『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 正直な映画
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『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は特別な一本だ。
本作のプロットは、マサチューセッツ州出身の二人の映画人、マット・デイモンとジョン・クラシンスキーによるものだという。便利屋の男が、死んだ兄の遺した十代の息子の面倒をみることになる――というアイデアをマット・デイモンが出し、ジョン・クラシンスキーが舞台をマサチューセッツ州のマンチェスター・バイ・ザ・シーにするよう提案した。『プロミスト・ランド』(2012年)で制作・脚本・主演を務めるこの二人にプロデューサーのクリス・ムーアも加わって、マット・デイモンの初監督(と主演)作品として『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の準備が進められた。その過程で、マット・デイモンがケネス・ロナーガンに脚本化を依頼したのだ。
しかし、ロナーガンが二年かけて脚本を書くあいだに、マット・デイモンは『オデッセイ』の主演等で忙しくなり、本作に関われなくなってしまった。マット・デイモンはプロデューサーとして、ジョン・クラシンスキーはエグゼクティブ・プロデューサーとしてのクレジットに留まり、監督はケネス・ロナーガンに、主演はマット・デイモンの幼馴染ケイシー・アフレックに託された。
舞台となるマンチェスター・バイ・ザ・シーは、マサチューセッツ州エセックス郡にある人口五千人ほどの小さな港町だ。かつてはマンチェスターと呼ばれたが、同名の都市との混同を避けるため、1989年に町名を変更した。金持ちの別荘が並び、夏には行楽客で賑わう避暑地である。
この町を捨ててボストンで暮らしていたリーは、兄の死によって驚くべき事実を知らされる。死期を悟っていた兄は、遺された子パトリックの後見人に自分を指名しており、パトリックの面倒をみるためにボストンからマンチェスター・バイ・ザ・シーに引っ越すための費用等まで準備していたのだ。
マット・デイモンは云う。「問題は、彼にとって故郷に戻ることが、彼の人生における大きな悲劇と向き合うことを意味していたことです」。
劇中、しかとは説明されないが、兄の遺言が弟リーに対する最大限の優しさであったことは明らかだ。壊れた心を抱えたまま、故郷を捨てて孤独に暮らすリーにとって、故郷に戻り、家族を持ち、町の人との関係を修復する最後のチャンスが自分の死であることを、兄は理解していたのだ。
普通の映画なら、リーは兄の遺言に従って町に移り住み、周囲に心を開いていくことだろう。
ところが本作では、リーの心は壊れたままだ。かつてはみんなと仲が良かったこの町に戻りながら、誰とも打ち解けず、摩擦ばかり生じさせて、パトリックとも衝突する。再会した元妻が涙ながら謝っても、リーは急いで立ち去ることしかできない。
そして元妻の子供の存在や、兄の妻の現在のパートナーの存在は、失った時間が決して戻らないことを痛感させる。劇的なことは何も起こらず、地味な色合いの映像の中、心を閉ざしたリーの平坦な日々が淡々と描写される。この映画は137分もありながら、何の解決も示さない。結局リーは故郷に戻らないし、過去の悲劇と向き合えずに逃げてしまう。
その素晴らしさに私は感嘆した。公式サイトに紹介されたプロデューサー、ケヴィン・J・ウォルシュの言葉が本作の素晴らしさをよく表している。
「脚本を読みながら、僕は何度も泣いた。この脚本の正直さ、真実に心底感動した。だって現実には、物事はいつもきれいにまとまりはしないのだから。」
人は何ごとにも物語を期待しがちだ。多くの物語は起承転結で構成され、納得のいく結末がある。物語は因果関係を説明したり、因果応報を見せつけたりして、受け手にカタルシスを味わわせる。
このような定型から外れた本作は、物語としては破綻しているようにも見える。
でも、それこそが素晴らしいのだ。それこそが人生の真実だからだ。

私たちの周りは人を鼓舞する作品に溢れている。
曰く、努力すれば報われる。辛いことは乗り越えられる。頑張ろう、前向きにいこう。
それはそれで素晴らしいメッセージだ。そういう作品に勇気づけられる人もいるだろう。前向きな主人公に感動する人もいるだろう。
けれどもそういう映画ばかりだったら、報われない人はどれを観れば良いのだろうか。辛いことを乗り越えられずにいる人は、どうすれば良いのだろう。傷心を抱えた人や、頑張れなかった人は、「頑張れ」「必ず良いことがある」という映画を観て楽しいだろうか。
マンガ『ツレがうつになりまして。』に、鬱になったツレがテレビを見られないエピソードがある。特にテンションが高いバラエティーやワイドショー、歌番組が駄目で、登場人物が叱ったり叱られたりばかりのドラマ『渡る世間は鬼ばかり』は自分が説教されているようで一番苦手だったという。そんなツレでも大丈夫だったのが、喋り方が一定しているNHKの番組だった。
アメリカ映画の多くはテンションが高い。ポジティブシンキング発祥の地だけあって、映画の登場人物は二時間ほどの上映時間の中で見事困難に打ち克ってみせる。
だが、人によっては、そんな前向きなメッセージが眩し過ぎることもあるだろう。テンションが高くてついていけないかもしれない。そんな人も、劇的なことが起こらずに、平坦な日々を地味な色合いで淡々と描く『マンチェスター・バイ・ザ・シー』には安堵するのではないだろうか。
本作のクライマックスは、兄の遺言に従って町に移り住み、パトリックの後見人としての責任を果たそうとしたリーが、パトリックに向かい合う場面だ。
「乗り越えられない。」リーは観念したように云う。「済まない。」
リーはマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることを諦め、パトリックを兄の友人に預けてボストンに去ることにする。兄がみずからの死と引き換えに弟を立ち直らせようとした試みは潰えてしまう。
乗り越えられないものは乗り越えられない。それを正直に告白することが――過去の多くの映画はあまりにも作り物めいていたと認めることが――この映画のクライマックスだったのだ。
けれども、本作は絶望的でもなければ悲観的でもない。
世界を見渡せば、同じような味わいの映画がないわけではない。悲しい出来事で心が壊れ、自分を責め続ける主人公が、それでも生きていく映画――デンマーク映画の『光のほうへ』や日本映画『そこのみにて光輝く』に、本作は通じるところがあるだろう。
そして、これらの作品と同様に、本作もまた差し込む光が言葉以上に語っている。
雪のボストンからはじまるこの映画は、初夏の日差しが降り注ぐマンチェスター・バイ・ザ・シーの海で終わる。
かすかに、かすかにだが、映像は明るく、温もりを感じさせるものになっている。
リーの頬は、わずかばかり緩んで見える。
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監督・脚本/ケネス・ロナーガン
制作/マット・デイモン
出演/ケイシー・アフレック ミシェル・ウィリアムズ カイル・チャンドラー ルーカス・ヘッジズ グレッチェン・モル C・J・ウィルソン マシュー・ブロデリック ヘザー・バーンズ
日本公開/2017年5月13日
ジャンル/[ドラマ]

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『LOGAN/ローガン』 二人の父の物語
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ジェームズ・マンゴールド監督の作品にハズレなし。『LOGAN/ローガン』を観て、改めてそれを実感した。
まして本作では、マンゴールド監督が原案も脚本も制作総指揮も手がける八面六臂の大活躍。これまでのスーパーヒーロー物とは一線を画す作品に仕上がっている。
ジェームズ・マンゴールド監督といえば、『3時10分、決断のとき』で西部劇を復活させ、『ナイト&デイ』で60年代風スパイ・アクションを復活させ、『ウルヴァリン:SAMURAI』でアメコミ映画の枠組みを借りながらニンジャ映画とサムライ映画とヤクザ映画を取り上げるという、それはもう懐かしい娯楽映画の伝道師たる人だ。
そんな彼が『LOGAN/ローガン』で取り組んだのは――名作西部劇への挑戦だった。
■「最後の西部劇」ならぬ、最後の……

原作マンガではすでにウルヴァリンことローガンは死亡しているので、映画でローガンの死を描いてもおかしくはないが、ウルヴァリンとしての戦いの末に死亡する原作ではなく、老境のローガンを描いたオルタナティヴ・バージョン(異本)のマンガを元ネタにするとは面白い。
本作の検討段階でヒュー・ジャックマンが例に挙げたのは、『レスラー』(2008年)や『許されざる者』(1992年)だったという。老いてなおリングに上がろうする父親の悲哀を描いた『レスラー』や、隠遁生活を送っていた老ガンマンが再び戦いの渦に巻き込まれる"最後の西部劇"『許されざる者』の雰囲気は、たしかに本作に受け継がれている。
本作はロードムービーの形をとっているが、ロードムービーのコメディ『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)を血なまぐさくリアルなものにしたらと提案したのはマンゴールド監督であったという。
■X-MEN映画からの解放
一応は、過去のX-MEN映画との繋がりも考慮されている。
2016年の『X-MEN:アポカリプス』でミスティークとナイトクローラーの逃亡を助けた闇商人のキャリバンが本作にも登場し、アルツハイマー病を患うプロフェッサーXの世話をしている。敵対するザンダー・ライス博士は、『X-MEN:アポカリプス』においてローガンがストライカー大佐の研究施設で大暴れしたときに殺された科学者の息子だ。
『X-MEN:アポカリプス』のエンドクレジット後のシーンでは、研究施設からローガンの血液サンプルや研究データを回収する様子が描かれていた。本作に登場するローガンの遺伝子を持つミュータントたちは、46年前のあの事件のときに回収された血液から作られたのだろう。
とはいえ、マンガ『オールドマン・ローガン』は、パラレルワールドでの物語だから自由にできた作品だ。X-MENの映画がすでに八本(『デッドプール』を含めれば九本)もある中で、シリーズの一編として作ったのでは自由が利かないのは明らかだ(観客は、不老不死のはずのローガンがなぜアダマンチウム中毒を防げないほど衰えたのか、他のミュータントたちが死ぬほどのプロフェッサーXの発作とはどんなものだったのか知りたがるに違いない)。
そこでマンゴールド監督がとった手段が、シリーズをメタフィクションにしてしまうことだった。
20世紀フォックスは2016年の『デッドプール』でも第四の壁を破っているから、メタフィクションは経験済みだ。だが、『デッドプール』がスクリーンと客席のあいだにあるはずの見えない壁を破ってギャグを飛ばすのに対し、『LOGAN/ローガン』の手法は『サイボーグ009』に近い。
『サイボーグ009』の「移民編」では、未来人が太古の昔にタイムトラベルし、人類の祖先になることが描かれた。なのに「天使編」では人類を創造した異星人が出現し、「海底ピラミッド編」でも別の異星人が人類を進化させたのだと語られた。どう考えても矛盾しているのだが、著者石ノ森章太郎氏はインタビューに答えて、すべては完結編で明らかになると説明していた。
その完結編『Conclusion God's War』では、なんと冒頭で「移民編」も「天使編」も「海底ピラミッド編」も石ノ森章太郎の創作とされ、これから語るのが真の物語であるとされた(完結編の完成を待たずに石ノ森氏は亡くなられたが)。
『LOGAN/ローガン』でも、劇中ローガンはX-MENのマンガ本を指差し、ここに書かれているのは真実じゃないと説明する。こうすることで、過去のX-MEN映画はマンガ本の中の作り話だったことになり(本作こそが現実の物語)、今後作られるX-MEN映画が本作と矛盾していても、それはマンガ本の中のこととして説明可能になった。
マンゴールド監督は本作をシリーズ中の一編ではなく、単独の作品にしたかったそうだし、他のX-MENが劇中の年齢に応じて最適の役者に演じられてきた(たとえばプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビアは、若い頃をジェームズ・マカヴォイが、中年以降をパトリック・スチュワートが演じた)のに対し、不老不死のウルヴァリンはいつでもヒュー・ジャックマンが若々しく演じねばならなかったから、どこかの時点で設定をチャラにする必要があったのだろう。
■主人公はまたしても足が悪い
こうしてX-MENの作品世界から自由になった本作は、ではマンガ『オールドマン・ローガン』に忠実な映画化なのかといえばそうではない。『オールドマン・ローガン』には、20世紀フォックスが映像化の権利を持っていないアベンジャーズの面々が登場していて、20世紀フォックスには映画化できない。
だが、西部劇の面白さを知るマンゴールド監督にとって、それはたいした障壁ではなかったろう。西部劇の要素がある『オールドマン・ローガン』を映画化できなくても、マンゴールド監督の頭にはたくさんの映画を観て蓄えたネタがたっぷり詰まっている。
監督は前作『ウルヴァリン:SAMURAI』のときも、影響を受けた映画として西部劇の『シェーン』や『アウトロー』を挙げていた。本作では劇中に『シェーン』(1953年)の数場面が映し出され、シェーンのセリフも繰り返し紹介される。
マンゴールド監督は本作が影響を受けた作品として、『シェーン』、『レスラー』、『リトル・ミス・サンシャイン』の他に、老カウボーイが少年たちと旅をする西部劇『11人のカウボーイ』(1972年)や、詐欺師と少女のロードムービー『ペーパー・ムーン』(1973年)、ベテラン刑事が襲撃をかわしながら女性を護送していく『ガントレット』(1977年)を挙げたという。
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南北戦争に従軍して片足が不自由になった男が、細々と牧場を営んでいる。借金は返せないし、町の有力者からは嫌がらせを受けている。そんな彼が、遠く離れた町へ無法者を送り届けることになる。無法者は凶暴で手が付けられない上に、ボスを奪還しようとする手下たちが彼らを追撃する。一行を率いるべきピンカートン探偵社の老捜査官は頼りにならず、道半ばにして死んでしまう。ようやく目的地に到着するも、男は同行していた彼の子の目の前で撃たれる。子供は、命懸けで任務を果たした父を看取る。
これはまるで『LOGAN/ローガン』のあらすじのようだ。
ローガンの仕事は順調とは云い難く、チャールズの薬代にもこと欠くあり様だ。そんなローガンが送り届けることになったのが、凶暴で手のつけられない少女ローラ。彼らはローラを奪還しようとするサイボーグ部隊の追撃を受ける。かつてX-MENを率いていたチャールズは戦力にならず、道半ばにして死んでしまう。ようやく目的地に到着するも、ローガンは"彼の子"の目の前で殺される。子供は、命懸けで任務を果たした"父"を看取る。
衰えたとはいえ人並外れた治癒能力を持つローガンが、片足だけは治らずに、いつまでも足を引きずっていることに疑問を覚えた観客もいるだろうが、あれは『3時10分、決断のとき』の主人公の引き写しなのだ。
興味深いことに、『3時10分、決断のとき』はデルマー・デイヴィス監督の1957年の映画『決断の3時10分』のリメイクでありながら、ここに挙げた『LOGAN/ローガン』と『3時10分、決断のとき』の共通点がオリジナルの『決断の3時10分』にはない。オリジナルでは、主人公の足は悪くないし、道半ばで死ぬ老人はいないし、主人公と子供は一緒に旅をしないし、主人公は死なないし、だから子供が父を看取ったりしない。
マンゴールド監督は、リメイク作『3時10分、決断のとき』に付け加えたオリジナル要素ばかりを『LOGAN/ローガン』にも持ち込んだのだ。もう一度取り上げずにはいられないほど強い想いがあったのだろう。
その思いとは何だろうか。
■二人の父
それこそ『LOGAN/ローガン』の中で二度も出てくるセリフが示唆するものだ。長々としたセリフを二度繰り返すなんて、滅多にないことである。
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「人には人の生き方がある。それは変えられない。一緒にいることはできないんだ……人殺しとは。元には戻れない。烙印が押されているから。もう戻ることはない。さあ、家に帰って母さんに……母さんに云うんだ、もう大丈夫だって。谷から銃はなくなったって。」
名画『シェーン』の感動的なラストだが、よく考えるとこのセリフはおかしい。
流れ者のシェーンを慕ってくれた少年と、シェーンが惹かれ合ったその母との名残を惜しむセリフの中で、シェーンは少年の父に触れないのだ。
もちろん少年には父がいる。少年の母には夫がいる。悪党どもに屈せず、真面目に農作業に勤しむ立派な男だ。だが、一介の農夫でしかない彼は、嫌がらせする悪党どもを追い払えずにいた。
そこにやってきた無敵のガンマンがシェーンだった。息子はシェーンを慕い、妻はシェーンに惹かれていく。主人公シェーンがひたすらかっこいいこの英雄譚は、真面目なだけで魅力に乏しい父が引き立て役になることで成立している。その父を演じたのは、なんと『決断の3時10分』でも貧乏な主人公を演じたヴァン・ヘフリンだった。
ジェームズ・マンゴールド監督は、父親が引き立て役になっていることに引っかかりを覚えたに違いない。『3時10分、決断のとき』は、『シェーン』への返歌、いや『シェーン』のアンチテーゼになっている。
無敵のガンマンは護送される無法者のほうだ。護送する主人公は、牧場経営に失敗し、息子たちの前で悪党を追い払えずにいる惨めな父親である。「誇れるものが何もない。」と云う主人公が、誰もが臆する護送任務を最後までやり遂げようとしたのは金のためではない。結果、彼は命を落とすことになるのだが、「これで良心を保てた」と云って、持ち続けていた妻のブローチを息子に渡す。
息子は死にゆく父に寄り添い、「父さんはやり遂げたよ」と告げる。決して、無敵の早撃ちガンマンになびくことはない。
『3時10分、決断のとき』とオリジナル『決断の3時10分』の最大の違いは、オリジナルが夫婦の物語であるのに対して、マンゴールド監督のリメイク作が父子の物語であることだろう。オリジナルでは、最後に登場するのは主人公の妻であり、命懸けの任務に臨んだ主人公と妻の愛の深さが描かれていた。
この違いは、『LOGAN/ローガン』において二人の父を通してさらに強調される。
本作には二組の父子が登場する。ローガンと娘のローラ、そして彼らを温かくもてなす農夫ウィル・マンソンと息子のネイトだ。
農場を営むウィルは、周りの土地を買い占めた有力者から嫌がらせを受けている。彼は農場を続けようと頑張っているのだが、悪党どもを追い払えずにいた。そう、彼は『3時10分、決断のとき』の父と同じ、『シェーン』の農家の父と同じなのだ。
一方、この家にやってきて悪党をたちどころに追い払うローガンは、まさにシェーンの役どころだ。
けれども、本作はシェーンに当たるローガンをかっこよく引き立てはしない。暴力に頼って生きてきたローガンは、惨劇しかもたらさないからだ。
マンソン一家の温かさに触れたチャールズ・エグゼビアは、ローガンに対して「君も家族の温もりを知るべきだ」と諭す。終盤、ローラにはじめて「父さん」と呼ばれたローガンは、「こんな感じなのか」とつぶやきながら死んでいく。このときのローガンは、シェーンの役どころではない。彼は『3時10分、決断のとき』の父であり、『シェーン』の父なのだ。
真のかっこよさとは何なのか。
17年にわたり無敵のヒーローとして描かれてきたローガン/ウルヴァリンは、最後の瞬間にシリーズ全体へのアンチテーゼを示した。
それはまた、『LOGAN/ローガン』に登場する三人のウルヴァリンが示すことでもある。

本作にはウルヴァリンに当たる人物が三人いる。
一人はローガン(本名ジェームズ・ハウレット)だ。ウェポンXとして開発された彼は、X-MEN最強の武闘派で、長年"ウルヴァリン"のコードネームで活躍してきた。本作では、老いさらばえて戦いもままならないが、それでも戦い以外の生き方を知らない男として描かれる。
もう一人は、ローガンの遺伝子コードから創造されたローラである。22回の失敗の後、X-23として誕生した彼女は、原作ではローガン亡き後"ウルヴァリン"の名を継いでいる。
本作の冒頭、追跡部隊から逃げようとするローガンとは裏腹に、ローラが追跡部隊を片っ端から殺してしまうことでも判るように、若くてタフな彼女は戦闘力では老ローガンに勝る。戦闘マシーンとして生み出された彼女は、倫理も常識も知らず、ただ仲間への帰属意識だけで突き進む。
三人目はX-24だ。生まれたときから成人のローガンと同じ体を持つ彼は、ローラ以上に完璧なローガンのクローンだ。誕生時に凶暴性を植え付けられ、戦い以外のことはしない。
三人はそれぞれウルヴァリンのある面を象徴している。
X-24はこれまでのウルヴァリンである。戦いを厭わず、人殺しの烙印を押されても気にしない。敵をやっつけることがかっこいいなら、彼こそヒーローと呼ばれるに相応しいかもしれない。
ローガンも戦うばかりの男だったが、残念ながら体がついて来ない。老いた彼は、戦い続けることに限界を感じている。正真正銘ヒーローだったのに、キャリバンと友情を育むでもなく、孤独に浸っている彼は、戦うだけの男の末路を表している。
ローラは未来だ。これから選択できる未来。彼女も暴力を振るうけれど、それはまだ何も判っていないからだ。烙印が押される前に多くを学ぶことで、戦うだけではない人生を掴めるかもしれない。
「一緒にいることはできないんだ……人殺しとは。」
X-24のように獰猛な獣になるか、ローガンのように老いてから気がつくか。すべてはこれからの学び次第だ。
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監督・原案・脚本・制作総指揮/ジェームズ・マンゴールド
脚本/マイケル・グリーン、スコット・フランク
出演/ヒュー・ジャックマン パトリック・スチュワート ダフネ・キーン リチャード・E・グラント ボイド・ホルブルック スティーヴン・マーチャント
日本公開/2017年6月1日
ジャンル/[SF] [アクション] [ドラマ]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
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