『この世界の片隅に』ウチを見つけてくれてありがとう
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その瞬間、『この世界の片隅に』の素晴らしさに驚いていた。
ゆっくりとした、温もりのあるモノローグは、『まんが日本昔ばなし』の語りのようだった。
これは凄いことだ。まだはじまって数秒しか経たないのに、私は圧倒されていた。『まんが日本昔ばなし』の語りといえば市原悦子さんである。20年近くのあいだ、語りに加えてありとあらゆる登場人物を演じ分けた名優だ。芹川有吾監督が『サイボーグ009 怪獣戦争』のヒロイン、二面性を持つヘレナを演じられる人物として起用し、高畑勲監督も『太陽の王子 ホルスの大冒険』の不安定な心を抱えるヒロイン・ヒルダに起用した、難しい役をお願いするならこの人しかいないという大女優だ。
やや舌足らずな喋り方は、市原悦子さんより可愛らしいが、弱冠23歳の能年玲奈さんがあのベテランを思い起こさせる演技で長編アニメーション映画を引っ張っていくとは、まったく驚くべきことだった。
能年玲奈さんは2016年11月現在、のんという芸名で活躍している。映画のクレジットものんであるが、ここでは本名の能年玲奈で表記させていただく。
映画『この世界の片隅に』は昭和8年から昭和21年に至る、広島市と呉市で暮らしたすずの人生を描いている。
何を食べたとか、服をあつらえたとか、掃除をしたとか絵を描いたとか、日常のことがとても丁寧に描写されている。暮らしの細部が克明に描かれれば描かれるほど、食事を作るのにも掃除をするのにもささやかなドラマがあることに気づかされる。
本作で印象的なのは、誰もがニコニコしていることだ。失敗もあれば困ったこともある。けれども失敗が笑いを誘い、困ったことに呆れかえり、登場人物たちはいつも笑顔で過ごしている。事件らしい事件がなくても、悲喜こもごもを笑い飛ばす日常の繰り返しから、生きることそのものの楽しさが滲み出ている。
主人公すずを演じた能年玲奈さんも「ごはんを作ったり、お洗濯をする楽しさがわかってきて、生活をするのが楽しくなりました!」と述べるほどだ。
日常がじっくり描かれているだけに、日常と戦火が交わるときは衝撃的だ。
晴れ渡った気持ちの良い青空を戦闘機が飛び、のどかな畑の上を爆音が轟き、対空砲火の煙の下をちょうちょが舞う。まるで観客も呉の住人になったかのようにすっかり慣れ親しんでいた風景が、突然の戦闘で引き裂かれる。
そして、生きること、楽しいことが、前触れもなく断絶する。その辛さ、悲しさ。
しかし、私は日常と戦争を対比して語ってはいけないと思う。平和な日常が続く時期と、悲惨な戦争が続いた時期に分けて考えるのは、ちょっと違うと思うからだ。
たまたま日本は70年以上にわたって戦争をしないできたが、これはとても珍しいことだろう。米国は第二次世界大戦後も間断なく戦争をし続けている。今も米兵は世界各地に展開している。そのあいだも米国では人々が楽しい日常を送り、ディズニーパークで遊んだり映画鑑賞に興じたりしている。
日本も20世紀の前半まではひっきりなしに戦争していた。本作冒頭の昭和8年は日本が国際連盟を脱退した年であり、少女すずが波のうさぎの絵を描いていたときも大陸では大日本帝国と中華民国の戦いが続いていた。

片渕須直監督は、まだ平和にどっぷりひたっていたすずがのんびり眺めていたのはマリアナ沖海戦で負けて帰ってきた艦隊であると解説して、こう述べている。「彼らは片隅にいて世界が見えていないんだけど、その向こうには大戦争をしている本物の世界があって、それをあの段々畑から眺めているという風に描こうと思ったんです。」
この映画は2010年に企画がはじまり、2016年の劇場公開まで六年かかっている。
先ほど日本は70年以上にわたって戦争をしていないと書いたが、本作の制作と並行するように、我が国は2011年から南スーダンに自衛隊を派遣し、2016年の今も内戦状態の彼の国に自衛隊員を留めている。
私たちの日常はいつだって戦場と地続きなのだ。
観る者がそのことを実感するのは、本作が丁寧な日常の描写から語り起こしているからだ。
空襲に怯えて防空壕に隠れる日々も、原爆に焼けただれて体が腐っていくときも、これまでの日常とどこかで繋がっている。
恐ろしいことが起きたのに、暮らしがめちゃくちゃに破壊されたのに、"良かったこと"を見つけ出してニコニコしている家族たち。
日常の裏にある"まやかし"にもすずは気がついてしまう。
それでも、だ。
それでも生きていこうと思えるのは、日常の楽しさが――生きることの楽しさが描かれていたからだ。
まやかしがあると知ってもなお、自分と家族で築いていくこの上なく大切な日々。
観客の誰もが泣いていた。場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。
上映が終わると、拍手が自然に湧き起こった。場内に広がる拍手。拍手。
はじめて観た映画なのに、私はずっと昔からこの作品に出会うのを待っていたような気がする。
これからずっと大切にするものに、ようやく出会えたような気がする。

監督・脚本/片渕須直 原作/こうの史代
出演/能年玲奈(芸名のん) 細谷佳正 尾身美詞 稲葉菜月 牛山茂 新谷真弓 小野大輔 潘めぐみ 岩井七世 小山剛志 津田真澄 京田尚子
日本公開/2016年11月12日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]

『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』 復活の予告

『闇金ウシジマくん』シリーズを貫くテーマの一つは「信用」だ。テレビドラマのSeason1とSeason2、そして映画のPart1とPart2のいずれも、お金のやりとりを通して目には見えない「信用」を描いていた(詳しくは「『闇金ウシジマくん』は現代の仕事人だ!」「『闇金ウシジマくん Part2』 正義とは悪だった!」参照)。
2016年の『闇金ウシジマくん』シリーズの連打は、それを一層強調するものだ。
2016年7月17日からはじまったテレビドラマのSeason3は、他人を信用したばっかりに家族ぐるみで洗脳され、殺人までさせられる人々を描いた。原作者の真鍋昌平氏さえも「テレビドラマでやるんですか?」と尋ねるほどハードな展開だった(それでも現実に起きた北九州・連続監禁殺人事件に比べれば、かなり抑えた描写ではある)。
2016年9月22日公開の映画Part3では、情報商材という中身のないものを売るビジネスを題材に、人は信用すれば何にでも金を出すこと、けれども中身がなければ信用は維持できないことを描いた。
闇金融を営むウシジマくんは信用の権化である。どこまで信用できるか相手を値踏みし、信用に応じて金を渡す。債務者が約束どおり金を返せばよし、もしも返せなければどこまでも追いかけて鉄の制裁を加える。信用に応えたかどうかだけで判断するウシジマくんにブレはない。
闇金を利用する人間も、金を借りることで「自分の信用はゼロじゃない、社会と繋がっている」と感じるのだろう。ウシジマくんのモデルになった闇金業経験者トキタセイジ氏(偽名)は、闇金利用者をこう評している。
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今回の本(引用者註「『闇金ウシジマくん』モデルが語る 路地裏拝金エレジー」)では、客のことをクズだなんだとあえて辛辣(しんらつ)に書いているけど、彼らは別に落ちた存在じゃない。彼らなりに精いっぱい生きている。だから、"こんな自分にもまだ金を貸してくれるところがある"という、安心感を覚えて帰るヤツが多いよね。
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ところが2016年10月22日に公開された『ザ・ファイナル』では、ウシジマくんの前に信用とは別の概念が立ちはだかった。「善意」である。善意の塊の幼馴染・竹本が登場し、ウシジマくんに信用だけで判断することの是非を問うのだ。
竹本は他人の幸福を願っており、そのために自分が犠牲になることを厭わない。そんな竹本から見れば、貧困のどん底にある人から容赦なく金を取り立てるウシジマくんは強欲な存在だ。
竹本とウシジマくんの考えは天と地とも離れている。だが、実はウシジマくんとて、そんな竹本がいてくれたから救われた過去がある。
幼馴染というより、因縁の対決をするのが鰐戸(がくと)三兄弟だ。
竹本と同じくウシジマくんの中学時代からの知り合いだが、彼らは竹本とは反対に人間の悪意を象徴している。他人を支配し、搾取するのが彼らのやり方であり、そのために誰をどれだけ傷つけようが気にしない。
『ザ・ファイナル』は、竹本と鰐戸三兄弟という究極の善意と悪意を登場させて、彼らとウシジマくんを対決させることで、ウシジマくんが象徴する「信用」の意味を問う映画なのだ。

一般的に、「信用」は「善」に近いところで語られることが多いと思う。しかし、ウシジマくんの商売は違法であり、そのむごい取り立てや債務者の人生を破壊する行為は善からはほど遠く感じる。
そこで本作は、極め付けの善と対比することで信用の何たるかを浮き彫りにする。同時に、徹底した悪との比較によって、ウシジマくんの行為がどれほど悪いか/悪くないかを明らかにする。
そして人の世に必要なのは善なのか信用なのか、私たちはどうあるべきかを問いかける。シリーズの掉尾を飾るに相応しい重厚なテーマである。
善意だけで行動する竹本は素晴らしい人間だ。彼は困った人を放っておけない。他人の暮らしを良くするために、誰もが恐れる鰐戸やウシジマくんを相手に臆することなく真摯に掛け合う。
ところが彼には、他人に与えるものが何もない。惜しみなく施しを与えようとする竹本だが、彼自身は無一文であり、金を持ってる鰐戸三兄弟に他者への便宜を図るよう頼み込むことしかできない。
鰐戸三兄弟は、暴力の恐怖と甘い誘惑で人々を隷属させている。他人の痛みも苦しみも意に介さない邪悪な連中だが、注目すべきは彼らが大勢の人間を食わせていることだ。
宿泊施設「誠愛の家」を運営する彼らは、そこに何十人も住まわせ、違法な労働に従事させてその上がりをせしめている。貧困者を利用する卑劣な行為だが、社会に居場所がない人間はそこにいればまがりなりにも寝床と食事にありつける。正論を吐く竹本には誰も味方しないのに、鰐戸三兄弟の命令にはみんな黙って従っている。
ここに善意の限界と、悪を排除できないジレンマがある。
いや、美しい正論を口にしながら何も与えられない竹本は、本当に善なのか。
恐怖と誘惑で支配しつつ、衣食住を確保してやれる鰐戸三兄弟は、本当に悪なのか。
善と悪とを隔てるものが本当にあるのだろうか。

力とは暴力ばかりではない。中国の古典に「経世済民」という言葉がある。世を治め、民を救済することを意味し、略して経済という。民を救済する力とは、すなわち経済力であろう。
竹本はウシジマくんを強欲と非難し、考えを改めるように説得を試みる。金を豊富に持つウシジマくんに、貧しい人に少し与えてやれと云う。
だが、ウシジマくんが取り立ての手綱を緩めたり、金をくれてやったりしたらどうなるだろうか。ウシジマくん一人の金で世界中の人を豊かにすることはできない。ウシジマくんの資金は雲散霧消し、早晩ウシジマくんは一文なしになるだろう。
劇中に説明はなくても、竹本がホームレスに転落し、「誠愛の家」に身を寄せる破目になったのは、彼が持てるすべてを他者に与えてしまったからであることは容易に察せられる。「誠愛の家」で働かされる彼はあまりにも無力だ。
実際には、ウシジマくんとて債務者の一人に過ぎない。
ウシジマくんに金があるように見えるのは、彼が金主から高利で借りているからだ。ウシジマくんは金の一部を他者に貸し、発生した利息を回収する。そこからさらに金主へ多額の利息を返済する。ウシジマくんは金が循環するルートの結節点の一つなのだ。金はいったんそこに集まるが、すぐにまた流れ出ていく。止まらずに流れ続けるからこそ、流れを分岐させて困窮する人に金を渡すこともできる(ウシジマくんと金主の関係については、テレビドラマのSeason1で描かれている)。
だから、ウシジマくんは金の循環を止められない。流れが止まったら、生態系の生物は死に絶える。金を与えるのは一方向に金を動かすだけで循環にならないから、やがて上流も下流も食い詰める。竹本がホームレスにならざるを得なかったように。
無慈悲に取り立てるウシジマくんを非難する竹本に、ウシジマくんの返す言葉が問題の難しさを表している。
「お前は金を借りる側だからそう云うんだ。金を貸すほうになってみろ。」
本作は第一級のエンターテイメントであり、金を巡る対立や三つ巴、四つ巴の戦い等々、見どころにはこと欠かない。カタルシスも存分に味わわせてくれる。
だが、安易な結論は示さない。


しかし、ここにこそ本作の真髄がある。
金の循環を通して、社会の信用を維持するウシジマくんは、金の流れを寸断し、混沌とさせる竹本の善意を容認できない。《力=経済力》の裏打ちのない善意の持ち主は、一介の債務者でしかない。
だが、竹本は労働仲間全員分の借金を一人で背負いながらも、いずれ社会に戻ってくることを予告する。誰も竹本を助けないというのに。生きては出られないという施設に送られてしまうのに。
これはまさにイエス・キリストの生涯と同じである。
イエスは人々に悔い改めること、他者を愛することを説いた。けれども弟子の一人に裏切られ、イエスの教えに耳を貸さない連中に引き渡される。弟子たちはイエスを見放し、逃げ出してしまう。誰も庇ってくれない中、イエスはすべての人の罪を背負って十字架にかけられ、処刑される。だが、イエスは自分の死と復活を予告していた。その言葉どおり、墓に埋葬されたイエスは三日後に復活し、弟子たちの前に現れる。逃げていた弟子たちは心打たれ、イエスの教えを広めるために奔走するようになる。
労働施設行きを前にしても、やがて社会に舞い戻ると力強く予告する竹本の姿は、引き渡し直前のイエス・キリストに重なって見える。
竹本がイエスだとすれば、かけがえのない友人を労働施設送りにするウシジマくんは、弟子たちの中で会計を担当し、金と引き換えにイエスを売ったユダに相当しよう。
イスカリオテのユダは裏切り者だが、イエスはユダが裏切ることも予告していた。イエスの予告どおりユダが裏切ったからこそ、イエスの死と復活が生じ、人々の中でイエスへの信仰が高まった。彼の裏切りは避けて通れないプロセスだったに違いない。
だから竹本とウシジマくんも、今はこうなるしかないのかもしれない。信用を「金」という形で実体化させ、それを循環させることで維持された社会では、こうせざるを得なかったのかもしれない。
しかし、いつか竹本が再び姿を現すとき、何かが変わるかもしれない。
逃げ出した労働者仲間の心に、何かが生じるかもしれない。
そこから、世界は変わっていくかもしれない。
余韻に満ちた本作のラストは、そんな思いを抱かせる。

監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 綾野剛 永山絢斗 崎本大海 やべきょうすけ 安藤政信 間宮祥太朗 八嶋智人 真野恵里菜 太賀 モロ師岡 真飛聖 高橋メアリージュン マキタスポーツ 最上もが 狩野見恭兵 玉城ティナ YOUNG DAIS
日本公開/2016年10月22日
ジャンル/[ドラマ]

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