『天空の蜂』 刺せば解決するのか

天空の蜂 豪華版(3枚組) [Blu-ray] 素晴らしい!
 あまりの面白さに度肝を抜かれた。原発、軍需産業、自衛隊の災害派遣等、タイムリーな題材の濃縮に驚かされる。
 『天空の蜂』が公開されたのは2015年9月12日。前々日に栃木・茨城・宮城を襲った大雨と鬼怒川の堤防決壊に日本中が衝撃を受けたときだった。
 タイムリーなだけに、ちゃちな作りの映画なら観客に見透かされてしまう。なにしろ観客は、映画公開の前日、前々日に自衛隊のヘリによる現実の救出劇を目撃したばかりなのだ。にもかかわらず、『天空の蜂』の自衛隊による救出作業は手に汗握った。ハラハラドキドキしっ放しだった。見事な完成度だ。

 原発の問題や軍需産業の扱いにも感心した。
 これらは作り手の主義主張が出やすい題材だ。問題の複雑さや理解の難しさのために、主義主張がなければ敬遠しがちだし、主義主張があると描写が一方的一面的になりがちだ。あえて原発問題に手を出したがために、作り手の無知や不勉強をさらしてしまうこともある。
 その点、本作は難しい題材に挑戦して、思慮深く乗り切ったと思う。
 原子力産業に従事する人のプロ意識や危機に際しての心意気を描きつつ、マイナスの面も描写する。軍需産業に働く人に理想を語らせるとともに、その欺瞞も指摘する。どんなことにも光と影の両面があるのを忘れずに、それぞれの面を代表するキャラクターを配置して、まんべんなくスポットを当てている。

 公式サイトの製作チームのコメントにも、「この映画は様々なキャラクターが登場しますが、大切にしたのはそれぞれの人物の立場と思い、そして行動を丁寧に描く事でした。」とある。

 私たちは物事の白黒をつけようとしたり、是非を論じたりしがちだ。「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができないのが日本的思考の弱点だといわれる。
 竹中正治氏は先の大戦と戦後の議論を振り返り、「原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。」と指摘する。

 しかし、世の中の諸問題は本当に白黒つけられるものだろうか。
 善か悪か、安全か危険か、ゼロか100か。物事を二項対立で捉えれば簡単だ。どちらかの陣営に与して、相手をやっつければ気持ちがいい。だが、現実はそうはいかないし、それでは創作もできない。
 映画監督・テレビディレクターの是枝裕和氏は、かつて行政の不備を告発するドキュメンタリーを作ろうとして、頭の中にある二項対立の構図に映像をはめ込むべく取材したという。だが、是枝氏が出くわしたのは、そんな構図を壊す事件だった。
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世の中は何と複雑だろうと思わされました。分かりきった構図で切り取ろうとした事件の背景には、二項対立では描ききれない深い矛盾が闇のように横たわっているのだと。
(略)
僕は、このドキュメンタリーの取材を通じて、自分が想定した「答え合わせ」をすることよりも、自分が見知らぬことを発見し、常識を壊されてしまうことこそが、新たなモチベーションになると感じたのです。そして、映像作品を創る初期の段階でこの体験ができたことは、今でもラッキーだったと思っています。
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 是枝氏のような体験をできた──気づけた──創作者は幸せだ。
 残念ながら二項対立から脱却できず、「○○が悪い」「○○はかわいそう」といったあらかじめ作った「答え」との「答え合わせ」に終わる作品は多い。

 『天空の蜂』の深い配慮とバランスの取れた構成は、第一に原作者東野圭吾氏の功績だろう。大学で電気工学を学び、民間企業の技術者としてキャリアを積んだ東野氏は、科学技術と産業への見識を備えているに違いない。
 そのバランスを損なわず、映画に仕上げたスタッフの力量にも敬服する。上映時間が限られる映画では、大鉈を振るって長大な原作を整理せざるを得ないものだが、本作のバランス感覚は見事である。

 堤幸彦監督は、「この作品でもって原発が良いとか悪いとか、自衛隊の新規の兵器の開発なり、もっと言えば、最近の防衛政策の変更を論じあってくれということでは全くありませんので、そこだけはご承知ください。」と語っている。
 堤監督の云うとおり、映画全体を観れば原発が良いとか悪いとか、自衛隊の兵器開発や防衛政策を論じるような、二項対立を煽る作品でないのは明らかだ。


天空の蜂 (講談社文庫) とりわけ面白く感じたのは、高速増殖炉の関係者が施設の安全性を説明する場面だ。
 関係者は、高速増殖炉「新陽」は戦闘機が落ちても平気だと主張する。ところがよくよく問いただしてみると、ミサイルを積まない訓練中の戦闘機を想定しているという。なんと欺瞞に満ちた答えだろう。
 こうした例は官民問わずよく見られる。経済が成長する想定で立てられた国家の方針、右肩上がりに業績が伸びる想定の企業の中期計画、イジメがないことになっている学校、老後資金に困らない想定で消費を続ける家庭……。劇中の欺瞞に満ちた答えを嗤えば、それは即座に私たちにはね返ってくるだろう。

 堤監督はこうも云う。
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私自身は原子力発電に関して個人的な見解はありますが、しかし映画化に当たっては、多くの方に喜んでいただく作品を作るという立場において、原発の良い悪いを申し上げる立場にはまったくありません
(略)
お金を払って観ていただくものですから、緊迫感もあり、面白くもあり、同時に家族の話でもある。それぞれの人が背負っているだろう職業意識だったり、あるいは人と人との関係だったり、そういうことを見ていただくための作品でもあります。ただ、背景として日本の現実がここには横たわっているんだよということを感じていただければ幸いです。
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 そして本作は、劇中人物の口を借りて「警戒心を持てよ」「それを考えないこと自体が罪なのだ」と訴える。
 東日本大震災で福島第一原子力発電所に被害が生じたとき、「東京の電気を福島で発電しているとは知らなかった」というネットの書き込みを目にした。たいへん驚いたが、そんなものなのかもしれない。
 電気だけではない。一例として堤監督は『リスク対策.com』誌のインタビューで「今、たとえば毎日飲んでいる水はどこから来るのかは誰も意識しないわけです。特に子どもは蛇口をひねれば無尽蔵に出るものなんだと思っている。」と述べている。日本に住む人が飲んだり浴びたりしている水の多くは川を流れてきているのだが、ではたとえば東京都民はどの川の水を飲んでいるかご存じだろうか。利根川、多摩川、荒川と、東京を流れる川は幾つもあるが、どの川の水質や量が誰に影響するか知っているだろうか。

               

 現代の『天国と地獄』だ、と私は思った。
 黒澤明監督が1963年に発表した『天国と地獄』は、誘拐事件を扱った名作だ。世間を揺るがす卑劣な犯行、犯人と捜査陣との息詰まる攻防、そして犯人と被害者それぞれの人間像を通してあぶり出される社会の背景に横たわる問題。
 単なる勧善懲悪や追跡劇に留まらない本作もまた、現代版『天国と地獄』というべき第一級のサスペンスだ。

 目を引くのは、本作と『天国と地獄』とで子供の扱いが逆転していることだ。
 『天国と地獄』では誘拐されたのが他人の子でも身代金を払うのかが問われたが、本作では他人の子供がヘリに取り残される原作を、わざわざ主人公の子に変えている。多くの人物が錯綜する本作で、主人公に求心力を持たせるには有効な手立てといえる。

 物語の舞台を現場に限ったのも巧い。
 国家を揺るがす大事件ともなれば、内閣の動きや政財界の思惑等を描写して、この国を俯瞰したくなるところだが、本作は警察庁長官の記者会見がテレビで流れる程度で、カメラは現場を離れない。おかげで緊迫感が持続するとともに、現場ならではの真実味が強調された。
 書くべきところは緻密に描写し、他のところは思い切りよく省略する。脚本のメリハリが効いている。


 さて、本作の時代設定は1995年、阪神・淡路大震災の後である。1995年秋に発表された原作小説の設定をそのまま引き継いでいるのだが、映画を2015年に発表するからにはとうぜん2011年の東日本大震災に触れねばならない。東日本大震災の大津波による原発の被害が念頭にあっての、今回の映画化だろう。

 本作は最後に東日本大震災と結びつく。グッと来る場面だが、そこで原子力発電所の様子は描かれない。
 はたして、本作の犯人「天空の蜂」のひと刺しを受けて原発の事故対策は強化されたのか、それとも無為無策のまま2011年の震災を迎えたのか、あるいは蜂のひと刺しを恐れて何もかも捨て去ったのか。映画はあえて語らない。
 それは映画が示すことではなく、私たちが映画を離れて語り合うべき問題なのだ。


天空の蜂 豪華版(3枚組) [Blu-ray]天空の蜂』  [た行]
監督/堤幸彦  脚本/楠野一郎
出演/江口洋介 本木雅弘 仲間由紀恵 綾野剛 國村隼 柄本明 光石研 佐藤二朗 やべきょうすけ 手塚とおる 松島花 石橋けい 落合モトキ 永瀬匡 松田悟志 向井理 前川泰之 竹中直人 石橋蓮司
日本公開/2015年9月12日
ジャンル/[サスペンス] [アクション] [ドラマ] [ミステリー]
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【theme : サスペンス映画
【genre : 映画

tag : 堤幸彦江口洋介本木雅弘仲間由紀恵綾野剛國村隼柄本明光石研佐藤二朗やべきょうすけ

『ピクセル』 いやされる大人の童話

ピクセル ブルーレイ プレミアム・エディション(初回限定版) [Blu-ray] ピクセルじゃなくてボクセルだろ、というツッコミはなしだ。
 『ピクセル』には立方体が集まったエネルギー体が登場し、地球の物体を小さな立方体に分解してしまう。だから2次元の画素を表すピクセル(picture + element)よりも、3次元の立体を表すボクセル(volume + pixel)のほうが内容に即している。
 作り手だってそれは百も承知だろうが、物語の背景にあるのは1982年当時のドット絵主体のアーケードゲームだから、作品を象徴する言葉としてピクセルが適切だと判断したのだろう。

 映画『ピクセル』は1982年の夏からはじまる。チープ・トリックの名曲『サレンダー』の軽快なメロディーに乗せて、アーケードゲームの開始画面のようなクレジットが映し出される。最高にイカしたオープニングだ。
 アーケードゲームの対戦シーンの曲がクイーンの『ウィ・ウィル・ロック・ユー』なのも、これ以上ない選曲だ(正確にはフォンリヒテンがアレンジしたバージョンだが)。

 チープ・トリックもクイーンも、なにやら映画『ピクセル』を象徴するようだ。
 1978年に発表された『サレンダー』は日本でこそチャートの3位に上るほどヒットしたが、アメリカ本国では62位止まり。チープ・トリックはまず日本で人気が出て、それが米国に波及したバンドだ。今や『サレンダー』はローリング・ストーン誌が選出するオールタイム・グレイテスト・ソング500の471位にランクインするというのに。クイーンもイギリス本国の評価が高いとはいえない頃から日本で人気を得たバンドだ。
 チープ・トリックもクイーンも好きな私は、早くからこれらのバンドを支持した日本のリスナーのセンスに感服している。
 『ピクセル』は米国の映画評価サイトRotten Tomatoesで肯定的な評価が17%しかなく、平均点は10点満点で3.8点足らずだ。別の映画評価サイトMetacriticでも100点満点中27点しかとれていない(2015年9月23日現在)。いずれも評論家による評価である。これまでもRotten TomatoesやMetacriticの評価には首を捻ることがあったけれど、これにはまったく賛同できない。一方、日本で『ピクセル』は観客動員数TOP10で初登場1位に輝いた。日本の観客のセンスに期待して、好成績を願うところだ。


ポスター アクリルフォトスタンド入り A4 パターンC ピクセル 光沢プリント ご機嫌なはじまり方をした『ピクセル』は、1982年からすぐに現代へ、明るい夏の思い出からシリアスな現在に舞台を移す。
 ゲームに興じていた13歳の元気な少年たちは、今や46歳の中年男だ。才能溢れるゲーマーだったサムは、妻に捨てられたしがない電気業者。サムと世界一の座を争ったエディは刑務所暮らしに落ちぶれている。神童と呼ばれたラドローは3次元の友人がおらず、2次元の美少女を心の支えに生きている。
 コンピューターゲームが得意ではなく、唯一クレーンゲームの腕が冴えていたウィルは米国大統領に就任したが、何をやっても非難される。文章の誤読が多いと、まるで日本国の第92代内閣総理大臣・麻生太郎氏のようなバッシングを受けている。本作のヒロイン、ヴァイオレットも登場していきなり夫に捨てられている。
 本作はコメディだから軽いノリを維持するが、主人公たちの抱えるものを思えば悲哀を感じないではいられない。

 もしもここで思い当たるものが一切ないとか全然身につまされないというのなら――自身はもとより友人知人に離婚した人は一人もいないとか、人の羨む地位について失敗なんてしたことがないとか、いつでも友人に囲まれた人気者だというのなら――それはとても幸せな人だ。たぶん、中年男女が悪戦苦闘する本作を観ても面白くないに違いない。そこまでリア充じゃない大人には、少年時代に得意だったゲームの腕ぐらいしか誇れるものがない中年たちに切なさを覚えるだろう。

 とはいえ、本作は観客をしんみりさせるわけではない。
 異星人とのファーストコンタクトを描く本作は、ふざけたビジュアルに反して意外やまともなSFだ。
 人類がかつて宇宙に発した探査機やらテレビ放映やらが、勘違いした異星人を招き寄せてしまう作品といえば、『スター・トレック』(1979年)等の先行事例があるが、本作は勘違い異星人が一方的に押し付けた理不尽なルールに全人類が翻弄されるところにSF的な面白さがある。
 元をただせばそのルールも人類が考えたものであるという皮肉。そもそも人類が発した友好のメッセージを、友好的に解釈してくれるだろうと勝手に思い込んでいた人類の傲慢。SFならではの価値観の転倒が随所に織り込まれ、笑いとともに胸に響く。

 しかも、地球の命運をかけて異星人とゲーム対決する本作は、全編これ愉快痛快なアホらしいアクションでいっぱいだ。本来は矛盾している「楽しいアクション」の見事な実現に私は感心した。
 アクションシーンは往々にして戦いのシーンである。アクション映画のほとんどは、他者を攻撃したり他者に攻撃されたりの争いごとを描いている。アクション映画が爽快なのは、ストーリーを計算して敵をぶちのめす必然性を高めているからであり、アクションだけを切り出して見ればしょせんは殴り合い殺し合いだ。あまり気持ちのいいものではない。ジャッキー・チェンのアクションは楽しいが、あれはアクションの中にコミカルな動きを取り入れたからで、アクションそのものが内包する痛みや他者への攻撃性は減じていない。
 アクションを志向すればヒューマニズムが損なわれる二律背反を前にして、黒澤明や宮崎駿のような完全主義者がアクション映画を撮らなくなるのはとうぜんだろう。それらの映画作家がヒューマニズムを犠牲にするはずはないのだから。

ピクセル Soundtrack その点、本作はゲームキャラが攻めてくるというバカバカしさに徹することで、ヒューマニズムに抵触しないアクションシーンを実現した。
 単に異星人というだけでは、こうはいかない。たとえ地球人ではなくても、彼らが尊い命を持つことに変わりはないし、敵異星人が敵国の人間のメタファーであることからは逃れられない。異星人との激戦を描いた『世界侵略:ロサンゼルス決戦』が、日本軍のアメリカ本土攻撃を発想の原点としていたように。
 本作で攻撃してくるのは、ゲームキャラクターを模したエネルギー体だ。コンピューターゲームのルールにしたがって振る舞うので、光線銃に撃たれると活動を停止するが、戦いが終わればすべては元に戻る。こんなご都合主義が許されるのも、ゲームキャラという設定だからだ。ほどよくリアリティを削ぎながら笑いとバカバカしさを補強した作品世界だからこそ、「楽しいアクション」を実現できる。

 これはゲームクリエイターの岩谷徹氏が1980年に発表したゲーム「パックマン」の開発コンセプトにも通じている。凶暴なエイリアンと戦うゲームが多かった時代、岩谷氏は女性やカップルが楽しめるゲームを作ろうとして、可愛いパックマンがクッキーを食べるゲームに取り組んだ。現在は東京工芸大学の教授を務める岩谷氏が『ピクセル』の劇中人物としてパックマン戦に登場するのも、「パックマン」の人気だけでなく、そのコンセプトや開発の姿勢そのものが尊敬されているからだろう。
 劇中で岩谷徹氏を演じるのは、岩谷氏に似た人を探すオーディションで受かった日系カナダ人俳優デニス・アキヤマさんだが、岩谷氏本人の姿もゲーム機を修理するエンジニアとして見ることができる。

 もっとも、『ピクセル』は緩くて楽しいだけの映画ではない。老若男女誰でも楽しめる本作だが、ピリリと辛いのは大人向けを意識しているからだろう。
 世間からこき下ろされる米国大統領や、意味不明の発言をする英国首相、頭が固くて役に立たない司令官等、社会的には成功者と目される人の本作での扱いは辛辣だ。陰謀論者で頭がおかしいと思われているラドローが真実を話し、真面目そうな軍人が嘘をつくのも、そして群集がラドローの真実よりも軍人の嘘を信じるのも、ずいぶん皮肉な展開である。
 米国人が戦いに臨もうとしてるのに、日本人が話し合いで解決しようと丸腰でしゃしゃり出て、あっさり敵にやられてしまうのは風刺が効き過ぎかもしれない。本作が公開された頃の日本は、期せずして国際平和共同対処事態法と平和安全法制整備法を国会で審議している最中だった。

 随所に皮肉が見られるが、総じて『ピクセル』は大人を癒してくれる映画だ。
 しょぼくれた中年男女の活躍で事態は丸く収まり、彼らはそれぞれのハッピーエンドを迎える。これは『テッド』と同じく、だらしない大人になったしまったオタクたちに花を持たせる映画なのだ。
 もちろん大人の観客は、こんなうまい話がないことくらい判っている。だからこそ、映画ならではの夢を見せる心配りにじんと来るのだろう。
 そして、人生は何度でも再チャレンジできるというポジティブなメッセージに勇気づけられる。


ピクセル ブルーレイ プレミアム・エディション(初回限定版) [Blu-ray]ピクセル』  [は行]
監督・制作/クリス・コロンバス
出演・制作/アダム・サンドラー
出演/ケヴィン・ジェームズ ミシェル・モナハン ピーター・ディンクレイジ ジョシュ・ギャッド ブライアン・コックス デニス・アキヤマ ショーン・ビーン アシュレイ・ベンソン
日本公開/2015年9月12日
ジャンル/[コメディ] [アクション] [SF]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : クリス・コロンバスアダム・サンドラーケヴィン・ジェームズミシェル・モナハンピーター・ディンクレイジジョシュ・ギャッドブライアン・コックスデニス・アキヤマショーン・ビーンアシュレイ・ベンソン

『キングスマン』 知性の本質とは?

KINGSMAN / キングスマン ブルーレイ プレミアム・エディション (初回限定版)(日本オリジナルデザイン ダブルジャケット仕様スチールブック&ブロマイド5枚セット+Kingsmanオリジナル封筒) [Steelbook] [Blu-ray] 「スパイ映画は好きか?」
 「最近のはシリアスで好みじゃないが、昔のは素晴らしい。荒唐無稽でね。」
 「古いボンド映画とかな。」

 そう、そうなのだ。最近の007シリーズへの挑戦状ともいえる『キングスマン』の会話を聞いて、私は膝を打ちたくなった。
 マシュー・ヴォーン監督が仕掛けたのは会話ばかりではない。荒唐無稽でケレン味たっぷりの『キングスマン』は、全編が古いボンド映画のような痺れる作品だ。

 今のボンド映画も面白い。他のスパイ映画、たとえばミッション:インポッシブルシリーズだって面白い。テンポの良さといい、アクションの迫力といい、総じて新作のほうが古い映画を上回っていると思う。
 それは間違いないのだが、足りないなぁと思うものもある。それが荒唐無稽さだ。
 仕方がないのだろう。アクションの凄味を出すにはリアリティが欠かせない。何も持たない主人公が崖から突き落とされたら観客は驚くだろうが、万能の秘密道具を体中に仕込んだ主人公が突き落とされてもハラハラしない。アクションを重視すればするほど、荒唐無稽さは引っ込めざるを得ない。

 それに、かつて007シリーズは荒唐無稽になり過ぎた。シリーズ第11作『007/ムーンレイカー』で宇宙戦争になったときは、ボンド映画にここまで求めていないよと思ったものだ。
 007が洒落たスーツやタキシードに身を包み、美食にこだわっているあいだに、シルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーやブルース・ウィリスが汗と汚れにまみれたボロボロのヒーローを演じて喝采を浴びるようになった。時流に合わせてリアルなアクションを志向した第16作『007/消されたライセンス』では、007が殺人許可証を剥奪され、ボロボロになりながら孤軍奮闘してみた。滅法面白かったけれど、それがボンド映画なのかという疑問は残った。

 ボンド映画のリニューアルは裏目に出ることが多い気がする。だが、ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンド役に就いた第21作『007/カジノ・ロワイヤル』(2006年)以降は、シリアス路線が功を奏したようだ。
 バットマンもスーパーマンもリブートのたびにシリアスになる御時世だ。荒唐無稽さはファンタジー映画やSF映画に譲り、リアルな社会が舞台の映画はシリアスを極めたほうが観客には受けるのかもしれない。

 それでも荒唐無稽だった頃のボンド映画が好きな人はいる。アニメーション作家のクリス・ルノーとピエール・コフィンは怪盗グルーシリーズで60年代のボンド映画の荒唐無稽さの復活を試み、とうとう『ミニオンズ』では60年代を舞台にしてしまった。
 同様に60年代を舞台にボンド映画の荒唐無稽さを復活させたのが、マシュー・ヴォーン監督の『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』だ。SF映画の枠組みを利用しながら、ヴォーン監督が目指したのは冷戦下のスパイ映画だった。

ポスター A4 パターンE キングスマン 光沢プリント そして『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』の続編『X-MEN:フューチャー&パスト』の監督を断ってまで作り上げたのが、正真正銘のスパイアクション『キングスマン』だ。
 ヴォーン監督はこの作品でファンタジーやSFの衣をまとったりせず、60年代の話だと云い訳もせず、現代を舞台に本気で荒唐無稽なスパイアクションに挑んだ。
 登場するのは懐かしさ溢れるアイテムの数々だ。007シリーズ第2作『007/危機一発』(リバイバル時に『007/ロシアより愛をこめて』に改題)に出てきたのとそっくりな仕込みのある靴。同作の腕時計やブリーフ・ケースに対抗するように、本作では傘や万年筆が武器になる。義足の殺し屋ガゼルとの闘いに、『007/ゴールドフィンガー』に登場した殺人帽子のオッド・ジョブや『007/私を愛したスパイ』の義歯の男ジョーズを思い出す人もいるだろう。

 オマージュを捧げられるのはボンド映画だけではない。
 コリン・ファース演じる主人公はメガネの諜報員ハリー・ハート。メガネの諜報員ハリーといえば、秘密組織キングスマンのリーダー役のマイケル・ケインが『国際諜報局』で演じたハリー・パーマーのことだろう。
 ハリーに見込まれてキングスマン候補生になるゲイリー・"エグジー"・アンウィンの名は、ゲーリー・アンダーソン制作の特撮番組『ロンドン指令X』(原題『The Secret Service』)の主人公アンウィン神父からの借用だ(『キングスマン』の原題が『Kingsman: The Secret Service』でもあるし)。

007/ユア・アイズ・オンリー Extra tracks, Soundtrack, Limited Edition 脚本・監督を務めたマシュー・ヴォーンの意向をスタッフもよく理解している。
 プロダクションデザイナーのポール・カービーは、ロジャー・ムーアが主演した時代のボンド映画を求められたと述べている。
 宣伝スタッフの仕事もいい。スラリと伸びた女性の脚の向こうに主人公の全身が見えるポスターは、『007/ユア・アイズ・オンリー』のポスターのもじりであろう。しかも、ただ美脚が描かれた『007/ユア・アイズ・オンリー』と違い、本作のポスターにはガゼルの義足に仕込まれた殺人剣を強調する効果もある。

 特殊な小道具だけなら2011年の『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』にも登場した。ボンド映画のQほどではないが、ミッション:インポッシブルシリーズのベンジー・ダンは技術担当だ。怪盗グルーシリーズも秘密兵器にこと欠かなかった。
 だが、それでは私には不満だった。007シリーズでも、とりわけ『007は二度死ぬ』が好きな私には荒唐無稽さが足りなかった。だから本作の、飛行機が山の中に呑まれるシーンに感激した。
 山の中の秘密基地!悪の戦闘員たち!そうそう、コレなのだ。秘密兵器だけじゃダメなのだ。最後は秘密基地に乗り込んで、激しい戦闘を繰り広げなくては。海中とか宇宙とか秘密基地にもいろいろあるが、ロマンをかき立てられるのはやっぱり山だ。山の中をくり抜いた基地こそ悪役に相応しい。
 荒唐無稽さの絶妙なさじ加減に、私は感服つかまつった。


 さて、本作は痛快なスパイアクションなだけでなく、もう一つ骨太のテーマに貫かれている。
 「紳士」というテーマだ。
 007シリーズの原作者イアン・フレミングが、ジェームズ・ボンドに名優デヴィッド・ニーヴンをイメージしていたのは有名だ。『八十日間世界一周』の裕福な英国紳士役や『ピンクの豹』の泥棒紳士サー・チャールズ・リットン役で知られるデヴィッド・ニーヴンは、スマートで物腰の柔らかな、上流階級然とした人物だ(実際に彼は裕福な家に生まれ、英国王室をはじめ各国の王侯貴族が教育を受けるサンドハースト王立陸軍士官学校の出である)。イアン・フレミングはジェームズ・ボンドを紳士として考えていたのだろう。
 なのに初代ジェームズ・ボンドに起用されたのは、毛むくじゃらで目つきが鋭く獰猛そうなツラ構えの大男ショーン・コネリーだった。トラック運転手の父と掃除婦の母のあいだに生まれ、生協の牛乳配達をしていたショーン・コネリーは、およそデヴィッド・ニーヴンとは対極のイメージだ。

 本作の公式サイトは、ショーン・コネリーが007に起用されたエピソードが本作のきっかけだったと明かしている。
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 (本作の原作者)ミラーはある新聞記事について、ヴォーンに話した。その記事は、ジェームズ・ボンド映画の第1作『007/ドクター・ノオ』を監督したテレンス・ヤング監督が007の原作者であるイアン・フレミングの反対を押し切って、どうやってショーン・コネリーを起用したかを取り上げたものだった。
 フレミングが考えていたボンド役は、ジェームズ・メイソンやデヴィッド・ニーヴンのようなタイプだった。ミラーが言う。「ヤング監督は、エジンバラ出身のコネリーを紳士に仕立てなければならないことに気づき、撮影を始める前に、コネリーを自分が通っている紳士服の店やひいきにしているレストランへ連れて行き、食事の作法から、話し方、紳士的なスパイとしての着こなしまで徹底的に教え込んだんだ。」この話がきっかけとなって、『キングスマン』を製作する話は始まった
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 かつてマシュー・ヴォーン監督は、労働者階級のチンピラがどうして洗練されたスパイになったのかという物語をやりたくて『007』の企画を出したが、コンペで落ちてしまったという。『キングスマン』はヴォーン監督の復讐戦なのだと町山智浩氏は解説する。

 もちろん、仕立ての良い服を着て、レストランで作法に気をつければ紳士なわけではない。マシュー・ヴォーン監督は「紳士とは何か」を掘り下げなければならなかった。
 マシュー・ヴォーンはマンガ家マーク・ミラーを説得して『キングスマン』の舞台を米国から英国に変えさせ、コリン・ファースには三代目ジェームズ・ボンドとして七本ものボンド映画に出演したロジャー・ムーアよりもデヴィッド・ニーヴンを意識して役作りするように伝えた。デヴィッド・ニーヴンは本家007シリーズには起用されなかったものの、他社が作ったパロディ映画『007/カジノ・ロワイヤル』(1967年)にキャスティングされ、ナイトの称号を持つサー・ジェームズ・ボンドを演じている。この映画は無茶苦茶なコメディだが、紳士ジェームズ・ボンドとしては正しいイメージを表しているのかもしれない。

 マシュー・ヴォーンの考える紳士とは、単に上流階級や金持ちの家に生まれてなるものではない。高等教育を受ければよいわけでもない。
 それどころか本作は上流階級に極めて手厳しい。本作は、広い意味での上流階級が庶民の犠牲の上に理想の世界を作ろうとする話だ。だから上流階級はみんな敵だ。そこには金持ちや大物政治家や政府高官や大学教授や各界の名士が含まれている。本作はアメリカ映画ではなく、今なお身分制度が残るイギリスの映画だから、なおのこと上流階級への皮肉は辛辣だ。

 同時に労働者階級にも辛辣である。庶民のゲイリー・"エグジー"・アンウィンもその継父も取り巻き連中も、みんな粗野な荒くれ者に描かれる。継父の取り巻きたちは紳士のハリーによって容赦なくやっつけられてしまう。

 一方で"自由の国アメリカ"も厳しく批判する。アメリカ映画の悪役は英国風のアクセントで話すことが多い(つまり英国人)そうだが、本作の悪役――短絡的な発想を金の力で実現しようとするリッチモンド・ヴァレンタインは戯画化された米国人だ。
 金持ちばかりではない。本作はケンタッキーの教会に集まる偏狭な民衆の醜さをあらわにし、劇中で皆殺しにしてしまう。
 批判の矛先は四方八方、全方位的なのだ。

Kingsman: The Secret Service CD, Import この展開を目にして、私は反知性主義のことを考えていた。
 反知性主義(Anti-intellectualism)とは米国の歴史家リチャード・ホフスタッターが名付けたもので、既存の権威に立ち向かう思想のことだ。山形浩生氏は反知性主義をこんな風に説明する。
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大学いって勉強した博士様や学士様がえらいわけじゃない、いやむしろ、そういう人たちは象牙の塔に閉じこもり、現実との接点を失った空理空論にはしり、それなのに下々の連中を見下す。でもそんなのには価値はない。一般の人々にだって、いやかれらのほうがずっと知恵を持っている、という考え方だ。
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 金持ちや政治家を悪者扱いする映画は多い。
 だが、普通に大学で教鞭を執る教授をその一味とするのは珍しい。加えて、労働者階級から唯一キングスマン候補になったエグジーをバカにするのは名門大学卒のエリートたちだ。学業や知識でエグジーを圧倒する彼らは、しかし候補生に課された試練を乗り越えられずに次々脱落していく。まさに、下々の連中を見下す博士様や学士様がえらいわけじゃない、という映画なのだ。

 その点で、日本映画にはエグジーに先行するヒーローがいる。『男はつらいよ』シリーズの主人公、車寅次郎だ。寅さんは相手の男が医師や大学教授と判ると「てめえ、さしずめインテリだな!」と反発する。そして知識と教養を身につけたはずのインテリは、しばしば無学な寅さんに諭されたり元気づけられたりするのだ。

 かといって、反知性主義を肯定しよう、とはならないのが『キングスマン』のイカすところだ。
 反知性主義が強まり過ぎれば、営々と築かれた英知が否定され、衆愚に堕してしまいかねない。
 本作でうさん臭い牧師の説教を鵜呑みにして熱狂する民衆は、その悪しき例だろう。マシュー・ヴォーン監督は反知性主義の問題点も突いている。

 ここらへんの判りにくさは、日本語の問題もあるように思う。
 「知性」を英語で表現すれば「intellect」だが、知性の優れた人を表す「intellectual」の日本語訳は「知識人」になってしまう。でも「知識人」という言葉は、知性の優れた人ばかりでなく、豊富な知識を持つ人も指すように感じられる。
 知性に類する言葉を慎重に区別するのが田坂広志氏だ。
---
「知識」という言葉も、「知性」という言葉と混同して使われることが多い言葉ですが、世の中には、多くの「書物」を読み、該博な「知識」を身につけた人物を、「知性」を身につけた人間と思い込む傾向があります。
しかし、実は、どれほど該博な「知識」を身につけても、それが「知性」を身につけたことを意味するわけではないのですね。
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 そして田坂氏は、「知性」の本質は「知識」ではなく「智恵」である、と説明する。

 18世紀の米国では、牧師連合会が「ハーバードかイェールを卒業した者でなければ、教会では説教させない」と定めたことに対して、「あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない」と云い返すのが反知性主義の決めゼリフだったという。これはアンチ「知性」なのかアンチ「知識」なのか。

 ちなみに当ブログでは、特に必要がない限り、引用に際して発言者の肩書を書かないことにしている。たとえば田坂広志氏のことを「多摩大学大学院の田坂教授」とか「元内閣官房参与の田坂氏」と記述すれば引用文を権威づけられるかもしれない。しかし、そこに権威を感じて欲しくないのだ(肩書はリンク先を見れば判ることだし)。

 それはさておき、人はどうすれば紳士になれるのだろうか。
 キングスマン候補生になったエグジーに、先輩キングスマンのハリーは云う。「まず第一に我々は紳士だ。」
 エグジーはあわてて否定する。「僕はただの庶民だよ。」
 「ナンセンス。紳士であることは生まれとは関係ない。紳士とは学ぶものなのだ。」
 「どうやって?」
 「よろしい、最初のレッスンだ。君は椅子に座る前に許可を求めるべきだった。第二のレッスンは、きちんとしたマティーニの作り方だ。」
 こうしてエグジーは、あたかもショーン・コネリーがテレンス・ヤング監督の馴染みの店に連れて行かれたように、ハリーから紳士の教育を受ける。

【チラシ付き、映画パンフレット】キングスマン Kingsman: The Secret Service 劇中で何度も口にされるのが、「マナーが紳士を作る」という標語だ。
 これは英国の名門パブリックスクール、ウィンチェスター・カレッジのモットーである。日本での公開に当たり、「manners maketh man」の「man」を「紳士」と訳しているが、主人公が女性ならば「淑女」になるところだろう(ウィンチェスター・カレッジは男子校だけれど)。
 反知性主義の匂いのある本作だが、教育を軽んじるわけではない。権威づいたり、無学な者を見下すことを諌めているのであって、学びの重要性は強調している。「学ぶ」と「真似る」の語源が同じであることを考えれば、エグジーがハリーを真似るのは理にかなった行為といえるだろう。


 そして本作は、ありとあらゆる問題を飲み込んで、暴力の饗宴へと昇華する。
 ヴォーン監督の『キック・アス』を上回る盛大な暴力シーンが現れるが、ここで荒唐無稽なタッチが効いてくる。人体が切断されようと、頭が吹っ飛ばされようと、ほとんど血が流れないのだ。リアリズムを追及した作品ではないから、グロテスクなシーンですら美しく滑稽に描かれる。ここから感じられるのは、暴力の心地好さだ。

 米倉一哉氏は、グロテスクな漫画や映画を観賞するのは社会の平和にとって「いいこと」だと述べている。誰もが心に抱える「グロテスクなことや危険なことへの関心・興味」や「周囲への攻撃性」を、実生活で爆発させる前に昇華させたり発散させたりできるからだ。
 マシュー・ヴォーン監督の愉快で楽しい暴力シーンは、まさに攻撃性の発散に打ってつけだ。

 さらにヴォーン監督は、自分がグロテスクなことへの関心や周囲への攻撃性に呑みこまれておらず、メタな立場から俯瞰していることを「これは映画じゃない」というセリフで表明する。荒唐無稽な展開も、溢れる暴力も、映画だからいいじゃないかと云い訳せず、現実とのかかわりの中に位置づける。そんな覚悟が感じられるセリフだ。


 ところで、劇中、計画に支障を来したリッチモンド・ヴァレンタインは、「"E"か、こちらは"V"だ」と電話して、スペースX社のCEOイーロン・マスク(Elon Musk)に助けを求める
 映画『アイアンマン』の主人公のモデルといわれる天才発明家イーロン・マスクに敬意を表しているのだが、ヴァレンタインと仲が良いということは、この実在の人物もマイクロチップを埋め込んでいたのだろうか。


KINGSMAN / キングスマン ブルーレイ プレミアム・エディション(初回限定版) [Blu-ray]キングスマン』  [か行]
監督・制作・脚本/マシュー・ヴォーン  脚本/ジェーン・ゴールドマン
出演/コリン・ファース マイケル・ケイン タロン・エガートン マーク・ストロング ソフィア・ブテラ サミュエル・L・ジャクソン ソフィー・クックソン マーク・ハミル ハンナ・アルストロム
日本公開/2015年9月11日
ジャンル/[アクション]
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【genre : 映画

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『ルック・オブ・サイレンス』 正義の正体

映画 ルック・オブ・サイレンス パンフレット アクト・オブ・キリング やらせ

 ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』の記事を書いてから、そんな検索キーワードでアクセスされることが続いている。
 記事の中に「やらせ」という単語があるのは確かだが、私がその言葉を用いたのは『アクト・オブ・キリング』の中に実話に基づく映画づくりのシチュエーションが含まれていたからであり、このドキュメンタリーが「やらせ」というわけではない。
 だが、『アクト・オブ・キリング』に収められた極めて珍しい光景を、信じがたい観客もいるのだろう。自然な感情からこんな行動をとる人間がいるだろうか、これは「やらせ」ではあるまいか。そんな疑念が湧くのだろう。

 極めて珍しい光景――それは一人の人間の中で善悪がひっくり返る瞬間を捉えた映像だ。いままで善だと思っていたものが善ではないと気づき、悪だと思っていたものが悪ではないと気づいたとき、人がいかに激しいショックを受けるか。その瞬間を収めることで『アクト・オブ・キリング』は特異な作品になった。

 その衝撃を理解するには、その人物、プレマンと呼ばれるヤクザ者の一人アンワル・コンゴが過去どれほどの善行をしてきたか、それをどれだけ誇りにしているかに思いを馳せねばならない。彼は自国インドネシアのため、みんなのために多くの人を殺してきた。「悪人」をたくさん殺した彼は国民的英雄として称賛された。彼は悪いことなんか少しもしていない。虐殺は彼の輝かしい人生の一部だ。
 『アクト・オブ・キリング』を撮ったジョシュア・オッペンハイマー監督や、このドキュメンタリーを鑑賞する他国の観客が彼を虐殺者とみなすだなんて、アンワル・コンゴは思いもしなかったに違いない。彼の語る英雄的行為が、他国の観客には無残な殺しとして嫌悪されるなんて、予想だにしなかったはずだ。

 観客は人殺しが悪いことだと思っている。アンワル・コンゴが非道な虐殺者だと思っている。悪いことは反省するべきだし、非道な行為は後悔すべきだと思っている。だから思ったとおりにアンワル・コンゴが後悔するのを目にして、「出来過ぎの展開だ」「やらせじゃないか」と感じるのだろう。
 しかし、彼にみずからの行為を後悔させたり反省させたりするなんて、やらせでできるとは思えない。その必要性を他人が彼に理解させるのは不可能だ。彼は虐殺を正義のための貢献だと誇っていたのだから。
 では、なぜアンワル・コンゴは善悪がひっくり返るショックを受けたのか。それについては以前の記事「『アクト・オブ・キリング』 こんな映画観たことない!」を参照されたい。

 『アクト・オブ・キリング』を観て「出来過ぎの展開だ」「やらせじゃないか」と感じた観客への回答とも云うべき作品が、姉妹編たるドキュメンタリー映画『ルック・オブ・サイレンス』だ。
 たしかに『アクト・オブ・キリング』は出来過ぎだったかもしれない。やらせじゃないかと疑いたくなるほどドラマチックだったかもしれない。そのとおり。あんなことは滅多に起こらない。ジョシュア・オッペンハイマー監督がインタビューしたおびただしい虐殺者の中で、過去を省みて後悔したのはアンワル・コンゴただ一人だった。
 『ルック・オブ・サイレンス』には前作以上に多くの虐殺者が登場する。1965年の9・30事件に続く大虐殺を、みな楽しそうに語っている。どのように犠牲者を切り裂いたか、死にかけた人をどんな風に河に突き落としたか。誇らしい思い出話に花が咲く。

 本作で「やらせじゃないか」なんて心配は無用だ。人殺したちは後悔も反省もしないから、観客が望むような結末は訪れない。ジョシュア・オッペンハイマー監督は虐殺者から後悔の言葉を引き出そうと懸命にインタビューを続けるが、彼らはまったく相手にしない。彼らがやったことは彼らの主観では正義だからだ。正義の味方は悪を退治したことを反省したりはしないのだ。人殺しは悪いことだと思っている観客は、ただ唖然とするばかりだ。


 そんな彼らの態度が少し変わるときがある。
 虐殺された者の遺族と対面し、詰問されるときだ。

 本作の公式サイトは、両者の関係を加害者と被害者と紹介している。これはある種のミスリードだ。たしかに殺害するのが悪いことであれば、殺した側は加害者で、殺された側は被害者かもしれない。
 しかし、殺した側は「悪人」を葬って国家を救い、民主主義を実現した英雄たちなのだ。学校の先生は「悪人」が退治されたからインドネシアは民主主義国家になれたと教えている。
 そこにのこのこ訪ねてきたのが「悪人」の遺族アディ・ルクンだ。両者の関係は加害者と被害者なのだろうか。たとえば、極悪人の死刑を執行したら、執行人は加害者と呼ばれるだろうか。死刑囚の遺族は被害者の立場なのだろうか。

 当事者でない外国の観客は、殺した方が悪い、殺された方は可哀そうという思いで本作を観てしまいがちだ。殺された人の多くが濡れ衣だったりとばっちりを受けたりで、本当は悪くもなんともないことを知っているからなおさらだ。けれども『ルック・オブ・サイレンス』を最後まで観ても、「加害者」は詫びの言葉一つ云わないし、「被害者」が浮かばれることはない。アンワル・コンゴという例外的な人物を取り上げた『アクト・オブ・キリング』よりも、大多数の虐殺者の普通の反応を撮った本作のほうがショッキングかもしれない。

 では、虐殺された者の遺族と虐殺者が対面したとき、何が起こるのか。
 何も起こらない。虐殺者はやるべきことをやったのだからとうぜんだ。虐殺者の子供たちも父を擁護する。悪人を退治した父は家族の誇りなのだ。

 ただ、わずかに遺族との対面を忌避する気持ちはある。人殺しが悪いことだなんて、云われるまでもなく彼らも知っている。相手が「悪人」じゃなければ殺さなかったはずだ。遺族が殺した相手を恨む気持ちも判る。
 だから虐殺者たちは面倒な相手を追い返そうとする。そこで持ち出す云い訳が、「命令されただけ」ということだ。さっきまで殺しを自慢し、自分の大物ぶりを吹聴していた彼らは、会話の相手が遺族だと知ると、自分は責任者じゃない、命令に従っただけだと云いはじめる。
 それは後悔でも反省でもない。会話を打ち切って追い払いたい、それだけだ。

 公式サイトには「責任なき悪」「責任を感じることなく大罪を犯し得る心理的メカニズム」といった文字が躍る。ハンナ・アーレントがナチス・ドイツの虐殺は職務に忠実な平凡な人間により行われたことを指摘したように、人間は命令されると不道徳なことでもしてしまうと云われる(アイヒマン実験)ように、インドネシアの大虐殺もただ命令に従う無責任さで引き起こされたと考えているようだ。
 そういう面もあるかもしれないが、虐殺者たちが当時を語るいきいきとした様子や、事件の顛末をわざわざ本にしたり演じたりする積極性は、無責任に命令に従ったということでは説明し切れないと思う。
 彼らにとってそれは悪でも大罪でもないのだ。正義であり善いことなのだ。だからこそ記録に残して後世に伝えたいと願うのだ。

 子供たちは父の行った虐殺の残酷さまでは知らなかったのだろう。ある娘は、父が死者の血を飲んだ話に眉をひそめた。あまりの惨さにおののき、遺族の気持ちをおもんぱかったりもした。けれども父が間違っていたとは思うまい。人間らしからぬ父の行動が、その栄光に傷をつけるのを恐れたのだろう。
 遺族がいなくなれば、自慢話は繰り返されるに違いない。遺族に訪問されて迷惑したという尾ひれが付くかもしれない。

 インドネシアの大虐殺で兄を殺されたアディ・ルクンは、ただひと言、罪を認めてもらいたくて虐殺の張本人たちに会い続ける。
 しかし、虐殺者たちは誰一人、本当に誰一人として罪を認めない。それどころか、「過去のことを持ち出すつもりか」「またあんなことが起こるぞ」と警告する。
 「被害者」側――大虐殺の対象となり、間一髪で生き延びた人は、アディに忘れろと云う。「過去はもう覆われている。いまさらフタを開けるな。」「彼らを罰するかどうか決めるのは神様だ。」

 大虐殺から50年。インドネシアは表面的には平穏だ。「加害者」たちが地位や富を手に入れ、「被害者」たちが泣き寝入りしたままの膠着状態といえよう。そんな中での「過去を持ち出すな」という「加害者」の言葉は傲慢に聞こえる。「忘れるんだ」という「被害者」の言葉は臆病に聞こえる。

 アディが虐殺者を訪ねて罪を認めさせようとするのは、膠着状態を破ることに繋がりかねない。「加害者」たちは罪を問われ、償うべきなのか。「被害者」とその遺族は地位を回復され、補償されるべきなのか。
 それを突き詰めようとするのは、大虐殺の蒸し返しかもしれない。平穏が失われ、新たな犠牲が出るかもしれない。それで喜ぶ人がいるのだろうか。

 インドネシアだけの問題ではない。
 バルカン半島の平和な国ユーゴスラビアでは、第二次世界大戦中に虐殺されたセルビア人と虐殺したクロアチア人の憎み合いが半世紀を経て噴出し、国を割る戦争になってしまった。数十万人が犠牲となり、ユーゴスラビアという国はなくなった。

 私たちはある場面では「加害者」であり、別の場面では「被害者」であり得る。
 「被害者」は被害を忘れるべきなのか。忘れられるのか。
 「加害者」は断罪されるべきなのか。
 膠着状態は嘘の平和なのか。真の平和とは何なのか。
 黙りこくったアディの姿を前にして、どんな言葉をかければ良いのだろうか。


映画 ルック・オブ・サイレンス パンフレットルック・オブ・サイレンス』  [ら行]
監督/ジョシュア・オッペンハイマー
日本公開/2015年7月4日
ジャンル/[ドキュメンタリー]
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