『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』 それは新しい考えか?
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善と悪、正と邪、古より戦い続ける二つの勢力。その争いを背景に共和制を掲げる側と帝政を進める側が銀河系を二分して戦う時代。帝国側が開発した新技術により戦況は一変、帝国の勝利が濃厚になった。
帝国の新技術の秘密を手に入れるため、志願した者たちの一隊が帝国側に乗り込んでいく。生きては戻れないかもしれない危険な任務だ。
激しい戦闘を切り抜けて、遂に共和制側は新技術の秘密を手に入れる。だが、通信が遮られ、絶体絶命の大ピンチ。
――ひと波乱の後、新技術の情報を奪還すべく帝国の戦艦が迫る。それを尻目に、救命艇で脱出した「二人」は辺境の星に到達する。見知らぬ星に降り立った「二人」は、その星の生物に襲われて捕らわれてしまうが、幸いにも彼らを救う者が現れる。
行動を共にすることになった彼らは、新技術の情報を本部に送り届けるべく逃避行を続ける。しかし、帝国もやすやすと本部に帰らせてはくれない。追っ手と戦いながら、本部のある星を目指す主人公たち……。
こうしてあらすじを書いていると、スター・ウォーズ・シリーズの外伝『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』と本伝の『スター・ウォーズ』(エピソード4『新たなる希望』)のストーリーを追いかけているような錯覚にとらわれる。
■大河の源流はたくさんある

E・E・スミスの処女作『宇宙のスカイラーク』は、1920年(1921年とも)には執筆を終えていたのに、当時の読者にはあまりにも壮大すぎるという理由でどの出版社からも拒絶され、1928年まで発表できなかった。銀河を股にかけた大冒険、繰り出される新発明・超兵器、続々と現れる奇怪な宇宙生物、宇宙艦隊の大戦争。こんにち私たちがスター・ウォーズ・シリーズ等でお馴染みのこれらの要素は、E・E・スミスが風穴を開けるまで、出版できないほど突拍子もないと思われていたのだ。
したがって、ほとんどすべてのスペースオペラがE・E・スミスの影響下にあるといっても過言ではない。
それでも私があえて本稿を書こうと思ったのは、スター・ウォーズ・シリーズへのE・E・スミスの影響、とりわけレンズマンシリーズからの影響に関する言及が少な過ぎると感じたからだ。
2016年12月24日現在、Wikipediaの『スター・ウォーズ』のページには、スター・ウォーズが影響を受けた小説としてフランク・ハーバートのデューンシリーズが挙げられている。スター・ウォーズの元ネタと類似を解説したページには、デューンシリーズに加えてJ・R・R・トールキンの『指輪物語』等からの影響の記載もある。
ところがレンズマンシリーズに関しては、まったく触れられていない。
ジョージ・ルーカスのことだから、デューンシリーズも『指輪物語』も読んでいるに違いない。それらの影響も皆無ではないだろう。たしかに砂漠の惑星タトゥイーンはデューンシリーズの舞台となる砂漠の惑星アラキスがモデルかもしれないし、スター・ウォーズ・シリーズでしばしば言及されるケッセルのスパイス鉱山はアラキスのスパイス産業が元ネタかもしれない。
しかし、デューンシリーズや『指輪物語』をいくら読んだところで、超兵器がわんさか登場する銀河大戦は発想できまい。
Wikipediaには、デューンシリーズのベネゲセリットが他者を操る力(ボイス)とジェダイのフォースとの類似や、スター・ウォーズ・シリーズの三作目の題が『ジェダイの帰還(Return of the Jedi)』であることと『指輪物語』の第三巻が『王の帰還(The Return of the King)』であることまで類似として挙げられているが、他者を操るのはレンズマンにもできるし(しかもレンズマンシリーズの発表はデューンシリーズより30年近く先行している)、シリーズ最終巻(として構想された作品)の題が『~の帰還(The Return of ~)』と付けられるのは珍しいことではない。たとえば、トールキンが『王の帰還』を発表する40年も前に、E・R・バローズは『The Return of Tarzan(ターザンの帰還)』や『The Return of the Mucker(邦題は「風雲のメキシコ」だけど)』を発表している。
こういった類似点を考察したり指摘したりするのは楽しいから、探せばいくらでも見つかるだろう。しかし、私としては、重厚な政治劇のデューンシリーズやSFではない『指輪物語』に源流を求めながら、肝心の痛快スペースオペラ、レンズマンシリーズに触れないのは合点がいかない。
デューンシリーズや『指輪物語』のファンがスター・ウォーズとの類似を主張してせっせと書き込む一方で、奥床しいレンズマンシリーズのファンはそんな主張を控えているのだろうか。
私もスター・ウォーズとレンズマンシリーズの類似なんていわずもがなだと思ってきたが、誰かが少しは書いておかないと、デューンシリーズよりも『指輪物語』よりも先行する偉大な作品の存在が忘れられないとも限らない。
せめて私は、ここに書いておこうと思う。
レンズマンシリーズは、手に汗握る痛快無比なスペースオペラであると同時に、幾世代にもおよぶ銀河の歴史を描く壮大な叙事詩である。人知を超えた能力を持ち、銀河の守護者たるレンズマン。その中でもひときわ秀でた若者キムボール・キニスン(『地球へ…』の主人公キース・アニアンのネーミングの元ネタといわれる)を主人公にした三部作を中心に、双子を含むキニスンの子供たちを描いた後日譚と、キニスンの祖先たちを描いた前日譚や外伝から構成される。
その第一巻、24章からなる『銀河パトロール隊』のうちの4章から13章が、まさにエピソード4『スター・ウォーズ』に相当する。新技術の秘密を手に入れた主人公たちが、敵の猛攻をかいくぐって本部に貴重な情報を届け、その情報に基づいて共和制側が反撃するまで、文庫本にしてざっと160ページほどだ。

『銀河パトロール隊』で主人公たちを追撃するのは敵の大艦隊であり、宇宙空間がまばゆくなるほどの派手な戦闘が連続する。こんな描写は小説だから可能だが、『スター・ウォーズ』制作当時は予算的にも技術的にも映像化できなかっただろう。物語のスケールも大きすぎて手に余ったはずだ。ロン・ハワード監督が2008年にレンズマンシリーズの映画化に挑んだが、膨大な制作費を要するために撤退している。
一大宇宙叙事詩を念頭に置きながらも、単発の映画として完成されている『隠し砦の三悪人』をなぞるのは、現実解を探るうえでこれ以上ないやり方だ。
(スター・ウォーズ・シリーズと黒澤映画の関係については、拙稿「スター・ウォーズに見る黒澤明」を参照されたい。)
もちろん、ジョージ・ルーカスの発想の原点は『フラッシュ・ゴードン』にあるのだが、『フラッシュ・ゴードン』は銀河を股にかけたスペースオペラではなく、ジャンルとしては惑星冒険ものになる。それは、異国情緒に溢れた一つの星で繰り広げられる冒険物語だ。ルーカスが『フラッシュ・ゴードン』っぽさにこだわっていたら、銀河大戦の物語は生まれなかったに違いない。
他方、レンズマンシリーズは敵も味方も複数の種族から構成される連合体だが、スター・ウォーズ・シリーズでは反乱同盟軍が多様な種族で構成される一方で、帝国軍の将校は人間(地球人型)ばかりで占められている。この非対称性は、複数の種族が同盟して圧制者と戦う『フラッシュ・ゴードン』に由来するだろう。
■エピソード4の直前までの物語はすでにあった
こんな風に『スター・ウォーズ』を見ていた私にとって、実は気になることがあった。
『スター・ウォーズ』は『銀河パトロール隊』の4章から13章に符合しているように思える。14章以降では、共和制側の反撃が手詰まりになり、主人公は己の能力を高めるために導師の許を訪れて修行に励む。これはスター・ウォーズ・シリーズではエピソード5『帝国の逆襲』に当たるだろう。敵の要塞惑星に大艦隊で攻撃を仕掛ける一方、主人公が単身乗り込んで(未開種族に助けられながら)敵のボスと対決する23章から24章は、エピソード6『ジェダイの復讐』(後に『ジェダイの帰還』に改題)に符合する。
こうして物語が進んでいくのは良いのだが、置き去りにされたのが『銀河パトロール隊』の1章から3章だ。銀河パトロール隊から精鋭部隊が選抜され、敵の技術情報を手に入れる波乱万丈の話なのに、その部分がスター・ウォーズ・シリーズで顧みられることはなかった。
それが気になったのは、レンズマンシリーズ初の映像化である長編アニメーション映画『SF新世紀レンズマン』(1984年)を観たからでもある。
『銀河パトロール隊』と『スター・ウォーズ』がそっくりなことに気づいた広川和之監督は、大長編のレンズマンシリーズを映画化する方策として、『スター・ウォーズ』を手本に、というよりほとんど『スター・ウォーズ』のアニメ化といっていい内容にしてしまった。そのため、ストーリーも『銀河パトロール隊』の1章から3章を削った形になってしまったのだ。
ジョージ・ルーカスが『銀河パトロール隊』の4章以降を切り出す手際は鮮やかだったし、その語り口の上手さから『スター・ウォーズ』は充分に楽しめたが、『SF新世紀レンズマン』が原作の冒頭部分を省略したことには、なまじ原作を知っているだけにひどく違和感を覚えた。かえって1章から3章が重要であることを再認識させられた。

その『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』について、テーマを問われたギャレス・エドワーズ監督はこう答えている。
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一言で言うと、"希望"だね。"ローグ・ワン"のメンバーには、いろいろな文化や惑星から、いろいろな意見を持った人間が集まって、不可能に思えることに挑戦する。過去の作品は善VS悪の構図がハッキリしていたけれど、インターネットが発達した現代では、いろいろな意見や視点が人間にはあることを、我々は知っている。そこには完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた。そして、それは新しい考えだと思う。だから今回の作品では、それぞれ皆に問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴もいるけれども、選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う。
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これは奇妙な発言だ。
エドワーズ監督は、「新しい考え」の結果として「問題があって、過去には悪事を働いた悪い奴」もいる作品になったと述べているが、スター・ウォーズ・シリーズの主要登場人物の一人ハン・ソロが、悪事にまみれた密輸業者だったことを忘れてしまったのだろうか。
そもそも、「完全なる善VS悪などはなく、皆少しずつグレーな感じで、人間ってそういうものだってわかり始めた」ことが「新しい考え」なのだろうか。1975年生まれで、物心ついたときにはスター・ウォーズがあったエドワーズ監督には、世界がそんな風に見えるのだろうか。
エドワーズ監督はこうも云う。「スター・ウォーズの映画を撮るのが4歳からの夢だった…スター・ウォーズと共に育ったんだ…この世界に親しみを感じるよ…フィギュアで遊んでた…スームトルーパーが大爆発!ってね…こんなに楽しい仕事はないよ」
そんなエドワーズ監督にとって、世界はスター・ウォーズありきであり、スター・ウォーズが世界のすべてなのかもしれない。
■ジョージ・ルーカスの大発明
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何を当たり前な、と思われるかもしれないが、『スター・ウォーズ』公開前の世界にはポッカリとうつろな穴があいていたのだ。ところが、そこに空虚があることを認識している人はほとんどいなかったようだ。空虚の存在に気がついて、それを『スター・ウォーズ』で埋めたのがジョージ・ルーカスの凄さ、偉大さだと思う。
2016年現在、米国の歴代興行収入の第一位は2015年公開の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』だ。しかし、物価変動を加味してランキングし直すと、いまだ一位は1939年の『風と共に去りぬ』で、二位が1977年の『スター・ウォーズ』となる。『フォースの覚醒』は10位以内にも入らない。『スター・ウォーズ』が、いかにとてつもないヒットであったか判るというものだ。それは世間を揺るがす大ブームだった。
これほどの盛り上がりを見せたのは、単に良くできた映画だったからではない。『スター・ウォーズ』の登場が世界を変えたのだ。うつろな穴があいている世界と、その空虚が『スター・ウォーズ』で埋まった世界。『スター・ウォーズ』前と『スター・ウォーズ』後で、世界の景色は変わっている。
かつてあいていたうつろな穴は『スター・ウォーズ』の登場で埋まってしまったから、スター・ウォーズ・シリーズをつぶさに見ても、『スター・ウォーズ』後の世界を見回しても、そこに空虚があったことに気づかないかもしれない。まして空虚がどれほど大きかったか実感するのは無理かもしれない。
物心ついたときにすでにスター・ウォーズがあり、スター・ウォーズありきで世界を見ていたら、スター・ウォーズのなかった世界を思い描くのは至難の業だろう。
これから書くことの中には、『スター・ウォーズ』公開時に云われたこともあるし、その後の人が指摘したこともある。だから、私ごときがいまさら述べるまでもないはずだが、『スター・ウォーズ』の公開から40年が経過した今、人々が『スター・ウォーズ』前の世界に思いを馳せることも減っただろうから、あえて記しておくのもまんざら無意味ではあるまい。
善VS悪の構図がハッキリしていた過去の作品とは何だろうか。
ギャレス・エドワーズ監督は、明らかにインターネットが発達していなかった時代の、スター・ウォーズ・シリーズのエピソード4~6のことを指して話している。
OK、インターネットの発達どころか、インターネットの萌芽すら存在しない1930~1940年代に書かれたレンズマンシリーズでは善VS悪の構図がハッキリしていた。その時代、ドイツ第三帝国や大日本帝国と戦う米国を、悪と戦う善であると考えた人もいたかもしれない。銀幕には、凶悪なインディアンの襲撃に正義の騎兵隊が立ち向かうような、胸のすく娯楽映画が溢れていた。
けれども米国は1950~1960年代の公民権運動や、これに続くレッド・パワー運動を経験し、また1960~1970年代にはベトナム戦争を経験した。ベトナム戦争は――強大な米国軍がベトナムの小さな村を焼き払う戦いは――善が悪を懲らしめる戦争ではなかった。米国では多くの人が反戦運動に参加した。
人々はインディアンが悪でもなければ、騎兵隊が正義でもないことに気がついた。そこには完全なる善VS悪などはなく、みんな少しずつグレーな感じで、人間とはそういうものだと判ってきた。アメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品が生まれ、以前であれば「悪」として退治されたはずの犯罪者たちが主人公になり、ただ自由に振る舞おうとしただけなのに迫害され殺される者が描かれた。多くの作品が、人間にはいろいろな意見や視点があることを訴えた。
それは素晴らしい訴えだったが、残念なことにこの時代、胸のすくような娯楽映画は作りにくくなっていた。かつてのインディアンのように退治していい(とみんなが思える)「悪」はいなかったし、「善」を見失った人間は心に闇を抱え、傷ついていた。そういうことから目を逸らすわけにはいかなかったが、誠実に見つめれば見つめるほど人物像は複雑になり、映画は娯楽性を失っていった。映画は社会を映す鏡だから、世の中に問題意識が広がれば広がるほど、映画も問題意識を抱え込まざるを得なかった。
そこにジョージ・ルーカスが放ったのが『スター・ウォーズ』だ。まるで善と悪が戦っているようなシンプルな構図、判りやすい人物像。『スター・ウォーズ』は映画が――社会が――失っていた楽しさを、思い出させてくれたのだった。
単に昔のような映画を作っただけでは支持されなかっただろう。騎兵隊がインディアンを撃ち殺す映画を、人々はもう楽しめない。インディアンに限らず、どんな人種でもどこの国の人でも同じことだ。人間同士の殺し合いを見て爽快感を得るなんてできるはずもなかった。

そして帝国軍兵士の顔をヘルメットで隠し、同じ形の装甲服で全身を覆わせた。これには、クローンの兵士たちが全員同じ外見になるとともに、観客が帝国軍兵士の素顔を見て人間らしさを感じることがないようにする効果があった。ルーカスは、ストームトルーパーが素顔をさらす描写を注意深く排除した。『スター・ウォーズ』にはルークとハン・ソロがストームトルーパーの装甲服を脱がすところがあるけれど、装甲服の中の人間は決して見せなかった。
この工夫のおかげで、観客は銃撃戦でやられる帝国軍兵士を見ても胸の痛みを覚えなくて済んだ。帝国軍の上級将校は顔を見せているが、彼らも無表情で没個性的に振る舞い、人間味を感じさせなかった。
人間ではない、覆面のやられ役の兵士といえば、日本では『仮面ライダー』(1971年~)のショッカー戦闘員や『マジンガーZ』(1972年~)の鉄仮面軍団等がお馴染みだ。しかし、それまでのハリウッド映画では珍しかったのだと思う。スター・ウォーズ・シリーズの元となった『フラッシュ・ゴードン』(1936年)でも、主人公が戦う相手はもっぱら変な格好のおじさんたちだった。
『エピソード1/ファントム・メナス』からはじまる前日譚三部作では、この考えをさらに推し進めて、敵の兵士はロボットになった。遠隔操作されるロボット兵は、撃たれようが斬られようが何も感じない。おかげで観客はますます胸が痛まずに済むようになった。

長編デビュー作『THX 1138』からも判るように、ジョージ・ルーカスは人間性について深く考察する作家だ。そんな彼だからこそ、娯楽に徹するとはどういうことなのかを突き詰めることができたのだろう。
これこそが、『スター・ウォーズ』のもっとも重要な点だった。倒されるのを見ても観客が胸を痛めなくて済む兵士。その虚構が土台にあるから、スター・ウォーズ・シリーズは成立するのだ。インディアンだからといって殺すのは許されない、犯罪者だからといって問答無用に殺していいのか、そう思っていた観客も、『スター・ウォーズ』なら受け入れることができたのだ。
人間同士の殺し合いを目にしても、フィクションと割り切って楽しめる観客も中にはいるだろう。だが、心優しいルーカスは、そうではない観客に重点を置いた。
それゆえ、ストームトルーパーがヘルメットを脱いで素顔を見せたり、個性的に振る舞ったりしてはならなかった。そんなことをしたら、スリルを楽しむはずの戦闘シーンが血なまぐさい殺し合いに堕してしまう。それはスター・ウォーズ・シリーズの作品世界を破壊することになる。
■ルーカスが作った世界
一見すると善悪に分かれて戦っているようなシンプルな構図も、慎重に考えられたものだ。

柔道の修行をした姿三四郎は、柔術家・檜垣源之助と決闘する。いわばルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの対決だ。三四郎は檜垣源之助を倒すが、それは必ずしも善が悪を成敗したのではない。三四郎とて一時は乱暴な柔術に転びかけたことのある身だ。檜垣源之助は後に三四郎と和解し、『續姿三四郎』では三四郎の味方になってくれる。
ライトサイドとダークサイドも同じことだ。それは明確に分かれたものではなく、ライトサイドからダークサイドに堕ちそうになることもあれば、ルークに救われたアナキンのようにダークサイドから還ってくる者もいる。共和国末期のジェダイ評議会のように、ダークサイドに陥らなくても、思考が硬直して結果的にダークサイドの勃興を許すこともある。
ルーカスがシリーズを通して諭すのは、不断の努力と修行で己を鍛え続けなければ、人は簡単に堕落してしまうということだ。善VS悪のハッキリした構図なんてものはここにはない。
にもかかわらず、作品はとてもシンプルで、観客はこの世界にすんなり入り込んで楽しめる。その絶妙なバランスに恐れ入る。
正義の味方の騎兵隊が凶悪なインディアンを退治する、そんな映画は作れない/作るべきではない世の中で、その娯楽性だけをすくい取って復活させる。それがいかに難事業だったか、できあがった作品をいつでも手軽に味わえる現在では思いを馳せるのが難しいかもしれない。しかし、そこには知的な作業の積み重ねがあり、作品は微妙なバランスの上に成立しているのだ。

ギャレス・エドワーズ監督は「今回の作品では」と強調して「選ばれし者、超人的な能力がなくても決断して実行すれば物事はうまくいく――そういうメッセージがあると思う」と述べている。
けれども、これは過去、スター・ウォーズ六部作が一貫して主張してきたことでもある。
ルークはオビ=ワンとヨーダの下で修行してフォースを身につけるが、裏を返せば、たとえ才能に恵まれても厳しい修行を続けなければ才能は開花しないということだ。シリーズを通じて「選ばれし者」と呼ばれたのは唯一アナキンだが、彼こそは才能があっても物事がうまくいくわけではないことを体現していた。
ギャレス・エドワーズ監督は『スター・ウォーズ』後の世界で新しさを見出そうとしたのかもしれないが、よくよく見ればジョージ・ルーカスが切り開いた道をたどっているようだ。
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のキャストには、多様な人種が起用されているという。たしかに、中国出身のドニー・イェンやチアン・ウェン、メキシコ出身のディエゴ・ルナ等、その人種・出身国は多岐にわたる。
エドワーズ監督は「私はイギリス出身でイギリス人の俳優が出演する『スター・ウォーズ』を観て育ちましたが、世界の人々は他の地域の人も登場する作品を待ちわびていたのではないでしょうか」と説明する。
これは大切な点だし、(『スター・ウォーズ』の主人公三人が米国人であることは指摘したいが)エドワーズ監督の意見はもっともだ。
けれど、それもジョージ・ルーカスが先鞭をつけたものだ。エピソード5『帝国の逆襲』から登場するランド・カルリシアンは、黒人のビリー・ディー・ウィリアムズが演じている。ルーカスからのオファーを三船敏郎さんが断らなければ、シリーズ第一作からアジア人が出演したはずだった。

ファンの気持ちも判らないではないが、ここはやはりルーカスの決断を称えたい。三部作の最後で帝国にとどめを刺す、最大の見せ場の一番の大手柄を黒人キャラクターに上げさせることに、ルーカスなりの強い思いがあったはずだ(それに、ハン・ソロがミレニアム・ファルコンを駆ったら、第一作のクライマックスと同じ絵面になってしまう)。
『帝国の逆襲』の公開は1980年、『ジェダイの復讐』は1983年だ。
2016年公開の『ズートピア』は差別や偏見を取り上げた傑作だが、その原型ともいえる『48時間』が公開されたのが、まさに同時期の1982年だった。肉食動物の詐欺師ニックと草食動物の警察官ジュディがコンビを組んで、48時間以内に事件を解決しようとする『ズートピア』は、明らかにニック(・ノルティ)とエディ(・マーフィ)が演じる白人の警察官と黒人のチンピラがコンビを組んで48時間以内に事件を解決しようとする『48時間』の焼き直しだ。白人と黒人がコンビを組むことが、たいそう異色だったのだ。黒人がチンピラではなく警察官を務め、白人の警察官とコンビを組む『リーサル・ウェポン』が誕生するのはもっと後、1987年のことだ。
もともとハン・ソロは黒人の設定で、ビリー・ディー・ウィリアムズはハン・ソロ役のオーディションに来た俳優だった。
ルーカスは、大手映画会社が嫌がったオール黒人キャストの映画『レッド・テイルズ』を四半世紀かけて自腹で制作するような人物だ。『スター・ウォーズ』の続編を作れることになって、さっそく黒人キャラクターを登場させたのも、ルーカスの強い希望だったに違いない。
『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の主人公は女性であり、1年前に公開された『フォースの覚醒』も女性が主人公だった。男性が主人公を務めた六部作とは毛色が違うように見えるが、これもまたジョージ・ルーカスが地平を開いた世界の一部である。
"戦うお姫様"――それはルーカスが『スター・ウォーズ』で提示した新しいヒロイン像だった。それまでの映画のお姫様は、たくましいヒーローに助けてもらう受け身の存在ばかりだったが、レイア姫は勝ち気で口が達者で、敵に対して平気で銃をぶっ放す女性だった。しかも元老院議員という政治家としての顔と、反乱同盟軍の中心メンバーとしての顔も持っていた。
『ジェダイの復讐』には反乱同盟軍の最高指導者として女性のモン・モスマが登場するし、『エピソード1/ファントム・メナス』では惑星ナブーの国家元首を女性のパドメ・アミダラが務めている。総じてスター・ウォーズ・シリーズでは、男性が権力を握るとろくなことがなく、女性が高い地位についたほうがものごとが上手くいくようだ。
『フォースの覚醒』の主人公レイも『ローグ・ワン』の主人公ジンも、レイア姫(や『エイリアン』(1979年)のリプリー)らが切り拓いた道の延長を歩んでいるに過ぎないのだ。
『スター・ウォーズ』後の世界で「新しい考え」に見えるものも、実のところジョージ・ルーカスが生み出したものの延長だったりする。
これからもルーカスの生み出したものが深く掘り下げられたり、広められたりしていくだろうが、ルーカスが埋めるまでは大きな穴があいていたことに気を配らないと、知らず知らずまた穴をあけて、足をすくわれてしまうかもしれない。
いま改めて、ルーカスがしてくれたことの大きさを噛みしめたい。
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監督/ギャレス・エドワーズ
出演/フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ ベン・メンデルソーン ドニー・イェン マッツ・ミケルセン フォレスト・ウィテカー アラン・テュディック チアン・ウェン リズ・アーメッド ジミー・スミッツ ジュネヴィーヴ・オライリー ヴァリーン・ケイン アンソニー・ダニエルズ ジェームズ・アール・ジョーンズ
日本公開/2016年12月16日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー]

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【theme : スター・ウォーズ】
【genre : 映画】
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『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』が失くしたもの
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ハリー・ポッターシリーズはいわずと知れた人気作だ。原作小説もその映画も世界中で大ヒット。そのシリーズが主人公を変えて続くとなれば、本作を心待ちにする人も多かったに違いない。しかも、ハリー・ポッターシリーズの原作者J・K・ローリングがみずから想を練り、脚本を書き下した作品だから、小説こそ出版されないものの正統な後継作だ。
作品の舞台が英国に限定されたハリー・ポッターシリーズとはうってかわり、世界中のファンへのサービスなのだろう、本シリーズは世界各国を舞台にする。第一作となる本作は米国のニューヨークが舞台である。2018年公開の次作では英国とパリが舞台になるそうだし、J・K・ローリングによれば少なくとも第五作まで構想がある(しかしハリー・ポッターシリーズより長くはならない)そうだから、いずれファンが多い地域はどこも舞台になるのだろう。
本作の主人公ニュート・スキャマンダーは、ハリー・ポッターたちが魔法生物を学ぶときの教科書を執筆した魔法動物学者であり、ホグワーツ魔法魔術学校に在学したこともある。もっとも、時代設定は1926年。まだ彼は教科書になる本『幻の動物とその生息地(Fantastic Beasts and Where to Find Them:本作の原題)』を構想している青年だ。
当時はまだ、『ハリー・ポッターと死の秘宝』に登場した老魔法使いゲラート・グリンデルバルドも改心しておらず、人間(マグル)を支配下に置く野望を抱いて、歴史上もっとも危険な闇の魔法使いとして恐れられていた。後に旧友ダンブルドアとの戦いに敗れて投獄され、「歴史上もっとも危険な闇の魔法使い」の呼び名をヴォルデモート卿に譲る破目になるとは知るよしもない頃だ。
ハリー・ポッターシリーズの前史となる本作は、かように聞き覚えのある名前や人物を散りばめて、ハリー・ポッターファンを惹きつける。
ところが、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』には、ハリー・ポッターシリーズを魅力的なものにしていた重大な要素がない。世界を共有し、設定や人物に共通点が多く、他でもないJ・K・ローリングが紡いだ後継作でありながら、しかも映画化に当たってはシリーズ第五作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』以降のすべてを手がけたデヴィッド・イェーツ監督が再登板してカラーの継承に努めていながら、ある面でまったく雰囲気が異なっている。
もちろん、わざと変えたに違いない。そのほうがファンに受けると踏んだのだろう。

とてもひと言では語れないが、このシリーズで私が注目したのは、現実にはできそうもない、子供の夢が描かれている点だった。
魔法が使えること?
それもあるが、厳密に云えば魔法は手段に過ぎない。普通は実現できない夢を魔法が叶えてくれるのだ。
子供が夢見ながら、実現するのはなかなか難しいこと。それは学校の先生をやっつけることだ。
ハリー・ポッターシリーズの魅力の源泉を考えるとき、私は別のある作品を思い出す。2001年に映画第一作『ハリー・ポッターと賢者の石』が封切られてから、新作が公開されるたびに私は「あの作品に似ている」と感じていた。
ハリー・ポッターシリーズの原作小説が出版されたのは1997年、J・K・ローリングがその着想を得たのは1990年だそうだが、それよりさらに遡る1976年に、日本でよく似たマンガが発表されている。永井豪氏の『へんちんポコイダー』だ。
『へんちんポコイダー』――題名だけでもしょうもなさがプンプン臭い、ハリー・ポッターシリーズの『賢者の石』や『炎のゴブレット』といった格調高さからはずいぶん隔たりがある。
中身はさらにしょうもない。『へんちんポコイダー』の主人公は、チンコロ学園に通う小学生の変 珍太(へん ちんた)だ。珍太が「へーんちーん、ポコイダー」と叫ぶとチンポコがぐるぐる回転して、正義の超人ポコイダーに変身できる。いや、「へんちん」できる。ポコイダーは『人造人間キカイダー』の主題歌「ゴーゴー・キカイダー」の替え歌をうたいながら、悪いヤツらを懲らしめる。
こうして文章に書いても品がなくてくだらなそうだが、現物を読めばそれはもうとんでもなく品がなくてくだらない。
だが、重要なのはチンポコがぐるぐる回るとこではなく、作品の構造だ。『へんちんポコイダー』には次のような特徴がある。
・珍太は家族からいじめられ、家では気の休まるときがない。
・珍太は学業もパッとしない。
・珍太はいじめられっ子で、ふだんの珍太はいじめっ子に太刀打ちできない。
・珍太は「へんちん」すると無敵の超人になり、いじめっ子を懲らしめることができる。
・新任の教師は子供をいたぶる嫌なヤツだが、最後はポコイダーの超人パワーでやっつけられる。
これらの特徴は、珍太をハリー・ポッターに、超人を魔法使いに置き換えれば、ほとんどそのままハリー・ポッターシリーズにも当てはまるだろう。
中でも強烈なのは最後の項目だ。
教師は聖職と云われ、高潔な人格者として敬われてきた。そんな世間のイメージを揺るがしたのが、1968年からはじまった永井豪氏の『ハレンチ学園』だ。永井氏は、教師が女子生徒の体に触るのを目にして、教師の実態を(誇張しながら)マンガにしたという。この作品は大人気を博すとともに、社会問題と化した。
『へんちんポコイダー』もその延長上にある。このマンガには、スパルタ教育で子供をいびりまくるデビル・スパイダー先生や、普段は温厚な教師の振りをしながら体育のときに子供をいじめて息抜きをする倉久健人(くらく けんと)先生といった、ポコイダーにやっつけられてとうぜんのひどい教師たちが登場する。
現実の教師にもひどい人間や未熟な人間はいるのだろうし、元はそうでなかったとしても人間は変わるものだ。舞田敏彦氏が毎月整理している教員不祥事報道を見ると、いつもコンスタントに教師の犯罪・不祥事が起きていることが判る。これらは報道されたものだけだから、氷山の一角に過ぎないはずだ。
もちろん、教師だから不祥事を起こすわけではない。どんな職業であっても不祥事を起こしたり犯罪に走る人間はいる。
ただ、教師は子供の成長に大きく関わる存在だから、子供を教え導くに相応しい人格者であって欲しいと世間が期待するのだろうし、にもかかわらず教師がただの人間だったら期待ギャップが生じるのだろう。あるいは、子供の成長に大きく関わる存在には厳しい目を向けなければ、という上から目線にさらされたりもするかもしれない。教師の側にだって云い分があるかもしれないし、報道されたことが真実だとは限るまい。
だが、当の子供たちからすれば、教師の人格はときに死活問題になる。場合によっては教師に恐れや嫌悪、怒りや憎しみを覚えることもあるだろう。それでも児童・生徒には、教師を叱ったり教師を指導したりはできない。
教師の不祥事には性犯罪が多いから、舞田敏彦氏は環境要因として「若い女子生徒と接する機会が多い、指導も密室というような、独自の就労環境」を挙げている。もちろん被害に遭うのは女子ばかりではない。男子も女子も、教師との力関係においては不利な立場に置かれている。
それゆえ、嫌な教師をやっつけたり、教師のダメなところを白日の下にさらす『へんちんポコイダー』やハリー・ポッターシリーズは、日頃我慢している子供にとって打ってつけの鬱憤晴らしといえるだろう。

ハリー・ポッターは全寮制のエリート校に進学することで冷たい家族から解放され、身につけた魔法で家族の鼻を明かしてやる。魔法のおかげでいじめっ子のドラコ・マルフォイたちを懲らしめて、そのうえ子供には最大の敵ともいえる先生をやっつけたり学外に放逐したりする。
毎度々々新任教師が悪者では飽きられてしまうから、『へんちんポコイダー』は乱暴な転校生や用務員のおじさんとも戦った。だが、こうしたブレは、作品の面白さを半減させたように思う。
それもあってか、『へんちんポコイダー』終了の翌年に仕切り直してはじまった『へんき~んタマイダー』(しょうもな……)では、日本の学校教育を支配する「悶部省」という悪の組織が設定され、「悶部省」から次々送り込まれる「悶もん教師」との戦いが繰り広げられた。
ハリー・ポッターシリーズも同様に、シリーズ後半には魔法省がヴォルデモート一派に支配されたことにして、ハリーたちと魔法省の戦いに発展する。そして極めつけに嫌な教師だったアンブリッジ先生が「マグル生まれ登録委員会」の委員長に就任したりと、物語は個々の教師との戦いをスケールアップさせた展開になる。
ホグワーツ魔法魔術学校に押し寄せるヴォルデモートと当局の軍勢にハリーたちが立ち向かう最後の戦いは、まるで1960年代末の学園紛争のようだ。
『いちご白書』(1970年)が示すように、学生と当局の戦いは学生が敗北して終わるものだ。型破りだった『ハレンチ学園』でさえ、大日本教育センターの軍勢には敵わなかった。
ところがハリー・ポッターシリーズは、ヴォルデモート=政府を相手にしながらハリーたちが勝利する。魔法大臣の敗北と「マグル生まれ登録委員会」委員長の投獄は、現代日本にたとえれば文部科学大臣と教育委員会の教育長の更迭に匹敵するだろう。嫌な先生だけでなく先生の背後にいる巨大組織までも完膚なきまでに叩きのめすのだから、あたかも学園紛争に逆転勝利したようなもので、子供たちの究極の願望が満たされたといえるだろう。
しかもハリー・ポッターシリーズは、生徒対教師という対立の構図になっていないところがミソである。
嫌な教師はやっつけたいが、教師すべてを敵に回すつもりはない。まだ子供だから大人に庇護してもらいたいし、学校を去って外の世界で生きていく気もない。そんな甘えた考えまで、このシリーズはすくい取っている。
だから寮監のマクゴナガル先生をはじめ多くの教師がハリーたちの味方だし、魔法省の誰をも凌ぐ偉大な魔法使いダンブルドア校長がみんなを見守ってくれている。
ハリーの家族は彼に冷たかったが、実の親ではないからという理由づけがなされ、死んだ両親なら優しかったはずという願望までが付け加えられる。実の親からいじめられる珍太に比べれば、逃げ道が用意されているほうだろう。
こうして、優しく理解のある大人たちに守られながら、嫌な先生やいじめっ子だけをとっちめるという、子供にとってたいへん虫のよい、甘美な世界を描いたのがハリー・ポッターシリーズだ。
これほど魅力的で心地好い作品なら、子供たちや元・子供たちに好評を博すのはとうぜんだろう。

当たり前だ。主人公ニュート・スキャマンダーは大人なのだから。
彼を庇護してくれる先生や親はいない。学校という小さな世界の中で、同じクラスや同じ寮の友人とばかり親しくしているわけにもいかない。ニュートは自力で見知らぬ土地を歩き回り、見ず知らずの人と信頼関係を構築して、困難を克服しなければならないのだ。
ハリーの11歳から17歳までの成長を描いたハリー・ポッターシリーズとは異なり、1897年生まれのニュートは本作の時点でもう29歳。ハリー・ポッターシリーズと同じ雰囲気になろうはずがない。
本作をハリー・ポッターとは異なる大人の物語にしたのは、受け手のことを考えたからだろう。
シリーズ第一作の『ハリー・ポッターと賢者の石』が出版された1997年にハリーと同じ11歳だった読者なら、本作が公開された2016年には30歳だ。映画第一作が公開された2001年に11歳だった観客なら26歳。これまでハリー・ポッターシリーズを支持してくれた受け手の年齢に合わせれば、どうしたって主人公は20代後半になる。
従来の読者や観客を切り捨てて、新たな子供向けのシリーズを立ち上げることもできなくはなかったろうが、そこにはすでに『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』等の後発作品がひしめいているし、他ならぬハリー・ポッターシリーズと市場を食い合ってしまう。
J・K・ローリングとワーナー・ブラザースが考えたのは、ハリー・ポッターシリーズが終わって喪失感を抱いている大人たちと、これからも増えるハリー・ポッターシリーズを読み終えた/観終えた人々に向けて、新たな娯楽を提供することだったに違いない。
だから主人公ニュートも、元・闇祓いで後にニュートの妻となるティナも、パン屋を夢見るジェイコブも、まるでファンタジーを読み終えて急に現実世界に放り出されたような、ぎこちない生き方をしている。ハリー・ポッターたちがヴォルデモートと魔法省を相手に勝利を収められたのはファンタジーの中の出来事であり、現実の世界はそんな風に上手くいかない――なかなか夢が叶わなかったり、職場では不本意な配置転換をされたりする――ことを、彼らは体現している。
本作で彼らが対決するのは、嫌な教師やいじめっ子ではない。
彼らの行く手を阻むのは、融通の利かない官僚主義であったり、教条的な思想だったり差別だったり、経済格差や自然破壊だったりする。これらのものは、ハリー・ポッターシリーズではヴォルデモートの悪行の陰で曖昧模糊としていたが、大人になった受け手たちはいよいよ正面から対峙しなければならない。もはや世の中の不合理や不快なことをヴォルデモートのような特定の悪人だけのせいにもできない。
本作は、大人になってそんな困難に直面した受け手たちに、ファンタジーの形を借りて再び寄り添う物語なのだ。
ホグワーツという学校を舞台にしていたハリー・ポッターシリーズは、巻を追うにつれて学校からはみ出していき、最終作『死の秘宝』ではハリーたちが学外を旅する描写が多くを占めた。
そしてホグワーツを追放された青年を主人公にした本作は、一学校よりもっと大きな「社会」というものを活躍の舞台にしたのである。
もはやここにはハリー・ポッターシリーズのような虫のよさも心地好さもない。その代わり、要領が悪く生きるのが下手でも懸命にあがくニュートやティナを描くことで、社会の中で日々悪戦苦闘する私たちを励まし、勇気づけてくれる。
ハリー・ポッターシリーズのあの心地好さを懐かしむ人は、あるいは本作がお気に召さないかもしれない。
しかし、私は作り手の思いが胸にしみた。このシリーズを今後も観続けようと思う。
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監督/デヴィッド・イェーツ 脚本・制作/J・K・ローリング
出演/エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー アリソン・スドル コリン・ファレル エズラ・ミラー サマンサ・モートン ジョン・ヴォイト カーメン・イジョゴ
日本公開/2016年11月23日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : デヴィッド・イェーツエディ・レッドメインキャサリン・ウォーターストンダン・フォグラーアリソン・スドルコリン・ファレルエズラ・ミラーサマンサ・モートンジョン・ヴォイトカーメン・イジョゴ