『ガメラ2 レギオン襲来』が最高峰なわけ
(前回「『ガメラ 大怪獣空中決戦』の衝撃とゴジラシリーズ」から読む)
2016年7月13日、1996年の『ガメラ2 レギオン襲来』封切からちょうど20年目のこの日に、関係者の方々のお話[*]を伺うとともにこの映画を鑑賞できたのは無上の喜びだ。
『ガメラ2 レギオン襲来』の完成度の高さといったらない。乏しい映画体験でこんなことを書くのは恐縮だが、これぞ日本SF映画の最高峰、怪獣映画の金字塔だと思う。
全体的な作りはミステリーに近い。小松左京著『継ぐのは誰か?』やアイザック・アシモフ著『永遠の終わり』を持ち出すまでもなく、ミステリーとSFは相性が良い。だが、ミステリーの枠組みを活かし、なおかつSFで実写映画でとなると、これほど成功した例は珍しいのではないか。
ここでいうミステリーの枠組みとは、島田荘司氏が提唱したものを指している。
まず、物語の冒頭で(幻想的な)謎が提示されること。謎は不可解で突拍子もないほど魅力的だ。そして結末において、謎は徹底して合理的、論理的に解決される。
氏はミステリーをこのようなものと考え、みずからその実践として『奇想、天を動かす』を執筆した。
この要件はSFに通じるものがある。SFでは、現実の世界にはありえないような事象、現象が提示されて、受け手を魅了する。けれどもそれら事象の背景には(作中世界の)科学的、論理的な説明がある。科学的な説明の程度や濃淡によっては、ファンタジー寄りになったりオカルト寄りになったりするし、そこに明確な線引きがあるわけではないが、不思議な出来事でも合理的に説明し得る(可能性を残す)ところにSFの醍醐味があろう。
『ガメラ2 レギオン襲来』でも様々な怪現象が発生する。落下したはずなのに消えた隕石、高緯度地帯でもないのに発生する緑のオーロラ、原因不明の通信障害、ビール瓶を食べる怪物等々。
怪現象の映像で、視覚的に観客を驚かす映画は多い。たいていの場合は、怪物とか異星人のせいにして終わりだ。個々の現象について、その発生メカニズムや必然性が解き明かされ、合理的に説明されることは少ない。
怪物とか異星人は人類に理解不能なほど異質で深遠なのだ、というのも一つの説明だが、作り手が皆そんな哲学を掘り下げているとも思えない。
本作が素晴らしいのは、数々の怪現象でただ観客を脅かすだけでなく、その裏にちゃんと理論理屈があって、怪現象に見えたものが何だったのか、その原因は何なのかが、劇中できれいに説明されていくからだ。あたかもパズルのピースがピタリとはまるように、実に気持ちがいい。その爽快な気分は、本格ミステリーの読後感にも等しい。
敵の正体が判っても、事件が解決しても、なぜ奇怪な現象が起きたのか納得できずにモヤモヤしたまま劇場を去る――そんな経験が多いだけに、本作には感激した。
本作を傑作SFたらしめているのは、新怪獣レギオンの設定そのものによる。
本作はガメラとレギオンの戦いを描いているが、映画の大半はレギオンとは何かを解明することに費やされる。レギオンとは一匹の怪獣の名前ではなく、働きバチのような小型レギオンたちと女王バチのような巨大レギオンと彼らが共生関係にある草体(そうたい)をひとくくりにした生態系そのものの呼び名だ。
宇宙から生態系がまるごと移動してきた怪獣というのは珍しい設定だが、よく考えれば私たち人類も同じようなものかもしれない。一人の宇宙飛行士が異星に降り立ったとしよう。異星生物の目に映る人間は、37兆個もの細胞が寄り集まり、多くのウイルスが遺伝子に入り込み、腸の中や体のあちこちに数百兆の細菌が棲みつき、ミトコンドリアのように体の一部と化してしまった生物も宿す、集合体のような生き物だ。毎日ヨーグルトを食べて、ビフィズス菌の補充に努めている人も多いだろう。私たちが繁殖できるのも、遠い昔に体内に入ったウイルスの力が働いているからだ。
怪獣映画には珍しい奇妙な生物に見えるレギオンは、人間を含めた生物全般の誇張に過ぎない。
巨大レギオンと小型レギオンは、やや虫に似た形をしている。
『宇宙の戦士』(映画『スターシップ・トゥルーパーズ』の原作)でも敵は虫型の異星生物だった。意志の疎通ができない虫が相手なら、殲滅戦を繰り広げても良心の呵責を覚えなくていいからだろう。
しかし、虫と心を通わす姫を主人公にした『風の谷のナウシカ』の登場は、虫だってむやみに殺してはいけないことに気づかせた。それでも殲滅戦を描く映画は、戦争相手のことを殺されても仕方がないほど残酷な者として描写するか、そもそも作り手の思慮が足りないかだ。
ところが『ガメラ2 レギオン襲来』では、明確な理由の下に殲滅戦が繰り広げられる。その理由こそ、レギオンの設定でもっとも面白く、強烈な特徴である。
レギオンの生態系は、地球の生物と相容れないのだ。レギオンは増殖の過程で大量の酸素を発生させる。そんな高濃度の酸素の中では、人間をはじめ地球上の多くの生物が生きられない。一方、レギオンは酸素を発生させなければ増殖できずに死滅する。
ここには、良心だの理解し合うだのといった、人間が好きな概念の入る余地はない。生きる上で必要な環境が異なるのだから、共存は不可能なのだ。
怪獣怪人と戦う映画や特撮ドラマには、ときに「怪獣だって生きているんだ」とか「戦うことしかできないのか」という問いかけが投げかけられる。作品づくりに真摯であれば、どこかでその問いに向き合わざるを得ない。
しかし本作は、そんな問いかけさえできない世界を描いて衝撃的だ。異種の生態系が出会うとき、一方は滅びざるを得ないのだ。
地球の歴史で最大級の環境破壊は、27億年前頃からシアノバクテリアがはじめた酸素の生成だ。
地球に生命が誕生したのは40億年前といわれる。それから長いあいだ、大量の二酸化炭素に包まれた地球で多くの生物が栄えてきた。ところが光合成を行うシアノバクテリアが出現して、大事な二酸化炭素を減少させ、せっせと酸素を吐き出した。
本作の科学考察を担当した鹿野司氏はパンフレットに次のように書いている。
---
この地球環境の激変は、それ以前に地球で繁栄してきた生物にとっては大打撃となった。それ以前の生物は嫌気性で、酸素は猛毒になる。つまり彼らは、猛毒を巻き散らし環境を破壊する新種の生物によって、10億年の繁栄の歴史の舞台から引きずり降ろされてしまったわけだ。
---
やがて酸素は大気の約20%を占めるまでに増えてしまった。地球は酸素に汚染されたのである。
しかも酸素に覆われた地球には、酸素を呼吸する生物なんてものまで誕生した。彼らは今も我が物顔で地球を歩き回っている。
20億年以上前に酸素に耐え切れず死滅した大量の生物たちには悪いが、人間も酸素呼吸生物の一員だから、酸素のない地球に戻してあげるわけにはいかない。一方で、酸素が増えすぎると人間もその毒に耐えられないから、酸素は大気の20%程度にとどまっていてほしい。
塩分濃度が3%程度の海に住む生物は濃度が30%の死海では生きられないが、その死海を好んで棲む生物もいる。同様に、酸素の濃度が高まればそれを好む生物が繁栄するだろうが、そのとき私たちは死に絶えている。
わがままなようだが、20%程度の酸素濃度に最適化してしまった私たちは、融通を利かせられないのだ。
レギオンとの戦いは、酸素濃度の上昇を食い止めることでもある。前作『ガメラ 大怪獣空中決戦』では森林伐採や二酸化炭素の増加を危惧するセリフがあったけれど、本作では逆に酸素の増加を心配することで、私たちがいかに微妙なバランスの上に生きているかをあぶり出す。
私が本作を日本SF映画の最高峰だと思うゆえんだ。
映像技術はこれからも進歩するだろうし、驚くべき映像で観客を沸かせる映画が公開されていくだろう。だが、人類と地球上の生物を、地球外生物と効果的に対比することでキッチリと描き出し、地球の環境についてこれほど深く考えさせる映画はまたとあるまい。
また、本作は新怪獣の生態の描写を中心にしたことで、怪獣映画としても特筆すべき作品になった。
前回も触れたように、私は怪獣映画を次のような分類で考えている。
1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『大怪獣ガメラ』等
2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』等
3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:二作目以降の昭和ガメラシリーズやゴジラvsシリーズ等
すべての怪獣映画がこの三つに分類できるわけではないし、中間に位置するものもあるが、大雑把にくくればこんなところだと思う。人気シリーズは三番目のパターンになりがちで、敵怪獣に新味を出すことでしかアピールできなくなってしまうことが多い。
それも仕方がないとは思うけれど、『ガメラ2 レギオン襲来』が凄いのは、一見すると三番目のパターンのようでありながら、実質は一番目のパターンで作られていることだ。
本作の登場人物たちは、ガメラなんかそっちのけだ。レギオンの正体を暴き、その被害を少なくすることにかかりきりだ。この映画が描くのは異なる生態系のぶつかり合いだから、それはレギオン対地球生物全体の戦いなのだ。自衛隊も民間人もそしてガメラも、レギオンを食い止めようとする一員に過ぎない。
前作『ガメラ 大怪獣空中決戦』がシリーズ第一作なのに二番目のパターンだったことには驚いたが、その続編となるシリーズ第二作に一番目のパターンを持ってきたのも驚きだ。通常は単発の映画(続編が作られて、結果的にシリーズ第一作になることはある)で行うものだろう。
こんなことができたのも、レギオンの設定が緻密で、工夫が凝らされていたからだ。単に宇宙から来た怪獣というだけではこうはいかない。その生態や共生関係や、地球に来たら起こるだろう現象の考察と、ストーリーとテーマとがしっかり噛み合い、精緻に構想されたからこそ、この大胆な作劇が可能となったのだ。
前作はダイナミックな面白さに秀でていたが、本作は完成度の高さで他の追随を許さない。
封切から20年を経て、その思いをますます強くした。
(次回「『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の後はどうなる?」につづく)
[*] 「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して、週替わりで4K版三作の上映とトークショーが行われた。
登壇者は以下のとおり。文中のトークショーの内容は記憶を頼りに書いているので、思い違いがあったらご容赦願いたい。
2016年7月6日 主演女優&監督トークショー
金子修介監督、中山忍さん
2016年7月13日 スーツアクタートークショー
第一作ガメラの真鍋尚晃氏、第二作ガメラと第三作イリスの大橋明氏、第三作ガメラの福沢博文氏
特撮助監督でギニョリストも務めた神谷誠氏
2016年7月19日 「ガメラ時代と現在~特撮表現の移り変わり~」
撮影の村川聡氏、視覚効果の松本肇氏
平成ガメラ三部作公開時は中高生だったという田口清隆氏(『ラブ&ピース』特技監督、『劇場版 ウルトラマンX』監督)
『ガメラ2 レギオン襲来』 [か行]
監督/金子修介 脚本/伊藤和典 特撮監督/樋口真嗣
出演/永島敏行 水野美紀 吹越満 石橋保 藤谷文子 川津祐介 沖田浩之 螢雪次朗 長谷川初範 渡辺裕之 ラサール石井 田口トモロヲ 小林昭二
日本公開/1996年7月13日
ジャンル/[SF] [特撮]
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『ガメラ2 レギオン襲来』の完成度の高さといったらない。乏しい映画体験でこんなことを書くのは恐縮だが、これぞ日本SF映画の最高峰、怪獣映画の金字塔だと思う。
全体的な作りはミステリーに近い。小松左京著『継ぐのは誰か?』やアイザック・アシモフ著『永遠の終わり』を持ち出すまでもなく、ミステリーとSFは相性が良い。だが、ミステリーの枠組みを活かし、なおかつSFで実写映画でとなると、これほど成功した例は珍しいのではないか。
ここでいうミステリーの枠組みとは、島田荘司氏が提唱したものを指している。
まず、物語の冒頭で(幻想的な)謎が提示されること。謎は不可解で突拍子もないほど魅力的だ。そして結末において、謎は徹底して合理的、論理的に解決される。
氏はミステリーをこのようなものと考え、みずからその実践として『奇想、天を動かす』を執筆した。
この要件はSFに通じるものがある。SFでは、現実の世界にはありえないような事象、現象が提示されて、受け手を魅了する。けれどもそれら事象の背景には(作中世界の)科学的、論理的な説明がある。科学的な説明の程度や濃淡によっては、ファンタジー寄りになったりオカルト寄りになったりするし、そこに明確な線引きがあるわけではないが、不思議な出来事でも合理的に説明し得る(可能性を残す)ところにSFの醍醐味があろう。
『ガメラ2 レギオン襲来』でも様々な怪現象が発生する。落下したはずなのに消えた隕石、高緯度地帯でもないのに発生する緑のオーロラ、原因不明の通信障害、ビール瓶を食べる怪物等々。
怪現象の映像で、視覚的に観客を驚かす映画は多い。たいていの場合は、怪物とか異星人のせいにして終わりだ。個々の現象について、その発生メカニズムや必然性が解き明かされ、合理的に説明されることは少ない。
怪物とか異星人は人類に理解不能なほど異質で深遠なのだ、というのも一つの説明だが、作り手が皆そんな哲学を掘り下げているとも思えない。
本作が素晴らしいのは、数々の怪現象でただ観客を脅かすだけでなく、その裏にちゃんと理論理屈があって、怪現象に見えたものが何だったのか、その原因は何なのかが、劇中できれいに説明されていくからだ。あたかもパズルのピースがピタリとはまるように、実に気持ちがいい。その爽快な気分は、本格ミステリーの読後感にも等しい。
敵の正体が判っても、事件が解決しても、なぜ奇怪な現象が起きたのか納得できずにモヤモヤしたまま劇場を去る――そんな経験が多いだけに、本作には感激した。
本作を傑作SFたらしめているのは、新怪獣レギオンの設定そのものによる。
本作はガメラとレギオンの戦いを描いているが、映画の大半はレギオンとは何かを解明することに費やされる。レギオンとは一匹の怪獣の名前ではなく、働きバチのような小型レギオンたちと女王バチのような巨大レギオンと彼らが共生関係にある草体(そうたい)をひとくくりにした生態系そのものの呼び名だ。
宇宙から生態系がまるごと移動してきた怪獣というのは珍しい設定だが、よく考えれば私たち人類も同じようなものかもしれない。一人の宇宙飛行士が異星に降り立ったとしよう。異星生物の目に映る人間は、37兆個もの細胞が寄り集まり、多くのウイルスが遺伝子に入り込み、腸の中や体のあちこちに数百兆の細菌が棲みつき、ミトコンドリアのように体の一部と化してしまった生物も宿す、集合体のような生き物だ。毎日ヨーグルトを食べて、ビフィズス菌の補充に努めている人も多いだろう。私たちが繁殖できるのも、遠い昔に体内に入ったウイルスの力が働いているからだ。
怪獣映画には珍しい奇妙な生物に見えるレギオンは、人間を含めた生物全般の誇張に過ぎない。
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『宇宙の戦士』(映画『スターシップ・トゥルーパーズ』の原作)でも敵は虫型の異星生物だった。意志の疎通ができない虫が相手なら、殲滅戦を繰り広げても良心の呵責を覚えなくていいからだろう。
しかし、虫と心を通わす姫を主人公にした『風の谷のナウシカ』の登場は、虫だってむやみに殺してはいけないことに気づかせた。それでも殲滅戦を描く映画は、戦争相手のことを殺されても仕方がないほど残酷な者として描写するか、そもそも作り手の思慮が足りないかだ。
ところが『ガメラ2 レギオン襲来』では、明確な理由の下に殲滅戦が繰り広げられる。その理由こそ、レギオンの設定でもっとも面白く、強烈な特徴である。
レギオンの生態系は、地球の生物と相容れないのだ。レギオンは増殖の過程で大量の酸素を発生させる。そんな高濃度の酸素の中では、人間をはじめ地球上の多くの生物が生きられない。一方、レギオンは酸素を発生させなければ増殖できずに死滅する。
ここには、良心だの理解し合うだのといった、人間が好きな概念の入る余地はない。生きる上で必要な環境が異なるのだから、共存は不可能なのだ。
怪獣怪人と戦う映画や特撮ドラマには、ときに「怪獣だって生きているんだ」とか「戦うことしかできないのか」という問いかけが投げかけられる。作品づくりに真摯であれば、どこかでその問いに向き合わざるを得ない。
しかし本作は、そんな問いかけさえできない世界を描いて衝撃的だ。異種の生態系が出会うとき、一方は滅びざるを得ないのだ。
地球の歴史で最大級の環境破壊は、27億年前頃からシアノバクテリアがはじめた酸素の生成だ。
地球に生命が誕生したのは40億年前といわれる。それから長いあいだ、大量の二酸化炭素に包まれた地球で多くの生物が栄えてきた。ところが光合成を行うシアノバクテリアが出現して、大事な二酸化炭素を減少させ、せっせと酸素を吐き出した。
本作の科学考察を担当した鹿野司氏はパンフレットに次のように書いている。
---
この地球環境の激変は、それ以前に地球で繁栄してきた生物にとっては大打撃となった。それ以前の生物は嫌気性で、酸素は猛毒になる。つまり彼らは、猛毒を巻き散らし環境を破壊する新種の生物によって、10億年の繁栄の歴史の舞台から引きずり降ろされてしまったわけだ。
---
やがて酸素は大気の約20%を占めるまでに増えてしまった。地球は酸素に汚染されたのである。
しかも酸素に覆われた地球には、酸素を呼吸する生物なんてものまで誕生した。彼らは今も我が物顔で地球を歩き回っている。
20億年以上前に酸素に耐え切れず死滅した大量の生物たちには悪いが、人間も酸素呼吸生物の一員だから、酸素のない地球に戻してあげるわけにはいかない。一方で、酸素が増えすぎると人間もその毒に耐えられないから、酸素は大気の20%程度にとどまっていてほしい。
塩分濃度が3%程度の海に住む生物は濃度が30%の死海では生きられないが、その死海を好んで棲む生物もいる。同様に、酸素の濃度が高まればそれを好む生物が繁栄するだろうが、そのとき私たちは死に絶えている。
わがままなようだが、20%程度の酸素濃度に最適化してしまった私たちは、融通を利かせられないのだ。
レギオンとの戦いは、酸素濃度の上昇を食い止めることでもある。前作『ガメラ 大怪獣空中決戦』では森林伐採や二酸化炭素の増加を危惧するセリフがあったけれど、本作では逆に酸素の増加を心配することで、私たちがいかに微妙なバランスの上に生きているかをあぶり出す。
私が本作を日本SF映画の最高峰だと思うゆえんだ。
映像技術はこれからも進歩するだろうし、驚くべき映像で観客を沸かせる映画が公開されていくだろう。だが、人類と地球上の生物を、地球外生物と効果的に対比することでキッチリと描き出し、地球の環境についてこれほど深く考えさせる映画はまたとあるまい。

前回も触れたように、私は怪獣映画を次のような分類で考えている。
1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『大怪獣ガメラ』等
2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』等
3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:二作目以降の昭和ガメラシリーズやゴジラvsシリーズ等
すべての怪獣映画がこの三つに分類できるわけではないし、中間に位置するものもあるが、大雑把にくくればこんなところだと思う。人気シリーズは三番目のパターンになりがちで、敵怪獣に新味を出すことでしかアピールできなくなってしまうことが多い。
それも仕方がないとは思うけれど、『ガメラ2 レギオン襲来』が凄いのは、一見すると三番目のパターンのようでありながら、実質は一番目のパターンで作られていることだ。
本作の登場人物たちは、ガメラなんかそっちのけだ。レギオンの正体を暴き、その被害を少なくすることにかかりきりだ。この映画が描くのは異なる生態系のぶつかり合いだから、それはレギオン対地球生物全体の戦いなのだ。自衛隊も民間人もそしてガメラも、レギオンを食い止めようとする一員に過ぎない。
前作『ガメラ 大怪獣空中決戦』がシリーズ第一作なのに二番目のパターンだったことには驚いたが、その続編となるシリーズ第二作に一番目のパターンを持ってきたのも驚きだ。通常は単発の映画(続編が作られて、結果的にシリーズ第一作になることはある)で行うものだろう。
こんなことができたのも、レギオンの設定が緻密で、工夫が凝らされていたからだ。単に宇宙から来た怪獣というだけではこうはいかない。その生態や共生関係や、地球に来たら起こるだろう現象の考察と、ストーリーとテーマとがしっかり噛み合い、精緻に構想されたからこそ、この大胆な作劇が可能となったのだ。
前作はダイナミックな面白さに秀でていたが、本作は完成度の高さで他の追随を許さない。
封切から20年を経て、その思いをますます強くした。
(次回「『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の後はどうなる?」につづく)
[*] 「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して、週替わりで4K版三作の上映とトークショーが行われた。
登壇者は以下のとおり。文中のトークショーの内容は記憶を頼りに書いているので、思い違いがあったらご容赦願いたい。
2016年7月6日 主演女優&監督トークショー
金子修介監督、中山忍さん
2016年7月13日 スーツアクタートークショー
第一作ガメラの真鍋尚晃氏、第二作ガメラと第三作イリスの大橋明氏、第三作ガメラの福沢博文氏
特撮助監督でギニョリストも務めた神谷誠氏
2016年7月19日 「ガメラ時代と現在~特撮表現の移り変わり~」
撮影の村川聡氏、視覚効果の松本肇氏
平成ガメラ三部作公開時は中高生だったという田口清隆氏(『ラブ&ピース』特技監督、『劇場版 ウルトラマンX』監督)

監督/金子修介 脚本/伊藤和典 特撮監督/樋口真嗣
出演/永島敏行 水野美紀 吹越満 石橋保 藤谷文子 川津祐介 沖田浩之 螢雪次朗 長谷川初範 渡辺裕之 ラサール石井 田口トモロヲ 小林昭二
日本公開/1996年7月13日
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『ガメラ 大怪獣空中決戦』の衝撃とゴジラシリーズ
![ガメラ 大怪獣空中決戦 大映特撮 THE BEST [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81-xKBtV0EL._SL160_.jpg)
それをとりわけ強く感じるのが『ガメラ 大怪獣空中決戦』だ。この映画の持つ力強さ、感動、カタルシスは、ちょっと他では味わえない。
この映画の魅力はたくさんあるが、公開時に一番驚いたのは仰ぎ見る映像の多さだった。怪獣は見上げるほど大きい存在なのに、それまでの怪獣映画ではスタジオに作ったミニチュアのセットをのしのし歩くパターンが多く、天井が映り込んでしまうためかカメラが上に向けられることはほとんどない……と思っていたら、この映画は見上げるショットの連発だった。ギャオスもガメラも人間の目の高さから見上げる映像ばかり。しかも視界(スクリーン)からはみ出す大きさだ。ガメラが天高く昇っていく映像なんて、ひっくり返るほど驚いた。
「(特技監督の)樋口さんは絵コンテを描いてた人なんで」本作の特撮助監督だった神谷誠氏はトークショー[*]で口にした。「なんで絵コンテどおりに撮らないんだ、と云っていて。『こんなの撮れない』と云われて、じゃあって自分でやりはじめた人だから。」
今ならクリーチャーも背景もCGIにすればどんなアングルでも撮れるのかもしれないが、当時は見たこともなかった構図の連続にたまげたものだ。そんな「怪獣映画じゃ無理だよね」という思い込みを蹴散らしてくれたのが、『ガメラ 大怪獣空中決戦』の凄さだった。
豪勢なストーリーにも痺れてしまう。
とうぜんベースは1967年公開の『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』であり、ギャオスが光に弱いことや足をちぎって逃げるところなど多くの要素が本作に受け継がれている。だが、プロットの大枠はゴジラ映画史上(日本怪獣映画史上)最大のヒット作『キングコング対ゴジラ』(1962年)をなぞったものだろう。
一見、関係なさそうな謎の環礁(ガメラ側)の話と怪鳥(ギャオス側)の話が交互に映し出され、遂に福岡ドームで両者が激突。戦いは一度では決着がつかず、次のラウンドへ持ち越される……という流れは、キングコングとゴジラの戦いそのままだ。
他ならぬ『キングコング対ゴジラ』を下敷きにするとは、まったく感心してしまう。
そもそも『キング・コング』(1933年)にしろ『ゴジラ』(1954年)にしろ、キングコング自身、ゴジラ自身が驚異的な存在なのだから、対戦相手なんて必要なかった。大暴れするモンスターを描けば映画になった。『キングコング』には恐竜が、『ゴジラの逆襲』(1955年)にはアンギラスが登場して戦ったが、彼らは時代劇で云えば斬られ役。あっさり負けてコングやゴジラを引き立てるだけだった。『空の大怪獣 ラドン』(1956年)にしろ『モスラ』(1961年)にしろ、映画の中心はラドンやモスラの出現そのものだった。
![キングコング対ゴジラ 【60周年記念版】 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81xAPFjCqJL._SL160_.jpg)
その大ヒットに気を良くしたか、東宝はこれまた主役級のモスラをゴジラと対戦させる『モスラ対ゴジラ』(1964年)を作り、対戦ものの量産時代に突入していく。
かつて大スターの共演を意味した対戦ものも、『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』や『ゴジラ対メガロ』に至ると、主役のゴジラが斬られ役をなぎ倒すような映画になってしまった。それは第二作『ゴジラの逆襲』と同じ「ゴジラ一強時代」に戻ったことを意味する。
そんな風にゴジラシリーズを眺めていた私にとって、平成にガメラ映画を復活させるその*第一作*に『キングコング対ゴジラ』のプロットを持ってくるとは驚きだった。『キングコング対ゴジラ』は第一作用の話じゃないのだから。それは勝新太郎と三船敏郎が共演した『座頭市と用心棒』のような、アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドが共演した『ボルサリーノ』のような、すでに名のある二大スターのどちらの顔も立てるためのプロットなのだ。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』の作り手がひとひねりしたのは、ガメラとギャオスのどちらも無名の状態からはじめたことだ。ゴジラシリーズが何度リブートしても1954年の第一作だけは無視できない(平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)もミレニアムシリーズも第一作の続きとしてはじまった)のとは大違いだ。ガメラもギャオスも長年にわたり愛されてきた人気怪獣だが、過去はなかったことにして、本作では人知れぬ謎の環礁と正体不明の怪鳥から説き起こしている。ストーリーが進むにつれて、両者はスターとしての存在感を身につけていき、クライマックスではともに貫禄たっぷりになって対峙する。
観客の興味が一方に偏らないように配慮したバランス感覚が素晴らしい。
そうはいっても、主役がガメラであることは誰もが知っている。その分を割り引くためか、本作では、ガメラがややぞんざいにいきなり巨大な姿を現すのに対して、ギャオスのほうは幼体時からじっくり丁寧に成長過程を描写する。さらにガメラを巡ってはアトランティスだのオリハルコンだのルーン文字だのとファンタジー等の定番と云える(現実味のない)用語を散りばめていながら、ギャオスに関しては遺伝子の型や繁殖方法に迫ることでリアルな存在として描き出す。
この異なるアプローチにより、ギャオスにも主役のガメラに対抗できるほどの存在感が備わり、クライマックスの対決シーンが盛り上がる。
![大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス 大映特撮 THE BEST [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91LOC08xenL._SL160_.jpg)
実に巧い展開だ。計算されつくした脚本に頭が下がる。
もちろん、いくらガメラとギャオスが互角といっても、これはガメラ映画なのだから、ガメラは特別な存在として観客に受け入れられなければならない。
そこで本作では、藤谷文子さんがガメラと心を通わしてガメラとシンクロする少女浅黄(あさぎ)を演じる。観客は浅黄に感情移入しながら、間接的にガメラにも感情移入する。ガメラが傷つけば浅黄も傷つき、痛々しい少女の姿は観客の心を揺さぶってくる。
これはテレビアニメ『マジンガーZ』と同じ手法だ。本来、機械でしかないマジンガーZは壊れようが停止しようが視聴者に関係ないはずだ。しかし、搭乗者の兜甲児が絶叫したり苦しんだりすることで、マジンガーZのダメージが兜甲児のダメージとして感じられ、視聴者は兜甲児を介してマジンガーZの"痛み"を知る。
同じように、本作の観客は浅黄を通してガメラの痛みを共有する。そしてガメラとギャオスの存在感が同等でも、やっぱりガメラを応援したくなる。
こうして書いていると、改めてこの映画の素晴らしさに圧倒される。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』の公開時は知る由もなかったが、続く第二作、第三作で浅黄がガメラと精神感応できなくなり、徐々にガメラとの距離が開いていくのも、シリーズを俯瞰すると泣かせる展開だ。
こんな緻密な脚本を前にしたら、削ったりできるものじゃない。
2016年7月6日のトークショー[*]で、金子修介監督はプロデューサーから「脚本が長い」と云われたことを明かした。「プロデューサーとは必ずそう云うものですが」と断りながら、金子監督は脚本を削りたくないので、できるだけ短く撮って95分に収めたと語った。
云われてみればセリフのテンポが速いし、ショットはすぐに切り替わる。95分にこんなに詰め込むなんて普通じゃない。
まるで黒澤明の『椿三十郎』だ。黒澤版『椿三十郎』は、登場人物がみんな(聞き取れないくらい)早口でまくし立て、ポンポン場面が飛んで、盛りだくさんの内容なのに98分で終わってしまう。同じ脚本でも、森田芳光監督のリメイク版は119分だ。あの内容なら119分になるのはもっともだと思うけれど、面白いのは断然黒澤版。『ガメラ 大怪獣空中決戦』もそんな勢いのある映画だった。


半減期とは、ざっくり云えば、ある物質が崩壊して(放射線を出して)、その半分が別の物質に変わるまでの期間だ。このように崩壊する物質(放射線を出す物質)を放射性物質と呼ぶ。放射性物質には様々な種類があり、私たちが日常的に接しているものもある(人体にも含まれている)。
半減期が長いということは、崩壊しにくい(放射線を出しにくい)わけだ。火にたとえれば、半減期が長いのは弱火でチョロチョロといつまでも燃えてるようなものだろう。半減期が短いのは、一気に焼き尽くす大火にたとえられるかもしれない。どちらをどの程度危険視するかは、火を扱う状況によろう。劇中の説明は、まるで永遠に続く大火のようだった。
2万4千年どころか何億年経っても人体に有害な物質だってあるのに、ことさらプルトニウムに注目するのはバランスが悪いように感じられた。
そんな細かいことを気にしていた私が驚かされたのが『ガメラ2 レギオン襲来』だった。
(次回「『ガメラ2 レギオン襲来』が最高峰なわけ」につづく)
[*] 「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して、週替わりで4K版三作の上映とトークショーが行われた。
登壇者は以下のとおり。文中のトークショーの内容は記憶を頼りに書いているので、思い違いがあったらご容赦願いたい。
2016年7月6日 主演女優&監督トークショー
金子修介監督、中山忍さん
2016年7月13日 スーツアクタートークショー
第一作ガメラの真鍋尚晃氏、第二作ガメラと第三作イリスの大橋明氏、第三作ガメラの福沢博文氏
特撮助監督でギニョリストも務めた神谷誠氏
2016年7月19日 「ガメラ時代と現在~特撮表現の移り変わり~」
撮影の村川聡氏、視覚効果の松本肇氏
平成ガメラ三部作公開時は中高生だったという田口清隆氏(『ラブ&ピース』特技監督、『劇場版 ウルトラマンX』監督)

監督/金子修介 脚本/伊藤和典 特撮監督/樋口真嗣
出演/中山忍 伊原剛志 藤谷文子 本田博太郎 螢雪次朗 小野寺昭 長谷川初範 本郷功次郎 久保明 渡辺裕之 松尾貴史 袴田吉彦 風吹ジュン 石井トミコ 渡辺哲
日本公開/1995年3月11日
ジャンル/[SF] [特撮]

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【genre : 映画】