『ラブ&ピース』は「愛と平和」ではない

園子温監督の新作が公開されるたび、私は首を捻っていた。
2015年公開の『ラブ&ピース』の公式サイトには「『ヒミズ』『冷たい熱帯魚』など…で高い評価を受け続ける園子温監督が…『愛のむきだし』以来に直球に愛を描いた待望のオリジナル作品」と書かれている。
2014年公開の『TOKYO TRIBE』の紹介記事には「『愛のむきだし』『地獄でなぜ悪い』の鬼才・園子温監督が…」とあり、2013年公開の『地獄でなぜ悪い』の記事では「『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』の園子温監督が…」と紹介され、『ヒミズ』では「『冷たい熱帯魚』『恋の罪』の園子温監督」、『恋の罪』では「『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』の鬼才・園子温監督」と紹介されている。
ここから判るように、園子温監督の作品ではベルリン国際映画祭でカリガリ賞と国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』の評価が極めて高く、それに次ぐのがブルーリボン賞の作品賞や報知映画賞監督賞に輝いた『冷たい熱帯魚』、そして全国79スクリーンとそれまでにない規模で封切られた『ヒミズ』や全国72スクリーンで封切られた『地獄でなぜ悪い』が知名度の高い作品といえるだろう。
『愛のむきだし』と『冷たい熱帯魚』の評価が高いことに誰も異存はないはずだ。かくいう私も当ブログに取り上げた園子温監督作はこの二作だけだ。
しかし、園監督の新作が発表され、監督のプロフィールが紹介されるたびに気になることがあった。2009年1月に公開された『愛のむきだし』の興奮も冷めやらぬ中、同年8月に公開された『ちゃんと伝える』のことがどこにも出てこないのだ。『ラブ&ピース』公式サイトをはじめ、園監督のプロフィールに関する記事の多くで『ちゃんと伝える』は無視されている。
それが『ちゃんと伝える』の評価と成績の結果なのかもしれないが、『ちゃんと伝える』に滂沱の涙を流した私はひどく寂しかった。
自分もブログに取り上げなかったので大きなことは云えないけれど、『ちゃんと伝える』は愛すべき作品だ。「オヤジ、先に逝ってくれ。」という惹句は刺激的だが、内容は余命物の王道である。父と息子が時を同じくして短い余命を宣告される。父の死は辛いけれど、父に自分を看取らせるのはもっと辛い息子の苦悩。園監督の亡父への思いが込もった、心温まる映画だった。
無茶苦茶に弾けた『愛のむきだし』の次が情感たっぷりの『ちゃんと伝える』であることに、園監督の幅の広さを見せつけられた思いだった。
しかし、『ちゃんと伝える』は数ある余命物の一つとして埋もれてしまったようだ。たしかに園子温監督が手掛けなくても、余命物はいつでも誰かが撮っている。そこに園監督の作品が一つ付け加わっても、インパクトはないのかもしれない。
かくして園監督は『ちゃんと伝える』から一転、埼玉愛犬家連続殺人事件に材を取った『冷たい熱帯魚』や東電OL殺人事件にインスパイアされた『恋の罪』でエロティシズムと猟奇性を爆発させる。さらに、ヤクザの抗争を描いた『地獄でなぜ悪い』、ストリート・ギャングが戦う『TOKYO TRIBE』、スカウトマンたちの抗争を描く『新宿スワン』、女子高生が次々に殺される『リアル鬼ごっこ』と、血と暴力とエロを売りにした作品を連発してきた。
監督の快進撃はめでたいかもしれないけれど、プロフィールから『ちゃんと伝える』が消えたばかりか、園監督自身も感動路線に興味を失ってしまったようで、私の寂しさは募った。

園監督が「家族連れで楽しんでほしい」と語る『ラブ&ピース』だ。
"LOVE & PEACE"といえばジョン・レノン、愛と平和、反戦運動等々が連想される。東日本大震災を受けて『ヒミズ』の台本を大幅に書き換えたり、架空の原発事故を描いた『希望の国』を発表した園監督のことだから、「ラブ&ピース」なんて聞くとさぞかし政治的・社会的メッセージが込められているだろうと身構えてしまうけれど、ちっともそんなことはない。「ラブ&ピース」というカタカナ表記はフェイントで、本作は"LOVE & PEACE(愛と平和)"ではなく"LOVE & PIECE(愛とカケラ)"なのだ。
映画の中心をなすのは捨てられたペットやオモチャたちだ。捨てられ、下水道を漂った彼らは、ホームレスの老人に拾われて、地下でひっそり暮らしている。うだつの上がらないサラリーマンに捨てられたカメも老人の許に流れ着き、汚れた人形マリアや壊れた猫の縫いぐるみスネ公や、犬や猫や兎やアヒルたちと暮らしはじめる。捨てられても主人を愛し続ける彼らは、主人の願いをかなえるために奮闘する。
以前、『トイ・ストーリー3』が描くいらなくなったオモチャの悲劇は、現実にペットの身に起こっていることだと書いた(「『トイ・ストーリー3』 これは現実だ!」参照)。ペットのような境遇のオモチャを観てあれほど泣いたのだから、捨てられたペットとオモチャの両方が出てくる本作には涙を止めようがない。
本作の台本は、25年前、園監督が商業映画でデビューするために最初に書いたものだそうだ。自分がやりたかったことの原点が全部詰まっているという。そんな園監督は、カメのかわいらしさにこだわったと語る。
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僕、もともとかわいいものが大好きなんです。世界で一番好きな映画は「ベイブ」ですし。もともと、25年前は血みどろ映画を撮り続けるつもりは少しもなくて......いわば、アンプラグドで勝負しようとしてたミュージシャンが、全然売れなくて、40歳になったときに、メイクアップしてライブで血を吐いたらウケちゃってっていう感じです。なので、「ラブ&ピース」みたいな映画が自分のメインなんですよね、実は。
― ファンタジーや、ファミリー映画が撮りたかったということでしょうか?
そうですね。当時は、「何か目立たなきゃ」という思いもあったし、全部のプライドを捨てて一から出直す時に、スプラッタ映画も好きなジャンルではあったから、そういうジャンルでトライしたら、今までと違う可能性があるんじゃないかなって思って撮りだしたので、スプラッタが大好きだったからこうなった、というわけではないのです。
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2013年のトークショーで、園監督が「年末に撮る映画はファンタジー。6歳までの子どもたちに見せるための、クリスマスを舞台にした3匹の動物の心温まる話」と語ったのは、構想段階の本作を指したものかもしれない。
夏休み前と冬休み後は捨てられる子犬・子猫の数が増えるという。長期の旅行に行くため捨ててしまったり、クリスマスプレゼントに買ったはいいけど育てきれなくて捨てるそうだ。クリスマスシーズンは捨て犬・捨て猫の予備軍が増える悲しい季節なのだ。
それだけに、捨てられても主人に無償の愛を注ぎ続けるカメたちが愛おしくてならない。
本作は、血と暴力とエロに満ちた近年の園監督作品からは想像もつかない、夢と愛に溢れたファンタジーだ。
園監督みずから「子供たちにも観て欲しい」「早く、こういう映画を撮りたかった」と語る本作だが、社会性を前面に打ち出した『ヒミズ』や『希望の国』のような作品を期待する観客を取りこぼさない工夫もなされている。
それが『ラブ&ピース』という題であり、ピカドンというカメの名前だろう。人によってはラブ&ピースを「愛と平和」と受け取るだろうし、原爆を意味する"ピカドン"という名や、東京オリンピックと引き換えに忘れられていくものたちに、政治的・社会的メッセージを見出すかもしれない。
怪獣と化す"ピカドン"の名に、私はゴジラが水爆大怪獣であったことやガメラが原爆の爆発で目覚めたこと以上の意味を感じない。かつて原水爆は怪獣を出現させる云い訳に過ぎなかった。小さい頃はテレビでも映画でも特撮作品が当たり前に存在して、怪獣は空気みたいなものだったという園監督にとって、怪獣を原水爆に関連づけることにたいした意味はない気がする。
しかし、原発事故を扱う園子温監督を政治性・社会性のある映画監督として注目する人たちは、そこに特別な意味を見出すかもしれない。加えて、地下世界でのペットやオモチャの哀切さと並行して描かれる地上の人間たちの悲喜劇は、規格に沿ったピース(部品)であることを強要する社会への風刺にも見えるのではないか。ピカドンが移動すると風刺SF『時計じかけのオレンジ』のようにベートーヴェン交響曲第9番が流れるのは、そういう見方を否定しないということだろう。
もっとも、本作には反戦歌ではない歌に反戦メッセージがあると云ってもてはやす人々が登場する。彼らの存在は、なにやら皮肉めいている。
いずれにしろ、深読みしたい人は深読みすれば良いし、意味を見出したい人は見出せば良い。
そんなこととは関係なく、本作はすこぶる面白いし感動的だ。
園監督は、『ラブ&ピース』に子供時代に観たゴシックホラーとか、ウルトラマンみたいな特撮とか、そういうものから受けた影響をすべて詰め込んだと述べている。振り返れば、『ウルトラマン』にはシーボーズが登場した「怪獣墓場」やジャミラが登場した「故郷は地球」のように哀切な話が少なくない。本作は、園監督が小さい頃には当たり前にあった特撮ものをもう一度仕掛けてみる企てだそうだから、過去の特撮作品のテイストも大量に流れ込んでいるのだろう。ピカドンはメガトン怪獣スカイドンのようにユーモラスな上に、子供の夢が具現化した二次元怪獣ガヴァドンのように切ない。
とはいえ、園監督は空気のようなものにわざわざオマージュはしないという。大いに共感を覚える発言だ。クリエイターたるもの、オマージュを捧げる暇があったら自分なりの面白さを追求すべきだ。だから、下水道にバイラス星人そっくりのイカの縫いぐるみが落ちているのは、おそらく偶然なのだろう。
新作ラッシュが続く園子温監督は、こう断言する。
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やっぱり、作品数は多くても、やりたいことをできる「僕の映画」と、「ビジネスの映画」があって。どっちが良い、悪いってことはないんですけれど。「ラブ&ピース」は、完全にやりたいことを自由にできた「僕の映画」です。
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多くの人は『愛のむきだし』が好きだろう。私もそうだ。
そして『ラブ&ピース』は大好きだ。

監督・脚本/園子温
出演/長谷川博己 麻生久美子 西田敏行 渋川清彦 奥野瑛太 マキタスポーツ 深水元基 手塚とおる 松田美由紀 星野源 犬山イヌコ 中川翔子 大谷育江
日本公開/2015年6月27日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー] [ファミリー]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『サンドラの週末』 世界がここに
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私はできるだけ白紙の状態で映画を観たいので、紹介記事の類はあまり読まない。
だが、少しは情報がないと観るかどうかも決められないから、深入りしない程度に紹介記事を眺めることがある。
『サンドラの週末』は、主人公の置かれたシチュエーションを知るだけで衝撃を受けた作品だ。いったいどのように展開するのか、どんな結末が待ち受けるのか、是非とも確かめたいと思った。
みんなボーナスが欲しいから、あなたに辞めてもらいたい。
これはそんな酷な状況に直面した人間の、二日と一晩の物語だ。
サンドラは太陽パネルを製造する小さな会社の従業員だ。彼女は病気で長らく休職しており、その間、残った16人が職場を切り盛りしていた。
金曜日のこと、ようやく病気が癒えて職場に復帰できるサンドラの許に、一本の電話が入る。同僚のジュリエッタによれば、サンドラが復帰したらみんなにボーナスは出せないと社長が云い出し、ボーナスを取るかサンドラの復帰を望むかみんなに投票させたという。結果は14対2でボーナス派が圧倒的な多数。サンドラの復帰に投票したジュリエッタは、あまりのことに社長に掛け合い、社長がサンドラと話し合う約束を取り付けてくれた。駆け付けたサンドラは、ジュリエッタの取り成しで、月曜日に投票をやり直すことにしてもらう。
サンドラの家計は苦しい。夫と共働きしなければ、二人の子供を養って家賃を払うことはできない。サンドラは月曜日の朝までに、職場復帰できるようにみんなを説得して回らなければならない。
凄いシチュエーションを考えたものだと驚いた。
本当にこんな投票をする企業があるかどうかは判らない。
にもかかわらず、これは実にリアルな設定だ。私たちは同じような状況にいつも直面しているから。
サンドラは週末を使って職場の同僚一人ひとりに会いに行く。
サンドラの復帰に投票すると云ってくれる者もいる。ボーナスを選んだことを後悔し、やり直させて欲しいと願う者もいる。
他方、サンドラに同情しつつ、ボーナスは必要だと苦しむ者もいる。暮らしが厳しいのはサンドラだけではないのだ。ボーナスがなくなれば、生活に困る。サンドラを罵倒する者もいる。なぜ自分が稼いだ金を諦めなければならないのかと。現実を見ろ、という者もいる。サンドラ抜きの16人でも仕事はこなせる、お前は必要ないという。
ボーナスはどうでもいいという者もいる。ただ、サンドラに投票したら職場でいじめられるから、サンドラには投票できないのだと。
笑顔で追い返す者もいれば、会ってくれない者もいる。
たった16人を訪ねるだけの映画なのに、ここには世界が凝縮されている。世界中の出来事が描かれている。
たとえば学校で班を決めるとき、余ってしまう子がいる。その子がいなくても、みんなは平気なのだ。
就職先が決まらない人がいる。どこの企業もその人を必要としていないのだ。
ボーナスはいらないから、もっとたくさんの人を雇えと声を上げる労働者はいない。労働組合は給料を上げろとかボーナスを上げろとか要求するが、ボーナスを下げて失業者を雇えとは主張しない。
労働者の家族も同じだ。もしも働き手がボーナスを受け取らないと云い出したら、配偶者は猛反対するだろう。他の人を雇うためと云われて、それならボーナスを放棄しようという家族がいるだろうか。
タクシーを減らそう、というビラ配りに遭遇したことがある。タクシーが多すぎて運転手の賃金が下がっている、タクシーを減らして問題を解決しよう、とタクシーの運転手が主張していた。もちろん、自分が辞めるとは云わない。その主張をひらたく云えば、「自分は運転手を続けるから、他の運転手を失業させろ、他の運転手を参入させるな」ということだ。主張している本人が廃業すれば確実に一台はタクシーが減るのだが、それは云わない。
国と国、企業と企業の関係も同様だ。
特定の国とのあいだで協定を結び、関係を緊密にする一方で、他の国は排除する。企業同士で提携する一方で、他社の排除を狙う。
このような行為の是非を論じたいわけではない。
個人でも集団でも、みんな多かれ少なかれ同じようなことをしているのだ。
ただ本作は、顔の見えない人を相手にするのとはわけが違う。排除する者と排除される者との一対一の話し合いを延々と描写する。誰かを排除する/されるのは日常茶飯事でも、その相手と一対一で話すことは滅多にないだろう。その特別な展開――誰もが経験している状況で、誰も経験したことのない出来事を創出する――が、本作を際立たせている。
そして一人ひとりの話を聞くことで――その事情や主張を聞くことで、人生の真実があぶり出される。私たちは誰しも、あるときはサンドラの立場であり、またあるときはボーナスを選ぶ側だ。劇中の会話は、私たちの本音なのだ。これは社会の、世界の縮図である。
サンドラも同僚も生活は苦しいけれど、本作は安易に経済格差の話にはしない。
富める者対貧しい者という構図からは、富める者へのルサンチマンしか生まれない。富める者は悪人だから、そいつを懲らしめれば貧しい者が救われる――そんな物語は溜飲を下げるには都合がいいが、人生の真実とはいえまい。
リュック・ダルデンヌ監督は云う。「これは“悪い奴ら”と“可哀想な女性”の戦いではないのですから!」
お前には投票できない、お前は必要ないと云われ続けるサンドラが踏みにじられるのは自尊心だ。彼女の存在価値、社会での居場所が否定されているのだ。収入の多寡の問題ではない。人間は自尊心を踏みにじられ続けて生きていくことはできない。他者を排除する者は、それが人の自尊心を踏みにじっているのだと自覚しているだろうか。排除された者は、どうやって自尊心を取り戻したらいいのか。
他者から認められることがなく、自分で自分を肯定することもできなくなったサンドラは苦悩する。心が抉られる映画だ。
はたしてサンドラは過半数の賛同を得られるのか。職場に残れるのか。期限が切られる中、サスペンスが高まる。
たどり着いた果てに見出すのは、他者承認と自己承認を切り離して受け止める境地であろう。
そこにあるのは人生を生きていく覚悟だ。
誰もがその覚悟を持てるといいのだが。
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監督・制作・脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
出演/マリオン・コティヤール ファブリツィオ・ロンジォーネ クリステル・コルニル オリヴィエ・グルメ カトリーヌ・サレ
日本公開/2015年5月23日
ジャンル/[ドラマ]

【theme : ヨーロッパ映画】
【genre : 映画】
tag : ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌマリオン・コティヤールファブリツィオ・ロンジォーネクリステル・コルニルオリヴィエ・グルメカトリーヌ・サレ
『バケモノの子』の正体
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主人公のバケモノに熊徹と名づけて熊だと思わせ、相棒が猿、僧侶が豚とは、細田守監督はフェイントが巧い。
細田監督の発想はストレートだ。子供の成長に合わせてアニメーションを作った宮崎駿監督以上に判りやすい。
結婚して親戚が増えると、親戚が集まる『サマーウォーズ』を作り、出産・子育てする人を目の当たりにすると『おおかみこどもの雨と雪』を作り、自分が子供を育てはじめると『バケモノの子』を作る。細田監督の人生の節目や出会いがそのまま作品になっている。
「前作『おおかみこども』では、子どもと母親を描きました。今作を表現するなら、“父と子”になるのかと思います。」
そう語る細田監督は、公式サイトのインタビューでこうも述べている。
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3年前の前作『おおかみこどもの雨と雪』公開後、僕に息子が生まれたことが、やはり一番大きなキッカケかもしれません。前作では「子どもを育てるお母さんというのは大変な思いをして育てている、それが素晴らしい」という映画がないな、というのが着想のキッカケでした。今回考えたのは「子どもがこの世の中で、どうやって成長して大きくなっていくのだろう」ということ。
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『バケモノの子』は、親が子に伝えたいことに満ちている。子供にこんなことに気づいて欲しい、そんな細田監督の思いに溢れている。
その一つが「強さ」についてであろう。
本作の主人公蓮(れん)は強くなりたいと願い、バケモノの世界の暴れん坊・熊徹の弟子になる。熊徹に九太(きゅうた)と名づけられた彼は、熊徹の下で強くなり、怪物を退治するまでになる。プロットは少年マンガの王道のような物語だ。
以前テレビのインタビューで、大きくなったら何になりたいか訊かれた男の子が「スーパーサイヤ人」と答えていたのを思い出す。実に男の子らしい答えだ。『ドラゴンボール』の主人公カカロットは異世界(地球)で悟空と名づけられ、師匠の下で修業に励む。強さを追及する彼はメキメキと腕を上げ、やがてスーパーサイヤ人となって数々の怪物を退治する。スーパーサイヤ人に憧れる子供は世界中にいるだろう。
だが、ちょっと待て、と諭すのが細田監督だ。
本作は『ドラゴンボール』のプロットによく似ていながら、その斜め上を行く。
熊徹は確かに強い。しかし、人徳がない。教え方も下手だから、これまで弟子が居ついたためしがない。自分一人で強くなった熊徹は、弱いヤツへの接し方が判らないのだ。
もっと象徴的なのが二郎丸だ。猪のバケモノのこの少年は、強いヤツが好きなんだと公言する。同時に、弱いヤツを見るとムカッ腹が立つと口にする。ひ弱な九太をいじめたくせに、九太が強くなると仲良くする。こういう少年は珍しくない。打算から強い者におもねっているのではなく、純粋に仲間うちに強いヤツがいると嬉しくて、弱いヤツがいると腹立たしいのだ。社会心理学でいう黒い羊効果というやつだ。
ストーリー上、九太と対峙するのは二郎丸の兄・一郎彦だが、「強さ」への向き合い方の極北として九太のキャラクターと対照をなすのが二郎丸だ。
強くなるのは悪いことではない。しかし細田監督は、腕っぷしの強さを誇る傲慢な子にはなってほしくないのだ。強い者が弱い者を守る、といった上から目線も良しとしない。
だから、九太たちは真の「強さ」とは何かを探求する旅に出る。数々の賢者に教えを請い、「強さ」の多様さを知る。武術を身につけたり、格闘で勝つばかりが強さではないのだ。
そして、ひ弱な少年が強くなって怪物を退治する――そんな少年マンガの王道のような物語には珍しいことに、九太は学業に精を出す。修行で学校に行かなかった分を取り戻し、進学しようとする。
親として細田監督も子供にはちゃんと勉強してもらいたいに違いない。そういう思いもあるだろうが、九太が勉学に励む理由はそれだけではない。
一人ぼっちで、強くなるんだと粋がっていた頃の九太は世間知らずだった。格闘術に強くなった九太は、自分が世界を知らないことを知っている。「強さ」とは何かを探求したからこそ至った境地だ。
素晴らしいことに、世の中には世界のいろんなことを手際よくまとめた教科書という本があり、いろんなことを教えてくれる学校という場所がある。これを利用しない手はない。

参考文献として中島敦の『悟浄出世』が挙げられていたのだ。
中島敦の小説『悟浄出世』と『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』は、『わが西遊記』を構成する連作短編だ。沙悟浄の目を通して、自我について思索した作品である。なるほど『バケモノの子』は、プロットにおいてもテーマにおいても『悟浄出世』『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』が下敷きだろう。
最強のバケモノ孫悟空は、猪八戒や沙悟浄にとって妖術や戦いの師匠でもある。ところが教え方が下手なのだ。変身の術の稽古でも、悟空は「だめだめ。てんで気持が凝らないんじゃないか、お前は。」「もういい。もういい。止めろ!」と怒鳴りつけてしまう。
これは『バケモノの子』の熊徹のキャラクターそのものだ。
怒鳴る悟空を、悟浄は冷静に観察している。
「悟空によれば、変化の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。」
これも、熊徹が九太に云っていたことと同じだ。熊徹も、剣術は胸の中の剣を振るうんだと云っていた。
『悟浄出世』の沙悟浄は、「俺とはいったいなんだ?」と悩んでいる。そういえば、九太も同じことを口にしていた。
悩んだ沙悟浄は賢者たちに教えを乞うため旅に出る。九太の旅のモチーフはここから来ていたのか。
『バケモノの子』を観ていると、しきりと『ドラゴンボール』が思い出されたのもとうぜんだ。両者ともに、その源流には『西遊記』があるのだから。[*]
してみると、各キャラクターの位置づけも明らかになってくる。
無学で粗野だが戦いの腕はズバ抜けている暴れん坊の熊徹は孫悟空だ。猿のバケモノじゃそのまま過ぎるからだろう、本作では熊のように強く、猿のように体力があることになっている。バケモノの世界「渋天街(じゅうてんがい)」では剣を抜くことを禁じられ、みんな鞘のまま戦う決まりになっているのも、如意棒の棒術が根底にあるからだろう。
相棒の多々良(たたら)は猪八戒に相当しよう。『ドラゴンボール』では豚のウーロンが該当するが、本作では主人公を熊にしてしまったので、代わりに多々良が猿である。
多々良の代わりに豚顔になった百秋坊(ひゃくしゅうぼう)は、沙悟浄に相当する。
えッ、百秋坊は僧侶だから三蔵法師じゃないの? あるいは豚顔だからこっちが猪八戒じゃないの? と云われそうだが、『西遊記』の沙悟浄は沙和尚とも呼ばれ、本来は僧の姿をしているのだ。『ドラゴンボール』のヤムチャには沙悟浄の面影がほとんど残っていないけれど、剃髪して僧衣を着ている百秋坊はまだ沙悟浄に近い。
本作の語り部として熊徹や九太の行動を冷静に観察する様子は、『悟浄歎異』で仲間を観察する沙悟浄の態度を受け継いでいる。
劇中で熊徹、九太、多々良、百秋坊の四人で旅をするのも『西遊記』そのものだ。
ここまでくればお判りだろう、バケモノの熊徹(孫悟空)、多々良(猪八戒)、百秋坊(沙悟浄)とともに旅する唯一の人間、九太は三蔵法師なのだ。熊徹は賢者の話を聞いてもピンと来なかったようだが、九太はこの旅からも多くを学ぶ。
えッ、三蔵法師は悟空の師匠じゃないの? 九太は熊徹の弟子なんだから立場が逆じゃないの? と云われそうだが、『西遊記』の三蔵法師は必ずしも悟空の上に立つばかりの人物ではない。それどころか『悟浄歎異』では、弱くて意気地がなくて妖怪にすぐに掴まってしまう存在として描かれている。孫悟空には「世話の焼ける先生だ。」「あぶなくて見ちゃいられない。」などと文句を云われる。それでも沙悟浄は、か弱い三蔵法師の心の中に貴い強さがあることを見抜いている。そして孫悟空の三蔵法師に対する気持の中に、本人は自覚せずとも本能的な畏敬、美と貴さへの憧憬が加わっていることも見抜いている。
二人を観察する沙悟浄は「二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。」と述べている。これは熊徹と九太の修行を見つめる宗師の「どちらが師匠か判らぬのぅ」というセリフに通じよう。
九太が勉強熱心なのはとうぜんなのだ。苦労して天竺へお経を取りに行くほどの高僧がモチーフなのだから。『ドラゴンボール』でもブルマは発明家で、かろうじて学のある人物だった。
バケモノの世界で多くの者と出会い、多くを学び、人間界に帰ってくる九太=蓮は、まさしく西域を旅してお経を持ち帰る法師である。
いろんな経験をして、立派な大人になって欲しい。そんな親の気持ちがこの作品には充満している。
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自分自身が親となって実感したことでもあるのですが、子どもというのは親が育てているようでいて、実はあまりそうではなく、もっと沢山の人に育てられているのではないかなという気がするのです。父親のことなんか忘れて、心の師匠みたいな人が現れて、その人の存在が大きくなっていくだろう。そうしたら、父親、つまり僕のことなんて忘れちゃうかもしれない(笑)。それが微笑ましいというか、それぐらい誇らしい成長を遂げてくれたら嬉しいなということを自分の子どもに対して思うのです。子どもが沢山の人から影響を受けて成長していく様を、この映画を通して考えていきたいです。
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公式サイトの細田監督の言葉だ。
熊徹は、名実ともに九太の心の師匠になる。
誰にでもそういう人がいるのではないだろうか。たとえ会ったことはなくても、尊敬し、影響を受けた人物。そういう存在が人を成長させるのだ。熊徹はその象徴なのだ。
人間界に戻った九太は勉強を続ける。帰国した玄奘三蔵が『大般若経』を翻訳して経典を世に広めたように、人間界に戻ってからこそやることがたくさんあるのだ。
[*] 細田守監督は、本作をつくるに当たり強く影響を受けた作品としてジャッキー・チェン主演の『スネーキーモンキー/蛇拳』を挙げている。
鳥山明氏がもっともインパクトを受けた映画が『燃えよドラゴン』とジャッキー・チェン主演の『ドランク・モンキー/酔拳』であり、『ドラゴンボール』誕生のきっかけにジャッキー・チェン映画があったことはつとに有名。
両作に共通する、弱っちい若者が達人の下で修業を積み、師とともに敵対する道場の一派と戦うフォーマットは、ジャッキー映画の流れを汲むものでもあろう。
![バケモノの子 (スペシャル・エディション) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/71t9V2WSGqL._SL160_.jpg)
監督・原作・脚本/細田守 脚本協力/奥寺佐渡子
出演/役所広司 宮崎あおい 染谷将太 広瀬すず リリー・フランキー 大泉洋 津川雅彦 山路和弘 宮野真守 山口勝平 長塚圭史 麻生久美子 黒木華 大野百花 諸星すみれ
日本公開/2015年7月11日
ジャンル/[ファンタジー] [青春] [アドベンチャー]

『映画 ひつじのショーン ~バック・トゥ・ザ・ホーム~』 なぜ大人の心にしみるのか

現在は一人のファンが何枚ものCDを買うように仕向ける商法があるけれど、そんなことしなくても本当にヒットする曲は爆発的に売れまくる。
日本でもっとも売れたシングルは、およそ一家で一枚しか買うことのなかった時代、1975年に発売された高田ひろお作詞・佐瀬寿一作曲の『およげ!たいやきくん』だ。
『映画 ひつじのショーン ~バック・トゥ・ザ・ホーム~』をご覧になった方なら、私がなぜ『およげ!たいやきくん』を持ち出すのかお察しいただけると思う。
毎日毎日 ぼくらは鉄板の上で焼かれて 嫌になっちゃうよ……
子門真人さんが嫌そうに歌うこの曲が大ヒットしたのは、サラリーマンに支持されたからだと云われる。『およげ!たいやきくん』は子供向けのテレビ番組『ひらけ!ポンキッキ』内で流れる童謡だったが、その哀愁に満ちた歌詞はサラリーマンの心にしみた。
ショーンら牧場のひつじたちも、毎日々々の繰り返しが嫌になっていた。ひつじ小屋から出され、追い立てられ、毛を刈られ、また小屋に閉じ込められる。毎日が同じことの繰り返しだ。
たいやきくんが店のおじさんとケンカして海に逃げ込んだように、ショーンたちも牧場からの逃走を図る。
ここからはじまるてんやわんやの大騒動は、実に楽しく愉快である。
しかし、同時に大人の観客にはしみじみと胸に迫るものがあるだろう。
騒ぎの中、ショーンたちを厳しく管理してきた牧場主は行方不明になってしまう。意外なことに、牧場から解放されることで外の世界を楽しんだのは牧場主だった。たいやきくんが海での自由な生活を喜んだように、牧場主は都会の暮らしを満喫する。
弱ったのは、ちょっとバカンスに出かけたいだけだったショーンたちだ。牧場主がいなければ、日々の食事にも困ってしまう。
かくして、ショーンたちは自分らが逃走を企てたことを棚に上げ、牧場主を連れ戻そうとする。人間とは勝手なものだ(ひつじだけど)。
ショーンらひつじの群れに牧羊犬ビッツァーを加えた一行は、牧場主を求めて涙ぐましい努力をする。
セリフがなくても、彼らの気持ちは痛いほど伝わる。この人形アニメのキャラクターは嘆息したり声を上げたりはするけれど、言葉は一切喋らない。
チャールズ・チャップリンもバスター・キートンもサイレント映画で豊かな感情を伝えたというのに、昨今の映画はセリフで一から十まで説明することが少なくない。それがヒットするのだから、観客がそういう映画を求めているのだろう。だが、できれば映画には映像でこそ語ってほしい。
本作で共同監督を務めたリチャード・スターザックは次のように述べている。[*]
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テレビシリーズ開始時は、単純に経済的理由でせりふをなくした。せりふに合わせて動かせば、その分、コストがかかるから。ただ、その場合、言葉ではなく映像の力で物語を語らせる必要がある。それは、作り手にとってとても挑戦しがいがあると気づいた。
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セリフがなくても、いやセリフがないからこそ、ショーンたちの素直な思いに私たちは感情移入できる。キャラクターの言葉を聞き取って理解する代わりに、映し出される表情や仕草から観客みずから感情を募らせるからだ。
ひつじの群れが街を訪ね歩く滑稽さ、ビッツァーの潜入行のスリル、ノラ犬との友情、そしてノラ犬ならぬノラひつじと化したショーンたちが動物収容センターの捕獲人に追われるサスペンス等々、盛りだくさんの冒険は最後まで飽きさせない。
けれども通奏低音として流れ続けるのは、あるのが当たり前だと思っていた日常がなくなってしまった喪失感だ。
あんなに逃げたがっていた牧場に、みんなで帰ろうとするショーンたち。髪が薄くなった今になって思わぬ成功を手にし、都会の絵の具に染まっていく牧場主。
これらの描写が、みんなで暮らした家のかけがえのなさを痛感させる。
昨日と同じ今日を過ごせることのありがたみに気づかせてくれる。
子供向けテレビ番組の童謡だった『およげ!たいやきくん』は、サラリーマン層がその存在に気づいたことで日本一の大ヒットになった。
子供向けの人形アニメとして宣伝される本作も、真価はそれにとどまらない。
[*] 2015年7月10日 読売新聞夕刊

監督・脚本/マーク・バートン、リチャード・スターザック
日本公開/2015年7月4日
ジャンル/[コメディ] [ファミリー]

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『ターミネーター:新起動/ジェニシス』 ジェネシスではなかった!
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アイアンマンに作られた人工知能ウルトロンが現生人類の絶滅を企む『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(2015年)や、科学者の記憶をアップロードされた人工知能が世界を支配しはじめる『トランセンデンス』(2014年)や、新型プログラムを仕込まれたロボットが不法行為に手を貸す『チャッピー』(2015年)……。『her/世界でひとつの彼女』(2013年)に至っては、人工知能と恋に落ちた男性が"彼女"に振られてしまう。
挙句の果てに、2015年7月の『ターミネーター:新起動/ジェニシス』だ。人工知能スカイネットと人類との時空を超えた戦いを描くシリーズ最新作である。
映画の制作には何年も要するのに、似た趣向の作品が集中するとは興味深い。
もちろんこれは偶然ではなかろう。
コンピューターは1940年代に暗号解読や弾道計算等の戦争の道具として発達した。1951年に商用コンピューターが発売され、やがて人工知能ブームが起きると、それを追うように映画には「人類に反旗を翻すコンピューター」が登場した。
最初の人工知能ブームは1950~60年代で、1966年の『サイボーグ009』(敵の首領は電子頭脳だった)や、1968年の『2001年宇宙の旅』(コンピューターHAL 9000により宇宙船の乗員が殺される)、1970年の『地球爆破作戦』(米ソ両大国のコンピューターが勝手に手を組んで人類を支配する)等がこのブームに符合しよう。まだ日本では、コンピューターと呼ぶより電子頭脳と呼ぶほうが通りが良かった時代である。
二度目のブームは1980年代で、映画界はスーパーマンがコンピューターと戦う『スーパーマンIII/電子の要塞』(1983年)や、ターミネーターシリーズの嚆矢となる『ターミネーター』(1984年)を公開した。シリーズ最高峰にして(その時点での)完結編『ターミネーター2』は1991年の公開だ。劇中において人工知能スカイネットが核ミサイルで人類文明を破壊する「審判の日」が1997年とされたのは、当時の人工知能ブームの中、「10年後の1998年には、人間と同じやり方で自ら学べる機械が出現する」と予言されたことを踏まえたのかもしれない。
人工知能の暴走を描く映画が溢れる現在は、3回目の人工知能ブームの真っ只中だ。人間が教えなくてもコンピューターがみずから学習するディープラーニングの実現は、人工知能の可能性を飛躍的に高めた。
タブレット型端末の普及はコンピューターを身近にし、私たちはごく日常的にコンピューターの恩恵にあずかるようになった。
一方で、今後20年のうちに英国の雇用の35%が機械に置き換えられる可能性があるといわれ、米国の総雇用者の約47%の仕事は機械に置き換わる可能性が高いといわれる。ロボットやコンピューターは芸術等のクリエイティブな作業には向かないという意見もあるが、いまや機械が作曲も執筆もする世の中だ。
こんな時代、人工知能が人間の手に負えなくなる映画が続出するのはとうぜんだ。一貫して人工知能と人類の戦いを描いてきたターミネーターシリーズの復活は、今を置いてない。
こう書くと、「2003年には『ターミネーター3』が、2009年には『ターミネーター4』が公開されたではないか。ターミネーターシリーズは30年以上連綿と続いている。」と主張するご仁もいるだろう。
ごもっとも。
しかし、第一作、第二作の監督・脚本を務めたジェームズ・キャメロンは、『ターミネーター:新起動/ジェニシス』を「私の心の中では第三作」と呼ぶ。『ターミネーター3』『ターミネーター4』をお気に召さないキャメロンは、それらをバッサリ切り捨てた。
『ターミネーター3』も『ターミネーター4』もそれなりに面白いと思うけれど、『ターミネーター』や『ターミネーター2』と比べたらそりゃあ分が悪い。
そもそも『ターミネーター』は一作できっちり話が終わっているから、続編なんて必要ない。それをあえて時間をかけて構想しただけあって、『ターミネーター2』は文句なしの傑作だ。完結編に相応しい、ドラマチックな最後だった。
なのに、その続きを無理矢理つくったのだから、『ターミネーター3』が蛇足感でいっぱいなのは仕方がない。スカイネットと戦う未来世界を舞台にした『ターミネーター4』は、番外編の位置づけにならざるを得ない。
それでもジェームズ・キャメロンに「第一作には偉大なアイデアがあった。第二作の物語には、観客がターミネーターのために泣くほどの道徳的な複雑さがあった。第三作や第四作はその域に達していない」と云われると、ぐうの音も出ない。
通算で第五作に当たる『ターミネーター:新起動/ジェニシス』は、かくも辛口のキャメロンがシリーズの後継作と認める作品だ。
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しかし、いつまでもターミネーターで恐怖を演出できるものではない。
ゴジラシリーズがいい例だ。1954年の『ゴジラ』第一作の水爆大怪獣ゴジラは恐怖の象徴だったけれど、観客がゴジラに慣れるにつれてただのヒーローになっていき、ゴジラシリーズはゲスト怪獣の量で観客の興味を繋ぎとめるようになった。
ターミネーターシリーズも、新型、旧型のターミネーターが入り乱れる派手なアクションが売りになった。それはそれで面白いが、恐怖を置き去りにしたために、一、二作目のような迫力は失われた。
ところが本作は、再び怪物に追いかけられる話に立ち返った。
「いまさら……」と思われかねないのを解決する方法は、一、二作目のストーリーを改めてなぞることだった。
私は本作のアプローチに感心した。
30年以上続いてきたシリーズだから、観客には様々な人がいるはずだ。旧作をきちんと観てきた人もいれば、映画を観なくてもターミネーターについては見聞きした人もいるだろう。本シリーズをまったく知らない人も少なくあるまい。そんな多様な観客がみんな楽しめるように工夫されたのが本作だ。
本作は過去の映画の「続き」ではない。未来から現代へ刺客が送り込まれる第一作をなぞっており、旧作を知らない人でも一から作品世界に入っていける。ターミネーターについて見聞きしたことがある人は、こういう作品かと改めて理解を深めるだろう。
だが本作は、未来から現代に着いて早々に第一作から乖離する。そのため、旧作を知らない人が普通にスリリングな展開を楽しむと同時に、旧作を知っている人は意表を突いた展開に翻弄される。どの観客もそれぞれの立場で楽しめる作品なのだ。
こんなことができるのも、(第三作や第四作では忘れていたが)ターミネーターシリーズが歴史改変SFだからだ。
豊田有恒氏は、蒙古が支配する未来から鎌倉時代の日本にやってきた未来人が武士と力を合わせて蒙古軍を撃退する『退魔戦記』を著した。未来人が現代あるいは過去にタイムトラベルして歴史を変える歴史改変SFでは、未来か過去、又はその両方が私たちの知る歴史と異なる。
本作では、歴史を変えるために過去に刺客を送り込む機械軍に対抗して、人類側も歴史を守る戦士を過去に送るまでは旧作と同じだが、到着した過去がすでに改変されていたことから、戦士と観客はド肝を抜かれてしまう。観客が目にしているのは、いったいどの時間軸なのか。旧作の世界とはどこで分岐したのか。観客をすっかり混乱させてくれるのは、歴史改変SFならではの醍醐味だ。
しかも、旧作とは少し違うといっても、基本は旧作の再現だから、旧作の面白さも改めて味わえる。
私が本作で一番面白かったのは、T-1000との激闘だ。どんな攻撃にもびくともしないT-1000を見ながら、私は『ターミネーター2』の面白さを思い出していた。
20世紀から21世紀へのタイムトラベルはテレビドラマ『ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ』を思わせるし、避難先の隠れ家や爆発を逃れるシェルターは『ターミネーター3』の核シェルターに似ている。
少しずつ違いながらも旧作をなぞる本作は、いいとこ取りのリメイクであり、ターミネーターシリーズのセルフパロディなのだ。
ゴジラシリーズや007シリーズに顕著だが、長く続いたシリーズは原点回帰と称して部分的なリメイクに陥ったり、偉大な旧作に囚われてセルフパロディに堕してしまうことがある。
それを喜ぶファンもいるが、私はそういう変化球を好まない。
けれども本作は、歴史改変SFとして複数の時間軸の混合に必然性があり、旧作をなぞることに納得できる。
この手で来たか、と私は感心した。
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タイムパラドックスの扱いも巧いとはいえない。複数の時間軸にまたがる記憶を持つなんて都合が良すぎる。
主人公たちがスカイネットの誕生を阻止するために1984年から2017年にタイムトラベルするのもどう考えてもおかしくて、せっかくスカイネットの誕生まで33年も余裕があったのに、タイムトラベルのおかげでスカイネット誕生が目前に迫ってしまう。
主人公を襲う新ターミネーターのT-3000や、T-3000を生み出すT-5000の描写も、ナノマシンの特徴を生かしたとはいえない。
でも、細かいことは気にしないのが本シリーズを観る心得だ。アンドロイド(人型ロボット)をサイボーグと呼んだり、裸でタイムトラベルすることを正当化したりと、気にしてたら切りがないのは旧作も同様だ。
本作の特筆すべき点は、ジョン・コナー伝説を断ち切ったことだろう。
未来の指導者ジョン・コナーはシリーズを通じて伝説的な存在であり、登場シーンの多寡にかかわらずシリーズ全体に大きな存在感を放っていた。
そのジョン・コナーを本作では英雄の座から引きずり下ろした。セルフパロディと思わせながら、大胆な改変だ。賛否両論あるだろうが、私はチャレンジ精神を買いたいと思う。
当初『Terminator Genesis(ジェネシス)』と伝えられた原題は、『Terminator Genisys(ジェニシス)』だった。Genesis(ジェネシス)とは旧約聖書の創世記のことであり、「起源」「起こり」を意味する。シリーズをリブートした新三部作の一作目として適切な題だと思うが、本作は一ひねりしてGenisys(ジェニシス)にした。Genisysは、劇中ではスカイネットと化すコンピューターシステムの名称だ。サイバーダイン社が開発したシステム「Genisys(ジェニシス)」を起動すると、人類を滅亡させるスカイネットが誕生する。
Genisys(ジェニシス)は、Genesis(ジェネシス)にかけるとともに general intelligence system(汎用知能システム)の略でもあろう。人工知能ブームの中で新たに紡ぐ物語に相応しい、洒落た題名だ。
2019年にターミネーターシリーズの著作権がジェームズ・キャメロンに戻るため、パラマウント映画は新三部作の二作目を2017年に、新三部作の三作目を2018年に公開するつもりでいる。
このシリーズがどこまで発展するのか楽しみだ。
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監督/アラン・テイラー
出演/アーノルド・シュワルツェネッガー ジェイソン・クラーク エミリア・クラーク ジェイ・コートニー イ・ビョンホン J・K・シモンズ マット・スミス
日本公開/2015年7月10日
ジャンル/[SF] [アクション] [サスペンス]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : アラン・テイラーアーノルド・シュワルツェネッガージェイソン・クラークエミリア・クラークジェイ・コートニーイ・ビョンホンJ・K・シモンズマット・スミス