『アメリカン・スナイパー』 それは違うよ、モハメッド

スコープの先に男の姿が見える。男は進撃する米軍を観察しながらどこかに電話している。
男の姿が消えると、建物から女性と子供が現れた。親子のようだ。女性が子供に何かを手渡す。スコープ越しに見るそれは、対戦車手榴弾によく似ている。それを抱えた子供が米軍の方へ走り出す。米兵と戦車に向かって、一直線に。
スコープは子供を捉えている。引き金を引きさえすれば、簡単に子供の命を奪える。「判断しろ。」無線で指令が聞こえる。それが手榴弾だったら、判断の遅れは米兵の危険に繋がる。手榴弾であることが確実ならば。子供は走り続ける。まだあどけなさの残る少年だ……。
予告編でも流れた『アメリカン・スナイパー』のワンシーンは、観客にひどい緊張を強いる。
このシーンだけではない。『アメリカン・スナイパー』は全編にわたって緊張の連続だ。
音楽も流れない。音楽は人間に心地好さを提供するものだ。気持ちをリラックスさせたり、気分を高めたりする。
しかし本作は、混沌としたイラク戦争の中にあっても冷静に標的を射殺していく狙撃手の物語に、音楽を絡ませない。音楽が流れるのは、結婚式のシーンやエンドクレジット等わずかばかり。エンドクレジットには、エンニオ・モリコーネがマカロニ・ウェスタン『夕陽の用心棒』とその続編『続・荒野の1ドル銀貨』のために作曲した「The Funeral(葬送)」のトランペットが響く。後はほとんど音楽がない。
クリント・イーストウッド監督は、前作の音楽映画『ジャージー・ボーイズ』から一転して、音楽のない世界、音楽に溢れた故国とは正反対の世界を描いたのだ。
『白いリボン』のミヒャエル・ハネケ監督が「音楽を用いるのは自らの失敗を隠蔽する行為」だと語ったように、優れた映画なら(音楽映画は別として)必ずしも音楽は必要ない。
無音こそ、緊張を強いる最高の効果音だ。情報医療を研究する本田学氏は、無音とは危険が迫っている印だと推察している。平和なときには動物や虫のうごめく音に満ちた熱帯雨林が、ぱっと静まり返る。それは危険が迫ったからであり、警告反応であろうという。だから生物にとって、無音の状態こそもっとも緊張を強いられるのだ。
まさしく、音楽のない本作はリラックスするときがない。
代わりに聞こえるのは、銃声、銃声、銃声だ。
本作はほぼ全編にわたって主人公クリス・カイルの視点に固定されている。並行して作戦を実行する友軍の描写もなければ、敵側の人物像の掘り下げも最小限だ。ただひたすらにクリスが何を見て、何をしたかを追いかける。
本作は米国軍事史上最高の狙撃手と称えられ、敵から「ラマディの悪魔」と恐れられたクリス・カイルの伝記映画であり、本人の回想録を原作にしているから、クリス・カイルの視点で描かれるのはとうぜんではある。ややもすれば薄っぺらで独りよがりな作品になりかねないところだが、イーストウッドの深い洞察と人間への温かな眼差しが物語に奥行きを与えている。
観客はクリスとともにSEALsの過酷な訓練を経験し、クリスとともにはじめての標的を射殺し、クリスとともに戦火をくぐり抜けて、クリスとともに銃声、銃声、銃声に追いかけられる。そこに救いとなる音楽はなく、のしかかるのは銃声か無音のストレスばかり。
クリスの視点に同化した観客は、兵士と家族がどれほどの重荷を背負い、いかにして兵士の精神が壊れていくかを知るだろう。そして少年時代に父親から絶対に銃を落すなと注意されていたのに、敵の銃撃から逃れる中で遂に銃を落としてしまうこと、その任務を最後に除隊してしまうのを目撃する。
帰還しても心安らかに暮らすことができず、クリスは突如凶暴になったり、異常なほどの高血圧に見舞われる。高血圧の原因の一つはストレスだ。クリスの視点に同化している観客は、クリスに寄り添い、苦しみをともに味わうことになる。
クリス・カイルは2013年2月2日に、PTSDを患う元海兵隊員に射殺された。
2014年12月に米国で公開された本作は、2015年2月にはじまったクリス・カイル殺害事件の裁判の内容には触れようもない。だから犯人がなぜこんな凶行に及んだのか具体的には描かれないが、心身が壊れた帰還兵たちを映し出してきた本作は、弁護側が精神疾患を主張することも見越していたのだろう。

愛国心から行動する主人公を称賛し、テロリストとの戦いの正当性を感じて支持する者がいる。
一方で、本作のイラク人の描き方が人間的ではなく、まるで白人に開化してもらう野蛮人のようだと非難する者もいる。
どちらも本作を見誤った意見だろう。
イーストウッドは、第二次世界大戦中に思春期を過ごしたことや朝鮮戦争時の軍隊経験を引き合いに出し、戦争反対の立場であることを強調している。
イラクの人々の生活や人物像の描写が少ないのは、先に述べたように本作が主人公に密着することでPSTDに陥る兵士をリアルに描いているからだ。それでも、敵側の狙撃手に妻がいて幼子がいることや、国際的な檜舞台で栄光に包まれた人生もあったことをわずかな映像の中で示している。
たしかに主人公は敵のことを「蛮人」と呼んでいる。「蛮人」をやっつけることに、ためらいはないと述べている。
だが、クリス役のブラッドリー・クーパーは、凄惨な戦いの中でも精神が壊れないように、自分を納得させるべく口にしているかのように演じている。彼が演じるクリス・カイルは、勇猛果敢に野蛮人を倒す英雄ではなく、悩み苦しみながら番犬としての任務に徹する男なのだ。
帰国後に偶然会った帰還兵から命の恩人だと礼を云われるエピソードは、実際にあったことだそうだが、イーストウッド監督とブラッドリー・クーパーはこのときの主人公をひどく戸惑ったように描いた。誇らしさなんて少しも感じられないかのごとく。
米国の右派が本作を愛国心とヒロイズムのショーケースに見立てる一方で、左派が本作には開戦の是非への言及がないとなじっている状況に対して、主演兼プロデューサーのブラッドリー・クーパーは、両者ともに映画の大事な要素を見落としていると主張した。それは帰還兵問題だ。彼は、毎日22人の帰還兵が自殺している現状こそ議論されるべきだと訴えた。
もっとも、左右の論者が見誤っていると感じるのは――私の方が作り手の意図を汲めているように思うのは、私がクリス・カイルを知らないからかもしれない。
クリス・カイルは山ほど勲章を授かったイラク戦争の英雄だ。回想録『ネイビー・シールズ最強の狙撃手(原題:American Sniper)』はベストセラーとなり、彼の業績は米国の人々によく知られている。
本の中で、クリスはイラク人が野蛮であり、標的になった者は悪であり、罪悪感や自責の念を感じることはないと書いている。反乱分子を殺すのは面白くて、彼は射殺を楽しんだという。唯一残念に思うのは、もっと殺せなかったことだとか。
除隊後のクリス・カイルは、帰還兵のためのNPOを設立し、彼らの社会復帰を支援する一方で、民間軍事会社クラフト・インターナショナルを立ち上げ、軍事訓練等を生業として戦争に関わり続けた。映画はマンガ『パニッシャー』を読む兵士を登場させて、SEALsの車両等に描かれた髑髏のエンブレムがパニッシャーに由来することを示しているが、クリス・カイルはクラフト・インターナショナル社のロゴにまで髑髏を採用している。自分の民間軍事会社が仕置人(punisher)だと云いたいわけだ。
こうしたことが米国ではよく知られているのだろう。
映画のクリスは射殺を楽しむ様子ではないし、民間軍事会社を創設したことなど描かれず、帰還兵の社会復帰に献身的に取り組む姿だけが取り上げられるから、映画でしかクリス・カイルを知らない私は、映画の作り手が見せたいものしか見ていないのだ。でも、だからこそ予断なしに、作り手のメッセージを受け止められるのだと思う。
では、映画の作り手はメッセージ性を高めるために事実を歪曲したのだろうか。
脚本家ジェイソン・ホールは生前のクリス・カイルに会っており、また彼の死後、未亡人のタヤに詳細なインタビューをした上で脚本に取り組んだという。
ジェイソン・ホールは次のように述べている。
「私はクリスが本に書いたこと以上にクリスを知っている。本には彼が帰還したとき何があったか、出征することが彼にどんな犠牲を強いたか、本当のところが書かれていないんだ。」
公式サイトにもジェイソン・ホールの言葉が紹介されている。
「あの本が書かれたのは彼が帰国して一年足らずの時期だったので、彼はまだ心によろいをまとっていたんだ。あの本には、クリスのよりソフトな側面――愛情深い夫であり、父親――はあまり書かれていなかったし、四回の従軍の合い間の短い期間に、彼とタヤが必死に乗り越えようとした危機的状況のいくつかには触れていなかった。それに、あの戦争は遠く離れた場所で起こっているように思える一方で、多くの兵士たちの家族は、衛星電話を通してそれまでにないほど強く結ばれていたんだ。タヤは、そんな電話中に恐ろしい話を聞いたこともあったが、その電話は彼女にとって彼とつながる生命線だった。それに彼女の声を聞くことによって、彼のほうも故郷とつながり続けていられたんじゃないかな。僕はタヤと会うまでは、クリスのことを充分に理解できていなかったと思う。(略)彼女は戦地へ赴く前のクリスがどんな人物だったか、従軍によって彼が受けた暗黙のダメージ、そして回復するために彼に必要だったことすべてを鮮明に語ってくれた」
たしかに回想録というものは――まだ38歳で、これから自分の会社を大きくしようする人の回想録であればなおのこと――宣伝がかっているものだ。弱気なことや後悔は少なめに、強気なことや自己肯定を多めに書いてしまうかもしれない。
ひとつ確かなのは、右派や左派が論じているようなところに、本作の真実はないということだろう。
本作は当のイラクでも公開された。
多くの戦争映画と同じように、あまりに暴力的だと非難する声もあれば、主人公が魅力的だと称賛する声もある。
ただ、GlobalPost誌が声を拾った限りでは、米国で云われたような反アラブ的とか人種差別的といった非難はないようだ。この映画が好きだという20代のモハメッド青年は、反アラブ的とか差別的だと思うか尋ねられてこう答えた。
「いいえ。どうして? スナイパーが殺してるのはテロリストだよ。唯一気に入らないのは、彼がクルアーンのことは何も知らないと云ったことさ。」
イラクではクルアーンを持つのが普通のことなのだろう。それなのに主人公が知らないと云ったので、どうやらモハメッド青年はクルアーンが、ひいてはイスラームが軽んじられたように感じたらしい。だが、米国をはじめ他の地域では事情が違うのだ。モハメッド青年は、このセリフが作り手の配慮であることに気付かなかったようだ。
たしかに本作の主人公は、そういうことを口にする。だが、それはクルアーンを軽んじたからではない。
クリスは上官から「テロリストはクルアーンを持ってたそうだな」と問われたから、「クルアーンかどうだか知らないが、ヤツはAK-47のようなものを持っていた」と答えたのだ。
これはすなわち、テロリストはムスリムで、ムスリムはテロリストだという偏見を一蹴し、戦う相手はムスリムではなく、武装したテロリストだけが標的なのだと強調するためのセリフだ。
本作は、この戦争がイスラーム対キリスト教といった宗教間の争いに見えることを慎重に避けている。
主人公は聖書を持っているが、開けて読もうとはしない。クリスの同僚は、牧師を目指したけれど挫折した過去を語る。
本作の主人公は日曜学校の教師の息子だというのに、映画の宗教色は薄れる一方なのだ。ほぼ同時期に公開された『フューリー』が、戦場を舞台にした宗教映画なのとは対照的だ。
イラクやシリアに限らず、各地でテロが発生し、人々が怒りと憎しみの矛先を求めている昨今、クルアーンを持つかどうかとテロリストか否かは関係ないと云い切ったのは、まことに適切な配慮といえよう。
GlobalPost誌の取材に応じたイラクの大学生ジャラールの言葉は面白い。
米国が賛否両論でかんかんがくがくしているのを知ってか知らずか、彼は本作が反アラブ的とか人種差別的とは思わないと答えた上で付け加えた。
「それに」彼は肩をすくめて云った。「僕は戦争映画が好きなんだ。たかが映画じゃないか。」

監督・制作/クリント・イーストウッド
出演/ブラッドリー・クーパー シエナ・ミラー ルーク・グライムス ジェイク・マクドーマン ケヴィン・レイス コリー・ハードリクト ナヴィド・ネガーバン
日本公開/2015年2月21日
ジャンル/[ドラマ] [戦争] [アクション]

- 関連記事
-
- 『永遠の0』vs『アメリカン・スナイパー』 三つの危うさ (2015/03/07)
- 『アメリカン・スナイパー』 それは違うよ、モハメッド (2015/02/25)
tag : クリント・イーストウッドブラッドリー・クーパーシエナ・ミラールーク・グライムスジェイク・マクドーマンケヴィン・レイスコリー・ハードリクトナヴィド・ネガーバン
『味園ユニバース』 渋谷すばるを堪能せよ!
![味園ユニバース 通常版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81MGLVR9jKL._SL160_.jpg)
『味園(みその)ユニバース』で渋谷すばるさんが演じたポチ男(ポチオ)は強烈だった。
あまりテレビを見ない私が芸能人を知る機会は少ない。映画出演ではじめて知る人が多い。
同じ関ジャニ∞(エイト)のメンバーでも、『ちょんまげぷりん』の錦戸亮さんのように映画に出る人は憶えるが、渋谷すばるさんのことは恥ずかしながら存じ上げなかった。
いや、関ジャニ∞全員が出演した『エイトレンジャー』は観ているのだが、一度に大勢出られても私には憶えきれなかった。
だから、強烈なポチ男のキャラクターを演じられるこの逸材が、どこから来たのかと驚くばかりだった。
『味園ユニバース』の公式サイトによれば、この映画の企画は渋谷すばる主演を想定することからはじまったという。彼が大阪出身だから映画の舞台は大阪で、彼が歌手だから音楽中心の映画になった。ポチ男のキャラクター――すなわち凶暴な性格も、不愛想なところも、投げやりに見えるところも、渋谷すばるさんが演じることを想定した当て書きなわけだ。
記憶を失い、ポチ男というニックネームで呼ばれる主人公は、作品の解説文で「歌以外のすべてを忘れた男」と紹介されている。そのロマンチックな響きは、アイドルグループ・関ジャニ∞のメインボーカルに相応しく思える。
しかし、映画の作り手が用意したのは、正体が判れば判るほどクズであることが露呈する、救いがたいキャラクターだった。
そんなネガティブな人物像をぶつけてくることからも、作り手が映画初主演の渋谷すばるにいかに大きな期待をかけているかが判る。そして彼は、凶暴な面構えで見事期待に応えてみせた。
面白いのは、主人公の過去が判明するにつれて、情けないクズっぷりがどんどん露呈するにもかかわらず、映画そのものは男のファンタジーとも云うべき、夢のような世界になっていくことだ。
なにしろ男は、過去のダメな自分をすべて忘れている。若く美しい女性に拾ってもらい、諦めていた歌手になる夢を取り戻す。人生のやり直しどころか、この上ない好条件の人生へとスライドするのだ。
ところどころ暴力シーンが挿入され、反社会的な臭いも漂わせるこの映画が、不思議と心地好いのは夢物語の構造を持っているからだろう。
功を奏しているのが、記憶喪失という仕掛けだ。この仕掛けがなかったら、ありきたりの映画になってしまう。
「道を踏み外して、ぐれていた男が、一人の女性との出会いをきっかけに、夢に向かって歩きはじめる。」
本作のストーリーを端的に云えば、こういうことだ。よくある話だし、これでは面白味を感じない。
ところが記憶喪失を仕掛けることで、この映画は「一人の女性と出会い、夢だった歌の世界に歩き出すハッピーな物語」と「実は道を踏み外して、ぐれていたことが判明する切ない物語」を同時並行で語ることになる。前者の世界には、赤犬というバンド仲間がいる。後者の世界には反社会的勢力がうごめいている。二つの物語、二つの世界が交差しながら進むことで、映画は俄然面白くなる。
誰だって忘れてしまいたいことの一つや二つはあるだろう。きれいサッパリ忘れられることもまた、ある種の僥倖かもしれない。
記憶喪失という仕掛けについて、山下敦弘監督は次のように述べている。
「普段なら絶対に出てこないし、やらないアイデアですが、実際起こりそうでありながら現実離れした面もあるフィクション度の高い設定も今回ならばありだと思えたんです。それが出来るのも、オリジナルならではの強みだし、渋谷君だからこそ実現可能ではないかと考えたんです」
このアイデアも、当て書きだから出てきたのだ。
甲本ヒロトさんを尊敬しているという渋谷すばるさんだけあって、劇中のボーカリストとしての振る舞いや歌い方には通じるものがある。
その甲本ヒロトさんが作詞・作曲した『リンダリンダ』をはじめ、THE BLUE HEARTS時代の曲を取り上げたのが、映画『リンダ リンダ リンダ』だ。そのメガホンを取った山下敦弘監督が、本作を監督するのも縁なのだろう。
この映画に甲本ヒロトさんは関わってないけれど、本作の勢いや純粋さや、ある意味子供っぽい粗暴さには、同じ匂いが感じられる。
大阪、味園ビルの貸ホール「ユニバース」が舞台になる上に、その名を題に付けるだけあって、本作は歌に溢れている。赤犬をはじめとするバンドが歌う数々の楽曲と、ポチ男こと渋谷すばるさんが披露する本作のオリジナル曲『ココロオドレバ』や『記憶』、はたまたスピッツの『チェリー』や松田聖子さんの『赤いスイートピー』等々、新旧の歌謡曲やロックが全編を彩っている。
中でも大きな扱いなのは、和田アキ子さんの代表曲『古い日記』だ。「あの頃は……」ではじまる歌詞は過去を振り返るしんみりした内容なのに、力強い歌声が過去の思い出を吹き飛ばし、今を生きる歌に変えている。
過去にとらわれるか、未来に踏み出すか。そのはざまに立つ男の物語に相応しい。
![味園ユニバース 通常版 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/81MGLVR9jKL._SL160_.jpg)
監督/山下敦弘
出演/渋谷すばる 二階堂ふみ 鈴木紗理奈 赤犬 川原克己 松岡依都美 宇野祥平 松澤匠 野口貴史 康すおん
日本公開/2015年2月14日
ジャンル/[ドラマ] [音楽] [青春]

『マエストロ!』 さあ、練習しよう!

そんな言葉を題名にした映画『マエストロ!』を観て、私は設定の妙に感心した。上手い線を狙ったものだ。
本作の冒頭で、ヴァイオリニストの主人公は不採用通知を受け取ってしまう。
有名なプロのオーケストラでありながら、スポンサーの倒産のために解散を余儀なくされた中央交響楽団。他のオーケストラに再就職する楽団員がいる一方で、どこにも採用してもらえず、やむなくアルバイトで生計を立てる楽団員もいた。
本作は、そんな"売れ残り"楽団員が再び集まり、コンサートに向けて練習に練習を重ねる物語だ。
この設定の特徴は、彼らが超一流の音楽家ではないところにある。コンサートマスターを務める主人公は、高望みをやめれば就職口が見つかりそうだが、他の楽団員は運送業に精を出したり、コンビニのバイトでしのいだりの毎日だ。『のだめカンタービレ』の主人公が、才能に恵まれ、金銭的に困ることもなく、音楽だけに邁進するのとは大違いだ。
しかも本作が上手いのは、全員がプロの音楽家だった点である。"売れ残り"とはいえ、彼らはプロオーケストラのオーディションを勝ち抜いて、一度は楽団員になった者たちだ。何の素養もない連中の寄せ集めとは違う。
これは極めて中途半端な設定だ。
思い起こせば、『のだめカンタービレ』の野田恵も『エースをねらえ!』の岡ひろみも『ガラスの仮面』の北島マヤも、優れた才能の持ち主だった。超一流の才能を秘めているのに、本人も周りも気づかない。そこを偉大な師匠に見出され、埋もれた才能を開花させていく。そんな物語をずいぶん見てきた。
一方で、才能があるんだかないんだか判らない連中が、特訓に耐え抜いて、チームワークを発揮し、一丸となって、勝利を手にする物語もある。弱小チームだったのが嘘のように、みんな大活躍したりする。
どちらのパターンも魅力的だし、主人公を応援したくなるけれど、しょせんはフィクション、面白い読み物でしかない。
凡庸な私は、これらの物語にリアリティを感じられなかった。
誰も(自分すら)知らないけれど、誰かに見出してもらえれば世界に通用する才能を秘めている自分。そんな空想は変身願望としては面白い。魔法でお姫様にしてもらったり、改造されて仮面ライダーになったりするようなものだ。面白いけれど私の物語ではない。
後者のパターンも、リアルとは思えない。向き不向きも、得意不得意も考慮せずに、たまたまそこに居合わせたメンバーが頑張ればことごとく勝利するなんて、そんなことがないとは云わないけれど、あまり我がこととは思えない。
だから『マエストロ!』の中途半端な設定が貴重なのだ。
ここには、開花するのを待っている天才的な人物は一人もいない。
さりとて、なんの取り柄もないわけではない。曲がりなりにも、プロオーケストラに滑り込んだ人たちだ。スーパースターでもないし、引き抜かれるほど注目されてもいないけれど、とりあえずそれなりに仕事はしている。
程度はともあれ、多くの人にはこんな立場が身近なのではないだろうか。凡庸な私でも、否、凡庸な私だから、この『マエストロ!』には引き込まれた。
ある分野で飛び抜けた活躍をするのに、少なからず影響すると考えられるものがある。
生まれ持った遺伝子だ。
『モンスターズ・ユニバーシティ』の記事に書いたように、人にはどうにもならない向き不向きがある。遺伝子の組合せがたまたま早く走ることに向いていた人と、そうではない人を横並びにして、早さを競わせるのは酷な話だ。同じように練習し、同じように努力しても、遺伝子の段階で違いがあれば、本人にはどうにもならない。双子を比較した研究は、人間の能力に遺伝子に影響されるものがあることを明らかにした。
『モンスターズ・ユニバーシティ』は、努力しても好成績を収められないマイクと、さしたる努力もなく成績のいいサリーの二人を対比して、個人の適性を測りきれない社会の物差しを痛烈に批判した作品だった。
では、適切な遺伝子さえあれば大活躍できるのか。
残念ながらそうでもない。遺伝子の情報が花開くには、細胞の働きが必要だ。
山中伸弥氏は、遺伝子と細胞を「楽譜と演奏者」に例えている。遺伝子は楽譜に書かれた音符のようなものだ。音符が書かれていなければ、その音は出ない。ベートーヴェンが『運命』を楽譜に書き起こさなかったら、あの名曲を耳にすることはなかっただろう。
細胞の働きは、楽譜を読んで演奏する行為に当たる。同じ楽譜に基づいても、演奏家により音楽は変わる。楽団が違ったり指揮者が違ったりすれば印象が異なるのはもちろんのこと、同じ楽団、同じ指揮者であっても過去の演奏とまったく同じになるとは限らない。指揮者の解釈や、楽団の調子や、コンサートホールの環境や聴衆の反応が、二つとない音楽を奏でさせる。細胞もまた、周囲の環境や本人のコンディションの影響を受けながら、遺伝子の情報を発現させたり、とどめ置いたり、大きく反応したり、ささやかに反応したりと、様々に活動する。だから同じ遺伝子を持つ一卵性双生児といえども、外見が変わったり成績が異なったりする。
たとえ、ある分野に適した遺伝子の組合せでも、適切に細胞を働かせなければ成果は出ない。そして細胞を働かせるには、努力も練習も必要だ。遺伝子の組合せが早く走ることに向いていても、走る練習をしなければ、細胞はその遺伝子の情報を発現させないかもしれない。努力し続けなければ、細胞は別のことをはじめてしまうかもしれない。
そんな生物の仕組みを考えると、本作のキャラクターの位置付けが見えてくる。
彼らの遺伝子は、相応に音楽家に向いているのだろう。おそらく子供の頃から演奏が得意だったのだろうし、音楽が好きなのだろうし、これまで音楽を続けられるくらいの適性があったのだ。超一流の音楽家になるかどうかはともかくとして、まったく不向きなわけではないのだ。
ただ、大きく花開いてはいない。遺伝子はあっても細胞の働きが充分ではない。再就職できない"売れ残り"になってしまうのは、細胞がサボっているからだ。
本作が全編を通じて描くのは、細胞をいかに働かせるかである。
それはひとえに練習だ。
『マエストロ!』は、"売れ残り"楽団員たちが稽古場に集まるところからはじまり、紆余曲折を経ても練習し続ける彼らを描く。金銭的な困難や楽団員同士の反目もあるけれど、それらのエピソードを過度に取り上げることなく、物語は練習風景に収斂していく。
散り散りだった楽団員が再び集まってコンサートを開く映画といえば、2010年公開の『オーケストラ!』が思い浮かぶ。
しかし、『オーケストラ!』では練習風景が描かれなかった。勝手気ままな元楽団員や、彼らを集める苦労話や、謎めいた因縁話に彩られ、音楽活動についてはほとんど描写がなかった。それなのに、クライマックスはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲で盛り上がってしまう。
音楽映画としてはちぐはぐなのだが、この映画の主眼は差別問題だからこれでも良かった。コミカルな展開の陰で語られるのはユダヤ人への差別、迫害の歴史であり、演奏される音楽は人々の調和の象徴だから、劇中のコンサートは成功してしかるべきだった。実際の演奏を担当したハンガリー放送交響楽団(別名ブダペスト交響楽団)の見事な仕事ぶりは云うまでもない。
とはいえ、数十年のブランクがある元楽団員が、リハーサルを一度もせずに名演奏を行うなど、およそ現実的ではない。音楽家の日々の修練を軽んじた、あり得ない展開だ。
それだけに、ひたすら練習に励む『マエストロ!』が心地好い。
中盤で逼迫した財政状況が判明し、楽団員はギャラが出ないことに動揺するが、中の一人がこんなセリフを口にする。「ギャラって、お金だけなのかな。」
オーケストラの面々が集まって、みんなで演奏できる喜び。どんな形であれ、音楽を続けられる喜び。練習もその一環だから、辛いけれど楽しいのだ。
どんな分野も同じだろう。楽しいからやりたくなるし、楽しいから続けられる。
タカラヅカの演出家小柳奈穂子氏は、「人に動いてもらうにはどうしたらいいか」を問われてこう答えている。
「人間、楽しいと思ったことにはポテンシャルを発揮するので、各自の行動の意味とその必要性、そこに関わっていることの楽しさを伝えようとすること。」
人間だけではない。イルカショーのトレーナーは、イルカが楽しいか、飽きないかと考えながらショーを作るそうだ。イルカにとって、いかに今が楽しいかが重要であるからだという。
人間とイルカでは、事情が違うだろうか。なんの、人間もイルカも、遺伝子という楽譜を読んで細胞が演奏する同じような生物にすぎない。
また、本作はクラシック音楽のみならず、社会がはらむ構造的な問題にも目を向けている。
スポンサーの倒産で一度は散り散りになった"売れ残り"楽団員を前にして、再結成コンサートを企画した天道徹三郎はこう宣言する。
「稼げるオーケストラにする!」
これは難しい問題だ。
2008年、大阪府は大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)に対する補助金の削減を打ち出し、2011年度に補助金を打ち切った。運営費の大半を補助金に頼っていたオーケストラは、一時存続すら危ぶまれた。
日本クラシック音楽マネジメント協会(現日本クラシック音楽事業協会)で「我が国におけるクラシック音楽に関する調査研究」の責任者を務め、自身も音楽家である伊東乾氏は、楽団への補助金削減に懸念を表明しつつ、調査で明らかになったクラシック音楽産業の二つのポイントを強調した。
---
1つのポイントはクラシック音楽は入場料などの収入だけではペイしていない事実。ローカルにはみんな痛感していたことを、業界全体の数字で確認できたこと。つまり補助がなければ成立しないという現実が数字を伴って明確になりました。日本の洋楽にとって、現状では補助は必要不可欠なものです(欧米でもです)。補助がなければ存続自体が困難になってしまいます。
そして、もう1つのポイントは、そうした補助金に依存する体質がいろいろなレベルで業界サイドにも存在していること、そして、やや耳が痛い話ですが、これが産業としての発展の阻害要因になっていること。内部から克服してゆかねばならないという課題が明確化されました。
(略)
「入場料収入はこれ以上入ってくるわけがないから」「欧米ではより大規模な補助が当たり前だから」などとして、もっぱら官費などによる補助に頼るようになってしまうと、リピーターに支えられて生きた命を持つはずのライブパフォーマンスが、下手をすれば官費に養われる発表会になってしまいかねない。ほとんど観客がいない、税金で賄われる「同時代の音楽」に、どれほど社会的な生命が宿るのか。本当の意味での危機がここにあると私は考えます。
(略)
この2番目の指摘は、業界に厳しい注文をするものでもあります。若造の私が楽壇の責任ある立場の人に集まってもらい、補助金依存体質になっている部分があればそれはマズイといった、財務の本当の話もしました。当然「生意気である」と大変な反発にも遭いましたし、人によっては「よく頑張ってくれた」と強力な応援も受けました。
---
『マエストロ!』の序盤において、主人公が楽団員に発した言葉が思い出される。
「『運命』も『未完成』も何百回も演奏した曲だから、ま、気楽にやりましょう。」
まさにこのセリフが、伊東氏に危機感を抱かせたものを表しているだろう。劇中の中央交響楽団は、生きた命を持つライブパフォーマンスを忘れ、スポンサーに養われる発表会に堕していたのではないだろうか。
これは何もクラシック音楽に限らない。補助金をはじめとする保護の下でパフォーマンスの衰えた産業はいたるところにある。
「稼げる○○にする!」
この空欄に自分が携わる業種を入れて、達成できているかを自問すれば、ギクリとする人もいるはずだ。
そんな問題意識を通奏低音としながら、本作はクラシック音楽を存分に楽しませてくれる。
なにしろ演奏されるのはベートーヴェンの交響曲第5番『運命』とシューベルトの交響曲第7番『未完成』だ。お馴染みの名曲を、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏で聞かせてくれる。なんとも嬉しい時間なのだ。

監督/小林聖太郎
出演/松坂桃李 miwa 西田敏行 古舘寛治 大石吾朗 濱田マリ 池田鉄洋 モロ師岡 村杉蝉之介 小林且弥 河井青葉 中村倫也 斉藤暁 嶋田久作 松重豊 宮下順子 中村ゆり 綾田俊樹 石井正則 でんでん 淵上泰史 木下半太
日本公開/2015年1月31日
ジャンル/[ドラマ] [音楽]

『KANO 1931海の向こうの甲子園』は親日映画なの?

凄いものを観てしまった。
それが『KANO 1931海の向こうの甲子園』を観た正直な感想だ。ウェイ・ダーション(魏徳聖)が監督した『セデック・バレ』を観てからずっと期待し続けてきた本作は、期待を裏切らないどころか、期待を遥かに上回る作品だった。
上映時間は185分と長めだが、アニメ『エースをねらえ!』を一気に観たり、マンガ『柔道部物語』を一気に読むような話だから、185分でも長いとは感じない。面白さと感動が目一杯つまった、充実した映画なのだ。
しかも、判りやすくてストレートなドラマでありながら、現在の台湾ならではの深い考察もうかがえる。
爽やかな青春映画として楽しむのもよし、燃えるスポーツ映画として楽しむのもよし、師弟愛や夫婦愛に涙するもよし、その志の高さに共感し、台湾と世界の未来に思いを馳せるのもよい。観客それぞれが、それぞれに受け止められる懐の深さに驚いた。
■圧倒的に後れを取っているところ
台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』は、甲子園を目指す野球少年たちの2年にわたる物語だ。
1929年、台湾南部。一度も勝ったことのない嘉義(かぎ)農林学校野球部に、松山商業を甲子園優勝に導いた名監督近藤兵太郎(ひょうたろう)がやってくる。野球といえば台湾北部の日本人チームばかりが活躍していた頃に、近藤監督は蕃人(ばんじん: 台湾原住民)、漢人(漢族系住民)、日本人からなる三民族混成チームを鍛え上げ、みんなで夢を実現していく。
実話に基づくこの映画を作るに当たって、ウェイ・ダーションは脚本とプロデュースに回り、少年野球の経験のあるマー・ジーシアン(馬志翔)を監督に抜擢。高校、大学の野球選手を中心に野球経験者をキャスティングし、本格的な野球映画を作り上げた。
ウェイ・ダーションといえば、長編監督デビュー作『海角七号/君想う、国境の南』で日台のラブストーリーを描き、日本人を驚かせた人物だ。
70年前、東アジアには日本列島から朝鮮半島、台湾にまたがる帝国があった。「帝国」とは複数の国、地域を統治する国家のことだ。帝国は崩壊し、日本と台湾は別々の国になったが、ウェイ・ダーションは今でも人の心は繋がっていることを『海角七号/君想う、国境の南』の男女の恋を通して描いてみせた。
続く監督作『セデック・バレ』では一転し、大日本帝国の圧政に対して徹底的に戦う台湾原住民を描いた。帝国軍対原住民の戦いは凄惨を極め、双方の残虐さは目を覆うほどだった。
表面的な印象はまったく異なる両作だが、一貫するのは過去・現在・未来における日本との関係を重視する姿勢だ。
『KANO 1931海の向こうの甲子園』のパンフレットを読んだら、金原由佳氏が『セデック・バレ』について「日本公開時には一部から「反日的」という声があがり、大きい展開にならなかった側面がある」と書いていたので驚いた。『セデック・バレ』は、反日どころか親日的ともいわれる映画なのに。反日呼ばわりした人は、映画をちゃんと観ていないのだろう。
抗日事件を描いた『セデック・バレ』が親日的な理由については、以前の記事をお読みいただきたい。
一作目で日台間のラブストーリーを描き、二作目で日台の激戦(正確には台湾原住民の戦いであり、漢人は傍観者を決め込んでいた)を描いたウェイ・ダーションのことだから、三作目では振り子が大きく戻ってまた日本との連帯・親愛を前面に出した映画を撮るに違いない。そう予感していたところに登場したのが、三民族が協力して甲子園を目指すこの清々しい映画だった。その題材選びのセンスには脱帽するばかりだ。
本作が日本で封切られたのは、ちょうど一ヶ月前に公開のディズニーアニメ『ベイマックス』が大ヒットしている最中だった。
『ベイマックス』が持つ多くの素晴らしさのうち、その政治的正しさ(political correctness)に感心した観客も多かったと思う。政治的正しさとは、差別や偏見を含まず、公平であることだ。
かつて、女性は王子様に選ばれて、彼に寄りかかるのがハッピーエンドという作品を量産していたディズニーは、激しい批判にさらされて、徐々に自立した女性を描くようになった。王子様の存在感を低下させていった。その変化は緩やかなものだったが、大ヒット作『アナと雪の女王』の話題性につられて1950年代の『シンデレラ』や『眠れる森の美女』の世界から一足飛びに『アナ雪』に接した観客は驚いたことだろう。
『ベイマックス』もその延長線にあり、アジア系の少年を主人公に据えて、黒人、白人をバランスよく配置したチームが活躍する。『ベイマックス』の原作マンガは日本が舞台なので、そちらでは黒人や白人がぞろぞろ出てくることはないが、それでも人種・民族のバランスには気を使っている。映画でマンガ好きな白人として描かれたフレッドは、原作ではアイヌの設定なのだ。
このことを知ったとき、私はやられたと思った。
米国に負けず劣らずスーパーヒーローを輩出している日本だが、圧倒的に後れを取っている部分がある。現実世界の多様性を作品に反映することだ。毎年たくさんの新ヒーロー、新チームが誕生しているのだから、アイヌや在日コリアン、華人華僑等のヒーローもドンドン出てくればいいと思うのに、なかなかそうはいかないようだ。
作品は少なからず世相を映すものだから、現実世界の多様性を作品に反映できないのは、日本社会が多様性にきちんと目を向けていないからだろう。

『ベイマックス』を観てからそんなことを考えていた私は、『KANO 1931海の向こうの甲子園』を観てガツンと殴られたようだった。
台湾原住民と漢人と日本人が一緒になってチームワークを発揮する、私が観てみたい作品がそこにあったからだ。
しかも映画を観ているあいだは、誰が何人かなんてよく判らない。みんなが清々しく、笑顔でプレーする描写の連続に、人種も民族も関係なかった。
映画の中盤、三民族混成チームが勝てるわけないと日本人紳士から揶揄される場面がある。その言葉に近藤監督は激怒する。「蕃人は足が速い。漢人は打撃が強い。日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームはどこにもない。必ず最強のチームになる!」近藤はそう反論する。
ここにはダイバーシティ経営に注力する現代の企業にもヒントになることがたくさんある。
たとえばダイバーシティ(人材多様性)のあり方だ。
ダイバーシティには能力・職歴・経験などの「タスク型の多様性」と、性別・出身国・年齢などの「目に見える属性」からなる「デモグラフィー型の多様性」があるという。組織は「タスク型の多様性」を必要としているのに、女性を増やしたり外国人を増やす施策が「デモグラフィー型の多様性」をもたらしてしまうことがある。
「デモグラフィー型の多様性」が組織に与えるマイナスの効果を、入山章栄氏はソーシャル・カテゴリー理論から次のように説明する。
---
同理論によると、組織のメンバーに目に見える属性の違いがあった場合、メンバーそれぞれに、「自分と同じ属性のメンバー」と「それ以外」を分類する心理作用が働き、同じ属性を持ったメンバー同士の交流のみが深まってしまうのです。そうなると、いつの間にか、男性は男性だけ、女性は女性だけ、あるいは外国人は外国人だけで固まり、「男性vs女性」「日本人vs外国人」といった軋轢が生まれ、組織のパフォーマンスを停滞させてしまうのです。
---
これを解消する方法として同氏が注目するのが、フォルトライン(組織の断層)理論だ。
---
たとえば、日本人男性が30人いる組織に「30代の女性」が5人入っても、同じ属性を持つ彼女たちだけが固まってしまい、日本人男性との間に「断層」が形成され、タスク型の多様性が実現しません。そうではなく、50代、20代、外国人、といった多様な「デモグラフィー次元」で女性を加えると、先ほどのように一元的なグループ分けが不可能になるため、断層効果が弱まり、組織のコミュニケーションがスムーズに進むのです。
さらに男性側も年齢の幅を広げ、さらに外国人も加えれば、断層がなくなり、「組織内組織」が生まれにくくなります。このように、デモグラフィー型の多様性を進めるなら、中途半端ではなく、複数次元で徹底的に行うべきなのです。
---
嘉農(かのう)野球部の場合は、三民族の混成であることが肝だったかもしれない。日本人と漢人、あるいは日本人と台湾原住民だけだったら、チームがふたてに分かれて軋轢が生じたかもしれない。たった11人のチームに三つの民族(台湾原住民からはアミ族、プユマ族が参加したことを考えれば、さらに多様な構成だ)が入り混じったことが、断層効果を弱めたのだろう。
そこに近藤監督が「甲子園」という共通の目標――しかも誰にとっても高い目標を設定したことで、全員のベクトルを一致させた。
複数の民族が一つの目標に向かって力を合わせる。チームメイトに民族は関係ない。
本作はそこが徹底できているから、純粋に野球の試合が面白い。試合を盛り上げるのは好プレーの応酬であって、民族問題ではないからだ。
![セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋【豪華版 3枚組】 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61yY5eDa0eL._SL160_.jpg)
本作が描くのは、日本人監督に率いられた嘉農野球部の活躍ばかりではない。
当時世界最大だった烏山頭(うさんとう)ダムと地球の直径より長い水路網からなる大規模な灌漑施設・嘉南大シュウ(かなんたいしゅう)の工事や、噴水池を建設する様子が随所に織り込まれ、学校の授業では日本人教師の口から台湾の自然環境や灌漑施設建設の重要性が語られる。農業振興に努める日本人教師から、子供たちは精神的な強さを学ぶ。
併せて、灌漑施設の建設を指揮し、「嘉南大シュウの父」と呼ばれる水利技術者八田與一(はった よいち)も魅力たっぷりに描かれる。八田を演じる大沢たかおさんが、最高に輝いて見える。
これらの描写は、嘉農野球部が勝ち進む姿にシンクロするとともに、台湾が日本の統治下で発展したことを示している。
それどころか、映画は野球部のパレードそっちのけで嘉南大シュウの完成を取り上げており、日本人監督に率いられて強くなった嘉農野球部そのものが、なんだか日本統治の恩恵を強調するための仕掛けのようにも見えるのだ。
本作に対して、台湾の一部識者から媚日(日本に媚びている)映画と批判が出たのも、なるほどと思う。
映画を制作したウェイ・ダーションとしては、日本の統治に徹底抗戦する『セデック・バレ』を発表した後だからバランスが取れると踏んだのかもしれない。長年にわたり『セデック・バレ』を準備してきたウェイ・ダーションにしてみれば、『海角七号/君想う、国境の南』や本作は天秤の片側なのだろう。
だから『セデック・バレ』が反日映画ではないように、『KANO 1931海の向こうの甲子園』は親日(媚日)映画というわけではない。
映画がヒットするには、作品の出来ばかりでなく、作品を受け入れる下地が大衆にあるか否かも関わるだろう。
興行収入が1億台湾ドルを超えれば大ヒットといわれる台湾で、本作は3億台湾ドル(約10億円)以上を叩き出した。
台湾での封切りは2014年2月27日。そこから3ヶ月ものロングランになったが、この時期は「ひまわり学運」、すなわち立法院を占拠した学生運動の時期にピタリと重なる。
3月18日、台湾(中華民国)と大陸(中華人民共和国)が結ぶ「海峡両岸サービス貿易協定」に反対する学生たちが立法院(国会)に進入し、政府・与党が譲歩するまで24日間にわたって占拠し続けた。
2008年に中華民国総統に就任したマー・インチウ(馬英九)は親中政策を打ち出し、着々と中国に接近していた。サービス貿易協定が批准されれば、台湾企業が中国資本に乗っ取られ、中小小売店の息の根が止められて、台湾は「中国の経済植民地」になるのではないか、と懸念されたという。また、マー・インチウ政権は文化・精神面での脱日本化・親中国化を図り、高校の国語、社会科の教科書にある日本や中国に関する記述を変えて、台湾が中国の一部であると強調させる教科書要綱に改訂したという。
「ひまわり学運」は、このような政府の動きの中で起きた。世論も学生を支持し、全国から集まる支援物資が長期に及ぶ占拠を支えた。
この時期、台湾の人々は親中国化に反対する学生運動を応援するとともに、中国(大陸)とは異なるところに文化的精神的ルーツを求める映画に足を運んでいたわけだ。
立法院の占拠が終わっても、ほとぼりは冷めなかった。2014年6月、中華人民共和国の建国以来はじめて台湾を訪問した中国閣僚は、抗議デモで追い返された。同年9月25日には本作を見逃した人のために台湾映画史上初のアンコール上映が行われ、11月29日の統一地方選挙では与党・国民党が惨敗した。こうして並べると、すべてが一つの流れのように見えてくる。
だから本作が日本統治下での台湾の発展や、日本人チームとの激戦を描いても、あぶり出すのは台湾人のことなのだ。
映画の構造は『セデック・バレ』と同じである。
嘉農の弱小野球部は猛特訓を経て強くなるが、それでも日本人チームは強敵だ。どうにか勝っても、もっと強いチームが現れる。巨大な甲子園球場や灌漑設備を作り上げる日本の技術、文化の力も素晴らしい。だが、日本の強さ、凄さを繰り返し強調することで浮かび上がるのは、その日本に一歩も引けを取らない、否、日本勢をも震撼させる嘉農野球部、台湾勢の凄まじさだ。
映画の前半でこそ日本人の監督にしごかれる球児たちだが、やがて判断に悩む監督に意見を申し出るようになり、みんなでチームを引っ張っていく。日本人監督によって台湾のチームが甲子園に行ったのではない。台湾の若者たちが日本人監督を甲子園に連れて行くのだ。

抗日事件を題材にした『セデック・バレ』が、日本をおとしめるのではなく台湾人の何たるかを描いたように、本作もまた日本を持ち上げるのではなく、台湾人とは何かを考察する映画である。
「なぜ、台湾で『KANO』がこんなに話題になったのか」福島香織氏は問う。「答えを先にいってしまうと、この映画の中で描かれる台湾アイデンティティというものが、今の台湾人にもっとも問われているテーマだからだろう。」
「ひまわり学運」を取材した福島氏は、運動のレポートに続く記事『映画「KANO」と台湾アイデンティティ』で、次のように述べている。
---
この大ヒットと批判は、今の台湾の状況を反映しているのだと思う。今の台湾人の中でも、自らのアイデンティティを原住民、漢人、そして日本統治時代の影響の融合によって形成されてきたものであると考えるグループと、台湾人のアイデンティティの根っこは中華民族意識にあるとするグループにおおむね分かれている。
(略)
日本統治から国民党独裁時代の白色テロの記憶を持つ老人たちが徐々に減っていき、政策的に中華民族回帰が喧伝される中で、台湾アイデンティティの定義も揺らいでいる。国際情勢から言っても、台湾の社会・経済の実態から言っても、独立の目がなくなり、流れに身を任せていれば、ほぼ間違いなく中国に併呑されると予測される中で、台湾人がそれぞれ自分の立ち位置を確認したい気持ちが募っているのではないかと思う。それが、「KANO」など魏徳聖映画がヒットする背景であり、またそのヒットを批判する論調の盛り上がりではないかと推測するのだが、どうだろう。
(略)
「KANO」の中で「パパイヤは根っこに釘を打ち込むと、もう自分は死ぬと思って、最後の力を振り絞って大きな甘い実をつける」という挿話が何度も出てくる。もうだめだという危機感による必死さが大きな果実を実らせ、希望を次世代に託す、という例えだ。この挿話がまさしく今の台湾の気持ちにあっている気がする。
台湾のアイデンティティの根っこに刺さり痛みを与えている釘が日本統治の過去なのか、中国併呑の未来なのか。(略)いずれにしても、その痛みの危機感の中で、自力で民主化を遂げ小さくも豊かな「国」を形成してきたのが台湾であり、これからもその苦悩が台湾らしさの本質かもしれない。
---
当の台湾ですら媚日との批判が出た本作だから、『セデック・バレ』を「反日的」と勘違いする人がいる日本では、今度は日本が持ち上げられたと思われるかもしれない。たしかに日本への親しみが込められた映画ではあるけれど、あまりそこに注目されるのは作り手の本意ではあるまい。
マー・ジーシアン監督は来日時のインタビューで「作品のテーマは『野球の物語』であることに尽きる。背景には日本の統治があったが、魏さん(ウェイ・ダーション)が言う通り、当時の日本を美化しているわけではない。ただ悪く描いていないだけ」と強調したそうだ。
パンフレット収録の金原由佳氏の記事で、ウェイ・ダーションの言葉が紹介されている。
「なぜ、日本統治下にあった台湾の記憶を美化するような映画を作ったのですか」と質問された彼は、こう断言したという。
「僕が嘉農に興味を持ったのは、『セデック・バレ』で描いた霧社事件の翌年に、嘉農が甲子園で準優勝した事実でした。たった1年で、一方に台湾の近代史上最も凄惨な出来事が起き、一方に最も輝かしい栄光が起きていた。この差は何だったのか? それを考える中で、霧社事件は現地の日本人警察官たちの上からの目線が原住民たちの怒りに火を付けたと知り、逆に近藤監督は常に選手たちに同じ目線で接したと聞きました。つまり、僕が映画で描きたかったのは、台湾と日本の政治的な歴史や背景ではなく、人が人を動かすときの目線なんです。」
彼はNHKのインタビューに答えて、原住民族の誇りを踏みにじった日本人警察官と、民族で差別しない近藤監督が同じ時代にいたと知って驚いたとも述べている。
民族で差別しないこと、上からではなく同じ目線で接すること。それは過去の日本だけでなく現代の日本人も真摯に受け止めるべき言葉だろう。
ウェイ・ダーションのメッセージは、国を超えて時代を超えて普遍的だ。それはもしかしたら、中国大陸へも向けられているのかもしれない。
多民族が混在するからこそ理想的なチームなんだ。私たちは今こそ近藤兵太郎に学びたい。

監督/マー・ジーシアン 脚本/ウェイ・ダーション、チェン・チャウェイ
制作/ウェイ・ダーション 日本語セリフ手直し/林海象
出演/永瀬正敏 坂井真紀 ツァオ・ヨウニン 大沢たかお 吉岡そんれい 伊川東吾
日本公開/2015年1月24日
ジャンル/[ドラマ] [スポーツ]
