイアナは、ドイツ軍の背後にアレスがいると思い込んだ(観客は、ドイツを悪者扱いするいつものパターンだと思い込んだ)。だが、将軍一人が死んでも戦争は終わらないのが当たり前だというスティーブの言葉に、連合国側も同じなのだと思い知る。これは、正しい側と悪い側の戦いではないのだ。どちらも争いばかりしている、同じような人間たちなのだ。
映画『ワンダーウーマン』は、悪者をやっつけて世界に平和をもたらそうという勧善懲悪的な雰囲気ではじまりながら、戦場の悲惨な描写を経て、一人のスーパーヒーローではどうにもならない現実を描き出す。そして、戦争とはそういうものなのだ、人の世の争いをひと握りの悪者に帰することはできないのだという結論に行き着いて、スーパーヒーロー物の定石を引っくり返す。スーパーヒーロー物を否定するような結論を提示して、観客に衝撃を与えたのだ。
映画のクライマックスとしては、これで充分だろう。戦争映画として、見事なラストになっている。
ギリシャ神話から説き起こし、戦争がやまない人間の歴史を描いてきた本作は、ここで一つの結末を迎えたといえよう。
もちろん、多くの観客はそんな哲学談義を聞きに来たわけではない。娯楽映画としてのラストが必要だ。映画の作り手は観客を感動させ、喜んでもらうことで、商業的に成功する必要がある。
押井守流に云えば、「芸術的に成功したとしても、そのエンディングじゃ次の映画は撮れないから」だ。
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本作には、『スーパーマン』(1978年)や『バットマン ビギンズ』(2005)やインディ・ジョーンズシリーズ(1981年~)や『リトル・マーメイド』(1989年)や『カサブランカ』(1942年)からの影響があるという。『スーパーマン』と『バットマン ビギンズ』はスーパーヒーローの起源を描く物語のお手本としてだろうし、インディ・ジョーンズシリーズはナチス・ドイツと戦う冒険譚として、『リトル・マーメイド』は外界を知らないお姫様が海で男性を助けたことをきっかけに外へ飛び出し、最後には助けた男性に助けられる物語として本作のお手本になったのだろう。
最後の手本は『カサブランカ』だ。戦争中のカサブランカを舞台に、愛する女性と彼女が生きる世界のために、みずから犠牲になる男の泣かせる話が、本作のラストで再現される。
姿を現した真のアレスとダイアナが激突する中、スティーブ・トレバーは大量の毒ガス弾を始末するため、ダイアナに別れを告げて単身爆撃機に乗り込む。離陸寸前の爆撃機からドイツ兵を蹴り落とし、一人で高空へ昇ったスティーブは、毒ガスとともに自爆する。
スティーブの犠牲的精神により大勢の死は免れるが、ここで大事なのは、スティーブの犠牲が特攻とは異なることだ。主人公が特攻する映画もときにはあるが、特攻、すなわち特別攻撃は、あくまで敵を殺傷することを目的とする。一方、本作のスティーブは、味方だけ避難させて敵基地で毒ガス弾を爆発させれば敵もろとも毒ガスをなくすことができたのに、あえて誰もいない上空で自爆する。そうすることで、彼は味方を毒ガス攻撃から救うだけでなく、敵の命をも救ったのだ。
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毒ガスがなくなり、戦いをそそのかす神アレスもいなくなったとき、朝の光が降り注ぐ下で、ガスマスクを被っていたドイツ兵が一人またひとりとマスクを外していく。さっきまではただ殺すべき敵だったのに、マスクの下から現れた素顔は、まだ初々しい若者だった。目を移せば、愛嬌のあるおじさんもいる。彼らは、美しい朝陽が眩しいような、少しくたびれたような格好で立ち尽くしている。
この人たちを殺そうとしていたのだ。彼らが敵の陣営というだけで。
ここにも第一次世界大戦を舞台にした意義があろう。第二次世界大戦のナチス・ドイツによるホロコーストを知る人やその遺族が今も悲しみ苦しみを抱える中、ドイツ兵とも仲良くできるというメッセージは、いかに高尚なものであろうと受け止めにくい。第一次世界大戦まで遡り、直接の経験者がいない時代だからこそ、冷静にこの場面を観られるというものだ。
戦いを終えて、ダイアナは一人つぶやく。
「私は人間同士が憎み合う恐ろしさを目撃した。愛の強さも目にした。今なら判る。愛だけがこの世界を救えるのだと。」
■世界の平和のために
本作のキャスティングは絶妙であり、皮肉でもある。
ガル・ガドット演じるワンダーウーマン=ダイアナ・プリンスは、人間の愛を信じ、敵味方に関係なく救わねばならないと悟るのだが、そこに欺瞞を感じる人々の抗議によって、本作はいくつもの国で上映禁止や公開延期になっている。
世界から戦火が絶えることはないが、この一世紀、とりわけ動乱が続いているのが中東だ。
2014年7月、イスラエル軍がパレスチナのガザ地区を攻撃し、街は壊滅、11万人が家を失い、多くの子供を含む1,500人以上の市民が死亡した。世界中から非難されたこの虐殺のさなか、かつてイスラエル軍の戦闘トレーナーだったガル・ガドットは「私たちが正しい」「イスラエル軍を愛す」といったイスラエルの正当性を主張するメッセージを発信した。
周辺国の人々からすれば、こんな人物がスクリーンに登場して愛だの平和だの説く映画は観たくないということだ。一方、イスラエルでは、世界的な映画スターとなったガル・ガドットを押し立てれば、イスラエルの負のイメージを払拭できると喜ぶ人がいる。
皮肉なことに、『ワンダーウーマン』の成功でスターの座を掴み、これからもワンダーウーマンを演じる予定のガル・ガドットは、今後発言に気をつけなければならないだろう。世間はワンダーウーマンを演じる俳優にワンダーウーマンらしい振る舞いを期待するに違いない。
戦いに正しい側と悪い側などなく、人間はみな同じであると知ったワンダーウーマン。愛だけが世界を救えるというワンダーウーマンの言葉は、ガル・ガドットの心に響いているだろうか。
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監督/パティ・ジェンキンス
出演/ ガル・ガドット クリス・パイン ロビン・ライト ダニー・ヒューストン デヴィッド・シューリス コニー・ニールセン エレナ・アナヤ ユエン・ブレムナー サイード・タグマウイ ユージーン・ブレイヴ・ロック ルーシー・デイヴィス
日本公開/2017年8月25日
ジャンル/[戦争] [アクション] [アドベンチャー] [ドラマ]

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