『哭声/コクソン』 謎解きの先に
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恐ろしい映画である。
『哭声/コクソン』を紹介するのは難しい。
村人が次々に不審な死を遂げる本作はミステリーなのか。
悪霊の仕業が疑われる異常現象が連続するのはオカルト映画なのか。
怪人物が出没し、付け狙われるのはホラー映画か。
思いもかけない展開に観客は振り回され、気持ちを乱され、混乱する。
ナ・ホンジン監督は無情だ。観客にカタルシスを味わわせようなんて、これっぽっちも考えていない。
原題は『谷城(哭声)』。映画の舞台となる韓国の南西地方の谷城(コクソン)と、泣き叫ぶ声を意味する哭声(コクソン)を掛けている。
『アシュラ』で強圧的な検事を演じていたクァク・ドウォンが、本作では一転して臆病者で直情的な警察官ジョングを演じている。韓国映画にまま見られるように、警察官はヘッポコ揃いだ。主人公ジョングも、殺人事件が起きているのに自宅でのんびり食事したり、事件のあらましを家族にペラペラ喋ってしまったり。挙げ句の果てに、独断で一人の男を容疑者と決めつけ、男の家に不法侵入し、勝手に家探しする。実話に基づく『日本で一番悪い奴ら』で描かれた日本の警察並みにひどい。
ジョングが直面するのは連続殺人事件である。普通の連続殺人ではない。連続殺人といえば、一般的には何者かが複数の人間を殺害する事件を指すだろう。ところが、本作の場合は複数人を殺す事件が幾つも発生する。正気を失った男が一家惨殺事件を起こしたかと思えば、別の家では妻が家族を皆殺しにして首を吊る。夫が妻を、子が親を、手当たり次第に殺す事件が小さな村で次々に起こる。
これらの事件は無関係なのか。それとも何か繋がりがあるのか。あるとすれば、何者の仕業なのか。
ジョングが怪しいと睨んだのは、村外れの山に住み着いた日本人だ。村中、その日本人の良くない噂で持ちきりである。あるときなど、日本人が裸で山中を徘徊し、目を赤く光らせながら、鹿の肉を生のままむさぼるところが目撃されていた。
ジョングと同僚の警察官が、薄気味悪い日本人の留守宅を物色すると、あるわあるわ事件との繋がりを匂わせるものがいっぱい出てきた。
ショックだったのは、日本人の家にジョングの娘の靴があったことだ。次は娘が標的ではないかと怯えるジョングの懸念どおり、娘は不審な行動をとりはじめ、高熱を発したり、殺人事件の当事者と同じような発疹が出たりする。
ここから映画は俄然オカルト色を帯びてくる。ジョングの義母の提案で、高名な祈祷師を呼ぶと、娘を目にした祈祷師日光(イルグァン)はたちどころに悪霊の仕業であると見破った。祈祷師は、悪霊に支配された男――例の日本人――を退治すべく儀式を行うが、奇しくも同時刻に日本人も奇怪な儀式をはじめる。離れた場所で同時に行われる儀式は、念力がぶつかり合うサイキックウォーズの様相を呈し、その迫力に圧倒される。
犬や鶏が死に、血が溢れる展開には身の毛がよだつ。
それ以上に恐ろしいのは、ジョングの行動がどんどんエスカレートしていくことだ。気の小さいジョングは、激昂すると手が付けられない。最初は日本人宅への不法侵入だったが、娘の様子がおかしくなると彼は日本人を脅迫して村から追い出そうとし、日本人宅の礼拝室を壊したり、犬を殺したりする。娘の正気が失われると、仲間とともに得物を手にして日本人宅を襲撃する。もはやジョングが警察官かどうかは関係ない。これは捜査でも何でもない。集団リンチを取り締まるべき立場の警察官が、娘を気遣うあまり、率先して外国人を襲撃しているのだ。
「朝鮮人は、北も南も感情的に衝動的な人たちです。」
1972年、中国を訪問した米大統領ニクソンは、周恩来首相にこう漏らしたという。「私たちは、この衝動と闘争的態度が私たち両国を困らせるような事件を引き起こさないよう影響力を行使することが大切です。」
村中に殺し合いが蔓延し、自分の娘が被害者に、あるいは加害者になるかもしれない恐怖に駆られたジョングは、行動せずにはいられなかった。悪の原因をみずからの手で排除しようとする彼は、まさに「感情的に衝動的な人」だった。

祈祷師イルグァンによれば、山中の日本人が悪霊というのは見込み違いで、日本人も悪霊から村を守る祈祷師だったという。そして、真の悪霊は事件の目撃者だと思われていた白服の女だとジョングに告げる。
白服の女は、自分こそ人々を守ろうとしているのだと主張し、ジョングに祈祷師イルグァンの言葉には従うなという。
他方、ジョングと行動をともにしていた助祭は、日本人こそ悪魔であると確信し、悪魔との対決に赴く。日本人は助祭の前で鋭い爪と尖った耳を露わにし、遂にその正体を見せはじめる。
ようやくジョングの許に駆けつけた祈祷師イルグァンは、しかしジョングを救うでもなく、惨劇の様子を写真に撮ると、その場を去ろうとする。
いったい何が真実なのか。誰が本当のことを云っているのか。日本人を襲ったのは正しい行為だったのか間違っていたのか。何もかもが藪の中。すべてを観客の判断に委ねて、映画は幕を閉じる……――
――という話では全然ない。
本作は純然たるミステリーであり、きれいにスッパリ事件は解明される。
淡々と流れるエンドクレジットを前に、茫然とする観客もいるだろうが、それこそ作り手の狙いどおりだ。監督・脚本を務めたナ・ホンジンの術中に落ちている。
本作は構成が工夫されていて、すべてのヒントは冒頭に集約され、ラストには説明がない。だから、最後の謎解きを待っているとその期待が裏切られて、なんとも後味の悪い思いをすることになる。
だが、監督は決してアンフェアではない。
映画の冒頭に、事件の説明に代えて「ルカの福音書」第24章の言葉が掲げられている。
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彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
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思えば、最初の事件の現場で、ジョングは奇妙なキノコを目にしていた。
事件の当事者を調べた医者は、毒キノコの成分が大量に発見されたと述べていた。
新聞やテレビは、毒キノコを原料にした健康食品を食べた人が、妄想にとらわれ凶暴化して周囲の人を襲う事件が頻発していると何度も報じていた。
まさしく、鹿の肉をむさぼる日本人を目撃したと云う男は、健康食品を作る業者だったではないか。
ジョングが教会の司祭に相談に行き、娘が悪霊に取りつかれてるという祈祷師イルグァンの言葉を伝えると、冷静な司祭は証拠もないのに決めつけるなと諭したではないか。
事件はすでに解明されていた。
なのにジョングは「キノコのはずがない」と思い込み、噂を信じて、よそ者を、悪霊を恐れた。
滝に打たれて修行していた日本人は、真の修験者なのだろう。厳しい修行で身につけたはずの超自然的な「験力」を使い、凶暴化した人を鎮めようとしていたのだろう。
助祭の目には日本人が悪魔のように見えたのも、健康食品を食べていたからだろう。
劇中には鍼灸や漢方薬に頼るシーンがたびたび挿入され、村人が医者の診察よりも代替医療に頼りがちなことが示されていた。山で採れたキノコや鹿で作った健康食品は、村中に売れていたに違いない。毒キノコはマジックマッシュルームのようなもので、法悦感が得られたのかもしれない。

白服の女は、ジョングに鶏が三回鳴くまで待てと云った。鶏が鳴くといえば、新約聖書に伝えられる「ペテロの否認」だ。イエスが捕らえられた後、弟子のペテロは周囲の者に「あなたもイエスの仲間だな」と三度問われるが、ペテロは三度とも「そんな人は知らない」としらを切る。三度目に鶏が鳴くのを聞いて、ペテロはイエスの「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」という予言を思い出し、激しく泣いたという。このペテロの裏切りが、白服の女とジョングの問答の原型なのは明らかだ。ただし、「ペテロの否認」では三度繰り返すのはペテロなのに、本作では鶏が三度鳴くという。三度繰り返すのは嘘を意味するから、ここでは鶏が――すなわち鶏を三度鳴かせる白服の女が――嘘をついてることを示している。
また、金に汚い祈祷師イルグァンが写真を撮っていたのは、事件のあらましを把握して、また商売に利用する気だったに違いない。初めてジョングの家に来たとき、甕の中にカラスの死骸があることを見抜いてジョングたちを驚かせたが、死骸はもちろんイルグァンが下調べの際に入れておいたのだろう。
彼の場合は儀式でトランス状態に入るために、意図的に薬物を摂取していたのかもしれない。それでも、大量の血と嘔吐が噴き出す幻覚や、蛾の大群の幻覚には驚いたことだろう。
朝鮮人が感情的に衝動的な人たちだなんて飛んでもない。ナ・ホンジン監督は、冷静に計算高く、観客を翻弄する。本作がオカルトじみた凶悪犯罪の映画だと思ってしまう観客こそ、感情的で衝動的なのではないか。
ナ・ホンジン監督が本作を構想したのは、イエスがエルサレムに向かうときにユダヤ人がどのように受け止めたのかという思いからだったという。
「この映画は混沌や混乱、疑惑について描いていますが、イエスは歴史上最も混乱を与え、疑惑を持たれた人物の中の一人ですよね。」
國村隼演じるよそ者を日本人に設定したのは、"見た目は似ていても異邦人"である人物を通して、一見しただけでは敵なのか判断できない存在に対する「混同」を表現しようと考えたからだという。
終盤、娘を救いたい一心のジョングが、何が悪かったのかと問うたとき、彼が云われるのが「娘の父親の犯した罪のせいだ」というセリフだ。他人を疑い、他人を死なせること。それが彼の家族へ悲劇となって返ってきたのだと。
冒頭に掲げた「ルカの福音書」で謎解きを済ませた本作は、ただひたすらに不信と混同の先に待つ悲劇を描き続ける。悲劇を直視しなければ、ここから抜け出せないとでもいうように。
「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」
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監督・脚本/ナ・ホンジン
出演/クァク・ドウォン ファン・ジョンミン 國村隼 チョン・ウヒ キム・ファニ チャン・ソヨン
日本公開/2017年3月11日
ジャンル/[サスペンス] [ミステリー] [ホラー]

『メッセージ』 映画が避けてきたもの
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『メッセージ』には脱帽だ。前回の記事で、私はSF映画の物足りなさを吐露したばかりだ。ところがこの映画は、まさに私が望んでいたものを見せてくれた。
前回の記事「『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』 フォックスと取引した理由」で、私は次のように述べた。
・地球人の役者が変わった衣裳やメイクで演じるだけの異星人が多いけれど、異星人には地球人とはかけ離れた奇妙キテレツな姿であって欲しい。
・地球人とは考え方も行動もかけ離れた異質な存在であって欲しい。
そんな私の思いに応えるかように、『メッセージ』は極めて異質な宇宙人を登場させた。SF好きのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督らしい的確さだ。
実のところ、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督がSF好きとは知らなかった。動乱の中で人間のあり方を極限まで突き詰めた『灼熱の魂』や、過酷な犯罪を描いた『プリズナーズ』や『ボーダーライン』の印象から、実社会に根ざした作品を好む人物だと思っていた(『複製された男』もSFやファンタジーではないわけだし)。
だが、学校で科学を学んだヴィルヌーヴ監督は、今でも科学が大好きで、SF映画を手がけるのが長年の夢だったという。
「あなたにとって、SFとは観客に何を提供するものでしょうか?」と問われたヴィルヌーヴ監督はこう答えている。
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わたしにとってそれは、何よりも夢に近いジャンルです。現実の変形であり、現実から距離をつくり出し、面白い方法で探求させてくれます。
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そして「わたしにとって、最良のSF映画を挙げろといわれれば3つで事足ります。」と付け加えて、『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、そして『ブレードランナー』を挙げている。
なるほど、ヴィルヌーヴ監督らしい選択だ。いずれも新たなリアリズムに満ちた映像を編み出し、映画の地平を切り拓いた画期的な作品だ(SFとしての良し悪しは別だが。『未知との遭遇』については、アイザック・アシモフが酷評していたと記憶している)。
面白いのは、『2001年宇宙の旅』も『未知との遭遇』も、地球人と異星人とのファーストコンタクトを描いていることだ。『ブレードランナー』に関しては、ヴィルヌーヴ監督みずからその続編『ブレードランナー 2049』を手がけているから、ファーストコンタクト物の『メッセージ』を作ることでヴィルヌーヴ監督は"最良のSF映画"三本すべてに挑戦したことになる。

『メッセージ』がとりわけ野心的なのは、『2001年宇宙の旅』も『未知との遭遇』も描かなかったファーストコンタクトの実相を掘り下げているからだ。『未知との遭遇』は異星人と接触するまでに時間の大半を費やし、接触した後のコミュニケーションはほとんど描いていない。『2001年宇宙の旅』は異星人の遺産と接触するだけだ。
一方で、本作とよく似たストーリーの『地球の静止する日』(1951年)及び『地球が静止する日』(2008年)のように、異星人とあっさりコミュニケーションをとれる映画は多いし、コミュニケーションの有無に関係なく戦闘に明け暮れる映画もある。それらの作品における異星人は人間社会を描くための触媒だから、もとよりコミュニケーションに注意を払う相手ではない。
だから、異星人が出てくる映画はたくさんあるのに、一番大事なコミュニケーションの問題が置き去りにされていると感じる人は多かったはずだ。接触した異星人とどのように意思の疎通を図るのか。そもそも意志の疎通ができるのか。異星人の来訪の目的を知ろうにも、質問すらできないのではないか。
本作は、その極めて重要な――なのに多くの映画が避けてきた――問題を中心に据え、徹底的にリアルに切り込んでいる。この点だけでも、本作はSF映画の金字塔と呼ばれるに相応しいだろう。
異星人とのコミュニケーション、それを突き詰めることは、人間同士のコミュニケーションを振り返ることに他ならない。理解し合うとは何なのか、私たちは他者と判り合えているのだろうか。
最初から最後まで徹底して面白い本作だが、私が特にワクワクしたのは異星人とのコミュニケーションを模索する前半部だった。
ここでヴィルヌーヴ監督は、とても映画らしい技巧を駆使している。本作に登場する異星人――劇中ではヘプタポッド(七本脚)と呼ばれる――の姿がなかなか見えないのだ。まず、彼らの宇宙船がなかなか見えないことで観客は焦らされ、ヘプタポッドと接触してからもその姿が部分的にしか見えなくて焦らされる。
このように姿を小出しにしてサスペンスを高める名手といえば、スティーヴン・スピルバーグ監督が思い浮かぶ。これは同監督の『未知との遭遇』でも顕著な特徴だった。『GODZILLA ゴジラ』の監督ギャレス・エドワーズがスピルバーグにならってゴジラの姿を小出しにしたように、多くの作品で採用された手法である。
だが、本作での意味合いは少々異なる。異星人の全身を見せないことで観客の興味をそそるのはもちろんだが、同時にそれは異星人とのコミュニケーションの度合いを表す比喩になっている。どのようにコミュニケーションすればいいのか判らない状態から、徐々に異星の言語の解析が進み、対話の実現に向けて一歩一歩進んでいく様子を、異星人の露出に重ね合わせて映像的に表現しているのだ。

そして、控え目な色使いで緊張を強いる映像の中に、明るく鮮やかな"未来の記憶"がフラッシュバックで入り込む構成は、異なる時制の混合を見事に表現している。
原作者テッド・チャンが「ミラクル」と称えるほどのこの映画化を、存分に楽しみたい。
■言葉の力
映画化に当たって緊迫する国際情勢や軍事的な描写を盛り込んだことは、ヴィルヌーヴ監督らしさを強めた思う。監督は2010年の『灼熱の魂』のテーマに関して、こう述べていた。
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我々はどうすれば終わりのない暴力を生み出す、怒りの連鎖を断ち切ることができるのか。どうやったら互いに反目しあう人々、同じ土地の住人、親族たちの間に平和をもたらすことができるのだろうか。
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このテーマは2013年の『プリズナーズ』、2015年の『ボーダーライン』に受け継がれ、本作でも核の一つになっている。
脚本家のエリック・ハイセラーによれば、初期の構想では、ヘプタポッドからの贈り物は恒星間宇宙船の設計図だったという。一種の方舟で、これをきっかけに人類は他の星への植民に乗り出し、三千年後にヘプタポッドを助けることになるはずだった。だが、他の星への植民を描いた『インターステラー』(2014年)が発表されると、この構想は見送られた。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督やエリック・ハイセラーは、目の前にあったもの――「言葉の力」に焦点を当てることにした。
こうして、言語学を取り上げた小説『あなたの人生の物語』は軍事的な緊張を描く映画『メッセージ』となり、主人公ルイーズから中国人民解放軍のシャン上将への言葉の伝達がクライマックスになった。
人類が争いごとをやめなければ異星人に滅ぼされると警告する『地球の静止する日』では、人類を滅ぼす異星のロボットを止める言葉「Klaatu barada nikto」が英語では何を意味するのか明かされなかったように、ルイーズが中国語でシャン上将に何と云ったのか本作では説明がない。エリック・ハイセラーはちゃんと意味のあるセリフを書いたのに、ヴィルヌーヴ監督は中国語にあえて字幕を付けさせなかった。それは、セリフの中身よりも、言葉――コミュニケーション――こそが人の行動を、ひいては世界を変えることを示したかったからだろう。
ルイーズが伝えた言葉――彼女が知覚したシャン上将の妻の今際の言葉は、次のようなものだった。
「戦争に勝者はいない。寡婦だけよ。」
(In war, there are no winners, only widows.)
これまで多くの映画の主人公が戦争を回避するために活躍してきたが、本作で危機を回避するのは一本の電話、一連の言葉なのだ。
■非ゼロ和ゲーム
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、原作『あなたの人生の物語』の「死とつながる」アイデアが特に響いたと語っている。
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ぼくはあの短編小説の多層的なところが気に入っている。美しく、詩的で、力強いかたちで言語というテーマを探究している点に惚れたんだ。さらにぼくの心の底に響いたのは「死とつながる」というアイデアだ。
誰かがいつ、どうやって死ぬかがわかったらどうなるのか? そのとき、人生や愛は、家族、友人、社会とのかかわりはどうなるのか? 死、そして命をより理解することで、ぼくらはより謙虚になれる。ナルシシズムが蔓延している、自然との繋がりが危険なほど失われているいま、人類に必要なのはそうした謙虚さだろう。ぼくにとってこの小説は、死や自然、命の謎との関係を取り戻してくれるものなんだ。
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私たちは、愛する者と死別することを知っている(自分が先に死ぬか、相手が先かはともかく)。大切なものは必ずや失われる(墓までは持っていけない)。これは当たり前のことであって、その意味で私たちは出来事の結末をすでに知っている。誰とも死別しない未来や、何も失わない未来などあろうはずがない。
それを知ってもなお、いや結末が判っているからこそ命を愛しみ、日々を大切にすることができるのだと、賢者たちは諭してきた。
これまで観客に人生の過酷さを突き付けてきたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督だが、結末を受け入れることで変化したのは誰よりもヴィルヌーヴ監督かもしれない。
劇中にたびたび挿入される子供と自然の映像が、ファーストコンタクトの物語と結びつくラストは、ハッピーエンドかアンハッピーエンドかを超越した境地に私たちを連れて行ってくれる。
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監督/ドゥニ・ヴィルヌーヴ 脚本/エリック・ハイセラー
出演/エイミー・アダムス ジェレミー・レナー フォレスト・ウィテカー マイケル・スタールバーグ マーク・オブライエン ツィ・マー
日本公開/2017年5月19日
ジャンル/[SF] [ドラマ]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ドゥニ・ヴィルヌーヴエイミー・アダムスジェレミー・レナーフォレスト・ウィテカーマイケル・スタールバーグマーク・オブライエンツィ・マー
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』 フォックスと取引した理由
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最高の映画だった!
前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と同じくジェームズ・ガンが監督も脚本も務めるから、期待は否が応にも高まったが、なにせ前作は面白すぎる。あんなに面白くできるのかと危ぶんでいたら、さすがジェームズ・ガン監督、やってくれた。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は最高の上に最高の映画だった。
スピーディーな展開に、豊かなイマジネーション。アクションシーンになると寝るのが常の私ですら、まったく目を離せない痛快アクション。笑いあり笑いあり、笑いの上に涙もあって、カツ丼に海老天とウナギとビフテキを乗っけたような満足感だ。可愛い外見と口の悪さのミスマッチが魅力だったアライグマのロケットに加え、可愛らしいベビー・グルートまで登場するのだからキャラクター物としても鉄板だ。
本来なら派手なアクションやサスペンスで観客の目を引くべきオープニングに、ベビー・グルートの珍騒動を持ってくるところに自信のほどがうかがわれる。
■ジェームズ・ガンは判ってる
私が何より感激したのは、ジェームズ・ガン監督の「判ってる感」だ。
作品をつくる人は――とりわけあるジャンルの作品をつくる人は、先行するたくさんの作品に接して、そのジャンルに惚れ込んだから携わっているのだと思う。そんな中でも、ジェームズ・ガン監督は飛び抜けている。この手の作品の真髄が「判ってる」し、受け手が観たいものを深いレベルで「判ってる」。おそらく監督本人が最高の観客であり、観客が求めているのは何か、どんなものに喜ぶか、どんなときに満足できないかを、観客目線で「判ってる」のだ。
前作の記事「『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 スペースオペラへようこそ」の中で、私は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を『スター・ウォーズ』以来の「『スター・ウォーズ』のような映画」と称えたが、今こそよく判った。本シリーズはジョージ・ルーカスがスター・ウォーズ・シリーズを作って以来の、判ってる人がこだわって作った映画なのだ。いや、判ってる人やこだわりを持っている人は他にもいるだろうから云い直そう。判ってる人がこだわって作り、成功した映画なのだ
何を判っているかって?
宇宙モノのSFを、スペースオペラをだ。

評論家氏が日本の特撮映画の撮影現場を訪れると、スタジオに宇宙のセットが組まれていた。特撮といえばミニチュアのセットを作り、ピアノ線で吊るした宇宙船を撮影していた時代のことだ。電気で星が光るようにした宇宙のセットの前で、スタッフは誇らしげだったという。「この星はただ光るだけじゃありません。またたくことができるんです。」
このときの評論家氏の絶望的な気持ちは想像にかたくない。星のまたたきは空気中の光の屈折が起こすイタズラだから、空気のない宇宙空間で星がまたたくことはないのだ。
宇宙に空気がないことを知らないと、あるいは星がまたたく仕組みを知らないと、夜空を見上げたときに目に入るものがそのまま宇宙で起きていると思ってしまうのかもしれない。いくら美術スタッフがこだわって仕事をしても、判っていなければこんな悲劇(喜劇)が起きてしまう。
21世紀になって、さすがに宇宙で星がまたたく映画は見かけなくなったが、「判ってるんだろうか」「もっとこだわってほしいな」と感じることはときどきある。
必ずしも科学的な正確さを求めているわけではない。不自然に感じさせなかったり、不自然さに目をつぶりたくなるほど面白ければいいのだ。そこまでやってくれれば、少なくとも私は満足だ。
だから、ちゃんと考えて、こだわった作品に出会うと、とても晴れやかな気持ちになる。心配や不安が解消され、観ているうちに心が洗われていく。
前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はとても楽しい映画だったが、主人公スター・ロードが宇宙船に乗りもせず、マスクをしただけで宇宙飛行することに面食らった人もいると思う。『宇宙からのメッセージ』(1978年)の宇宙ボタルを捕まえるシーンや、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(1980年)の小惑星の洞窟のシーンのように、登場人物が宇宙服を着ずに(あるいは観客には認識できない不思議な方法で)宇宙船の外に出る映画があるけれど、スター・ロードの宇宙飛行も同じように見えたのだ。
本作では、登場人物が透明な宇宙服を装着するシーンや、宇宙服なしで船外に放り出されて死亡するシーンが挿入された。それらがあることで、作り手がちゃんと判っていることが伝わってきた。前作にモヤモヤした観客も、本作の後であればスッキリした気持ちで前作を見返すことができるだろう。
中盤に宇宙服がないと死ぬシーンを挿入したのは、終盤におけるヨンドゥの決意を観客に実感させるためでもあろう。観客の中にも、宇宙服を着なければ危険であることを知らない人がいるかもしれない。作り手のこんな心遣いが嬉しい。
本作では、大規模な宇宙戦が起きても操縦士は遠隔地にいて死なないが、そのような描写は2010年代に激化した遠隔操作の無人機による攻撃を反映させたというよりも、ジョージ・ルーカスが心がけた「人が死なない戦闘シーン」を受け継いだものと見るべきだろう。
ジェームズ・ガンはよく判ってる。
![コスベイビー 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』[サイズS] ベビー・グルート(おすわり版)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Fmos5461L._SL160_.jpg)
本作の楽しさは、多種多様な種族が登場することにもある。前作同様ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(銀河の守護者)[*1]のメンバーがバラエティに富むのはもとより、青い肌のヨンドゥが率いる宇宙海賊ラヴェジャーズや全身金色のソブリン人たちが入り乱れて、賑やかなことこの上ない。
宇宙を舞台にしたSFに様々な形態の宇宙人が登場することには、一つ大事な意義がある。突拍子もない姿形だが知的な生物を目にすることで、地球人同士の肌の色の違いや目鼻立ちの違いなどは些細なものだと思えてくることだ。だから、異星人がわんさか登場するスペースオペラでは、彼らの姿は地球人にとって奇妙キテレツであることが望ましい。
そう考えていた私には、二本脚で直立歩行し、目が二つ、口が一つの地球人型生物(ヒューマノイド)ばかりが活躍するのは物足りない……と思いながら観ていたら、そんな観客の気持ちを見透かすように、後半になって"生きる惑星"エゴが登場してくれた。
エゴは月ほどの大きさで、虚空にポッカリ浮かぶ孤独な星だ。だが、それは自我を持ち、星全体が一つの生き物でもある。何百万年もの長い時間を経て、知性を発達させた星なのだ。
やっぱり宇宙を舞台にしたSFには、こういう生き物が出てきて欲しい。
地球人には生物と思えないような、「常識」を超越した存在。数十年の寿命しか持たない地球人には到底及びもつかない知性。そういうものと遭遇するかもしれない宇宙の底なしの恐ろしさを感じさせるところに、宇宙モノの魅力の一端があると思う。
だからSF小説やSFマンガには、エゴのような奇妙な生物が多々登場する。作家たちは想像力の限りを尽くし、受け手の思いもよらない生物を考え出す。
ところが映画となると、宇宙人でありながら地球人のようなヒューマノイドが非常に多い。異星で進化したはずなのに、体形も目鼻立ちも地球人と変わらず、地球人のように考え、地球人のように行動する生物にあふれている。ときには、地球とは違う生態系や知性のあり方を提示する映画もあるけれど、ほとんどの作品は現代人が扮装だけ変えて現代とは違う世の中を演じてみせるコスチューム・プレイの変形でしかない。
それゆえ、派手な衣装のスーパーヒーローが活躍するマーベルの映画に、"生きる惑星"が登場したのは嬉しい驚きだった。"生きる惑星"は、『惑星ソラリス』の知性ある海や『スター・トレック』(1979年の劇場版第一作)の雲状の天体ヴィージャーにも劣らない、異様な存在だ。
人智を超えた未知の生命との邂逅という深遠なテーマを忍ばせながら、軽快な話運びと胸のすくアクションで楽しませてくれる本作には舌を巻かざるを得ない。
マーベルのマンガには神のような存在がたくさん登場するのに、映画では『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』に宇宙魔神ギャラクタスが少し出たくらいなのが寂しかったが、エゴが登場することで、ようやく映画がマンガの自由奔放さに近づいたようだ。

本作の主人公、スター・ロードことピーター・クィルは、星間帝国の皇帝ジェイソンを父に持つ高貴な血筋だ。地球に不時着したジェイソンが地球人の女性メレディスと恋に落ち、二人のあいだに生まれたのがピーターだ。
この原作の設定を、ジェームズ・ガン監督は完全に捨て去った。しかも、あろうことかマイティ・ソーの宿敵エゴをピーター・クィルの父にした。ガン監督の構想を聞かされたマーベルのお歴々が「それはリスキーだ」と云ったのも無理はない。
"生きる惑星"エゴの登場は、SFとして充実するだけではない。作家たるジェームズ・ガン監督の強烈な個性のほとばしりでもある。
実は、ジェームズ・ガン監督に対して、ディズニー/マーベルはエゴを映画に出すことはできないと伝えていたそうだ。彼らはエゴを映画にする権利を持っていなかった。エゴに関する権利は、『ファンタスティック・フォー』とともに20世紀フォックスに握られていたのだ。
ピーター・クィルの父はエゴを置いて他にないと固執するジェームズ・ガン監督は、20世紀フォックスと談判し、本作にエゴを出すことに成功した(引き換えに20世紀フォックスは、『デッドプール』でのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドの能力に関する創作の自由を得た)。
こうまでしてガン監督が出したかったエゴなのに、エゴに関する設定も原作とは異なっている。
原作のエゴは、惑星表面に巨大な顔が浮かび上がったキャラクターだけれど、映画では表面の顔はほとんど無視され、もっぱら惑星中心の巨大な脳がクローズアップされている。エゴの誕生の経緯も、まず宇宙に脳だけが出現し、脳がまわりの原子を操作することで惑星状の物体になったと説明される。つまり、映画のエゴは"生きる惑星"というよりも、惑星のような外殻をまとった巨大な脳なのだ(偶発的に知性が生じる「ボルツマン脳」と呼ばれるものかもしれない)。
頻繁に出てくる脳の映像に、既視感を覚える人もいるだろう。これはジェームズ・ガン監督がかつて作った低予算映画『スーパー!』の繰り返しだ。
低予算映画でデビューした監督が大きな予算を手にしたときに、(意識してかどうかはともかく)改めて低予算時代のイメージを形にするのは珍しくない。
デヴィッド・リンチ監督は、低予算映画『イレイザー・ヘッド』で描いた月のイメージや奇形の誕生というモチーフを、大予算の大作映画『砂の惑星』で再現した。『イレイザー・ヘッド』の次の『エレファント・マン』で商業映画も撮れることを証明したリンチは、その次の『砂の惑星』で大きな予算を手にするや、『イレイザー・ヘッド』でやったことを嬉々として繰り返した。原作小説のファンは、映画『砂の惑星』に映し出される不可解なイメージショットに困惑したことだろう。
ジェームズ・ガン監督も『スーパー!』に続く長編映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を成功させると、次の本作で『スーパー!』に立ち返ったようだ。
そもそもジェームズ・ガン監督は、前作の時点で主人公ピーター・クィルの出生地を、自身が生まれ育ったミズーリ州にしている。そしてピーター・クィルを、1970年生まれの監督が少年期に聴きまくったであろうヒット曲が大好きな男にして、さらに本作では1980年代の少年ならはまったに違いないパックマンが好きであることも示した。すなわちピーターは、ミズーリで少年時代を過ごした監督の分身でもあるのだ。
加えて、ピーターの仲間であるロケットや海賊仲間だったクラグリンには監督の弟ショーン・ガンを起用し(ロケットの声を演じたのはブラッドリー・クーパーだが)、ミズーリの街で怪物に遭遇する老夫婦には監督の両親を配している。
宇宙を股にかけた大冒険が描かれる一方で、本作はジェームズ・ガンのとても個人的な映画といえる。
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スーパーパワーがないだけで、やっているのはマンガの中のスーパーヒーローと同じようなことなのに、それは狂気にしか見えなかった。スーパーヒーローの行為が冷静に見ればただの暴力でしかないことや、善悪の判断が独善的すぎることを皮肉ったこの映画は、痛烈な風刺と同時にマンガやスーパーヒーローへの深い愛情が感じられて、スーパーヒーロー好きにはとても切ない作品だった。
『スーパー!』の主人公が啓示を受けるシーンで映し出されたのも脳髄だった。
主人公の頭から脳がむき出しになり、神(のようなもの)の指が触れる。これにより、主人公はスーパーヒーローとして立ち上がる(あるいは狂気に囚われる)ことになる。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』でも、神を称する巨大な脳エゴが主人公ピーターに力と啓示を与える。ピーターはスーパーパワーを得て、いかにもマーベル的なスーパーヒーローと化し、なすべこと――みずからも神の一部となり、世界を吸収する――を悟る。
エゴ(ego)は、日本語では「自我」「自己」と訳される。肥大化した自我は、独立した他者の存在を否定するようになり、振る舞いが暴力的になる。ここで描かれるものは、まさに『スーパー!』のテーマに等しい。
ただし、肥大化した自我――脳――の命ずるままに暴力を振るった『スーパー!』の主人公に比べて、本作のピーターはいくぶん成長している。彼は、自我の肥大化とスーパーヒーロー気取りの危うさに気づき、肥大化した自我――エゴ――に抵抗する。エゴによってもたらされたスーパーパワーは、エゴを倒したら消えてしまう。それでもピーターはエゴと戦い、結果、スーパーパワーを失う。つまり、スーパーヒーローであることをやめたのだ(少なくとも、神ではない普通の人間のままでいることを選んだ)。いったんはスーパーヒーローになった彼だが、スーパーヒーローからただのヒーローになったのである。
『スーパー!』でマンガ狂いの中年男の悲哀を描いたジェームズ・ガン監督は、遂にアメコミの総本山マーベルにおいてスーパーヒーローから脱却する映画を撮った。「スーパー」がない「ヒーロー」にだって、主人公は務まることを――マンガの主人公ではなく、人生の主人公が務まることを――示したのだ。
大切にするべきなのは、母との平凡な暮らしだった。親しい友人や家族に囲まれた日常だった。
それがスーパーヒーロー(のマンガ)の虜になっていた男の結論だった。

8年間の結婚生活に終止符を打った後でガン監督が発表した『スーパー!』。その中で、妻に逃げられた主人公が行き着く先は孤独だった。フィクションに埋没し、妄想と願望をないまぜにして乱暴に振る舞う主人公の許には、誰も残らなかった。
本作の主人公には、まだ仲間たちがいてくれる。家族と呼べるほど親しい者たちがいる。
ジェームズ・ガン監督は語る。「前作は、アクの強いメンバーがファミリーとして結束するまでの話だった。そこで今回は"ファミリーでいること"を描くことにした。実際、家族になることよりも、その関係を維持することの方がずっと難しいからね。」[*2]
自我の暴走を抑え込んだ男は、もう大切なものを失わない。
[*1] 本来はガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー(Guardians of the Galaxy)だが、本稿では映画の邦題に合わせてガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと表記する。
[*2] 月刊シネコンウォーカー(No.137/2017年5月6日発行)
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監督・脚本/ジェームズ・ガン
出演/クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ マイケル・ルーカー ショーン・ガン ブラッドリー・クーパー ヴィン・ディーゼル カート・ラッセル カレン・ギラン ポム・クレメンティエフ エリザベス・デビッキ シルヴェスター・スタローン ミシェル・ヨー クリス・サリヴァン
日本公開/2017年5月12日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [ヒーロー] [SF]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ジェームズ・ガンクリス・プラットゾーイ・サルダナデイヴ・バウティスタマイケル・ルーカーショーン・ガンブラッドリー・クーパーヴィン・ディーゼルカート・ラッセルカレン・ギラン
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』 封印解いてベッカンコの巻
【ネタバレ注意】
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』を観ようと思ったのは、籠谷千穂氏のツイートが目に留まったからだ。
『ドラえもん』がラヴクラフト!?
どういうことか確かめようと足を運んだ私は、本作のあまりの面白さに驚愕した。
かき氷をたくさん食べたいのび太がドラえもんと氷山に行ってかき氷を食べまくり、さらに友だちを連れてきて楽しく遊ぶ、という序盤の流れは、原作マンガの『大氷山の小さな家』の流用だ。そこで、10万年前から氷漬けになっていたリングを見つけたのび太たちは、リングの出所を探るべく南極へ赴く。ここから物語はH・P・ラヴクラフトの怪奇小説『狂気の山脈にて』にスライドし、太古の昔に飛来した異星人の遺跡に遭遇したり、遺跡に残る怪物に襲われたりする。
本作におけるラヴクラフト作品との類似や、『遊星からの物体X』からの引用等については、籠谷千穂氏がご自身のブログで掘り下げた記事を書いておられる。
怪奇小説が元ネタとはいえ、決してホラー色が濃厚な映画ではない。テンポの良いストーリー運びの中に、友情と親愛と夢がいっぱい詰まった痛快無比の冒険活劇だ。
私の隣の席に座った小さな男の子は、予告編のときからちょっと映像が暗くなるたびに「怖い、怖い」と母親にしがみついていたが、本作がはじまると食い入るようにスクリーンを見つめていた。幼児だって片時も目を離せない、楽しく面白い作品なのだ。
■大長編SF冒険マンガと日常的短編SFマンガの交代
本作を観て、私はとても羨ましく感じた。ドラえもん映画は、今もこんなにも面白い。
オーパーツを巡る異境の冒険、タイムトラベルと異星人、超科学・新発明を駆使して戦う仲間たち……。これらはどれも『サイボーグ009』のお株だったはずなのに、と009ファンの私は思った。便利なひみつ道具を次々取り出すドラえもんと、ひみつ道具を各人各様に装備したのび太たちは、まるで発明家ギルモア博士と兵器を内蔵したゼロゼロナンバーサイボーグたちに見えた。
『サイボーグ009』が死の商人ブラックゴーストとの戦いにひと区切りつけ、タイムトラベラーや異星人を相手にしたり、オーパーツに導かれて異境を探検したのは、1968年の「移民編」から1979年に終了した「海底ピラミッド編」までのことだ。この間、二度のテレビシリーズが制作され、1980年の年末にはオーパーツや古代遺跡や異星人や宇宙探検がてんこ盛りの映画『サイボーグ009 超銀河伝説』が公開された。東映史上初の、アニメーションの正月映画だった。この頃までは、この手のマンガ・アニメを代表するのは間違いなく『サイボーグ009』だった。
けれども、1979年からはじまった『少年サンデー』と『少年ビッグコミック』での連載の途中から、『サイボーグ009』は人情話になっていった。サイボーグ戦士たちの日常の出来事を拾い上げた短編がもっぱら描かれるようになったのだ。この後、何度もテレビアニメや劇場用アニメ等が作られたけれど、痛快無比の冒険活劇とはいかなかった。サイボーグ戦士たちの日常を題材に、彼らの心の襞を丁寧に描写した作品群を経た後では、あっけらかんとしたストーリーが馴染まなかったのかもしれない。すでに『サイボーグ009 超銀河伝説』でも、009の浮気問題や004との友情のグダグダが挿入され、痛快無比とはいえなかった。
『サイボーグ009』の変化と軌を一にするように、『ドラえもん』も新たな領域へ踏み出していた。ただしそれは、『サイボーグ009』とは正反対の方向だ。
日常的な出来事に少し不思議な要素を織り交ぜた一話完結の短編ばかりだった『ドラえもん』は、1980年に『大長編ドラえもん』と題してマンガ『のび太の恐竜』が発表され、合わせて同タイトルの劇場用長編アニメーション映画が公開された。この作品を嚆矢として、以降毎年のように長編映画の公開が続き、ドラえもんたちは宇宙へ太古へ海底へと縦横無尽に活躍するようになった。
そして2017年の長編映画第37作『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』に至るわけだが、その元気に溢れた面白さは圧巻だった。『サイボーグ009』の「移民編」から「海底ピラミッド編」までを濃縮したようなストーリーに、土管に腰かけてコッペパンを頬張り、新幹線の屋根に飛び乗ってはしゃいでいた頃の009の天真爛漫さを盛り付けたような楽しさだった。そのうえ、ドラえもんたちが先端にドリルのついた氷底探検車に乗って南極の氷を掘り進む様子は、『サイボーグ009』の「地下帝国ヨミ編」でドルフィン号が地底を探検するところにそっくりだし、氷底の古代都市でのび太を襲うペンギンの石像のデザインは地下帝国ヨミの鳥型の魔神像を思わせた。
これだ。私が観たかったのはこんなアニメだったのだ。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』は、人間ドラマとしても大いに見応えがある。
映画の中盤では偽ドラえもんが出現し、のび太たちを混乱に陥れる。スネ夫やジャイアンは偽者と覚しきドラえもんを警戒し、氷漬けにしてしまおうと相談する。何の危害も加えられていないにもかかわらず。複数出現したドラえもんのどちらを攻撃するか相談するスネ夫とジャイアンは、あたかも誰をいじめるか標的を選ぶかのようだった。
それを止めさせたのが、のび太の"誰もいじめない"という選択だ。スネ夫やジャイアンに同調していれば無難だろうに、あえて立ち塞がったのび太の凛々しさに胸が熱くなる。終盤の危機的状況で、未来ののび太に希望を託す(『STAND BY ME ドラえもん』を彷彿とさせる)展開は、中盤でのこのやり取りがあるから生きてくるのだ。
映像面でもニヤリとさせられることが多い。
封印を解かれて蘇った巨大な怪物ブリザーガを目にして、多くの観客が宮崎駿監督の『もののけ姫』のディダラボッチに似ていると感じるだろう。加えて、口から冷凍ビームを吐き散らし、ドラえもんたちを襲う凶暴さは、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。
巨神兵にディダラボッチ――つまりは宮崎アニメの源流であるポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(後の『王様と幸運の鳥』『王と鳥』)の巨大ロボットの再来なのだ。王国の高度な科学技術の象徴でありながら、王様の城も街も破壊し、遂には王様自身を破滅させてしまう巨大ロボットの発展形を、ここにもまた見ることができる。
竜に変化したブリザーガを凍結させるクライマックスに至っては、天才アニメーター金田伊功氏が参加した『幻魔大戦』(1983年)のクライマックス、巨大な竜を凍結させて倒すところを思わせて楽しい。
■世界史の大きな謎
怪物ブリザーガと、ブリザーガを生み出したヒョーガヒョーガ星について考えると、本作の作り手の科学技術や文明に対する見方が窺えて興味深い。
はるかな昔、古代ヒョーガヒョーガ人は数多の星を訪れ、その星の生態系を作り変えるほどの高度な文明を持っていた。ブリザーガとは、古代ヒョーガヒョーガ人が創造した巨人族で、惑星全体を凍結させる能力を備えている。古代ヒョーガヒョーガ人は宇宙のあちこちにブリザーガを放ち、ターゲットとなる惑星に全球凍結(スノーボールアース)現象を起こすことで、生物の爆発的な進化を促していたのだ。
やがて高度なヒョーガヒョーガ文明は失われてしまい、のび太たちが出会った頃のヒョーガヒョーガ人は古代人が残した遺跡を発掘して技術を学ぶあり様だった。それでも超光速航行を駆使して星々を巡るくらいの文明は有していたが、誤って起動させたブリザーガを止められず、ヒョーガヒョーガ星全体の凍結を招いてしまう。ヒョーガヒョーガ人のヒャッコイ博士と少女カーラは、凍りついた故郷を元に戻す方法を探して、10万光年の彼方から地球に残る遺跡を調べに来ていたのだ。
劇中では明示されないが、南極大陸に古代ヒョーガヒョーガ人の遺跡があったことや、地球でも七億年前や六億年前にスノーボールアース現象が起きて生物が爆発的に進化したことを考えれば、地球の生物を進化させたのも古代ヒョーガヒョーガ人なのかもしれない。ヒョーガヒョーガ人と地球人は瓜二つだから、地球人はかつて地球を訪れたヒョーガヒョーガ人の末裔かもしれない。その記憶が失われてしまうほど壊滅的な出来事が、地球のヒョーガヒョーガ人に起きたのだろう。
ヒョーガヒョーガ人はパオパオに「ユカタン」と名付けるくらいだから、ユカタン半島周辺に栄えたマヤ文明はヒョーガヒョーガ文明の系譜に連なるに違いない。
想像を絶する科学力を誇った古代ヒョーガヒョーガ人でさえ文明を維持できず、今またヒョーガヒョーガ人はブリザーガを暴走させて故郷の星を住めなくしてしまった。これらの描写は、みずから破滅を招きかねない"人類への警鐘"であり、科学技術の扱いに慎重さを求めるものだ。同様のことは『風の谷のナウシカ』の「火の七日間」や、『未来少年コナン』の超磁力兵器による最終戦争等、過去多くの作品で語られてきた。これだけなら、いささかありきたりな印象を与える。
だが、人類を破滅させる技術文明との対比として、たとえば『風の谷のナウシカ』ではナウシカたちの風の谷、『未来少年コナン』では人々が農業や漁業で生活するハイハーバーという一種の理想郷が描かれるのに対し、本作のヒョーガヒョーガ人はそのような安住の地を持たない。彼らが故郷の星を温暖な世界に回復させるしかないことは、本作をひと味違うものにしている。
『風の谷のナウシカ』や『未来少年コナン』における過去の災厄はある種のリセット願望であり、(逆説的ながら)科学技術が後退した理想郷の創出に役立つものになっている。
それに引きかえ、本作のヒョーガヒョーガ人は全球凍結という大災厄を乗り越えるために技術を渇望している。本作には、科学技術の扱いに求められる慎重さと同時に、科学技術を失うみじめさが漂っている。そしてヒョーガヒョーガ人の悲惨な状況に対比されるのは、科学技術が後退した理想郷ではなく、ドラえもんのひみつ道具の楽しさやのび太たちの元気な活躍であり、それはすなわち21世紀や22世紀の地球文明――現代や少し未来の私たち――なのだ。
超光速航行を駆使できるヒョーガヒョーガ人は21世紀の地球人よりも高度な技術を手にしているはずなのだが、にもかかわらずみじめさが漂うのは、その技術を開発したのが彼らではなく、彼らはあくまで古代人の遺したものを発掘しているだけだからだ。
先人が優れたものを持っていたと考えて、先人がいたところを探し続けるヒョーガヒョーガ人と、みずから進歩させた科学技術で危機を乗り越え、活躍する地球人。
この構図を前にして、私はユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』を思い出していた。
この本で人類の7万年の歴史を著したハラリはこう語る。
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世界史の大きな謎の一つに、「なぜ近代以前は後進地域だった西ヨーロッパが、近代以後、世界を支配するようになったのか」というものがあります。
(略)
西ヨーロッパは近代以前、巨大な帝国の中心地だったこともなければ、経済の中心地だったこともありませんでした。西ヨーロッパから広まっていった世界宗教もありません。
(略)
中世後期や近代初期の時点では、中国の技術力と経済力は、西ヨーロッパに優る面もありました。
(略)
経済力についていえば、当時の中国は西ヨーロッパより上でした。中国にくらべれば、スペインもポルトガルもオランダもイングランドも小国でした。
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強大な明帝国や清帝国、オスマン帝国を差し置いて西ヨーロッパ諸国が世界を支配するようになったのは、ヨーロッパ人が「変わった人たち」だったからだとハラリは云う。西ヨーロッパの人々は、「未知の領域を探検し、その領域を征服したら、飽くことなく次の未知の領域をめざす」という精神の持ち主だった。「地平線の先に何があるのかは誰も知らない。だから探検しに行こう。そうすれば、何らかの知識を得ることができ、その知識は自分の力になるはずだ。」
他の地域の人たちは、既知の領域を支配することに力を注いだ。中国の王朝はスペインよりはるかに強大であったにもかかわらず、アメリカ大陸に艦隊を送ろうとはしなかった。ヨーロッパ各国がアメリカ大陸に遠征部隊を派遣していたというのに、ヨーロッパ人の冒険家からアメリカ大陸の存在を教えられても、中国は艦隊を出さなかった。学問や思想においても先人に学ぶのが常で(春秋時代の孔子が数百年前の周の時代を理想としたように)、未知の領域を探求しようとはしなかった。ただ、西ヨーロッパの人々だけが、「既知の領域の外に出て、未知の領域を調べれば、新しい自然法則や新しい知識を得ることができ、その知識は自分たちの力になる」と考えた。
このような精神構造の差が何をもたらしたかは周知のとおりだ。後進地域だった西ヨーロッパは世界のあらゆる地域を抜いて、科学においても国力においても支配的勢力となった。ときには弊害もあったけれど、今では「探検と征服」というこの精神構造を世界の人々が共有し、自然科学でも経済の世界でもみんなが未知の領域の探求に挑んでいる。天然痘の根絶や、ポリオ撲滅に向けた前進は、こうした努力の賜物だろう。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』が楽しくて面白くて元気いっぱいに感じられるのは、未知の領域を目指す意欲と探求心に溢れているからだ。科学技術の使い方を誤ったヒョーガヒョーガ人の自省や苦悩もさることながら、本作から強く伝わってくるのはのび太たち――地球人たち――の前向きなバイタリティーなのだ。
最後にヒョーガヒョーガ星を救う兆しが見えるのも、これまでリングの発掘を重視していたヒャッコイ博士が、みずからリングを研究し、そのメカニズムの解明に取り組もうとするからである。
■封印を解かれたもの
前述のようにH・P・ラヴクラフトの怪奇小説をベースとする本作は、太古の昔から甦った怪物たちと死闘を繰り広げるスリラーでもある。
しかし、過去から甦ったのは怪物だけではない。
ヒョーガヒョーガ星からやってきたヒャッコイ博士と少女カーラは、パオパオと呼ばれるゾウに似た動物にまたがっている(本作のパオパオは、南極の冒険に相応しくフサフサの体毛に覆われて、ゾウよりマンモスに近い)。パオパオとは、云わずと知れた『ジャングル黒べえ』の人気キャラクターだ。いつも黒べえを乗せて走り回っていた。
ヒャッコイ博士は色白の老人だが、外出するときは黒べえそっくりのサバイバルスーツを身につける。黒べえのどんぐりまなこがゴーグル、分厚い唇がマスク、長い髪が防寒フードといった趣で、スーツを着てパオパオに乗った博士はジャングル黒べえそのものだ。博士と行動を共にする赤い髪のカーラは、黒べえの弟・赤べえに相当するだろう。
『ジャングル黒べえ』が好きだった私は、映画館のスクリーンいっぱいに黒べえと赤べえ(みたいな少女)とパオパオが走り回ることに感激した。
『ジャングル黒べえ』は1973年3月から同年9月まで放映されたテレビアニメ及びその原作マンガである。アフリカからやってきた魔法使いの黒べえと弟・赤べえ、そしてアフリカの珍獣たちが巻き起こす騒動が描かれた。藤子不二雄原作といっても、もともとのキャラクター原案は宮崎駿氏で、当初は人間の家に住み着いたコロポックルの物語として構想されたという。
『エースをねらえ!』の前番組だった『ジャングル黒べえ』は、演出を出崎統氏、作画監督を椛島義夫、北原健雄、杉野昭夫の三氏が務め、音楽を三沢郷氏が担当するという、大ブームを巻き起こした『エースをねらえ!』と同じ布陣で制作された痛快ギャグアニメだった。
とても面白い作品なのだが、1980年代末に封印され、マンガもアニメも長年にわたり日の目を見ることがなかった。黒人をマンガチックにデフォルメした黒べえは、当時猛威を振るった黒人差別糾弾の攻撃にさらされるおそれから(実際に糾弾されたわけでもないのに)、マンガの刊行もテレビアニメの再放送もパッケージ化も自粛してしまったのだという。『ジャングル黒べえ』がようやくパッケージ化されるのは、封印から四半世紀以上を経た2015年末のことである。
パッケージ販売ですらこれほどの時間を要した『ジャングル黒べえ』だから、黒べえの新作アニメを作るのは極めて困難に感じられただろう。
『ジャングル黒べえ』の自粛に先立つ1980年、『サイボーグ009 超銀河伝説』の黒人キャラクター008のデザインが米国人スタッフ、ジェフ・シーガルにより問題視された。これでは米国に輸出できないだろうという。そのため、008は原作者自身の手によりデフォルメを控えたデザインに改められた。以降、『サイボーグ009』のアニメ化の際はデフォルメを控えたデザインが踏襲されている(近年では、白人の鼻の大きさを誇張した002のデザインも改められている)。
『サイボーグ009』の場合はデフォルメを控えたデザインに変更しても作品世界は成り立つが、ギャグマンガの『ジャングル黒べえ』がデフォルメをやめたら別物になってしまう。『ジャングル黒べえ』を現代に甦らせるのは、南極の氷に閉じ込められた怪物の封印を解くよりたいへんなことだったはずだ。
それだけに、本作に黒べえと赤べえを模したキャラクターを登場させ、主要な登場人物としてストーリーを牽引させたことに敬服した。画面の端っこに映っていたり、その他大勢に紛れて顔を出したりに比べると大きな前進だ。
しかも、ヒャッコイ博士は肌が白くて目がグリーンの、典型的な白人らしいデザインだ。それがサバイバルスーツを着ると黒人のギャグキャラクター黒べえの姿になる。スーツを脱ぐとまた白人の姿に戻る。キャラクターの魅力に人種なんて関係ないと云わんばかりのこの設定には、人種差別呼ばわりして作品を葬ろうとする動きへの抗議が込められていよう。
これは、『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』と同時期に公開されたハリウッド映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』と同様の仕掛けである。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』は白人俳優スカーレット・ヨハンソンが日本人の主人公を演じることで、白人の活躍を期待した観客をものの見事に裏切るとともに、アジア人の役を白人俳優が奪ったと勘違いした観客に冷や水を浴びせる映画だった。一人の俳優が日本人と白人を同時に演じるという、SFならではの意表を突いた作品だ(詳しくは杉本穂高氏のコラム「実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』 少佐はなぜ白人なのか? “ホワイトウォッシュ”問題を超える配役の真の意味」を参照されたい)。
考えてみれば、地球の温暖化が心配されるご時世に地球を寒冷化の危機から救おうとする本作は、「ベッカンコー!」の呪文で何でも引っくり返す黒べえらしい展開である。
ドラミちゃんが怪しげな占いにはまるのも、怪奇小説の世界へのいざないだけでなく、魔法を使う『ジャングル黒べえ』への導入としての意味もあるのだろう。
とはいえ、劇中で氷山ができるメカニズムを解説するなど、しっかりした科学的知見が示される本作において、ドラミちゃんの占いはやけに浮いている。
氷難の相があるというドラミちゃんの言葉どおり、ドラえもんたち一行は氷の世界でたいへんな苦労をする。けれども、彼らの活躍のおかげで地球は凍結を免れ、すでに凍結したヒョーガヒョーガ星も回復の糸口が見つかる。
はたして、ドラミちゃんの占いは当たったのか外れたのか。役立ったのか無意味だったのか。それは観客の判断に委ねられていよう。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』 [あ行]
監督・脚本・絵コンテ・演出/高橋敦史
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 釘宮理恵 浪川大輔 千秋 三石琴乃 松本保典
日本公開/2017年3月4日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー]
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』を観ようと思ったのは、籠谷千穂氏のツイートが目に留まったからだ。
本日「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を鑑賞。まさか「狂気山脈では?」と前々から思っていたら本当に狂気山脈だったのでラヴクラフティアンは是非観に行って下さい。もう今年はドラえもん映画じゃなくてドラクラフト映画、もしくはラヴえもん映画。 #ドラえもん #狂気山脈 pic.twitter.com/XHKxsDxPb7
— Chiho komoriya (@Chihokomoriya) 2017年3月22日

どういうことか確かめようと足を運んだ私は、本作のあまりの面白さに驚愕した。
かき氷をたくさん食べたいのび太がドラえもんと氷山に行ってかき氷を食べまくり、さらに友だちを連れてきて楽しく遊ぶ、という序盤の流れは、原作マンガの『大氷山の小さな家』の流用だ。そこで、10万年前から氷漬けになっていたリングを見つけたのび太たちは、リングの出所を探るべく南極へ赴く。ここから物語はH・P・ラヴクラフトの怪奇小説『狂気の山脈にて』にスライドし、太古の昔に飛来した異星人の遺跡に遭遇したり、遺跡に残る怪物に襲われたりする。
本作におけるラヴクラフト作品との類似や、『遊星からの物体X』からの引用等については、籠谷千穂氏がご自身のブログで掘り下げた記事を書いておられる。
![映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71GonZk4x0L._SL160_.jpg)
私の隣の席に座った小さな男の子は、予告編のときからちょっと映像が暗くなるたびに「怖い、怖い」と母親にしがみついていたが、本作がはじまると食い入るようにスクリーンを見つめていた。幼児だって片時も目を離せない、楽しく面白い作品なのだ。
■大長編SF冒険マンガと日常的短編SFマンガの交代
本作を観て、私はとても羨ましく感じた。ドラえもん映画は、今もこんなにも面白い。
オーパーツを巡る異境の冒険、タイムトラベルと異星人、超科学・新発明を駆使して戦う仲間たち……。これらはどれも『サイボーグ009』のお株だったはずなのに、と009ファンの私は思った。便利なひみつ道具を次々取り出すドラえもんと、ひみつ道具を各人各様に装備したのび太たちは、まるで発明家ギルモア博士と兵器を内蔵したゼロゼロナンバーサイボーグたちに見えた。

けれども、1979年からはじまった『少年サンデー』と『少年ビッグコミック』での連載の途中から、『サイボーグ009』は人情話になっていった。サイボーグ戦士たちの日常の出来事を拾い上げた短編がもっぱら描かれるようになったのだ。この後、何度もテレビアニメや劇場用アニメ等が作られたけれど、痛快無比の冒険活劇とはいかなかった。サイボーグ戦士たちの日常を題材に、彼らの心の襞を丁寧に描写した作品群を経た後では、あっけらかんとしたストーリーが馴染まなかったのかもしれない。すでに『サイボーグ009 超銀河伝説』でも、009の浮気問題や004との友情のグダグダが挿入され、痛快無比とはいえなかった。
『サイボーグ009』の変化と軌を一にするように、『ドラえもん』も新たな領域へ踏み出していた。ただしそれは、『サイボーグ009』とは正反対の方向だ。
日常的な出来事に少し不思議な要素を織り交ぜた一話完結の短編ばかりだった『ドラえもん』は、1980年に『大長編ドラえもん』と題してマンガ『のび太の恐竜』が発表され、合わせて同タイトルの劇場用長編アニメーション映画が公開された。この作品を嚆矢として、以降毎年のように長編映画の公開が続き、ドラえもんたちは宇宙へ太古へ海底へと縦横無尽に活躍するようになった。
そして2017年の長編映画第37作『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』に至るわけだが、その元気に溢れた面白さは圧巻だった。『サイボーグ009』の「移民編」から「海底ピラミッド編」までを濃縮したようなストーリーに、土管に腰かけてコッペパンを頬張り、新幹線の屋根に飛び乗ってはしゃいでいた頃の009の天真爛漫さを盛り付けたような楽しさだった。そのうえ、ドラえもんたちが先端にドリルのついた氷底探検車に乗って南極の氷を掘り進む様子は、『サイボーグ009』の「地下帝国ヨミ編」でドルフィン号が地底を探検するところにそっくりだし、氷底の古代都市でのび太を襲うペンギンの石像のデザインは地下帝国ヨミの鳥型の魔神像を思わせた。
これだ。私が観たかったのはこんなアニメだったのだ。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』は、人間ドラマとしても大いに見応えがある。
映画の中盤では偽ドラえもんが出現し、のび太たちを混乱に陥れる。スネ夫やジャイアンは偽者と覚しきドラえもんを警戒し、氷漬けにしてしまおうと相談する。何の危害も加えられていないにもかかわらず。複数出現したドラえもんのどちらを攻撃するか相談するスネ夫とジャイアンは、あたかも誰をいじめるか標的を選ぶかのようだった。
それを止めさせたのが、のび太の"誰もいじめない"という選択だ。スネ夫やジャイアンに同調していれば無難だろうに、あえて立ち塞がったのび太の凛々しさに胸が熱くなる。終盤の危機的状況で、未来ののび太に希望を託す(『STAND BY ME ドラえもん』を彷彿とさせる)展開は、中盤でのこのやり取りがあるから生きてくるのだ。

封印を解かれて蘇った巨大な怪物ブリザーガを目にして、多くの観客が宮崎駿監督の『もののけ姫』のディダラボッチに似ていると感じるだろう。加えて、口から冷凍ビームを吐き散らし、ドラえもんたちを襲う凶暴さは、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。
巨神兵にディダラボッチ――つまりは宮崎アニメの源流であるポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(後の『王様と幸運の鳥』『王と鳥』)の巨大ロボットの再来なのだ。王国の高度な科学技術の象徴でありながら、王様の城も街も破壊し、遂には王様自身を破滅させてしまう巨大ロボットの発展形を、ここにもまた見ることができる。
竜に変化したブリザーガを凍結させるクライマックスに至っては、天才アニメーター金田伊功氏が参加した『幻魔大戦』(1983年)のクライマックス、巨大な竜を凍結させて倒すところを思わせて楽しい。
■世界史の大きな謎
怪物ブリザーガと、ブリザーガを生み出したヒョーガヒョーガ星について考えると、本作の作り手の科学技術や文明に対する見方が窺えて興味深い。
はるかな昔、古代ヒョーガヒョーガ人は数多の星を訪れ、その星の生態系を作り変えるほどの高度な文明を持っていた。ブリザーガとは、古代ヒョーガヒョーガ人が創造した巨人族で、惑星全体を凍結させる能力を備えている。古代ヒョーガヒョーガ人は宇宙のあちこちにブリザーガを放ち、ターゲットとなる惑星に全球凍結(スノーボールアース)現象を起こすことで、生物の爆発的な進化を促していたのだ。
やがて高度なヒョーガヒョーガ文明は失われてしまい、のび太たちが出会った頃のヒョーガヒョーガ人は古代人が残した遺跡を発掘して技術を学ぶあり様だった。それでも超光速航行を駆使して星々を巡るくらいの文明は有していたが、誤って起動させたブリザーガを止められず、ヒョーガヒョーガ星全体の凍結を招いてしまう。ヒョーガヒョーガ人のヒャッコイ博士と少女カーラは、凍りついた故郷を元に戻す方法を探して、10万光年の彼方から地球に残る遺跡を調べに来ていたのだ。
劇中では明示されないが、南極大陸に古代ヒョーガヒョーガ人の遺跡があったことや、地球でも七億年前や六億年前にスノーボールアース現象が起きて生物が爆発的に進化したことを考えれば、地球の生物を進化させたのも古代ヒョーガヒョーガ人なのかもしれない。ヒョーガヒョーガ人と地球人は瓜二つだから、地球人はかつて地球を訪れたヒョーガヒョーガ人の末裔かもしれない。その記憶が失われてしまうほど壊滅的な出来事が、地球のヒョーガヒョーガ人に起きたのだろう。
ヒョーガヒョーガ人はパオパオに「ユカタン」と名付けるくらいだから、ユカタン半島周辺に栄えたマヤ文明はヒョーガヒョーガ文明の系譜に連なるに違いない。

だが、人類を破滅させる技術文明との対比として、たとえば『風の谷のナウシカ』ではナウシカたちの風の谷、『未来少年コナン』では人々が農業や漁業で生活するハイハーバーという一種の理想郷が描かれるのに対し、本作のヒョーガヒョーガ人はそのような安住の地を持たない。彼らが故郷の星を温暖な世界に回復させるしかないことは、本作をひと味違うものにしている。
『風の谷のナウシカ』や『未来少年コナン』における過去の災厄はある種のリセット願望であり、(逆説的ながら)科学技術が後退した理想郷の創出に役立つものになっている。
それに引きかえ、本作のヒョーガヒョーガ人は全球凍結という大災厄を乗り越えるために技術を渇望している。本作には、科学技術の扱いに求められる慎重さと同時に、科学技術を失うみじめさが漂っている。そしてヒョーガヒョーガ人の悲惨な状況に対比されるのは、科学技術が後退した理想郷ではなく、ドラえもんのひみつ道具の楽しさやのび太たちの元気な活躍であり、それはすなわち21世紀や22世紀の地球文明――現代や少し未来の私たち――なのだ。
超光速航行を駆使できるヒョーガヒョーガ人は21世紀の地球人よりも高度な技術を手にしているはずなのだが、にもかかわらずみじめさが漂うのは、その技術を開発したのが彼らではなく、彼らはあくまで古代人の遺したものを発掘しているだけだからだ。
先人が優れたものを持っていたと考えて、先人がいたところを探し続けるヒョーガヒョーガ人と、みずから進歩させた科学技術で危機を乗り越え、活躍する地球人。

この本で人類の7万年の歴史を著したハラリはこう語る。
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世界史の大きな謎の一つに、「なぜ近代以前は後進地域だった西ヨーロッパが、近代以後、世界を支配するようになったのか」というものがあります。
(略)
西ヨーロッパは近代以前、巨大な帝国の中心地だったこともなければ、経済の中心地だったこともありませんでした。西ヨーロッパから広まっていった世界宗教もありません。
(略)
中世後期や近代初期の時点では、中国の技術力と経済力は、西ヨーロッパに優る面もありました。
(略)
経済力についていえば、当時の中国は西ヨーロッパより上でした。中国にくらべれば、スペインもポルトガルもオランダもイングランドも小国でした。
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強大な明帝国や清帝国、オスマン帝国を差し置いて西ヨーロッパ諸国が世界を支配するようになったのは、ヨーロッパ人が「変わった人たち」だったからだとハラリは云う。西ヨーロッパの人々は、「未知の領域を探検し、その領域を征服したら、飽くことなく次の未知の領域をめざす」という精神の持ち主だった。「地平線の先に何があるのかは誰も知らない。だから探検しに行こう。そうすれば、何らかの知識を得ることができ、その知識は自分の力になるはずだ。」
他の地域の人たちは、既知の領域を支配することに力を注いだ。中国の王朝はスペインよりはるかに強大であったにもかかわらず、アメリカ大陸に艦隊を送ろうとはしなかった。ヨーロッパ各国がアメリカ大陸に遠征部隊を派遣していたというのに、ヨーロッパ人の冒険家からアメリカ大陸の存在を教えられても、中国は艦隊を出さなかった。学問や思想においても先人に学ぶのが常で(春秋時代の孔子が数百年前の周の時代を理想としたように)、未知の領域を探求しようとはしなかった。ただ、西ヨーロッパの人々だけが、「既知の領域の外に出て、未知の領域を調べれば、新しい自然法則や新しい知識を得ることができ、その知識は自分たちの力になる」と考えた。
このような精神構造の差が何をもたらしたかは周知のとおりだ。後進地域だった西ヨーロッパは世界のあらゆる地域を抜いて、科学においても国力においても支配的勢力となった。ときには弊害もあったけれど、今では「探検と征服」というこの精神構造を世界の人々が共有し、自然科学でも経済の世界でもみんなが未知の領域の探求に挑んでいる。天然痘の根絶や、ポリオ撲滅に向けた前進は、こうした努力の賜物だろう。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』が楽しくて面白くて元気いっぱいに感じられるのは、未知の領域を目指す意欲と探求心に溢れているからだ。科学技術の使い方を誤ったヒョーガヒョーガ人の自省や苦悩もさることながら、本作から強く伝わってくるのはのび太たち――地球人たち――の前向きなバイタリティーなのだ。
最後にヒョーガヒョーガ星を救う兆しが見えるのも、これまでリングの発掘を重視していたヒャッコイ博士が、みずからリングを研究し、そのメカニズムの解明に取り組もうとするからである。
■封印を解かれたもの
前述のようにH・P・ラヴクラフトの怪奇小説をベースとする本作は、太古の昔から甦った怪物たちと死闘を繰り広げるスリラーでもある。

ヒョーガヒョーガ星からやってきたヒャッコイ博士と少女カーラは、パオパオと呼ばれるゾウに似た動物にまたがっている(本作のパオパオは、南極の冒険に相応しくフサフサの体毛に覆われて、ゾウよりマンモスに近い)。パオパオとは、云わずと知れた『ジャングル黒べえ』の人気キャラクターだ。いつも黒べえを乗せて走り回っていた。
ヒャッコイ博士は色白の老人だが、外出するときは黒べえそっくりのサバイバルスーツを身につける。黒べえのどんぐりまなこがゴーグル、分厚い唇がマスク、長い髪が防寒フードといった趣で、スーツを着てパオパオに乗った博士はジャングル黒べえそのものだ。博士と行動を共にする赤い髪のカーラは、黒べえの弟・赤べえに相当するだろう。
『ジャングル黒べえ』が好きだった私は、映画館のスクリーンいっぱいに黒べえと赤べえ(みたいな少女)とパオパオが走り回ることに感激した。

『エースをねらえ!』の前番組だった『ジャングル黒べえ』は、演出を出崎統氏、作画監督を椛島義夫、北原健雄、杉野昭夫の三氏が務め、音楽を三沢郷氏が担当するという、大ブームを巻き起こした『エースをねらえ!』と同じ布陣で制作された痛快ギャグアニメだった。
とても面白い作品なのだが、1980年代末に封印され、マンガもアニメも長年にわたり日の目を見ることがなかった。黒人をマンガチックにデフォルメした黒べえは、当時猛威を振るった黒人差別糾弾の攻撃にさらされるおそれから(実際に糾弾されたわけでもないのに)、マンガの刊行もテレビアニメの再放送もパッケージ化も自粛してしまったのだという。『ジャングル黒べえ』がようやくパッケージ化されるのは、封印から四半世紀以上を経た2015年末のことである。
パッケージ販売ですらこれほどの時間を要した『ジャングル黒べえ』だから、黒べえの新作アニメを作るのは極めて困難に感じられただろう。
『ジャングル黒べえ』の自粛に先立つ1980年、『サイボーグ009 超銀河伝説』の黒人キャラクター008のデザインが米国人スタッフ、ジェフ・シーガルにより問題視された。これでは米国に輸出できないだろうという。そのため、008は原作者自身の手によりデフォルメを控えたデザインに改められた。以降、『サイボーグ009』のアニメ化の際はデフォルメを控えたデザインが踏襲されている(近年では、白人の鼻の大きさを誇張した002のデザインも改められている)。
『サイボーグ009』の場合はデフォルメを控えたデザインに変更しても作品世界は成り立つが、ギャグマンガの『ジャングル黒べえ』がデフォルメをやめたら別物になってしまう。『ジャングル黒べえ』を現代に甦らせるのは、南極の氷に閉じ込められた怪物の封印を解くよりたいへんなことだったはずだ。

しかも、ヒャッコイ博士は肌が白くて目がグリーンの、典型的な白人らしいデザインだ。それがサバイバルスーツを着ると黒人のギャグキャラクター黒べえの姿になる。スーツを脱ぐとまた白人の姿に戻る。キャラクターの魅力に人種なんて関係ないと云わんばかりのこの設定には、人種差別呼ばわりして作品を葬ろうとする動きへの抗議が込められていよう。
これは、『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』と同時期に公開されたハリウッド映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』と同様の仕掛けである。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』は白人俳優スカーレット・ヨハンソンが日本人の主人公を演じることで、白人の活躍を期待した観客をものの見事に裏切るとともに、アジア人の役を白人俳優が奪ったと勘違いした観客に冷や水を浴びせる映画だった。一人の俳優が日本人と白人を同時に演じるという、SFならではの意表を突いた作品だ(詳しくは杉本穂高氏のコラム「実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』 少佐はなぜ白人なのか? “ホワイトウォッシュ”問題を超える配役の真の意味」を参照されたい)。
考えてみれば、地球の温暖化が心配されるご時世に地球を寒冷化の危機から救おうとする本作は、「ベッカンコー!」の呪文で何でも引っくり返す黒べえらしい展開である。
ドラミちゃんが怪しげな占いにはまるのも、怪奇小説の世界へのいざないだけでなく、魔法を使う『ジャングル黒べえ』への導入としての意味もあるのだろう。
とはいえ、劇中で氷山ができるメカニズムを解説するなど、しっかりした科学的知見が示される本作において、ドラミちゃんの占いはやけに浮いている。
氷難の相があるというドラミちゃんの言葉どおり、ドラえもんたち一行は氷の世界でたいへんな苦労をする。けれども、彼らの活躍のおかげで地球は凍結を免れ、すでに凍結したヒョーガヒョーガ星も回復の糸口が見つかる。
はたして、ドラミちゃんの占いは当たったのか外れたのか。役立ったのか無意味だったのか。それは観客の判断に委ねられていよう。
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監督・脚本・絵コンテ・演出/高橋敦史
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 釘宮理恵 浪川大輔 千秋 三石琴乃 松本保典
日本公開/2017年3月4日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー]

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