『テッド2』は踏絵を迫る
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エイプリルフールの記事じゃない。正真正銘、『テッド』の続編である。
なにしろサム・J・ジョーンズがいきなり登場してくれるのだから、それだけでテンションは最高潮だ。
『テッド』は1980年の傑作SF映画『フラッシュ・ゴードン』への愛に満ちた作品だった。そしてフラッシュ・ゴードンを演じたサム・J・ジョーンズが、映画と同じく金髪に染めて出演するだけでフラッシュのファンには感涙ものだった。
同じことはしないだろうな、と覚悟して『テッド2』に臨んだが、セス・マクファーレン監督はやってくれた。冒頭からサム・J・ジョーンズが「FLASH」の刺繍入りローブで登場し、このシリーズに欠かせないキャラクターであることを示してくれた。
しかも、『テッド』のときはジョンの妄想の中だけでサム・J・ジョーンズがフラッシュ・ゴードンに扮したのに、本作ではリアルなサムがフラッシュ・ゴードンのコスチュームを着て大暴れしてくれる。
マクファーレン監督の前作『荒野はつらいよ ~アリゾナより愛をこめて~』も、表面的には『フラッシュ・ゴードン』の「フ」の字も見せないながら、その実、『フラッシュ・ゴードン』をほぼそのまま西部劇に移植した内容で、『フラッシュ・ゴードン』ファンがニヤリとせずにはいられない映画だった。
さすがセス・マクファーレン監督、どこまでいっても期待を裏切らない。
相変わらずの映画ネタの数々に、私ごときはほとんどついていけないけれど、『フラッシュ・ゴードン』だけじゃなく、『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーやオビ=ワン・ケノービやストーム・トルーパーや『新スタートレック』のピカードやウォーフやボーグや『フィフス・エレメント』のリー・ルーや『チャイルド・プレイ』のチャッキーや『ミュータント・タートルズ』のラファエロや、超サイヤ人やゴジラ等々が入り乱れての展開には茫然自失だ。ゆゆゆ夢のような賑やかさだ。
サム・J・ジョーンズが本人役で出たように、ウォーフのコスプレをウォーフ役のマイケル・ドーン本人にやらせたり、マクファーレン監督の悪ノリには際限がない。
クイーンの楽曲の使用料が高かったのか、本作に『フラッシュ・ゴードン』のサントラが流れないのは寂しいが、溢れんばかりのパロディやオマージュシーンでここぞとばかりに本物の楽曲を使うのはさすがである。
ジョンとテッドが一面のマリファナ畑に感動するシーンは、『ジュラシック・パーク』でアラン・グラント博士とエリー・サトラー博士が恐竜の群れに感動するシーンの忠実な再現だ。ここですかさずジョン・ウィリアムズ作曲のテーマ曲が流れるのだからたまらない。自然と科学が生み出す驚異に心を奪われる『ジュラシック・パーク』の名シーンも、マクファーレン監督にかかれば不良中年と不良テディベアの欲望丸出しのシーンになってしまう。よくもまぁこんな捻じ曲げ方をするものだと笑いが止まらない。
アカデミー賞授賞式の品のない司会で酷評と高視聴率の両方を手にしたセス・マクファーレンの下品で傍若無人なネタも、ますます磨きがかかったようだ。
9・11テロの悲劇や名優ロビン・ウィリアムズの死を芸人イジメのネタにするなんて、そうそうできるものではない。ちなみにセス・マクファーレン監督とジョン役のマーク・ウォールバーグは、偶然にも9・11テロ(2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件)の犠牲になった四機の旅客機の一つ、ワールドトレードセンターの北棟に激突したアメリカン航空11便に搭乗する予定だった。マーク・ウォールバーグは直前に予定を変え、セス・マクファーレンは二日酔いで乗り遅れたために難を逃れたという。
芸人イジメのシーンには私も笑っていられたのだが、ジョギングする人に屋上から果物を投げつけるのはあんまりだと思った。ジョンもテッドも新ヒロインのサマンサも、転ぶ人を見て楽しんでいる。私はちっとも笑えなかった。
総じてジョンとテッドの悪ふざけは第一作を上回っている。第一作ではヒロインのロリーが常識人だったから、ジョンとテッドの良心(ジミニー)として歯止めになってくれたけれど、本作のサマンサはジョンやテッドと一緒になって悪ふざけするので、もうどうにも止まらない。初期の構想ではロリーも登場するばすだったが、予定していたストーリー――ジョンとテッドが国境をまたいでマリファナを密輸しようとする珍道中モノ――とそっくりな映画『なんちゃって家族』が他社から公開されたので、構想の練り直しを迫られたという。
新たに構想する過程で、テッドの悪行はよりエスカレーションしたに違いない。
それがひどすぎるのは、劇中でモーガン・フリーマン演じる弁護士にも指摘される。自分の権利を主張するなら、もっと世のため人のために貢献しなさいと諭される。
観客も、これはもっともな指摘だと感じるのではないだろうか。テッドとジョンは無茶苦茶だ。救いの手を期待するなら、相応に立派な行いをするべきだ。因果応報というではないか。
一瞬でもそう思ったなら、あなたはセス・マクファーレン監督の手玉に取られている。私は弁護士が云うことにも一理あると少しだけ思ってしまった。悔しい。これはセス・マクファーレンが突き付ける踏絵なのだ。
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『なんちゃって家族』とネタが被って再構想に迫られたマクファーレン監督は、ジョン・ジェイクスの小説にインスピレーションを得たという。
私にとってジョン・ジェイクスはマイナーなSF作家のイメージで、60年代のスペースオペラ再ブームの頃に書かれた第二銀河系シリーズくらいしか読んでいないのだが、アメリカ本国では歴史小説の書き手として知られるらしい。マクファーレン監督が読んでいたのもジョン・ジェイクスが80年代に書いた『The North and South trilogy(南北戦争物語)』だ。
ドレッド・スコットは1790年代の米国に生まれた奴隷である(生年には諸説ある)。彼の所有者ピーター・ブロウは農場経営に失敗し、軍医ジョン・エマーソンに彼を売り払った。ジョン・エマーソンは従軍して米国各地を転々とし、滞在先にはイリノイ州やウィスコンシン準州のような自由州(奴隷制を禁止した州)もあった。ウィスコンシン準州に住んでいた頃、ドレッド・スコットは奴隷のハリエット・ロビンソンと結婚した。ジョン・エマーソンの死後はその未亡人がドレッド・スコットを所有した。ドレッド・スコットは自由を求めて訴えを起こしたが、州最高裁判所は彼の訴えを認めなかった。やがて未亡人の兄弟ジョン・サンフォードがドレッド・スコットの所有者となり、ドレッドの自由を求める戦いは連邦最高裁判所に持ち込まれた。
1857年、ロジャー・トーニー裁判長は次の判決を下した。
・自由州に住んだことがあるからといって、ドレッドが自由人になったわけではない。
・誰であれ黒人は合衆国の市民とは言えず、裁判所に訴訟を起こす資格を持たない。
判決は各方面から非難を浴びた。ドレッド・スコットが奴隷だとすれば、彼には結婚(法的な契約関係を結ぶこと)をする権利すらないことになる。
この判決は奴隷制の賛否を巡る対立を激化させ、1861年の南北戦争へと繋がった。
ジョン・ジェイクスの本を読んだセス・マクファーレン監督は、高校の歴史の授業で学んだドレッド・スコットのことを思い出し、テッドの権利と地位の物語を考えついたという。
本作は、一見するとクマのぬいぐるみの人権問題だ。ぬいぐるみに人権があるかどうかを議論するなんて、コメディには打ってつけに思える。
しかし、その本質はテッドが何者かということではない。人間的と感じられるかどうか、その極めて主観的な判断と、人間として扱うか否か、人権を認めるか否かを混同する恐ろしさだ。
1857年の判決の頃、奴隷制を肯定する人にとってドレッド・スコットは所有物でしかなかった。黒人を人間扱いする必要はなかったのだ。
同様に、女なんかに参政権は必要ないと思われた時期もあった。今も女に教育は必要ないと云う人がいる。
これらはすべて、主観的な判断で権利の有無を決めるものだ。黒人であること、女性であること、それらが権利を制限する根拠になると思っている。
西洋化が進んだ国ならば、それではいけないということを多くの人が理解しているはずだ。
西洋で発明された「人権」という概念はその適用範囲をどんどん広げ、いまや人種、民族、性別、その他なにものによっても差別してはいけないことになっている。誰もが平等ということは、その人が善良か否か、社会に貢献したか否かは関係ないということだ。
なのに私は、テッドの素行が悪すぎると思ってしまった。こんなに悪ふざけするクマは、愛想を尽かされるのもとうぜんだと思ってしまった。素行が悪いなら、戒めたり改めさせたりするべきなのに、人権を認めないことと混同してしまった。セス・マクファーレン監督に人権意識の薄っぺらさを見透かされたようだった。
社会に貢献しないことが、人間的に立派じゃないことが、少しでも人権に影響すると思うなら、それは人種や民族が違うから権利を制限していいと考えるに等しい。そこに本当の正義はない。
本作は観る者の正義を試す踏絵なのだ。
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監督・制作・脚本/セス・マクファーレン
脚本/アレック・サルキン、ウェルズリー・ワイルド
ナレーション/パトリック・スチュワート
出演/マーク・ウォールバーグ アマンダ・セイフライド セス・マクファーレン ジョヴァンニ・リビシ サム・J・ジョーンズ ジョン・スラッテリー モーガン・フリーマン ジェシカ・バース リーアム・ニーソン
日本公開/2015年8月28日
ジャンル/[コメディ]

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tag : セス・マクファーレンマーク・ウォールバーグアマンダ・セイフライドジョヴァンニ・リビシサム・J・ジョーンズジョン・スラッテリーモーガン・フリーマンジェシカ・バースリーアム・ニーソン
『at Home アットホーム』 最後まで残る危険地帯
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できることなら宣伝はまったく目にしないで劇場に足を運ぶべきだろう。
もちろん、未見であれば以下の記事も読まないほうがいい。
『at Home』は犯罪映画でありながら、なんともしみじみとした味わいのある作品だ。
しいていえば、『長屋紳士録』(1947年)や『しあわせの隠れ場所』(2009年)に近いかもしれない。『長屋紳士録』は孤児を押し付けられた女がなんだかんだ云いつつ面倒をみる話、『しあわせの隠れ場所』は白人の金持ちが身寄りのない黒人少年を引き取る話だ。いずれも見ず知らずの子の面倒をみるうちに情がわき、強い絆で結ばれていく物語だった。
しかし、例に挙げた両作が人情や感動に重きを置くのに対し、『at Home』はそこまで感動に流れない。涙をそそられはするものの、本作の価値は感動とは別のところにある。
内容を紹介するのは簡単だ。ポスターやチラシに印刷された「俺が盗んできた家族は、誰にも奪わせない。」という惹句がほぼすべてを語っている。駄目押しにチラシの裏には「俺たちは最強の家族だ。たとえ、他人同士でも。」と書かれている。これで映画のネタはほとんど割れてしまうから、宣伝にはもっと気を使って欲しいと思う。
それはともかく、本作の特徴は「家族」全員がフラットな立場にあることだ。
『長屋紳士録』や『しあわせの隠れ場所』は、子供を「引き取る」話だった。そこにはすでに所帯があった。行き場のない子供が所帯に馴染み、融和する過程を描いていた。
だが、竹野内豊さん演じる主人公には、前提となる家庭や所帯がない。彼もまた行き場がなく孤独な人間であり、たまたま子供と「合流」する。同じように孤独な者たちが少しずつ「合流」し、やがて五人に膨れ上がる。
面白いことに、本作には『長屋紳士録』のような引き取る際の葛藤はないし、『しあわせの隠れ場所』のような融和に向けて乗り越えるべき苦労もない。これらの要素があればドラマは盛り上がるはずだし、葛藤や苦労があればこそ、その後の感動は大きくなるはずだ。客受けを考えればここを描かない手はないのだが、本作はあっさり省略してしまう。
それはこの「家族」の実質がシェルターであるからだろう。シェルター、すなわち避難所である。
「家族」になるまでの葛藤や苦労に代わって本作で描かれるのが、「家族」に出会う前のめいめいの辛い過去だ。親に放置されていた子供、虐待されていた子供、夫に殴られ続けた妻……その苦労と辛さを強調するために、彼らが出会ってから「家族」になるまではあっさりと済まされたのだろう。
彼らは行き場がなかったのだ。身を寄せ合い、家族ごっこを演じるしかなかったのだ。そこに苦労があったとしても、元の家へ、親許へ、夫の許へ戻ることに比べればはるかにマシなのだ。
ここが本作の肝である。
かつて日本は不自由な国だった。ほんの150年前まで強固な身分制度に縛られ、職業選択の自由はおろか、住む場所を変えることも、おちおち旅することも許されなかった。今でも職業選択ひとつとっても男性が助産師になれない性差別や定年になったら退職しなければならない年齢差別があるけれど、自由なこともずいぶん増えた。職場が嫌なら辞めてもいい。地域や学校が嫌なら引っ越しても転校してもいい。
ところが、まだまだ自由に程遠いものがある。それが家族だ。親が嫌でも変えられないし、子供も自由には変えられない。養子を取る、里子に出すということもあるが、子供を自由に変えることとは違うだろう。「当然だ」と云う人が多いはずだ。「それが家族だ」とおっしゃるかもしれない。
しかし、家族が素晴らしいとは限らない。家庭が憩いの場とも限らない。
それは家庭内の犯罪の動向からもうかがえる。

法務総合研究所の研究部報告45「家庭内の重大犯罪に関する研究」から、図「親族が被害者である事件の検挙件数の推移(罪名別)」を見てみよう。ここでいう親族とは、親、配偶者、子、兄弟姉妹等のことである。
傷害事件が平成12年から急増したのは、配偶者に対する暴行・傷害を検挙するようになったこと、特に平成13年にDV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)が施行されて配偶者による暴力が顕在化するようになったことが影響している。
その点、従前より顕在化しやすかったはずの殺人には大きな変化が見られない。昭和50年代の600件超から平成初期の400件程度までは減少傾向にあったが、その後は500件前後で横這いだ。
これはおかしい。
人類の暴力は減少し続けている。日本の殺人事件の被害者総数も、人口10万人あたりの被害者数も減る一方だ。
なのに、親族が被害者の殺人には大きな変化がないとはどういうことか。

殺人事件全体は減っているのに親族間の殺人は減らないのだから、殺人事件に占める親族間の殺人の割合が高まるのはとうぜんだ。上に引用したのは法務総合研究所の研究部報告50「無差別殺傷事犯に関する研究」の図「殺人 被疑者と被害者との関係別検挙件数・面識率・親族率の推移」だ。図の上のほうで横這いしている線は面識率で、9割近くの被害者が面識のある者(親族、友人・知人、職場関係者、交際相手等)に殺されたことを示している。見ず知らずの人に殺されるのはとても珍しいことなのだ。
図の真ん中あたりでジワジワ上昇しているのが親族率だ。被害者が親族の事件が検挙件数に占める割合である。平成16年に、親族に対する事件の割合が、親族を除く面識者に対する事件を上回って以来、その割合は高まり続け、平成23年には52.2%に達している。
親族といっても、滅多に会わない親戚がわざわざ殺しに来ることはないだろうから、あなたが殺されるとしたら、同居の家族や密に交流している親子兄弟が犯人である可能性が高いのだ。ましてや殺人までには至らない暴力や衝突は、いったいどれだけあることだろう。
もちろん、平成16年を境に家族が憎み合うようになったとか、親や子が凶暴になったわけではない。他人同士の殺し合いが減ったため、親族に対する殺人が相対的に浮上したのだ。
昭和の日本はテロだの暴力団の抗争だの派手な事件にこと欠かず、殺人ぐらいじゃニュースバリューがなかったが、近年は見知らぬ他人に殺されるだけで全国ニュースになるほど治安が良い。
しかし、防犯パトロールに取り組んでも、防犯カメラを設置しても、不審者への警戒を呼び掛けても、治安対策から零れ落ちてしまうのが家庭の中だ。そこが最後まで残る危険地帯だ。
円満な家庭も多いに違いない。家の外より内のほうが危険だなんて、考えられないかもしれない。
「血の繋がった家族だもの。」
映画でそんなセリフが語られるとき、多くは家族をポジティブに捉えている。
だが、私たちの前には、殺人事件に占める親族率の上昇という厳然たる事実がある。

『at Home』が興味深いのは、五人の家族がみんな赤の他人であり、全員の合意で家族を結成したことだ。フラットな立場にある五人が一堂に会してキックオフミーティングを開催し、呼び名や役割を決めて、納得の上で家族に参加する。大人の判断で子供を引き取るのではなく、子供が主体的に「この家の子にしてください」と申し入れる。そんな家族のはじめ方はどうだろう。
たまたま子供として生まれたから、たまたまこの子の親になったから家族なのではなく、自分で選び、納得ずくで参加した家族だから愛おしい。本作はそんな物語だ。
本作の提示する家族像は伝統的な常識から外れている、倫理に反すると思う人がいるかもしれない。
そこで本作が仕掛けるのが、犯罪者一家という設定だ。お父さんは泥棒、お母さんは詐欺師、お兄ちゃんは偽造・変造の職人さん。この設定が風変わりなのは、犯罪がファミリービジネスではないからだ。マフィアの一家を描いた『ゴッドファーザー』をはじめ、家族で犯罪を手掛ける映画は多い。しかし本作は、世間の父や母や子がそれぞれ別の仕事に就くように、互いに関係のない犯罪に手を染めている。それは本作が本質において犯罪映画ではないからだろう。犯罪者一家という設定は、観客の倫理感や常識を打ち砕くカモフラージュに過ぎない。泥棒だから、詐欺師だから、けったいなことをしでかすだろう。そう思わせることで倫理感のハードルを下げ、伝統から乖離した家族像を受け入れさせている。
ストーリーの上では、犯罪者一家であることと、他人が身を寄せ合う"偽"家族であることとの関連は薄い。けれども犯罪者一家という非常識があることで、"偽"家族という非常識が陰に隠れ、この奇妙な家族に存在感を与えている。
考えさせられたのが、映画の進行を"次男"の作文に重ねたことだ。
小学生の"次男"が学校の授業で家族をテーマに作文を書く。それを読み上げる教室のシーンと過去のいきさつを交互に描いて、「家族」の成立と現在の家族同士の繋がりを端的に示す。
一見すると単純な作りだが、ここには幾つもの皮肉が込められていよう。
一つは、「家族」をテーマに作文を書かせ、級友や保護者の前で発表させる残酷さへの批判だ。今どきこんな無神経なことをする小学校が現実にあるかどうか判らないが、このシーンは家族を肯定的に捉えて疑わない人々への皮肉であろう。家族からの虐待や暴力を描いた本作だからこそ、家族の素晴らしさを語らせることの無情さが伝わってくる。
もう一つは、顕在化しない真実があるということだ。作文の中では、"父親"は便利屋さんと書かれている。"次男"はこの家族の中に生まれたのだと書かれている。どれもデタラメでありながら、発表を聞く保護者たちは疑問に思わない。こんな調子で、危険な状況の家族があっても周囲は気づけないのではあるまいか。
家庭の実態を隠しながら、"偽"家族のことを誇らしげに発表する"次男"に、一筋縄ではいかないこの映画の魅力が象徴されている。
ラストに至って"偽"家族たちは罪を償い、あるいは足を洗って真っ当に暮らすようになるのだが、映画はそこから先を描くことができない。
はたして、犯罪者一家という非常識な設定で覆い隠さなくても、自由な家族のあり方が受け入れられる日は来るのだろうか。
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監督/蝶野博
出演/竹野内豊 松雪泰子 坂口健太郎 黒島結菜 池田優斗 國村隼 村本大輔 千原せいじ 板尾創路
日本公開/2015年8月22日
ジャンル/[ドラマ] [犯罪]

『日本のいちばん長い日』 1967年版と2015年版はここが違う
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前回の記事「『日本のいちばん長い日』は宮城事件を描き切ったか?」に、梅茶さんからコメントをいただいた。
記事では掘り下げなかったところを突いていただき感謝に堪えない。
以下は、梅茶さんのコメントへの返信として書いたものである。
【梅茶さんのコメント】(引用に際して改行を入れました)
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タイトル:一抹の不安…
(前略)
前作がお気に入りの私にとって、この新作はなぜか一抹の不安を感じてまだモヤモヤしています。
確かに戦争を終わらせるために奮闘した人々を中心に描いていますが、昭和天皇をはじめ、すべての人々が美しく描かれすぎていて、これだけ人格者がいてくれたら、万が一戦争が起こっても大丈夫なんじゃないか、日本人には人格者がたくさんいるから心配することはないんじゃないか、とまで楽観視される危険性にモヤモヤしてしまう不安神経症の自分が頭をもたげてくるのです。
ましてや、これが海外で上映されると、日本人は過去に回帰しつつあるのではないか、と疑心暗鬼されてしまうのではないか、とまで。
原田真人監督の作品は好きなので、批判する気はさらさらないし、思いは伝わってくるのですが、いかんせん前作と比べて見てしまうと、1968年の空気感と2015年の空気感の違いが、反省と苦渋にまみれたヨレヨレの日本人と、自信を取り戻し優秀さを自覚し始めた日本人とが浮き彫りになってしまうのです。
確かに阿南陸相の描き方は軍国主義者としての描かれ方が強い前作の方が危険度は高いのですが、役所さんが当時の陸相としてのリアル感が乏しいためか、軍人を美化して捉えられてしまいそうなんです、山本五十六さんの時はそうは思わなかったのに、不思議なんですよね。
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梅茶さん、コメントありがとうございます。
岡本喜八監督の1967年版『日本のいちばん長い日』も面白いですね。1967年版のほうが臨場感やエネルギーは勝っているかもしれません。
2015年版『日本のいちばん長い日』を作るに当たって、原田眞人監督はエピソードの取捨選択に悩まれたことでしょう。戦争終結の通達を無視して出撃してしまう部隊とか、軍を送り出す国民たちの熱狂ぶりが削られたのは残念です。
ただ、1967年版が上映時間157分でほぼ24時間のことを描くのに対し、2015年版はたった136分で四ヶ月半の出来事を描きますから、テーマもスコープも別物と考えるべきでしょうね。
たしかに映画が公開された1967年と2015年では世間の様子も違うと思いますが、私の受け取り方は梅茶さんの「反省と苦渋にまみれたヨレヨレの日本人と、自信を取り戻し優秀さを自覚し始めた日本人」とは異なります。
1967年版の中には、終戦の儀に臨むに当たって「日本帝国の葬式だ」というセリフがあります。そして三船敏郎さんが演じる阿南陸相は若者たちに平和な国を作ることを託します。終戦をもって大日本帝国は滅亡し、新たに日本国が誕生したのです。1967年といえば東京オリンピックと大阪万博の狭間の時期です。古い時代に決別し、新しい日本を発展させるべく、前進していくときでした。1967年版からは、軍国主義の国はこうしてなくなったんだと、みんなのエネルギーは復興と新しい時代を切り開くことに向けていくべきなんだという強烈なメッセージを感じます。
2015年の映画が、半世紀前と同じメッセージを発するわけにはいきません。
復興を遂げ、戦後70年も経った日本で、「さあ新しい時代だ」と鼓舞するわけにはいきますまい。「平和」や「民主主義」は尊いけれど、もはや目をキラキラさせて新たに築くイメージは持てません(あくまでイメージの話です)。「戦後民主主義の賞味期限切れ」が指摘されるのは、こういう点を踏まえてのことでしょう。本作が1967年版と印象の違う映画になるのはとうぜんのことです。
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1967年版では閣僚や将校の私生活が一切描かれなかったので、どのような背景の人物なのか映画だけでは皆目見当が付きませんでした。説明せずとも公開当時の人には知られていたのかもしれません。
2015年版は各人の私生活や人間性をきっちり描いています。映画としてはこれが正攻法で、1967年版が省略しすぎなのだと思います。
本作の登場人物がみんな人格者として描かれているとのご指摘ですが、実際みなさん立派な方だったのではないでしょうか。
阿南陸相だって、国家存亡の危機にあって陸相に任命され、クーデターを起こす青年将校からも担がれるくらいですから、さぞかし人望のある方だったのでしょう。家には仕事をほとんど持ち込まない、いいお父さんだったそうです。[*]
では、人格者がいてくれたら、万が一戦争が起こっても大丈夫なのかというと、それは別問題です。
いずれ稿を改めて詳述したいと思いますが、立派な人、美しい心根を持った人であることと、その人の判断能力が優れているか、その行動が周囲に幸せをもたらすかは関係ありません。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とも申します。軍人を人格者として描いても、だから日本は心配いらない、大丈夫だということにはならないでしょう。それどころか、映画に映し出されるのは、これほど人格者が揃っていても戦争にはボロ負けするということです。ここから観客が、日本は大丈夫と感じることはないのではないでしょうか。
大丈夫というよりも、危険なのは美しさに殉じてしまうことかと思います。
1945年8月15日、敗戦を知った14歳の少年は日記にこう綴りました。
「我々の考えとしては、あくまで闘い、最後の一人まで戦って、死にたいのである。(略)たとえ、大和民族が絶えてしまおうとも、恥さらしな降伏をするよりも、世界の人々から、日本人は最後の一人まで戦って敗れたとたたえらえる方がよい。」
軍国少年らしい純粋さがうかがえます。ある意味、美しい思いとも云えるでしょう。心配いらないとか、大丈夫とか、彼は全然期待していません。現在でも、非武装中立を貫いて世界の人々から日本人は最後まで戦力を持たなかったと称えられれば、他国に攻められて絶えてしまっても構わないと主張する人がいます。美しい思いに殉じたい欲求は、昔も今も変わりません。
劇中でこういう危険な傾向を見せるのが青年将校たちであり、それを止めるのが人格者たる大人たちという構図になっているのが本作です。戦争終結の通達が出たにもかかわらず出撃を命令する厚木基地の司令官のシークエンス等がカットされたことで、本作では対立構造がシンプルになりました。
1967年版の青年将校たちはエネルギーに満ちています。その主張に説得力があります。阿南陸相も徹底抗戦を主張する軍国主義者として描かれます。阿南陸相を演じる三船敏郎さんの存在感はさすがです。
これらの描写は危険ですが、どんなに軍国主義を力強く描いても、ラストにおける平和な民主的社会への希望と期待はさらに力強く、軍国主義の印象を払拭してくれます。青年将校の決起を促すビラ撒きは、なんだか安保反対の運動と重なるような気がしてきます。
他方、2015年版のラストには平和と民主主義を希求する強烈な描写がありません。だから軍国主義を否定しきれていないような気がして不安になるのではないでしょうか。なにしろ青年将校を止める人格者たちも、軍国主義の片棒を担いだ人たちなのですから。

しかし、2015年版は1967年版のようなラストを用意できないがために、全体のバランスをチューニングし直しています。
それが端的に表れたのがキャスティングだと思います。
1967年版で笠智衆さんが演じた誠実な好々爺のような鈴木首相と2015年版の山崎努さんの老獪な鈴木首相とのコントラストは面白いし、暴走する畑中少佐の狂気は1967年版の黒沢年男さんも2015年版の松坂桃李さんも甲乙つけがたい。新旧両作とも素晴らしいキャストですが、一人だけ、なんだか釣りあわない人物がいます。海軍大臣米内光政(よない みつまさ)です。
米内光政は、山本五十六、井上成美とともに米英との戦争に反対し、ドイツとの同盟にも反対した人物です。山本五十六亡きあとは本土決戦を主張する陸軍を抑えるため尽力しました。海軍がほぼ壊滅した戦争末期、米内光政が踏ん張らなければ海軍は陸軍に吸収され、海軍大臣のポストは消滅していたかもしれません。そうなれば、内閣で陸軍大臣に対抗する人間がいなくなり、陸軍の主張どおり本土決戦が実行され、数千万の国民が死んでいたかもしれません。本作の原作者半藤一利氏が高く評価する人物です。
陸軍大臣阿南惟幾(あなみ これちか)を抑えにかかる重要な役どころですから、貫禄、人望、英知、どこをとっても阿南惟幾に負けない人物として描く必要があります。1967年版では、阿南陸相を演じる三船敏郎さんに匹敵するキャストとして、米内海相役に山村聰さんがキャスティングされました。これには誰もが納得するはずです。日本演劇界で最も多く総理大臣を演じた俳優といわれる山村聰さんほど相応しい人はいないでしょう。
1967年版では軍国主義にアクセルを踏む阿南陸相とブレーキをかける米内海相のぶつかり合いが見どころでもありました。映画の最後で阿南の傍らに米内がいるのも、この二人の対決が映画の主軸の一つだったからでしょう。
ところが、2015年版で米内光政を演じたのは中村育二さんです。
中村育二さんも素晴らしい役者さんですが、悪役や腹黒い役も多く(原田眞人監督の前作『駆込み女と駆出し男』では裏で糸を引く老中・水野忠邦役)、必ずしも貫禄、人望、英知が売りではありません。そんな中村育二さんを米内光政役にキャスティングしたことが、本作の肝だと思います。
中村育二さん演じる米内海相に、阿南陸相を止めるほどの迫力はありません。映画の見どころといえるほど両大臣がぶつかり合うわけでもありません。最後に阿南の傍らにいるのは阿南の妻であって米内ではありません。米内が阿南の弔問に訪れるエピソードはカットされました。1967年版に比べると、ずいぶんと米内光政の扱いは小さくなりました。
では、誰が阿南陸相にブレーキをかけるのか。
米内光政の扱いが変わったのは、阿南惟幾像が変化したからに他なりません。本作の阿南惟幾は危うい軍国主義者ではなく、自制できる人格者なのです。ブレーキをかけてもらう必要はありません。
梅茶さんが美化と感じられたのは、1967年版の軍国主義者としての阿南惟幾像と比べてのことだと思います。役所広司さん演じる立派な阿南惟幾は、1967年版に比べれば美化なのかもしれません。しかし、阿南惟幾を危険な軍国主義者としたまま美化すれば、それは危ない映画ですが、本作は阿南の人物像を覆しているのです。阿南はブレーキをかけてもらわねばならない危険な人物ではなく、彼自身がブレーキ役として陸軍の暴走を抑えていた。本作はそう描いています。
24時間のことしか描かない1967年版では、ポツダム宣言の受諾を知った陸軍将校が一気にクーデターに走るように見えますが、四ヶ月半の出来事を描く2015年版では、前から爆発しそうな陸軍を長期にわたって阿南が抑えてきた様子が見られます。ときに軍国主義的なことを口にするのも、陸軍将校の思いを代弁してやってガス抜きを図るためです。そして将校たちの気持ちが自分から離反しないように気を付けながら、彼らが暴走しないように牽制しています。
さらに、阿南の自害の意味も両作では異なっています。
1967年版の阿南は軍国主義の象徴ですから、彼の死は軍国主義の終わり、大日本帝国の終わりを表しています。
遺書の「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の文字もはっきりと映し出されました。大罪とは何か、国を敗戦に追い込んだ陸軍軍人として思うところがあったのか、それを知るのは阿南本人だけでしょうが、1967年版の映画は陸軍大臣が詫びながら死んでいったことを明らかにして、大日本帝国を過去と葬り、新しい時代を切り開かねばならないことを観客に訴えます。
他方、2015年版の映画に遺書は映りません。そもそも阿南は軍国主義の象徴ではなく、陸軍の暴走を抑えようとした人物として描かれています。
その彼の死も、陸軍の暴走を抑えるための努力の一つなのでしょう。宮城事件は鎮圧されましたが、阿南はまだ陸軍には終戦に同意しない者が多いことを知っています。第二、第三の宮城事件を防がねばなりません。そのためには、単に戦争終結の通達を出すだけでなく、軍全体に冷水を浴びせ、戦意を喪失させる必要があります。そのために彼が取った手段がみずからの死です。
宮城事件を起こした青年将校は、阿南を担いで陸軍全体の決起を促すつもりでいました。阿南は、自分が御輿に担がれるポジションにあることを自覚しています。御輿がなくなってしまえば御輿は担げません。阿南は文字どおり体を張って、決起の可能性を潰したのです。
三船敏郎さんの演じる阿南惟幾は、たしかに腹を切りそうなほど凄みのある軍国主義者ですが、役所広司さんの阿南はそんな凄みを漂わせないのに腹を切ってしまいます。新旧両作の阿南惟幾像の違いが、自害の意味も違うものにしたのではないでしょうか。

何かを成し遂げる、達成することだけでなく、ときには止めることも大切で、止めさせた人は偉大だ、ということばかり書きました。成し遂げた人が称賛され、栄誉を手にすることは多々ありますが、止めた人、止めさせた人が称賛されることは滅多にないので、敢えて止めることを強調したのです。
反対するだけでは、止まらないものは止まりません。反対するよりも、止めるための知恵や行動が必要とされることがあります。もしかすると、止めるほうが成し遂げるよりも難しいかもしれないのです。
戦後民主主義の賞味期限が切れ、「平和」とか「民主主義」という言葉の訴求力が失われつつあるのなら、止めるために全力を尽くした人たちの姿を通して止めることの偉大さをアピールするのが、現代に"日本のいちばん長い日"を作る意義ではないか。
半世紀近くのときを隔てた二つの『日本のいちばん長い日』を観て、そんなことを考えずにはいられないのです。
[*] 読売新聞 2015年7月31日夕刊
『日本のいちばん長い日』 [な行]
監督/岡本喜八
出演/三船敏郎 山村聡 笠智衆 宮口精二 志村喬 高橋悦史 黒沢年男 加藤武 土屋嘉男 田崎潤 平田昭彦 中村伸郎 天本英世 浜村純 小林桂樹 加山雄三 新珠三千代
日本公開/1967年8月3日
ジャンル/[戦争] [ドラマ]
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監督・脚本/原田眞人
出演/役所広司 本木雅弘 山崎努 松坂桃李 堤真一 神野三鈴 大場泰正 キムラ緑子 小松和重 中村育二 山路和弘 中嶋しゅう 蓮佛美沙子 井之上隆志 木場勝己 戸田恵梨香 松山ケンイチ
日本公開/2015年8月8日
ジャンル/[戦争] [ドラマ]

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『日本のいちばん長い日』は宮城事件を描き切ったか?
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8月15日は「終戦の日」と呼ばれることが多い。
だが、戦争は本当にこの日に終わったのだろうか。
1945年8月10日には、社団法人同盟通信社がポツダム宣言(日本への降伏要求)の受諾を海外に向けて報道していた。大日本帝国政府は、条件さえ整えば受諾する意思があることを連合国に伝えていたからだ。翌日、連合国は勝利を祝ったという。NHKのアナウンサーだった近藤富枝氏は、海外の短波放送を聴いて13日に終戦を知った。[*1]
大多数の国民はそんなことを知る由もない。朝日新聞は、日本が敗戦することを8月10日には掴んでいながら、ポツダム宣言を受諾するまさに8月14日においてもなお、その社説で「一億の信念の凝り固まった火の玉は消すことはできない。」と主張し、最後の最後まで国民を鼓舞し続けた。[*2]
14日夜のラジオで、翌日正午に重大放送があると告知されても、「まさか戦争の終わりを告げる放送とは思いませんでした」と半藤一利氏は振り返る。[*3]
天皇みずから「終戦の詔書」を読み上げてポツダム宣言の受け入れを国民に伝えた、いわゆる玉音放送(ぎょくいんほうそう)が行われた8月15日を終戦の日と受け止める国民は多いだろう。
他方、8月15日以降も戦闘は続いていた。8月9日に参戦したソビエト連邦は南樺太に進撃、その攻撃は日本がポツダム宣言を受諾しても止まず、日本から停戦のための軍使を何度送っても殺された。
大日本帝国が降伏文書に調印したのはようやく9月2日である。米国はこの日を対日戦勝記念日としている。中華民国は翌3日を戦勝記念日とし、戦後成立した中華人民共和国も9月3日を抗日戦争記念日にした。
第二次世界大戦はだいたい1945年8月の中旬から9月にかけて終結したのだが、ある一日をもって「終戦した日」と云い切るのは難しい。
20世紀の歴史を知る私たちですら終戦した日を特定できないのだから、当時の人たちが戦争がいつ終わるのか判るはずもない。1937年の盧溝橋事件をきっかけに8年も続けてきた戦争なのだ。しかも、ささいな発砲に端を発した日中両軍のつばぜり合い程度のはずだった盧溝橋事件が、アジア・太平洋全域を巻き込んだ全面戦争に発展するなんて、日本人も中国人も、軍人も政治家も誰も予想し得なかったに違いない。そんな意外なことが8年も続いて、九つもの内閣が戦争を終息できない状況で、1945年8月には戦争が終わると確信できた人がいるはずもない。
それこそが、原田眞人監督の映画『日本のいちばん長い日』を観るときに肝に銘じておくべきことだ。
現代の私たちは、1945年8月に戦争が終わったことを知っている。8月15日正午に玉音放送が流れたことも知っている。結果を知っているから、映画を観ていても、つい戦争終結まであと何ヶ月、あと何日、あと何時間と数えてしまうが、当時、渦中にいた人々には明日なにが起こるかも判らなかったばすだ。
今日の努力が、明日の目論見が、役に立つかどうか見当もつかない。それでも踏ん張って力を尽くし、歴史を動かさんとする。そんな人間ドラマが『日本のいちばん長い日』だ。

「逆境を生き抜く主人公が僕の作品のテーマ。」
『駆け込み女と駆け出し男』公開時に原田眞人監督はそう語ったが[*4]、これはそっくりそのまま『日本のいちばん長い日』にも当てはまる。なにしろ逆境も逆境、いま国が滅びようとしているのだ。その状況下で、内閣総理大臣鈴木貫太郎が、陸軍大臣阿南惟幾(あなみ これちか)が、国の存続に全力を挙げる。
何かを成し遂げようと頑張る物語は数多い。往々にして、完遂すること、目的を達成することの喜びと素晴らしさが謳われる。私たちを取り巻くのは、はじめたら最後までやり通すことを称賛する価値観だ。
ところが本作が描くのは、やめることだ。途中でやめるのは、実は成し遂げるより難しいかもしれない。間違いを認めたことになるから、はじめた人の責任が問われるし、これまでの犠牲を無にすることにもなる。続行したほうが利益(や誇りや満足感)を得る人間もいるだろう。現在、1990年頃は10%もなかった国債依存度を40%にして、返す当てもないまま国債残高を増やし続けているのは、その金に依存する人がいるからだ。まるで物資もないのに戦線を拡大し続けた大日本帝国軍である。
本作が胸を打つのは、「途中でやめる」という偉業に挑んだ人々の真摯な姿を描くからだ。
もちろん、最後までやり通そうとする人もいる。ここで云う「最後まで」とは、最後の一兵まで戦うこと、国民二千万人が特攻してでも戦争を続けることだ。日頃は美談として語られる「最後までやり抜くこと」が、実はとんでもなく恐ろしい発想であることを、本作は教えてくれる。
しかも、これは国民が望んではじめた戦争だ。日清戦争に勝利した経験から、国民は中華民国にも勝てると思っていた。期待どおりに中華民国の首都南京は陥落したから、国民は提灯行列でお祝いした。デパートは戦勝セールで賑わったという。真珠湾を攻撃して米国と開戦したときは、首相官邸に激励の声や電話が殺到し、電話回線がパンクしそうなほどだった。
本作には強硬に戦争継続を主張する人物として元首相の東條英機が登場するが、彼とて首相就任時は日米開戦を回避しようとしたのだ。しかし戦争回避の努力をしようとすると国民から抗議の手紙が来て、開戦すると「よくやってくれた」「東條さんは英雄だ」と称賛されたそうだから、気持ちが戦争に傾くのはとうぜんだろう。
その戦争を終わらせようというのだから難事業だ。
戦争を終わらせる。本作の鈴木貫太郎首相はその決意を滲ませるが、それは手段であって目的ではない。鈴木首相はじめ閣僚、軍人たちの目的は国を存続させることだった。
その思いは同じでも、国を存続させるために戦争を終わらせようと考える人もいれば、国を存続させるために戦争を続けようと考える人もいた。その両者を人間性まで含めてきっちり描いたことが、本作に深みを与えている。
大臣たちは国体護持と口にするが、では国体とは何かというと曖昧だ。
本作の公式サイトには、国体護持が「天皇制の核心である、天皇の国法上の地位・権威を守ること」と解説されているけれど、劇中では国体護持のために連合国に提示する条件すらまとまらず、何をもって国体護持とするか今さら議論している様が描かれる。統一した見解がないものを守るために会議は長引き、そのあいだにも多くの国民が死んでいた。
本作は、決められない日本人を描いた映画としても印象的だ。延々会議を続けても、いっこうに結論が出ない。
厚切りジェイソンの名でお笑い芸人としても活躍するIT企業の役員ジェイソン・ダニエルソン氏が「スピード感で日本は惨敗」「ムダな会議が多すぎる」と指摘するように、延々と会議を続けるのは日本の組織にありがちな光景だ。特に戦前の帝国政府は省という独立した組織の寄せ集めでしかなく、内閣は省の代弁者たる大臣が省益を主張する場だった。一つの組織というよりも、利害の異なる国々が参加する国際会議に近い(この構造は今もたいして変わらない)。そんな会議で話がまとまるはずがない。
原田監督の作品らしく英語のクレジットが併記された本作は、外国でも上映する気満々だ。ポツダム宣言は7月26日に出されていたのに、帝国政府は何をしていたのか。本作は、決められない日本の実態を外国人にも判りやすく伝えるだろう。
各省に共通する認識はただ一点、天皇を戴くということだった。
その一点にかけるしかないまでに追いつめられる鈴木首相と、その一点を巡る攻防戦が本作の見どころであり、特徴でもある。
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半藤一利氏が(大宅壮一名義で)著した1965年の『日本のいちばん長い日――運命の八月十五日』は、すでに1967年に岡本喜八監督により映画化されている。
岡本版と比較した本作の特徴と意義は、大きく二つあると思う。
岡本版は宮城(きゅうじょう)事件――終戦反対派の将校による8月14日のクーデターを中心に描いたが、本作は4月の鈴木内閣の組閣から説き起こし、8月15日に向けた動きをじっくりと描き出す。
観客も作り手もその多くが戦争を経験しており、記憶が鮮明だった1967年当時であれば、あの日、国民の知らないところで何があったかを描くだけで充分だろうが、戦争経験者がほとんどいない現在、当時の状況やどのように対立が生じたかを丁寧に描かなければ、争点が観客に伝わるまい。
そのため、本作は半藤一利氏の『日本のいちばん長い日 決定版』を原作にするだけでなく、同氏の『聖断 天皇と鈴木貫太郎』、角田房子氏の『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』、宮内庁が2014年に発表した『昭和天皇実録』も取り入れたという。
『日本のいちばん長い日』という題名の意味は若干薄れたが、一日の事件だけでなく、戦争をやめるという大事業そのものが題材になった。この大事業がいかに行われたかを現代の私たちに判りやすく伝える作品になった。戦争終結といえば8月が当たり前、ではないのだ。多くの人の努力と深謀遠慮が、ようやく実を結んだのがこのときだったのだ。
もう一つの特徴は、重要な人物として昭和天皇を登場させたことだ。歴史上の位置づけからすればとうぜんなのだが、なんと昭和天皇の姿や声をはっきりと描く日本映画は本作が初めてだという。
これまでの日本映画は、天皇に会いに行くショットと退室するショットの積み重ねで天皇の存在を示唆したり、背中越しの映像を見せるだけで、おっかなびっくりの扱いだった。「宣戦の詔書」も「終戦の詔書」も昭和天皇の名で出されたのに、歴史の当事者がこのようにしか描かれないのは、考えてみればおかしなことだ。
こと終戦に至る道のりには、昭和天皇の言動を明確にしなければ描けないものがある。これまでの映画では天皇を取り巻く閣僚や軍人たちの描写から匂わせるだけだったものを、本作がズバリと提示したことに感心した。奈良橋陽子氏が制作した『終戦のエンペラー』では片岡孝太郎さんが昭和天皇を演じたが、こちらの映画は日米合作ということになっているし、出番もさして多くなかった。本木雅弘さんが全編出ずっぱりで昭和天皇を演じたのは特筆すべきことなのだ。
吃音に悩むジョージ6世を描いた『英国王のスピーチ』や酒を飲んで管を巻くエリザベス女王を描いた『ミニオンズ』に比べればまだ慎重なアプローチだが、本作が良い意味での突破口になればと思う。
驚くべきは原田眞人監督の腕前だ。
みずから「自分の最高傑作と思う『駆込み女』の後、また次の最高傑作を作ることができた」[*4]と云うように、『駆け込み女と駆け出し男』を発表したばかりの監督がもう本作と、傑作を立て続けに連発するのだから恐れ入る。しかも『わが母の記』で小津安二郎を彷彿とさせ、『駆け込み女と駆け出し男』で小津安二郎プラス『赤ひげ』の黒澤明等を彷彿とさせた原田監督は、本作でさらなる高みに昇った。
本作の前半では小津安二郎の特徴とされるロー・ポジションからのアングルを多用し、子供が歴史を垣間見るように大人たちの言動を捉えている。後半になると階段から見下ろすショットが増え、同時多発的に進行する事態を俯瞰するようになる。小津安二郎の静謐な画作りから黒澤的ダイナミズムへの転換が実に見事だ。
しかもリアリズム溢れる画面は、差し挟まれる記録映像と何ら違和感がない。数多くの原田監督の作品に出演し、本作でも阿南陸相を演じた役所広司さんは「俳優たちの演技からリアリティーがこぼれ出る瞬間を選んで、ドキュメンタリー風に仕上げるのがうまい監督です」と語る。[*5]
格調高く骨太で面白い。
こんな映画はそうそう観られるものじゃない。
とはいえ、本作が歴史の真実を描き切ったかといえば、どうやらそうでもなさそうだ。
原作者半藤一利氏は、『日本のいちばん長い日』の出版から三年後のことを振り返る。[*3]
---
「宮城事件」と呼ばれる14日深夜から15日未明の出来事は、当時、玉音放送の録音盤の奪取未遂事件として知られていました。当事者たちは、「あれはクーデターではない。天皇の放送を阻止し、もう一度御前会議をやってもらう計画だった」と言っていた。
ところが調べていくと、実はクーデターでした。皇居を占拠し、鈴木貫太郎首相以下を監禁して内閣をひっくり返し、軍事政権を立てて徹底抗戦する計画だった。うまくいかず、それなら録音盤を奪おうと方針が変わったんです。
実はまだ裏がありそうなんです。
68年、この本が新国劇の芝居になり、招待されて見物に行った帰り道のこと。終戦当時の肩書で言うと、荒尾興功(おきかつ)・陸軍省軍事課長、井田正孝中佐ら事件の当事者たちも招待されていて、私が後ろにいるのに気づかず、「今度も出ませんでしたね。これは永遠に出ませんね」と話していた。食い下がったが聞き出せなかった。残念です。
---
歴史の闇は深い。
[*1] 読売新聞 2015年8月13日
[*2] 安田将三・石橋孝太郎 (1995) 『朝日新聞の戦争責任……東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証』 太田出版
[*3] 読売新聞 2015年8月14日
[*4] 読売新聞 2015年5月8日夕刊
[*5] 読売新聞 2015年7月31日夕刊
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監督・脚本/原田眞人
出演/役所広司 本木雅弘 山崎努 松坂桃李 堤真一 神野三鈴 大場泰正 キムラ緑子 小松和重 中村育二 山路和弘 中嶋しゅう 蓮佛美沙子 井之上隆志 木場勝己 戸田恵梨香 松山ケンイチ
日本公開/2015年8月8日
ジャンル/[戦争] [ドラマ]

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『ミニオンズ』 名前には意味がある
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観客をバカにするな、と思うことがある。いい加減なストーリーだったり、辻褄が合わない映画を観るとそんな風に思うのだ。
だが、正直に告白しよう。観客はバカなのだ。面白ければ辻褄が合わなくても、いい加減でも構わないのだ。少なくとも私は。
アメリカ映画『ミニオンズ』はバカバカしさを極めている。
『怪盗グルーの月泥棒 3D』や『怪盗グルーのミニオン危機一発』の中でグルーの周りをウロウロし、事態を混乱させてばかりいたミニオン(「手下」という意味)たちを主人公に格上げした本作は、『怪盗グルー』シリーズ以上にバカバカしくて、ナンセンスな笑いに満ちている。
脇役の頃はコメディリリーフでも、人気が出て主人公になるといいヤツとして描かれることがある。しかしミニオンたちは主役になっても非常識で、狂っている。『怪盗グルー』シリーズにあった感動も人情味も本作にはゼロだ。ウルウルすることなんかないし、絶対にほっこりしない。
素晴らしい!
アクション大作『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』までもが「愛を知る―― 全人類に捧ぐ。」なんて惹句で宣伝され、愛と感動の氾濫にウンザリしていた観客には、寸分たりとも愛や感動の入り込む余地のない『ミニオンズ』が清々しいだろう。
なにしろ本作の惹句は「オンナ?バナナ?」だ。シリーズ初の大悪女スカーレット・オーバーキルの登場と、ミニオンたちがバナナ好きなことと、「そんな、バカな」という驚嘆の言葉を掛け合わせた駄洒落だが、実質なんの意味もない。近年稀に見るイカれた、もといイカした惹句だ。宣伝に愛や感動を入れたがる日本でも、今度ばかりは無理だったのだろう。それどころか、米国のポスターに添えられた言葉「UH OH.(うう、ああ)」に比べても、日本のほうがバカバカしい。日本の宣伝担当者に感心した。
そもそもミニオンたちの設定がいい加減極まりない。
シリーズ第一作『怪盗グルーの月泥棒 3D』では、悪の天才グルーと仲間のマッドサイエンティスト・ネファリオ博士がバナナを原料にミニオンを創造したと云っていたはずだ。
ところが本作のミニオンは地球での生命誕生とともに存在し、生物の進化に合わせて自分たちを進化させながら、常に最強の生物に付き従って生き延びてきたという。人類よりはるかに長い歴史を持つ彼らは、南極に独自の文明を築くに至っている。
シリーズ全作の監督を務めるピエール・コフィンによれば、ミニオンはみずから繁殖したり分裂したりはできないという。「二つの説が考えられるね。」とコフィン監督は語る。「一つはユニバーサル・スタジオ・テーマパークのミニオンズライドみたいに人間がミニオナイザーでミニオン化したという説。もう一つは短編アニメで示されたように、一本鎖のDNAから作られたクローンであるという説だ。」
なんていい加減な説明なんだ。
監督自身が複数の異なる説を提唱したら収拾がつかない。その上、どちらの説も本作の説明と全然合わない!
さすがだ、ピエール・コフィン監督。本作のようにバカげた映画を作るには、こういう緩い姿勢が大切なのだろう。
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私は第二作の感想に、このシリーズが「1967年版『007/カジノ・ロワイヤル』のファンにとって、この上なく楽しい作品だ」と書いた。本作では遂に舞台を1968年のイギリスに移し、007シリーズがまだイギリス映画だった時代の楽しさを思う存分再現している(007シリーズはイギリスのイオン・プロの製作だが、イオン・プロを設立したプロデューサーの一人ハリー・サルツマンは『007/黄金銃を持つ男』を最後にシリーズから身を引き、1975年に米国の映画会社ユナイテッド・アーティスツに彼の持ち分を売却している)。
当時のヒット曲やテレビ番組(『セイント/天国野郎』や『奥様は魔女』)を劇中に散りばめるのは楽しくて仕方ないだろう。
本作と同じく2015年公開の『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』も主要な舞台をロンドンに据えてスパイ映画の本場に敬意を表していたが、本作はイギリス熱においても負けてはいない。
ミニオンたちがグルーと出会う前のこと、ミニオンの中でもリーダーシップに富んだケビンは、スチュアート、ボブとともに南極を出発し、米国のフロリダ州オーランドへたどり着く。ユニバーサル・スタジオ・フロリダのあるオーランドを劇中に出したことで、ユニバーサル作品の作り手は会社への義理を果たしたのだろう、一行はさっさとイギリスに向かう。そこで訪れるのがロンドン塔、バッキンガム宮殿、ウェストミンスター寺院等、ロンドン観光で見逃せない名所の数々だ。まるでロンドンの旅行ガイドのような展開が楽しい。
もちろん、アビイ・ロードの横断歩道も訪れる。そこでは白い靴や裸足の四人組が横断歩道を渡っている。
はたして、『ミニオンズ』を見に来た観客のうち、どれだけの人がビートルズを知っていて、アビー・ロードに面してレコーディングスタジオがあり、横断歩道を歩くビートルズの写真をジャケットに使ったその名も『アビイ・ロード』というアルバムがあることを知っているかは判らない。
でも、観客に判るかどうかは気はせず、面白いと思ったネタは突っ込んでしまう姿勢がこのシリーズらしさだろう。
『アビイ・ロード』の発売以来この横断歩道も観光名所と化しており、横断歩道を何往復もしたり道路の真ん中に立って記念撮影する観光客が後を絶たない。クルマのドライバーにはいい迷惑だろうが、ここは歩行者優先だ。

観客に判るかどうか気にしない姿勢は、そればかりではない。
作り手のこだわりは楽曲にも見て取れる。本作は時代設定を1968年とするだけあって、次のような曲に彩られている。
『ハッピー・トゥゲザー』 タートルズ 1967年
『19回目の神経衰弱』 ザ・ローリング・ストーンズ 1966年
『アイム・ア・マン』 スペンサー・デイヴィス・グループ 1967年
『パープル・ヘイズ』 ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス 1967年
『ブレイク・オン・スルー』ドアーズ 1967年
『ユー・リアリー・ガット・ミー』 キンクス 1964年
『The Letter』 THE BOX TOPS 1967年
『マイ・ジェネレーション』 ザ・フー 1965年
『ラヴ・ミー・ドゥ』 ザ・ビートルズ 1962年
『ロッキー・ロード・トゥ・ダブリン』 ザ・ダブリナーズ 1964年
『ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ』 ザ・ビートルズ 1966年
『メロー・イエロー』 ドノヴァン 1966年
『レボリューション』 ザ・ビートルズ 1968年
『ヘアー』 1967年から上演されたミュージカルのタイトル曲
『モンキーズのテーマ』 ザ・モンキーズ 1966年開始のテレビドラマの主題歌

このマニアックな選曲だけでも観客を置いてけぼりにしてると思うのだが、さらに本作はヴァン・ヘイレンのデビュー・アルバム『炎の導火線』からインストゥルメンタル曲『暗闇の爆撃』を投下する。エレキギターをプレゼントされたスチュアートが豪快に演奏してギターを壊してしまうこの曲の発表年は1978年だ。1968年の時点でスチュアートが知るはずのない曲だから、Internet Movie Database(IMDb)ではこれを本作の間違いとして指摘している。
だが、これほどの選曲をした作り手が、この曲の年代を間違えるはずがない。これは、同じユニバーサル・スタジオの映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムトラベルした主人公が、その時代にはまだない曲を演奏して周囲を唖然とさせる場面のパロディだろう(本作には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の次元転移装置フラックス・キャパシターにちなんで、フラックス教授というタイムトラベラーも登場する)。映画のデータベースとして名高いIMDbの投稿者さえも置いてけぼりにして、本作はやりたい放題なのだ。
やりたい放題といえば、王室の扱いは不敬ともいえるほどだ。エリザベス女王が実名で登場してパブで飲んだくれてるなんて、天皇が酔っ払う映画を目にしたことのない日本では新鮮だった。
もっとも、エリザベス女王はイギリスのスパイコメディ『ジョニー・イングリッシュ』シリーズでボコボコにされているから、本作はまだ穏やかなほうかもしれない。そんな『ジョニー・イングリッシュ』シリーズもユニバーサル・スタジオが製作に噛んでいた。王冠を手に入れ、王位を簒奪しようとするスカーレット・オーバーキルの陰謀が、『ジョニー・イングリッシュ』の悪党の企みとほとんど同じなのがおかしい。
かようにしっちゃかめっちゃかな本作だが、最後は不思議とまとまっている。
その一因は、本作の三人のミニオンが『怪盗グルー』シリーズの三姉妹に似せて造形されているからだろう。すなわち、リーダーを意味する古代ギリシャ語Kevinosにちなむ名前のケビンはしっかり者の長女マーゴに対応し、弛んだヤツを意味するラテン語Stuartalumniにちなむ名前のスチュアートは困ったちゃんの次女イディスに、(ロバートを)短縮した名前のボブは一番小さな三女アグネスに対応する。神戸のフランス領事だった父とインドネシアの小説家でフェミニストとして知られる母のあいだに生まれ、数ヶ国で暮らしたピエール・コフィン監督は、日本語を含む幾つもの言語が混ざったミニオン語のセリフのすべてを一人で演じた。そんなコフィン監督ならではのネーミングだろう。
嫌な女の手先にされた三人がグルーの許に身を寄せるまでを描いてる点で、本作はシリーズ第一作の相似形だ。悪事を働くグルーが実は身内思いのいいヤツであることを、観客はすでに知っている。ナンセンスな笑いを追求しつつ、人情話の第一作の構成をほぼなぞっているから、本作は気持ちよく観終えることができるのだろう。
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監督/ピエール・コフィン、カイル・バルダ
出演/ピエール・コフィン サンドラ・ブロック ジョン・ハム マイケル・キートン アリソン・ジャネイ スティーヴ・クーガン
日本語吹替/天海祐希 宮野真守 笑福亭鶴瓶 設楽統 日村勇紀 藤田彩華 LiSA
日本公開/2015年7月31日
ジャンル/[ファミリー] [コメディ] [ファンタジー] [アドベンチャー]

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