『怪盗グルーのミニオン大脱走』 楽しく暮らそう
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前二作、いや番外編の『ミニオンズ』も入れれば過去三作を通して、このシリーズには一貫したものがあった。それが、こうも大きく変えられるとは思わなかった。
過去の怪盗グルーシリーズに共通していたのは、1960年代の文化への愛とこだわりだ。第一作『怪盗グルーの月泥棒 3D』は、ハゲの怪盗が登場する時点でアンドレ・ユヌベル監督の60年代の快作、怪盗ファントマシリーズを彷彿とさせた。第二作『怪盗グルーのミニオン危機一発』は、60年代にはじまった007シリーズのようなスパイ・アクションだったし、『ミニオンズ』に至っては時代設定を1968年にして、当時の楽曲やテレビ番組の引用をどっさり盛り込んだ賑やかな映画だった。
ところが、シリーズ第三作『怪盗グルーのミニオン大脱走』は、60年代の権化のはずのグルーが、80年代を引きずる悪党バルタザール・ブラットにけちょんけちょんにやられる話だ。
小さい頃は天才子役として持てはやされても、「大人の俳優」に転身するのは難しい。必ずしも本人のせいではないのだが、まだ小さいのに有名人になってしまったために、その後の「転落人生」ばかりが報道される例も多い。と、云われると、ドリュー・バリモアやマコーレー・カルキン等、80年代から90年代初頭にかけて一世を風靡した子役たちのその後の苦労を思い浮かべる人も多いだろう。
80年代に人気子役だったバルタザール・ブラットもそんな一人だ。彼は栄光の80年代が忘れられず、今も80年代風のファッションに身を包み、80年代のヒット曲ばかり聴いている。だから本作はこれまでとはうってかわって、80年代の文化のオンパレードだ。バルタザール・ブラットが登場するたびに、しつこく80年代の曲が鳴り響く。
『ミニオンズ』で見せた60年代への偏愛はどうしたんだ!? と云いたくなってしまうほど、60年代色は後退している。
映画を大ヒットさせるには、幅広い客層にアピールする必要がある。子供向け、若者向けの映画といえど、中高年に受けるポイントも押さえておきたい。子供と一緒に映画館に来た親が満足してくれることもあるだろうし、面白ければ中高年だけでも観に来てくれるかもしれない。なにより中高年は、子供はもとより若者と比べても金を持っているはずだから開拓しない手はない。
かくして2010年代には、80年代あたりを懐かしむ層を意識した映画の公開が相次いだ。日本では『イニシエーション・ラブ』、洋画では『テッド』、『ピクセル』、『アングリーバード』等が80年代の文化を取り上げた。もちろん、本作もその延長線上にある。
1967年生まれのピエール・コフィン監督にとって、60年代の文化はいくら好きと云ってもリアルタイムで経験したものじゃない。一方で、80年代はみずからの青春時代そのものだろう。だから、これまでの作品の60年代の取り上げ方が、敬意と憧れを感じさせたのに対し、本作の80年代の取り上げ方には、気恥ずかしさと自虐が漂っている。悪党バルタザール・ブラットの、今となっては恥ずかしい大きな肩パッドの紫の服や、ところ構わずムーンウォークせずにいられない病的パフォーマンが、それを表している。
が、これがいい!
ネーナの「ロックバルーンは99」やヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」といった80年代のヒット曲は、いま聴いても名曲だし、『ラ・ラ・ランド』(2016年)でジャズピアニストの主人公が生活のために渋々演奏していたa-haの「テイク・オン・ミー」だって、やっぱりいい曲だ。
シリーズも三作目ともなるとマンネリ化が危惧されるが、60年代の雰囲気を謳歌していたところに80年代が殴り込みをかける展開で新味を出すとはおそれいった。
『ミニオンズ』のクライマックスの大怪獣が60年代らしさの象徴なら(たとえば『キングコング対ゴジラ』の米国公開は1963年だ)、本作で大暴れする巨大ロボット[*]は80年代の象徴だ(『UFOロボ グレンダイザー』は、「世界のテレビを変えた50作」のうち1980年を代表する作品に選出された)。
受けて立つグルーとドルーの兄弟が、相変わらず60年代臭さぷんぷんなのもいい。奇妙な仕掛けに溢れたクルマで急行するグルーとドルーは、あたかも1968年の人気アニメ『チキチキマシン猛レース』でゼロゼロマシンを駆るブラック魔王とケンケンだ。

そして映画を反芻してみて、なんて取っ散らかった怪作なのかと実感した。
前作で怪盗稼業から足を洗い、反悪党同盟のエージェントとして活躍していたグルーは、本作ではバルタザール・ブラットを取り逃がした責任を問われ、妻のルーシーともども反悪党同盟から追い出されてしまう。
過去、怪盗グルーシリーズが発表されたのは、民主党のオバマ政権のときだった。けれども、本作の公開に先立つ2016年11月の投票で、共和党のドナルド・トランプが大統領選に勝利し、政権スタッフは刷新された。あたかもこれを反映したかのように、本作では反悪党同盟の局長サイラス・ラムズボトムが、いけ好かないヴァレリー・ダ・ヴィンチへ取って代わられてしまう。ヴァレリー・ダ・ヴィンチは、トランプの選挙対策本部長にして現在の大統領顧問であるケリーアン・コンウェイを模したキャラクターだといわれている。とにもかくにも、理不尽にも失職したグルーとルーシーは、今回は公的機関とは一線を画した立場で事件に当たる。
ところが、バルタザール・ブラットとの対決が映画の中心なのかというと、そうでもない。グルーと双子の兄弟との再会バナシが大きな割合を占めているし、脈絡なくアグネスのユニコーン探しが挿入されるし、ルーシーは親としてどう振る舞うか悩んでいて、ミニオンたちはグルーと袂を分かって放浪している。前二作と同じように愛する者が連れ去られ、それを助けに行く展開はあるものの、誘拐目的の事件ではないから、これまでと違って救出劇がクライマックスにはならない。
個々のエピソードはほとんど交わることなく並行して進んでいき、最後になってようやく一同が顔を合わせる程度だ。どうにも欲張り過ぎて、雑然とした印象である。もっと整理できたはずなのに、これでは話の焦点がはっきりしない。
けれども、本作が微笑ましいのはアグネスら子供たちのエピソードがあるからだし、楽しいのはミニオンたちが相変わらずバカをやっているからだ。角が片方欠けた羊は待ち望んでいたユニコーンではなかったけれど、それでも変わることなく可愛がる顛末は、多様な生き方を肯定するこのシリーズに相応しく感動的だ。
仕事を干されてグレてしまったブラットと、親の遺産を食い潰しながらそんな自分を変えたいドルーと、職がないことに負い目を感じて復職に懸命なグルー。中年男たちが三者三様にあがく姿は、スラップスティックの中にも悲哀を漂わせる。
そして気がつくのだ。こんな風にいろんなことが並行して起きているのが私たちの日常なのだと。職場にしろ家庭にしろ親戚縁者のことにしろ、いつだってこちらの都合に関係なく事件は降りかかってくる。それこそが私たちの暮らしだから、本作が取っ散らかっているのはとうぜんなのだ。
バルタザール・ブラットとの戦いも、ミニオンとの関係も、ドルーとの付き合いも、仕事のことも、子供たちとの暮らしも、様々なことがやがて落ち着くべきところに落ち着いていく。その畳みかけるようなハッピーエンドが、本作のごった煮の楽しさの正体だ。
エンディングは、ピンク・パンサーシリーズのオープニングを思わせる古風なアニメーション。バルタザール・ブラットが退場した後は、また60年代風に逆戻りだ。
やっぱりこれでこそ怪盗グルーだ。
終わり良ければすべて良し、である。
[*] 数々のロボットアニメに敬意を表して「ロボット」と表記したが、本来ロボットとは自動機械のこと。人間が乗り込んで操縦するタイプは、正確には人型の重機と呼ぶべきだろう。
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監督/ピエール・コフィン、カイル・バルダ
出演/スティーヴ・カレル クリステン・ウィグ トレイ・パーカー ミランダ・コスグローヴ スティーヴ・クーガン ジェニー・スレイト ジュリー・アンドリュース
日本語吹替/笑福亭鶴瓶 生瀬勝久 芦田愛菜 中島美嘉 松山ケンイチ 山寺宏一 宮野真守 いとうあさこ 須藤祐実 矢島晶子
日本公開/2017年7月21日
ジャンル/[ファミリー] [コメディ] [ファンタジー] [アドベンチャー]

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tag : ピエール・コフィンカイル・バルダスティーヴ・カレルクリステン・ウィグトレイ・パーカー笑福亭鶴瓶生瀬勝久芦田愛菜中島美嘉松山ケンイチ
『カーズ/クロスロード』 カーズ3でプレーンズ3を楽しもう
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楽しみにしていた作品が、未完で終わると残念なものだ。
マンガ『魔王ダンテ』や『魔獣戦線』のように掲載誌の休刊で未完になった作品や、編集者が原稿を紛失したといわれる小説『妖星伝』のように、後年作者の手で完結できたものもあるが、『サイボーグ009』や『火の鳥』のように完結前に作者が死去してしまった作品も少なくない。
映画の場合は金と人手がかかるだけに、マンガや小説以上に最後まで作り続けるのが難しい。シリーズ化を意図していたにもかかわらず、一作目の成績が振るわずにシリーズが頓挫するのはよくあることだ。
『カーズ』(2006年)で4.6億ドル、『カーズ2』(2011年)で5.6億ドルの興行成績を叩き出したディズニー/ピクサーは、カーズファミリーの映画を量産することを計画した。自動車を主人公にした『カーズ』のような形で、ボーツ(船)やトレインズ(列車)を作ろうとしていたのだ。
先陣を切ったのが、飛行機を主人公にしたプレーンズ三部作だった。第一作『プレーンズ』が2013年に、第二作『プレーンズ2/ファイアー&レスキュー』が2014年に公開され、あまりの傑作ぶりに仰天した私は、完結編となる第三作を心待ちにした。
だが、待てど暮らせど、『プレーンズ3』は公開されなかった。5000万ドルの制作費に対して2.4億ドルの成績だった『プレーンズ』や、1.5億ドルしか稼げなかった『プレーンズ2』の状況を見て、三部作構想は棚上げになったのかもしれない。
私は残念でならなかった。このシリーズの結末を是非とも観たかった。
カーレースを題材にした『カーズ』と同様に、『プレーンズ』は飛行機レースを扱った長編アニメーション映画だ。違うのは、『カーズ』の主人公ライトニング・マックィーンが最初からレーシングカーなのに対し、『プレーンズ』の主人公ダスティが農薬散布用飛行機であることだ。農薬散布用なのに飛行機レースで活躍したいなんてのは、とんでもなく難しい夢だから、『プレーンズ』で描かれる悲哀と勝負の厳しさは半端じゃなかった。
さらに『プレーンズ2/ファイアー&レスキュー』は、花形レース機として幸せの絶頂にいたダスティが、故障のためにレース人生に終止符を打たれる物語だった。ギアボックスを損傷して出力を上げられない彼は、肩を壊した野球選手や足を失くしたサッカー選手のようなものだ。これまで応援してくれた人々と接することすら辛いダスティが、これからどうやって生きていくのか。子供向けのアニメーション映画とは思えないほど深刻な物語だった。もちろん、飛行機やクルマのキャラクターはどれも可愛らしいし、映画はユーモアたっぷりで面白い。シリアスなテーマと、楽しく可愛い作風の組み合わせの妙に、私はいたく感心した。
それだけに、完結編たる第三作に期待した。勝負の厳しさや、挫折と再起を描いてきたこのシリーズが、最後に何を語るのかと、興味津々だった。
残念ながら、プレーンズシリーズの最後のメッセージを知る機会は永遠に失われた。――そう諦めたところに公開されたのが、カーズシリーズの第三作『カーズ/クロスロード』(原題:Cars 3)だ。
生き甲斐や生き方といったシリアスなテーマを掘り下げ続けたプレーンズシリーズとは違い、カーズシリーズはライトニング・マックィーンと仲間たちの友情を中心に据えつつも、第一作は新人レーサー、マックィーンの成長物語、第二作はレッカー車メーターが主役のスパイアクションと、内容の振幅が激しかった。だから、第三作も新奇性を重視した作品になるのかと思っていた。
ところが本作は、『プレーンズ3』が作られたらこうなったであろうと思えるような、生き甲斐や生き方を掘り下げた映画だった。

『プレーンズ2』のダスティは、体の一部が故障したとはいえ、まだ若くて体力も気力も充分だった。だが、本作のマックィーンが迎える危機は、世代交代だ。旧い世代であるマックィーンは、性能に勝る新世代のレーサーたちに手も足も出ない。同じ旧世代のレーサーが次々引退していく中、現役であることにこだわるマックィーンはどんどん立場が悪くなる。自分を凌ぐ新しい世代に追い上げられ、居場所がなくなっていくとき、人はどのように生きていけば良いのか。
これだ。これこそが、幻の『プレーンズ3』で語られるべき物語だった。栄光も挫折も味わったダスティがさらに直面する事態といったら、旧世代として若い世代にどう接するかという問題だったに違いない。
私は、ジョン・ラセターをはじめとする作り手に感謝したかった。失われたとばかり思っていた物語を、見ることができた気分だった。
『カーズ』の原案・脚本・監督と『カーズ2』の原案・監督、そしてプレーンズシリーズの原案とエグゼクティブ・プロデューサーを務めたジョン・ラセターは、本作でもエグゼクティブ・プロデューサーとして関わっている。ラセターは、脚本家たちに「今作も、もちろん子どもたちが楽しめる作品にしたい。それでいて大人も共感出来るものにしたいんだ」と伝えたという。

多くの映画が、やればできる、努力すれば望みは叶うと夢を振りまく中で、『モンスターズ・ユニバーシティ』が、努力してもできないものはできないこと、才能や環境に恵まれた連中には敵わないことを描いたのは驚きだった。子供向けの映画として、本当に大切なことを描いていた。
もちろん、そもそもやらなければできないし、努力すればかなりのことがやれるのは自明の理だ。やりもしないでやれないと思ったらせっかくのチャンスを逃してしまう。
そのことについて、本作は『モンスターズ・ユニバーシティ』とは違ったアプローチで描いている。
本作の新キャラクター、クルーズ・ラミレスは、レーサーになりたかったのに、とても自分にはできないと諦めていた。本作では、やりもせずに頭からやれないと思っているクルーズと、新世代に引き離されてもまだ自分はやれると思っているマックィーンの人生が交叉する。
やればできるかもしれないということと、やってもできないかもしれないということ。一見すると矛盾した二つのことを両立させて描く本作には、舌を巻くしかない。
性能では挽回できなくても、知識と経験に磨きをかけて有利に立ち回ろうとするマックィーンの姿は、もう若くはない年長者たちへのエールでもあろう。同時に、昔の体験にあぐらをかいて新たなことを学ばなければ、伸び盛りの若者に敵うはずもないのだと反省を促してもいる。
そして何より、若者にチャンスを譲り、自信をつけさせ、伸ばしてやることが、年長者の務めなのだと諭している。それは自分が栄光を掴むこと以上に、やり甲斐のある、大事なことかもしれないのだ。本作をつくるに当たっては、長いあいだ「カムバック物」として検討されていながら、途中から「師弟物」に発展したのだという。

師弟物といっても、『姿三四郎』や『クリード チャンプを継ぐ男』のように若者が師匠になってくれと頼みにくるのではない。『ロッキー5/最後のドラマ』や『ハスラー2』のような師弟対決とも違う。本作のクルーズは、マックィーンが引っ張り上げなければ、生涯埋もれたままだった。これはガッツのある若者を称える映画ではなく、自信を持てず、前へ踏み出せない人に優しく手を差し伸べる映画なのだ。
人を伸ばすには、小さなことでいいから成功体験を積ませることが重要だ。
まさしくクルーズ・ラミレスは、砂浜で走れるようになったり、場末のデモリション・ダービーで優勝したりして、小さな成功を重ねていく。それこそが大事であったのだと、振り返ってみれば判るようになっている。
レースの世界を題材にしながら、本作はありとあらゆる境遇の、あらゆる世代の人にとって普遍的な物語だ。
映画を観終えたときの感慨は、何物にも代えがたい。
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監督/ブライアン・フィー 制作総指揮/ジョン・ラセター
出演/オーウェン・ウィルソン クリステラ・アロンゾ アーミー・ハマー ラリー・ザ・ケイブル・ガイ ポール・ニューマン クリス・クーパー ネイサン・フィリオン ケリー・ワシントン リー・デラリア ボニー・ハント
日本語吹替版の出演/土田大 松岡茉優 藤森慎吾 山口智充 戸田恵子 赤坂泰彦 福澤朗
日本公開/2017年7月15日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー]

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【theme : ☆ディズニー映画「カーズ」☆】
【genre : 映画】
tag : ブライアン・フィージョン・ラセターオーウェン・ウィルソンクリステラ・アロンゾアーミー・ハマーポール・ニューマン土田大松岡茉優山口智充戸田恵子
『わたしは、ダニエル・ブレイク』 一人でも多くの人が観よう
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『味園ユニバース』や『ぼくのおじさん』等の優れた映画を連発する山下敦弘監督が、国内外で高い評価を得ている俳優・山田孝之さんとタッグを組んで、カンヌで賞をとれる映画を作ろうとジタバタする様子を目にして、視聴者は今さらながらカンヌのハードルの高さを痛感しただろう。
しかし、世の中には恐ろしい人がいる。
カンヌ国際映画祭に限っても、新作を発表するたびにコンペティション部門に選出され、パルム・ドール(最高賞)をとること二回、審査員賞を三回、現代映画賞を一回、FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞を三回受賞と、とてつもなく高い評価を得ているのがケン・ローチ監督だ。
同監督が、栄えある二度目のパルム・ドールに輝いたのが、『わたしは、ダニエル・ブレイク』だった。ジョージ・ミラーがコンペティション部門の審査員長を務めた第69回カンヌ国際映画祭でのことである。
パルム・ドール受賞作だからといって、構える必要はない。『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、平易で判りやすい作品だ。ただ、ひたむきで真摯で誠実で、そして完成度が極めて高い。
主人公ダニエル・ブレイクは、英国北東部のニューカッスルで40年も大工をやってきた。曲がったことが大嫌いで、他者への思いやりに溢れ、誇り高く生きてきた男だ。
その彼が心臓を悪くして、医者から仕事を止められる。働けないので行政の支援を受けるしかないが、行政の審査では就労可能と判断され、病気理由の支援は得られなかった。求職活動に励んでいることを証明すれば雇用支援援助を受けられると云われるが、医者に仕事を止められているのに求職活動をするなんてナンセンスだ。長年真面目に働いてきたダニエルは、何の支援も受けられないまま、突然、無職どころか無収入になってしまう。
同じく役所の審査で弾かれて困っていた女性と助け合いながら、ダニエルは何とか役所に支援を認めさせようと悪戦苦闘する。
無収入となって暮らしが立ち行かなくなるのを避けるために、役所に手当を申請する。ただそれだけのことが、困難にぶち当たって苦悩する人間のドラマになってしまうことが衝撃だ。なんて生きづらい世の中なのか。
ケン・ローチ監督は云う。「いくつかの都市に出かけて調べてみたら、これまで語られていない話があった。ひどいレベルの貧困。しかも、彼らは失業者ではなくて、働いているのに貧しいんだ」[*1]
実際、本作のエピソードには、脚本のポール・ラヴァーティが出会った人の実話が織り込まれている。
日本でも、生活保護を受けられない人の餓死、自殺、孤立死が多々発生している。
福岡県北九州市の元タクシー運転手が、病気で仕事ができないにもかかわらず就労可能と判断され、生活保護を辞退させられて、「腹減った。オニギリ食いたい」と書き残して餓死したのは2007年のことだった。北九州市では、市の職員によってあまりにも多くの人が死に追いやられたことから、2007年に生活保護行政検証委員会が設置され、生活保護行政のあり方が検討されたが、その後も困窮した市民を孤独死させる事件を起こしている。
北海道札幌市では生活保護を受けられなかった姉妹が病死・凍死し、千葉県銚子市では生活保護を受けられない上に県営住宅を強制退去させられることになった母親が心中を図って娘を殺してしまった。東京都立川市では、生活保護で暮らしていた男性が保護を打ち切られ、直後に自殺してしまった。同様のことは全国で起きている。
「私は怠け者でもたかり屋でも乞食でも泥棒でもありません。私はきちんと税金を払ってきました。誇りをもってそうしてきました。私は施しを求めているのではありません。私はとうぜんの権利を要求しているのです。私に敬意をもって接してください。私は市民(citizen)です。それ以上でもそれ以下でもありません。」というダニエル・ブレイクの言葉は、ニューカッスルだけに留まるものではない。
注目すべき動きがある。
日本では本作にちなんで、貧困に苦しむ人々を援助するダニエル・ブレイク基金が設立された。そのWebサイトには、こう書かれている。
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映画が、社会に出来ること
30年間続く、ダニエル・ブレイク基金
30年間続く、ダニエル・ブレイク基金
世界で拡大しつつある格差や貧困をテーマにケン・ローチ監督がこの作品に込めたメッセージ「誰もが享受すべき生きるために最低限の尊厳」や「人を思いやる気持ち」に賛同し、本作を提供する株式会社バップ、有限会社ロングライドは、“チーム「ダニエル・ブレイク」”を結成し、映画の上映権を保有する30年間の間、本作品によりもたらされる全ての収益の一部から、貧困に苦しむ人々を援助する団体を助成することを目的とした「ダニエル・ブレイク基金」を設立いたします。
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本作を観に行けば、有料入場者一名につき50円が、貧困に苦しむ人々を支援する団体に寄付されるという。
映画は贅沢な道楽だ。映画を観ても腹の足しにならないし、二時間も使いながら一円も稼げない。それどころか一本観るのに千数百円かかる。このような贅沢に投じられた金を困窮している人に移すのは、とても有意義であると思う。
ケン・ローチ監督も「今こうして実際に貧困にある人たちがいて、苦しんでいる人を放っておけないのは当然ですから、この企画はとても素晴らしいと思います。」と賛辞を贈った。[*2]
ただし、監督はこう云い添えている。
「ひとつだけ付け加えたいのは、ともかくチャリティーは一時的であるべきだということ。ともすると、チャリティーというものは不公正を隠してしまいがちだが、むしろ不公正の是正こそが最終目的であることを忘れてはならない(略)チャリティーの寄付金が政府のツケを払ってくれるとみなされると、不公正が絶えず、貧困が止まらず、困窮する人が減らない。それは間違っているし、不当な状況は変えなきゃいけない。つまり、チャリティーと同じくらいに、政治に働きかけることも大事なのです」
本作は、一人の中高年男性と彼が出会う数人の人々を描いただけの映画だが、同時にそれは世界を描くことでもある。
「描いたのは弱者でも貧困でもない。階級についてです。世界で何が起きているのか。その中でのささやかな抵抗を称賛したかった。」[*1]
この映画を観たならば、誰もが感じているはずだ。より良い世界にするために、やれることがたくさんあると。
本作には、職業安定所で気分が悪くなったダニエルが、ウォータークーラーの水を飲ませてもらって一息つく場面がある。
だが、それはフィクションだ。2010年、歳出削減の一環で、職業安定所のウォータークーラーは撤去された。今は水さえ飲めない。
[*1] 朝日新聞 2017年3月24日夕刊
[*2] 上映館の掲示
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監督/ケン・ローチ
出演/デイヴ・ジョーンズ ヘイリー・スクワイアーズ ディラン・フィリップ・マキアナン ブリアナ・シャン ケイト・ラッター シャロン・パーシー ケマ・シカズウェ
日本公開/2017年3月18日
ジャンル/[ドラマ]

【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : ケン・ローチデイヴ・ジョーンズヘイリー・スクワイアーズディラン・フィリップ・マキアナンブリアナ・シャンケイト・ラッターシャロン・パーシーケマ・シカズウェ
『ハクソー・リッジ』のウソとマコト
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デズモンド・ドス上等兵が、日本軍との戦争のさなかに日本兵を助けたのは本当なのだろうか?
戦争映画は幾つも観たが、戦闘シーンで涙が止まらない映画ははじめてだった。
『ハクソー・リッジ』は、米国バージニア州の職人デズモンド・ドスが、モーセの十戒の一つ「汝、殺すなかれ」を胸に刻みながら戦争に臨む話だ。
1919年に生まれ、2006年に87歳で没したドスの名は、米国中の道路や学校や医療施設に付けられている。米国では知らぬ者のない偉人なのだろう。
米国だけではない。激戦地であった前田高地(米軍はここをHacksaw Ridge(ノコギリのような断崖)と呼んだ)を擁する浦添の『浦添市史』にも、ドスの活躍は記されている。
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前田高地の戦闘で、とくにめざましい働きぶりを示したのは、B中隊の衛生兵ドス一等兵。彼はセブンスデー・アドベンチスト教会の信者で、信教上銃はもたないことになっていた。そのため衛生兵に回されたわけだが、高地攻略戦中、他の兵が撃退されても彼だけは頂上にふみとどまり、何回となくロープで、負傷兵を下方に降ろし、洞窟から洞窟にとび回って、負傷者に救急手当てをほどこし、こうして日本軍の猛砲火の中を、実に多くの兵のいのちを救ったのである。彼はのちに議会名誉勲章を授けられた。
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『ひめゆりの塔』や『激動の昭和史 沖縄決戦』等々、日本映画には沖縄戦を描いた作品があるけれど、米軍の側から描いた映画を観るのははじめてだった。
日本の映画を観ると、米軍の圧倒的な戦力を前にして多くの日本兵と沖縄住民が犠牲になったことが判るが、本作では米軍にも甚大な犠牲があったことが描かれている。油井大三郎氏によれば、沖縄戦における米軍側の戦死者は1.4万人、負傷者は7.2万人に及ぶという(日本側の犠牲者は18.8万人、うち9.4万人が民間人)。[*1]

本作は、主に次の三つのパートに分かれている。
(1) デズモンド・ドスの信仰と信念が形作られるバージニアでの暮らし。造船所で働くおかげで兵役に就かなくても良かったドスが、戦場の兵士を救おうと決意して軍に志願するまでが描かれる。
(2) 軍隊での試練。過酷な訓練の中、銃を持とうとしないデズモンド・ドスは臆病者として上官や同僚からいたぶられ、その信念が試される。
(3) 大量の犠牲者を出した前田高地の戦いと、神の声を聞いたドスの活躍。
観客は、最初のパートをある程度の共感をもって観ることができるはずだ。ドス役のアンドリュー・ガーフィールドの魅力もあって、観客はドスに好感を抱くに違いないし、ドロシーへのプロポーズは微笑ましい。
しかし、二番目のパートになると、観客はこの主人公を侮っていたことに気づくだろう。彼の信念の強さは並外れており、その貫徹ぶりには驚くしかない。上官からの嫌がらせや仲間からの冷たい仕打ち、挙げ句の果てには軍法会議にかけられて犯罪者扱いされようとも、彼は決して銃を手にしない。
私はこれを「信仰の強さ」ではなく、「信念の強さ」と書いた。
ドスは「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉に忠実であろうとするが、その態度が信仰心のためとばかりは云えないからだ。
「汝、殺すなかれ」という戒めには、解釈の余地がある。それは必ずしもすべての人を殺すなということを意味しない。劇中、サム・ワーシントン演じるグローヴァー大尉がドスに向かって「戦争は違う」と話すように、米兵にはキリスト教徒が少なくないが、彼らはためらわずに銃を手にしている。
デズモンド・ドスと同じく伝記映画になった米国軍人で、ドスとは対照的な人物がいる。1941年公開の『ヨーク軍曹』のモデル、アルヴィン・ヨークだ。第一次世界大戦で従軍したヨークは、セブンスデー・アドベンチスト教会と同じく「汝、殺すなかれ」を文字通り厳しく解釈するクェーカー教徒だった。ヨークは訓練期間中に上官のもとへ行き、「汝、殺すなかれ」と教えられてきた自分に人を殺す訓練はできないと伝える。『ハクソー・リッジ』でドスがグローヴァー大尉と話すところにそっくりだ。
ヨークがドスと違ったのは、上官と話した後に銃をとって戦うようになり、戦場で多くの武勲を立て、名誉勲章をはじめ数々に栄誉に輝いたことだった。[*2]
ヨークは信仰を捨てたわけではない。「汝、殺すなかれ」という言葉に、彼なりに折り合いをつけたのだ。
「汝、殺すなかれ」の「殺す(ratzach(ラツァハ))」とは、不法に命を取ることであるという。「汝、殺すなかれ」は、悪意をもって謀殺することを戒めているのであり、敵から仲間や家族を守ったり、悪党を誅殺することは否定していない。[*2]
だからアルヴィン・ヨークは銃を手にして敵兵を殺すことができた。たくさんのドイツ兵を殺し、捕虜にすることで、戦争の英雄となった。
グローヴァー大尉が「戦争は違う」と云ったのも、同じことだ。彼の目には、ドスが信心深いというよりも、激しい思い込みに囚われた迷惑者に映ったことだろう。
だが、ドスの信念は筋金入りだった。甘い言葉も、投獄の恐怖も屈辱も、彼を翻意させることはできなかった。
訓練シーンの描写は、スタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』(1987年)を観た人にはそれほど刺激的ではないかもしれない。『フルメタル・ジャケット』の、精神がおかしくなるような過酷な描写に比べれば、本作のそれはたいしたことではない。
本作が絶望的なのは、上官だけでなく組織全体が軍事法廷まで開いてドスという人間を押し潰そうとするからだ。信念を口にする限り、彼の自由は剥奪され、刑務所送りという辱めを受ける。そのあまりの境遇に、同じアンドリュー・ガーフィールドが拷問を受ける『沈黙‐サイレンス‐』を連想した人も多いだろう。
それでも揺るがないドスの信念に、観客は敬服するしかない。
ここまででも充分に感動的な物語だが、この後、映画はいよいよ第三のパート、沖縄戦の地獄へと進む。

冒頭に「A TRUE STORY(真実の物語)」と掲げた本作は、しかし、必ずしも事実に即しているわけではない。物語をドラマチックに盛り上げ、主人公を英雄的に見せるために、大小の脚色がなされている。
パンフレットにも書かれているように、母に銃を向けた父をドスが止めるエピソードは、父と叔父の喧嘩を置き換えたものだ。
映画では、銃の訓練を拒否したドスは拘置され、ドロシーとの結婚式に出られなくなる。だが、現実のドスは兵役に就く前に結婚を済ませており、禁じられたのは海外任務に赴く兄に別れを告げることだった。映画の中の、白衣の天使のドロシーとの出会いはロマンチックだが、現実のドロシーは、ドスと出会ったとき看護師ではなかった。[*3]
フォート・ジャクソンでの訓練期間中、寝ていたドスが他の兵たちに袋叩きにされる(『フルメタル・ジャケット』でお馴染みの blanket party というやつだ)けれど、実際にこんなことをされた証拠はない。夜中に祈りを捧げていると、靴を投げつけられることはあったようだが。
特に違うのはドスの戦歴だろう。映画では、訓練地フォート・ジャクソンから沖縄の場面に切り替わり、ハクソー・リッジでドスが75人もの負傷兵を救う働きを見せた後、大日本帝国軍司令官の切腹とハクソー・リッジの制圧まで一気に進行してしまうが、実際には沖縄以前にドスはグアム島とレイテ島で目覚ましい働きを見せ、すでに青銅星章を授与されていた。
パンフレットの年表によれば、デズモンド・ドスがハクソー・リッジの戦いに加わったのは1945年4月29日。自軍の撤退後も高地の上に踏みとどまり、多くの負傷兵を救ったのが同年5月5日。ハクソー・リッジの戦闘が終了したのは5月9日。ドスが沖縄を去ったのが5月21日。大日本帝国の沖縄防衛第32軍司令官・牛島満中将が自決したのが6月23日と、二ヶ月近い期間である。本作のつくり手は、ドスの沖縄到着から沖縄戦終結までをまるで二、三日の出来事のように圧縮して、映画の躍動感を高めている。
そのくせ、投げつけられた手榴弾を蹴るアクションシーンは実話だというのだから恐れ入る。
一方で、重傷を負ったドスが彼を運ぶストレッチャーが来るまで五時間も待たされたことや、ストレッチャーで運ばれる最中に砲撃を受けたドスが傷ついた他の兵士を先にストレッチャーに乗せさせたことや、ストレッチャーが戻るあいだに腕を撃ち砕かれ、それでもその腕で救護所まで這っていったエピソードは削除された。あまりにも凄い話で、観客には信じられないだろうと感じたメル・ギブソン監督が削ってしまったのだ。
他にも様々な脚色が施されているが、どんなに脚色されても私はそれが本作を損なってはいないと思う。映画が面白くなって、なおかつテーマを深く掘り下げることができるなら、どんどん脚色すれば良いと思う。
本作では、負傷した米兵を探し回るドスが、途中で出くわした日本兵を手当したり、米兵と同じように日本兵まで高地の上からロープで降ろして救護所に運ばせた描写がある。
これがどこまで事実なのかは判らない。ドスが日本兵をロープで降ろしたことを裏付けるものはないという。
だが、何人かの米兵は、米軍の包帯で手当てされた日本兵を目撃している。[*3]
あの戦場で米軍の包帯を持っていたのは誰か。敵味方に関係なく、一人でも多くの人を救おうとしたのは誰だろうか。
映画を作るに当たって、真偽のほどを詳細に調べて再現することは必ずしも最優先ではないと思う。
私が重視したいのは、敵であっても助ける描写が必要であると、映画の作り手が判断したことだ。あたり一面、米兵と日本兵の死体で埋め尽くされた戦場で、そんなことが行われていたという物語を紡ぐことに意義があると、作り手たちは考えたのだ。
「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉を、多くの人は敵や悪なら殺してもいいと解釈してきた。しかし、敵だの悪だの考える前に、誰だろうと分け隔てなく救った男がいた。その物語を広め、共有することこそ、今の世界に必要だと作り手たちは考えたのだ。
篤い信仰心を持ちながら多くの敵を倒して英雄になった1941年の物語とは、まったく逆の英雄像が今求められているのだ。
私はそこに大いに共感した。それゆえに涙が止まらなかった。
戦争が終わっても、デズモンド・ドスは壊れた腕のために大工に戻れなかった。そして、怪我の後遺症と、レイテ島で患った結核のために、長い長い闘病生活を余儀なくされたという。
参考文献
[*1] 2017年公開時のパンフレット
[*2] 星川啓慈 『戦争と文化(17)――聖書には「汝、殺すなかれ」とあるのに、どうして、ユダヤ=キリスト教は戦争や暴力行為を後押ししてきたのか?』
[*3] History vs. Hollywood "Hacksaw Ridge vs the True Story of Desmond Doss, Medal of Honor"
![「ハクソー・リッジ」スペシャルエディション [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81pGO0duU-L._SL160_.jpg)
監督/メル・ギブソン
出演/アンドリュー・ガーフィールド サム・ワーシントン ルーク・ブレイシー テリーサ・パーマー ヒューゴ・ウィーヴィング レイチェル・グリフィス ヴィンス・ヴォーン ナサニエル・ブゾリック ルーク・ペグラー
日本公開/2017年6月24日
ジャンル/[戦争] [アクション] [ドラマ]

【theme : 戦争映画(第二次世界大戦)】
【genre : 映画】
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