『ハドソン川の奇跡』 イーストウッド遂に乗り出す
![ハドソン川の奇跡 ブルーレイ&DVDセット(初回仕様/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91YLKaZZWYL._SL160_.jpg)
なるほど、物議をかもす映画である。
ワーナー・ブラザースの重役は、『ハドソン川の奇跡』をいつ封切るべきか思い悩んだという。旅客機がマンハッタンの摩天楼に激突して大参事になるかもしれない、そんな映画をよりにもよって9.11――4機の旅客機が建物に突入したアメリカ同時多発テロ事件――の15周年にぶつけたら客足に悪い影響があるかもしれない。そう心配するのはとうぜんのことだろう。
それでも本作は最終的に2016年9月9日、すなわち9月11日の追悼式典のわずか2日前に公開された。「これは希望の物語であり、職務を遂行した現実のヒーローを描いた作品だから」とワーナー・ブラザースのジェフ・ゴールドスタインは語る。「心配には及ばないさ、と話し合ったんだ。」
事実、『ハドソン川の奇跡』の客足は好調だ。この映画の素晴らしさを前にして、9.11との連想から否定的に評する人はまずいないだろう。
本作はとてもシンプルで上品だ。旅客機がハドソン川に不時着するという大事件を扱いながら、うろたえる人や感情的になる人がほとんど出てこない。怒号も響かなければ、泣き叫ぶ声も聞かれない。心情を吐露する冗舌な台詞もまるでない。96分という短い時間の中で、機長の秘めたる葛藤と事故の顛末を淡々と描くだけだ。そして、ハッピーエンドであることは誰もが知っているにもかかわらず、それでも多くの人の働きと冷静な対処により事態が収拾される様子には感動せずにいられない。
さすがクリント・イーストウッド監督、と云うしかない、大人の映画だ。
だが、素晴らしい映画でも好評ばかりとは限らない。本作が実話を扱っているだけに、その描き方、特に正確さには多様な意見が寄せられる。
本作が問題とされたのは、国家運輸安全委員会(NTSB)による事故調査の描写だった。NTSBの調査は、事故の事実関係を明らかにし、再発防止に活かすためのものだ。しかし本作ではまるでNTSBがチェズレイ・"サリー"・サレンバーガー機長を吊し上げ、事故を機長のせいにしようとしたように見える。NTSBは、空港に帰れたはずの旅客機を機長が川に墜落させたと迫ったのだ。コンピューターの計算によれば川に不時着しなくても空港まで引き返せたことを示し、シミュレーション装置の再現テストでも空港まで無事に引き返せたはずであることを突き付けて、NTSBの調査員は機長を精神的に追い詰める。
ここにNTSB関係者らから非難の声が上がった。「我々はKGBでもなければゲシュタポでもない。」
NTSBは検察ではないから個人に責任を追わせたりしないのに、これではまるで主人公をいじめる敵役だ。機長がヒーローである以上、観客に印象づくのは政府機関の愚かさだ。
イーストウッドはリバタリアンだから政府を無能に描くのだ、という非難まで飛び出した。リバタリアンとは、ざっくり云えば個人の自由を重視し、政府の干渉を警戒する人のことである。
たしかに本作のNTSBの描き方は適切とはいえない。本作のアドバイザーを務めたサレンバーガー元機長は、NTSBは検察ではないし、検察のように描くのは公平ではないと指摘したそうだ。
本作を作るに当たって実物の旅客機を購入し、実際に使用された救助ボートを使い、オペレーターや救助チームやボランティアに至るまで本物の関係者を集めて自分を演じてもらったほどリアルな再現にこだわったイーストウッド監督が、なぜNTSBに関してはすぐに非難されるような描き方をしたのだろうか。
「脚本を読むまでは、事故調査委員会がサレンバーガー機長の落ち度にしようとしていたことは知らなかった。彼らは強引に機長に誤りを認めさせようとしたんだ。」とイーストウッドは宣伝用ビデオで述べている。
この言葉からすると、イーストウッドが作品に関わる前にはもうNTSBがサレンバーガー機長を責める構図ができていたのだろう。離陸してから不時着までたったの6分しかないフライトを長編映画に仕立てるには、そういう飾り付けが求められたのかもしれない。
だが、先に述べたように、イーストウッド監督は事故を徹底してリアルに再現することを狙ったのだから、NTSBの関係者も納得するようなトーンに変えることもできたはずだ。イーストウッドは監督だけでなくプロデューサーでもあったので、意に沿わない脚本のまま撮り続ける必要はなかったはずだ。
つまりイーストウッドは、NTSBがサレンバーガー機長の40年ものパイロット歴を無視して責め立てても、機長が負けずにみずからの正しさを主張する映画を撮りたかったに違いないのだ。そこに撮るべき意義を感じたから監督を引き受け、映画を完成させたはずなのだ。イーストウッドは脚本が描いた構図に納得し、変える必要を感じなかった。だから宣伝用ビデオでも堂々と前述のように発言したのだろう。
リバタリアンだから?
それもあるかもしれない。「放っといてくれ」を信条とするイーストウッドにとって、個人の生活に関わってくる政府は警戒すべき相手であり、余計なことをする"敵"なのかもしれない。
しかし、それだけではあるまい。本作では組合がサレンバーガー機長を支援する姿も描かれる。単純に「国家対個人」という対立の図式ではない。
では、イーストウッドは本作を通して何と戦ったのだろうか。

実話に基づく『マネーボール』は、コンピューターを駆使して統計分析を行い、経験と勘に頼った球団運営ではできない偉業を成し遂げていく映画だった。特に経験豊富なスカウトの目利きを否定し、数字だけで判断することの重要性を強調した。
一方、『人生の特等席』は経験豊富なスカウトを主人公にして、コンピューターの前に座って数字をいじるばかりの連中をこき下ろす映画だった。現場に立会いもせずに、室内でいくらデータを分析したってろくな結論は出やしない。熟達した人間の経験と勘に勝るものはないのだ、そう主張する作品だ。
登場人物の人間関係から、一つ一つのエピソードまで、両作は面白いように正反対の内容になっている。詳しい比較については以前の記事「『人生の特等席』 なぜイーストウッドが監督しないのか?」をお読みいただきたい。
イーストウッドが制作・主演した『人生の特等席』の大きな特徴、それはイーストウッドが監督ではないことだ。
ブラッド・ピットの映画とはわけが違う。役者だけでなくプロデューサーとしても優れた実績のあるブラッド・ピットだが、監督業には手を出していない。だから彼には制作と主演のみの映画がたくさんある。
ところが、アカデミー賞の監督賞を二度も受賞したクリント・イーストウッドは、もはや俳優業そっちのけで監督業にいそしんでいる。そんなイーストウッドが他人の監督作に出演するのは、実に20年ぶりのことだった。制作を買って出るだけでなく、主役まで引き受ける。それほど『人生の特等席』の実現には力を入れたのに、監督は務めていない。
その理由として考えられることも以前の記事で書いておいたが、ひらたく云えば、『人生の特等席』の脚本はイーストウッドの監督歴に加えたいものではなかったのだろう。面白いとは思ったのだろうが、近年しみじみとした味わい深い作品を発表しているイーストウッド監督にとって、野球一筋の頑固おやじがインテリぶった奴らの鼻を明かす痛快作は監督として食指が動く題材ではなかったのだ。だから監督は他人に譲ったのだろう。
とはいえ、マーケットリサーチの分析結果にしたがって映画公開の有無が決められる米国にあって、「自分の勘で作品を選ぶ」と云い切るクリント・イーストウッドは、『人生の特等席』の主張するところ――コンピューターを駆使した分析なんかに、人間の経験と能力を否定されてたまるものか――には大いに共感していたはずだ。
そして、その主張が盛り込まれた上に、監督としても食指が動く題材があったなら、これは撮らずにいられないはずだ。
それが『ハドソン川の奇跡』だ。米国の一面を象徴する実話であり、後世まで語り継がれるべき重大事であり、政府とか組織ではなくあくまで個々人の行動を問う物語。ここにはイーストウッドが好みそうな要素がいくつもある。
申し訳ないことにNTSBには敵役になってもらったが、イーストウッドに彼らを悪く描く意図はなかったのではないかと思う。NTSBのメンバーはコンピューターの分析を鵜呑みにし、データや分析結果に踊らされる人々――リサーチ結果にしたがって映画公開を判断をしてしまう映画会社をはじめ、人間の経験や直感よりもデータと分析を信奉する人々――つまり多くの現代人を代表させたに過ぎないのだろう。
だから、事故のディテールをとことんまでリアルに再現しても、脚本の構図は変えなかった。
それは、NTSB対サレンバーガー機長ではない。国家対個人でもない。長年にわたる経験の重さや人と人との結びつきを大切にしようという思いと、それらを切り捨て、表面的な数字だけでこと足れりとする風潮との戦いなのだ。
劇中、サレンバーガー機長が40年に及ぶ自身の操縦経験と豊富な知見を説明したのに、NTSBの調査官が遮って云い放つ場面がある。あなたの経験も過去の事例も関係ない、今回の墜落だけを調べているのだと。こういう態度を、おそらくイーストウッドは許せないのだ。こういう風潮に歯止めをかけたいのだ。それを端的に描ける題材が、USエアウェイズ1549便不時着水事故だったのだろう。
ただし、本作は『人生の特等席』とは違う。データ分析に振り回される輩を笑いものにして勝利を味わうような真似はしない。イーストウッドは冷静だ。
結果的にNTSBの考えは間違っており、サレンバーガー機長が正しいことが立証されるが、NTSBの判断を間違えさせたのはパラメーターの欠如だった。咄嗟の事故における人間の行動に対する洞察が欠けており、それがシミュレーションを誤らせたのだ。
パラメーターを充分に整えれば正確なシミュレーションはできるはずであり、必要なパラメーターを指摘できるのは経験豊富な人間だ。サレンバーガー機長の冷静な指摘は、その可能性を感じさせる。
コンピューターや分析手法の登場は、経験豊富な人間に退場を迫るのではなく、熟練者に敬意を払い、補完し合うことで、より安全な、より適切な仕事ができるはずだ。最後にNTSBから発せられるパイロットへの称賛の言葉には、そんな気持ちが込められているのではないかと私は思う。
それが実現すれば、奇跡と思われたことも当たり前のようになっていくかもしれない。
![ハドソン川の奇跡 ブルーレイ&DVDセット(初回仕様/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91YLKaZZWYL._SL160_.jpg)
監督・制作/クリント・イーストウッド
出演/トム・ハンクス アーロン・エッカート ローラ・リニー アンナ・ガン オータム・リーサー ホルト・マッキャラニー マイク・オマリー
日本公開/2016年9月24日
ジャンル/[ドラマ]

tag : クリント・イーストウッドトム・ハンクスアーロン・エッカートローラ・リニーアンナ・ガンオータム・リーサーホルト・マッキャラニーマイク・オマリー
『キング・オブ・エジプト』の見たこともない世界
![キング・オブ・エジプト(2枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/A1CmbeK8koL._SL160_.jpg)
極めて特徴的な原題があるのに、『キング・オブ・エジプト』という平凡な邦題になってしまったのは残念だ。
しかも本作の惹句は、次のようなものだ。
<神の眼>を盗んで
エジプトの王座を奪え!
これではまるで、<神の眼>を盗んでエジプトの王座を奪う話みたいではないか!
公式サイトのストーリー紹介には、「鍵を握るのは、奪われた恋人を救うため立ち上がった盗賊の青年ベック」と書かれている。これではまるで、奪われた恋人を救うため立ち上がった盗賊の青年ベックの物語みたいではないか!
そういうアドベンチャー映画にニーズがないとは云わないが、そういう売り方に刺激される人もいるかもしれないが、でもまったく異なる魅力に溢れた映画を、ありがちなアドベンチャー映画に見せかけて売り込むとはあまりにもったい。
もっとも、日本で公開されただけでも御の字なのかもしれない。
1.4億ドルもの巨費を投じてつくられた本作は、北米でわずか0.3億ドルの興行収入にとどまってしまい、一時は「『ゴッド・オブ・エジプト』、アメリカで大コケ イギリスでの公開をキャンセル」とのニュースまで流れた(幸い、米国公開の四ヶ月後に英国でも公開された)。
マイナスイメージを払拭するように、日本の配給会社は『ゴッド・オブ・エジプト』と報じられたイカす邦題を『キング・オブ・エジプト』に変えてしまい、「THE BATTLE FOR ETERNITY BEGINS (永遠の戦いがはじまる)」というスケールの大きな惹句を「エジプトの王座を奪え!」と矮小化したが、公開が見送られるよりはマシだろう。
アメリカ映画『キング・オブ・エジプト』の原題は『Gods of Egypt』である。
Godが複数形になっているのは、『神々と男たち』のような比喩的な意味ではない。本当に神がわらわら登場し、動物をモチーフにした輝く甲冑を装着して、丁々発止のアクションを繰り広げるのだ。
だから本作は、盗賊の青年が活躍する冒険物の要素も確かにあるが、その実『聖闘士星矢』や『鎧伝サムライトルーパー』に通じるバトルスーツ物なのだ。『聖闘士星矢』はもちろんのこと、レイ・ハリーハウゼンの作品や『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』『インモータルズ -神々の戦い-』等でもお馴染みのギリシア神話を離れ、エジプト神話を題材にしたところが新機軸だ。題材にしたといっても、エジプト神話を映画にしたのではなく、神話のキャラクターやエピソードをつまみ食いしただけだから、映画は自由奔放で、そこがまたいい。

圧巻は暗黒神アポピスの出現だ。もくもくと広がる暗黒の塊が宇宙を貪り食う様は、『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』に登場したマーベル・コミック最大の悪役、宇宙魔神ギャラクタスにも似て、これ以上ないスケールを感じさせる。
それをも凌駕する本作最大の見どころは、なんといっても宇宙の描写だろう。本作の宇宙は、古代人が考えるような天動説の世界なのだ。
大地は巨大な円盤の形をしており、その片面に人間の世界がある。大地の周囲を巡る太陽を動かすのは、宇宙の諸々を生み出した主神ラーだ。ラーが太陽を円盤状の大地の表面に引っ張り上げると昼になり、裏面に回すと夜になる。
念のために書き添えると、これは必ずしもエジプト神話の世界観に沿ったものではない。本来エジプト神話では、大地は男神ゲブ、天は女神ヌトであり、彼らのあいだを大気の神シューが引き裂いたことになっている。本作はこの世界観に合わないが、エジプト神話の映画化ではないから気にすることはない。
それよりも私は、実写映画ではじめて見る天動説の世界に興奮した。今の時代に、映像技術を凝らして天動説の世界を描こうなんて、普通は考えないだろう。でも、あり得ないものを堂々と見せてくれるのも映画の醍醐味だ。リアリズムもいいけれど、嘘を思い切り嘘っぽく描くのはなんと楽しいことか。
前作『ノウイング』で聖書を題材にしながら聖書からどんどん乖離させて大胆不敵なSFに昇華させたアレックス・プロヤス監督ならではの、超絶センスが光っている。
だいたい、我々の星が球体であるという事実を捨てて、宇宙の構造から想を練った映画なんてなかなかあるまい。あまりの凄さに私は圧倒されっ放しだった。
この稀有壮大な世界を視覚的に実現した美術にも目をみはる。ホドロフスキーの『DUNE』のためにメビウスらが考案したデザインを彷彿とさせるセットやコスチューム、そして仏マンガ界の大御所フィリップ・ドゥルイエの流麗なタッチを思わせる美しい色合いに感激した。
こんな映画にはそうそうお目にかかれないと思うのだが、それが日本ではエジプトの王座を奪う話みたいに宣伝されるのが――そしておそらく配給会社の想像どおり、神々の闘いを前面に出した宣伝では動員が伸びないのかもしれないことが残念でならない。

しかし、彼らを補ってあまりあるのが魅力的な女性キャラクターたちだ。ベックの恋人ザヤの可憐さや、ホルスを愛する女神ハトホルの思慮深さと侠気が観る者を惹きつける。セトの支配に最後まで抵抗を示すのは夜の女神ネフティスだし、他方、セトの軍勢で気を吐くのも戦いの女神アナトとアスタルテの二人組だ。彼女たちのおかげで本作の魅力は倍増している。
そして、珍しく悪役を演じるジェラルド・バトラーと太陽神ラーを演じるジェフリー・ラッシュのさすがの存在感にも唸らされる。
この際、もう少し踏み込んで書いておこう。
私がこの映画を気に入ったのは、スケールの大きさやビジュアルが凄いからばかりではではない。映画化不可能と思われた大好きな小説に似たところがあるからだ。私は本作を観て、1960年代のSF冒険小説の傑作、フィリップ・ホセ・ファーマーの階層宇宙シリーズを思い出していた。
階層宇宙は、円柱状の大地の上にやや小さい円柱を載せ、その上にさらに小さい円柱を載せた、ウェディングケーキのような段々になった星だ。各円柱の上面に、生物の住む世界がある。虚空にこの星が浮かぶ様は、おそらく本作の円盤状の大地のようであろう。
階層宇宙シリーズに登場するのは、神にも等しい力を持つ長命族。自由に宇宙を作り、生命を創造し支配する彼らは、永遠ともいえる時間の中で骨肉相食む争いを繰り広げている。この点も本作に共通するところだ。
叔父であるセトに戴冠式を邪魔されて砂漠に放逐された本作の主人公ホルスは、支配者の座を追われて旅する階層宇宙シリーズの主人公ウルフに相当しよう。本作のコソ泥ベックは、さしずめウルフの相棒となる人間の冒険家キカハだろう。
アレックス・プロヤス監督は、フィリップ・ホセ・ファーマーの二大シリーズのうちのもう一つ、リバーワールドシリーズをテレビドラマ化した際のエグゼクティブプロデューサーでもあるから、階層宇宙シリーズも読んでいるに違いない(本作がエジプト神話を題材にしたのも、ギリシア神話を取り上げたらあまりに階層宇宙シリーズと同じになってしまうから神話くらいは違いを出そうと考えたのではないかと勘繰りたくなる)。
だが、アレックス・プロヤス監督や脚本家のマット・サザマとバーク・シャープレスのコンビが、階層宇宙シリーズを読んだかどうかは重要ではない。面白い作品を作ろうと考えた末にたどり着いたのが、往年の名シリーズに近いところだったということだ。
そう、本作の"天動説の世界"が素晴らしいのは、単に中世以前の「遅れた」世界観を再現したからではなく、階層宇宙シリーズに見られるような「プライベート・コスモス」の概念を映像化したからなのだ。
超種族が自分好みの宇宙を創り、創造した生物を住まわせ、その生き様、死に様を観察する。その壮大な世界を描くことで、私たちが陥りがちな人間中心、自民族中心、自分中心の思考を引っくり返し、自分が属する世界(国や風土や文化)を絶対視することに疑問を投げかける。それは『ノウイング』にも通じるプロヤス監督お得意のテーマだが、ややもすれば『2001年宇宙の旅』のように哲学的になりかねないところを、プロヤス監督はアップテンポなストーリー運びと派手なアクション満載で描いてくれる。
今回の舞台になったラーのプライベート・コスモスは、天動説を地で行く世界だった。シリーズ化されれば様々な驚くべき宇宙が描かれたかもしれないが、本作だけでも階層宇宙シリーズのような壮大な世界が存分に楽しめる。
![キング・オブ・エジプト(2枚組) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/A1CmbeK8koL._SL160_.jpg)
監督・制作/アレックス・プロヤス
脚本/マット・サザマ、バーク・シャープレス
出演/ニコライ・コスター=ワルドー ブレントン・スウェイツ ジェラルド・バトラー ジェフリー・ラッシュ チャドウィック・ボーズマン エロディ・ユン コートニー・イートン ルーファス・シーウェル レイチェル・ブレイク ブライアン・ブラウン エマ・ブース アビー・リー ヤヤ・デュン
日本公開/2016年9月9日
ジャンル/[アドベンチャー] [アクション] [ファンタジー] [SF]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』と『E.T.』と『崖の上のポニョ』の共通点
![BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント ブルーレイ(デジタルコピー付き) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71YxAEhPO0L._SL160_.jpg)
さすがはスピルバーグだ。無駄のないショット、無駄のない展開、滑らかなカメラワークに身を任せれば充実のうちに二時間が過ぎている。映画鑑賞時のこの安心感は、スティーヴン・スピルバーグ監督ならではだ。
そして、スピルバーグ監督らしい心優しさに溢れた映画『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』を観ながら、スピルバーグも今年、2016年で70歳になるのだなぁとしみじみ思った。
70歳といえば、黒澤明監督がスピルバーグの力添えで『夢』(1990年)を発表した歳である。立て続けに悲劇映画を撮ってきた黒澤明監督が、世界の崩壊と現実離れした桃源郷を描いてみせた『夢』は、世の中に対する怒りと悲しみと諦めと――老境にあって湧き起こるとりとめのない想念を吐き出したような映画だった。
それに引きかえ、小さな女の子と親切な巨人の物語『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』を撮り上げたスピルバーグ監督の、なんと穏やかで寛容な70歳であることか。
――と考えたところで、待てよ、と思った。
心優しさに溢れた映画は、スピルバーグらしいのだろうか。
『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』の公式サイトには、真っ先に「『E.T.』のスティーブン・スピルバーグ監督が贈る―」と書いてある。いくら『E.T.』が記録的大ヒットだったとはいえ、1982年の、34年も前の作品を宣伝に持ち出すとはどうしたことか。
よくよく考えてみれば、そうせざるを得ないのだ。スリラーやサスペンスの名手であり、多くの名作を撮ってきたスピルバーグ監督も、心温まるファンタジー映画の代表作を探すと『E.T.』くらいしか浮かばない。
スピルバーグ監督が心温まるファンタジーを撮ることに違和感を覚えないのは、そういう作品をたくさん撮ったからではなく、『E.T.』の大ヒットの記憶と彼の作品に一貫するヒューマニズムのためだろう。
実際には1989年の『オールウェイズ』や1991年の『フック』もあるのだが、興行の振るわなかった『オールウェイズ』や好意的な批評を得られなかった『フック』(Rotten Tomatoesによれば評論家の支持率は30%)では、新作の宣伝に使いにくい。
![E.T.コレクターズ・エディション [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41EJH6DYZZL._SL160_.jpg)
子育てのために半ば引退していたメリッサ・マシスンにとって、本作は約20年ぶりの新作であるとともに――エンドクレジットの"For our Melissa."という献辞で判るように――遺作でもある。『E.T.』で世界を沸かせた監督・脚本家コンビの作品は、『E.T.』の他には『トワイライトゾーン/超次元の体験』の中の短編「真夜中の遊戯」と本作だけなのだ(メリッサ・マシスンは1980年代にスピルバーグのために『タンタンの冒険』の脚本を書いたが、映画化には至らなかったという)。
本作をつくるに当たり、キャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルの両プロデューサーが実現できなかったこともある。
本作の企画は1991年に遡るという。『フック』の発表後すぐに『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』に取りかかった両プロデューサーは、このとき『フック』の主演を務めたロビン・ウィリアムズをBFG役に想定していた。
当時の技術では少女と巨人が一緒に登場する映画を撮るのが難しかったことから計画は棚上げになるのだが、2014年4月にスピルバーグの監督就任が発表され、さあこれからという同年8月、残念なことにロビン・ウィリアムズは亡くなってしまう。マーク・ライランスがBFGを演じることが発表されたのはその直後、2014年10月のことである。
スピルバーグ監督のスパイスリラー『ブリッジ・オブ・スパイ』の名演技で映画賞を総なめにしたマーク・ライランスのBFGは素晴らしい。でも、ロビン・ウィリアムズが演じるBFGも観たかったと思うのは私だけではあるまい。
■違うということを抱きしめる
『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』でとりわけ印象的なのが登場人物の目の色だ。
本作の巨人に限らず、いまどきの映画に登場するクリーチャーの多くはCGIだから、皮膚の色も目の色も自由に着色できる。細部まで作り手の思いが行き渡るだけに、作り手のセンスが問われるところだ。
私がしばしば気になるのは、自由に着色できるはずの劇中の創造物が特定の人種的特徴を帯びていることだ。『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の知性あるチンパンジーの虹彩を緑にしたのが典型的な例であろう。『ミュータント・タートルズ』とその続編『ミュータント・ニンジャ・タートルズ:影<シャドウズ>』でも亀たちの虹彩が青や緑だったりする(最新のアニメ版に合わせるためでもあろうが)。
本来チンパンジーの虹彩は緑ではないし、亀の虹彩も人間のような青ではない。しかも、人類でもっとも一般的な虹彩の色はブラウンだというのに、主要キャラクターの虹彩を青や緑にするのは、白人の観客に感情移入させたい気持ちの表れだろう。
映画会社が自国の観客に受けようとするのはとうぜんだから、アメリカ映画がキャラクターに白人の特徴を持たせることをとやかく云うつもりはない。ただ、そういう映画作りをするんだな、という思いは胸に残る(誤解のないように付け加えておくと、『猿の惑星:創世記』もミュータント・タートルズシリーズもとても面白い映画である)。
そんな思いがあっただけに、『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』を観てハッとした。
コンピューターで描かれた巨人BFGの虹彩がブラウンだったのだ。演じるマーク・ライランスの虹彩はグレーがかった色であるにもかかわらず。スピルバーグの虹彩だってブラウンではないのに。主人公の少女ソフィーの虹彩がブラウンなのは演じるルビー・バーンヒル自身の色だからとうぜんとしても、自由に着色できる巨人の目をブラウンにしたのは意図があるはずだ。

しかも、BFGの虹彩は日本人ほど暗いブラウンではなく、やや明るいブラウンだ。東洋的になり過ぎず、世界中どこの人にも馴染みやすい色合いとして、絶妙な配色ではないだろうか。
公式サイトには、「この作品で伝えたかったメッセージは?」との質問にスピルバーグ監督が答えた言葉が紹介されている。
「抱きしめるのに大きすぎる人も小さすぎる人もいない
抱きしめることができれば、多くの問題は解決する
違いがあることで戦ったり、口論したり、辱めたりするのではなく
この作品に込めたメッセージは、違うということを抱きしめること
ソフィーも、BFGも違っている
作品は、そんな違いを称えている
人と人だけでなく、大きな人間と小さな人間の違いもね」
これは過去のスピルバーグ監督作の多くに共通する姿勢である。国が違って戦争をしていてもお互いを思いやることはできるはずだと説いた『戦火の馬』、人種差別をなくすためには辛い決断でもためらうべきではないと訴える『リンカーン』、どれもこれも「違うということを抱きしめる」映画だ。
本作もまたこれまでの作品と同じく、スピルバーグ監督の強い信念と人間への敬意で貫かれている。
それを満喫するためにも、映画館に足を運ぶ価値のある作品だ。
貴賤に関わらず誰もが平等におならをするところは、大爆笑させながら彼の信念を打ち出した名場面だ。
それに本作にはもう一つ、この映画ならではの特別な味わいがある。

スピルバーグ監督はインタビューでこうも答えている。
「私は夢をつかむのが好きなんだ
映画の登場人物が夢をつかんで
その夢に何かを混ぜて完璧な夢に仕上げ
それを必要としている人にあげてしまう
そんな考えが好きなんです」
本作ではこの言葉が比喩的な意味ではなく、言葉どおりの行動として描かれる。
乱暴で、人間を食べるのが大好きな巨人たちの中にあって、一人BFGだけは人間を襲わない。彼の仕事、たった一つの生きがいは、人間たちに夢を見せることだ。楽しい夢、愉快な夢を配合し、夢のカクテルを作り上げて眠っている人の頭の中に吹き込んであげる。眠っているあいだだけとはいえ、人は素敵な夢を見る。それが自分にできる「いいこと」なんだと、BFGは考えている。
これはそっくりそのまま「映画」にも当てはまるだろう。楽しいこと、愉快なことを配合し、一本の映画にして観客に見せてあげる。映画を観ているあいだだけとはいえ、人は素敵な夢を見ることができる。
BFGは世界中の人々の小さな声に耳を傾ける。どこかに寂しい心を抱えた人がいれば、せめて夢の中だけでも楽しい思いをさせてあげる。
BFGのしていることは、スピルバーグがやってきたこととおんなじだ。
BFGは云う。夢は夢でしかない、目が覚めれば消えてしまうと。
だが、夢の中で思ったことや気持ちに生じた変化は、もしかしたら目が覚めても心の中に残るかもしれない。
本作のクライマックスは、夢で感じたことを現実に実行してもらえるかどうかが鍵になる。
これこそ、スピルバーグが長年映画を作ってきた理由だろう。
トレードマークの髭がすっかり白くなったスピルバーグが、老いた巨人に重なって見える。
BFGが言葉を上手く操れないことも忘れてはならない。BFGは云い間違いが多く、気持ちをちゃんと伝えられずに苦しんでいる。
スピルバーグはディスレクシア(難読症、読字障害)であることが知られている。学校でいじめを受け、卒業は同級生に比べて二年も遅れたという。そんな彼の救いになったのが、映画を作ることだった。「映画を作ることで、わたしは恥ずかしさや罪悪感から解放されました。映画制作は、わたしにとっての『大脱走』だったのです」とスピルバーグは告白している。
巨人の中では小柄なほうのBFGは、乱暴な巨人たちから日々いじめられている。云いまつがいばかりする自分を恥じている。
だから彼は、人間に見つかる危険を冒してまで素敵な夢を吹き込んで歩く「いいこと」をやめられないのだろう。夢を作ることだけが、彼を日々の辛さから解放してくれるのだ。
スピルバーグがディスレクシアに苦労して、今でも脚本を読むのに普通の人より二倍も時間がかかっていることを思うと、本作がなおさら心に沁みる。
■なぜ米国では受け入れられないのか
そんな魅力に満ちた本作だが、米国での興行は惨敗に終わった。スピルバーグ監督のキャリアの中で最低の興行収入の映画の一つとまで云われている。
Rotten Tomatoesでは好意的な評が75%を占め、平均点は10点満点で6.8点、Metacriticでも100点満点中66点と、大絶賛とはいかないまでもかなり好意的な評価を得たにもかかわらずだ。
同時期のファミリー映画『ファインディング・ドリー』と競合した影響もあるかもしれない。この夏、『ファインディング・ドリー』は米国だけで4.8億ドル以上を稼ぎ出し、『シュレック2』を抜いて歴代アニメーション映画の米国興行収入第一位の座を獲得した。その『ファインディング・ドリー』と比べるのは酷だが、『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』の興行収入が5525万ドルとはいくらなんでも低すぎる。
どうしてここまで米国の観客にそっぽを向かれたのだろうか。
これは私の勝手な憶測だが、本作は米国人にとって「とんでもない映画」だったのではないだろうか。
34年前にも「とんでもない映画」があった。本作と同じくキャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルがプロデュースし、スティーヴン・スピルバーグが監督を務め、メリッサ・マシスンが脚本を書いた『E.T.』だ。『E.T.』は公開当時、共和党から問題視されたという。親が子供をちゃんと管理せず、子供だけで大冒険をする映画だったからだ。
米国では、少しでも親が子供から目を離せば児童放置として警察沙汰になってしまい、そんな親は子供と会うのを制限されることを多くの方がご存じだろう。そういう国で、大人の知らないところで子供たちが冒険する映画を発表したら、いかに世間の怒りを買うか想像がつくというものだ。
![Ponyo [Blu-ray] [Import]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/718PNkfzVCL._SL160_.jpg)
日本にもこの映画の親子の行動を疑問視する人がいる。まして北米での一般公開は、さぞかしハードルが高かったに違いない。
『崖の上のポニョ』の北米公開に向けてケネディとマーシャルが訪ねたのが、子育てのために半ば引退していたメリッサ・マシスンだった。『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』の脚本がマシスンにとって約20年ぶりの新作であることは前述したとおりだが、実はこの20年のあいだに彼女が書いた脚本は他にもある。『崖の上のポニョ』の英語版脚本だ。
キャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルがわざわざ引退同然のメリッサ・マシスンに『崖の上のポニョ』の英語版を頼んだのは、親が子供を管理せず、子供だけで冒険するとんでもない映画の脚本を任せられるのは、『E.T.』の騒動で苦労を共にしたメリッサ・マシスンしかいないと考えたからではないだろうか。
(詳しくは「『崖の上のポニョ』 嵐の夜に子供を置き去りって!?」を参照)
こうしてみると、『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』が「とんでもない」に輪をかけた映画であることが判るだろう。
なにしろBFGは幼いソフィーを誘拐するのだ。しかも誘拐犯のBFGが善人として描かれる。子供は誘拐犯と仲良くなり、保護者の許には帰らないと云い出す始末。挙句の果てに、子供と誘拐犯が危険を冒して活躍し、誰も反省せずにめでたしめでたし。
『E.T.』どころではない、"けしからん映画"である。
私の憶測がどこまで合っているかは判らないが、一方で、アクシデントのために離れ離れになった親子が懸命になってお互いを探し、ようやく再会できた喜びを分かち合う『ファインディング・ドリー』があったら、米国の親がどちらに子供を連れていくか、結論は見えてる気がする。
大人には子供を保護する責任があるから、保護者不在で子供が冒険する映画が「とんでもない」と思われるのは仕方ないかもしれない。
だが、両親の不仲や離婚を経験し、その体験を自作に反映させてきたスピルバーグからすれば、『E.T.』にしろ『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』にしろ、人生の真実を込めた映画に違いない。
求めあい、助け合う家族像は素晴らしいが、それを強調すればするほど家族に恵まれない人は居場所がなくなる。そこに思いを馳せられるスピルバーグの優しさ。家族がいなくても逞しく生きる少女が見せてくれる勇気と元気。これまでも壊れた家族や、理解し合えない親子を描いてきたスピルバーグだが、本作は、家族の絆を強調する映画が多い今だから、なおのこと必要とされる映画だろう。
劇中ずっと気にかけながら見ることのなかった「ソフィーの夢」――温かい家族に囲まれて幸せに暮らすこと――のとおりのシチュエーションで締めくくられるラストは、はたして現実なのかBFGが吹き込んだ夢なのか。その判断は受け手に委ねられている。
幸いにも日本では『E.T.』が問題視されることはなかったし、『崖の上のポニョ』は大ヒットした。
『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』も日本の観客に受け入れられることを願っている。
![BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント ブルーレイ(デジタルコピー付き) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71YxAEhPO0L._SL160_.jpg)
監督・制作/スティーヴン・スピルバーグ 原作/ロアルド・ダール
脚本/メリッサ・マシスン
出演/マーク・ライランス ルビー・バーンヒル ペネロープ・ウィルトン ジェマイン・クレメント レベッカ・ホール レイフ・スポール ビル・ヘイダー
日本公開/2016年9月17日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : スティーヴン・スピルバーグメリッサ・マシスンマーク・ライランスルビー・バーンヒルペネロープ・ウィルトンジェマイン・クレメントレベッカ・ホールレイフ・スポールビル・ヘイダー
『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?(その2)
![アイアムアヒーロー 豪華版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71-h51rz%2BDL._SL160_.jpg)
以下は、ぺぐもんさんのコメントへの返信として書いたものであり、文中の「本記事」とは前回の「『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?」を指している。
【ぺぐもんさんのコメント】
---
タイトル:そうでしょうか?
ゾンビ映画では、『アイアムザヒーロー』的なキャラは、『バタリアン』、『キャプテン・スーパーマーケット』、『アンデッド』、『ショーン・オブ・ザ・デッド』、『ゾンビーワールドへようこそ』などで、80年代から現代まで連綿と語られており、完全に定型化してると思われます。
当然、その流れに『ゾンビランド』があり、『アイアムアヒーロー』が続いています。
特に『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004)の影響は大きいでしょう。(ダメ社員が、世界の崩壊でヒーローになることを望む・・・と構造も似ていますし、映画版『アイアムアヒーロー』の妄想の繰り返しは『ショーン・オブ・ザ・デッド』の映画技法の引用です)
80年代にすでにゾンビ映画ブームはあり、アジアでも亜流のゾンビ映画であるキョンシーものが作られ、ヒットし、日本でもテレビ放送されてます。
それが『幽幻道士』シリーズで、落ちこぼれチーム(有能な者もいますが)がキョンシー退治をしながら活躍するロードムービー(『西遊記』をベースにしているのでしょうが)があります。
---
ぺぐもんさん、コメントありがとうございます!
『来来!キョンシーズ』、盛り上がりましたねー。
『ワールド・ウォーZ』の記事が長過ぎた気がしたので、今回はコンパクトにまとめるつもりだったのですが、問題点の整理と共有が不充分だったかと反省しています。
ぺぐもんさんのコメントを拝見して、「そうでしょうか?」と疑問を呈されているのは次の二点であろうと推察しました。
(1)私が、ゲーム『バイオハザード』第一作が発売された1996年以降にゾンビ物の市場が大きくなったと書いたことに対し、ゾンビ物はもっと前(80年代)から盛んだったはずであるという市場動向についての疑問
(2)私が、『アイアムアヒーロー』は日本らしい作品だと述べたことに対して、欧米のゾンビ映画にも似たような作品があるはずだという疑問
認識は合っておりますでしょうか。
どちらの点も、そのとおりだと思います。
それを認めた上で、記事本文を書くときに削ったことを含めて少し補足したいと思います。
(1)「ゲーム『バイオハザード』第一作が発売された1996年以降にゾンビ物の市場が大きくなったと書いたことに対し、ゾンビ物はもっと前(80年代)から盛んだったはずであるという市場動向についての疑問」について
ウィキペディアに「ゾンビ映画の一覧」というページがあります。
このジャンルを愛好する方が執筆されたのでしょう、数多のゾンビ映画が紹介されています。
本記事執筆時点でこのページに掲載された作品を年代別に集計すると次の結果になります。
1930年代 2本
1940年代 4本
1950年代 3本
1960年代 9本
1970年代 21本
1980年代 62本
1990年代 32本
2000年代 162本
2010年代 24本
これを見ると、80年代にいったんピークがあり、90年代にやや沈静化したのち、2000年代に激増して80年代を大きくしのいだように思えます。日本における映画の劇場公開数が90年代までは500~700本台、2000年代は600~800本台と、あまり大きく変動せずに推移していることを考えると、ゾンビ映画の激しい増減が目立ちます(「ゾンビ映画の一覧」には劇場未公開作も含まれているので、あくまで傾向を掴む上での参考としてご覧ください。また、日本での劇場公開数は、2010年代に入るとシネコンの増加と連動するようにビックリするほど増えるのですが、これは本論と関係ないので割愛します)。
Wikipediaの「List of zombie films」でも同様の傾向です。
1930年代 3本
1940年代 8本
1950年代 9本
1960年代 17本
1970年代 28本
1980年代 69本
1990年代 40本
2000年代 178本
2010年代 97本
やはり80年代にいったんピークがあり、90年代にやや沈静化したのち、2000年代に激増しているように見えます。
ウィキペディアなので正確性・網羅性の保証はありませんし、情報が揃いやすい近年の作品ほど記述が充実するのかもしれないとは思いますが、ここに見られる傾向はわりとゾンビ物に接してきた体感に近いのではないでしょうか。
偶然ながら、ぺぐもんさんが例示してくださった作品にも同じような傾向が見られます。
『バタリアン』(米・1985)
『キャプテン・スーパーマーケット』(米・1992)
『アンデッド』(豪・2003)
『ショーン・オブ・ザ・デッド』(英・2004・日本未公開)
『ゾンビランド』(米・2009)
『ゾンビーワールドへようこそ』(米・2015・日本未公開)
単純に集計すると80年代1本、90年代1本、2000年代3本、2010年代1本ですが、『キャプテン・スーパーマーケット』は 『死霊のはらわた』シリーズ の最終作なので80年代の残滓とも云えそうです。余談ながら、『バタリアン』シリーズも80年代に2本作られたのち90年代は1本に落ち着いて、2000年代に入るとまた2本が作られていますね。
80年代にゾンビ映画が増加した原因については専門家の研究に譲りたいと思いますが、私は次のことが関係しているのではないかと想像しています。
・(『エクソシスト』のヒットによるホラー映画人気、『スター・ウォーズ』のヒットによるSFX映画人気を下地にしつつ)1978年の『ゾンビ』がヒットしたことによるゾンビ映画への注目度の増加
・特殊メイク技術等の進歩による作品の質的向上
・レンタルビデオ、セルビデオの興盛によるジャンル映画の買付増加
先の記事で50年代まで遡ってゾンビ映画の流れをたどりながら、80年代のブームに触れなかったのは、80年代に一度ブームがあったということが、記事の趣旨に照らして重要とは思われなかったからです。
今回の記事でもゲーム『バイオハザード』発売以降、すなわち主に2000年代のゾンビ物の興隆を指して市場が大きくなったと述べましたが、それは2009年に連載が開始され、2016年に映画が公開された『アイアムアヒーロー』を語る上で、90年代に沈静化してしまった80年代のブームに触れる必要性が高くないと考えたからです。
90年代にブームが沈静化し、そのまま下火になってもおかしくなかったのに、なぜ2000年代にこれまで以上の興隆を極めたのか、という問題設定でもあります。また、80年代にゾンビ映画のブームがあったにもかかわらず、和製ゾンビ映画の輩出に至らなかったのはなぜか、という問題設定でもあります。
上に挙げた年代別の本数は、その問題意識を本記事をお読みの皆さんに共有していただきたくて集計したのですが、話が散漫になる気がしたので、Twitterでの紹介に留めてブログでは取り上げませんでした。
ところで、キョンシー映画もまた興味深いものだと思います。
キョンシーは死体ですから、たしかにキョンシー映画にはゾンビ映画の亜流としての側面があります。
ですが、キョンシーをゾンビと同一視して良いものか、私は考えあぐねています。日本での『幽幻道士』シリーズ及び『来来!キョンシーズ』の放映時期はアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』(第3シリーズ)と重なっており、妖怪物としてくくれる面もあるのではないかと思うのです。
「ゾンビ映画の一覧」が、『霊幻道士』シリーズは掲載しているのに『幽幻道士』シリーズを掲載しないという中途半端な状態なのも、キョンシーの扱いに迷いがあるからかもしれませんね(そのことも、このデータを記事本文で取り上げなかった理由の一つです)。
![ゾンビランド [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/810svr8z4IL._SL160_.jpg)
ゾンビ映画は半世紀以上にわたり作られてきましたから、ジャンルの枠内とはいえ多様な作品が生み出されています。おっしゃるとおり、『アイアムアヒーロー』に似た要素は先行する作品に見られるでしょう。
にもかかわらず、私は『アイアムアヒーロー』が特異な作品だと思います。
奇しくも、ぺぐもんさんが『アイアムアヒーロー』の先行作として挙げられた6本が『アイアムアヒーロー』の特異性を示しています。これら6本には、『アイアムアヒーロー』と異なる次のような特徴があります。
a. すべて外国映画(英語圏の映画)であること
b. すべてコメディであること
aが重要であることはご理解いただけると思います。もともと本記事は「欧米、特に米国ではゾンビ映画が盛んなのに、日本で盛り上がらないのはなぜか?」という思いから出発しているからです。
ゾンビ映画には半世紀以上の歴史があり、80年代には日本にも大量のゾンビ映画が流入したというのに、これまで日本映画を代表するゾンビ物はありませんでした。まったく作られなかったわけではありませんが、公開規模からいっても、熱心な愛好家向けに特化した作品に位置づけられると思います。
それに対して『アイアムアヒーロー』は全国284スクリーンで公開され、興行収入16.2億円のヒットを記録しました(2016年7月25日東宝発表の「2016年 上半期作品別興行収入(10億以上)」による)。おそらくは日本映画史上はじめて、ジャンル映画の枠を超えて多数の観客を動員するゾンビ物が誕生したのです。
その訴求力はどこにあるのか。それを私なりに考えてみたのが今回の記事となります。
bの「コメディであること」も重要な要素ですね。
コメディを映画の一つのジャンルとして語ることも可能ですが、ゾンビ物のようなジャンル映画の中にあってのコメディは「一捻りした」「変化球」という面が強いと思います。それは、まず正統派の直球があってこそ成立するものでしょう。
ゾンビ映画の場合であれば、過去にゾンビ映画をたっぷり観てきて、もうゾンビが出ても怖くないしお約束の展開に笑ってしまう愛好家が一定数いることを期待して作られているのではないかと思います。
ゾンビ映画はホラー(恐怖)映画のサブジャンルのはずですが、コメディタッチのゾンビ映画は、今さらホラー(恐怖)を感じない人向けのさらに小さなサブサブジャンルではないでしょうか。
興行成績もそのことを示しています。
古い映画だと物価の違いやデータ不足で比較できないので、2000年以降の作品について見てみると、大きく稼いでいるのはバイオハザードシリーズや『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)のようにシリアスな直球作品です(近年のバイオハザードシリーズは、アクション映画の域に入り過ぎな気もしますけど)。
2009年の『ゾンビランド』は、珍しく劇場公開で成功したホラーコメディで、北米に限れば『ドーン・オブ・ザ・デッド』の興収を抜いてゾンビ映画の首位だったこともあります。しかし、その記録は2013年の『ワールド・ウォーZ』に破られてしまいましたし、全世界興収では2002年の『バイオハザード』第一作にも及んでいませんでした。
参考までに、2000年以降を対象に、ぺぐもんさんがご紹介くださった作品と、ゾンビ映画の主なヒット作の興行収入をBox Office Mojoから転載しておきます。
題名 | 製作国 | 公開年 | 北米興収 | 全世界興収 | 備考 |
アンデッド | 豪 | 2003 | $41,196 | $187,847 | |
ショーン・オブ・ザ・デッド | 英 | 2004 | $13,542,874 | $30,039,392 | 日本未公開 |
ゾンビランド | 米 | 2009 | $75,590,286 | $102,391,540 | |
ゾンビーワールドへようこそ | 米 | 2015 | $3,703,046 | $14,860,766 | 日本未公開 |
以上がご紹介いただいたコメディ | |||||
バイオハザード | 英独米 | 2002 | $40,119,709 | $102,441,078 | |
ドーン・オブ・ザ・デッド | 米 | 2004 | $59,020,957 | $102,356,381 | |
バイオハザードII アポカリプス | 英加 | 2004 | $51,201,453 | $129,394,835 | |
バイオハザードIII | 米 | 2007 | $50,648,679 | $147,717,833 | |
バイオハザードIV アフターライフ | 米 | 2010 | $60,128,566 | $296,221,663 | |
バイオハザードV: リトリビューション | 米 | 2012 | $42,345,531 | $240,159,255 | |
ウォーム・ボディーズ | 米 | 2013 | $66,380,662 | $116,980,662 | これはホラー映画か疑問ですが |
ワールド・ウォーZ | 米 | 2013 | $202,359,711 | $540,007,876 |
1980年以降の北米におけるゾンビ映画興収ランキングを見ても(ゾンビ映画と云えるのか疑問な作品も混ざってますが)、上位にコメディはほとんど登場しません。
やはり、シリアスな直球のゾンビ映画で確立された市場がまずあって、その市場が大きいから「ダメ人間が世界の崩壊でヒーローになることを望む」ような変化球のコメディを投げることもできるのだと思います。日本では和製の直球ゾンビ映画が成立していないのに、変化球から投げても意味がないと思うのです。
ご紹介いただいた作品のいくつかが日本では劇場未公開に終わったのは、少なくとも劇場公開には見合わないと判断されたからでしょう。どちらかというと、日本の映画関係者のあいだでは、このような変化球は見習うべき定型というよりも手を出しちゃいけないものと認識されているのではないでしょうか。
先の記事で、ゾンビ映画を作りたいクリエイターはいても作れないのだろう、という趣旨のことを書いたのも、このような状況が想像されたからです。
ところが『アイアムアヒーロー』は金をかけています。2016年4月に公開して国内だけで16.2億円の興行収入を上げましたが、これではペイできてないのではないでしょうか。
興収16.2億円といえば一応ヒットと呼んでも差し支えないでしょうが、境治氏の計算例にならって配給収入が興行収入の50%、配給手数料は(少なめに見て)その30%、宣伝費を(少なめに見て)2億円と仮定すれば、製作委員会には3.67億円しか入ってこない計算になります。制作費を3.67億円以下に収めてやっとトントンです。でも、これだけVFXを使って大掛かりなロケをして、3.67億円で済むとは思えませんね。主演の大泉洋さんは完成報告会見の場で「撮影をしていてもとんでもない予算がかかっているというのはわかりました。邦画としてはとんでもないスケールの映画です。撮影当初から私は若干、胃が痛い思いがしましたね。」とおっしゃっています。
そんな大金を、日本映画ではこれまでヒットしたことのないゾンビ映画に、しかも海外でも主流とはいえない変化球タイプの映画に投入するとは考えにくいです。
実は、『アイアムアヒーロー』の前に私が注目していたのが、2015年公開の『Zアイランド』です。有名俳優を起用して、全国169スクリーンというゾンビ映画としては大規模な公開でした。監督も有名人だし、お笑いに明るい人だし、ゾンビ映画にアクション要素とコメディ要素を上手く持ち込んで一気に和製ゾンビ映画の存在感を高めるのではないかと注目したのです。
残念ながら『Zアイランド』は興行面でも評判の面でも成功できませんでした。作品そのものの力不足もあるでしょうけど、同じ監督の前作『サンブンノイチ』が週末観客動員数ランキングで初登場8位(興収6345万3200円)、前々作『漫才ギャング』も初登場8位(興収8600万4500円)だったのに、『Zアイランド』は初登場14位という落ち込みは、評判が悪くて客足が伸びなかったというよりも観たいと思う人が最初から少なかったのでしょうから、日本ではゾンビ映画が(コメディタッチにしても)あまり興味を持たれないことを示してるように思います。
日本映画でゾンビ物を成立させるのは難しい……そう感じていたところに公開されたのが『アイアムアヒーロー』です。
驚くことに、「ダメ人間が世界の崩壊でヒーローになることを望む」ような構造を持ちながら、本作はコメディではありません。そして初登場4位、土日2日間だけで動員15万9964人、興収2億2568万8700円を記録します(「CINEMAランキング通信」より)。
本作の作り手は(原作者も含めて)、どうしたらゾンビ物が日本で受け入れられるかという問題意識から考えはじめたわけではないでしょう。もちろん過去のゾンビ映画を観てはいるでしょうが、原作者の花沢健吾氏が発端は破壊願望だったとおっしゃっているように、社会がぶっ壊れてリア充が全滅してしまえばいいのにというルサンチマンが本作の原動力になっています。
正確を期せば、本作は「ダメ人間が世界の崩壊でヒーローになることを望む」話ではありません。自分をダメ人間扱いした世界の崩壊を望む話なのです。そのことは記事本文に書いたのでここでは繰り返しませんが、「破壊衝動を活かせる設定はなんだろう? と考えたら、ゾンビがいちばん合っていた」という花沢氏の言葉どおり、結果的にゾンビ物の体裁をとったに過ぎません。
それが観客に支持されました。
欧米では変化球扱いになるものが、日本では観客のハートのド真ん中をぶち抜く直球だったのです。欧米では一捻りしたつもりのものが、日本ではストレートに求められていたのです。
それを実現したところに『アイアムアヒーロー』の特異性があり、それを受け入れるところに日本らしさがある、と考えるのは穿ちすぎでしょうか。
![アイアムアヒーロー 豪華版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71-h51rz%2BDL._SL160_.jpg)
監督/佐藤信介 原作/花沢健吾
出演/大泉洋 有村架純 長澤まさみ 吉沢悠 岡田義徳 片瀬那奈 徳井優 塚地武雅 マキタスポーツ 片桐仁 風間トオル
日本公開/2016年4月23日
ジャンル/[ホラー] [サスペンス] [ドラマ]

- 関連記事
-
- 『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?(その2) (2016/09/13)
- 『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの? (2016/09/04)
『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?
![アイアムアヒーロー 豪華版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71-h51rz%2BDL._SL160_.jpg)
どんなテーゼにもアンチテーゼは出てくるものだ。
私は「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」の中で、ゾンビ映画がもっぱら米国で盛んな理由を考察した。裏を返せば、日本ではゾンビ映画が成立しにくいということでもある。
だが、そんな思いがあればこそ、私は日本ならではのゾンビ映画が出てくることを期待していた。米国のゾンビ映画と同じことを日本でやっても説得力がなさそうだが、人間とゾンビの違いとは何か、ゾンビになるということは何を意味するのかを突き詰めていけば、日本の風土に根差した日本らしいゾンビ映画を作れるのではないか。そんなことを夢想していた。
素人考えながら、たとえば日本でお馴染みの「鬼ごっこ(増え鬼)」や「穢れ思想」を組み合わせれば日本的ゾンビは不可能じゃないはずだ、とも思った。
しかし、それは意外なところからやってきた。『アイアムアヒーロー』は実に日本らしく、米国のゾンビ映画とはまったく違う論理で構築された傑作だった。もちろん、私の素人考えなんぞはるかに凌駕していた。
面白いことに、『アイアムアヒーロー』を評して、米国でさんざん作られてきたゾンビ映画らしさに満ちた作品ということも可能である。表面的には過去のゾンビ物のパターンをきっちり踏襲しているからだ。
けれども、日本人は西洋人と同じようにゾンビ化に恐怖を覚えられるだろうか。ゾンビになることに恐怖や嫌悪を感じなければ、いくらゾンビ物のパターンが踏襲されようと面白がれるはずがない。先の記事で私が疑問を呈したのはそこだった。
そこで、まずはゾンビ物のパターンがどのようなものかをおさらいしよう。
「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」で引用させていただいたotokinoki氏の「ゾンビもののストーリー定形」を踏まえながら、本作の特徴を検討してみる。
■「ゾンビもののストーリー定形」との比較
otokinoki氏が提唱する定形は四つからなっていた。
0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
→『アイアムアヒーロー』が描くゾンビ化進行の凄まじさは、人類の滅亡を充分に暗示している。
1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
→アウトレットモールに閉じ込められた主人公たちが小さいコミュニティでサバイバルを行う様は、ゾンビ映画の定石どおりだ。
2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
→『アイアムアヒーロー』の進行はまったくこの通りだ。
3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
→主人公らは崩壊したアウトレットモールを飛び出す。別の隠れ場所を見出すところまではいかないものの、それだけに終末の予感を拭いきれない。
本作のストーリーは、見事に「ゾンビもののストーリー定形」のとおりだ。これだけを見ると、『アイアムアヒーロー』はまるで工夫のない、ありふれた映画のように思える。
では、人物の造形についてはどうだろうか。
次にotokinoki氏が提唱する「ゾンビものの登場キャラクター定形」と比較してみよう。

1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
→本作に軍人に当たる人物はいない。政府関係の人間は序盤に一人登場するが、何をするでもなくすぐに犠牲になってしまう。
作戦に失敗して崩壊を呼び寄せるのはアウトレットモールを支配する金持ちでプレイボーイの伊浦やならず者たちだが、彼らを軍人キャラとはいえまい。
2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
→ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようとするキャラはいない。自分の支配欲を満たそうとする人物としては伊浦がいるけれど、ゾンビを利用するわけではなく、この分類には入りそうもない。
3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
→本作は主人公、鈴木英雄(すずき ひでお)の成長物語であり、妄想に逃げてばかりでうだつの上がらない彼が、一人前のヒーローになっていく様が描かれる。
このグダグダぶりはどうしたものか。ストーリー定形にはピタリとはまった本作なのに、キャラクター定形にはサッパリ合わない。主人公が人格的に成長するところなど真逆ではないか。
なにもこの定形がゾンビ映画の必須要件というわけではないけれど、ストーリーとキャラクターでこんなにも違う結果が出るとは興味深い。
『アイアムアヒーロー』が典型的なゾンビ映画だと思う人は、おそらくストーリー定形との合致に注目しているのだろう。だが、ストーリーという器の中に入っているのは、既存のゾンビ物とは相容れない別の「何か」だ。
■ガンアクションの合理性
映画『アイアムアヒーロー』が公開された2016年は、ゲーム『バイオハザード』第一作の発売からちょうど20年だ。
この間、ゲーム業界と映画業界は互いに刺激し合いながらゾンビ物の市場を大きくしてきた。それ以前からゾンビ物の映画はあったけれど、血まみれで醜いゾンビたちが華麗なヴァンパイアや俊敏な狼男や悲劇的なフランケンシュタインの怪物らを凌駕して人気者の座を獲得したのは、ゲームとの相乗効果があればこそだろう。
動きが鈍いゾンビは射撃の標的にうってつけだし、既に死んでいるから(もはや死なないと云うべきか)破壊しても良心の呵責を覚えなくて良い。まさしくアクションゲームに最適のキャラクターだ。
2002年公開の映画版『バイオハザード』とそのシリーズの大ヒットもあって、ゾンビ物はすっかり世の中に定着した感がある。
『アイアムアヒーロー』が巧いのは、このゾンビ物の発展の歴史を踏まえたことにある。
![ゾンビランド [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/810svr8z4IL._SL160_.jpg)
2009年の『ゾンビランド』はゾンビの世界で生き残るためのルールなんてものを打ち出して、既成のゾンビ物の定石を徹底的に活かした作品だが、この映画は引きこもりでゲームおたくのコロンバスと銃の名人タラハシーを主人公にすることで、「室内でゲームに興じるのが好き」で「ガンアクションを楽しみたい」観客の嗜好をすくい取った。
『アイアムアヒーロー』ではマンガ家のアシスタントを務める主人公がクレー射撃の名人でもあると設定し、室内派のおたく的嗜好とガンアクションを両立させた。
クレー射撃の名人がマンガ好きだなんて無茶苦茶な設定に思えるものの、ゾンビ物の発展の歴史を見ればどちらの要素も欠かせないのは明らかだし、幸い麻生太郎第92代内閣総理大臣(クレー射撃の元オリンピック日本代表で、大のマンガ好き)という実例があるから、非現実的と云われるおそれもない(『アイアムアヒーロー』原作の連載開始は、麻生氏の内閣総理大臣在任期間中だ)。
では、ゾンビ物のストーリー定形をそのまま利用して、ゲームファンの好みに合う要素を盛り込んだから、本作はこんなに面白いのだろうか。
そうではあるまい。普通なら、そんな安易な作りにしたら薄っぺらくて目も当てられない。
■『アイアムアヒーロー』に至る系譜
私は先の記事「『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった」において、西洋でゾンビ映画が盛んなのは、西洋では社会秩序を保つために理性(システム2)で感情や直感的な行動(システム1)を抑え込む必要があると考えられているからだと書いた。理性を喪失(ゾンビ化)すれば秩序が崩壊するという恐怖に、常にさらされ続けているのだ。
ところが、本作の主人公英雄を取り巻く環境は、崩壊するのを惜しむようなものではない。アシスタント先のマンガ家松尾は横暴で異性にだらしがないし、アシスタント仲間は英雄のことなんか歯牙にもかけない。マンガを持ち込んでも編集者に相手にされず、同棲中の徹子には将来性がないとなじられる。それもこれも、英雄が社会生活に適していないからだ。みんなそれなりに立ち回って社会を上手く泳いでいるのに、英雄にはそれができない。
映画後半のアウトレットモールのコミュニティではもっと惨めな思いをする。傲慢な伊浦や乱暴なサンゴらに支配され、服従を強いられる。
![ボーイズ・オン・ザ・ラン [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91leW2kqlgL._SL160_.jpg)
ただ、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』と本作が違うのは、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の田西は結局惨めなまま、バカにされたまま社会の中で生きていかなければならないのに、本作では社会が勝手に崩壊し、クレー射撃の腕くらいしか取り柄がなかった英雄がヒーローになることだ。
観客にしてみれば、マンガ家松尾が死んでもアシスタント仲間が死んでも伊浦たち一党が死んでも、全然悲劇ではない。彼らは最初から嫌なヤツだった。ゾンビになって、死んじまって、清々するというものだ。伊浦なんか、早くゾンビになれと願ったくらいだ。徳井優さんが演じるアベサンは悪い人ではなかったし、サンゴも少しはいいところを見せたけれど、それは映画をドラマチックにするためのほんの少しの味付けに過ぎない。
本作の根底にあるのは、ゾンビになる(理性を失う)恐怖と戦いながらサバイバルする西洋風のゾンビ映画ではなく、社会に適合して上手く生きてる嫌なヤツらに対して、ゾンビ化したことを大義名分に復讐する話なのだ。
先の記事では、西洋が理性(システム2)で感情や直感的な行動(システム1)を抑え込もうとする一方、東洋では合理主義をごちゃごちゃこねまわす(システム2)よりも素直なまごころ(システム1)をそのまま発揮することが重視されると述べた。

私は本作を観て、過去のゾンビ映画よりも『高校大パニック』(1978年)を思い出していた。石井聰亙(現・石井岳龍)監督の名を一躍知らしめたこの映画は、体面を守るばかりの学校に激昂した一人の生徒が銃を手にして教師を射殺、大暴れする作品だ。「数学できんが、なんで悪いとや!」という彼の叫びは、一世を風靡した。
本作が「ゾンビものの登場キャラクター定形」に即してないのはとうぜんなのだ。ストーリー定形には沿っていても、人間関係やドラマ部分が、すなわち社会の捉え方が欧米のゾンビ映画とまったく違うのだから。
他のゾンビ映画によく見られる軍人キャラは、既存の社会秩序を体現しており、彼が死ぬことで社会崩壊の危機が一層高まる。だが、本作の英雄にとって、息苦しい社会の崩壊は危機でも何でもないから、『アイアムアヒーロー』では軍人キャラの死を描く必要がない。
また、他のゾンビ映画では、周囲の人々が理性を失っても自分だけは理性的でいられるかがテーマとなるから、主人公にこれ以上の人格的な成長は求められない。しかし本作では、せっかく社会が変わった(崩壊した)のに、いつまで妄想に逃げているのかと自問することが求められる。
それだけではない。ストーリー定形に沿っているように見えるところも、その意味するものは異なっている。
たとえば、ストーリー定形の二番「最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する」を本作は忠実になぞっているが、アウトレットモールのコミュニティは英雄を苦しめた「社会」の縮小再生産であり、女子高生比呂美との充実した二人旅を邪魔するものでしかない。コミュニティの連中がアウトレットモールの屋上からゾンビを見下ろして暮らしていることが、コミュニティの嫌らしさを象徴している。だから英雄はアウトレットモールの者たちを全滅させることで、コミュニティから解放される。
銃を撃つことをためらわなくなった英雄は、一回り成長したご褒美に元看護師のヤブを得て、美女二人に囲まれたモテモテ状態で旅に出る。
従来のゾンビ映画なら、ここはストーリー定形の三番「崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている」という絶望感をたたえたラストになるところだが、既存の人間社会が苦痛だった英雄にとって、ゾンビを撃ち殺しながらの美女との旅は最高のものに違いない。
本作のスリルとサスペンスそしてテンポの良さを、国内外を問わず観客誰もが楽しむだろう。
しかし本作の裏には、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の田西のように唇を噛みしめて生きてきた男たちの反逆の気持ちが込められている。たまたま今の社会秩序に適合できたからって大きな顔をしている連中に、戦いを挑む物語なのだ。
どろどろしたルサンチマンの噴出と、東洋的な思想を重ね合わせ、欺瞞に満ちた社会をぶち壊す。その破壊力が『アイアムアヒーロー』を特別な作品にしている。
それを素直なまごころと呼んでいいのか、私には判らないけれど。
![アイアムアヒーロー 豪華版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71-h51rz%2BDL._SL160_.jpg)
監督/佐藤信介 原作/花沢健吾
出演/大泉洋 有村架純 長澤まさみ 吉沢悠 岡田義徳 片瀬那奈 徳井優 塚地武雅 マキタスポーツ 片桐仁 風間トオル
日本公開/2016年4月23日
ジャンル/[ホラー] [サスペンス] [ドラマ]

- 関連記事
-
- 『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?(その2) (2016/09/13)
- 『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの? (2016/09/04)