『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は二兎を追う

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。原題は"Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance)"。
映画監督に限らない。創作に携わる人は誰もが「予期せぬ奇跡」を目指していよう。それをもたらすのが無知であることに気づいている人も多い。しかし、それはなかなか手に入らない。だからこそ奇跡なのだ。
そんな創作にまつわる葛藤を見事に描写したのがこの映画だ。
映画と演劇はまったく異なるものだが、敢えて比べるなら私は演劇の方がより魅力的に感じる。
役者と観客が空間を共有できる演劇は格別だ。笑い声や拍手で観客の想いを伝えられるし、スタンディングオベーションで満足感を表明することもできる。そこは役者と観客で作り上げる特別な世界だ。生演奏や生出演で成り立つ舞台作品は、その場所に、その瞬間にしか存在しない。どんなにリハーサルを積んだとしても、はじめてみなければ何が起こるか判らない。同じものは二度と目撃できないのだ。映画にはない一体感と臨場感だ。
本作の劇中、リンゼイ・ダンカン演じる演劇評論家が主人公の準備している芝居をぼろかすにこき下ろす。ハリウッドスターが脚色・演出・主演する舞台など、観なくても失敗作だと決めつける。
本作は、こんなマゾヒスティックな場面でいっぱいだ。ハリウッドスターが作る舞台劇というシチュエーションを通して、映画と映画人を批判する。特に「無知がもたらす予期せぬ奇跡」の対極にあるハリウッドの娯楽映画を揶揄している。
ピクサーのアニメーション映画が、幾つかの決まりごとに基づいているのはよく知られている。毎年様々な作品が生み出されているけれど、どれも一定のパターンをなぞっているのだ。本作がちらちら指し示すアメコミ原作のスーパーヒーロー映画も「無知がもたらす予期せぬ奇跡」とは正反対の、蓄積したノウハウに従い入念にマーケティングされたものである。
これが芸術か?
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は問いかける。
そして演劇とは似て異なる、映画ならではの「予期せぬ奇跡」を起こそうと試みる。
本作は観客にとって予期せぬものの連続だ。まるで一幕物の劇を思わせる、長回しのようなカメラワーク。VFXを駆使した、妄想と現実がないまぜのあり得ない光景。劇伴かと思いきや路上のドラマーが奏でている音楽。ここには、目を奪われ、心躍り、ニヤリとしてしまう楽しさが溢れている。
多くの映画監督が「無知がもたらす予期せぬ奇跡」を起こす上で肝と考えるのがキャスティングだ。
黒澤明監督は日米合作の超大作『トラ・トラ・トラ!』に「プロの俳優」を使うことを好まず、大量の素人をキャスティングした。どこかの演劇学校や他の監督の下で身に付けたメソッドだのノウハウだのを持ち込まれたくなかったのだろう。何百人もの人間に命令する司令官の役には、日頃から何百人もの人間に命令している会社社長を起用し、海軍軍人の役には元海軍軍人たちを起用した。みずから率いる集団の命運をかけて何百人もの人間に命令する経験など、職業俳優は持っていない。司令官役には、普段からそういうことをしている人間の態度、生き様を求めたのだ。
黒澤明は語っている。
「今度の映画は軍艦とか飛行機とか航空母艦とかが画面に主役で出てくる。だからそういうものの存在感に対応するような人間を使って、記録映画的な映像を作らなきゃならない。役者に芝居されちゃだめなんだ。出てきただけで山本五十六のような人、出てきただけで日本海軍の軍人のような人をキャスティングしないとだめだから、プロの役者を使わなかったんだ。」(『異説・黒沢明』)
この黒澤の企みが、豪華キャストの『史上最大の作戦』の成功を再現するつもりだった20世紀フォックスに、スポンサー料欲しさに企業家に大役を提供したのだと受け取られたのは残念だ。
『トラ・トラ・トラ!』が頓挫した以降も、黒澤明監督は無知がもたらす予期せぬ奇跡――手垢まみれの演技法に染まっていないからこそできる想定外の演技を求めた。『影武者』(1980年)のオーディションを告知する大々的な新聞広告は驚きだった。
大々的なオーディションよりも巧い手を考えたのが大島渚監督だ。大島監督は、映画業界に近いところにいるのに俳優ではない人たちを起用した。『戦場のメリークリスマス』(1983年)では漫才師のビートたけし、ミュージシャンの坂本龍一、デヴィッド・ボウイらを起用し、遺作となった『御法度』(1999年)ではビートたけしに加えて漫才師のトミーズ雅、落語家の桂ざこば、映画監督の崔洋一、新人の松田龍平らを起用している。
漫才師のビートたけしを起用するなんて話題性重視のキャスティングと思われたが、ビートたけしは『戦場のメリークリスマス』をきっかけに映画との関係を深め、「世界のキタノ」と称されるようになっていくのだから大島渚監督の慧眼には恐れ入る。
コメディアンや映画監督は黒澤明監督も起用した。『まあだだよ』(1993年)の所ジョージ、『夢』(1990年)のマーティン・スコセッシは印象的だ。映画監督のマーティン・スコセッシがあてがわれたのは画家ゴッホの役であり、演技の巧拙よりも創作に情熱を傾ける態度や生き様そのものが重要だったのだろう。[*]
アレハンドロ・ホドロフスキーが『DUNE』を撮るに当たって芸術家のサルバドール・ダリやロックミュージシャンのミック・ジャガーをキャスティングしたのも、演技の経験や巧拙なんてどうでもいいからだ。ホドロフスキーが求めたのは本物の存在感、本物の過激さだ。
当ブログでたびたび黒澤明監督との共通点を指摘してきた宮崎駿監督も、「プロの演技」を敬遠する。
私は「プロの声優」のテンションの高い作り声が苦手なのだが、「プロの声優」の起用が少ないスタジオジブリの作品は安心して観に行ける。
けれども宮崎駿監督はさらに上を求める。「プロの声優」を起用しないだけでなく、できることなら「プロの役者」も起用しない。面白いことに『崖の上のポニョ』(2008年)で所ジョージを起用したり、『風立ちぬ』(2013年)で飛行機作りに情熱を傾ける主人公に映画監督の庵野秀明を起用したりと、黒澤明そっくりのキャスティングを行っている。黒澤映画と宮崎アニメの両方に主要キャストとして出演したのは、所ジョージさんぐらいではないだろうか。
宮崎監督は、『ジブリの森とポニョの海 宮崎駿と「崖の上のポニョ」』所収のインタビューでこう述べている。
「全部の登場人物をきちんとした役者で固めなきゃいけないとは思っていません。ぴったりくれば誰でもいいんです。たとえば、水没した町に浮かぶ船に乗っている青年は、いわゆる素人の方が演じています。最初はプロの役者さんにお願いしたんですが、ダメだったんです。それで出版部の若い父親にやってもらいました。それが、みごとに的中したんです。」
たしかにあの青年の声には演技の良し悪しを超えた確固たる存在感があった。名もない素人の起用なんて興行的にはマイナスだろうに、それでも監督は若い父親の存在感を欲したのだろう。
興行的なことを云ったら、所ジョージや庵野秀明の声を聞きたくて観客が押しかけるはずもない。『となりのトトロ』の糸井重里しかり。一人でも多くの「人気声優」を押し込んだ方が客ウケするだろうが、監督の思いはそんなところにはない。
こうした映画監督の心情を、木下惠介監督は次のように述べている。
「今までになかった何かを今度の映画に出したい。演出がうまいとか、脚本がいいとか、俳優がうまくやっているとか、そういうことにはあきたりない……今までの手慣れた勉強してきた方法ではその感じが出ない」(「映画ファン」1953年7月号、『異才の人 木下惠介 弱い男たちの美しさを中心に』より再引用)

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が本作で仕掛けるのは、映画なのか実話なのか、虚構なのか現実なのか、観客を惑わすようなメタ構造だ。
かつてスーパーヒーロー、バードマンを演じて人気を博したものの、その後ヒット作に恵まれないハリウッドスターのリーガン・トムソン。彼はみずから脚色・演出・主演するブロードウェイの舞台に役者としての再起をかけている。
これだけでも映画と劇中劇の二重構造で、映画と演劇という異なる芸術を対比した作品になるわけだが、そこにかつてスーパーヒーロー、バットマンを演じて人気を博したものの、その後の代表作というとちょっと思い浮かばないマイケル・キートンをキャスティングした。しかもマイケル・キートンは、みずから監督・主演した『クリミナル・サイト~運命の暗殺者~』(2009年)が大ゴケして評価もいまいち。制作総指揮を務めた3本の映画は評価も成績も散々で、米国ではまともに劇場公開もされていないあり様だ。その追いつめられ方は劇中のリーガン・トムソンの比ではない。
そんなキートンの傷口に塩を塗るような役をオファーするのだから、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は傑物だ。キートン演じるリーガン・トムソンに、同じバットマン役者でありながら監督としても脚本家としても俳優としてもプロデューサーとしても成功しているジョージ・クルーニーへの妬みを口にさせるなど皮肉が効きすぎている。
イニャリトゥ監督は「脚本を書き終えたとき、マイケルしかいないと思ったよ」と語っているが、それはそうだろう。イニャリトゥ監督に会ったキートンが、「からかってるのか?」と尋ねたのも無理はない。
マイケル・キートンは優れた「プロの俳優」だが、同時にこのキャスティングには、何百人もの人間に命令する役を日頃から何百人もに命令している会社社長に割り当てるようなリアリティがある。
観客は追いつめられたリーガン・トムソンのセリフに、追いつめられたマイケル・キートンを重ねるだろうし、リーガン・トムソンの焦った表情にマイケル・キートンの焦りを見るだろう。観客がマイケル・キートンの経歴を知らなくたっていいのだ。この表情やこの口調はマイケル・キートンでしか出せないものなのだ。
加えて、劇中劇の出演者としてリーガンの演出を台無しにする俳優マイク役にエドワード・ノートンときたもんだ。
マイクは優れた俳優だし知名度もあるが、リーガンの脚本や演出にケチをつけ、舞台をすっちゃかめっちゃか引っかき回す。
エドワード・ノートンもまたスーパーヒーローのハルク役を射止めながら、「大勢のキャストとのアンサンブルが大切な『アベンジャーズ』には、協調性のある役者が必要だ」と云われて降ろされた過去を持つ。
マイケル・キートン同様に、劇中のマイクの一挙手一投足が現実のエドワード・ノートンの振る舞いなんじゃないかと観客をハラハラさせる。マイクが演出家や他の俳優と衝突するたびに、『インクレディブル・ハルク』の撮影現場もこうだったんじゃないかとドキドキする。いやいや観客が彼の経歴を知らなくたっていいのだ。この表情やこの口調は彼の人生経験がなければ出せないのだ。
これはあの、忘れられた往年の大女優に忘れられた往年の大女優を演じさせ、完璧主義が高じて干されてしまった往年の名監督に往年の名監督を演じさせた残酷な名作『サンセット大通り』を彷彿とさせる大胆な作品だ。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、ベテラン俳優に当人そっくりの役を演じさせることで、ベテラン俳優の演技と本人の存在感という二兎を追い、二兎とも得たのだ。
[*] 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の劇中、舞台に立つ意欲をなくした主人公をプロデューサーが「マーティン・スコセッシが次回作の出演者を求めて観に来てるぞ」と云って励ます。それはプロデューサーの口から出まかせなのだが……と思いきや、観客の中にマーティン・スコセッシがカメオ出演しているそうだ。
なんだって誰も彼もマーティン・スコセッシを出演させたがるのだろう。

監督・制作・脚本/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本/ニコラス・ヒアコボーネ、アレクサンダー・ディネラリス・Jr、アルマンド・ボー
出演/マイケル・キートン ザック・ガリフィアナキス エドワード・ノートン アンドレア・ライズブロー エイミー・ライアン エマ・ストーン ナオミ・ワッツ リンゼイ・ダンカン
日本公開/2015年4月10日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ]

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『崖の上のポニョ』 名前を呼び捨てにさせるって!?
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以下は、はるさんのコメントへの返事として書いたものである。
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はるさん、こんにちは。
なるほど、字幕だと呼び捨てが気にならないかもしれませんね。
鈴木敏夫プロデューサーによれば、『崖の上のポニョ』がアメリカ人の眼から観てとんでもない映画であるもう一つの理由は、母親の名前を呼び捨てにするからだそうです。『ジブリの森とポニョの海』で宮崎監督や鈴木プロデューサーにインタビューしたロバート・ホワイティング氏も「アメリカなら親を呼び捨てにすることは怒られます。」と云ってます。米国人は気さくにファーストネームで呼び合うのに、これは興味深いことですね。
日本でも親を呼び捨てにする五歳児は、宗介とクレヨンしんちゃんくらいだと思いますけど:-)
鈴木プロデューサーはこの点について「おそらくリサという女性は、たとえ相手が5歳であっても一個の人格と認める。親や兄弟であってもそういう関係であるだろうと思うんです。多分それをやりたかったんだと思うんですよね。」と述べています。
町山智浩氏は「人の親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」として「自分たちの名前を息子に呼び捨てにさせている過剰に民主主義的な両親」も挙げているそうで、賛否はともかく鈴木プロデューサーと同じような捉え方をされているようです。
宮崎監督と付き合いの長い鈴木プロデューサーがそう云うんならそうなんでしょうけど、私はちょっと違うことも考えています。
宮崎監督は歴史に詳しい方です。かなり勉強されています。軍事マニアなのでもともと戦史には詳しいのですが、黒澤明監督との対談で、時代劇を作りたいけど、その時代の人間の歩き方とか、風俗、習慣が判らないとずいぶん悩まれていました。その宮崎監督が遂に『もののけ姫』に着手したとき、高い高いハードルをとうとう越えたのかと感慨深いものがありました。『もののけ姫』は、歴史学者の網野善彦氏が「中世についてずいぶん勉強された上でつくられている」と感歎したことでも知られています。
歴史に詳しいというのは過去の出来事をよく知っているという意味ではなくて、歴史観、史実に裏打ちされた文明観を持っているということです。
中世を含めた日本史を知るのであれば、とうぜん言霊や諱(いみな)についても宮崎監督はご存知でしょう。諱とは本名のことです。
ウィキペディアでは諱に関連して次のように説明しています。
「漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。」
私たちは現在でも昭和天皇のことを裕仁(ひろひと)さんとは呼びませんし、現在の天皇は陛下とか天皇陛下と呼ぶことが多く、明仁(あきひと)さんとは口にしません。勤め先では社長とか理事とか先生といった役職・敬称で呼びかけるでしょう。一歩踏み込んでもせいぜい姓で呼ぶまでで、名(ファーストネーム)を呼ぶことはまずありません。
そういう文化にあって、あえて名を呼ぶとはどういうことか。
宮崎監督が生半可な考えで採用したはずはありません。
なにしろ数年前に、名前を奪われて自分を見失ってしまう『千と千尋の神隠し』を作ったばかりなのです。姓の設定がなく、「お父さん」とか「お母さん」といった呼称も用いず、耕一、リサ、宗介という本名を直接呼び合うことで繋がっている家族が、『千と千尋の神隠し』と対照をなすのは明らかでしょう。
濃厚なアニミズムが噴き出したような本作の世界において、離ればなれになりながらも平静を保とうとする家族には、諱を呼び合うほどのパワーが必要なのかもしれません。
嫌いなフジモトに付けられたブリュンヒルデという名をあっさり捨ててしまうポニョ。
宗介にポニョという名をもらったことを祝福するグランマンマーレ。
本作の世界観は、名付ける、名を呼ぶことにより築かれる関係を重視するものです。
そこには、お互いに通り名で呼び合い、本当に信頼できる相手にしか真の名(まことのな)を明かさない物語、宮崎監督が愛してやまない『ゲド戦記』の影響もあると思います。
本作は多くの人に鑑賞されましたが、アメリカはともかく、日本において諱を呼ぶことの文化的な意味が汲み取られていないようなのは残念です。
はるさんのおっしゃるとおり、作品を再度観る機会が有るのは素晴らしいことです。
優れた作品は見るたびに発見がありますね。
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監督・原作・脚本/宮崎駿 (環境依存文字を避けるため「崎」と表記した。)
出演/山口智子 天海祐希 所ジョージ 土井洋輝 奈良柚莉愛 矢野顕子
日本公開/2008年7月19日
ジャンル/[ファミリー] [ファンタジー]

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『崖の上のポニョ』 嵐の夜に子供を置き去りって!?
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6年前もそうだった。そのために当サイトを立ち上げたと云っても過言ではない。
そのときの思いが再燃している。先々月、『崖の上のポニョ』がテレビ放映されたからだ。
偉大な映画監督が年齢とともに作風を変えるのは珍しいことではない。
80代になっても精力的に映画を撮り続けた黒澤明は、だがしかし、『椿三十郎』のように縦横に張り巡らせた伏線とダイナミックなストーリーで楽しませる映画を撮ったのは50代までであった。
『道』や『カビリアの夜』のような涙を誘うドラマを撮っていたフェデリコ・フェリーニは、虚構と幻影の中をさまようかのごとき作品づくりに変わっていった。
これらの監督は、張り巡らせた伏線をきれいに回収する綿密な構成や、判りやすくメリハリの利いたストーリーや、カタルシスを覚える結末やバケツに三杯泣かせる感動といった「制約」から解放され、自由に闊達に奔放に映画を作るようになっていった。
これを技芸では守破離と云う。茶道や武道をたしなんだ人は聞いたことがあるだろう。
守=まずは決められた通りの動き、つまり形を忠実に守り、
破=守で学んだ基本に自分なりの応用を加え、
離=形に囚われない自由な境地に至る
こうした段階を経ることで、真の道を極められるという教えだ。
宮崎駿監督も同じく道を極めた人だ。
長年、宮崎氏の胸のすく冒険活劇に親しんできた観客は、宮崎冒険活劇の集大成にして、冒険活劇からの卒業宣言ともいえる『天空の城ラピュタ』に唖然としたはずだ。我が友たちはシータとパズーの冒険に快哉を叫んでいたが、私は宮崎監督がもう冒険活劇を作らないつもりだと感じてショックを受けた。
それでもしばらくは、『長くつ下のピッピ』や『パンダコパンダ』以来の元気な女の子の路線に戻っただけで、形には忠実に見えた。
やがて宮崎アニメは応用が多くなり、遂には形に囚われない自由な境地に突入していった。
映画作家の作風がこのように変遷していくと、判りやすい娯楽を求める観客はついていけなくなるかもしれない。
黒澤明が『椿三十郎』のような痛快娯楽作を撮らなくなって、フェデリコ・フェリーニが『道』のような感動作を撮らなくなって、残念に思う観客もいたはずだ。
そこをフォローするのが映画評論家の役割の一つではないかと思う。判りやすい娯楽作や感動作を作れなくなったのではなく、ちょっと判りにくいかもしれないけれど監督は新たな境地に達したのだと言論を駆使して世に知らしめてもらいたいと思う。
黒澤明やフェデリコ・フェリーニの作風がどんどん変わったとき、映画評論家はそういう役割を果たしたようだ。フェリーニの『8 1/2(はっか にぶんのいち)』を観て感動にむせび泣く人はいないだろうが、この映画は高く評価され映画賞にも恵まれた。黒澤明は晩年に至るまでキネマ旬報ベスト・テンの常連だった。
ところが宮崎駿監督の扱いはどうも違う。
『風の谷のナウシカ』のヒットを受けて遅まきながら宮崎駿の存在に気づいたらしい評論家は、この作品をその年のキネマ旬報ベスト・テン第7位に選出した。以来、新作が発表されるたびにキネマ旬報ベスト・テンに選出していたが、宮崎監督がどんどん自由奔放になると評論家のフォローはなくなった。『千と千尋の神隠し』の3位を最後に、『ハウルの動く城』も『崖の上のポニョ』もキネマ旬報ベスト・テンの圏外になっている。
何もキネマ旬報ベスト・テンに選ばれることが映画の良し悪しではないし、選ばれなくたって一向に構わないのだが、宮崎監督の自由な境地の極北ともいえる『崖の上のポニョ』はもっと評価されてしかるべきではないかと感じた。
方向性の違いが関係するかもしれない。
映画監督を主人公に据え、映画とは何か、創作とは何かを問いながら人生を探求する『8 1/2』のような作品は語りやすい。評論しやすい。黒澤明の作品も、何と云うか大人の心をくすぐる高尚なところがあって、評論家が俎上に載せやすい。
他方、宮崎駿監督は子供向けの作品づくりを心がけ、ややもすればにじみ出そうになる大人の心をできるだけ削いでいる。まして『崖の上のポニョ』は五歳児を主人公にした幼児向けの作品だ。幼児の視点に徹して、幼児が楽しめることを第一義に作られている。はなから大人は対象外なのだ。
宮崎監督にとっては子供が喜ぶかどうかが大事であって、大人(ましてや評論家)に受けても何の意味もないだろう。
公開すれば大ヒット間違いなしの宮崎アニメは、評論家が擁護するまでもないのかもしれない(後年、宮崎監督は初の大人向け映画『風立ちぬ』でキネマ旬報ベスト・テン第7位に浮上した。大人にとって興味深い、評論の俎上に載せやすい映画だった)。
さはさりながら、『崖の上のポニョ』の評価が高くないらしいのは残念だった。
作品の発表から数十年が経てば、発表順や作風の変化など関係なくなるだろう。私自身、フェリーニの作品は『8 1/2』や『甘い生活』から観た。それらの作品の評判を頻繁に目にしたからだ。その後に『道』や『カビリアの夜』を観て、こんな感動作も撮っていたのかと驚いた。
未来の受け手が宮崎アニメを手に取るとき、やはり評判の良いものや頻繁に言及されるものに目が行くだろう。大人っぽい要素もある『ハウルの動く城』なら成長してから観てもいいかもしれないが、『崖の上のポニョ』はぜひ小さな子供の頃に観てほしい作品だ。しかし子供に購買力はないから、親が買い与えることになる。結局、作品を選ぶのは大人であり、大人の購買意欲をかき立てることが重要だ。
『もののけ姫』以降、興行収入が軽く100億円を突破している宮崎アニメだが、『千と千尋の神隠し』の304億円をピークに興収が下がり続けているのも気になった。観客は離れていき、評論家筋の受けもよくない。宮崎監督の自由な境地に誰もついていけなくなっているのではないか。
『崖の上のポニョ』の魅力をアピールしなければ。
そんな思いで悶々としていたのが6年前だ。
そこで当サイトを立ち上げて書いたのが、「『崖の上のポニョ』は大人には厳しいか?」である。私がブログに記事一本書いたところで世の中に何をアピールできるわけでもないが、この記事を書き、記事に倍するコメントを書き足したことで、悶々とした思いはずいぶん晴れた。
にもかかわらず、再びムラムラしてきたのは、先頃『崖の上のポニョ』がテレビ放映されたとき、一つのツイートを目にしたからだ。
「嵐の夜に子供を置き去りにするなんて。」
このことを非難する声があるのは知っていた。「ポニョ 嵐の夜に子供を置き去り」等で検索すれば、非難の声が幾つも見つかる。
同じ映画を観ても感じ方は人それぞれだから、私がとやかく云うことではない。改めて観れば、受け止め方が変わることもあろう。
しかし、このことについてはこれまで何も書いていなかったことに気づいたので、とりあえず私の感想を書き留めておきたくなった。ここには宮崎駿監督の大切なメッセージが込められていると思うからだ。
以下、過去の記事との重複もあるが、お付き合い願いたい。


勤務を終えたリサは老人たちの世話を他の職員に任せ、五歳の息子宗介をクルマに乗せて家路を急ぐ。
このときリサが何を考えていたのか、なぜ天候の悪い中を急いで帰らなければならないのか、映画では明示的には語られない。以前の記事でも書いたように、五歳児のための、五歳児に向けた映画である『崖の上のポニョ』は、大人の不安や心配を子供に知らせないように配慮されている。それは宗介だけでなく、映画館の客席にいる子供たちもおんなじだ。
大人の観客は察するだろう。嵐が迫る中、船乗りの妻が心配するのは夫の身だ。
それは劇中で描かれるリサの家を見ても明らかだ。彼女の家はまるで私設の灯台である。入り組んだ海岸線に突き出した崖の上の一軒家は、航海する船にとって絶好の目印に違いない。しかもリサは非常用の発電機や無線機や発光信号機まで用意して、船上の夫のために出来得る限りの装備を揃えている。とても一般家庭とは思えない品ぞろえに、夫への愛情の深さがうかがえる。
海岸沿いの町全体が停電してしまうなんて、海上の船にとっては暗闇に放り出されるようなものだから、彼女は早く帰って家の明かりを灯し、夫と交信したかったに違いない。
もっとも、はじめのうちはそういう理由で家路を急いでいたにしても、途中からは逃避行だ。大津波が彼女のクルマに迫ってきたからだ。
魔法の力を持つポニョが波に乗って宗介を追いかけているのだが、普通の人間にそんなことは判らない。逃げても逃げても迫ってくる大波に、リサはクルマのアクセルを踏み続ける。
津波とカーアクションが同居するこのシーンは、本作最大の見せ場であろう。とにかく絵が動く動く。アニメーションの迫力と力強さをたっぷりと楽しめる。迫力がありすぎて、怖いくらいだ。見方を変えれば、ここは化け物から逃れられない恐怖シーンでもあるのだから、怖いのもとうぜんだ。
ともあれ、リサと宗介は我が家にたどり着き、途中で拾ったポニョとともに温かい飲み物で人心地つく。
そうまでしてたどり着いた我が家なのに、リサは宗介とポニョを残して「ひまわりの家」に戻ってしまう。
これが疑問視されているわけだ。町山智浩氏は「人の親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」として「洪水の夜に5歳の子どもを自宅に置き去りにする母親」を挙げているという。
アメリカ的な人が増えたのかなぁ、とも思う。
『崖の上のポニョ』の完成報告会において、鈴木敏夫プロデューサーは「アメリカ人の方の眼から観ると、とんでもない映画らしいんですよ。」と述べている。アメリカでは親は子供、特に小さい子に対して責任を持たなければいけない。なのにリサは宗介とポニョを置いていく。世界展開を視野に入れた本作において、世界最大の映画市場である北米で受け入れられない要素があるのは懸念材料だろう。鈴木プロデューサーは「『崖の上のポニョ』がアメリカでどういった評価を受けるのか、僕はすごく大きな関心があるんです。」と語る。[*1]
だが鈴木プロデューサーの読みは甘かったのかもしれない。かつて日本では仕事に精を出すのが当たり前とされ、働き手は家庭より仕事を優先したものだ。しかし、いまや『クレヨンしんちゃん』の父ひろしが「係長の代わりはいるけど、とーちゃんの代わりはいないからな」と云って会議をすっぽかして帰ってしまう時代だ。私もこれは名台詞だと思っている。
その上、本作は子供を置いていくのが父ではなく母だから、余計に風当たりが強いのかもしれない。
宮崎監督は、息子吾朗氏が父の反対を押し切って『ゲド戦記』を監督したことを指し、「オレの領域に土足で入ってきたのは嫌みだろうか、きっと吾朗が5歳のときに、自分が仕事にかまけていたのがいけなかったんだ。吾朗のような子を作らないためにこの作品を書こう」なんて云ったそうだ。
親が仕事一筋でも気持ちよく送り出す子供になれ、という冗談だろう。
いつでも親がそばにいたら、子供たちの冒険を描けない。だからアメリカでも子供が主役の映画ではどこかで親を退場させる必要があるのだが、これがたいへんな努力を要するらしい。
『E.T.』を公開するための、スティーヴン・スピルバーグ監督たちの苦労は並大抵ではなかったようだ。鈴木プロデューサーは『E.T.』の騒動を紹介している。
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子供たちだけでワッと行きますね。これも実は大変なことだったんですよ。それでアメリカでは共和党問題にまで発展したそうです。「子供に対して親はこうあらなければならない」、それを頑強に守っているのが共和党です。一方、子供に自由を与えようではないか、というのが民主党です。そんな中で、この『崖の上のポニョ』という映画がそれをも超えたところで親子関係が描かれる。
僕としてはこの映画がもし全米で公開されて、ヒットするようなことがあったら非常に面白いと、そんなことを考えました。
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『崖の上のポニョ』が米国で927館もの公開にこぎつけたのは、スピルバーグと苦労をともにしてきたキャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルがプロデューサーを引き受けてくれたおかげだろう。
もちろん『崖の上のポニョ』で描かれるのは、普通の状況ではない。避難命令が出るほどの災害が起きており、そんなときに親が子供のそばにいるのはとうぜんだ。宮崎監督もそれはよく判っている。
嵐の夜とか洪水の夜というと、大災害の真っ只中で子供を放り出したように聞こえるが、映画を観ればそんなことはない。
宗介とポニョが出会うことで嵐は静まる。天候がすっかり回復した満天の星空の下、リサは波も収まったことを見極めた上で、デイケアサービスセンターに戻る話を切り出している。
リサが去った後で海面が上昇するけれど、これはまた別の話だ。大津波はポニョが宗介に会いに来たときに起きたものだから、二人の再会で解消している。それをリサは見届けている。その後の水位の上昇は、世界のバランスが崩れて地球に落下しはじめた月の引力が起こしたものだ。
リサが「ひまわりの家」に戻るとき、宗介は一緒に行きたいと云うが、無論そんなことはさせない。家が一番安全だからだ。崖の上の家は水没のおそれがない。食料、水、その他の備品もある。宗介は装備の使い方に習熟しているから、夫との連携もできるはずだ。
一番安全なところに宗介をいさせるのはとうぜんで、問題は自分も一緒に安全なところにいるかどうかだ。
ここでリサは「ひまわりの家」の老人たちを心配し、食料や備品をクルマに積めるだけ積んで出発するのだが、もちろんこの展開は仕事一筋の親を気持ちよく送り出す子供になれ、というメッセージではない。そういうところもないではないが、いささかニュアンスが異なる。
何のためにアニメーション映画を作るのか、という宮崎駿監督の根源的なモチベーションに関わっている。

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「おまえさんの出す主人公ってのはどうも良い子過ぎる」とか「優等生過ぎる」っていう意見がいっぱいあって、「人間ってもんはそんなもんじゃない」特に女の子がよく言うんですけどね。「女ってのはそんなもんじゃない」。
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1988年、宮崎駿監督は『となりのトトロ』発表後の講演でこんなことを語っている。[*2]
宮崎監督が描く人物はたしかに現実的ではないかもしれないが、それは確信を持ってやっていることだ。
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「人間の掘り下げが足りない」とか「一人の人間の中にある悪とか愚かな部分というものに目を背けて、肯定的な部分とか善いものだけを出してるんじゃないか」、例えば今度の「となりのトトロ」なんか全くそうです。はっきり意図的にやりました。こういう人達がいてくれたらいいなあ、こういう隣の人がいたらいいなあ、っていうふうに。
(略)
自分が作るものは「そんな女性はいません」とか言われても、それこそ「こういう人がいてくれたらいいな」っていうことでやっていくしかないと思ってるんです。
---
宮崎監督が描く人物は、監督の描く理想像なのだ。現実的でないのは百も承知だ。
こんな人がいたらいいな、映画を観た人が何か行動するときに映画の人物のように振る舞ってくれたらいいな。少しでもその行動に影響できたなら、世の中は少し良くなるんじゃないかな。宮崎監督はそんな思いでアニメーション映画を作っている。
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行動的だが気性が荒くて辛辣で、やや危なっかしいところもあるリサ。彼女は理想の母親像とも云えるし、違うとも云えるだろう。
宮崎監督の母親像を読み解くには、実際の監督の母親に迫るのが近道だ。『風立ちぬ』が宮崎監督の父を描いた作品であるように、『崖の上のポニョ』は宮崎監督の母を描いた映画である。
鈴木敏夫プロデューサーは、「ひまわりの家」の老人の一人、トキさんが宮崎監督の母なのだという。
---
宮さんのお袋さんは71歳で亡くなられていますが、今年1月に67歳になった宮さんが昨秋、『いつお迎えが来てもおかしくない年になった。(自分が死んで)お袋と再会したら、何を話そう』と言っていました。トキさんというキャラクターは宮さんの母親がモデルだと公言していましたが、その胸に飛び込んでいく宗介は宮崎駿そのものかなと
---
「ひまわりの家」の老人たちのうちにあって、トキさんは一味違う人物だ。みんなは宗介を可愛がり、優しい言葉をかけるのに、トキさんは気性が荒くて辛辣で、宗介が折り紙で作った船を「バッタに見えるね」とこき下ろす。みんながフジモトに連れて行かれたときも、一人だけ別のことをする行動的なお婆さんだ。
おや、これではリサにそっくりではないか。
本作にはトキさんと同じ性格の人物が三人いる。
いずれの人物も行動的で気性が荒くて辛辣で、親を呼び捨てにすることを何とも思わない。そして宗介が大好きだ。
トキさん本人とリサ、そしてポニョである。ポニョは実の父を「フジモト」と姓で呼び捨てにする。名前で呼び捨てにさせるリサより過激だ。
再び鈴木プロデューサーの言葉を借りよう。
---
おトキさんは口の利き方が素直じゃなくて、偏屈でしょう。うちのお袋なんかもソックリなんです(笑)。
(略)
僕流に宮さんの胸の内を説明すればポニョ、リサ、おトキさん。これは一人の女性なんです。つまりポニョみたいな女の子が成長するとリサになり、年を取ったらおトキさんになる。描いている女性像はひとつなんです。
---
私も同感だ。
外見と役回りは違うけれど、三人の人物像はそっくりだ。
周りが全然見えていないポニョが、少し分別を身に着けるとリサになり、さらに思慮深くなるとトキさんになる。トキさんは足が悪くてリサのようには行動できないが、代わりにリサが金魚だと思い込んだポニョを人面魚と見抜く知恵がある。
宮崎監督は母親をモデルにトキさんのキャラクターを確立し、トキさんを未熟にしてリサを、リサを幼くしてポニョのキャラクターを発想したのかもしれない。その過程で、宮崎監督が六歳の頃から病床に臥せっていた母の分まで元気で活動的なキャラクターにしたのだろう。だから他の宮崎キャラと同じくリサも理想像ではあるものの、現実のモデルがいるだけ理想化しきれていない。
しかし、本作には生きとし生けるものすべての母であり、母性の象徴たるグランマンマーレがいるから、作品全体で理想の母親像を描いているとも云える。
では、洪水の夜に五歳の子供を自宅に置き去りにすることは、理想的な親の行動なのだろうか。
忘れてならないのは、本作が親世代に向けて作られた映画ではなく、五歳くらいの子供のための映画だということだ。
映画から理想の人物像を汲み取って、「こんな人がいたらいいな」という「こんな人」になることが期待されているのは、幼い子供たちなのだ。五歳の子でもこんなときにはこういう行動を取ってくれるといいな、という思いを込めた映画なのだ。
なぜなら、この映画のように五歳の頃に街が壊滅する大災害に遭い、そのときの行動を思い返して後々苦しんだ子供がいるからだ。
宇都宮大空襲の炎の海を逃げ惑った、駿少年である。
1941年1月生まれの宮崎監督は、1945年7月の宇都宮大空襲のときにわずか四歳半。それでも焼夷弾で町中が燃える中を小さなトラックで逃げたこと、女の子を抱いた近所のおばさんが「乗せてください」と駆け寄ってきたことは憶えているという。自動車の個人所有が一般的ではなく、しかも原油不足から民間では木炭自動車が使われていた当時にあって、裕福な彼の家にはガソリンのクルマがあった。
宮崎監督はそのときのことを次のように述べている。[*2]
---
自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲けてる親の元でぬくぬくと育った、しかも人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで逃げちゃった、乗せてくれって言う人も見捨ててしまった、っていう事は、四歳の子供にとっても強烈な記憶になって残ったんです。それは周りで言ってる正しく生きるとか、人に思いやりを持つとかいうことから比べると、耐え難いことなわけですね。それに自分の親は善い人であり世界で一番優れた人間だ、っていうふうに小さい子どもは思いたいですから、この記憶はずーっと自分の中で押し殺していたんです。それで忘れていまして、そして思春期になった時に、どうしてもこの記憶ともう一回対面せざるを得なくなったわけです。
(略)
自分のどっかの根本に、自分が生まれてここまで生きて来たってことの根本に、とんでもないごまかしがあるっていうふうに気がついたんです。
---
その問題と対決した宮崎青年は、親とも喧嘩した。
空襲のさなか、我が子を守って逃げるのは親としてとうぜんだと思う。小さなトラックは家族だけでいっぱいだった。止まって他人を乗せられる状況ではなかったろう。
けれども、自分の親は世界で一番優れた善い人だと思いたい幼子にとって、他人を見捨てる親の姿は衝撃的だった。
宮崎監督は、あのとき運転していたのが自分だったらトラックを止めただろうかと自問する。
---
その時に「乗せてくれ」って言ってあげられる子供が出てきたら、たぶんその瞬間に母親も父親もその車を止めるようにしたんじゃないかと思うんです。例えば自分が親で、子供がそう言ったら僕はそうしただろうと思うんです。
(略)
人間っていうのはやっぱり所詮「止めてくれ」って言えないんじゃなくて、言ってくれる子を出すようなアニメーションを作りたいと思うようになったんだ、ってこの年になって思い至ったんです。
(略)
四歳の子供が親に「車を止めてくれ」って言うのは現実感がないかもしれない。でも、そういう事を言ってくれる子供が出たら、「あ、こういう時にはこういう事言っていいんだ」っていうふうに思えたらね、その方がいいんじゃないかなって思うんです。少なくとも僕はそういうことで映画を作るしかない人間だと思ってるんです。
(略)
自分は「こうあってほしい、こうあったらいいな」っていうものを作りたい。「パンダコパンダ」もそうです。それから「となりのトトロ」もそうです。いや、ほとんどみんなそうですね。そういうものをこれからも作っていくしかないだろうと思うんです。
---
大津波から逃れようとリサがクルマを飛ばしているとき、海に落下するポニョを見た宗介は叫ぶ。「女の子が落ちた!」
それを聞いたリサは、とっさに*ク*ル*マ*を*止*め*る*。
宗介の安全を確保したリサは、「ひまわりの家」に残る老人たちを心配する。他人だって関係ないわけじゃない。我が子さえ安全ならいいわけじゃない。リサは老人たちのことも等しく心配するのだ。
そして宗介はリサに「ここに居て」とは*云*わ*な*い*。云いたいだろうに、その言葉を飲み込んで「僕も一緒に行く」と云う。お婆さんたちを放っておくという選択肢は、宗介にはないのだ。この映画で重要なのはリサの選択ではない。宗介の選択だ。
助けを求める人がクルマに駆け寄ってきたら、親に「乗せてくれ」って云ってあげられる子供。「車を止めてくれ」って云ってくれる子供。子供がそう云ったなら、母親も父親もその言葉を振り切ってまでクルマを走らせはしないのではないか。そうすれば、その子は他人を見捨てる親の姿を見なくて済むんじゃないか。自分が生まれてここまで生きて来たことの根本に、とんでもないごまかしがあるなんて苦悩せずに済むのではないか。
「車を止めてくれ」って云ってくれる子を出すようなアニメーションを作りたい。その思いが、老人たちのために「ひまわりの家」に向かう母と、その母に理解を示し、見送る子供の描写に繋がるのだろう。
女の子のためにクルマを止めさせる五歳の子供。
その子の言葉に、すぐにクルマを止めた母。
あたかも焼夷弾が降り注ぐあの夜に戻ってやり直したかのようなこの場面を描いた宮崎監督の胸中はいかばかりか。
本作で宇都宮大空襲のあの夜のことに取り組んだ宮崎駿監督は、次作『風立ちぬ』でいよいよ軍需産業に従事する男を描くことになる。
[*1] 2015年4月10日現在、映画評価サイトRotten Tomatoesでは肯定的な評価が92%を占め、平均点7.6/10を獲得している。
興行収入15,090,399ドルは、米国市場ではヒットといいがたいだろう。
[*2] 「宮崎駿講演採録 アニメーション罷り通る (なごやシネフェスティバル'88にて)」
『キネマ旬報臨時増刊1995年7月16日号 宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』所収
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監督・原作・脚本/宮崎駿 (環境依存文字を避けるため「崎」と表記した。)
出演/山口智子 天海祐希 所ジョージ 土井洋輝 奈良柚莉愛 矢野顕子
日本公開/2008年7月19日
ジャンル/[ファミリー] [ファンタジー]

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『エイプリルフールズ』に騙されるな!

よくもこんなに面白い映画を考えたものだ。
「面白い」という言葉にはいくつかのニュアンスがあるが、ここでは「滑稽」とか「楽しい」という意味で受け取っていただきたい。
とりわけ笑ったのが、ハンバーガー店のマスター役の古田新太さんとアルバイト役の木南晴夏さんの演技だ。やんごとなきお方の来店に動転した彼ら。作法をわきまえぬ客たちを「お前ら公安に消されるぞ!」とマスターがどやしつける一方で、コーヒーカップを運ぶアルバイト女子は「おコーヒーでございます」なんて云いながらガタブル震えてしまう。芸達者な古田新太さんと木南晴夏さんが演じる取り乱した人間のバカさ加減が実に愉快だ。
やんごとなきお方を乗せたリムジンの運転手、滝藤賢一さんもすっかり目がいっちゃって、いやこの人はいつも目がいっちゃってるような役だけれど、本作は特に度外れた演技で笑わせてくれる。
いくつものストーリーが付かず離れず並行して進む『エイプリルフールズ(4月のバカたち)』でも、私がとりわけ楽しんだのはやんごとなきお方のエピソードだ。一番泣いたのは少女誘拐の話。感心したのが除霊師の話と引きこもり中学生の話だ。
本作は石川淳一監督が「できればあまり前情報なくご覧いただいて、バカ映画が始まったなっていう所から、けっこう泣けるなっていうことで終わりかけて、結局バカ映画だったなって思いながら帰ってもらえると僕はすごく嬉しいです(笑)」と語るとおりの映画なのだが、面白いのはバカ担当や泣かせ担当に分かれていないことだ。それぞれのストーリーがバカな要素と泣ける要素を持ちながら並行してクライマックスを目指すので、おバカな前半ではバカの波状攻撃が繰り出され、泣ける後半では感動の波状攻撃に見舞われる。
豪華キャストのオンパレードで、多くのストーリーが絡み合う本作を、少し整理してみよう。
本作を構成するのは、主に次のストーリーだ。
(1) テレビのエイプリルフール企画に触発された女による、イタリアンレストランの立てこもり事件。犯人の女は、"やんごとなき"夫妻の妻の方に人生最大のアドバイスを貰っている。狙われた嘘つき男は、除霊師に貰った芋ケンピのおかげで真の愛を手に入れる。
(2) お忍びで休日を楽しむ"やんごとなき"夫妻。夫妻が乗るリムジンの運転手の娘は、ヤクザに誘拐されている。夫妻が楽しみにしていたコンサートの歌手は、イタリアンレストランで人質になっている。お互いに嘘をついていた"やんごとなき"夫妻は、二人の強い愛を確かめ合う。
(3) 少女を騙して連れ回すヤクザたち。親に愛されてないと思ってひねくれていた少女は、やがて親の愛情をダブルで実感する。
(4) いつも二人でつるんでいる大学生。"やんごとなき"夫妻の来店のためにハンバーガー店を追い出され、ヤクザたちにラーメン屋を追い出された二人は、嘘がきっかけで真実の愛を手に入れる。
(5) テレビのエイプリルフール企画に出演した売れない役者。彼の妻は、イタリアンレストランでの嘘をきっかけに人生の目標を見つける。
(6) 詐欺容疑で刑事に踏み込まれた除霊師の老婆。彼女を連行した刑事には、イタリアンレストランのオーナーシェフの友人がいる。刑事が長年追っている逃亡犯は、イタリアンレストランで人質になっている。除霊師の口車に乗せられそうな男は、イタリアンレストランに駆け付けねばならなかった。
(7) インターネットの情報を見て、自分を異星から来たスペースノイドだと思い込んだ中学生。インターネットに情報を書き込んでいたのは除霊師だった。
それぞれのストーリーは、些細なことまできめ細かく絡み合っているのだが、とてもすべては書ききれない。
ここから浮かび上がるのは、あるエピソードで脇役の人も他のエピソードでは主人公であるということだ。雑魚キャラ扱いの人なのに、別のところではみんなに待ち望まれていたりする。どんなチョイ役でも一人ひとりに人生があり、背景がある。その当たり前のことを、本作の作り手は忘れない。
そして「歌にはコンプレックスがある」という富司純子さんがクライマックスで歌ってくれるのが、なんと名曲『アメイジング・グレイス』だ。18世紀の奴隷貿易で儲けた男が、牧師になって作った讃美歌である。
罪深い自分でも今日を迎えられたことに感謝するこの歌は、嘘をついた者たちが紆余曲折を経て愛と幸せを手にする本作に打ってつけだ。
それに本作の登場人物たちは、嘘つきだけど悪人ではない。そもそも本作は、コンゲームや騙し合いの映画ではない。ミステリーでもサスペンスでもない。だから大ドンデン返しや、アッと驚く結末を期待したなら、それは自分の期待感に騙されている。
本作の登場人物が嘘をつくのは、真実の辛さから目を背けるためだったり、ちょっとした嘘を人付き合いの潤滑油にするためだ。それは平凡な私たちの姿に他ならない。
脚本家の古沢良太(こさわ りょうた)氏は、数々の映画やテレビドラマの脚本を書きながら思うところがあったのではないか。
人間にはいろんな面があり、人前ですべての本性をさらけ出したりはしない。人間の真実の姿なんて(ときに本人にも)判らない。けれどもテレビドラマや映画では、ある程度登場人物が心情を吐露したり、ナレーション等で気持ちを明らかにすることで、観客の理解を助けてやる必要がある。そういう配慮をしなければ、多くの観客はついて来られないだろう。
『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズのように本音で取っ組み合う世界と、『外事警察』のような陰謀と騙し合いに終始する世界の両極端を描きながら、古沢氏はそのあいだにある、普通の人が普通に嘘をつく日常を描いてみたくなったのではないか。
氏は本作の企画をスタートさせるに当たり、「エイプリルフールの1日の中で起こる群像劇」というアイデアを提案した理由を次のように語る。
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そもそも"嘘"って、映画のモチーフとして昔から使われているように、とても面白いものですよね。たくさんの登場人物が大きな嘘をつくわけじゃないけれど、小さな嘘をついていくうちに影響しあって、小さな奇跡を起こす。そのモチーフがすごく面白いと思っていました。
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だから本作で語られる嘘は(あまり)罪がない。場合によっては、嘘をつき通すことで本当の愛を知り、本当の奇跡を呼び起こす。
若い男女の愛、歳を重ねた夫婦の愛、親子の愛、同性愛、そのすべてが嘘のおかげで大団円を迎えるのは気持ちがいい。
このとき、すべてのエピソードが一点に収斂し、登場人物が一堂に会す――なんてことにならないのも感心した。自分の行動が誰にどう影響したか、自分の身に降りかかったことの発端は何なのか。現実の私たちはそんなことを知る由もない。すれ違いはすれ違いのまま、知らないことは知らないまま、会わない人とは会わないままなのが自然であろう。そこを作り込み過ぎないのが、小さな嘘と小さな奇跡の本作に相応しい。
本作はまた、真実を語る映画でもある。
作り手の本気がうかがえるのが、(3)の少女の話だ。家を出たら性風俗産業で稼げばいいと甘いことを考えている女の子の性根をたたき直すため、ヤクザが彼女を風俗店に連れていく。ここはオブラートにくるんだ描写で済ませることもできただろうが、映画の作り手は、たぶんこの作品の出来得る限りのリアルさで風俗店のあり様を見せつける。それは少女の甘っちょろい考えを吹き飛ばし、ひいては客席にいる未成年者にも抵抗を覚えさせるものでなければならない。作品のトーンを壊しかねない風俗描写をガッツリ描いたのは、作り手の心意気が本物だからだろう。
公式サイトによれば、このエピソードのコンセプトは、"まっすぐな男の、娘に対する最後の授業"であるという。男(と作り手)の思いは、娘だけでなく観客にも伝わったのではないだろうか。
真実といえば、本作の登場人物は誰も彼も嘘をつくのに、嘘をつかない人もいる。
それが(6)の除霊師だ。本作の中でもっともうさん臭くて怪しい老婆は、実は嘘をついていない。怪しげな占いは的中し、誰にも話せなかった刑事の内心もお見通し。彼女の云うことは次々に実現する。生活のために芋ケンピを法外な値段で売りつけてるが、老婆はそれを芋ケンピとも芋ケンピじゃないとも云ってないから嘘ではない。
主要人物の中でただ一人嘘をつかないのが、一見すると嘘の塊のような除霊師なのは愉快である。
おっと、もう一人、嘘をつかない人物がいた。(7)の中学生は自分を宇宙人だと信じて、マンションの屋上で宇宙船を呼び続ける。おバカな彼はインターネットの情報に騙されただけで、誰にも嘘をついていない。
――と思わせて、本作は最後の最後にトンデモないドンデン返しを用意する。
深夜0時を回った4月2日、嘘が許されない日になって、最大の真実が明かされる。
除霊師はインターネットに嘘の情報を書き込んだように見せかけて、本当にメッセージを届けるべき相手に届けていたのだ。彼女の云うことは実現する。
地球人はスペースノイドに騙されていたのだ!
ひゃー、こいつは騙された!!

監督/石川淳一 脚本/古沢良太
出演/戸田恵梨香 松坂桃李 ユースケ・サンタマリア 富司純子 里見浩太朗 寺島進 滝藤賢一 窪田正孝 矢野聖人 小澤征悦 菜々緒 戸次重幸 宍戸美和公 大和田伸也 高橋努 浜辺美波 山口紗弥加 千葉真一 高嶋政伸 りりィ 岡田将生 生瀬勝久 小池栄子 千葉雅子 浦上晟周 木南晴夏 古田新太
日本公開/2015年4月1日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ]

『イミテーション・ゲーム』 Stay Weird, Stay Different

やばい。面白すぎる。
エニグマ、チューリング・テスト、ケンブリッジ・ファイヴ……。
この映画はスパイ小説や冒険小説、ミステリーやSFが好きな人にはたまらないものでいっぱいだ。これらの要素が入り乱れ、最初から最後までワクワクしっ放しなのが『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』だ。
エニグマとは、ナチス・ドイツが使用した暗号装置。
その暗号を解読できれば、ドイツとの戦争において英国は一気に有利になる。――そこから構想された作品といえば、マイケル・バー=ゾウハー著『エニグマ奇襲指令』あたりが有名だろうが、大泥棒が潜入して暗号装置の奪取を謀るその小説とは違い、本作はエニグマを上回る装置を開発し、暗号を解読しちまおうというのだからスケールがデカい。しかも実話というから恐れ入る。
英国のブレッチリー・パークに置かれた政府暗号学校。そこでベネディクト・カンバーバッチ演じる天才数学者アラン・チューリングをはじめとする暗号解読の異才秀才たちが、エニグマの暗号を相手に頭脳戦を展開するのが本作だ。
アラン・チューリングといえば、チューリング・テストの考案者として知られている。チューリング・テストとは、いくつもの質問をすることで、回答者が機械か人間かを判別するものだ。映画ファンには、『ブレードランナー』でハリソン・フォード演じる捜査官が人間の中に紛れ込んだレプリカント(人造人間)を見分けるために行うヴォイト=カンプフ・テスト(フォークト・カンプフ検査)みたいなものと云えば判り易いだろう。あれは明らかにチューリング・テストにインスパイアされていた。
本作は、アラン・チューリング自身が刑事の尋問に答えることでチューリング・テストを受ける――すなわち自身の過去を語りながら人間性を問われるという知的な構造になっている。
本作が英国で公開された2014年は、アラン・チューリングの没後60周年に当たる。これを記念して英王立学会で開催されたチューリング・テスト大会では、ウクライナ在住の13歳の少年という触れ込みのユージーン・グーツマン君が史上はじめて"合格"した。ユージーン君は人間ではないのだが、彼と会話した審査員たちは彼を人間と判定したのだ。
発明家にして未来学者のレイ・カーツワイルは、コンピューターが2029年までにチューリング・テストに合格すると予想していた。だが、どうやら現実の進歩はカーツワイルの予想を上回っているようだ。いまや私たちは機械が書いた記事を読み、機械が作曲した音楽を楽しんでいる。
カーツワイルといえば、いずれ人工知能の性能が全人類の知性の総和を越える「技術的特異点(テクノロジカル シンギュラリティ)」が訪れると提唱したことで知られるが、彼の予想する「その時」は2045年である。一方、AI研究者セバスチャン・スランは、"The Singularity is Here (シンギュラリティは今まさに起きている)"と主張する。
このような記念すべきときに、コンピューターの父、アラン・チューリングの足跡をたどり、チューリングが目指したもの、夢見たものに思いを馳せる『イミテーション・ゲーム』が公開されたのも巡り合わせだろうか。
物語の大半は第二次世界大戦中の諜報戦だ。
そこにケンブリッジ・ファイヴを絡めるのだから、グレアム・ムーアの脚本は手が込んでいる。
ベネディクト・カンバーバッチが出演したスパイ映画といえば、『裏切りのサーカス』が思い出される。あれもケンブリッジ・ファイヴの絡む実話の映画化だった。
名門ケンブリッジ大学を卒業し、ソ連のスパイになった五人の男たち「ケンブリッジ・ファイヴ」。その一人と目されるジョン・ケアンクロスが、本作ではチューリングの同僚として登場する。
映画はこじんまりしたチームで暗号解読に取り組む様子を描いているが、実際の職員は1万人に上り、部署の異なるチューリングとケアンクロスが厳しいセキュリティを乗り越えて接触するなどあり得なかったという。
しかし、映画の盛り上がりを見れば、ソ連のスパイを紛れ込ませたムーアの脚本は見事といえよう。
秘密情報部の絡ませ方も巧い。
ブレッチリー・パークの政府暗号学校にはチューリングたちの上司としてアラステア・デニストンという長官がいるのだが、暗号解読作戦を仕切っているのは英国秘密情報部(MI6)であり、劇中にはしばしばMI6長官スチュアート・ミンギスが登場する。実際は、映画のようにチューリングとミンギスが接触することはなかったようだが、ミンギス役のマーク・ストロングの威圧感のおかげで、秘密情報部がすべての糸を引く気味悪さが醸し出されている。
ミンギス(Menzies)は、007の上司"M"の元ネタと云われているようだ。
ちなみに007シリーズの作者イアン・フレミングは、作家に転身する前、英海軍情報部に所属してスパイ活動にも従事していた。本作の脚本執筆のために、謎に包まれたチューリングの仕事を調査したグレアム・ムーアは、意外なところでチューリングの痕跡を発見している。「エニグマ・コード解読後のチューリングのMI6との仕事について、われわれが得た最良の証拠は、実はイアン・フレミングの日記からのものです。」
極めて優れた戦争サスペンスである本作は、傑出した作品の例に漏れず、葛藤に引き裂かれる主人公たちの姿が描かれる。ブレッチリー・パークの面々は、欧米の作品ならではの辛く厳しい決断を迫られるのだ。
エニグマの暗号を破ることに成功したチューリングたちは、だがしかし、せっかくドイツ軍の攻撃計画を突き止めながら、標的となる人々を助けない。そのため輸送船団は沈没し、多くの犠牲を出してしまう。
これまで当サイトで取り上げた『ナバロンの要塞』や『ギャラクティカ』と同じだ。『ナバロンの要塞』では、目の前の怪我人一人を救うか、遠くの2,000人を救うかという葛藤が描かれた。『ギャラクティカ』では、親しい少女を含めた数隻の船を救うか、5万人の大船団を危険にさらすかという葛藤が描かれた。
チューリングたちは確かにエニグマの暗号を破った。しかし、解読した情報に基づいてドイツ軍の攻撃を回避すれば、ドイツ軍は通信が解読されたことに気づくだろう。ドイツ軍はたちまち新しい暗号システムを構築するに違いない。ドイツ軍を欺くには、暗号解読に成功したことを悟られてはならない。そのためにはドイツ軍の標的になると判っている人々を見殺しにしなければならない。今まさに攻撃されようとしている人を助けるのか、はたまた戦局を有利に運んで将来の犠牲を最小限に留めるのか。
どちらを選択しても犠牲が出るとしたら、はたして何を選べばいいのか。正解なんてないけれど、それでも答えを出さねばならない。
暗号解読作戦の存在が戦後数十年にわたって秘匿されたのもとうぜんと云えよう。
助けようと思えば助けられる人を助けないなんて、攻撃にさらされた人や家族遺族はどう思うか。
暗号解読作戦のおかげで戦争の終結は2年早まり、1,400万人の命が救われたといわれるが、それでも激しい非難が起きたであろうことは想像に難くない。
実際には、解読した情報の扱いについてはスチュアート・ミンギス長官とウィンストン・チャーチル首相のあいだで話し合われたようだが、映画はそれをチューリングたちの決断として描いている。さらに、ドイツ軍に襲われる船団にチームメンバーの兄が乗っていることにして、この決断が胸に迫るものにしている。
映画は幾つかの点で事実と異なるが、脚本家グレアム・ムーアは「映画について語るのに事実確認(ファクトチェック)と云うのなら、その人はちょっと根本的なところで芸術を誤解していると思う」と述べている。
そう、これは芸術だ。同時にトレーニングでもある。正解なんて判らなくても、人は決断しなければならないときがある。ことの大小の違いはあっても、誰もが多かれ少なかれそんな状況に直面する。本作のような作品を観ることは、その苦悩に立ち向かうための心のトレーニングなのだ。
そして本作は、過去を舞台にしながらも現代社会を鋭く照射する。
本作では働く女性や同性愛者への強烈な差別が描かれる。いずれも、こんにちも残る問題だ。たとえ時代とともに差別の対象が変わろうと、差別そのものはいつの世にも存在する。そして差別される少数派は、苦悩を抱えたり、将来の道が閉ざされたりする。
劇中、暗号解読チームの選抜会場に駆け付けたジョーン・クラークは、入場を拒否されてしまう。会場に入れるのは難易度の高いクロスワードパズルを10分以内に解けた人だけ。女性に解けるわけがないと思い込んでる受付係は、クラークを門前払いしようとするのだ。
このような偏見は今も根強い。
経済協力開発機構(OECD)の学力調査によれば、多くの国で男子の数学の平均点は女子の平均点を上回る。この結果をもって、女子は数学が苦手なのだと考える人がいるかもしれない。しかし、それは受付係と同じ偏見に陥っているおそれがある。
性別が数学力の原因であるならば、どの国でも同じような結果になりそうなものだ。なのに現実には、男女の差がほとんどない国や、女子の点数が男子を上回る国もある。ということは、男女の平均点の差は、その国の社会的な影響であるとも考えられる。
実は、OECDの学力調査における数学の成績の男女差は、世界経済フォーラムが発表する男女格差指数と大きく相関すると指摘されている。男女格差が激しい社会では、数学の成績も男女で差が出るというのだ。このような社会で暮らす女子は、自分は数学の成績が悪いと思い込んでいたり、自信が持てずに数学の分野での競争を避けているといわれる。男女格差指数のランキングで底辺に近い日本は、男女の数学の点差がひときわ大きい国である。
映画では、門前払いされかけたクラークを、アラン・チューリングが受け入れてくれる。
チューリング自身もマイノリティであることに苦悩してきた人物だ。だからこそ偏見から自由になれるのだと、映画の作り手は主張したいのだろう。
映画の終盤、変わり者扱いされ、差別に苦しんできたチューリングに――偉業を成し遂げたにもかかわらず孤独を強いられてきたチューリングに、クラークは優しく話しかけ、みんなと同じじゃない彼のことを肯定する。
「あなたが普通じゃないから、世界はこんなに素晴らしい。」
こんな風に肯定されたら、"普通"を強制されなければ、どれだけの人が救われるだろう。
こんな言葉をかけられていたら、脚本家グラハム・ムーアは自殺未遂をせずに済んだかもしれない。
コンピューターおたくだったグラハム・ムーアは、14歳のときからアラン・チューリングの話を書きたいと思っていたという。
念願かなって発表できた『イミテーション・ゲーム』でアカデミー賞の脚色賞を受賞したムーアは、授賞式のスピーチで"Stay Weird, Stay Different (変でいい、違ってていい)"と熱弁した。大きな反響を呼んだこのスピーチを、WIRED誌から引用しよう。
アラン・チューリングは
このような舞台で皆さんの前に立つことができませんでした。
でも、わたしは立っています。これは不公平です。
16歳の時、わたしは自殺未遂をしました。
自分は変わった人間だと、
周りに馴染めないと感じたからです。
でも、いまここに立っています。
この映画を、そういう子どもたちに捧げたい。
自分は変わっている、どこにも馴染めないと思っている人たちへ。
君には居場所があります。変わったままで良いのです。
そして、いつか君がここに立つときが来ます。
だからあなたがここに立ったときには、君が次の世代に、
このメッセージを伝えてください。
ありがとう。

監督/モルテン・ティルドゥム 脚本・制作総指揮/グレアム・ムーア
出演/ベネディクト・カンバーバッチ キーラ・ナイトレイ マーク・ストロング マシュー・グード ロリー・キニア アレン・リーチ マシュー・ビアード チャールズ・ダンス
日本公開/2015年3月13日
ジャンル/[サスペンス] [戦争] [伝記]

【theme : サスペンス映画】
【genre : 映画】
tag : モルテン・ティルドゥムグレアム・ムーアベネディクト・カンバーバッチキーラ・ナイトレイマーク・ストロングマシュー・グードロリー・キニアアレン・リーチマシュー・ビアードチャールズ・ダンス