『脳内ポイズンベリー』と『インサイド・ヘッド』の違い

興味深い映画が飛び出したものだ。
というのが、『脳内ポイズンベリー』を観ての率直な感想だ。
主人公櫻井いちこが遭遇する現実世界の出来事と、いちこの葛藤を表現する脳内世界が交互に描かれる本作は、近日公開予定のアメリカ映画『インサイド・ヘッド』と似ていなくもない。
だが、作るなら逆だろうと思う。五つの感情、すなわち人間の内にある「喜び」「悲しみ」「怒り」「嫌悪」「恐れ」がそれぞれキャラクターとして動き出す『インサイド・ヘッド』が日本で作られて、『脳内ポイズンベリー』が米国で作られたなら私は何とも思わなかったろう。
ところが『脳内ポイズンベリー』は日本のマンガを原作に、『僕の生きる道』の佐藤祐市氏が監督した正真正銘日本映画だ。この奥深い設定を日本映画で味わえることに私は驚いた。
『脳内ポイズンベリー』は三十路を迎えた櫻井いちこの恋物語だ。年下の芸術家・早乙女と年上の編集者・越智という二人の男性に囲まれて、ウジウジ思い悩む櫻井いちこ。危なっかしくて魅力的な早乙女と、頼もしくて安定した越智の組合せは、カナダ映画『テイク・ディス・ワルツ』とまったく同じ。恋愛物の鉄板の設定だ。
ラブコメ『指輪をはめたい』で弾けたコメディエンヌぶりを発揮した真木よう子さんが、今度は煮え切らない主人公に扮する現実パートは、それはそれで面白い。
けれども本作を特徴づけているのは、櫻井いちこの脳内パートだ。ここでは「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」が擬人化され、脳内の会議で櫻井いちこがなすべきことを話し合っている。
人間は37兆個もの細胞の集合体だ。それぞれの細胞が協調しながら仕事をこなし、結果として全体が一つのものであるかのように振る舞っている。だから人間の脳内をたった五つのキャラクターに集約するのは単純化し過ぎのような気もするが、現実問題として37兆人もキャスティングできないから妥当な設定と云えるだろう。
擬人化されたキャラクターには便宜上名前が付けられている。
調子がいいことばっかり云ってるポジティブな青年・石橋。
ネガティブ思考で攻め立てる大人の女性・池田。
見境なく衝動的な少女・ハトコ。
記録をつけるばかりで議論に加わらない老紳士・岸。
理性的な議長とは名ばかりの、優柔不断なメガネ男子・吉田。
脳内パートは五人の愉快な会話劇であり、老紳士の岸役の浅野和之さん、メガネ男子の吉田役の西島秀俊さんといった絶妙なキャスティングで楽しませてくれる。
彼らはそれぞれ人間のある一面だけを擬人化したものだから、とうぜんのことながら人間臭くない。役割のハッキリしているゲームキャラクターのようなもので、トータルな人間性の魅力はない。けれど、もちろん観客に嫌われるわけにはいかない。そんな微妙な役どころを、オーバーアクション全開で演じてくれる、さすがの俳優陣だ。
「2本の映画を撮っている感覚だった」
公式サイトに佐藤監督と鈴木吉弘プロデューサーのそんな言葉が紹介されているように、まったく雰囲気の違う現実パートと脳内パートでありながら、二つの世界が緊密に絡み合い影響し合う構成はたいへんにユニークだ。
もっぱらコミカルな応酬が続く脳内パートと、ちょっとほろ苦い恋愛模様の現実パートのバランスも良く、とどめにクリープハイプの切ない主題歌『愛の点滅』まであって、老若男女が楽しめるラブコメであろう。
とはいえ、本作の魅力はそれだけにとどまらない。
面白いのは『インサイド・ヘッド』との違いである。『インサイド・ヘッド』も『脳内ポイズンベリー』も人間の脳の活動を五人のキャラクターに代表させる点では同じだ。しかし、『インサイド・ヘッド』の「喜び」「悲しみ」「怒り」「嫌悪」「恐れ」がすべて感情にくくれてしまうのに対して、本作に感情そのもののキャラクターはいない。「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」の会議における力関係で感情が浮き沈みするのだ。
もっとも重要なのが『インサイド・ヘッド』にはいないキャラクター、「理性」だ。「理性」を象徴するメガネ男子・吉田は、ちっとも役に立たない。あるときは池田の云いなりであり、あるときは石橋の調子に乗せられてしまう。自分の意見なんか少しもない、風見鶏の名ばかり議長。
この情けない吉田を創造したことに、私は感心した。私たちは「理性」と聞くと、なんだか優れてしっかりしたもののように思いがちだ。しかし実のところ「理性」の正体は薄っぺらで、「ポジティブ」な気持ちや「ネガティブ」な気持ちや「衝動」を押さえることなんてちっともできていない。
ダニエル・カーネマンが提唱した人間の認知システムに本作のキャラクターを当てはめてみよう。
カーネマンによれば、人間の認知システムは2段階になっており、直感を担うシステム1と推論を担うシステム2があるという。そのモデルを『ワールド・ウォーZ』の記事でも触れた池田信夫・與那覇潤共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』から紹介しよう。

システム1は直感的に情報を処理する仕組みであり、脳の一番古い層だという。意識を経由せずに素早く働く思考である。
対するシステム2は進化の中で比較的最近できたもので、意識的に推論を行ったりする時間のかかる思考だ。システム2は高度な思考ができるけれど、エネルギーを大量に消費して効率が悪い。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%も消費するため、私たちはなるべくシステム1でエネルギーを使わずに情報を処理し、意識的に働くシステム2の負荷を小さくしているという。
本作で云うなら、吉田一人がシステム2だ。彼は推論したり判断したりという高度なことができるけれど、結論を出すのに時間がかかり、とにかく効率が悪い。ポジティブな石橋、ネガティブな池田、衝動的なハトコはシステム1であり、素早く結論を出す。記録係の岸は行動に関与しないから、実質的には員数外だ。
すなわち、一見すると五人で話し合ってるように思える本作の脳内会議は、その実、たった一人のシステム2が三人のシステム1に突き上げられているのだ。
これはシステム2の負荷を小さくして、なるべくエネルギーを使わずにシステム1で情報を処理する認知システムそのままだ。吉田が風見鶏を決め込み、多数派のシステム1に従っている方が脳のエネルギー消費を抑えられるのだ。
本作の脳内会議は、まさに18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームの言葉「理性は感情の奴隷である」を体現している。
しかも本作では、会議が紛糾して結論が出なくなると、脳の最深部から最強の感情「本能」が顔を出して理性をブッ飛ばしてしまう。そのとおり。私たちは酔っぱらったり激昂したりすると、同じことを体験する。
これだけでも人間心理を視覚化した試みとして本作は注目に値するが、さらに興味深いのが本作のたどり着く結論だ。感情に振り回される理性を描いてきた本作は、最後の最後に理性が感情を理屈で説得するという予想外の展開を見せる。理性が感情に打ち克ち、論理的に出した答えをみずから肯定することで、本作は理性こそ上位にあるべきと宣言するのだ。
この結論は日本映画ではなかなか見られないものだと思う。
システム2的な理性が、直感で動くシステム1をコントロールすべきという考え方は、どちらかといえば西洋のものだ。多くの欧米の映画では、直感的に突っ走るのを踏みとどまり、理性的に振る舞おうとする葛藤が見どころになる。
一方、『蜩ノ記(ひぐらしのき)』の主人公が「自然のままに、武士本来の生き方をしたい」と語るように、東洋ではシステム2的に合理主義をごちゃごちゃこねまわすよりも、自分の本心をストレートに発揮させるのが本来の生き方だとされてきた。小理屈のうまいインテリ連中よりも、無知蒙昧だが質朴な「愚夫愚婦」の言動こそを尺度にすべきと云われたのだ。
だから本作は、日本ではあまり共感を呼ばないかもしれない。
とりわけ理性が感情を屈服させてたどり着いた結論は、必ずしも心に響く(システム1レベルで共鳴する)ものではなく、頭でっかちな理屈と思われるかもしれない。
でも、それでいいのだ。それこそが理性が下した結論である証拠なのだから。本作はシステム1に流される生き方よりも、葛藤してでもシステム2で考えることに価値があると、価値を見出すべきと述べているのだから。


苦い味わいの恋愛ドラマ『テイク・ディス・ワルツ』と同様に、本作も恋愛物としては辛辣だ。
真木よう子さんのおっとりした演技がユーモラスではあるものの、『テイク・ディス・ワルツ』が安定した夫と若い芸術家のあいだで揺れ動く女性の話であったように、本作の櫻井いちこも若い芸術家と関係を結びながら精神的にも経済的にも安定している編集者と天秤にかけている。
女性が複数の男性と関係を持とうとする(平たく云えば浮気する)理由は、『テイク・ディス・ワルツ』の記事でも紹介したスティーブン・ピンカーの次の言葉に要約されよう。
「遺伝子はもっとも質の高い男から得て、投資は夫から得るという場合もあるだろう。一人の男性が両方を兼ね備えている可能性はあまりないからだ」
生物はみな繁殖すべく活動しており、人間も例外ではない。
女性が男性に求めるのは、健康な子供を産むための適切な遺伝子と、妊娠・出産中の自分を飢えさせない生活力だ。
飢えさせない力の有無は、はた目にも判りやすい。太古の昔なら頑健な肉体の持ち主が有利であろうし、現在では羽振りの良さが経済力を示している。だから櫻井いちこは編集者を選べば間違いなく飢えずに済む。
だが、編集者の彼が適切な遺伝子の持ち主とは限らない。体格が良く、健康そうな男性の遺伝子を得れば丈夫な子を授かるかもしれないが、こればっかりは見た目だけでは判らない。
そのため、女性は男性にはない特殊な能力を持っている。嗅覚だ。女性は男性の体臭からHLA(ヒト白血球抗原)遺伝子の型を識別し、生殖相手に相応しいか否かを(文字どおり)嗅ぎ分けられるという。
HLAは免疫反応に関わっているから、母親になる女性と父親になる男性は異なる型が望ましいはずだ。母と父から異なる型を受け継いだ子供は、母の免疫力に父の免疫力が加わって生き延びる可能性が高まるからだ。母と父のHLAが同じ型だと、母が罹る病気には父も罹り、子供も罹ってしまうかもしれない。最悪の場合は一家全滅だ。このような事態を防ぐため、女性は自分とは異なる型のHLA遺伝子の持ち主を嗅ぎ分けられるのだと考えられている。
女性は伝統的に「選ばれる性」だと云われることがあるけれど、女性だけが嗅ぎ分ける能力を身に付けたということは、進化の過程の大部分においては女性が選ぶ側だったのだろう。
男性にこの能力が発達しなかったのはとうぜんだ。妊娠・出産はそう何度もできないから女性は生殖相手を厳選したいだろうが、男性は手当たり次第に女性と生殖行為をした方が自分の子孫を残すのに有利なので、相手を選ぶ必要がない。
本作が描くのも、煎じ詰めれば櫻井いちこという女性の男性の選び方だ。
若い芸術家・早乙女に出会った櫻井いちこが、早乙女をよく知りもしないのにときめいてしまうのは、早乙女の遺伝子を嗅ぎ分けたからかもしれない。「衝動」を擬人化したハトコが早乙女に会うたびに「ときめくときめく」と騒ぐのも、嗅覚からもたらされた信号にストレートに反応したからだろう。
たとえ映画を観に来た女性客の目に早乙女が魅力的に映らなくても問題ではない。早乙女の遺伝子の型がいちこと異なることが大事なのだ。年上の編集者・越智にときめかないのは、越智の遺伝子の型がいちこに近くて、免疫の多様性を得られないからに違いない。
とはいえ繁殖するには適切な遺伝子と生活力のどちらも必要。なのに一人の男性が両方を兼ね備えている可能性はあまりない。だから、どちらを選ぶかが恋愛物の見どころになる。
判断に困ると顔を出す「本能」が迷わず早乙女を選ぶのは、まずは適切な遺伝子を手に入れなければ繁殖できないからだろう。
生殖行為を済ませたら、次に気になるのは巣作りだ。安心して子供を産み育てられる場が必要になる。
いちこは思い悩んでるようでいて、繁殖行動として見れば極めて判りやすい優先順位で動いている。早乙女に向かうのも越智に向かうのも、理性はあまり関係ないのだ。
繁殖を第一に考えるなら、早乙女の子を宿してから越智の許に転がり込むとか、越智と結婚して生活を安定させてから早乙女と浮気すれば良かったかもしれない。
けれども、いちこはそこまで突っ走りはしない。
最後の最後に理性的判断に軍配を上げる。そこが本作の眼目だから。

監督/佐藤祐市
出演/真木よう子 西島秀俊 古川雄輝 成河 吉田羊 神木隆之介 浅野和之 桜田ひより 野波麻帆 岡本玲
日本公開/2015年5月9日
ジャンル/[コメディ] [ロマンス]

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』 アニメと違う「差分」の正体
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「演出家としてはB級です」押井守監督はみずからこう述べている。「演出という部分で僕よりはるかにうまい監督なんかいっぱいいるんです。僕の演出はどちらかと言ったらゴツゴツしてるし、なめらかじゃない。手つきが硬いというかさ、だから演出家としてはたいしたことないんだよ。役者の扱いもそんなにうまいわけじゃないし。」
同時に、監督としては特A級を自認している。
「企画を成立させたりとか、映画を映画として成立させるということに関してはたぶん五指に入ると言ってもいい、と思ってるよ。本当は正直に言えば一番うまいと思ってるんだけどさ。」
本人がこう云うのだから、押井監督の作品に対して演出がどうの、役者の扱いがどうのと書いても仕方がない。「B級演出家」という本人の言を超える指摘は難しい。
だから、押井監督作品は、本人が特A級と云う「企画を成立させたり、映画を映画として成立させるということ」を楽しむのが最上だろう。この点については、一番上手いというのだから。
押井守監督のメインテーマは、映画を撮り続けることだという。
映画史に名高い監督ジャン=リュック・ゴダールは、百何十本も映画を作っていながら、ちゃんと製作費を回収できたのは処女作の『勝手にしやがれ』だけと云われる。にもかかわらず、ゴダールは今に至るも映画を撮り続けていられる。なぜか?
これを監督業のメインテーマに据えた押井監督は、一本の傑作、一本のヒット作をつくるよりも、連綿と映画を撮り続けられる状況づくりを重視する。
一本の傑作、一本のヒット作も重視しないわけではないだろうが、そこを追求するとジョージ・ルーカスや庵野秀明氏のように自分が納得のいく映画を自分の金で作り、確実にヒットさせて注ぎ込んだ金を回収しなければならなくなる。
押井監督のスタンスは違う。
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僕は自分の金では絶対映画を撮らない。他人様の金で映画を作って、自分のスタッフにも基本的にやりたい放題やらせる。それでもなお「自分の映画」にするにはどうするのか、ということしか考えてない。自分自身が自分のリスクでなにかしでかそうとは全然思ってないです。
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世の中はジョージ・ルーカスや庵野秀明氏のような創業社長ばかりではない。世の多くの雇われ社長やサラリーマン諸氏は、押井監督のスタンスの方が共感し易いだろう。
二度のオリジナルビデオアニメと三度の劇場版とテレビシリーズ、マンガ、小説、ゲームと息の長い人気を誇る『機動警察パトレイバー』の実写化となれば、新たな伝説を生むに相応しい企画だ。しかも一人の監督がアニメと実写の両方からアプローチするなんて、世界にもちょっと例がない。押井守監督の、映画を撮り続けるというメインテーマに、本作は確実に貢献するだろう。
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では監督として特A級を自認する押井監督が、全7章の短編シリーズ『THE NEXT GENERATION パトレイバー』と長編映画『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』で成立させようとしたものは何だろうか。
押井監督によれば、最初のオリジナルビデオアニメ『機動警察パトレイバー』のテーマは、ロボット物の「足かせ」だったという。「バッテリーの時間しか動かない、自走できないから現場までトレーラーで運ぶしかない。動けば必ずなにか壊す、自分も壊れる、メンテナンスも大変。ほとんど動かすためだけに存在してるような部隊。」これをテーマにしたのが最初の第一話であったという。
その後のビデオやテレビは「警察官の日常を描く」ことがテーマだった。
これらのテーマは『THE NEXT GENERATION パトレイバー』にそっくりそのまま受け継がれている。
98式イングラムを立たせて礼砲を撃たせるだけのことに特車二課が大騒ぎするエピソード2「98式再起動せよ」は、オリジナルビデオアニメの第一話「第2小隊出動せよ!」のテーマに通じよう。
待機するだけの毎日を描いたエピソード1「三代目出動せよ!」やアーケードゲームに興じるエピソード3「鉄拳アキラ」等は、「警察官の日常」を描いたものだ。
すなわち、『THE NEXT GENERATION パトレイバー』はアニメシリーズでやったテーマの繰り返しなのだ。
これが「実写化」という触れ込みの『THE NEXT GENERATION パトレイバー』の興味深いところだ。
タイトルに「THE NEXT GENERATION」とあるように、警視庁警備部特科車両二課のメンバーは代替わりしており、アニメシリーズで活躍した「栄光の初代」、その後の(劇場版第二作で壊滅した)「無個性の二代目」を経た「無能の三代目」という設定になっている。時系列的にはアニメシリーズの後の時代であり、劇場版第二作『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)の後日談が絡んだりする。
これだけ見れば、実写化プロジェクトは「アニメシリーズの続きを実写で描いたもの」である。
ところが、無能の三代目と呼ばれる面々は、初代隊長・後藤の後輩の後藤田隊長や、初代の操縦担当・泉 野明(いずみ のあ)に代わる操縦担当・泉野 明(いずみの あきら)、初代の指揮担当・篠原 遊馬(しのはら あすま)に代わる指揮担当・塩原 佑馬(しおばら ゆうま)等々、初代のメンバーとほぼ1対1で対応する。その上テーマはアニメシリーズの繰り返しときたもんだ。
まるでアニメシリーズを実写でリメイクしているようにも見える。

『THE NEXT GENERATION パトレイバー 第1章』の公開に際して、押井監督は次のように語っている。
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アニメの世界の泉野明は、たくさんのアニメーターが絵を描き、冨永みーなという声優が命を吹き込んだキャラクターだから、いざ実写といっても誰かが取って代われるものじゃない。もうね、最初はキャストに対して違和感があってもいいんですよ。肝心なのは1年という時間を、一緒に過ごせる相手かどうか。見終わる頃には『この子も成長したな。やっぱり明を演じられるのは、真野恵里菜だけだった』と絶対に思ってもらえるはず。そこがシリーズの醍醐味だし、いいキャスティングができたと自負している
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このように、かつての『機動警察パトレイバー』と同じで済むところはとことん同じにしつつ、まったく同じものの繰り返しにもしないのは、描きたいことを絞り込むために違いない。
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なぜ今かって疑問に答えるとしたら、自分がどうこうじゃなくて、やっぱり周りの環境が大きく変わったんだと思う。言ってみれば、一回自分が終わらせたものでもあるから、昔のままを実写化してくれと言われても、それはできない。でも時代や環境に即したアレンジであれば、そこに自分が(総監督を)やる必然も見えてくる。そうでなければ、違う監督がやるべき話だから
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第1章の公開時に「時代や環境に即したアレンジ」と述べていた押井監督は、『首都決戦』の際には「差分」という表現で説明している。
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(『首都決戦』は)『パト2』の続編であって、リメイクでもリニューアルでもないんです。『パト2』で起きたクーデターの16年後の世界。その16年の間に何が変わったのか、どう変わったのか、何が変わっていないのか。16年経っても変えてはいけないものが果たしてあるのか。いわば"差分"です。
最初から言っていますが、今回はその差分そのものを描くことがテーマ。ストーリーも変える必要がないんですよ。だからほとんど変わっていない。それに付き合っている人間たちが変わったんだという部分を中心に描いています。クーデターを起こすプロセスとか、展開のダイナミズムのようなものはやっていません。『パト2』ではそれを丹念に描いた。だから方向性は全く逆なんです。
それはやはり16年経ってテーマが変わったから。同じようなシチュエーションで、アニメでやったことを映画で作り直したものでしかないわけ。(『首都決戦』が)アニメだったとしても同じことをやったと思う。
繰り返すけど、何が変わっていないのか、何が変わったのか。変わっていいものと変わっていけないものは何なのか。それが全て。骨はそういうことです。後はみんな、映画としての"お肉"ですね。アクションだったり、キャラクターだったり。
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劇場版第一作では、クライマックスで野明が自分のレイバーを捨て石にする、その犠牲の大きさでカタルシスを生んだ。そして『首都決戦』でも同じコンセプトのアクションを用意する。
しかも、劇場版第一作と同じように、わざわざ映画をダメにする要素を付け加えた。
映画をダメにするもの――押井監督によれば、それは「感動のおまけ」である。感動的な場面を加えることで、映画の哲学は失われる。が、観客は喜んで、商業映画として成功する。
劇場版第一作のラスト、「やったやった」と抱き合って遊馬が野明を抱いてクルクル回る場面こそ「感動のおまけ」であるという。押井監督は、まるで宮さん(宮崎駿)の映画みたいだなと思って、コンテを切りながら自分で恥ずかしかったそうだ。
こんなことをしたら映画がダメになると思っていながら、押井監督は『首都決戦』にも同様の場面を付け加えた。この映画を商業的に成功させ、今後も撮り続けていく固い意志がなさせたのだろう。
■大いなる遺産の正体
『機動警察パトレイバー 2 the Movie』の事件がベイブリッジ爆破ではじまったように、『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』はレインボーブリッジ爆破で開幕する。以降、押井監督が云うようにほぼ同じストーリーが繰り返され、特車二課第二小隊はテロリストの一派と対決する。
特車二課第二小隊を率いる後藤田隊長が頼みの綱としているのは、初代隊長が残した大いなる遺産だ。その実態はようとして知れないが、その遺産があればこそ特車二課は存続している。一方のテロリストは劇場版第二作の主犯・柘植行人(つげ ゆきひと)の薫陶を受け、戦前の「正義=モラル」を再興しようとする者たちだ。
はたして、押井監督があえて監督を引き受けてまで描こうとした環境の変化とは、1993年の劇場版第二作から22年(劇中の時間では16年)のあいだに生じた「差分」とは何なのか。
押井監督は、時代性を取り入れることを考えたと述べている。
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今回はより一層テロの要素が前面に出ています。一番のポイントは"見えない"ということなんです。その象徴が見えない戦闘ヘリということ。テロの実態が見えない、もっと言えば動機すら分からない。つまり、"敵が見えない"んです。
(略)
日本でもしテロがあり得るとすれば、政治的な要求などではなくて、一人が勝手に戦争を始めることだと思うんですよ。すでに、現実に戦争をやっているヤツが出ている。通りがかりの人を刺しちゃったりね。それは言ってみれば彼らにとっての戦争なんだよ。戦争なんだから、動機なんて必要ない。
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本作の社会的、政治的、軍事的な面については多くの人が分析するだろうから、それらの論考を楽しく拝読したいと思う。
私は別のことを妄想している。
そもそも『首都決戦』の元となった『機動警察パトレイバー 2 the Movie』のテーマは何だったのだろうか。『首都決戦』のテーマが差分を描くことだとすれば、劇場版第二作がテーマとしたものにその後起きたことがポイントのはずだ。
OVAやテレビでは「足かせ」や「日常」をテーマとし、劇場版第一作では「レイバーは凶器になる」ことを取り上げた押井監督が劇場版第二作のテーマに据えたもの、それは「隊長」である。
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![機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51psa-T7F9L._SL160_.jpg)
(略)
そういう「中間管理職の自己実現」というテーマを描いた映画だから、この映画は社会人が見た方が絶対面白いと思ってたんだけど、結局そのとおりになったんです。社会人のほうが反応した。
(略)
「パト2」というのはそういう意味で言えば「隊長論」の映画だよね。中間管理職論と呼んでもいいし、もっとズバリ監督論でもいい。
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特車二課第二小隊の後藤隊長は、他人に命令も強制もしない。しかし、口では「命令も強制も俺は嫌いだから」と云いながら他人に選択肢を与えず、やらざるを得ないように追い込んでいる。自分のやりたいことをやらせるために、あらゆる手立てを講じる男だ。
押井監督によれば、後藤のモデルはスタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫氏であるという。
天才アニメーターの宮崎駿氏に『魔女の宅急便』、天才演出家の高畑勲氏に『ホーホケキョ となりの山田くん』と、両者のそれまでのフィルモグラフィーからは予想もつかない作品をつくらせて、近年も嫌がる宮崎駿氏に『風立ちぬ』をつくらせ、そんなつもりがなかった高畑勲氏に『かぐや姫の物語』の監督をさせた男。
押井監督は鈴木敏夫氏についてこう語る。
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「使えない人間は使える人間の言うことを聞くのが当たり前だ」と思ってるだけだから。昔からそうだよ。
「何もテーマを持ってない若いヤツをいいように使うのは当然の権利だ。だってテーマがないんだから」って、そういうオヤジなの。団塊というのは基本的にそういう発想をするんですよ。「自分はテーマを持っている。やるべきことも見えてる。やるべきこともなければテーマすら持ってない若いヤツらを自分がいいように使うのは当たり前だ」って。
(略)
中間管理職は本当のバカじゃ困るけど、バカのふりをしてればいいんだよ。バカのふりをして、うまいこと若い部下をだまして、追い込んで、利用するんです。
どうせ彼らには会社への忠誠心もないんだから、うまく彼らにとっても利益になるように思わせて、誘導しないと。そうしないと部下だって動かない。さっきも話したけど、テーマのない人間を使うにはテーマを与えればいいんです。僕の映画で言えば、「機動警察パトレイバー」はそういう話だもん。
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『機動警察パトレイバー 2 the Movie』が発表された1993年といえば、1991年に高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』が配給収入18.7億円の大ヒットを飛ばし、1992年には宮崎駿監督の『紅の豚』が配給収入28億円(興行収入47.6億円)の大々ヒットを達成、『魔女の宅急便』が築いたアニメ映画の興行成績日本記録を早くも更新した頃だ。もちろんすべて鈴木敏夫プロデュース。鈴木プロデューサーの『もののけ姫』(1997年)が日本映画の興行記録を塗り替える前夜のことである。当時の宮崎駿ブランド、ジブリブランドの躍進は目をみはるものだった。
そのやり方、その業績。なるほど映画の主人公に相応しい人物だろう。
あれから22年。
鈴木敏夫氏とその環境はどう変わったか。

「鈴木敏夫は最近一所懸命に鬱病の本を読んでるよ。」
スタジオジブリは2001年の『千と千尋の神隠し』で日本映画史上最高記録となる304億円もの興行収入を上げ、アカデミー賞やベルリン国際映画祭の金熊賞等々、世界の賞を総なめにした。
これほどの成功を収めたのは、宮崎駿という天才の力もさることながら、鈴木敏夫プロデューサーの尽力によるところも大きい。
「問題なのは」押井監督は云う。「それが敏ちゃん(鈴木敏夫)の力だったのか、宮さんの力だったのか、本人たちにもわからなくなったんだよ。」
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問題なのはそれが敏ちゃん(鈴木敏夫)の力だったのか、宮さんの力だったのか、本人たちにもわからなくなったんだよ。おたがいに自分の力だと思ってる。宮さんは敏ちゃんなんかいなくたって俺の映画は当たるんだと思ってるよ。「宣伝なんかするな。必要ない」ってはっきり言い切ったんだから。
(略)
でも「じゃあそのブランドを作ったのは誰よ?」っていう話ですよ。だけど敏ちゃんはそのブランド力を作ったことで、逆に自分の存在意義(=宣伝の必要性)を失って、やさぐれてる。
僕に言わせれば、黒澤も宮さんも敏ちゃんもあんまり楽しそうじゃない。友達はいないし、孤独だし。楽しくないという時点で僕に言わせると勝利条件を満たしてないよね。人生が全然ハッピーになってない。宮さんは電車なんか乗ってたら大騒ぎになっちゃうから、もう電車にも乗れない。浮気もできない。
(略)
敏ちゃんはもうやることがなくなっちゃった。自分が踊らせないといけない王様がいなくなっちゃった。どれもダメなんですよ。
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宮崎氏や鈴木氏が楽しくなくたって、スタジオジブリの破竹の勢いが続いていれば周りはハッピーだったかもしれない。
だが、押井監督はインタビューに応えてこう語る。
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そういえば、若いプロデューサーたちや制作たちで鬱病っぽくなってる人が増えているんだよね。(略)出社拒否になっちゃって、会社に出てこないで家でDVD見てるんだって。揃いも揃ってみんな30過ぎてから。ローンで家を買って子供が産まれた途端に。
(略)
たぶん、これから30年間ローンを返さないとって考えたときにやっと気付くんだよ、自分のスタジオはこれから30年存続するんだろうかって。
例えばジブリ。どう考えても宮さん(宮崎駿)があと30年生きるわけがないけど、宮さんが死んだ時点でジブリはおしまいだってことは誰でもわかってる。存続するにしても版権管理会社だよ。じゃあ今あそこで働いてる連中はどうなるのか。
(略)
ジブリのアニメーターには5年10年やってても人間を描いたことないアニメーターもいるんだよ。そうじゃなければ、あれだけクオリティの高い作品なんてできない。キャラクターを描かせてもらえる人間なんて一握りで、それ以外の人たちは延々と動画だったりするんです。
他のスタジオだったらアニメーターは忙しいんだよ。2年に1本なんて悠長なことを言ってられないから、バンバン描かせる。そういう人はそこそこ描けるから、どこへ行っても食えるんです。ジブリは、うまい人はめちゃくちゃうまいけど、下積みの連中はなかなか上に上がれない。
(略)
宮さんが死んだら全員放り出されるって、あるときハタと気がつくわけ。それでもアニメーターは、ある意味手に職があるからまだましで、プロデューサーとか制作の連中は「30年のローンで家買っちゃった。子供産まれちゃった。大学出るまであと20年以上かかるんだ」ってさ。
(略)
愕然とする方がまともかもしれない。「自分たちの未来はどうなるんだろう?」ってさ。とはいえ、そうなる前にどうするかをなんで考えなかったのアンタ、って思うんだけどね。
(略)
飛び出したヤツも何人かはいる。今残ってる連中はジブリという組織、会社員一般で言えば会社の名前に守られてるだけ。外に出てやっていく自信はないんじゃないかな。
僕から見たジブリは、「宮さんの映画を作る」ということに特化したちょっといびつなスタジオだから、みんな守備範囲が狭いわけ。外に出されたらあっと言う間に萎えちゃう。温室なんです。雑草みたいなヤツはほとんどいない。宮さんひとりが獰猛な百獣の王で、その獰猛な百獣の王を飼うために人工的に作ったサバンナなんだよ。
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私はスタジオジブリの関係者ではないから、実のところがどうかは知らない。
少なくとも2012年当時の押井監督はスタジオジブリをこう見ていたし、2012年のイベントで当の鈴木敏夫氏から「『パトレイバー』実写で映画化するの?」と水を向けられたことで本プロジェクトの存在が発覚する。
これは偶然だろうか。
ここまでくれば、「大いなる遺産」と「無能の三代目」の正体を妄想せずにはいられない。
初代が残した「大いなる遺産」で食いつないでいるものの、手駒は無能な三代目ばかり――。
この「大いなる遺産」とは、ジブリというブランドだろう。三代目とは宮崎駿引退後のスタジオジブリとしか思えない。イングラムを操縦したり整備する技能なんて他の部署ではまったく役に立たないから、5年10年やってても人間を描いたことのないアニメーターみたいなものだ。
『首都決戦』の大いなる遺産に実態がなかったように、宮崎駿氏が引退したらジブリブランドに実態はない。それでも鈴木隊長は次世代、次々世代の連中を率いて戦わねばならない。
これこそ『首都決戦』が直面した「差分」だ。「栄光の初代」(宮崎駿)が引退した後、隊長(プロデューサー)はどう戦うのか、三代目(残った社員)はどうすべきなのか。鈴木敏夫氏をモデルに隊長論を考察した劇場版第二作から22年を経て、隊長は危機的状況に陥っている。
『首都決戦』の敵であるテロリストたちがやけに影が薄いのもとうぜんだろう。初代テロリスト柘植行人の思想を担いだだけの彼らもまた、無能の二代目三代目なのだ。
これは単にスタジオジブリやアニメ業界だけの問題ではない。
創業者世代が退いて変調を来したといわれるソニーのように、多くの企業・団体が直面している。熱気溢れる「栄光の初代」が去った後、残った次世代、次々世代の者たちは、会社の名前に守られる「無能の三代目」に陥っているのではないだろうか。
本作の特車二課の面々は、大いなる遺産が頼りにならないと認識してから、自分たちの意志と才覚で戦いはじめる。
本作は「無能の三代目」に甘んじている者たちに喝を入れ、エールを送る物語なのだ。
もっとも、現実の進行は映画を凌駕している。
2012年9月に鈴木敏夫氏が実写化を暴露した後、2013年3月の東京国際アニメフェアにおいて実写化プロジェクトの存在が公にされた。そして2013年9月25日に『THE NEXT GENERATION パトレイバー』の製作発表が行われ、主要キャストや実物大イングラムがお披露目されたのだが、この直前の9月1日に宮崎駿監督が引退を表明、「宮崎駿引退後のスタジオジブリ」が早くも現実のものになった。
それでもスタジオジブリは2014年7月19日に創業メンバーの宮崎駿、高畑勲両氏がかかわらない初の長編映画『思い出のマーニー』を発表し、興行収入35.3億円と健闘するが、翌8月に鈴木プロデューサーが「ジブリの制作部門の休止」を発表、『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』の監督を務め宮崎駿、高畑勲両氏抜きで映画を作れた唯一の人物・米林宏昌氏も退職した。
2015年5月1日公開の『首都決戦』のエールが届く前に、スタジオジブリはかつての押井監督の言葉どおりに「存続するにしても版権管理会社」になっていった。
とはいえ、それは必ずしも残念なことではない。
本作は、組織の存続や活動の継続に意義を求めようとしていない。
『機動警察パトレイバー』の影響を受けて作られた『踊る大捜査線』は、組織の存続を前提に置いたために行き詰ってしまったが(「『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』 もう続けられない理由」参照)、本作は同じことを繰り返さない。
『首都決戦』でもっとも活躍し、圧倒的な存在感を示す人物は、ステルス戦闘ヘリ"グレイゴースト"のパイロット灰原零だ。テロリストの一員でありながら、過去の思想や伝統に囚われず自分の腕で勝負する灰原だけが、苦境にあってもしぶとく生き残れる。
本作で一番カッコよく描かれているのが森カンナ演じる灰原零であることは、誰もが感じるところだろう。
組織から飛び出すことをためらわない彼女こそ、既存の組織を震撼させる破壊的イノベーターではあるまいか。初代の遺産なんてなくたって、いや遺産なんかないからこそ思い切り活躍できるのだ。
彼女の正体は定かではないが、誰でもないということは誰でもあり得るということだ。
本作のエールは万人に向けられている。
追記
2015年10月10日、『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 ディレクターズカット』が公開された。映画内で映し出されたタイトルは『GRAY GHOST THE NEXT GENERATION PATLAVOR』。
押井監督が作ったのはこちらで、5月1日公開版は配給する側、お金出す側がハサミを入れたものだそうだ。押井監督版が公開されたのは何よりだ。
5月1日公開版に比べて27分も増えただけあって(正確には5月1日版が27分も切られていたというべきか)、描写が丁寧で、おちゃらけもちゃんとあって断然いい。ストーリーは変わらないが、充実感が違う。ストーリーの進行には寄与しない場面があることで、緩急のコントラストが鮮明になった。5月1日公開版は「緩」が無く、重苦しい「急」ばかりだったが、「緩」があればこそ心躍る。
銃の撃ち合いばかりではなく、やっぱり熱海の宴会もなくては。
![THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 ディレクターズカット特別版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51bvXfIEKML._SL160_.jpg)
総監督/押井守 原作/ヘッドギア
出演/筧利夫 真野恵里菜 福士誠治 太田莉菜 田尻茂一 堀本能礼 しおつかこうへい 藤木義勝 千葉繁
日本公開/第1章:2014年4月5日~第7章:2015年1月10日
ジャンル/[SF] [アクション] [ロボット]
『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』 [さ行]
監督・脚本/押井守 原作/ヘッドギア
出演/筧利夫 真野恵里菜 福士誠治 太田莉菜 田尻茂一 堀本能礼 しおつかこうへい 藤木義勝 千葉繁 森カンナ 吉田鋼太郎 高島礼子 榊原良子
日本公開/2015年5月1日 ディレクターズカット公開/2015年10月10日
ジャンル/[SF] [アクション] [ロボット]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
『龍三と七人の子分たち』 高級料理のシェフが戻ってきた!

こう云って観客を手玉に取った北野武監督は、2010年公開の15作目『アウトレイジ』でまんまと7.5億円もの興行収入を稼ぎ出した。続く監督16作目の『アウトレイジ ビヨンド』(2012年)は、興収14.5億円のヒットとなった。
まったく余裕しゃくしゃくだ。さぁ受ける映画を撮るぞと云って本当にヒットさせてしまうのだから、この人の才能は恐ろしい。
『アウトレイジ』を世に送り出したとき、監督はこうも云っている。
「腕のいい高級料理店のシェフが、あえてカツ丼を作って、いつも間抜けなカツ丼食ってるやつらに『どうだ、こっちの方がうまいだろ』って出す感じかな」
北野監督にとって、エンターテインメントの王道をいく映画は「あえて作ったカツ丼」なのだ。
そこには寂しさもあるだろう。
高級料理店のシェフは、間抜けなカツ丼食ってるやつらのために腕を磨いてきたのではない。ストレートにやれば受ける区民ホールの大観衆を相手にするよりも、浅草の小屋の小うるさい客との真剣勝負の方がやり甲斐があるに違いない。
「日本人は想像力を使えなくなっている。映画では前より倍しゃべって説明しないとダメになった」
『アウトレイジ ビヨンド』の公開に際して、北野監督はこうもこぼしている。しゃべって説明しないと判らない観客に、わざわざ歩み寄るのは苦痛だろう。
それでも「基本的には漫才の出身だから、お金払って見に来る人にもう実験はしちゃいかんと思ったんだ。この先撮ってみたいのは大物スターが出るようなヤクザ映画とか純愛映画。やっぱり映画はエンターテインメントじゃないとね」と発言するようになった北野監督のことだから、17作目の『龍三と七人の子分たち』もてっきりカツ丼路線だろうと予想していた。『アウトレイジ』二部作の興行的成功の後に、大物スターの藤竜也さんを主演に迎えてコメディを作るのであれば、きっと区民ホールで5000人の大観衆を相手にやるようなエンターテインメントなのであろうと。
それはそれで面白いだろうが、北野武監督作品といえば『HANA-BI』や『Dolls』が好きな私はいささか残念な気がしていた。
ところが、北野監督はやってくれた。
『アウトレイジ』二部作の成功で調子に乗ったのか、カツ丼路線に見せかけてカツ丼じゃないものを出してきた。ペロッと舌を出しながら、高級料理を作るシェフに戻ったのだ。
『龍三と七人の子分たち』の台本は何年も前に書いてあったという。暴力映画が連続したので、このまま暴力映画を続けることになるのを防ぐためにお笑い系を入れたそうだ。[*]
どうりでカツ丼路線以前の懐かしい感じがするわけだ。さしずめ本作は口直しのグラニテといったところか。
『龍三と七人の子分たち』はコメディ映画ということになっている。北野監督みずから「"ベタ"な誰でも笑える作品を作りたかった」と云うのだからコメディ映画には違いない。
だが、北野監督が暴力映画と呼ぶ『アウトレイジ ビヨンド』だって、以前の記事で書いたようにその正体はコメディだった。本作も『アウトレイジ ビヨンド』も、漫才やショートコントの積み重ねでできている点は同じである。
ただ、『アウトレイジ ビヨンド』は怒号や暴力が多すぎて楽しく笑えない。映画データベースのallcinemaは『アウトレイジ ビヨンド』のジャンルを「犯罪/ドラマ/任侠・ヤクザ」に分類しており、コメディとしては扱っていない。それでも、『アウトレイジ ビヨンド』を貫くノリは明らかにお笑い由来のものだった。
『アウトレイジ』で路線変更する直前の作品、北野監督をして「もうしちゃいかん」と云わせた実験の最後の作品であろう14作目『アキレスと亀』もコメディだった。こちらはallcinemaのジャンル表記も「ドラマ/コメディ」になっている。
しかしこの映画も笑えなかった。挫折続きの画家の人生があまりに痛々しく、繰り出されるギャグは寒々しく感じられた。『アウトレイジ ビヨンド』が北野監督お得意の漫才、それも怒涛のしゃべくり漫才だとすれば、『アキレスと亀』はコントの「間」でおかし味を醸し出すものだった。ただ、その主題の暗さ、悲惨さがおかし味を上回ってしまったのだ。
こうして(『アウトレイジ ビヨンド』では怒号や暴力が多すぎるために、『アキレスと亀』では暗さや悲惨さのために)笑うに笑えぬ悲喜劇を連発してきた北野武監督が、またも世に送り出した悲喜劇が『龍三と七人の子分たち』だ。
相変わらずヤクザの話だし人は死ぬし、実のところやってることは過去の作品とそれほど変わらないが、本作では怒号や暴力を抑え、暗さ悲惨さも控えたおかげで、これまでになくおかし味が浮上した。
北野監督自身が好きだという品川徹さんの「おひけえなすって」の場面はもちろんのこと、身動きできないのをいいことに出演者をいじりまくる懐かしいハナ肇さんの銅像コントの再現には大笑いだ。
人の生き死にをもてあそぶ、毒気たっぷりのギャグでも心置きなく笑えるのは、元気なジジイを描いているからだ。「金無し、先無し、怖いモノ無し!」という惹句のとおり、本来なら辛く寂しいはずの「金無し、先無し」が、いやだからこそ元気なんだという「怖いモノ無し!」に転化する、その豪快さが本作の魅力だ。
手が震えて銃口が定まらない「早撃ちのマック」とか、襲撃に使うクルマが霊柩車とか、「"俺たちに明日は無い"ってもうすぐ死ぬからな」というセリフとか、ジジイならではのギャグは高齢者へのエールにもなろう。
主人公たちが極悪非道なヤクザであることも笑いに貢献している。
寂しいお年寄りというと、得てして善人を思い浮かべがちだが、彼らは決してそうではない。龍三と七人の子分たちが企むのはどれも犯罪であり、成功させてはならないことばかりだ。
『アキレスと亀』が笑えないのは、画家として成功できない主人公の悲劇性が強すぎるからだが、本作では主人公が失敗しても悲劇と受け止める必要がない。『アキレスと亀』の絵筆がドスに変わったことで、主人公の失敗を幾らでも笑い飛ばせるようになった。
説教臭くないのもいい。若い連中に不満を抱いた老人の物語は、ややもすれば説教じみてしまうものだが、このジジイたちは若者に勝るとも劣らぬはみ出し者だから教訓なんてありゃしない。
北野監督にとって、笑いと暴力と芸術は一つに結びついている。
「殺し方のバリエーションにはものすごく頭を使った。例えば機関銃を前に向かって撃ってるやつがいたら、普通そいつは前から撃たれると思うけど、横から来たやつに撃たせて殺しちゃうとか。お笑いでいうと『フリ』と『落ち』の発想なんだよね。映画の中の暴力はアートだと思う。殴ったりけったり、どんな暴力を使うかを創造するのは芸術行為だ」
これは『アウトレイジ』について語ったものだが、お笑いの発想で殺し方を考え、暴力の創造を芸術行為と云い切る北野監督にとって、昔気質のヤクザと新興勢力が激突するコメディの本作は、まさに笑いと暴力と芸術の融合であろう。
とりわけ、『アウトレイジ』二部作では漫才らしいノリを優先して控えられていたトボけた間が、本作で味わえるのは嬉しい。
北野作品の随所に見られる止め絵のような間は、あるときは美しいショットを印象付け、あるときは悲喜劇のおかし味を醸し出してきた。
本作では映画のスピード感を削ぐ緩い間が、鈴木慶一氏のトボけた音楽とともに脱力させてくれる。至福の時間である。
[*] 2015年4月18日放映『情報ライブ ミヤネ屋』での北野武監督の発言

監督・編集・脚本/北野武 編集/太田義則
出演/藤竜也 近藤正臣 中尾彬 品川徹 樋浦勉 伊藤幸純 吉澤健 小野寺昭 安田顕 矢島健一 下條アトム 勝村政信 萬田久子 ビートたけし
日本公開/2015年4月25日
ジャンル/[コメディ] [犯罪]

『ワイルド・スピード SKY MISSION』がウケる国はどこ?

ワイルド・スピードシリーズがもっとも受けている国はどこだろうか。
世界でヒットする映画はたくさんあるが、そのヒットの仕方は様々だ。全世界で12億7422万ドルもの興行収入を叩き出した『アナと雪の女王』がその50%以上を北米と日本だけで稼ぐ一方、『アナと雪の女王』を凌ぐ15億1859万ドルの大ヒットとなった『アベンジャーズ』の日本での成績は4526万ドルにしかならない。世界市場を狙ったハリウッド映画といえども、その成績は各国の状況やお国柄に左右される。
では、四月末時点で13億4986万ドルを稼ぎ出し、まだ成績を伸ばしている『ワイルド・スピード SKY MISSION』はどこで受けているのだろうか。
このシリーズ、2001年に公開された第一作の頃は全世界で2億728万ドルの興収しかなかった。カーアクションの映画としては悪い成績じゃないだろうし、制作費3800万ドル足らずでこの興収なら優等生だ。しかし、制作に8500万ドルかけた第四作になっても興収は3億6316万ドルだったから、10億ドルクラスの大ヒット映画と肩を並べるほどの存在感ではなかった。
ところが、第五作『ワイルド・スピード MEGA MAX』以降の興行収入の伸びは凄まじい。
第七作にして10億ドルの大台を超えたこのシリーズの躍進を支えているのが中国市場だ。
公開年 | 全世界興収 | 北米興収 | 北米に次ぐヒット国 | |
第一作 | 2001 | $207,283,925 | $144,533,925 | 英国 $9,235,142 |
第二作 | 2003 | $236,350,661 | $127,154,901 | フランス $12,638,130 |
第三作 | 2006 | $158,468,292 | $62,514,415 | 英国 $10,567,267 |
第四作 | 2009 | $363,164,265 | $155,064,265 | 英国 $20,546,785 |
第五作 | 2011 | $626,137,675 | $209,837,675 | 英国 $30,243,825 |
第六作 | 2013 | $788,679,850 | $238,679,850 | 中国 $66,490,000 |
第七作 | 2015 | $1,350,624,355 | $324,424,355 | 中国 $323,000,000 |
上の表はBox Office Mojoに掲載された国別の成績に基づいて作成したのだが、第七作の北米のデータが2015年4月3日から4月30日までのものなのに対し、中国のデータは2015年4月12日から4月26日までを集計したに過ぎない。おそらくまだまだ伸びるだろうし、このまま行けば中国からの収入が北米のそれを上回るかもしれない。
はじめて中国で公開された六作目以降、中国は本シリーズの主要な収入源になったのだ。
私は第五作に関する記事「『ワイルド・スピード MEGA MAX』 中国化する世界」において、司法権力を信用せず自由に振る舞いながらもファミリーの絆は大切にする本シリーズの世界観がまるで中国のようだと述べたわけだが、案の定、このシリーズは中国でバカ受けした。
三~六作目はジャスティン・リン(林詣彬)、七作目はジェームズ・ワン(温子仁)と、中国系の監督により作られているのも面白い符合だ。
とはいえ、いつまでも違法な窃盗団の物語では、共感してくれる客層が限られる。世界中の幅広い観客に受け入れられるためには、輸送車襲撃や銀行強盗に励んでいた主人公も社会と折り合いをつけて、善いことをすべきだろう。
かくして第六作『ワイルド・スピード EURO MISSION』に至って主人公たちに恩赦が出され、彼らはアメリカ国務省外交保安部(Diplomatic Security Service)のエージェント、ルーク・ホブスの要請を受けて国際犯罪組織と戦うことになる。
第七作となる『ワイルド・スピード SKY MISSION』では、「神の目」と呼ばれるハッキングツールを巡り、テロリスト率いる傭兵部隊と死闘を繰り広げる。
家族のことしか考えない無法者だった主人公は、今や米国政府の秘密部隊の先兵だ。彼の動機はあくまで家族を守るためであり、人物像は一貫しているものの、その行動は007ことジェームズ・ボンドやミッション:インポッシブルシリーズのイーサン・ハントのような政府系のヒーローに近くなった。チームでの潜入活動は『ミッション:インポッシブル』そのものだ。
大義とか使命とかに関心のない主人公が命を懸けてまで秘密部隊と協同するのは、一つには秘密部隊のリーダーであるミスター・ノーバディと酒を酌み交わしたからだろう。
秘密部隊との作戦計画を練る場でいきなり部隊のリーダーと一緒に酒を飲むのは、米国のアクション映画では珍しい展開だ。米国風に行くならここは司法取引や何らかの契約を結ぶところだが、このシリーズの人間関係は中国風だから酒を飲む。第六作でホブスの云うことを信用したのは、すでに第五作でホブスと人間関係ができていたことや恩赦という司法取引によるものだと思うが、本作で登場したミスター・ノーバディは初対面だから信用できない。だからまず酒だ。ファミリー(宗族)に限らず情や絆に重きを置く中国では、どんな崇高な使命を説かれるよりも酒を酌み交わした盟友からの頼みごとの方が重要だろう。
どこまで意識して作ったのかは知らないが、本作は中国市場にドンピシャリに違いない。
主人公が社会と折り合いをつけて善行に励むのは、作品にとっても悪いことではない。
単なる窃盗団ではなし得ないほどスケールが大きくなり、舞台も第五作のブラジル、第六作の欧州を超えて、本作では米国、日本、アゼルバイジャン、アブダビにまで広がっている。
アクションも途方もない。第六作の飛行機とクルマのチェイスに圧倒された私は、これを超える続編なんて作れないだろうと思っていたが、本作ではなんとクルマのスカイダイビングが見られる。しかもCGIではなく、本当に空中の飛行機からクルマを落下させているのだ。スタントコーディネーターのスピロ・ラザトスは、「観客の期待に応えて本当らしく見せたかったのさ」と述べている。いやはや、『SKY MISSION』の邦題は伊達じゃない。

シリーズ初のパニック物となるこの作品は、ゾンビ映画の源流の一つ、SF小説の名作『トリフィドの日』とその映画化作品『人類SOS!』をほぼなぞった形で展開する。良質の食用油が採れる食肉植物トリフィドが、おいしい蜜の採れるキラーサボテンに置き換えられたくらいで、歩き回る食肉植物に襲われることや、食肉植物が音に反応すること、そして意外な弱点等がそのまま取り入れられている。
小説『トリフィドの日』が食肉植物との戦いに決着をつけられないまま終わってしまうのに対して、映画『人類SOS!』は食肉植物の弱点を突き止めるところまでを描いたが、『オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃』ではさらに進んで弱点を突いた戦いの結果まで描くのがミソである。
ワイルド・スピードシリーズを語る上で『映画クレヨンしんちゃん』に触れたのは、どちらも物語の中心に家族がありながら対照的と思えるところがあるからだ。
しんちゃんの父ひろしが繰り返し「家族はオレが守る」と宣言するように、『映画クレヨンしんちゃん オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃』では一丸となって困難に立ち向かう家族の姿が描かれる。過去の作品でもひろしは「係長の代わりはいるけど、とーちゃんの代わりはいないからな」と云って会議をすっぽかして帰ってしまったりしたのだが、この映画ではもはや家族至上主義と呼ぶしかないほどに家族愛が強調される。
家族を大切にするのはとうぜんのことながら、回を重ねるごとに社会とも折り合うように変化していったワイルド・スピードシリーズに比べて、『映画クレヨンしんちゃん』はますます家族を至上のものとして扱うようになった気がする。
危険な任務に飛び込んでいく『ワイルド・スピード SKY MISSION』と、町中が怪物に襲われる『オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃』では状況が違うかもしれないが、怪物に襲われる映画としては一つの到達点ともいえる『ワールド・ウォーZ』ですら主人公は自分の家族のことばかり考えていたのを恥じて世界のために行動しようと変化した。
特に気になったのが、幼いひまわりのためにミルクと紙オムツを手に入れようとするシークエンスだ。人喰いキラーサボテンがウヨウヨする中、ひろしやしんちゃんは無人のスーパーにたどり着いて食料と日用品をショッピングカートに放り込む。
サボテンへの警戒を怠らない彼らだが、映画を観ている私が心配したのはちゃんとお金を払うかどうかだった。非常時だから仕方がない――かもしれないけれど、店員のいないスーパーから勝手に商品を持ち出すのは略奪だ。火事場泥棒というやつだ。
子供も観る映画だからこそ一段と高い倫理観を示して欲しい、という私の願いは叶わなかった。家族のために食料やオムツを手に入れることで頭がいっぱいのひろしは、レジにお金を置いてくることも連絡先を書き残すこともしなかった。キラーサボテンに襲われたらそれどころじゃない、という作り手の作劇が、野原家を略奪者にしてしまった。
せめて町長や保安官のような立場の者が、金なんかいいから無事に戻れと云ってくれれば免罪符になったかもしれない。ひろしは「家族とご近所さんはオレが守る」とも云ってるのだから、略奪した食料の恩恵にあずかる人の中にスーパーのオーナーがいたりすれば、お互い様、助け合いの印象が強まったかもしれない。だが、このシークエンスにはそんな配慮もなかった。
細かいことではあるのだが、同じような細かいところまで注意を払っているのが『ワイルド・スピード SKY MISSION』だ。
傭兵部隊に拉致された天才ハッカーを奪還するミッションに就いた主人公たちは、得意のドライビングテクニックを駆使して傭兵たちの武装バスを追撃する。映画前半の見せ場であり、CGに頼らないアクションの連続には驚かされる。
だが、アクションの凄さもさることながら、私が目をみはったのは、ポール・ウォーカー演じるブライアンが武装バスに乗り込んで敵兵を路上に放り出したときのことだ。猛スピードでバスを追撃していたブライアンの仲間たちは、即座にハンドルを切って敵兵をよけると再びバスの後ろにピタリと付いた。彼らは敵兵を轢かなかった。
この後の展開でも同様だ。武装した敵と死闘を繰り広げているのに、彼らは敵を殺さないのだ。
半端なアクション映画ではないから、もちろん敵は死んでいる。だが、よく見れば、敵を殺すのは特殊な立場のエージェント、ホブスだったり秘密部隊の隊員だったり、あるいはカーチェイスに競り負けた敵の自損だったりする。主人公たちも武器を取って戦うが、映画は彼らが殺人者になるのを巧妙に回避している。
その上、本作は主人公を象徴するものとして十字架のネックレスを頻繁に映し出し、彼が伝統的な倫理感の持ち主であることも示唆している。
ネックレスを単に思い出の品と見るならそれでもいいし、十字架に反応する人には主人公の人物像が塗り替えられるようにできているのだ。
私はハリウッド映画の細やかな配慮に舌を巻いた。
万人受けする映画とはこういうものを云うのだろう。
度肝を抜くアクションで観客の目を奪っておきながら、その背後にはどこまで非合法な行為を描くか、その役割をどの人物に担わせるか、担わせないかの緻密な計算がなされている。
観客が感情移入する主人公たちは、過度に手を汚してはならないのだ。
だから心置きなく感情移入し、映画に身を委ねることができるのだろう。

監督/ジェームズ・ワン
出演/ヴィン・ディーゼル ポール・ウォーカー ジョーダナ・ブリュースター ドウェイン・ジョンソン ミシェル・ロドリゲス タイリース・ギブソン クリス・“リュダクリス”・ブリッジス ジェイソン・ステイサム カート・ラッセル トニー・ジャー ルーカス・ブラック エルサ・パタキ ジャイモン・フンスー ルーク・エヴァンス
日本公開/2015年4月17日
ジャンル/[アクション]

【theme : アクション映画】
【genre : 映画】
tag : ジェームズ・ワンヴィン・ディーゼルポール・ウォーカージョーダナ・ブリュースタードウェイン・ジョンソンミシェル・ロドリゲスタイリース・ギブソンクリス・“リュダクリス”・ブリッジスジェイソン・ステイサムカート・ラッセル