『トゥモローランド』とは何だったのか?
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「誰も作ってくれないから、僕が作った。」
なんと凛々しく潔い言葉だろう。冒頭の少年のセリフに、私は感極まった。ここに映画の作り手たちの思いが集約されていよう。
『トゥモローランド』はすべての子供たちに、かつて子供だった人たちに、ぜひとも観て欲しい映画なのだ。
それにしても、よりによってトゥモローランドが題材とは!
ウォルト・ディズニー・カンパニーは映像作品を題材にしたアトラクションを開発する一方で、アトラクションを題材にした映像作品の開発にも余念がない。
これまでにもお化け屋敷のアトラクション「ホーンテッドマンション」を題材にしたエディ・マーフィ主演の『ホーンテッドマンション』や、「カリブの海賊」を題材にしたジョニー・デップ主演の『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ等が作られてきた。映画のヒットとパークへの集客、キャラクターグッズの販売等々、二兎も三兎も追う戦略だ。
その戦略の一翼を担う映画『トゥモローランド』の結論はごくシンプルだ。
「トゥモローランドに行って、アトラクションを体験しよう。」
これだけのことに過ぎない。
いたってシンプルな結論だが、しかし、この結論を導き出すのは容易ではない。映画の作り手には並々ならぬ苦労があったはずだ。
■ディズニーランドを破壊する矛盾
トゥモローランドの運営は、さぞかし苦労が多いに違いない。映画に登場するトゥモローランドではなく、各地のディズニーパークに設けられたテーマランドのことだ。
ディズニーパークは米国のカリフォルニアとフロリダ、日本の東京圏、フランスのパリ、中国の香港にあり、現在上海でも建設中だが、トゥモローランドはこのうちカリフォルニア、フロリダ、東京圏、香港の四ヶ所で楽しめる。
トゥモローランドの難しさは、そのテーマにある。その名のとおり「未来」をテーマとするこのエリアは、いずれ科学者たちが実現するであろう未来の素晴らしさを次代を担う青少年に体験させるためのものだ。それゆえ、ここには子供たちが目をみはるような――未来に憧れ、みずから進歩の担い手になりたくなるような、最先端の科学技術とさらに先の世界を実感できるアトラクションを用意する必要がある。
だが、日進月歩の科学技術を前に、子供たちの知的興奮を刺激し続けるのは並大抵のことではない。
カリフォルニアのディズニーランドが開業した1955年当時なら、自動車技術の一端をうかがえるゴーカートは、トゥモローランドのアトラクションとして申し分なかったかもしれない。しかし、はたして現代の来園客がゴーカートから「未来」を感じるだろうか。
開業当初、「30年以上も未来の1986年の世界」という設定だったカリフォルニアのトゥモローランドは、大改修を経て今や第三世代に突入している。1971年開業のフロリダのトゥモローランドも第二世代になっている。パリのディズニーランドや東京ディズニーシーでは「未来の国」トゥモローランドは建設されず、レトロフューチャー(かつて描かれた未来)を前面に押し出したディスカバリーランドやポートディスカバリーに取って代わられている。
しかも、トゥモローランドを脅かすのは科学の進歩だけではない。
1972年、国際的なシンクタンク、ローマ・クラブは報告書『成長の限界』を発表し、人口増加や環境破壊、資源の枯渇によって、人類文明が遠からず成長の限界に達するだろうと警告した。この報告書は、はたして科学技術の進歩が明るい未来をもたらすのか、目指すべき未来は科学技術の進歩とは別のところにあるのではないか、そんな疑念を人々に植え付けた。
科学の進歩に対して否定的な見方が広まれば、科学がもたらす素晴らしい未来を体験させるトゥモローランドは存在意義を失う。
本作の序盤では、戦乱・騒乱の映像が映し出され、海面の上昇等の地球環境の変化が説明され、思想や文化の統制を描いた『華氏451度』や監視社会を描いた『1984年』を例にディストピアとなった未来が紹介される。科学や技術の進歩は、これらの災難を抑えるどころか拡大・進行させていることが暗に語られる。
「そんなの、云われるまでもない」と思う観客も多いだろう。これらは繰り返し警告されたことであり、人々の意識に染み込んでいる。
高校に出前授業に出かけた研究者の話が毎日新聞に紹介されていた。
「科学技術が役に立っていると思う人?」と生徒に聞いたら、しばらくして半分ぐらい手が挙がった。「科学技術が環境を壊していると思う人?」と聞いたら、間髪入れず全員の手が挙がったという。
このような人々の意識を受けて、多くの映画も科学技術への警鐘を鳴らすものになっている。『ATOM』や『ウォーリー』はゴミだらけになった地球を描き、「これは 人類への 警鐘」という惹句で公開された『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』は大ヒットした。
受けを狙うなら、成功事例にのっとるのが無難だろう。映画『トゥモローランド』も科学への批判や警鐘を鳴らす立場で作るほうが、観客に受け入れられるに違いない。
しかし、それでは自己矛盾だ。
ディズニーランドの開業に当たり、ウォルト・ディズニーはトゥモローランドについてこう述べた。
「未来は、素晴らしい時代になるでしょう。 こんにち、科学者たちは我々の子供や次の世代のために宇宙時代の偉業のドアを開こうとしています。トゥモローランドのアトラクションは、予想される未来の冒険を体験する機会を与えてくれるのです。」
批判や警鐘に彩られた映画では、ウォルト・ディズニーがトゥモローランドのアトラクションを通して伝えたかったことから乖離してしまう。矛盾は、ディズニーが大切にしてきたものを壊してしまうだろう。
時代が変わったから、それも仕方がないのだろうか。では、トゥモローランドを映画にする意義は何だろうか。
映画の作り手はこの問題から逃げることなく、深く深く掘り下げた。視覚効果を駆使すれば、表面的には楽しいアトラクションのような映画を撮ることもできただろうが、作り手たちが選んだのは困難な道だった。
ディズニーが作ったトゥモローランド、その現代における存在意義は何なのか。トゥモローランドとはそもそも何か。トゥモローランドのテーマである「未来」とは、どのようなものなのか。
映画『トゥモローランド』は、その深遠なテーマを追究する作品だ。ここには作り手たちが考察したこと、映画を通じて伝えたい思いが込められている。
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劇中のトゥモローランドは、異次元に築かれた都市だ。そこには偉大な科学者や、才能や情熱を見込まれた者たちが集い、科学技術の研究・開発に専念している。
トゥモローランドの科学水準は、私たちの社会一般を大きく引き離している。宇宙旅行もロボット開発もお手のもの。不老長寿のおかげで、人々の外見は数十年の時を経ても変わることがない。
この設定の懐かしさに、私は感激した。
日本の特撮映画の中でもっとも好きな作品『緯度0大作戦』(1969年)もほぼ同じ設定だった。日米合作のこの映画では、赤道(緯度0度)と日付変更線が交わるところに築かれた秘密の海底都市に科学者たちが移り住み、高度な研究に勤しんでいた。地上では行方不明になったと思われている科学者が、実は緯度0で予算の制約を受けることなく研究三昧の日々を過ごしているのだ。とうぜん緯度0の科学水準は地上をはるかに凌駕し、人工太陽も不老長寿も実現している。
『緯度0大作戦』の原作は、1941年にテッド・シャーマンが書いた連続ラジオドラマだ。奇しくも同じ1969年には、やはり秘密の海底都市を舞台にしたイギリス映画『ネモ船長と海底都市』が公開されている。『海底二万里』の登場人物ネモ船長が築いた都市も、超科学を実現した楽園だ。
『トゥモローランド』のスタッフが『緯度0大作戦』を真似たとか、『ネモ船長と海底都市』にオマージュを捧げたというわけではない。
これらの作品の源流の一つに、ジェームズ・ヒルトンが1933年に発表した小説『失われた地平線』が挙げられよう。チベットの山奥に人知れず存在する理想郷を描いた同作は、ベストセラーになった上に二度も映画化され、その地の名称シャングリラは理想郷の代名詞になった。今でもシャングリラの名は、ホテルやら飲食店やら至るところで使われている。
『失われた地平線』のシャングリラもまた、世界の英知が集まり、不老長寿を実現した世界である。
これらの源流をさらにたどれば、1516年のトマス・モア著『ユートピア』や、引いては五世紀に陶淵明が書いた『桃花源記』の桃源郷に行きつくかもしれない。
これら理想郷に共通するのは、世俗から隔絶した場所にあり、世俗の混乱や制約、無知蒙昧から解放されて、平和な暮らしを営んでいることだ。
桃源郷やシャングリラは山奥にあり、ユートピアは島にあるが、地理的な設定は世俗から隔絶させる方便に過ぎない。時代が変わって単なる山奥とか島では隔絶しにくくなると、『緯度0大作戦』や『ネモ船長と海底都市』のように探査不能の海底になる。
本作のトゥモローランドが異次元にあるのも、世俗の人間にはたどり着けない設定にするためだ。映画『トゥモローランド』は数世紀、いや十数世紀にわたって書かれてきた理想郷モノの系譜に連なるのだ。
『ユートピア』や『失われた地平線』、『緯度0大作戦』等の理想郷の特徴は、一般社会をはるかに凌ぐ知恵や科学に溢れていることにある。一般社会では遠い未来でもなければお目にかかれない制度や技術が、ここではすでに現実になっている。これらの理想郷は未来を先取りした国なのだ。
トマス・モアの『ユートピア』以降、ヨーロッパにはユートピア文学と呼ばれる作品が生まれた。稲葉振一郎氏は、ユートピア文学における異境は現実世界を映す鏡であり、現にある社会の批判を意図していると説明する。
前述した諸作においても、理想の世界を描くことが同時代の実社会への批判となっている。作中の理想郷は一つの理念であり、それが完璧であればあるほど現実社会の問題点や足りないものを浮き彫りにする。
「理想の世界」のイメージは時代とともに移り変わる。トマス・モアが描写したユートピア島の管理社会を、現代人は理想の世界とは感じないかもしれない。
「理想の世界」が現実世界を映す鏡である以上、現実世界が変われば「理想の世界」も変わるのだ。
本作が秀逸なのは、ウォルト・ディズニーの「未来は、素晴らしい時代になるでしょう」という言葉を、トゥモローランドのビジョンとして捉えたことだ。ウォルトの思いを前時代的と退けるのではなく、ゴミだらけの未来を描くのでもなく、「未来は素晴らしい」というビジョンを掲げ、それを体現する場としてトゥモローランドを位置付けた。その輝かしさが現実世界を照らし、社会を批判し、未来に向けた変革を促す。
この方法なら、トゥモローランドを夢のような素晴らしい国として描くことができる。素晴らしければ素晴らしいほど、現実社会での変革の重要性を訴えられる。
映画作品だけでなく、ディズニーパークに設置されたトゥモローランドの存在意義も改めて定義できる。
トゥモローランドは、科学の進歩に驚き、未来的な体験を面白がるだけの場ではない。人々を素晴らしい未来というビジョンに触れさせて、未来を建設する意欲を湧かせるところなのだ。だからこそ、トゥモローランドでアトラクションを体験することに意義がある。
「誰も作ってくれないから、僕が作った。」
フランク少年のこのセリフは、ウォルト・ディズニーの言葉に通じる。
ブラッド・バード監督はウォルト・ディズニーについてこう述べている。
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私自身が信じている未来というのは、ウォルト・ディズニーが語っていたものと共通するものでした。「未来というのは、起こるものではなく作るもの」。私もそう思いますし、楽しく、努力していくものだと。そして、恐れるものではない、受け入れていかないといけないものだと思います。
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もう一人の主人公ケイシーが特別なのは、彼女が決して諦めないからだ。誰も彼もが「科学技術が環境を壊している」と思う時代にあって、ケイシーは科学がもたらす素晴らしい未来を諦めない。理想を掲げて努力すること、それが一番大切なのだと本作は説く。
これだけでも充分に感動的な作品だと私は思うが、本作は「素晴らしい未来」への異議申し立てにも言及して奥が深い。

「未来は素晴らしい」というビジョンを掲げる本作が、懸念するもの。それは批判や警鐘の姿を借りて、未来へのネガティブなイメージを振りまくことだ。
傑作SF映画『インターステラー』が、科学の進歩に後ろ向きな人間を滑稽に描きつつ、「上を見ろ!空を見ろ!星を見ろ!宇宙を見ろ!」と宇宙進出の素晴らしさを謳ったように、本作も人類に明るい未来をもたらすのは科学技術の進歩であると主張する。
そして人類の未来を暗く閉ざすのは、まさに人類の未来は暗いのだと説きたがる批判や警鐘であると指摘する。
これは重要なことだ。多くの映画が批判や警鐘に留まるのに対し、本作はその負の効能まで考察している。
1972年の報告書『成長の限界』は世界に衝撃を与えた。ローマ・クラブが予測した人口増加と資源の枯渇に恐怖した各国は、人口抑制に舵を切った。
ところが現在、先進諸国を悩ますのは少子化の進行と、少子化がもたらす社会の歪みだ。
資源は枯渇しなかった。ローマ・クラブは石油資源が20年で枯渇すると警告したが、40年以上を経ても石油は枯渇していない。
食糧も不足していない。『成長の限界』発表当時、世界の人口は40億に満たなかった。2015年現在、人口は72億を上回るが、世界にはすべての人に行き渡るだけの食糧がある(にもかかわらず、世界の9人に1人は充分な食糧を得ておらず、一方で日本の家庭では全世界の食糧援助量に匹敵する量の食品を捨てている)。
成長の限界にぶち当たらなかった理由を、小峰隆夫氏は次のように説明する。
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結果的に問題を解決したのは「技術の進歩」であった。農業の生産技術は格段に進歩したので、単位あたり収量が大幅に増加し、人口増加を優にまかなうことができた。石油が不足し、価格が上昇すると、省エネルギー型の技術革新が続出し、エネルギー効率は大幅に上昇した。一方、石油の掘削技術も進歩し、オイルシェールなども採算に乗るようになってきた。
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ローマ・クラブの予測に反して、石油をはじめとする化石燃料は今のペースで使用し続けても最低数百年はもつと云われる。探査技術、採掘技術の向上は、これまで化石燃料がないと思われていたところに化石燃料を発見し、利用できないと思われていた化石燃料の利用を可能にした。
小島明氏によれば、『成長の限界』はいたずらに世界に恐怖心をもたらしただけだとの批判があるという。ローマ・クラブの予測が外れたのは人間の創意工夫、イノベーション能力を軽視したためであると指摘されている。
もしも人々が、科学技術が環境を壊していると思い、科学技術の進歩に後ろ向きになったなら、そのときこそ本当に資源は枯渇し、食糧不足になるかもしれない。地球にどんなに資源があっても、それを探査し、採掘する技術がなければ資源がないのと同じだ。食糧を生産し、送り届けるにも技術の支えがいる。
本作のクライマックスは、未来を憂慮して警鐘を鳴らすのを止めさせることだ。
まことに考えさせられる展開だ。
ブラッド・バード監督は、近年の暗いエンターテインメント作品やディストピアものに対する考えを訊かれて、次のように答えている。
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そういった暗いエンターテイメントは、人々が抱えている感情の表れだと思っています。(略)私とデイモン・リンデロフは、なぜ人々の感情がこうなってしまったのか、疑問を持ちました。世界の現状に対して、我々は行き先の分からないバスの乗客のように振舞っていますが、実際は自らハンドルを握って運転できるのです。
目標とする未来をしっかり見据えて、どんな障害でも乗り越えるという意志があれば、今日からでもその旅を始めることができると思っています。そんなことをテーマとした寓話として『トゥモローランド』を作ったんです。
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フランクは、行き先の判らないバスの乗客のようになってしまった人々を代表している。
「誰も作ってくれないから、僕が作った。」と胸を張っていた少年はどこに行ってしまったのか。
フランクがケイシーと行動をともにしながら意欲を取り戻していく過程は、中年男の再生物語であるとともに、ディストピアものに納得している人々の覚醒の象徴でもあろう。

同時に、本作は遊び心も満点でニヤリとさせられる。
最先端の科学技術の成果が集まり、明るい未来の予感にワクワクする場といえば、かつて万国博覧会がその代表だった。
本作では1889年のパリ万博のシンボル、エッフェル塔にトゥモローランドへ行く手段が隠されていたり、ディズニーパークの人気アトラクションであるイッツ・ア・スモールワールドがはじめて世にお目見えした1964年のニューヨーク万博においてトゥモローランドに招く発明家がスカウトされていたりと、人類が素晴らしい未来を夢見てきた歴史を作品世界のあちこちに絡めている。
しかも、トゥモローランドは四人の賢者――エッフェル塔を設計した技師ギュスターヴ・エッフェル、『海底二万里』を執筆した小説家ジュール・ヴェルヌ、発明家ニコラ・テスラ、発明王トーマス・エジソン――が創設したプルス・ウルトラ(更なる前進)なる秘密結社によって作られたと設定されている。
秘密結社が世の中を裏から操っているとか、人知れず大計画を進めているといった妄想、陰謀論は一部の人に人気がある。往々にして歴史的な著名人が秘密結社のメンバーだったと云われ、イルミナティ等の組織名が口の端に上ることもある。
陰謀論の秘密結社は悪事を企むものだが、本作のプルス・ウルトラは陰謀論の秘密結社のようでありながら善いことをするのが愉快なところだ。
プロモーション用サイト「STOP PLUS ULTRA」には、あたかもプルス・ウルトラが実在するかのような記事が並び、ウォルト・ディズニーはもとよりブラッド・バード監督までがメンバーに挙げられている。
ケイシー・ニュートンが訪れるSFショップの二人組が、ヒューゴーとアーシュラなのには笑ってしまった。ヒューゴーといえば世界初のSF専門誌アメージング・ストーリーズを創刊した"アメリカSFの父"ヒューゴー・ガーンズバック、アーシュラといえば『ゲド戦記』の作者にして"SF界の女王"アーシュラ・K・ル=グウィンだ。この二人が営むSFショップならぜひ行ってみたいものだ。
店内にスター・ウォーズ関係のグッズが並び、ヒューゴーの登場シーンで「スター・ウォーズのテーマ」を流して笑わせてくれるのは、ディズニーがルーカスフィルムを買収した成果の一端といえようか。
ケイシー・ニュートンのネーミングも振るっている。
ニュートンといえば、万有引力を発見したアイザック・ニュートンが思い浮かぶ。アイザック(Isaac)を逆から読めばケイシーだ。
ケイシーが科学に情熱を傾けるのももっともなのだ。
加えて主人公たちを追跡するロボットがイッツ・ア・スモールワールドで歌い踊るオーディオアニマトロニクスの進化型だというのだから、イッツ・ア・スモールワールドが好きな私は嬉しくなった。
トゥモローランドで子供たちに未来の科学を体験させるだけでなく、技術系ベンチャー企業を育成しているディズニーのことだから、歩き回ったり会話もできるオーディオアニマトロニクスを本当に見せてくれる日が来るかもしれない。
本作を観たら、やっぱりディズニーランドに行って、トゥモローランドのアトラクションを楽しみたい。
世界に四つしかないトゥモローランドの一つが、日本にはあるのだから。
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監督・制作・原案・脚本/ブラッド・バード
制作・原案・脚本/デイモン・リンデロフ
出演/ジョージ・クルーニー ブリット・ロバートソン ラフィー・キャシディ ヒュー・ローリー トーマス・ロビンソン ティム・マッグロウ キャスリン・ハーン キーガン=マイケル・キー
日本公開/2015年6月6日
ジャンル/[ミステリー] [アドベンチャー] [SF]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ブラッド・バードデイモン・リンデロフジョージ・クルーニーブリット・ロバートソンラフィー・キャシディヒュー・ローリートーマス・ロビンソンティム・マッグロウキャスリン・ハーンキーガン=マイケル・キー
『海街diary』 小津をほうふつって本当?

褒め言葉として適切かどうか判らないが、『海街diary』に抱いたのはそんな感慨だ。
外国の映画の方が日本の映画より上等だとか、是枝裕和監督が外国の作品をなぞっているというわけではない。日常のディテールをきっちり押さえた作り込み、無駄のないセリフ、冴えた映像、研ぎ澄まされた編集、そして家族という普遍的なテーマが、日本とかどうとかいう枠を超えた至高の境地に達して、実に心地好い映画なのだ。
日本人なら判ってねという甘えに陥らず、本作は人間誰しも感じるであろうことを一からきちんと積み上げている。
これほどまでに端正に、繊細に作られた映画を観られたことが何より嬉しい。
ぼたもち、花火、梅酒、葬式……。描かれる習俗は日本のものだが、日本の暮らしを描くことが主眼ではない。四人の姉妹の生活を丁寧に描写する上で、これらがディテールを埋めてくれたというだけだ。
日本の文化や日本人の暮らしを通して、家族というものを丁寧に端正に撮った監督といえば、小津安二郎が代表だろう。そんな小津が影響を受けたのは、エルンスト・ルビッチ監督らのアメリカ映画だ。骨太の時代劇で知られる黒澤明監督が敬愛したのも米国のジョン・フォード監督だった。
小津や黒澤が世界で高く評価されるのは、日本の文化や伝統を描いたからではない。作品に普遍的なテーマや胸を打つドラマがあり、そのディテールとして寸分の妥協もなく描いた文化、習俗がたまたま(主人公が暮らす)日本のものだったに過ぎない。
是枝裕和監督の作品も同じだ。
撮影に当たって監督は「自分で取材し、目にしたものを膨らまし、キャラクターに肉付けし、生活感やディテールを大事にしていきたいと思っています」と述べている。鎌倉での姉妹の暮らしが細部に至るまでじっくりと描き出されることで、鎌倉を訪れたことのない(どこの国の)人にも彼女たちの存在感が伝わろう。
米国の海沿いの家に住む姉妹を描いた『八月の鯨』(1987年)や、英国の良家の子女を描いた『眺めのいい部屋』(1986年)が、米国や英国に限らず高い評価を得たように、生活感やディテールを大事にした映画は万国共通で見応えがある。
面白いのは、それほどディテールをきっちりしながら、観客を現実に引き戻したりしないことだ。
観客は多かれ少なかれ映画に非日常を求めている。わざわざ映画館に行ってまで、日頃自分が身を置いている日常にまみれたいとは思わない。
その点、『海街diary』は暗くドロドロした題材にこだわることで、非日常を演出する。この映画が取り上げるのは、子供を捨てる親や不倫、失恋、親しい者の死だ。世間を騒がす事件ではないが、当事者にとっては大きな出来事が四姉妹に訪れる。
にもかかわらず、全編を覆う落ち着きと美しさはどうしたことだ。ここには調和と平安がある。
ここに私は、小津安二郎に似た作家性を感じる。
小津安二郎は、子供を捨てる親や不倫を扱った『東京暮色』(1957年)等の路線と、結婚話を軸に調和の取れた大人の暮らしを描いた『麦秋』(1951年)等の路線、味わいの違う二つの作品群を交互に発表した。それはまるで、二人の異なる監督がいるようだった。
是枝裕和監督も、育児放棄を取り上げた『誰も知らない』(2004年)や子供の交換を題材にした『そして父になる』(2013年)を撮る一方で、久しぶりに顔を合わせた家族の様子をユーモアを交えて描いた『歩いても 歩いても』(2008年)を発表してきた。

その二重構造は是枝監督の狙うところだ。
「一見、ほのぼのとしたホームドラマにも見えますが、血がつながった4姉妹というシンプルな話ではなく、それぞれが秘密を抱えていたり、すずが新たに家族の一員となることで今まで見えなかった棘が見え隠れするところが好きで、新しい時代の家族劇だと思っています。」
新しい時代の家族劇――。
小津安二郎、山田洋次等々、家族劇を得意とする監督は多く、これまでに数々の家族劇が作られてきたけれど、子供を捨てて出奔する親や不倫を題材にしながらほのぼのとしたホームドラマに仕立てた映画は新しいかもしれない。
一つには、小津が活躍した頃に比べて時代も人の意識も変わってきたことがあるだろう。小津の時代、不倫劇をほのぼのと描くなんて考えられなかったに違いない。
とはいえ、現在でもほのぼの不倫とか、子供を捨てた親とほのぼの会話する映画を大衆向けに作るのはハードルが高い気がする。
新しい時代の家族劇、それは挑戦なのだ。『東京暮色』のようなドロドロした題材を、『麦秋』のように淡々と美しく撮るという挑戦だ。
「デビュー以来ずっと、小津安二郎から受けた影響を聞かれることも多くて、はじめのころは『あんまり観ていないし、影響もうけていません』と答えていた」という是枝監督だが、『海街diary』では参考のために小津作品を見直したそうだ。
「ヨーロッパに作品をもってくるとよく『小津の孫』だと言われた。それが最高の褒め言葉だということはわかるが、こそばゆい感じが続いていた。ただ今回は原作(吉田秋生の漫画)がたたえる世界観が小津を思わせた。単なる人間ドラマというより、人間を取り巻く時間を描いている。過ぎ去るというより、積み重なっていく時間。それが小津的だなと感じたのは事実だ。何本かの小津作品を参考のため見直した。今までより身近なものとして小津をとらえられたかもしれない」
たしかに小津は『麦秋』について次のように語っている。
「ストーリーそのものより、もっと深い《輪廻》というか《無常》というか、そういうものを描きたいと思った」
小津の言葉は、そのまま本作にも当てはまる。
葬式ではじまり葬式で終わる本作は、鎌倉の三姉妹と腹違いの妹の物語だが、四人が一緒に暮らせる時間は長くない。結婚したり独り立ちしたりで、いずれ誰かか(誰もが)家を出ていくだろうことが物語の節々で示唆される。
だからこそ、この短い時間――四人で暮らす日常の大切さとはかなさが伝わってくる。
なるほど、小津を思わせる世界観だ。
2015年5月18日の日経新聞では、本作が小津安二郎の映画を連想させるものとして、「鎌倉を舞台にしていること、家族の日常の物語であること、嫁入り前の女性たちが登場すること、葬式が3度も出てくること」を挙げている(正しくは三度の葬式ではなく、二回の葬式と七回忌)。
ロイターも本作を「鎌倉で暮らす3姉妹が疎遠になった父親の葬儀をきっかけに異母妹と生活をともにするという物語。故・小津安二郎監督の作品をほうふつとさせる仕上がりだ。」と紹介する。
だが、鎌倉を舞台にした小津映画、『麦秋』や『晩春』で葬式は描かれないし、葬式が描かれる『東京物語』や『小早川家の秋』の舞台は鎌倉ではない。小津の全フィルモグラフィーから鎌倉やら葬式やらを共通点として挙げだしたら、多くの映画が小津映画を連想させることになってしまう。
鎌倉での生活や葬式は原作にあることなので、そこを起点に小津映画を連想してもあまり意味はないだろう。
それよりも注目したいのは、是枝監督が述べた世界観と、映画のスタイルだ。私は後者が、過去の作品も含めた是枝監督作と小津映画における最大の共通点だと思う。
小津安二郎の映画のスタイル。それは小津自身の次の言葉に要約されよう。
「私は、画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど、穢(きたな)いものを、とり上げる必要のある事もあった。しかし、それと画面の清潔、不潔とは違うことである。現実を、その通りにとり上げて、それで穢いものが、穢らしく感じられることは、好ましくない。映画では、それが美しく、とり上げられなくてはならない。」
そう、小津映画の画面は清潔なのだ。是枝監督の映画も。
是枝監督は美しいもの、たとえば桜の花や縁側の風景はしっかり映す。他方、酔ったすずが吐きそうになる場面では、すずは早々にフレームの外に退場する。穢いもの、不潔なものは画面に出さない。

本作の撮影は、ダイワハウスのCMで是枝監督を魅了した瀧本幹也氏が『そして父になる』に続いて担当し、清潔な画面を作り上げている。
長年CMの仕事をしてきた瀧本氏は、面白いことに小津安二郎と似たようなことを云っている。
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映画は観たくなければ劇場に行かなければいいけど、CMは違います。見たくなくても目に入ってきますよね。しかも、広告って、悪い言い方すると、強制的に見せて、商品を売り込むためのものだから、洗脳力がある。
1億もの人の脳の細胞のどこかに、無意識のうちにでも僕の撮った映像が蓄積されていくことになる。それだけに粗悪なものだったり、暴力的なものだったりしていいわけがないと思うんです。責任を取ることはできないけど、せめて責任感はもってないといけないんじゃないかなと思って、やっています。
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粗悪なもの、暴力的なものは撮らないことを心掛けてきた瀧本氏なればこそ、穢いものでも美しくとり上げるのが映画だという小津作品のような清潔さが出せるのだろう。
主要人物に当代きっての美男美女を配するのも、小津安二郎と是枝監督の共通点だ。
平凡な日常を描くようでいて、小津安二郎は佐田啓二、原節子、司葉子ら絶世の美男美女を好んで起用した。小津映画は美男美女の世界なのだ。
是枝監督も美男美女が大好きだ。庶民のしょぼくれた日常を描くときも、阿部寛さんや真木よう子さんのように目鼻立ちのはっきりした美男美女を配してしまう。
本作の四姉妹にしても、長女が綾瀬はるかさん、次女が長澤まさみさん、三女が夏帆さん、四女が広瀬すずさんと、驚くほどの美女を揃えた。キャストの知名度ばかりで集客する商業映画ならともかく、カンヌに持っていく勝負作でこのキャスティングとは是枝監督らしい。もちろん、四人とも素晴らしい役者であることは云うまでもない。
もう一つ、是枝監督の映画の特徴として、後味の良さが挙げられるだろう。
本作でも、中盤では家族の衝突や苦悩があるものの、観終わったあとに残るのは温かさと爽やかさだ。
撮影に当たり、是枝監督はこうも述べている。
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幸たちが、すずという存在を通して自分たちを捨てた父親や母親をどう許していけるのか、
また、自分が産まれたことで人を傷つけていると知ったすずが、姉たちと暮らすことで「産まれてきてよかったんだ」と思えるようになるのか、
その2つを柱に、4人が姉妹になっていく、家族になっていく1年間の過程を描けたらと思っています。
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家族になった四人の姿に、観客は心洗われる。
小津安二郎監督も、こんな言葉を残している。
「一口でいえば、見終わったときの後味だね。いくらいい話でも、後味の悪いものは御免だ。我慢して見ても、後味のいいものはいい。」
本当にいいものは、後味がいい。

監督・脚本・編集/是枝裕和
出演/綾瀬はるか 長澤まさみ 夏帆 広瀬すず 大竹しのぶ 堤真一 風吹ジュン 樹木希林 リリー・フランキー 加瀬亮 鈴木亮平 キムラ緑子 前田旺志郎 池田貴史 坂口健太郎
日本公開/2015年6月13日
ジャンル/[ドラマ]

『予告犯』 世界を変える方法
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予告犯は、犯行前日にメッセージを配信する。
明日の予告を教えてやる。
勘違いするな。
俺は自分の為にやってるわけじゃない。
何がしたいかって?
まあ、黙って見てろよ。
俺が世界を変えてやる。
切なくて涙が止まらなかった。
男たちの人生に。彼らの生き様に。
■表
やばい、面白い……。
『予告犯』がはじまって早々、私は焦った。
スクリーンに映し出されたのは、私的制裁の数々だ。シンブンシと名乗る男は、予告どおりに食品加工会社に火を点け、元アルバイト店員にゴキブリの天麩羅を食わせ、学生のケツにバイブを突っ込み、入社志望者のどもりをバカにした会社員を拉致監禁して歯の根が合わなくなるほど怖がらせた。標的になった者たちは、懲らしめられてとうぜんだった。
しかし、だからといって本当に私的制裁を加えて良いはずがない。
……はずはないのだが、客席の私は痛快に感じてしまった。
一つには、彼らがヒーロー然として巨悪を捻じ伏せたり、命を奪うようなことはせず、ゴキブリを食わせるといった低レベルの嫌がらせに留まるところが等身大で共感しやすかったのだと思う。
もう一つ、標的になった者には多かれ少なかれモデルがあり、その悪質さが思い起こされたからでもあろう。
食中毒事件の記者会見に臨んだ社長が逆ギレして、かえって騒ぎを大きくした石川県の食品加工会社とくれば、モデルは焼肉レストランチェーンの「焼肉酒家えびす」を展開した株式会社フーズ・フォーラスだ。2011年、食中毒で五人の死者を含む181人もの患者を出した同社の社長は、記者会見の席上、提供してはいけない料理なら法律で禁止すればいい、禁止すべきだと発言した。まるで禁じない行政機関が悪いと云わんばかりの態度は、激しい非難を呼んだ。
社長の云い分はともかく、死者まで出したレストランが営業を再開できるはずもない。株式会社フーズ・フォーラスは事件発生から3ヶ月を待たずに廃業となった。
劇中の放火はやり過ぎにも見えるが、当時のバッシングの強さを思えば、もし放火した者がいたらヒーロー扱いされたかもしれない。
法で禁じなければ危険な料理を出してしまう店は少なくない。事件を受けて厚生労働省は「食品、添加物等の規格基準」を厳しくしたが、それでも足らず、『予告犯』が公開された2015年6月には生食用の豚肉の販売・提供まで禁止するに至った。E型肝炎ウイルスや細菌、寄生虫を含むかもしれない豚肉を生で食べるなんて、出すほうも食うほうもどうかしてると思うけれど、2010年代には国が明文化して禁止しないとこういうことをする人間がいたのである。
2010年代には「バイトテロ」「バカッター」という言葉も存在した。
バイトテロとはアルバイトの店員が店の評判を落とすような悪ふざけをソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に投稿することであり、バカッターとは主にTwitterにバカげた行為の様子を投稿することを指す。投稿の内容は主に飲食関係の店舗での不潔な行為だったから、インターネットで投稿が広まると店は営業停止や閉店に追い込まれた。蕎麦屋「泰尚(たいしょう)」のように、相次ぐ「不衛生だ」というクレームから閉店せざるを得なくなり、そのまま倒産してしまった例もある。
「バイトテロ、一生許せない」 あのそば店社長からの手紙
バイトの悪ふざけで倒産した多摩市「泰尚」の慟哭
劇中では、アルバイト店員が店でゴキブリを揚げる様子をSNSに投稿し、それが原因で店は倒産の危機にあることが語られる。
バイトテロ、バカッターによる被害は甚大で、閉店のために解雇された従業員や負債を抱えた経営者は人生を滅茶苦茶にされている。とうぜん店側は、元店員に損害賠償を請求する。この状況ではゴキブリを食わせる程度の制裁なんてかわいいものだ。
現実に吹き荒れた事件の悪質さを思えば、シンブンシのささやかな制裁は痛快だった。
私的制裁に共感するなんて、そんなことでいいのか自分。そう思って私は焦った。
世間では因果応報の物語が好まれる。現実に事件が起きたときも、多くの人がバッシングに加わった。レイプ被害者を侮辱した学生の件では、内定先の企業にも抗議が寄せられ、学生の内定は取り消された。
とはいえ、報いをなすのが「俺が世界を変えてやる」なんて云ってるイカレポンチでいいのだろうか。そんな行為への共感は、断ち切るべきではないだろうか。
私の焦りをよそに、劇中のシンブンシの行動は一気にスケールと面白さを増し、国会議員を襲撃するに至った。
さすが『ゴールデンスランバー』の中村義洋監督と脚本家林民夫氏のコンビ、スリルとサスペンスはお手のものだ。
だが、サスペンスとして面白いだけに、そしてシンブンシたちに肩入れしたくなるがために、私のジレンマは高まった。
制裁のネット配信で人気を博し、英雄視されだしたシンブンシ。私刑への共感を高める彼らは、バイトテロで注目を集めたり、ネットに暴言を垂れ流す者よりも危険な存在に見えた。
ところが、私が焦るまでもなかった。
私的制裁が許されないことを一番理解しているのは、当のシンブンシだった。
『予告犯』が辛辣なのは、シンブンシの最後の標的が自分自身であるからだ。
もしも悪いヤツを私的に懲らしめるだけで終わってしまえば、本作は『必殺仕事人』のような私刑を称賛する作品に堕してしまう。
しかし、シンブンシたちは、そんなものは正義じゃないことを知っていた。バッシングしたり私刑する者がのさばってはならないことを、彼らは理解していた。そんなヤツらこそ退場しなければならない。ひとっかけらのカッコよさもなく、みじめな結末を迎えなければならない。
この展開に、私は大いに感心した。
シンブンシはネットで世間の注目を集め、「悪いヤツ」を叩いて鬱積したものを晴らしたい民衆との一体感を演出した上で、彼らの代表として哀れな末路を辿ってみせた。
実に筋の通った物語だ。SNSが普及し、バッシングが激しさを増す時代に紡がれるべき物語だ。
ネットを通してシンブンシの活躍を見ていた民衆に、シンブンシは教訓を残すことだろう。
■裏
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映画館でスクリーンを見つめる観客にとって、『予告犯』は切ない友情の物語だ。
シンブンシを名乗る男たちは、友だちのヒョロのささやかな夢を叶えるために、それだけのために体を張る。
シンブンシの一人カンサイを演じた鈴木亮平さんは、公式サイトに寄せたコメントで「僕の中で一番ガツンと来たのが、“無償の友情”というテーマ」だと語っている。
彼らは職にあぶれ、履歴書に空白があってどこにも採用してもらえない。真面目に働きたいと思っているのに、それだけの能力だってあるはずなのに、世間は彼らを受け入れない。
山岸俊男氏の研究によれば、日本人が求める秩序ある社会とは、外部の者、異分子を徹底的に排除し、集団に同調できる者だけで固まった社会だという。外部に対して閉ざされた社会では、集団間を渡り歩くことは許されない。集団に所属しない者は「外部の者」「異分子」として扱われ、どの集団も受け入れないのだ。このような社会では、ひとたびレールから外れると、再チャレンジが極めて難しい。
本作の主人公たちは、それぞれの事情で"正社員社会"からはみ出したために、行き場がなく苦しんでいた。
そんな彼らが、法を犯してまでヒョロの夢を叶えようとすることで、ようやく自分の夢も(意図せず)叶えられる。
何かでっかいことをやりたいと思っていたカンサイは、やり遂げた満足感を得る。彼女を欲しがっていたノビタは、仲間との連絡のために通っていた店で素敵な出会いに恵まれる。腹いっぱい寿司を食べるのが夢だったメタボは仲間に寿司を振る舞ってもらえるし、友だちが欲しいと願っていたゲイツは固い絆で結ばれた仲間を得る。
真っ当な社会人として真っ当に振る舞おうとしても叶えられなかったものが、警察に追われる身になったときに手に入る。なんて皮肉な、なんて悲しいタイミングだろう。
彼らがヒョロのためにやろうとしたのは、実はたいしたことではない。
戸田恵梨香さん演じる吉野警部が「それだけ!?」と驚くほど(他人にとっては)小さなことだ。
でも彼らにはそれが大切だった。
中村義洋監督はインタビューで語っている。
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キーになるセリフは「どんな小さなことでも、それが人のためなら人は動く」。ここから、皆さんに想像を膨らませてもらえればと思います。
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中村義洋監督の作品は、ちっぽけなことをする映画ばかりだったように思う。
名もなき人たちの行動が積み重なっていく『フィッシュストーリー』、空き巣に入っても何もしない『ポテチ』、団地から一歩も出ない『みなさん、さようなら』……。
主人公たちは、小さなことかもしれないけれど、人のために何かをしていた。
得てしてエンターテインメント作品は、大事件を解決したり巨悪を倒したりと、大きな出来事を描こうとする。
しかし、世の中は大事件ばかりではない。たくさんあるのは小さなことだ。
私たちが直面しているのは、大事件を解決するか何もしないかの二者択一ではなく、小さなことでも人のために動けるかどうかなのだ。
これしきのことをしたって世界は変わらないと思うのではなく、このちっぽけなことが世界を変える第一歩なんだという思いが、中村作品からは感じられる。ちっぽけなことをする過程で夢が叶ったり、満足感を味わったり、ときには大きなことを成し遂げる。
本作もまた、青年たちが傷つき悩みながら、人のために小さな何かをしようとする物語だ。それが小さなことでも、いや小さなことだからこそ、それをやるのだ。
もしかしたらその小さなことが、10年後、100年後、1000年後の世界を変えているかもしれない。
注目を集める大騒ぎよりも、小さなことでいい、人のために何かをしたり、それをネットに投稿したりしたなら、広がる波紋がやがて世界に影響するかもしれない。
だから本作は未来の予告なのだ。
この映画を観た人が、今日、人のために何かをするかもしれない。小さなことであっても、それがやがて新しい世界をもたらす。
さあ、想像を膨らませよう。それをやるのは、どこかの誰かじゃない。
明日の予告を教えてやる。
勘違いするな。
俺は自分の為にやってるわけじゃない。
何がしたいかって?
まあ、黙って見てろよ。
俺が世界を変えてやる。
![映画 「予告犯」(通常版)[Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91tAR9iB-xL._SL160_.jpg)
監督/中村義洋 脚本/林民夫
出演/生田斗真 戸田恵梨香 鈴木亮平 濱田岳 荒川良々 宅間孝行 坂口健太郎 窪田正孝 小松菜奈 福山康平 仲野茂 田中圭 滝藤賢一 本田博太郎 小日向文世
日本公開/2015年6月6日
ジャンル/[サスペンス]

『駆込み女と駆出し男』が捧げたオマージュ
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原田眞人監督が時代劇!?
本作のことをはじめて知ったとき、私は意外な組み合わせのように感じた。幅広い作品を撮ってきた原田監督をして、時代劇は未経験だったからだ。
しかし、原田監督初の時代劇映画は、観れば『わが母の記』(2011年)の延長として実にしっくりくる作品だった。
原田監督みずから小津安二郎の影響を自認する『わが母の記』は、小津映画を彷彿とさせるショットの続出だった。そして『駆込み女と駆出し男』は、『わが母の記』の原田監督ならさもありなんと思わせるショットの連続だ。
タイトルバックの雨だれの映像からして、端正な小津映画の象徴である麻布のタイトルバックと、原田監督らしいダイナミズムの融合に思える。寺周辺の四季折々の映像は、色彩の美しさと陽射しの明るさが印象的で、伊豆の自然を捉えた『わが母の記』の映像のさらなる進化を見るようだ。
小津のモノクロ作品ばかりを取り上げる世評に反して「小津の真骨頂は色彩にある」と喝破した原田監督ならではの、色彩へのこだわりがうかがえる。
座敷寿司をつまみながら、女の背中に描かれた浮世絵を楽しむ場面。本作でもっともエロチックな光景だが、ここで私が思い起こしたのは小津の代表作の一つ『晩春』の父娘が能舞台を鑑賞する場面であった。小津映画にしては珍しく性的なイメージが言及される『晩春』。そこに焦点を当てて拡大したなら、本作のような映像に結実するのではないだろうか。
だがしかし、『わが母の記』で小津映画を消化/昇華した原田監督のさらなる到達点は、なんと黒澤明を彷彿とさせるものだった。
『駆込み女と駆出し男』を観ながら私が感じたのは、構成が黒澤映画の集大成にして最高峰の『赤ひげ』(1965年)にそっくりだということだ。
原田監督は、公式サイトにこんなコメントを寄せている。
「時代劇映画の神々への思いをぶつけました。『赤ひげ』『どん底』といった黒澤明監督の江戸モノ時代劇から溝口健二、市川崑、川島雄三の名作、あるいは美術と女優に秀でた大映時代劇へのオマージュです。(略)『赤ひげ』でぼくがもっとも好きなエピソードに出ていた山崎努さんには、戯作の神様をお願いしました。」

青年医師が主人公かと思いきや、三船敏郎さん演じる医師「赤ひげ先生」が登場し、強烈な個性で圧倒する。タイトルロールだし、赤ひげが主人公なんだなと思っていると、赤ひげの診察を受ける病人たちの物語があまりにもドラマチックで、さしもの赤ひげも存在感が霞んでしまう。
原作の連作短編そのままに病人たち貧乏人たちのエピソードが次々に描かれるのを観るうちに、観客はこれが一人の主人公、一つの物語を追った映画ではないことを知る。赤ひげと青年医師は狂言回しであり、エピソードごとに登場する貧乏人たちこそ主人公なのだ。いや、真の主人公は、幾つものエピソードを重ねることで浮かび上がる小石川養生所そのものであり、このような救済施設を必要とする社会の貧困と無知を描くことが主眼なのだと判ってくる。
『駆込み女と駆出し男』も同様だ。
大泉洋さん演じる医者見習いの中村信次郎が、主人公格で登場する。しかし本作は中村信次郎の映画ではない。そもそも駆込み寺に男は入れない。
満島ひかりさん演じるお吟(ぎん)や戸田恵梨香さん演じるじょごが夫から逃げて東慶寺に逃げ込むけれど、彼女たちも主人公格とはいえ東慶寺の女人の一人に過ぎない。
花魁の世界を抜けるために策を弄したおせん。離縁できた暁には夫を殺そうと企むゆう。男っ気のない東慶寺にいながら、あろううことか妊娠するおゆき。生きていくために自分も周囲も偽らねばならない玉虫等々、登場するすべての女たちが主人公であり、浮かび上がるのは弱者の「逃げ場」としての東慶寺――「逃げ場」がなければ生きていけない社会そのものだ。
仏教は、本来サンガという集団を作って、人生に絶望して行き場のなくなった人を引き受けるものであるという。
仏教が政治の道具として導入された日本では、釈迦の作ったサンガという組織は定着しなかったが、夫との縁を切りたくて、やむにやまれず駆け込む女たちを引き受けた縁切寺は、似たような役割を果たしてきたといえるかもしれない。
川島雄三の名作『幕末太陽傳』のフランキー堺を思わせる大泉洋さんの軽妙な演技と、鮮やかに切り出されたエピソードの面白さで楽しませてくれる本作だが、その根底にあるのは『赤ひげ』と同じく弱者への眼差しであり、社会における「逃げ場」の大切さだ。
駆込み女を手引きする三代目柏屋源兵衛と、東慶寺の女たちを見守る院代・法秀尼は、さしずめ小石川養生所の赤ひげに相当しよう。
黒澤ヒューマニズムの頂点というべき『赤ひげ』からちょうど半世紀、その偉業を受け継ぐ作品を観られるとは幸せだ。
ただ、『赤ひげ』の185分に比べるとあまりに短い。映画館を後にするのが名残惜しい作品だ。
![駆込み女と駆出し男 (特装限定版) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41meui13fkL._SL160_.jpg)
監督・脚本/原田眞人
出演/大泉洋 戸田恵梨香 満島ひかり 内山理名 陽月華 樹木希林 キムラ緑子 木場勝己 堤真一 神野三鈴 武田真治 北村有起哉 橋本じゅん 山崎一 麿赤兒 山崎努 中村嘉葎雄 でんでん 中村育二 玄里
日本公開/2015年5月16日
ジャンル/[時代劇] [ドラマ]
