『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の後はどうなる?
(前々回、前回から読む)
【ネタバレ注意】
平成ガメラ三部作のスタッフの方々が、「ゴジラにフラストレーションが溜まっていた」とおっしゃるのが印象的だった。2016年7月、「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して三回にわたり開催されたトークショー[*1]での発言だ。
三回とも面白い話が満載で楽しませてもらったが、特に印象に残ったのは、スタッフが平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)に関わる中で溜めた不満を平成ガメラへの情熱に転化させていたことだ。
観客とて同じだろう。多くの観客が平成ガメラ三部作に快哉を叫んだのは、当時のゴジラ映画に多かれ少なかれ不満があったからに違いない。
平成ゴジラシリーズにも面白いところはあるのだが、私が嫌だったのはゴジラが名所巡りをすることだった。『男はつらいよ』シリーズの寅さんが全国を旅して回り、新作のロケ地がどこになるかで話題作りをしたように、ゴジラも新作のたびに旬の観光スポットに現れた。長寿シリーズの宿命とはいえ、『ゴジラ』第一作ではゴジラがB-29の空襲経路をなぞって歩き、街を炎上させるという意味深い演出がなされていたことを思うと残念だ。
それはともかく、作る側の人たちもゴジラ映画にフラストレーションを溜めていたとは興味深く、平成ガメラがこれほどのパワーを持ちえた理由の一端が窺えた。
まず広大なセットを作り上げ、そこで怪獣が戦ったり爆発したりするゴジラ映画に対して、平成ガメラでは絵コンテに基づいてカメラアングルを決め、そのカメラから見て最高の絵になるようにミニチュアを配置して飾り込みをしていく。ゴジラ映画とはまったく違う方法論が先の記事に書いたような驚くべき映像を生み出し、平成ガメラを成功に導いたのだ。[*2]
予算面ではゴジラ映画よりはるかに厳しい状況だったに違いないが、平成ガメラのスタッフは「大映を騙しながら」(神谷誠特撮助監督(当時))それまでにない映画を作っていった。
「三部作」という云い方も、ガメラ映画を作るための方便だったのだろう。単に「続編を作りましょう」では三作目をつくれるかどうか未知数だが、「これは三部作なんです」という風に持ち掛ければ三作目をつくれる確度は上がるかもしれない。ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(1977年)のヒット後に「実は三部作の一作目なのだ」(しかも「三つの三部作からなる全九部作なのだ」)と云いはじめ、実際に二作目、三作目を作って大ヒットさせてからというもの、単なる続編ではなく三部作構想をぶち上げるのが映画業界の一つの定番になったように思う。
インディ・ジョーンズシリーズ(1981年~1989年)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985年~1990年)の成功に続けとばかり、三部作にした平成ガメラシリーズだが、では三作目をつくり終えたらどうするか。
もちろん、四作目をつくるのだ。
なにしろ『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』が公開された1999年の時点でゴジラシリーズは22作に及んでおり、同年12月には第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』の公開が控えていた。それに比べてガメラシリーズは昭和時代の作品を合わせても『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』でやっと11作。過去作品の映像を再編集した『宇宙怪獣ガメラ』を除けば、わずか10作にしかならない。作り手たちは、高い評価を得ている平成ガメラシリーズをたった三作で終わらせるつもりは毛頭なかったはずだ。
それゆえ、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』は三部作の完結編としてシリーズの総仕上げをする一方で、四作目に向けた仕掛けを組み込んだ壮大な作品になっている。
■『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の大博打
この仕掛けが面白い。「大映を騙しながら」とは云い得て妙で、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』には罠が仕掛けられている。それは先例にならったものだ。
『シン・ゴジラ』を作った庵野総監督と樋口監督が、何をお手本にしたか映画の中でちゃんと明かしているように、平成ガメラシリーズの金子修介監督と脚本家・伊藤和典氏も映画の冒頭でこれから何をするつもりか宣言している。
本作はこんなはじまりだ。
赤道附近の小さな村。調査に来た鳥類学者・長峰真弓の目の前で、鍬を手にした老婆が駆けだしてくる。痩せこけてよぼよぼの老婆のどこにそんな力があるのか、大声で叫びながら鍬を勢いよく振り下ろす。老婆が打ち据えたのは、村の真ん中に横たわるギャオスの死骸だった。彼女は孫と息子をギャオスに食い殺されたのだ。憎しみに満ちてギャオスを打つ老婆を、茫然と眺めるしかない長峰。
この描写に既視感を覚えた人も多いだろう。これは黒澤明監督の『七人の侍』の有名な場面の再現だ。野武士軍団に息子を殺された婆様が、一人だけ捕らわれてがんじがらめに縛り上げられ村の真ん中に転がされた野武士を殺そうと、鍬を持って出てくる場面である。
この婆様を演じた老婆は本職の俳優ではなく、B-29の空襲で家族を亡くした素人だという。そういう人を連れてきて、恨みに凝り固まった婆様を演じさせたのだから、凄まじい迫力を発するのもうなずける。
この強烈な場面をいきなり再現することで、本作の作り手は二つのことを宣言している。
一つは、復讐のためなら手出ししてこない相手を傷つけてもいいのかというテーマ。
そしてもう一つは、黒澤明がやったのと同じ仕掛けに取り組むということだ。黒澤明が『七人の侍』で仕掛けた罠と同じことをするつもりだと。
1954年公開の『七人の侍』は、題名のとおり七人の侍たちが農村を守って野武士軍団と戦う物語だ。
脚本の執筆がはじまったのは1952年、翌1953年に撮影が開始されたが、完璧を目指す黒澤明の映画作りは予算とスケジュールの大幅な超過を招いてしまった。いつまで経っても終わらない撮影に業を煮やした映画会社は、遂に撮影中止を宣告するに至ったという。
ともあれ、すでに膨大な予算を注ぎ込んでいたから、できてるところだけでも公開したい。撮影が済んだフィルムを繋いで、東宝の重役らを集めた試写が行われた。
『七人の侍』は野武士たちが馬を駆る光景からはじまる。農村を見下ろし、襲撃を企てる野武士たち。
野武士の集団に襲われることを知った村人たちは、侍を雇って野武士に対抗しようとする。どうにか腕の立つ侍を見つけて村に連れてくるが、村人たちと侍たちはうまくいかない。侍たちは村を守るために来たというのに、村人たちは警戒して、出迎えにも出てこない。村人にとっては雇った侍も野武士たちも変わりないのだ。いずれもいつなんどき乱暴狼藉を働くか判らない、恐ろしい存在に見える。
現実には、戦国の頃の百姓は積極的に武器をとり、土地や用水をめぐって近隣の村と殺し合いをしていたそうだから、たった七人の侍を恐れて身を隠すような意気地なしではなかったかもしれないが、ともあれ映画では侍たちを超人集団、農民たちを哀れな大衆に描き分けている。
『七人の侍』が延々と描写するのは、侍たちと村人の不信と対立だ。村人は隠しごとをしたり、和を乱したり、憎しみを侍に向けたりする。侍と村人が争っている場合ではないというのに。
悲しい犠牲を出しながら、村人と侍たちがようやく結束できたと思ったそのとき、遂に野武士軍団が姿を現す。地を埋めるほどの軍勢が村に押し寄せてくる。
『七人の侍』を振り返ると、驚くほど『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』と似ていることに気づく。
『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』では、序盤で早くもガメラとギャオスたちの戦いが描かれる。ギャオスはシリーズ第一作『ガメラ 大怪獣空中決戦』以来の仇敵だ。それが大量発生しているのだから、本作の敵がギャオスたちであることが判る。
ところが舞台は山間の村に移ってしまい、ガメラを憎む少女の話が延々と続く。ガメラは、人間を含む地球生物みんなの守護者だというのに。少女だけではない。人間たちは乱暴すぎるガメラを恐れ、自衛隊機でガメラ攻撃に打って出る。守ろうとしている人間に恐れられ、憎まれるガメラ。
さらに少女の憎しみは怪獣イリスに宿り、ガメラと「少女+イリス」の争いにまで発展する。本作ではガメラを恐ろしい存在に見せるため、ガメラ役のスーツアクターを第一作の真鍋尚晃氏や第二作の大橋明氏のような小柄な人ではなく、巨漢の福沢博文氏に交代させている。トークショーで勢ぞろいした三人を見ると、福沢博文氏が群を抜いて大きいことがよく判る。第二作でガメラだった大橋明氏は本作ではイリスを演じ、イリスが華奢な体つきであることを強調している。
運命の巡りあわせか、少女綾奈、少女を守ろうとする少年龍成(たつなり)、長峰、浅黄、大迫元警部補、政府機関の朝倉、天才プログラマー倉田の七人が一堂に会し、犠牲を出しながらもようやく結束できたそのとき、遂にギャオスの群れが姿を現す。空を覆うほどの大群が日本に押し寄せてくる。
■終わらない未来を
試写を観た東宝の重役らは唖然としただろう。侍たちと村人が結束して、さあこれから合戦というところでフィルムは終わってしまうのだ。黒澤はこの後を撮っていなかったのだ。
ここまで盛り上げておきながら後が見られないなんてあんまりだ。東宝は撮影中止を撤回。黒澤の目論見どおり追加予算が認められ、『七人の侍』は大決戦のシークエンスを加えて無事完成する。
この先例を踏まえ、平成ガメラの作り手たちは大博打に出たに違いない。『七人の侍』の試写版のような構成にして、同じように大決戦の直前でぶった切る。唖然とした観客の耳に響くのは、主題歌の「もういちど出来るなら……終わらない未来を」という歌声だ。
このラストは圧巻だ。とても勝ち目のない敵の群れを前に、それでも戦いを挑むガメラと、観客動員数でも配給収入でも平成ゴジラの三分の一しかない中、それでもシリーズを続けようと戦いを挑む作り手たちがオーバーラップする。
残念ながら、平成ガメラはこの大博打に勝てなかった。『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』は大ヒットとはいかず、大映は続編の予算を認めなかった。
だが、本作が『七人の侍』の試写版を意識していたとすれば、この続きがどのような展開になったか察しがつくというものだ。
それは、これまでの登場人物が総結集しての大決戦だ。かつて対立していた者たちも、手を携えて共通の敵に立ち向かう。
ガメラは四神の一つ、北の守護神玄武に当たり、イリスは南の朱雀に当たることが示されていたから、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』では言及のなかった残りの二神、青龍と白虎も戦線に加わるかもしれない(龍成とその妹・美雪が本作で出番が多いわりに活躍しないのは、彼らの見せ場が次回作に予定されていたからかもしれない)。東西南北を護る四神に加え、中央を護る大地の神・黄龍も出現するかもしれない。ガメラの巫女としての役目を終えた浅黄が、新たな役割を果たすかもしれない。
結束した仲間たちはギャオスの大群を前によく戦うが、やはり多勢に無勢、一人、二人と犠牲になっていく。一人の独断が仲間を危機に陥らせもする。そして
[*1] 「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して、週替わりで4K版三作の上映とトークショーが行われた。
登壇者は以下のとおり。文中のトークショーの内容は記憶を頼りに書いているので、思い違いがあったらご容赦願いたい。
2016年7月6日 主演女優&監督トークショー
金子修介監督、中山忍さん
2016年7月13日 スーツアクタートークショー
第一作ガメラの真鍋尚晃氏、第二作ガメラと第三作イリスの大橋明氏、第三作ガメラの福沢博文氏
特撮助監督でギニョリストも務めた神谷誠氏
2016年7月19日 「ガメラ時代と現在~特撮表現の移り変わり~」
撮影の村川聡氏、視覚効果の松本肇氏
平成ガメラ三部作公開時は中高生だったという田口清隆氏(『ラブ&ピース』特技監督、『劇場版 ウルトラマンX』監督)
[*2] vsシリーズの特技監督を務めた川北紘一氏は、平成ガメラと違ってゴジラ映画は視点(カメラアングル)の統一よりもドラマを優先させたと述べている。
「『ガメラ』は、あくまでもリアルに撮ろうとしていたんじゃないかな。リトルゴジラの可愛さを出すためには視点の統一を崩してもいいんだというのが東宝特撮で、ある意味でリアルな表現をするために視点を統一することはないと思っている。」
―― 冠木新市 企画・構成 (1998) 『ゴジラ・デイズ―ゴジラ映画クロニクル 1954~1998』 集英社文庫
『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』 [か行]
監督/金子修介 脚本/伊藤和典、金子修介 特技監督/樋口真嗣
出演/中山忍 前田愛 藤谷文子 螢雪次朗 山咲千里 手塚とおる 小山優 安藤希 堀江慶 八嶋智人 渡辺裕之 上川隆也 石丸謙二郎 津川雅彦 清川虹子
日本公開/1999年3月6日
ジャンル/[SF] [特撮]
![ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 デジタル・リマスター版 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91vem%2BT1n4L._SL160_.jpg)
平成ガメラ三部作のスタッフの方々が、「ゴジラにフラストレーションが溜まっていた」とおっしゃるのが印象的だった。2016年7月、「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して三回にわたり開催されたトークショー[*1]での発言だ。
三回とも面白い話が満載で楽しませてもらったが、特に印象に残ったのは、スタッフが平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)に関わる中で溜めた不満を平成ガメラへの情熱に転化させていたことだ。
観客とて同じだろう。多くの観客が平成ガメラ三部作に快哉を叫んだのは、当時のゴジラ映画に多かれ少なかれ不満があったからに違いない。
平成ゴジラシリーズにも面白いところはあるのだが、私が嫌だったのはゴジラが名所巡りをすることだった。『男はつらいよ』シリーズの寅さんが全国を旅して回り、新作のロケ地がどこになるかで話題作りをしたように、ゴジラも新作のたびに旬の観光スポットに現れた。長寿シリーズの宿命とはいえ、『ゴジラ』第一作ではゴジラがB-29の空襲経路をなぞって歩き、街を炎上させるという意味深い演出がなされていたことを思うと残念だ。
それはともかく、作る側の人たちもゴジラ映画にフラストレーションを溜めていたとは興味深く、平成ガメラがこれほどのパワーを持ちえた理由の一端が窺えた。
まず広大なセットを作り上げ、そこで怪獣が戦ったり爆発したりするゴジラ映画に対して、平成ガメラでは絵コンテに基づいてカメラアングルを決め、そのカメラから見て最高の絵になるようにミニチュアを配置して飾り込みをしていく。ゴジラ映画とはまったく違う方法論が先の記事に書いたような驚くべき映像を生み出し、平成ガメラを成功に導いたのだ。[*2]
予算面ではゴジラ映画よりはるかに厳しい状況だったに違いないが、平成ガメラのスタッフは「大映を騙しながら」(神谷誠特撮助監督(当時))それまでにない映画を作っていった。
「三部作」という云い方も、ガメラ映画を作るための方便だったのだろう。単に「続編を作りましょう」では三作目をつくれるかどうか未知数だが、「これは三部作なんです」という風に持ち掛ければ三作目をつくれる確度は上がるかもしれない。ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(1977年)のヒット後に「実は三部作の一作目なのだ」(しかも「三つの三部作からなる全九部作なのだ」)と云いはじめ、実際に二作目、三作目を作って大ヒットさせてからというもの、単なる続編ではなく三部作構想をぶち上げるのが映画業界の一つの定番になったように思う。
インディ・ジョーンズシリーズ(1981年~1989年)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985年~1990年)の成功に続けとばかり、三部作にした平成ガメラシリーズだが、では三作目をつくり終えたらどうするか。
もちろん、四作目をつくるのだ。
なにしろ『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』が公開された1999年の時点でゴジラシリーズは22作に及んでおり、同年12月には第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』の公開が控えていた。それに比べてガメラシリーズは昭和時代の作品を合わせても『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』でやっと11作。過去作品の映像を再編集した『宇宙怪獣ガメラ』を除けば、わずか10作にしかならない。作り手たちは、高い評価を得ている平成ガメラシリーズをたった三作で終わらせるつもりは毛頭なかったはずだ。
それゆえ、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』は三部作の完結編としてシリーズの総仕上げをする一方で、四作目に向けた仕掛けを組み込んだ壮大な作品になっている。
![ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71Uwe7vtFBL._SL160_.jpg)
この仕掛けが面白い。「大映を騙しながら」とは云い得て妙で、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』には罠が仕掛けられている。それは先例にならったものだ。
『シン・ゴジラ』を作った庵野総監督と樋口監督が、何をお手本にしたか映画の中でちゃんと明かしているように、平成ガメラシリーズの金子修介監督と脚本家・伊藤和典氏も映画の冒頭でこれから何をするつもりか宣言している。
本作はこんなはじまりだ。
赤道附近の小さな村。調査に来た鳥類学者・長峰真弓の目の前で、鍬を手にした老婆が駆けだしてくる。痩せこけてよぼよぼの老婆のどこにそんな力があるのか、大声で叫びながら鍬を勢いよく振り下ろす。老婆が打ち据えたのは、村の真ん中に横たわるギャオスの死骸だった。彼女は孫と息子をギャオスに食い殺されたのだ。憎しみに満ちてギャオスを打つ老婆を、茫然と眺めるしかない長峰。
この描写に既視感を覚えた人も多いだろう。これは黒澤明監督の『七人の侍』の有名な場面の再現だ。野武士軍団に息子を殺された婆様が、一人だけ捕らわれてがんじがらめに縛り上げられ村の真ん中に転がされた野武士を殺そうと、鍬を持って出てくる場面である。
この婆様を演じた老婆は本職の俳優ではなく、B-29の空襲で家族を亡くした素人だという。そういう人を連れてきて、恨みに凝り固まった婆様を演じさせたのだから、凄まじい迫力を発するのもうなずける。
この強烈な場面をいきなり再現することで、本作の作り手は二つのことを宣言している。
一つは、復讐のためなら手出ししてこない相手を傷つけてもいいのかというテーマ。
そしてもう一つは、黒澤明がやったのと同じ仕掛けに取り組むということだ。黒澤明が『七人の侍』で仕掛けた罠と同じことをするつもりだと。
1954年公開の『七人の侍』は、題名のとおり七人の侍たちが農村を守って野武士軍団と戦う物語だ。
脚本の執筆がはじまったのは1952年、翌1953年に撮影が開始されたが、完璧を目指す黒澤明の映画作りは予算とスケジュールの大幅な超過を招いてしまった。いつまで経っても終わらない撮影に業を煮やした映画会社は、遂に撮影中止を宣告するに至ったという。
ともあれ、すでに膨大な予算を注ぎ込んでいたから、できてるところだけでも公開したい。撮影が済んだフィルムを繋いで、東宝の重役らを集めた試写が行われた。

野武士の集団に襲われることを知った村人たちは、侍を雇って野武士に対抗しようとする。どうにか腕の立つ侍を見つけて村に連れてくるが、村人たちと侍たちはうまくいかない。侍たちは村を守るために来たというのに、村人たちは警戒して、出迎えにも出てこない。村人にとっては雇った侍も野武士たちも変わりないのだ。いずれもいつなんどき乱暴狼藉を働くか判らない、恐ろしい存在に見える。
現実には、戦国の頃の百姓は積極的に武器をとり、土地や用水をめぐって近隣の村と殺し合いをしていたそうだから、たった七人の侍を恐れて身を隠すような意気地なしではなかったかもしれないが、ともあれ映画では侍たちを超人集団、農民たちを哀れな大衆に描き分けている。
『七人の侍』が延々と描写するのは、侍たちと村人の不信と対立だ。村人は隠しごとをしたり、和を乱したり、憎しみを侍に向けたりする。侍と村人が争っている場合ではないというのに。
悲しい犠牲を出しながら、村人と侍たちがようやく結束できたと思ったそのとき、遂に野武士軍団が姿を現す。地を埋めるほどの軍勢が村に押し寄せてくる。
『七人の侍』を振り返ると、驚くほど『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』と似ていることに気づく。
『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』では、序盤で早くもガメラとギャオスたちの戦いが描かれる。ギャオスはシリーズ第一作『ガメラ 大怪獣空中決戦』以来の仇敵だ。それが大量発生しているのだから、本作の敵がギャオスたちであることが判る。
ところが舞台は山間の村に移ってしまい、ガメラを憎む少女の話が延々と続く。ガメラは、人間を含む地球生物みんなの守護者だというのに。少女だけではない。人間たちは乱暴すぎるガメラを恐れ、自衛隊機でガメラ攻撃に打って出る。守ろうとしている人間に恐れられ、憎まれるガメラ。
さらに少女の憎しみは怪獣イリスに宿り、ガメラと「少女+イリス」の争いにまで発展する。本作ではガメラを恐ろしい存在に見せるため、ガメラ役のスーツアクターを第一作の真鍋尚晃氏や第二作の大橋明氏のような小柄な人ではなく、巨漢の福沢博文氏に交代させている。トークショーで勢ぞろいした三人を見ると、福沢博文氏が群を抜いて大きいことがよく判る。第二作でガメラだった大橋明氏は本作ではイリスを演じ、イリスが華奢な体つきであることを強調している。
運命の巡りあわせか、少女綾奈、少女を守ろうとする少年龍成(たつなり)、長峰、浅黄、大迫元警部補、政府機関の朝倉、天才プログラマー倉田の七人が一堂に会し、犠牲を出しながらもようやく結束できたそのとき、遂にギャオスの群れが姿を現す。空を覆うほどの大群が日本に押し寄せてくる。

試写を観た東宝の重役らは唖然としただろう。侍たちと村人が結束して、さあこれから合戦というところでフィルムは終わってしまうのだ。黒澤はこの後を撮っていなかったのだ。
ここまで盛り上げておきながら後が見られないなんてあんまりだ。東宝は撮影中止を撤回。黒澤の目論見どおり追加予算が認められ、『七人の侍』は大決戦のシークエンスを加えて無事完成する。
この先例を踏まえ、平成ガメラの作り手たちは大博打に出たに違いない。『七人の侍』の試写版のような構成にして、同じように大決戦の直前でぶった切る。唖然とした観客の耳に響くのは、主題歌の「もういちど出来るなら……終わらない未来を」という歌声だ。
このラストは圧巻だ。とても勝ち目のない敵の群れを前に、それでも戦いを挑むガメラと、観客動員数でも配給収入でも平成ゴジラの三分の一しかない中、それでもシリーズを続けようと戦いを挑む作り手たちがオーバーラップする。
残念ながら、平成ガメラはこの大博打に勝てなかった。『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』は大ヒットとはいかず、大映は続編の予算を認めなかった。
だが、本作が『七人の侍』の試写版を意識していたとすれば、この続きがどのような展開になったか察しがつくというものだ。
それは、これまでの登場人物が総結集しての大決戦だ。かつて対立していた者たちも、手を携えて共通の敵に立ち向かう。
ガメラは四神の一つ、北の守護神玄武に当たり、イリスは南の朱雀に当たることが示されていたから、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』では言及のなかった残りの二神、青龍と白虎も戦線に加わるかもしれない(龍成とその妹・美雪が本作で出番が多いわりに活躍しないのは、彼らの見せ場が次回作に予定されていたからかもしれない)。東西南北を護る四神に加え、中央を護る大地の神・黄龍も出現するかもしれない。ガメラの巫女としての役目を終えた浅黄が、新たな役割を果たすかもしれない。
結束した仲間たちはギャオスの大群を前によく戦うが、やはり多勢に無勢、一人、二人と犠牲になっていく。一人の独断が仲間を危機に陥らせもする。そして
[*1] 「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して、週替わりで4K版三作の上映とトークショーが行われた。
登壇者は以下のとおり。文中のトークショーの内容は記憶を頼りに書いているので、思い違いがあったらご容赦願いたい。
2016年7月6日 主演女優&監督トークショー
金子修介監督、中山忍さん
2016年7月13日 スーツアクタートークショー
第一作ガメラの真鍋尚晃氏、第二作ガメラと第三作イリスの大橋明氏、第三作ガメラの福沢博文氏
特撮助監督でギニョリストも務めた神谷誠氏
2016年7月19日 「ガメラ時代と現在~特撮表現の移り変わり~」
撮影の村川聡氏、視覚効果の松本肇氏
平成ガメラ三部作公開時は中高生だったという田口清隆氏(『ラブ&ピース』特技監督、『劇場版 ウルトラマンX』監督)
[*2] vsシリーズの特技監督を務めた川北紘一氏は、平成ガメラと違ってゴジラ映画は視点(カメラアングル)の統一よりもドラマを優先させたと述べている。
「『ガメラ』は、あくまでもリアルに撮ろうとしていたんじゃないかな。リトルゴジラの可愛さを出すためには視点の統一を崩してもいいんだというのが東宝特撮で、ある意味でリアルな表現をするために視点を統一することはないと思っている。」
―― 冠木新市 企画・構成 (1998) 『ゴジラ・デイズ―ゴジラ映画クロニクル 1954~1998』 集英社文庫

監督/金子修介 脚本/伊藤和典、金子修介 特技監督/樋口真嗣
出演/中山忍 前田愛 藤谷文子 螢雪次朗 山咲千里 手塚とおる 小山優 安藤希 堀江慶 八嶋智人 渡辺裕之 上川隆也 石丸謙二郎 津川雅彦 清川虹子
日本公開/1999年3月6日
ジャンル/[SF] [特撮]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『ペット』も『ルドルフとイッパイアッテナ』も、それはいけない
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2016年の夏、ペットにまつわる二本の映画が公開された。ペットにまつわるといっても、二本の映画はそれぞれ様相がかなり異なる。だが、いずれの作品にも気がかりなところがあった。
奇しくも同時期に公開された二本は、米国の大手映画会社ユニバーサル・スタジオの子会社イルミネーション・エンターテインメントが制作したオリジナルアニメ『ペット』と、日本の児童文学を原作にポケットモンスターシリーズのスタッフらが制作した『ルドルフとイッパイアッテナ』だ。
『ペット』の原題が「The Secret Life of Pets(ペットたちの秘密の生活)」であるように、また『ルドルフとイッパイアッテナ』の惹句が「人間は、知らない。ボクらのヒミツ。」であるように、どちらも人間が知らないところでの犬や猫の行動が描かれる。
といっても、その方向性はかなり違う。
『ペット』は、『ミニオンズ』のイルミネーション・エンターテインメントが制作しただけあって、教訓や感動は二の次のドタバタコメディだ。教訓や感動がないではないが、それ以上にバカバカしい展開とくだらないやりとりが続く愉快で楽しい映画である。
一方の『ルドルフとイッパイアッテナ』は、迷子になった飼い猫ルドルフが野良猫イッパイアッテナと暮らしながら、勇気と友情と和解と学ぶことの大切さに気づいていく物語。教訓と感動がぎっしり詰まった、ボロ泣き必至の作品だ。
どちらを観るのがいいか、と考えるのは野暮だ。こういうときは、どちらも観るのが粋ってものだ。

そもそもペットとは何なのかを知っておくべきだろう。ペットの代表格といえば犬と猫だ。映画『ペット』には鳥や爬虫類やウサギ等も登場するが、主人公は犬である。いったい犬はいつから人間の伴侶になったのだろうか?
---
最も一般的な仮説は次の通りだ。可愛い生き物に弱い狩猟採集民が、オオカミの子どもを見つけて飼い始めた。飼いならされたオオカミは狩りの能力を発揮するようになり、たき火を囲みながら一緒に暮らしているうちに犬へと進化した。
---
ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズはこんな説を紹介しつつ、その反証を挙げている。
・オオカミが家畜化された時代、人類は競合相手の肉食動物にあまり寛容ではなかった。約43,000年前、現生人類がヨーロッパにわたってから、サーベルタイガーやジャイアント・ハイエナなどの大型肉食動物は皆殺しにされ、氷河期の動物はほとんど絶滅してしまった。
・オオカミを狩りに利用したという部分も説得力がない。人間は自分たちだけでも、どの大型肉食動物より狩りに秀でていた。
・オオカミは大量の肉を消費する。オオカミ十頭には毎日シカ一頭が必要だ。エサを与えるのも、奪い合うのも人間にとって負担だし、逆にオオカミからは期待できない。

ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズは一般的な仮説の問題点を挙げつつ、こう疑問を呈す。
---
人間は歴史的に、オオカミを家畜化するどころか排除してきた。この数世紀、ほぼすべての文化で狩りの対象となり、絶滅に追い込んでいる。
もしこの関係が過去数世紀の真実だとしたら、当初の疑問に戻ることになる。オオカミはどのように人間に受け入れられ、飼い犬に進化したのだろうか?
---
「最も可能性が高いのは」彼らは私たちに認識の転換を迫る。「人間からオオカミにアプローチしたのではなく、オオカミが人間にすり寄ったという説だ。」
---

(略)
おそらく、人間の居住地の隅にあるゴミ捨て場をあさることがきっかけになったはずだ。勇敢だが攻撃的なオオカミは人間に殺され、大胆で人懐っこいオオカミだけが受け入れられた。
(略)
つまり、親切な人間がオオカミの子どもを拾ったのではなく、オオカミの方がわれわれを選んだ可能性が高い。
---
そしてほんの二~三万年のあいだに、人間はすっかり犬に飼いならされた。
かつて犬は狩猟や牧羊の役に立ち、番犬にもなったから、犬と人間はWin-Winの関係だった。しかし現在、多くの家庭でのんびり寝ている犬は狩猟もしなければ牧羊もせず、人間が築いたセキュリティシステムに守られてぬくぬくとしている。
明らかに彼らは生態ピラミッドの最上位にいる。狩猟や牧羊等に携わる人を除けば、多くの人は犬に食糧や住まいを一方的に提供するために毎日せっせと働いている。犬がオモチャを持ってくればヘトヘトになるまで投げてやり、犬がひっくり返って「お腹を撫でろ」と命じれば嬉々としてなでなでする。
人類を支配しているのが何者なのか、云うまでもないだろう。
猫に関しても同様だ。猫はネズミのような(人間にとっての)害獣を獲るから、害獣駆除に役立つという実用的な面もあるが、古代エジプトの時代、すでに猫は家を守る女神バステトとして崇められていた。今でも多くの人が、昼寝ばかりしている猫に奉仕するため、多くの時間を割いている。
「pet」という単語がペット(愛玩動物)を指す名詞であるだけでなく、「優しく撫でる。かわいがる。」という動詞の意味もあるように、犬や猫たちは撫でられ、かわいがられることを武器に人間を手なずけている。

それを思えば、『ルドルフとイッパイアッテナ』のおかしなところに気づくだろう。
人間の文字を読める不思議な猫イッパイアッテナは、今でこそ野良として暮らしているが元は飼い猫だ。米国へ転居することになった飼い主が、独りでも生きていけるようにと転居までの一年のあいだ文字を教えてくれたのだ。
だが、これは猫に対する姿勢としておかしい。これまで住みかと食事を人間に確保してもらって過ごしてきたイッパイアッテナを、独りぼっちで放り出してはいけない。飼い主がするべきなのは文字を教えることではなく、転居先に一緒に連れて行くことだ。一緒に暮らせない事情があるなら、新たな飼い主を捜してやるべきだった。転居まで一年もあるというのに、転居後のことを何も手配しないまま、イッパイアッテナを捨てて野良猫にするのは間違っている。
『ルドルフとイッパイアッテナ』は動物の愛護がテーマではなく、猫に例えて人間の生き方を示した作品だから、一人で生きていくことの厳しさや勉学に励むことの大切さを強調するのは判る。しかし、だからといって飼い主が捨てていくのを是とするわけにはいかないだろう。
原作が書かれた1986年当時なら、それほど問題視されなかったかもしれない。しかし1990年代以降のペットブーム、さらには2010年代からの猫ブームを経て動物愛護の重要性が認識されてきた2016年現在、飼い主の無責任な行動に疑問を抱かずにはいられない。せっかくの素晴らしい作品なのだから、野良猫の扱いについてもっと配慮が欲しかった。

迷子になっていたルドルフは、艱難辛苦の末に飼い主リエちゃんの家に帰り着く。しかし、そこに待っていたのは新しい仔猫だった。「猫は一匹しか飼っちゃいけない」というリエちゃんの家の決まりを知ってルドルフはショックを受ける。
これも1980年代ならではの設定だろう。当時は、猫なんて一匹飼えば充分と思われていたのかもしれない。しかし、2015年現在、猫を飼っている世帯の平均飼育数は1.77匹だ。猫と暮らす人にとって、もはや二匹いるのが普通なのだ。
リエちゃんの家は共同住宅ではなく一戸建てなのだから、管理規約で飼育数が制限されるわけでもない。「猫は一匹しか飼っちゃいけない」というのは、おそらく猫を欲しがるリエちゃんを諌めるために彼女の親が口にしたものだろう。それだけのことなのだから、ルドルフを野良にするくらいなら二匹飼えばいいのだ。一匹いるだけでも幸せなのだから、二匹いれば幸せも二倍になろう。
なのに一匹しか飼えないという言葉に悩み苦しむルドルフが、歯痒くってしようがない。こんなことで野良猫を増やしてしまう物語が、悔しくって見てられない。
しかも『ルドルフとイッパイアッテナ』には、人間に飼われるより野良として生きるほうが自由で尊いような描写もある。知恵と教養を身につけて逞しく生きていくことの素晴らしさを、野良の暮らしに重ねているのだ。
2015年だけで21,593頭もの犬が、79,745匹もの猫が、引き取り手のないまま殺処分されているというのに、人間に飼われなくていい(飼われないほうがいい)かのような描写がたまらなく悲しかった。

『ペット』に登場する動物たちはマンハッタンのアパートで暮らしている。主人公マックスは、捨て犬だからはっきりしないがおそらくジャック・ラッセル・テリアらしき男の子。愛嬌のある顔立ちですばしっこい小型犬のジャック・ラッセル・テリアは、『アーティスト』をはじめ数々の映画でお馴染みの犬種だ。マックスの友だちはパグのメル、ダックスフントのバディ、セキセイインコのスイートピー、トラネコのクロエ、そしてガールフレンドのポメラニアン、ギジェットだ。ポメラニアンは『タイタニック』のヒロインが抱いていた犬である。
マックスの飼い主ケイティは、道端に捨てられていた彼を拾って愛情たっぷりに育ててきた。物語は、ケイティが保健所から雑種の大型犬デュークを引き取ることからはじまる。彼らの住むアパートに頭数制限なんてない。住人がみずからの責任で、できる範囲で飼えばいいのだ。
かくあるべきだと思った。引っ越すからと捨ててしまったり、たった一匹しか飼えないと決めて野良暮らしを強いるのに比べて、捨て犬を拾ってきたり、保健所から犬を引き取ってきて、それが特別でもなんでもなく自然なこととして描かれる『ペット』は爽やかだった。
『ペット』は全編バカバカしいドタバタが続くけれど、その根底には人間とペットの関係がどうあるべきか、深い配慮が働いている。

高度な社会性を持ち、群れの中の序列を意識する犬にとって、よそからやってきた新しい犬は群れの秩序を脅かす存在だ。まして、仔犬の頃からケイティの愛情を独り占めにしてきたマックスにとって、突然現れたデュークは邪魔者でしかない。
犬の多頭飼いをするときは、先住犬を優先させるのが鉄則だ。何をするにも先住犬のほうを先にして、一番は自分だと感じさせてあげなければいけない。たとえば、食事をあげるときはまず先住犬に与え、先住犬が安心して食べられるのを見計らってから新しい犬に食事をあげる。こうして先住犬が一番だと実感させるとともに、大事な食事が新しい犬に邪魔されないか見てやるべきだ。それでも先住犬が拗ねてしまい、何年にもわたって機嫌が直らないこともある。先住犬との相性をみるために、試行期間を設ける人も少なくない。
そんな考慮が必要なのに、ケイティはいきなりデュークを連れてきて、すぐにマックスと対等に扱ってしまう。これではトラブルになるのもとうぜんだ。
もちろんペットの映画をつくるからには、作り手もそんなことは承知だろう。
本作は動物たちが繰り広げる愉快で楽しいドタバタコメディだが、騒動のきっかけは常に人間の迂闊さにある。人間が至らないばっかりに、動物たちに無用な争いが起きてしまうのだ。捨てられたペットたちの人間への復讐計画はその最たるものだろう。
本作のバカバカしい笑いの裏には、人間社会に対する作り手の厳しく辛辣な眼差しがある。
『ペット』も『ルドルフとイッパイアッテナ』もそれぞれにいいところがあって楽しめる映画だ。
だが、それだけで終わらせず、鑑賞後に動物と暮らすことについてすこーし考えてみるのはどうだろうか。
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監督/クリス・ルノー、ヤーロウ・チェイニー
出演/ルイス・C・K エリック・ストーンストリート ケヴィン・ハート ジェニー・スレイト エリー・ケンパー レイク・ベル スティーヴ・クーガン ダナ・カーヴィ ボビー・モナハン アルバート・ブルックス
日本語吹替版の出演/設楽統 日村勇紀 永作博美 中尾隆聖 山寺宏一 佐藤栞里 沢城みゆき 銀河万丈 宮野真守 梶裕貴
日本公開/2016年8月11日
ジャンル/[コメディ] [ファミリー] [アドベンチャー] [犬]
『ルドルフとイッパイアッテナ』 [ら行]
監督/湯山邦彦、榊原幹典
出演/井上真央 鈴木亮平 八嶋智人 古田新太 大塚明夫 水樹奈々 寺崎裕香 佐々木りお 毒蝮三太夫
日本公開/2016年8月6日
ジャンル/[ドラマ] [アドベンチャー] [ファミリー]

『シン・ゴジラ』 ゴジラの正体

前々回、前回とガメラについて述べてきたのは、ゴジラを語るためでもあった。東宝のゴジラ映画第29作となる『シン・ゴジラ』が、おそらくゴジラ映画史を覆す傑作だろうと思われたからだ。ガメラシリーズの変遷を振り返ることで、ゴジラシリーズの特徴も浮き彫りになり、その結果『シン・ゴジラ』の位置付けも明らかになると考えたのだ。
■世にも奇妙なゴジラシリーズ
私もゴジラシリーズは大好きだ。『キングコング対ゴジラ』の日米頂上決戦に痺れ、『モスラ対ゴジラ』の不良ゴジラに魅了され、『怪獣大戦争』のストーリーテリングの巧みさに唸ったものだ。一般的な評価は高くないかもしれないが、『ゴジラ対メガロ』だってジェットジャガーのかっこよさと相まって私にはストライクだ。21世紀に目を向ければ、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』の面白さに、さすが平成ガメラの金子修介監督だと敬服した。
だが、どんなにゴジラ映画が作られても、燦然と輝くのは1954年の第一作『ゴジラ』だ。「ゴジラ映画としては」とか「怪獣映画としては」なんて前提をつける必要はない。ジャンルを超えた素晴らしい傑作だ。
それは東宝も重々承知のことだろう。過去、ゴジラシリーズは何度もリブートされたが、1954年の第一作だけは無視できなかった。平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)もミレニアムシリーズも、第一作の続きという位置付けだった。第一作こそゴジラ映画の原点であり最高傑作であり、その特別なポジションは揺るがなかった。
先の記事では怪獣映画を次の三つに分類した。
1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『大怪獣ガメラ』等
2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』等
3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:二作目以降の昭和ガメラシリーズやゴジラvsシリーズ等
(詳しくは「『ガメラ 大怪獣空中決戦』の衝撃とゴジラシリーズ」、「『ガメラ2 レギオン襲来』が最高峰なわけ」を参照)

ゴジラシリーズは『ゴジラ』からはじまったのだから当たり前……と思われるだろうか。
あまりにも『ゴジラ』の存在が大きいので当たり前のように感じてしまうが、他のシリーズに目を向ければ必ずしもそうではない。ゴジラ誕生のヒントとなったキングコングは、南の島で発見されて人間世界に連れてこられ、という同じ話をもう三回もやっている。
怪獣映画以外にも目を向ければ、第一作に拘泥しない例はさらに多い。ソニーピクチャーズは2002年の『スパイダーマン』にはじまるシリーズが行き詰まると早々にリブートし、2012年の『アメイジング・スパイダーマン』でスパイダーマン誕生ばなしからやり直した。007シリーズもスタートレックシリーズも、ある時点で設定を刷新して新しいシリーズにしている。ウルトラマンや仮面ライダーは云わずもがな、日本一の長寿シリーズ「男はつらいよ」だって、テレビ版から劇場版に発展する際に一から話を説き直した。
映画各社がシリーズを一からやり直すのは、ことの起こりが一番面白いからだ。ヒーローなりモンスターなりがはじめて世に現れ、世界と交わるときの驚き、ときめき、衝撃に勝る面白さはない。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』が傑作たり得たのも、過去作のしがらみから解放され、設定を一から構築できたからだ。平成ガメラ三部作は、一貫してガメラとは何なのかを解き明かす物語であり、昭和ガメラシリーズに縛られることなく超古代文明だの超自然的な「マナ」だのの設定を盛り込めた。だからこそ、あれほど面白くなったのだ(もちろんリブートしても面白くない映画はあるし、ターミネーターシリーズのように毎回新しいターミネーターがやってくることで陳腐化を防ぐ例もある)。
だから、ゴジラ映画の中で、1954年の『ゴジラ』が燦然と光り輝くのはとうぜんなのだ。一番面白い、おいしいところを描いた第一作を絶対視し、二作目以降しかリブートしない、正確にはリブートとはいえないことしかしてこなかったのだから。
本当に面白いゴジラ映画を作ろうと思ったら、第一作をリメイクすることだ。ゴジラがはじめて人間の前に現れ、日本中が人智を超えた存在に恐れおののき絶望の淵に立たされる。ゴジラシリーズを覆うタブーを打ち破り、そういう映画を作るしかないと私は思っていた。
そして、遂にそれを実現したのが『シン・ゴジラ』だ。第一作が持っていた要素を完全に備え、なおかつ現代風に、2016年に相応しくアレンジされた映画。これが傑作になるのは必然だった。

ゴジラ映画には60年以上の歴史があるから、接した時期は人それぞれだし、人によって好きなところも違うだろう。誰もが自分なりのゴジラ像を抱いているに違いない。
劇中でゴジラに関する研究が進み、その細胞が分析・増殖されていることをよしとする人もいるだろうし、ゴジラ対策機関が設置され、ゴジラ災害を防ぐべく官民が努力しているのをよしとする人もいるだろう。対ゴジラ用に開発された超兵器をかっこいいと思う人もいることだろう。
同時に、ゴジラを鬼神や破壊神のように捉え、愚かな人間に対する怒りや裁きの象徴と見る人もいるだろう。
しかし、第一作『ゴジラ』にこれらの要素はなかった。
正体不明のモンスターが現れ、ただ歩き回って海に帰っていく。『ゴジラ』はそういう映画だった。あとは人間が大騒ぎするだけだ。劫火に逃げ惑い、泣き叫び、死んでいく。政府も学者もなすすべもなく、ただ街を破壊されるだけだ。
大戸島の伝説の怪物になぞらえる老人もいるけれど、その伝説が本当にこの怪物のことかどうかは判らない。水爆実験の影響で出現したと云う学者もいるが、本当のところは判らない。
人間が歩くときにいちいち蟻をよけたりしないように、蟻はなぜ人間が自分の上を歩いたのか永遠に理解することがないように、ゴジラもただ歩き、足下のものを踏み潰していく。
『シン・ゴジラ』はこれをそっくり再現した。一つ一つのセリフやエピソードは違っても、描こうとしているのは同じことだ。
とりわけ忠実に再現されたのがゴジラのデザインだ……などと書くと、過去作のゴジラと似ても似つかないじゃないか、と云われそうだ。
私は『キングコング対ゴジラ』のデザインがかっこいいと思うけれど、『モスラ対ゴジラ』の不敵な面構えのゴジラも人気があるし、平成以降の怒りを込めた顔つきのゴジラを愛する人もいよう。どのゴジラもそれぞれの良さがあるけれど、いずれもゴジラがキャラクターとして人気を確立した後のものだ。
初代ゴジラの特徴は、表情のなさだ。とりわけ魚のような、感情のない真ん丸い目が恐ろしい。
本作のゴジラは無表情な丸い目をきっちりと受け継いでいる。キャラクターデザインの竹谷隆之氏によれば、特に海から上がったばかりの第二形態に関する庵野秀明総監督の要望は「深海魚のラブカみたいに、眼は真ん丸で何も考えていない感じにしたい」というものだった。[*]

「庵野さんは目にも強いこだわりを持っていて、『人間の眼でいこう』ということになってから白目と黒目の比率をとても慎重に吟味されていました。生き物の中で人の目がいちばん恐いと」
人間の目といっても、人間らしい眼差しはない。ゴジラには瞼がなく、表情筋もないから無表情だ。醜くゴツゴツした頭に、ただギョロリとした人間の目玉がついているだけ。この不気味さは、まさに初代ゴジラに通じるものだ。
怖さだけを狙ったのではない。瞼がないのは、完全生物のゴジラは身を守る必要がないからだ、という理由付けがなされている。[*]
怒ったような表情や、眼を細めて睨みつけるような表情は、実はあまり怖くない。
怒った顔が怖いのは、人間とか犬とか猿とか、感情豊かな生き物の場合だ。平静な人に比べれば、そりゃあ怒った人は怖い。だが、怒りの表情を見せるのはそれだけ人間的ということだ。いくら怒っても、人間のすることはたかが知れている。表情があるのは、表情によるコミュニケーションを必要とする証拠であり、理解し合ったり共感を覚えたりする余地がある。
本当に怖いのは感情が読めないもの、感情がない存在だ。怒りがないということは、平静な状態もないのだから、いつ何をされるか判らない。何を考えているか判らない存在ほど怖いものはない。
だから、これまで私が怖いゴジラは初代のみであり、他のゴジラはかっこいいと思うことはあっても全然怖くなかった。
実をいえば、『シン・ゴジラ』を見てもいないのに傑作に違いないと確信したのは、『ガメラ2 レギオン襲来』のトークショーのときだった。
平成ガメラの歴代スーツアクター三人がはじめて揃ったこの日、撮影裏話として『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』でガメラを演じた福沢博文氏が明かしてくれたことがある。
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「しょせん人間が勝手に思ってるだけだからね。」樋口監督の答えは意外だった。怪獣が考えてることなんて判らない。人間はガメラが守ってくれたとか思っているけど、それは人間の勝手な想像だという。
トークショーに同席していた平成ガメラ三部作の特撮助監督神谷誠氏も「怪獣は災害のメタファーなわけで。人間に台風の気持ちは判らないから」と言葉を添えた。
ガメラが人間の、特に子供の味方であることは、昭和のシリーズから平成シリーズまで一貫した設定だ。まして平成ガメラ第三作は、「THE ABSOLUTE GUARDIAN OF THE UNIVERSE (世界の絶対的な守護者)」と副題がついた作品だ。その終盤で、少女を助けたガメラがじっと少女と見つめ合うクライマックスの場面での、ガメラを演じる役者への指示が慈愛でも博愛でもなく「何を考えているか判らない」というのだから嬉しくなってしまう。
ガメラですら何を考えているか判らないのだから、まして人間の味方でもなんでもないゴジラに人間らしい怒りなんてあるはずがない。私がゴジラでもっとも重要視している「無感情」という要素を樋口監督も押さえていることが判って、私の『シン・ゴジラ』への期待は高まったのだ。
残念ながらゴジラが丸い目をして無表情だったのは、これまで『ゴジラ』第一作だけだった。その後のゴジラは昭和後期の善玉時代を経て、怒りに満ちた凶暴そうな表情を特徴とした。
これは人間のとうぜんの反応だ。人は何にでも因果関係を求める。良くないこと、不幸なことには原因があるはずだと考える。愚かなことをしたからだとか、道理に反することをしたからだとか、人間の行いに原因を求める。それはすなわち、悪い行いをすれば罰が下されると考えることにも繋がる。心理学者ジェシー・ベリングによれば、こうして人間の行いを見ている者――神の概念が生まれたのだという。(「『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』 幸せを感じる秘密」参照)
ゴジラが街を壊し、人を踏み潰して暴れるのは、人間の行いに怒っているからだと考えるのは自然なことだ。
だがそれは、いわば台風の気持ちを読み取るようなものである。東日本大震災が起きたのは天罰だといった政治家と同じだ。原子力発電所の事故は罰が当たったのだという学者と同じである。本能に根差した素朴な反応だが、これらの発言は激しい非難を浴びた。
『シン・ゴジラ』ではゴジラから一切の表情を排することで、災害のメタファーとしてのゴジラを極限まで突き詰めた。
私たちは台風に限っていえば発生の可能性や進路を予測できるようになってきたが、地震や噴火等々、発生時刻も場所も規模も判らない災害はまだまだ多い。『ゴジラ』第一作は戦争や原水爆のメタファーであると云われるが、空襲や原爆投下だって爆弾を落とされるほうにしてみればいつどこにどれだけの被害が生じるか判らないのだから天災と変わらない。突如としてやってきて、街を紅蓮の炎で焼き尽くし、どこへともなく去っていくゴジラは、天災そのものだ。
人間は己の卑小さ、矮小さにおののくばかりだ。

『崖の上のポニョ』は金魚のような海の生き物が(人間の科学者が開発した高エネルギー物質を摂取して)手や足を生やしながら巨大化し、上陸して大災害を起こす話だ。『シン・ゴジラ』でも、オタマジャクシのような第一形態[*]から深海魚のラブカ(ウナギザメ)のような第二形態、二足歩行の第三形態を経て、手や足を生やしながら巨大化し、上陸して大災害を引き起こす。
ポニョとゴジラでは外見がまるで異なるが、注目すべきは目の描き方だ。宗介の前では可愛い女の子の姿をしているポニョだが、魔力が弱まると半魚人のようになってしまう。そのときポニョを特徴づけるのが表情のない丸い目だ。人間とは違う世界の生き物を表現するには魚のような丸い目がポイントとなることを、優れたクリエイターは心得ている。
私はゴジラの本質が無表情で感情がないことだと考えているが、怒り顔のゴジラの映画が何本も作られたのは、ゴジラに怒りや怨念を重ねる人が多いからだろう。
本作はそれらの人たちも置き去りにはしない。そのための仕掛けが科学者、牧悟郎だ。放射性物質を憎む牧悟郎の恨みつらみを描くことで、本作は観客が怒りや怨念の象徴としてゴジラを見ることを可能にしている。
しかも、牧悟郎は行方不明になっているので、劇中に登場しない。だから、劇中人物が彼に真相を問い質したり、改心させたりができない。残された人たちは(観客も含めて)牧悟郎の怒りや恨みの大きさを想像し、勝手に共感することができる。
人間側のドラマを精緻にすることで多様なゴジラ観を可能にするとは、巧い作り方だ。
■選ばれた方式
本作はゴジラ映画がタブーとしていた第一作のリメイク(第一作からのリブート)に挑戦した映画といえるだろうが、下敷きにしたのはそれだけではない。優れた作品がTTP(徹底的にパクる)によって生まれるように、本作にも数々の手本があろう。
未曽有の大災害が日本を襲い、甚大な被害が生じる中、政府関係者が各国と連絡を取りながら国を揺るがす危機に対処する――というと1973年公開の『日本沈没』あたりが思い浮かぶが、この映画からの影響は限定的だろう。『日本沈没』は政府首脳よりも庶民に近い潜水艇の操縦士を主人公に、大災害に翻弄される日本人を多面的に描き出した。しかし、樋口監督は2006年に『日本沈没』の再映画化に挑戦し、庶民と災害をたっぷり描写したから、同じことをまたやる気にはならなかったに違いない。
庵野秀明総監督も樋口真嗣監督も正直なので、特に重要な手本については映画の中でちゃんと明らかにしている。科学者牧悟郎の写真として、亡き岡本喜八監督のご尊顔が映し出されるのだ。岡本喜八監督のお孫さんの前田理沙さんがこう呟いている。
「岡本喜八を敬愛してくださっている庵野秀明監督、樋口真嗣監督の希望で劇中で写真が使われています。」

国を揺るがす危機にあって政府の中枢でなされた議論を、緊迫感溢れる会議の連続で描いた映画といえば、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967年)が真っ先に挙がるだろう。
この映画は、原爆が落とされ、英米のみならずソビエト連邦にも攻撃される中で、なおも戦争を続けようとする陸軍大臣らと戦争を終わらせようとする海軍大臣らのせめぎ合いを、1945年8月15日に至る出来事の積み重ねで描き出した。157分もある映画のほとんどは会議や下工作の繰り返しだが、題材の重さとテンポの良さが相まって抜群に面白い。この映画も現場や市井の人々の描写はほとんどなかった。
岡本喜八監督が戦争を描いた大作といえばもう一本、1971年の『激動の昭和史 沖縄決戦』も思い出される。こちらは軍上層部や現場や市井の人々をまんべんなく描いて、多くの犠牲者を出した沖縄戦の経緯を解き明かしている。
こちらも見応えある作品だが、『シン・ゴジラ』の下敷きとしては『日本のいちばん長い日』が相応しい。
なぜか。
映画とは、観客が見たこともないものを見せて楽しませるものだからだ。
『日本のいちばん長い日』が公開された1967年当時、戦争の悲惨さはまだ人々の記憶に残っていただろう。ベトナム戦争特需の好景気に沸いていたとはいえ、戦争中の辛さや戦後の苦しさは誰でも語ることができたはずだ。
一般の人々が知らなかったのは、あの8月15日正午の玉音放送までに何があったのかということだ。なぜ、他でもない8月15日なのか、と云い換えてもいい。もしも8月15日に放送できなければ、大日本帝国は戦争終結のタイミングを失い、さらに犠牲を出し続けていたかもしれない。その知られざる戦争秘話が明かされるから、『日本のいちばん長い日』は面白いのだ。

第二次世界大戦は1945年に終わったけれど、沖縄が米軍に占領されていたこともあり、日本の他の地域では戦争末期に沖縄で何があったのか知られていなかった。多くの民間人にも犠牲を出す悲惨な戦いがあったことが知られるようになったのは、1953年に映画『ひめゆりの塔』が公開されてからだ。この映画の大ヒットにより、壮絶な沖縄戦が広く知られるようになった。
その後、沖縄住民らの激しい運動や日本政府の交渉を経て、1971年6月17日にようやく日米間で沖縄返還協定が調印される。実際に沖縄が日本に返還されたのは翌年の5月15日のことだ。『激動の昭和史 沖縄決戦』が公開されたのは1971年7月17日。沖縄返還協定が調印されてから返還されるまでのあいだの、これまで"外国"だった沖縄がようやく帰ってくるというタイミングで、沖縄戦の経緯となぜひめゆり学徒隊のような悲劇が起きたのかをつまびらかにしたのがこの映画だった。
『シン・ゴジラ』も観客が見たことのないものを見せる映画だ。
作り手は『シン・ゴジラ』を作るに当たって各府省や自衛隊に綿密な調査を行ったという[*]。これを踏まえて、大災害が起きたら政府の各機関がどう動くかをリアルに表現した。

もちろん、東日本大震災の再現ドラマではないから、少なからぬ改変が施されている。国家を揺るがす危機が生じた場合は、官邸地下の危機管理センターが情報集約拠点となるが、東日本大震災当時の首相はそこを離れて官邸地下中二階や官邸五階の会議室に移ってしまった。そのため意思決定に必要な情報の不足と偏在が生じたことが問題として指摘されている。官邸危機管理センターでの情報集約そのものも上手くいってなかったことが指摘されているが、本作ではそういった問題は割愛されている。
東日本大震災以降、3月11日になるとテレビ各局が震災を特集した特別番組を放映している。だが、『シン・ゴジラ』が公開された2016年はそれら特別番組の視聴率が低かった。
その理由は様々だろうが、2011年3月11日の大惨事についてすでに全国民が知っていることも理由の一つだろう。当時の連日にわたる報道、そして毎年繰り返される報道等により、程度の差こそあれ日本人の誰もが大震災のことを知っている。2016年になって新たに報道される事実もあるにはあるが、番組全体としては新たな衝撃や新たな知見がもたらされるわけではない。
事実を報道するテレビ番組の意義はともかく、娯楽映画、商業映画において、観客が目新しさを感じないものを描くために尺や予算を使うのは得策ではない。終戦から22年経って公開された『日本のいちばん長い日』でさえ、現場や市井の描写を必要としなかった。ましてや東日本大震災から五年足らずで公開された『シン・ゴジラ』に、これ以上の被災する人々の描写が必要とは思えない。
軍人であると民間人であるとを問わず、多大な犠牲者が出たことを知らしめる『激動の昭和史 沖縄決戦』方式ではなく、会議を重ねる政府中枢に焦点を当てた『日本のいちばん長い日』方式を選ぶのは妥当な判断といえよう。
それに2016年の今でも、津波の映像が含まれる予告編等には断りのテロップを入れる配慮がなされるくらい、災害の映像に観客は敏感だ。
本作をご覧になればお判りのように、これは希望と明るさを感じさせる映画だ。大災害を題材としながら明るく感じる映画にするには、繊細な配慮が求められる。具体的には、犠牲者が出るネガティブな描写と困難に立ち向かうポジティブな描写のバランスが重要だ。
ましてや災害を描くことが東日本大震災の記憶を甦らせ、それによってネガティブな思いを抱かせるおそれがあるなら、その描写にはなおのこと注意が必要だろう。
この点からも、本作のバランスの取り方は首肯されるところだ。

2016年現在の観客にとって、本作は2011年の大地震と大津波、それに伴う大火災や原子力発電所の事故を思い出させる。
しかし、「災害のメタファー」であるゴジラの上陸が示すのは、すでに起きた災害ばかりではない。首都の壊滅と残された者が奮闘する姿は、いずれ起きる首都直下型地震の暗喩としても見ることができる。近い未来には、本作が首都直下型地震に伴う出来事を予見した映画とみなされているかもしれない。ゴジラが甚大な被害をもたらしながら次の活動までしばらく停止する様子は、本震と余震のようでもある。
私たち人間は災害を消滅させることはできない。台風の進路は変えられないし、地震を止めることもできない。人間が起こす戦争ですら、完全消滅は難しい。
だから『シン・ゴジラ』では、人間は完全な勝利は得られない。かろうじて危機を乗り越えるものの、すべての脅威が消えてなくなるわけではない。再び来るであろう危機に備える必要を感じさせるから、本作はより一層現実的だ。
大災害はいつでもどこでも起こり得る。
それは同時に、本作が描く希望と明るさが、いつでもどこでも人々を元気づけるということでもある。
本作はゴジラ映画や怪獣映画といった枠に留まらず、時を超えて誰の心にも響く映画だ。
この永遠不滅の傑作を観せてくれた庵野秀明総監督、樋口真嗣監督、尾上克郎准監督、そしてすべての関係者の方々に心から感謝したい。
[*] パンフレット記載の PRODUCTION NOTES から

総監督・脚本・編集・D班監督/庵野秀明 監督・特技監督/樋口真嗣 准監督・特技総括・B班監督/尾上克郎
出演/長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 野村萬斎 高良健吾 松尾諭 市川実日子 余貴美子 國村隼 平泉成 柄本明 大杉漣
日本公開/2016年7月29日
ジャンル/[SF] [特撮] [サスペンス]

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