『インターステラー』 スピルバーグ版とのラストの違い
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運動の第3法則: 前へ進むためには何かを後へ置いていかなければならない。
ラザロ計画――それはクリストファー・ノーラン監督の傑作『インターステラー』で描かれるプロジェクトの名前だ。そのネーミングには、複数の意味が込められているに違いない。
そんなにSFが好きなのか!
私は、地球からの脱出を図る計画の名がラザロ(Lazarus missions)であることに、クリストファー・ノーランのSF志向を感じてニヤリとした。
ラザロ、英語風に読めばラザルスは、ロバート・A・ハインラインの幾つかのSF小説に登場する人物の名だ。おそらくハインラインが創造した中でもっとも有名なキャラクターだ。
前向きで柔軟で行動的な彼が最初に登場したのは、移民宇宙船で地球を脱出し、安住の星を目指す物語『地球脱出』(別題『メトセラの子ら』)のリーダーとしてだ。この小説は『宇宙戦艦ヤマト』の元ネタとしても知られている。
もちろんラザロ計画のプランA――居住不能になった地球を捨てて人類が他の星へ移住するプラン――だけでなく、プランBもラザロにちなむだろう。
『インターステラー』に登場するブランド教授は、プランAが実現できないときに備えて、人類の受精卵だけを異星に運ぶプランBも立案していた。プランBは地球での人類の死滅を意味し、異星での種の復活を期待するものだ。
このようにいったん絶滅したように見えながら再出現した生物を、古生物学ではラザロ分類群と呼ぶ。
■土星でなければならなかった
そもそもラザロとは……という話は後にして、クリストファー・ノーランの志向について触れておきたい。
ノーランは本作を「思索を巡らせるフィクション」だと述べている。「人類の将来を考える機会になる。宇宙人に出会う『未知との遭遇』で描かれたように、将来起こりうる状況について思索する。人類が宇宙に飛び出さざるを得ない状況になった時、我々は何を考えるのか、ということだ。」
SF(サイエンス・フィクション)がスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)とも呼ばれたことを思えば、これはまさにノーランのSF宣言だ。
クリストファー・ノーランがとりわけ愛を捧げ、挑戦しているのが『2001年宇宙の旅』だ。
スタンリー・キューブリックがSF作家のアーサー・C・クラークと練り上げたこの名作映画と同様に、『インターステラー(星から星へ)』は宇宙進出と、知的生命体とのファースト・コンタクト、そして人類の進化をテーマにしている。
科学考証を重視したリアルな作風、少数の乗組員による太陽系内の旅、謎の存在が設置した「門」を通っての超空間の旅、高次元の存在となる主人公等々、本作と『2001年宇宙の旅』との類似はいちいち挙げるまでもない。
グッと来たのは、ジョン・リスゴーをキャスティングしたことだ。
ノーラン監督作品に6回目の出演となる常連役者マイケル・ケインや、『ダークナイト ライジング』からの連投となるアン・ハサウェイや、『ダラス・バイヤーズクラブ』のアカデミー賞主演男優賞も記憶に新しいマシュー・マコノヒーや、『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』の白痴美人から『ゼロ・ダーク・サーティ』の凄腕分析官まで何でもござれのジェシカ・チャステインも素晴らしいし、10歳のマーフィーを演じたマッケンジー・フォイの存在感にも唸らされたが、何といっても心躍るのはジョン・リスゴーの出演だ。彼こそは『2001年宇宙の旅』の宇宙船ディスカバリー号の設計者ウォルター・カーナウ博士として『2010年』に出演した人物なのだから。
しかも、本作の宇宙船エンデュアランス(試練)号の目指す先が土星とはふるっている。
映画『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号は木星を目指すが、企画段階の目的地は土星だった(アーサー・C・クラークの小説版では構想どおり土星に到達している)。『2001年宇宙の旅』が発表された1968年当時の特撮技術では土星の輪を表現できなかったので、木星に変更されたのだ(当時はまだ木星の輪が発見されていなかった)。
スタンリー・キューブリック監督が諦めた土星の旅を、あえて本作のプロットに持ってくるところ、クリストファー・ノーランの気合は半端ではない。
クリストファー・ノーランはこう述べている。
「制作中、『2001年』は終始、意識していた。私が体験したように、映画館で子供たちに宇宙を旅してほしいと思った。」
クリストファー・ノーランが企んだのは、単に観客を宇宙映画で楽しませることだけではない。若い頃に観た『2001年宇宙の旅』のようなSF映画を甦らせるとともに、アポロが月に到達し、対立する米ソ両大国が宇宙で握手した有人宇宙飛行の時代の大志を現代に甦らせたかったのだ。
「私が育ったのは、どんな子供にとっても宇宙飛行士になることが最高の目標だった時代だ。でもここ20年で、そんな風潮はすっかり消え失せてしまった。その間に科学技術の大きな変化があったんだ。」
ノーラン監督は町山智浩氏に次のように語ったという。
「アポロ計画とかやっていて、人類が宇宙を夢見ていた時代が大好きなんだよ!」
「いま、科学技術は本当に進んだけれども、スマホとかネットとかコンピュータとか、そっちの方ばっかりじゃないか。進んでいる科学技術は。それ、内向きだろう。あまりにも。本当にみんな下を見て、スマホをずっとやってるじゃないか。黙って。どうしたんだよ!?これで人類、どうなるんだよ!?」
「心の内側にばっかり入っていくばっかりじゃ、先には進めないよ、人間!」
「人間、内側とか下とかばっかり見てないで、外を見ろよ!外に出ろよ!」
「上を見ろ!空を見ろ!星を見ろ!宇宙を見ろ!」
「そうしなければ人類は進化しないじゃないか。スマホやっていたって進化しないだろ、人類は。宇宙へ出ろよ!」
本作の世界では、宇宙に、そして宇宙旅行を支えるテクノロジーに背を向けるようにして、人類の月面着陸はなかったと子供たちに教えている。まるで(微生物の増殖を防ぐ)食品添加物は危険だと主張して、無添加の(食中毒のリスクのある)食品を子供に食べさせるようなものだ。
たかが映画の話、と笑ってはいられない。アポロ計画陰謀論に取りつかれ、月面着陸は捏造だったと主張する人は現実にいる。月面着陸の映像は、アーサー・C・クラークの脚本に基づいてスタジオで撮影されたものだと主張する者もいる。
ここでアーサー・C・クラークの名前が出てくるのは、彼がリアリティに満ちた映画『2001年宇宙の旅』に関わったからだろう。さらには、スタンリー・キューブリック監督が月面着陸を撮影したとするエイプリルフールの番組を真に受けた人もいるらしい。
科学技術にネガティブな人々の滑稽さを描く上で、本作が他ならぬアポロ計画陰謀論を取り上げたのは、陰謀論の背景に『2001年宇宙の旅』があまりにも良くできていたことがあるからだろう。こんな映画を作れるなら全世界を騙す映像だって捏造できるに違いない、そう思わせるだけのリアリティが『2001年宇宙の旅』にはあった。
本作のアポロ計画陰謀論は、クリストファー・ノーランからスタンリー・キューブリックへの最大級の賛辞である。
このように本作は、科学と技術へのポジティブな思いを前面に出している。
環境の悪化も描かれるが、科学技術のせいとはされていない。本作で人類が直面する危機は、1930年代の米国で起きたダストボウルの再現だ。日本が満州事変や日中戦争に浮かれていた頃、米国では広大な農地が放棄され、砂嵐の発生源と化していた。ダストボウルのために国土の大半が土埃に覆われ、ますます耕作不能になっていった。当時の困窮極まる農民の暮らしをジョン・スタインベックは『怒りの葡萄』に著し、ジョン・フォードはそれを映画化してアカデミー賞の監督賞を受賞した。
『インターステラー』の冒頭で砂嵐の猛威を語るのは、実際に1930年代のダストボウルを経験した人々だ。このシーンは、ケン・バーンズ監督のドキュメンタリー『The Dust Bowl』(2012年)から流用したものである。
本作では科学に後ろ向きな人々の生活の苦しさが強調される一方で、重力の秘密を解明したマーフィーの喜びようが印象的だ。
「ユリイカ!」
あまりの嬉しさに彼女は叫ぶ。
「判った!」を意味するこの言葉は、アルキメデスが浮力の原理を発見したときに叫んだといわれる。入浴中だったアルキメデスは、嬉しくて裸で街に飛び出したという。このセリフほど、紀元前3世紀の偉人から今へと続く科学の発達の素晴らしさを象徴するものはないだろう。
■なぜ主人公は農民なのか
だが、本作が描くのは科学技術ばかりではない。
ラザロ計画のネーミングが意味するもう一つのものは宗教だ。
劇中で説明されるように、ラザロとは新約聖書中の人物を指す。ラザロは病のために死んでしまうが、イエスが呼びかけると甦って墓から出てくる。絶滅したはずなのに再出現した生物をラザロ分類群と呼ぶのは、このことに由来する。
ラザロだけに留まらず、本作は聖書からの引用でいっぱいだ。
移住可能な星を探す主人公クーパーたちは、そこを聖書の「約束の地」カナンになぞらえる。カナンを目指す旅といえば、モーセに導かれた人々がエジプトを脱出してカナンに向かう旧約聖書の「出エジプト記」が思い浮かぶ。
そして、ダストボウルで住めなくなった土地を後にして「乳と蜜の流れる地」カリフォルニアを目指す農民の物語『怒りの葡萄』が、「出エジプト記」をモチーフにしていたことを考えれば、同様にダストボウルで住めなくなった地球を後にして「約束の地」を目指す農民の映画『インターステラー』が『怒りの葡萄』のSF版であることに、いや「出エジプト記」のSF版であることに気づくのだ。
ブランド教授がラザロ計画の結末を知ることなく世を去るのも、『怒りの葡萄』で祖父が道半ばにして亡くなるところから、いや、モーセが約束の地を目の前にして亡くなるところから来るのだろう。してみるとクーパーは、多くの者がカナン行きに尻込みする中、カナンの素晴らしさを説き、モーセの後を継いでカナンを制したヨシュアに当たるだろうか。アメリアは忍耐強いカレブかもしれない。
『インターステラー』はSF的にも、宗教的にも読み解くことができる。
クーパーが家を出て「幽霊」が示す地点に向かうのは、クリストファー・ノーランが影響を受けた作品として挙げている『未知との遭遇』で、主人公が何者かに導かれて山に向かうシチュエーションを彷彿とさせる。『未知との遭遇』でメッセージを発していたのは異星人だが、本作の「幽霊」の正体は高次元空間(tesseract)に出現したクーパー自身だった。『2001年宇宙の旅』のボーマン船長がスターチャイルドに進化しながら何もしないで終わるのに対し(進化そのものが映画のクライマックスだから仕方ないが)、高次元の存在となったクーパーはその利点を活かして三次元世界の人間に干渉しはじめる。
このようにメッセージの出どころをSF的に説明しているものの、クーパーの背後には彼を導いた五次元生命体がおり、その正体はようとして知れない。クーパーはそれを遠未来の人類だと推察し、自分が過去の人間に干渉しているように、さらなる高次元から自分に干渉しているのだろうと考えるが、映画はこの超越者について詳しく語らないまま幕を閉じる。
何者かのメッセージに導かれながら、その正体を語らぬまま幕を閉じる映画といえば、ケヴィン・コスナー主演のヒット作『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)が思い浮かぶ。町山智浩氏が指摘するように、両作にはトウモロコシ畑や野球場や(死に別れた)父との和解を望む子供といった多くの共通点が見られる(不勉強な私なんぞは本作のトウモロコシ畑から『フィールド・オブ・ドリームス』しか思い浮かばなかった)。『インターステラー』と違って、『フィールド・オブ・ドリームス』では天の声の正体をまったく考察しないが、キリスト教やキリスト教系の信者が多い米国では、天の声の正体を探るまでもないのだろう。
本作もまた、多くの米国民と同じように信仰心をもって見れば、天の啓示に導かれた男の物語である。劇中に散りばめられた聖書からの引用や「出エジプト記」を下敷きにしたストーリーは、遠い宇宙を目指すことが神の意に沿うのだと語っている。
そもそも本作は、信仰に基づかなければ克服できない矛盾をはらんでいる。
主人公たちは宇宙へ移民するプランAを推進すべく人生をかける。だが、どんなに大きな移民船を建造しても、全人類を乗せるのは不可能だ。船に乗れる人と乗れない人が生じるのは避けられない。登場人物は人類という種全体について言及しながら、助けられる範囲のことは口にしない。
このことは、最後の審判ですべての人間が裁かれ、神に忠実だった人間のみが救われるというキリスト教やイスラム教の教えを根底に置けば解消する。救われる人間は、同じ神を信奉する者だけなのだ。
何もクリストファー・ノーランが選民思想に凝り固まっているとは思わない。キリスト教的な文化がじんわりとにじみ出たのだろう。
これまで見てきたように『インターステラー』は科学を称揚する映画だが、同時に宗教性を強く帯びている。
科学と宗教、これは同時に志向できるものなのだろうか。
そのことを示すのが、劇中で主人公が口にする「運動の第3法則」だ。
「前へ進むためには何かを後へ置いていかなければならない。」
これはニュートン力学の基本となる3法則の一つ、作用・反作用の法則だ。中学校で学ぶから誰でも知っているだろうが、運動の法則をこれほどロマンチックに表現した言葉を私は知らない。このセリフを聞けただけで感無量である。
運動の3法則を発表したアイザック・ニュートンは自然科学者と紹介されることもあるけれど、彼が神学者であったことを忘れてはなるまい。運動の3法則を掲載した1687年の『プリンキピア』の序文に、ニュートンは「本書の目的は神が天地創造された意図をさぐることである」と書いている。
近代科学はキリスト教から生まれたといわれる。
宇宙が神に創造されたなら、そこには完璧な秩序があるはずだ。自然には規則性があり、宇宙には法則があるに違いない。人間が知らないだけで、神の定めた普遍的な法則がきっとある。その信念に突き動かされた神学者たちは、実験と観測を重ねて法則を発見していった。強い信仰があるからこそ、"神学者"ニュートンは近代科学の基礎を築けた。
そして今も科学者は、「科学者が物理法則と呼んでいるものは、本質的には宗教で神と呼ばれているものと同一なのではないか」と思いを巡らす。
SFもまたしかり。
長山靖生氏は『日本SF精神史』にSFの定義を「科学的空想を加えることで改変された現実を描いたものとしたい。この『科学』のなかに、自然科学だけでなく、社会科学や人文科学(言語実験など)も含めるなら、およそ今日、SFと認識されている傾向のほとんどすべてをフォローできるだろう」と書いている。
この科学の裏に宗教があれば、SFとて宗教の影響を免れない。
私の友人はアーサー・C・クラークの本を指して「新興宗教の聖典みたいだ」と感想を漏らした。なるほどクラークの代表作たる『2001年宇宙の旅』や『幼年期の終り』には、人類を見守る超越的存在や、超越者に導かれて次のステージへ昇っていく人類が描かれている。既存の宗教には与せずとも、宗教に期待される要素がふんだんに盛り込まれているように見える。
『エンダーのゲーム』の原作者オースン・スコット・カードのように、熱心なモルモン教徒であり、モルモン教をモチーフにした作品を執筆しているSF作家もいる。
超越的存在を「神」と呼ぶのに抵抗があれば、インテリジェント・デザイナーと呼んでも何と呼んでも構わない。『魔法少女まどか☆マギカ』の記事で述べたように、呼び方を変えても同じことだ。
日本のSF読者のあいだには宗教的なものへの拒否反応があるというけれど、教団の活動や教義に対する拒否反応だろう。超越的存在を夢想することまで拒否しているとは思えない。
本作の「五次元生命体」とは、「神」の存在を期待する気持ちをSFっぽく表現したものに過ぎないが、そのひと工夫でSFファンの抵抗感は和らいだはずだ。
『インターステラー』は科学志向の優れたSFであり、同時に宗教的な作品なのだ。その両方を押さえているから、すんなり心に入ってくるのかもしれない。

■「すべての手がかりがピタリとはまって、信じられないほど感動したのです」
さて、本作の"クリストファー・ノーランらしさ"を考える上では、スティーヴン・スピルバーグ版との違いに注目するのがいいだろう。
本作は当初スティーヴン・スピルバーグが監督する予定だった。
そのときの構想では、クーパーの視点だけで物語が進行し、地球側の描写はなかった。天才科学者マン博士もクーパーの娘も登場せず、描かれるのはもっぱらクーパーとヒロインのアメリアとの関係だった。クーパーたち米国チームだけでなく中国も宇宙へ乗り出しており、クーパーたちが目的の星に到達する30年前には中国の基地ができていた。異星人やら悪のロボットやらに遭遇したのち、クーパーが地球に帰還してみると、出発から200年が経過し、すでに全人類が地球を去った後だった……。
これはこれで『A.I.』のスピルバーグらしい、冒険と哀愁に満ちた映画になったことだろう。
スピルバーグの降板によって監督に就任したクリストファー・ノーランは、ジョナサン・ノーランが書いていた脚本に自身のオリジナルアイデアを付け加えた。
完成した作品を観れば、ずいぶん変えたものだと思う。
最大の違いは父娘の物語になったことだ。本作のプロデューサー、エマ・トーマスとのあいだに四人の子供がいるノーランは、作品に親子関係を持ち込んだ。本作に涙を禁じ得ないのは、普通はできないこと――成長し、最期を迎える我が子との交流が描かれるからだろう。
本作の撮影は秘密裡に遂行され、題名を伏せて『Flora's Letter(フローラの手紙)』というコードネームで呼ばれた。フローラとはノーランの子供の名だ。
主人公の娘を演じたジェシカ・チャステインは、一人の少女に出会って、本作がクリストファー・ノーランのごく私的な作品であることに気づいたという。
「少女はとても恥ずかしがり屋で可愛かった。私が近付くと名前を教えてくれました。彼女はクリスの娘だったのです。すべての手がかりがピタリとはまって、私は信じられないほど感動しました。『インターステラー』は彼の娘への手紙だったのです。」
だが、このような感動作にすることは、必ずしも"クリストファー・ノーランらしさ"ではない。
真の特徴は自己愛に生きるマン博士を創造したことにある。
クリストファー・ノーランの作品が衝撃的なのは、人々が信じたがる口当たりの良い面と、人々が目を逸らす嫌な面の両方を視野に入れ、そのギャップを娯楽作の中で描き切ってみせるからだ。
彼は『ダークナイト』で人と人との信頼やヒロイズムを高らかに謳い、多くの観客を感動させた。ところが続編『ダークナイト ライジング』では前作で描いたものを無残にも打ち砕き、暴走する民衆の怖さ、愚かさを描いて暗澹たる気分にさせた。どちらも人間の本性に根差した姿であることを、ノーランは知っているのだ。本作ではクーパーの娘と息子がそれぞれ人間の英知と愚かさを代表する。
ノーラン監督は、劇中でアメリアに愛の強さと、愛こそ高次元に到達できる力であると語らせた。ことあるごとに、クーパーが娘を思う気持ちを強調し、愛を抱いた人間の行動力を称えた。けれども同時にマン博士の自己愛を描き、愛が極めて狭量であることを示す。ブランド教授の欺瞞を通して、しょせん人類という種全体のことを考えられる者などおらず、本人や家族のことで動機付けるしかないのだと明かす。
クーパーは全人類の命運を託されてるにもかかわらず、娘のことしか考えてないではないかと指摘される。
そうなのだ。宮崎駿氏は「半径3m以内に 大切なものは ぜんぶある」と述べたが、これはすなわち半径3mより外のものが大切とは思えないということだ。
とうぜんだろう。家族に対する愛と同じ想いを、知らない他人に注ぐことはできない。どんなに博愛の精神を発揮しても、我が子への愛には敵わない。愛とは独善なのだ。
それだけに愛は強い。どんな犠牲も厭わない、力強さに溢れている。
だからこそ、愛があれば困難に打ち勝てる。ときに不可能事をも可能にする。
人類を救うほどの難事業を行うには、強烈な愛が必要だ。全人類を愛することなどできなくても!
一見矛盾するようだが、本作を観れば腹に落ちる。
愛する者を救う過程で他の者をも救うのだ。愛が強ければ強いほど、一緒に救われる者も多くなる。そんなロジックだけが、真の偉業をなさせるのではないだろうか。
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監督・制作・脚本/クリストファー・ノーラン
脚本/ジョナサン・ノーラン
出演/マシュー・マコノヒー アン・ハサウェイ ジェシカ・チャステイン マイケル・ケイン マッケンジー・フォイ マット・デイモン エレン・バースティン ジョン・リスゴー ティモシー・シャラメ デヴィッド・オイェロウォ ビル・アーウィン
日本公開/2014年11月22日
ジャンル/[SF] [ドラマ]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : クリストファー・ノーランマシュー・マコノヒーアン・ハサウェイジェシカ・チャステインマイケル・ケインマッケンジー・フォイマット・デイモンエレン・バースティンジョン・リスゴーティモシー・シャラメ
『トワイライト ささらさや』 なぜミニチュアみたいな映像なの?
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たしかに『A Guy Named Joe』やそのリメイク作『オールウェイズ』、そして『ゴースト/ニューヨークの幻』など、同様の映画はすぐに思い浮かぶ。
だが『トワイライト ささらさや』の特徴として、残された女性の成長が描かれるだけでなく、死んだ男性の成長も描かれることが挙げられるだろう。
死んでしまった人間に今さら成長もないものだが、本作は生きてるときには気付けなかった他者の思いに遅まきながら気が付いていく物語である。
死んだ人はもうこの世にはいない。そばにいるように感じるのは生きてる者の錯覚だ。
だから本作のドラマの中心は生きている女性の方なのだが、死んだ人間も大いに存在感を示している。
観客はそこに違和感を覚えたりしないだろう。
それは本作がトワイライト――微妙な状態を扱う映画だからだ。
そもそも『トワイライト ささらさや』という題からは、本作がどのような映画か皆目見当もつかない。
"ささらさや"とは原作の『ささら さや』を持ってきたもので、物語を追っていけば"ささら町"に暮らす"さや"という名の女性を指すことが判るのだが、トワイライトが何を意味するかは劇中では明らかでない。
これが『ALWAYS 三丁目の夕日』に夕焼けの場面をバーンと入れた山崎貴監督だったら、クライマックスを黄昏どきに設定して、「今がトワイライトだ」と観客に判らせたことだろう。

代わりに工夫を凝らしたのが俯瞰図だ。上から見下ろした町のチマチマした光景は、細密で壊れやすいミニチュアのようだ。
公式サイトによれば、これはリモコンのマルチコプターにシフトレンズ付きのカメラを搭載して、上空から撮影したのだという。ささらを不思議な町として表現するためだ。
なるほど、これは題名に『トワイライト』と名付けたのと同じ狙いに違いない。
トワイライトとは薄暮のことだ。昼でもなく夜でもない、薄明かりに包まれた時間である。
大泉洋さん演じる夫は交通事故で死んだにもかかわらず、成仏できずに妻の周りをうろうろしている。妻も夫の存在を感じて、死んでもいなくなったわけじゃないと思っている。
その中途半端な状態、微妙な時間。
それが昼でも夜でもないトワイライトが指すものであり、実景なのにミニチュアのように撮影された映像が表現するものだ。
愛する者は死んだ。さあ今日からは彼/彼女のいない生活だ。
人の気持ちはそんな風には切り替わらない。
つい、まだ相手がいるように感じてしまう。相手がいるように振る舞ってしまう。そこにいるはずだったのにと考えてしまう。そこにいてくれればと思ってしまう。
頭でいくら判っていても、気持ちがついていかないのだ。心の中で生きている、という決まり文句は真実を突いている。
そんな微妙なときを本作は否定するでもなく、乗り越えろと励ますでもなく、ささやかな日々の出来事を丁寧に積み重ねていく。無理をせず、気の済むまでトワイライトに浸ればいいのだ。それはそれで大切なときなのだから。
本作はその微妙なときをトワイライトと表現したが、カタカナ語を持ち出さなくても日本には相応の言葉がある。
パブリックドメインで公開されている次の文を紹介して、本稿を締めくくるとしよう。
永眠
永眠は優しい言葉だと思います
それは永い眠りです
生か死かは、まるで白か黒か、ゼロかイチかに二分するようだけど、永い眠りは曖昧で、どちらともいえません
柔らかな毛の手触りは生きてるときと変わりません
目を閉じた様子は寝顔にしか見えません
今にも胸がゆっくり上下しそうな まぶたがピクリと動きそうな
いつもの眠りとちっとも変りません
フカフカのベッドも、お気に入りのクッションも いつもと何も変わっていません
それを死と呼ぶのは、昨日までの生と違うというのは、あまりにも難しい
だから今は眠りと呼びたいのです
ありがとうと呼びかけたいのです
目覚めることはないけれど、永い永い眠りなのです
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監督/深川栄洋
出演/新垣結衣 大泉洋 富司純子 石橋凌 中村蒼 福島リラ 波乃久里子 藤田弓子 小松政夫 寺田心 つるの剛士
日本公開/2014年11月8日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]

【投稿】ガトランティス戦争開戦までのガミラス ガミラス第二帝国 /『宇宙戦艦ヤマト2199』ガミラス考察補論集1 小説~ガトランティス戦争編~
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『宇宙戦艦ヤマト2199』 ガミラス考察補論集1
思考実験としての続編小説~ガトランティス戦争編~
――デスラーズ・ウォーから本編までのあらすじ――
ヒス・ディッツ政権のガミラスが内乱に陥った好機を捉え、ガトランティスが小マゼランに侵攻。小マゼラン方面軍は全滅し、小マゼランはガトランティスの手に落ちた。そしてついに大マゼランにガトランティスの大軍が侵攻し、帝国の各地が劫略と奴隷狩りの惨劇を迎える。軍事力の崩壊したヒス・ディッツ政権には為すすべがなく、帝国は滅亡の危機を迎える。
そこへデスラーが銀河系方面軍を率いて潜伏先の銀河系より舞い戻り、ガミラス全軍に自身の生存を訴えた。将兵達は帝国滅亡の危機を前にして建国の英雄に全てを賭ける事を決意、全軍がデスラーの元に寝返る。ガミラス全軍を糾合したデスラーはガトランティス軍を巧妙な罠にかけて撃滅し、指揮官のバルゼーを敗死させる。続く掃討戦でデスラーはガトランティス軍を大マゼランから一掃し、帝国各地で奴隷として連れ去られようとしていた臣民を救出した。
こうして大マゼランは危機を脱し、ヒス・ディッツ政権はデスラーに滅ぼされてしまう。その後デスラーは小マゼラン奪回の兵を出すが、ガトランティスは小マゼランを「無人の野」にして銀河系に移動した後だった。小マゼランをも帝国の手に取り戻したデスラーは「大小マゼラン諸種族の推戴を受ける」という形式で「大小マゼラン諸種族の第一人者としての総統」に就任、ガミラス第二帝国を建国したのだった。
1. ガトランティス戦争開戦までのガミラス ガミラス第二帝国
――ヤマトのバレラス襲撃から7年後――
ガトランティスが大マゼランに侵攻し、デスラーにより撃退されてから5年以上の歳月が流れた。ガミラスとガトランティスの両帝国にとってこの5年間というものはまさに、両国が自らの支配体制を固め、それぞれが甚大な損害を被った戦力を再建し次の戦争を行うための準備期間でもあった。
デスラー率いるガミラス軍は大マゼランの会戦において、ガトランティスの大マゼラン攻略軍を全滅させ大マゼランから彼らを叩き出すのに成功したものの、それまでにガミラスが失った戦力は極めて膨大なものだった。
ガミラスが保有していた戦力のうち、戦略予備と位置づけられていた基幹艦隊1万隻余はガトランティス軍侵攻以前にヤマトにより3000隻を残して全滅した。小マゼラン方面軍2万隻弱はガトランティス軍により殲滅された上、大小マゼランのガミラス地上軍も侵攻したガトランティス軍に軒並みなぎ倒されてしまった。デスラーが銀河系方面軍の、地上部隊も含めた文字通りの全軍を率いて大マゼランに戻って来た時には、ガミラス帝星を除く殆どのガミラス領有人惑星がガトランティス軍の劫略と奴隷狩りを受ける惨状となっていたのだった。
デスラーはガミラス帝星のあるサレザー恒星系に逼塞を余儀なくされていたガミラス軍航宙艦隊に自身の生存を訴え、巧みな弁舌で将兵を味方につけた。そして彼は自ら率いる銀河系方面軍1万隻と小マゼラン方面軍の残余5000隻、そして基幹艦隊3000隻を糾合し、ガトランティス軍に勝利した。続く掃討戦でデスラーはガトランティス軍を大マゼランから叩き出し、何ヶ月かの準備の後に小マゼラン奪回の兵を挙げ、小マゼランをも帝国の手に取り戻した。小マゼランでの抵抗は殆どなかった。ガトランティスは小マゼランの資源と人間を洗いざらい接収して「無人の野」とした後、銀河系へと移動していたのである。こうして、デスラーは大小マゼランを帝国の手に取り戻す事に成功した。
しかし、帝国に復権したデスラーの手元に戦力として残されたのはおよそ1万5千隻の艦艇と銀河系方面軍の地上部隊、そして大マゼランの地上部隊の僅かな生き残りのみであった。デスラーはヤマトのバレラス襲撃以前の半数以下にまで激減してしまった戦力を元に、自らの帝国を再び大小マゼランに築き上げていったのだった。
ヤマトがバレラスを襲撃して以来流れた7年という歳月は、ガミラス帝国の歴史をそれ以前とそれ以後に分けて記述するほどの重大な変化を大小マゼラン世界にもたらした。中でも、ガトランティスの大小マゼラン侵攻が帝国に与えた影響はとりわけ大きなものだっただろう。大小マゼラン世界の政治秩序が文字通りひっくり返ってしまったからである。
これまでガミラスが大小マゼラン世界で喧伝してきたイスカンダル主義――イスカンダルを『宇宙の救済者』として奉じようとする考え方――と、ガミラス帝国以前より大小マゼラン世界のそこかしこで存在してきた救済者としてのイスカンダルへの信望は、ガトランティス軍の劫略と奴隷狩りにイスカンダルが何一つ行動を起こせなかった事から大きく失われてしまった。
反対に、ガトランティス軍を撃退し大マゼラン諸惑星の住民をガトランティスの奴隷船から救い出したデスラーは、「大小マゼラン、ひいては宇宙の救済者」という声望を大小マゼラン世界で獲得するに至った。
遥かな昔よりガミラスはイスカンダルを「文明をもたらし、宇宙を救済に導く」存在として崇拝し、至高の存在として奉じてきたのだが、両者の大小マゼランにおける立場は今や完全に逆転したのだった。
大小マゼランを帝国の手に取り戻し、その支配者の座に再び収まったデスラーは「大小マゼラン諸種族の推戴を受ける」という形式で「大小マゼラン諸種族の第一人者としての総統」に就任した。
デスラーがガミラスに復権して以降の帝国をガミラス第二帝国と呼ぶなら(あくまで便宜上の呼称であり、正式な国号はあくまでガミラス帝国である)、ガミラス第二帝国はそれまでの純血ガミラス人のみが多種族を強圧的に支配する帝国から多種族が統治に参画する「大小マゼラン諸種族の世界帝国」へと変貌を遂げつつあった。
デスラーは帝国各地を精力的に巡回して各惑星社会のガミラス化を促し、ガミラス的な生活様式を普及させ――ガミラスの「同化政策」の骨子だった――、帝国全体の何千という臣民(純血ガミラス人、二等臣民を問わず)を帝国の支配エリートである名誉ガミラス臣民に登用し、さらにそれを遥かに上回る数の二等臣民に一等臣民権を授与した。こういったことの全ては実のところ、ガミラスが大小マゼランを統一した直後からデスラーによって手が付けられていたのだが、ガトランティスの大小マゼラン侵攻はそれらを一気に促進する契機となったのである。
大マゼランの会戦でガトランティス軍を破り、大マゼラン各地で掃討戦を行う過程でデスラーはガトランティスの奴隷船から助け出した諸惑星の臣民達――これには二等臣民だけではなく純血ガミラス人移民も含まれていた――の前で、自分こそが大小マゼラン全ての民の生活を守る存在である事を訴え、ヒス・ディッツ政権に身分降格された名誉ガミラス臣民や一等臣民を復位させ、同政権に対し反旗を翻した二等臣民の多くを赦し有用な者を名誉ガミラス臣民や一等臣民に登用し、純血ガミラス人移民が移民先で得た資産をあらためて安堵していった。
そして、デスラーは登用した名誉ガミラス臣民や一等臣民に土地や資産を与え、大規模な植民を開始した。かつてガミラス帝星の純血ガミラス人に対して行ったのと同じ施策である。そのための土地や資産は十分に存在した。ガトランティス軍により無人の地となった惑星や土地が数多くあったからである(特に小マゼランがそうだった)。
ガトランティス軍に焼き払われた惑星には環境改造プラント(ガミラス軍が太陽系の冥王星に設置したのと同種類の施設で、惑星の環境をごく短期間で作りかえることができた)を設置して環境の再生に着手し、登用した者達に将来与える土地を確保した他、各地に調査担当者を派遣して無人となった土地の権利関係を正確に調査した上で区画を整理して、それらを個人に割り当てていった。
植民計画で土地政策と並行して行われたのが、登用した名誉ガミラス臣民や一等臣民への職の提供である。デスラーは同化政策の一環で有人諸星系の宇宙や地上に以前から建設されていた生産施設(工場だけではなく、農場プラントも含まれる)を再稼動させ、戦争により荒廃した諸惑星に物資や物品を供給し、その生産や販売の仕事を彼らに任せた。
ガミラスが建設したこれらの生産施設は、元々ガミラスの技術で作られた製品を大量に惑星社会に供給し、 ガミラス的な生活様式を普及させ惑星社会のガミラス化を促すためのものだった。ガトランティス軍はこれらの施設をガミラス帝星よりも優先して狙い、無傷で接収しようとしたが、大マゼランの会戦で敗れたガトランティス軍があっという間に一掃された結果、デスラーに殆ど破壊されることなく奪い返される事となっていたのである。
ガミラス製品の大量の供給とそれらを使用した地上の復興計画は、ガミラス的な生活様式の急速な普及を促した。これまで緩慢な速度で進んでいた諸惑星のガミラス化が、ガトランティスの侵攻によって結果的に一気に促進されるようになったのだった。
デスラーがガトランティス軍を破った直後から行った一連の施策は、かつてデスラーの叔父やデスラー本人に征服されたガミラス帝星の公国の民――ガミラス帝国は元々、ガミラス帝星に存在したガミラス大公国を構成する複数の公国のうち、デスラーの叔父が治めるデスラー公国が他の公国を征服することで形成された――や二等臣民といった、帝国の支配する人々のうち不満を爆発させる可能性のある階層を選び出して、彼らに自身と家族の暮らしを支える手段を与えるものだった。ガミラスの大小マゼラン統一以来デスラーにより行われていたこれらの施策(植民と登用、職の提供)は、戦争の勝利によりはるかに行動の自由を得た今、その活動をよりいっそう大規模に再開されたのだった。政治的に彼はこれによって利益を得て、数多くの人々に恩を着せたと同時に、裕福な市民の数を大小マゼラン全体で大きく増やしたのである。
その結果、ガミラス第二帝国に非常に重要な成果がもたらされた。大小マゼラン諸種族の中にガミラスやデスラーに対する忠誠心と感謝の気持ちが育まれたことである。少なくない人々が、自分たちが帝国の犠牲者ではなく、受益者だという意識を持つようになっていった。彼らは帝国という共同体の一員となったのである。彼らにとってデスラーは、紛れもない「救済者」であった。
ガミラス第二帝国において、デスラーへの支持は今や大小マゼラン世界全体に広まっていた。彼が「大小マゼラン諸種族の第一人者としての総統」に就任することができたのも、大小マゼラン諸種族の間で広く見られるようになった支持のおかげだった。
これはそれまで、ガトランティス侵攻以前のガミラス帝国におけるデスラーの支持基盤が叔父のデスラー大公から受け継いだデスラー公国に限られていたのと比べると格段の変化といえた。彼の権力基盤は非常に強固なものとなっていったのである。
デスラーはこうした大小マゼラン諸種族や登用した臣民、純血ガミラス人移民達――元々はデスラーとその叔父に滅ぼされた公国の民であり、潜在的危険分子として追放同然の移民となり、土地や資産・職の提供を受け、ガトランティス軍による惨禍から救われた結果デスラーを支持するようになっていた――の支持を背景に、ガミラスの軍事力の再建と更なる増強を推し進めていった。
この「大軍拡」においてデスラーが行った軍制改革のうち、特筆されるものに「支援軍の創設」がある。彼はヤマトとガトランティスにより半壊状態となったガミラス軍を再建するため、二等臣民を大規模に戦力化した「支援軍」を創設した。
支援軍は以下のような仕組みを持つものだった。
・従来の二等臣民の部隊は(ヴァルケ・シュルツが率いていた二等ガミラス旅団のように)規模が旅団程度に留まり、部隊数も多くなかった(そのためガトランティス軍の大小マゼラン侵攻以前には、諸惑星に駐留するガミラス地上軍に深刻な兵力不足を補う目的で大量の機械化兵が配備されていた)のに対し、支援軍は最大の部隊単位が師団に拡大され部隊数も大幅に拡充された。ガミラス軍の部隊単位としての軍及び軍団は、支援軍の師団と一等臣民の正規軍師団の混成部隊となった。
・旅団長と師団長は一等ガミラス臣民が務める。旅団長以上のポストは一等臣民が殆ど全てを占める軍団等の上級司令部との打ち合わせが増えるため、身分の違いによる軋轢が生じるのを回避するためにもそのような仕組みが取り入れられた。旧来の二等ガミラス旅団の旅団長は支援軍創設に伴い全員一等臣民に昇格する事となった。
・支援軍の将兵は一定年数(10年程度)の勤務で一等臣民に昇格でき、その子供にも一等臣民権が与えられる。ただし、旅団長になる者は一定年数が過ぎていなくても一等臣民に昇格する。
一定の兵役期間を過ぎると一等臣民権が授与される支援軍は(古代ローマの支援軍と同様に)多種族をガミラス人として統合する装置となり、ガミラス第二帝国が「純血ガミラス人の帝国」から「大小マゼラン諸種族の帝国」へと変貌する後押しとなっていった(この事はイスカンダルにとって、イスカンダルが「純血ガミラス人の上位に立つ至高の存在」から帝国の支配する数多の星の一つに過ぎなくなる事を意味していた)。
この支援軍とデスラーによる名誉ガミラス臣民・一等臣民への登用は、ガミラス第二帝国がもはや効力を失ったイスカンダル主義に代わり掲げるようになっていた「多種族の統合」という帝国の理念が、言葉だけではない実質を伴うものであるとして大小マゼラン諸種族に捉えられた。支援軍はガミラス軍が抱えていた深刻な兵員不足の問題を大きく改善し、ガトランティスとの戦争を開始する頃にはガミラス全軍のおよそ半数が、こうした支援軍で占められるようになっていたのだった。
支援軍の創設と拡大に並行し、デスラーは一等臣民で構成される正規軍師団(殆どが純血ガミラス人で占められていた)の増強を断行した。ガミラス帝星において「大動員令」を発し、大勢の市民をガミラス軍、特に航宙艦隊に徴集したのである。この徴兵は、対象をバレラスの存在する「デスラー公国」だけではなく他の公国にも大きく拡大して実施された。
その結果、少なくとも数字の上ではガミラス正規軍はヤマトのバレラス襲来以前の兵力水準を回復した(航宙艦隊の場合、数にして4万隻程)。これに支援軍を加えると、ガトランティス戦争直前のガミラス軍はヤマトのバレラス襲来以前に倍する戦力を造成し、さらにそれらを増強させる目処を立てていたのである(ガトランティス戦争直前のガミラス軍航宙艦隊はおよそ7万5千隻の戦闘艦艇を擁していた)。
この大幅に膨れ上がった戦力をどのようにして帝国の安定に寄与し、信頼できる存在にするのか。その事が、ガトランティスとの戦争を控えたガミラス第二帝国の最後の課題となっていたのだった。
(「ガミラス第二帝国の戦争準備 ガデル・タランとヴェルテ・タラン」につづく)

総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/山寺宏一 井上喜久子 菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】
【投稿】イスカンダルの王権とデスラーの人物像について 『宇宙戦艦ヤマト2199』ガミラス考察補論集1
そしてこのたび、先の論考を補完するとともに、いっそう掘り下げた補論集を公開できることは当ブログ管理人として望外の喜びだ。
ぜひとも本稿を御一読いただき、『宇宙戦艦ヤマト2199』の世界をより深く愉しんでいただきたい。
なお、T.Nさんの原稿はWordで書かれたきれいなものだが、掲載に当たってはブログの特性を考慮して、改行位置の変更やタグの設定等、少々体裁を調整している。
元原稿の意図を損なわないように注意を払ったが、もしも体裁の問題があればその責は当ブログ管理人にある。
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『宇宙戦艦ヤマト2199』 ガミラス考察補論集1
イスカンダルの王権とデスラーの人物像について
![宇宙戦艦ヤマト2199 1 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ivrRwl2fL._SL160_.jpg)
ナドレックさんのブログにガミラスの社会とデスラーについて考察した「ヤマト2199のデスラーはアレクサンドロスか?」という文章を掲載して頂いた所、読んで頂いた方々から有難くも様々なご指摘や質問を頂いた。また、コメントでのご意見やコメント欄におけるナドレックさんとの意見交換を通じ、筆者は次のようなトピックについて改めて考察する必要があるのではないかと考えるようになった。
その1:イスカンダルはデスラーなきガミラスを導くことができるか
ヤマト2199ではデスラーなきガミラスが希望を持てるような描写としてユリーシャがガミラスを導く、という結末が用意されたが、果たしてイスカンダルはガミラスの安定の役に立つのだろうか?
筆者は「当面の帝国の安定にイスカンダルが果たせる効果はとても小さいのではないか」と考えていたため考察文の本論ではイスカンダルについて特に言及しなかったのだが、ナドレックさんとの意見交換を通じ、やはりそれについてキチンと考察するべきではないかと考えるようになった。
イスカンダルがガミラス帝国の統治に貢献できるかどうかを考えるには、次のようなことを考える必要があるだろう。まず、ガミラスにとってイスカンダルは社会的にどのような存在なのだろうか。そして純血ガミラス人だけではなく大小マゼラン世界においてイスカンダルはどのような立ち位置であるのか。それぞれについて地球の事例に照らして考えてみる必要がある。
その2:「第2バレラスをイスカンダルに降りたたせる意味」とは何か
考察文の本論は「なぜデスラーはバレラスを破壊しようとしたのか」についてガミラスの国政と絡めて考えてみたものだったが、読んで頂いたヤマトクルーの方達から「では第2バレラスをイスカンダルに降りたたせる意味とは何か」というご指摘を頂いた。考察文の通りバレラスの破壊が「デスラーの理想実現のための行為」とするなら、ガミラスとイスカンダルの大統合は「デスラーの理想」とどのような関係を持ってくるのか。大統合とはガミラス帝国にとってどのような意味を持ち、デスラーは何故それを行おうとしたのだろうか?
その3:デスラーの人物像について
ヤマトクルーのある方から次のような質問を頂いた。
「デスラーは統合政策の申し子であったはずのセレステラを何故見捨ててバレラスを脱出したのか。また、彼女を見捨てておきながら25話で誤って撃った時、何故動揺していたのか」
このセレステラの事例を初めとして劇中でデスラーは度々矛盾した言動を行っている。中でも最大のものは、イスカンダルに関するものだ。23話でスターシャに「君の為にやっているのだ」といいながら何故彼女の実の妹が乗っているのを知りながらヤマトを撃破しようとしたのか。さらに、スターシャが望んでいないのを知りながら何故星々の征服や戦争を延々行い続けてきたのか。デスラーとはどのような人物であるのか、為政者としてではなく一人の人間としての側面から考えてみる必要があるだろう。
その4:デスラーとスターシャの愛憎劇と続編への思考実験
デスラーとスターシャは、ヤマト2199の物語世界において正に中心に位置する人物であったが、物語の終盤において二人は実は周囲には容易に窺い知れない程の複雑な関係である事が示唆された。二人の関係とはどのようなものだったのだろうか?ガミラスとイスカンダルの大統合とは、人間としての二人にとってどのような意味を持つ行いであったのか。
物語の中心に位置する存在だった二人は、仮に続編が製作される場合間違いなく再び物語世界の中心として登場し、二人の関係は物語を結末へ導く伏線となることだろう。ここでは一つの思考実験として、デスラーが25話で死なずにガミラスに復権した場合の物語の想像をしてみたい。内容としては考察文の本論で途中まで書いた「デスラーズ・ウォー」の後の話で、ガミラスとガトランティスの戦争を物語の縦糸に、デスラーとスターシャの愛憎劇を物語の横糸にした叙述を試みる(個人的にはデスラー総統はズォーダー大帝の用心棒になるよりはガミラスに復権して大帝と銀河の覇権を賭けて争う方が話が派手になって面白いと思っているのと、因循姑息なサーベラーではなくカッコいいサーベラーが見たいと思っているので特にこの2つに力を入れて叙述していこうと思う)。
この文章では、上に上げた4つのトピックについて、それぞれ以下のような項目に分けて考察と叙述を行っていこうと思う。なお、ここで示された見解はあくまで筆者個人のものである事をお断りしておく。そしてこれから叙述していく内容は、ナドレックさんやヤマトクルーの皆様を初めとする多くの方々の意見やご指摘なしには決して作りえないものであった。この場を借りてお礼申し上げます。
1.大小マゼラン世界におけるイスカンダルの王権 ――イスカンダルはガミラス帝国を導けるか――
1-1.ガミラスにおけるイスカンダル崇拝と古代の両者の関係
1-2.大小マゼラン世界におけるイスカンダル信仰
1-3.イスカンダルはデスラーなきガミラスを導くことができるか
2.ガミラスとイスカンダルの大統合――「第2バレラスをイスカンダルに降りたたせる意味」とは何か――
2-1.ガミラス帝国のイデオロギー
2-2.「ガミラスとイスカンダルの大統合」の意味すること
2-3.大統合実現の条件――どのように大統合は為されようとしていたのか?
3.デスラーの人物像――為政者として、あるいは人間として――
3-1.デスラーの矛盾について
3-2.デスラーの苦悩:スターシャとの関係
3-3.デスラーの苦悩:セレステラとデスラー
4.デスラーとスターシャのその後――二人の愛憎劇――
4-1.デスラー復権後のガミラスとイスカンダル
4-2.思考実験としてのヤマト続編の想像
続編小説 ~ガトランティス戦争編~
5.終わりに――スターシャとデスラーの二人について――
【1.大小マゼラン世界におけるイスカンダルの王権
――イスカンダルはガミラス帝国を導けるか――】
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ヤマト2199ではガミラスとイスカンダルの描写が様々な面で深められているが、その中でも特に筆者が印象的に感じたのがガミラスがイスカンダルを崇拝の対象としている事だった。ヤマト2199のラストでは、ガミラスから崇拝されるイスカンダル人のユリーシャ・イスカンダルがデスラーなきガミラスを導くことを決意していたが、それによってガミラスは安泰となるのだろうか?この事について考察するにはまず最初に、ガミラスのイスカンダル崇拝や信仰について考えてみる必要があるだろう。そもそも、ガミラスは何故イスカンダルを崇拝するようになったのだろうか?
太古のガミラスがイスカンダルを崇拝するようになった理由について、筆者は物語を見ていた当初、次のように考えていた。(私のように考えていた人も多いかもしれない?)
「ガミラスはイスカンダルが宇宙に覇を唱えたころからその覇業に敬意を覚え、忠実な僕として仕え続け、帝国が滅んだ後も崇拝し続けてきた。」
武を以って宇宙に覇を唱えようとしているガミラスなら、かつて同じく武を以って宇宙に覇を唱えたイスカンダルを尊敬の目で見ていてもおかしくないのではないかと思えたのだが、そのうちこれには一つ難点があると考えるようになった。以下のような疑問が出てくるのだ。
「ガミラスがイスカンダルの覇業を見てきたのなら、同時に滅びる姿も目の当たりにしたはず。スターシャが武力や波動砲を禁忌としているのを見る限り、武と波動砲で覇を唱えたイスカンダルの帝国は同じく武と波動砲により相当悲惨な滅び方をしたと想像できるが、そんな姿を見ても崇拝の念は失われないものだろうか…?」
もしガミラスが古代イスカンダルの覇業からイスカンダルに畏敬の念を抱くようになったのではないとすると、何がイスカンダル崇拝の理由になったのだろうか?
この事について考えるヒントとなるものがある。デスラー及びイスカンダルの玉座の間に飾られている巨大な壁画だ。この巨大な壁画は公式設定資料集〔GARMILAS〕P.209の説明文では「古代イスカンダルとガミラスとの関係を描いた巨大壁画」とあるが、この壁画を見るといくつかの特徴があるのに気づく。
まず、壁画の絵の上段に女神イスカンダル、下段に武神ガミラスが描かれていて、絵の構図から明らかに女神イスカンダルがガミラスより上位に描かれている。しかしこの女神イスカンダルにはギリシアの女神アテナの武具や、仏像の十二神将の鎧のように武を象徴する意匠が全くない。
また、この壁画は女神イスカンダルが光と共に降臨し、武神ガミラスとその眷族達に光をもたらすと解釈できる構図になっている。これらの特徴から、古代以来のイスカンダルとガミラスの関係は次のようなものだったと想像する事ができるだろう。
- もしガミラスがイスカンダルの覇業を見て畏敬の念を抱くようになったのなら、女神イスカンダルに武を象徴する何らかの意匠が施されていそうなものだが、それらが全くないところを見ると古代ガミラスはイスカンダルを「武を持つ存在」とみなしていなかった可能性がある。彼らはイスカンダルの「武」以外の要素から畏敬の念を抱くようになったのではないかと思われる。
- 女神イスカンダルの光の意匠は文明の光を表していると解釈できることから、古代イスカンダルは武によってではなく文明をもたらすことで古代ガミラス人の尊敬を獲得したと想像できる。
では、ガミラス人はイスカンダルの帝国とその滅亡についてどのように考えていたのだろうか?彼らはイスカンダル帝国滅亡後も何故イスカンダルへの崇拝の念を失わなかったのだろうか?これは筆者個人の想像になるのだが、ひょっとすると彼らはイスカンダルの帝国も、その滅びる姿も見ていなかったのかもしれない。再び壁画の意匠に戻って考えてみよう。何故古代ガミラス人はイスカンダル人を、宇宙に覇を唱えた歴史を持っていたにも関わらず「武を持つ存在」と見做さなかったのだろうか?何故壁画のイスカンダルに武の意匠を施さなかったのだろうか?それは彼ら古代ガミラス人が古代イスカンダル帝国の事を知らなかったからだと考えられないだろうか。
この事について考える上でデスラーが興味深い発言をしている。22話の演説のシーンにおいて、彼はガミラスとイスカンダルについて「太古の昔に分かれた2つの民族」と言及しているのだ。「太古の昔」に生まれたのなら、自らの片割れのイスカンダルの武威を目の当たりにして彼らに「武」を見出しそうなものだが、壁画にはそのような意匠は全くない。この発言から、ガミラス人が生まれたのが「太古」の中でも比較的遅い時代、イスカンダル帝国が滅んだ後の時代だったのではないかと考えることができる。また、16話のビーメラのエピソードで明らかになったように、ガミラス人は少なくとも400年以上前からワープゲートの管理等の労役をイスカンダルの為に行っていたようだ。この事から、次のような仮説を導き出すことができるのではないだろうか。
「ガミラス人は古代イスカンダルの帝国が国民共々滅亡した後の時代に、人員不足を補う目的でイスカンダル人により創造された種族なのではないか?」
この仮説がもし正しいとすると、イスカンダルがガミラスから崇拝され、さらにその崇拝が失われなかった理由について次のように考える事ができるだろう。
「イスカンダル帝国滅亡後に創造されたガミラス人はイスカンダルの武の時代を書物でしか知らず、その帝国が凄惨な滅び方をする姿を見ることなくイスカンダルからずっと文明を与えられ続けたために、イスカンダルへの崇拝の念を失うことなく保ち続けた」
このように考えれば、ガミラスとイスカンダルの関係に一つの解釈を加えることができる。ガミラスとイスカンダルは古来より深い相互依存の関係にあったという事だ。帝国滅亡後のイスカンダルは国民が死に尽くしてしまったことによる人員不足の問題に悩んでいて、未だに確保していたワープゲートの管理等の労役を自ら創造したガミラス人に依存し、ガミラス人は労役の為に必要な知識、ひいては文明そのものをイスカンダルから学び続けるという関係であったと思われる。そうした中からガミラスはイスカンダルに対する深い崇拝の念を歴史的に培ってきたのではないだろうか。
・・以上、ガミラスのイスカンダル崇拝の源流について想像を交えながら考えてきた。
両者には歴史的に非常に強い繋がりがあり、それ故に両者は互いに大きな政治的影響を及ぼしあう関係を続けてきたと言えるだろう。
では、ガミラス以外の大小マゼラン諸種族の間ではイスカンダルはどのような立ち位置であったのだろうか?次はその事について考えてみよう。
![宇宙戦艦ヤマト2199 3 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51p97s0BHpL._SL160_.jpg)
ヤマト2199では、ガミラスがイスカンダルを崇拝している事が明確に描写されていたが、ガミラス以外の大小マゼランの諸種族の場合はどうだったのだろうか?
ヤマト2199のイスカンダルはかつて大帝国を築き、その後武力をすっかり放棄したという点で旧作ヤマトシリーズのシャルバートを彷彿とさせる姿となっており、シャルバート同様に様々な種族の間で信仰の対象になっているのかもしれない、と思わせる描写が作中にいくつか出てくる。例えば17話においてビーメラ人が波動コアを神殿に祭っていた事例。この事はガミラス人以外にもイスカンダルを崇めている種族がいる可能性を示唆している。そして、同じく17話におけるスターシャの「あまねく星々、その知的生命体の救済。それがイスカンダルの進む道」というメッセージ。このイスカンダルの宗教的ともいえるメッセージは、大マゼラン銀河の星々に全宇宙のあまねく星々の救済を使命とするイスカンダルを慕い、信仰する人々がいるのではないかという想像を視聴者が行う事を可能にしている。
では、実際のところ大小マゼラン世界におけるイスカンダルに対するイメージや、信仰の状況はどのようなものなのだろうか?
劇中での大小マゼラン諸種族のイスカンダル人に対する対する態度は以下のようなものだ。
・純血ガミラス人は21話、22話の描写から明らかにイスカンダル人に敬意を抱いている。22話のデスラーの演説やそれに対する群集の反応を見ても、「イスカンダルは尊く、崇めるのは当然」という共通認識が純血ガミラス人の間にはある。
・ザルツ人は20話の第442特務小隊の会話を見る限り、「イスカンダルは尊い」と言う考えをただ知識としてしか知らないと思われる。小隊の会話を列記すると以下のようになる。
「(ユリーシャ姫のホログラムを囲んで)この顔をしっかり頭に叩き込め」
「きれいな人ですね」
「高貴な方だからな」
会話から明らかなように、隊員達は純血ガミラス人とは違ってユリーシャ姫の顔を知らない。ヤマト艦内でユリーシャ姫(実は森雪)を見つけたときも「ユリーシャ様」ではなく「イスカンダル!」と呼び捨てにしている。この事から、隊員達は「イスカンダルは尊い」という考えをただ知識として知っているだけで、イスカンダル人に心からの敬意を抱いているわけではないと思われる。一方、ヒルデ・シュルツは22話でユリーシャ姫(と間違えられた森雪)に十分敬意を払っている。彼女や第442特務小隊の事例から言えるのは、ザルツ人には純血ガミラス人のような「イスカンダルは尊く、崇めるのは当然」という共通認識はなく、イスカンダル人に対する態度は人や状況によりかなり違うと考えられる。
・ビーメラ人は17話で波動コアを祭る神殿を築いている事から、(黄金の船に乗って空からやってきた)イスカンダル人を神として崇めたと考えられる。
・ジレル人のセレステラとミレーネルは14話、22話の描写から誰がどう見てもイスカンダル人に敬意のカケラも抱いていない。
劇中の描写から言えるのは、「大小マゼラン世界におけるイスカンダルに対するイメージや、信仰の度合いや状況はそれこそ千差万別であり、1つの共通した価値観が大小マゼラン全土を覆っているわけではない」と言う事だろう。ヤマト2199のイスカンダルは旧作ヤマトのシャルバートと設定が重ねあわされていて、シャルバートのようなイスカンダル信仰とでも呼ぶべきものが大小マゼラン世界に存在する事は劇中の描写(特に純血ガミラス人の描写)からも窺える。しかしそれは1つの共通した価値観として諸種族の間で共有されているわけではなく、信仰の度合いやイスカンダルに対するイメージも種族や時代により大きく異なったと考えられる。
こういったイスカンダルの事情は私達の現実の世界でもあり得る事だ。例えばローマ帝国の場合では、ローマ帝国が滅亡した後、ローマの栄光を唱えてその継承者であろうとした地域もあれば完全にローマの事を忘れ去ってしまった地域もあり、さらにはローマの伝統と完全に決別してしまった地域(イスラム化した北アフリカ等)もある。ローマのイメージ自体も新約聖書の時代の「悪の帝国」から18世紀のイギリスの学者エドワード・ギボンの「人類史上最も幸福な時代(パクス・ロマーナ)」観まで随分異なり、また変遷を繰り返している。ローマについての1つの共通した認識が広い地域で共有されているわけでは決してない。ローマについての1つの共通の見方が広い地域に定着するとしたら、それは広い地域を統べる統一権力が成立し、「ローマの栄光」を諸地域統合の大義名分として大々的に宣伝した時だけだろう(ローマ帝国のあった辺りに存在しているEUがそれをやるかどうか定かではないが)。
大小マゼラン世界のイスカンダルの信仰やイメージもローマのようなものだったと考えられる。太古の昔に存在したイスカンダルの帝国は波動砲で「さあ、殲滅のメロディーを!!」とやっていたようなのでその恐怖の記憶がヤマトの時代まで語り継がれている種族もあるだろうし(地球で言えば旧約聖書により後々の時代まで「恐怖の帝国」のイメージで語られたアッシリア帝国のようなもの)、純血ガミラス人のように古来から崇拝の念を抱き続けた種族もあるだろう。イスカンダルについて書物で得た知識しかなく、その過去の覇業から何となく好印象を抱いているだけの種族も多いだろう。その一方で実際にイスカンダルの救済を体験し、畏敬の念を抱くようになった種族もいると思われる。大小マゼラン世界は劇中の描写からも、非常に多様で多元的な世界だと筆者には思えるのだが、どうだろうか?
・・以上、大小マゼラン世界におけるイスカンダルの地位について考えてきた。
大小マゼランにおいて、少なくともイスカンダルはそのイメージに大きな差があれど半ば宗教的な存在として諸種族の間に存在してきたと言ってもいいだろう。イスカンダル人達は太古に帝国が滅んで以降、諸種族の救済を旨とする正に宗教的な行いを続けてきたからだ。イスカンダルは帝国としての権力を失っても、宗教的な権威として純血ガミラス人の崇拝を受けてきたし、彼ら以外にもイスカンダルを「宇宙を救済する存在」として信仰する種族がいるのではないかと筆者には思える。
しかし、ここで一つの疑問が出てくる。(作中で示されるように)危機に瀕した種族に試練を与えて救済するというイスカンダルの行為は宗教的な装いを持つと同時に極めて政治的な行為でもある。宗教的な存在であるイスカンダルは政治権力とどのような関わりを持っている、あるいは持ってきたのだろうか?地球の歴史でも数多く示されるように、古来より宗教と政治は密接な関係を持ってきた。ある国では権力者が神そのものとなっていたし、またある国では時の権力者に支配の正統性を与える装置として宗教が機能していた。イスカンダルにもそういった事はなかったのだろうか?より具体的には、イスカンダルは時の権力者に「支配の正統性を与える存在」として利用されたりはしなかったのだろうか?
実はこの事を考える上で鍵となる人物がいる。デスラー総統だ。彼はパンフレットの記述から判断する限り、宗教的な存在としてのイスカンダルの権威を政権の正統性を得るのに利用し、さらにはその延長線上にある政治プログラムとして(ガミラスとイスカンダルの)大統合を行おうとしていたと考えられるのだが、この事については章を改めて言及する。
次の節ではいよいよ「イスカンダルはデスラーなきガミラスを導くことができるか」という命題について、主に「政治と(宗教的)権威の関係」に焦点を当てて考えてみよう。
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25話の冒頭において、デスラーのいない新政権がどのようなものになるのかを示す描写が出てきた。ディッツが出迎えを受ける場面だ。ディッツの艦内にユリーシャが現れたことから、この政権はヒスとディッツを首班とし、ユリーシャが政権の象徴的権威として後押しする体制になると考えられる。果たしてこの政権はうまくいくだろうか?無論この問いかけは(続編が作られる場合)製作者の胸先三寸でいくらでも答えが変わる事柄であるので、これから述べることはあくまでも筆者個人の考えである事はお断りしておきたい。
話を元に戻すと、 天皇の権威を背景に天下へ号令をかけた秀吉に対して北条氏が従わなかったように、イスカンダルの権威を背景にしてもガミラス帝星やその他の惑星で反乱を起こす者は出てくるのではないかと筆者には思われる。これについては現実世界の私達の実生活に置き換えて考えてみるといいかもしれない。私達は天皇やローマ法王を敬い崇拝しているが、それはあくまでも私達個人の財産や生活に干渉してこない範囲での話だ。もし彼らが私達の生命や財産等の利害に関する事柄について『あれをしろ、これをしろ』と命令してきたなら、私達は断固拒否し、抵抗するだろう。一方、私達は政府の「税金を払え」「法律に従え」という命令にはしぶしぶ従う(少なくとも大喜びで従う人は少ないだろう)。これは私達が国家の権威を認めていることに加え、従わなければ警察等の「武力による制裁」を受ける事を知っているからに他ならない。
片や命令を拒否し、片や命令に(しぶしぶ)従う。天皇・ローマ教皇と政府の違いは何だろうか?それは天皇・ローマ教皇が権威のみの存在であるのに対し、政府は権威に加え武力と、それを行使する意思を持っている事だ。そのように考えると、ただイスカンダルの権威を背景にするだけではガミラス帝星やその他の惑星の反乱を未然に防ぐことは難しいのではないかと思われる。
ガミラス帝星の場合、仮にユリーシャ姫の名で勅命が出されても、反乱を企てる人々は「我々の問題に口を出すな!」と思うだろう。デスラー叔父やデスラー本人に滅ぼされた公国の人間には「失った地位と財産を取り戻す」という悲願があり、それに同調する人々にも「征服された事で課せられた軍役や労役、税から逃れたい」という悲願があるからだ。ユリーシャ姫の名前を出しただけで彼らが自らの悲願を捨て去るとは考えにくい。きれいごとで片付く問題ではなく、反乱は必ず起きると考えられる。帝国を維持するには彼らの悲願を武力で容赦なく叩き潰し、もう絶対に叶わない願いだと諦めさせる非情さがヒスとディッツに必要だろう。当面の間帝都の平安を維持できるかどうかは、権威を背景にするかどうかに関係なく結局は武力を行使する意思の問題に帰結するのではないだろうか。
そして、二等ガミラス臣民として押さえつけられている諸種族の場合、征服され、移民が来ることで土地と財産を奪われ、差別も侮蔑も受けている二等臣民達はユリーシャ姫の名で勅命が出されても反乱を起こし続けるだろう。彼らが欲しているのは権威を背景にした命令ではなく、純血ガミラス人に奪われた土地と財産の奪回と待遇の改善であると思われるからだ。帝国を維持するには純血ガミラス人の反対を武力で押さえつけてでも有用で有能な二等臣民を登用し、役職と地位と財産を与えて仲間に取り込み、「(二等臣民同士を)分断せよ、しかして統治せよ」というローマがやったのと全く同じ原則を貫くという見識と狡猾さがヒスとディッツに必要だろう。
ヤマト2199の作品世界は仔細に分析すると、私達の世界にあるのと全く同じ、きれいごとで済まない生々しい現実が描かれているのに気づかされる。ヒスとディッツの政権が(必ず起こると思われる)当面の混乱を克服できるかどうかは、いかなる反抗も武力で鎮圧する事を厭わない非情さと、必要な施策を見抜いて断固行う見識及び狡猾さという政治家に必要な資質を2人が持っているかどうかにかかっているのではないだろうか?(筆者がデスラーズ・ウォーのような小話を考察文の本論に加えたのは、ヒスやディッツはこういったことをやるには2人とも人間として善良すぎるのではないか…と考えていたからでもある。)
とはいえ、ユリーシャ姫が反乱の勃発を防ぐ役に立たないとしても、彼女は本当に新政権の安定の役に立たないのだろうか?権威と権力の関係について古今東西の王朝や政権が誕生し確立される過程を見てみると、大体次のようなことが言えると思われる。
・ 権威を後ろ盾にするなり自ら権威となるなりしても、それだけで政権が確立するわけではない
・ 政権が確立されるまでに必ず武力が行使されて反対勢力と利害対立が清算される
・ 権威は大抵の場合、抜き差しならない利害対立を武力で清算した後の政権を安定させる段階で、政権の存在と支配、武力行使と政策を正当化するのに使われる
例えば日本の戦国時代の場合、豊臣や徳川は権威を後ろ盾にした後も、政権が確立するには敵対勢力を武力で一掃していかなければならなかったし、中国の諸王朝も王朝樹立者が天子になった後もほとんどの場合統一が完成するまで戦い続けなければならなかった。また、政権確立に成功した彼らとは逆にアレクサンドロスの帝国の場合、アレクサンドロスの死後その遺児を擁し政権を襲った摂政ペルディッカスは後継者戦争の勃発を抑えることができなかった。これらの事例を見る限り、政権を確立する段階では権威よりも武力の裏づけの方が重要なのではないかと思われる。
しかし、武力だけではせっかく確立した政権を維持し続けることは難しい(少しでも弱みを見せればたちまち反抗するものが出てくる)。そこで、究極的には武力で従えている人々を納得させ、自らの支配を正当化するために権威というものが必要となるのではないだろうか。例えば再び豊臣や徳川が権威を後ろ盾にしようとした事を思い返してみよう。彼らは天下を武力で従えた後、「全ての私戦をやめよ」という布告(惣無事令)を初めとする自らの全ての行いを「天皇に全てを任された」という名目で正当化していた。武力だけでは支配が永続しないからこそ、彼らは自らの行いを正当化してくれる権威を必要としていたのではないだろうか。
そのように考えれば、ユリーシャ姫は内乱が平定された後で初めて、政権の安定に貢献できるのではないかと思われる。ユリーシャ姫が「ガミラスを導く」事ができるのは内乱が平定されてからの話となるだろう。ただし、この事はユリーシャ姫の幸せにはならないかもしれない。権威が政権の安定に利用される道具となってしまっているからだ。仮にヒス・ディッツ政権が生き残った場合、内乱平定後、ユリーシャ姫はヒス・ディッツ政権によって、「神々に列せられるユリーシャ様に認められた我々に逆らう事は、神たるユリーシャ様に反逆するに等しい行為である」「我々の意思は、ユリーシャ様の御意思である」と言う具合に、政権の行いを正当化し天下に号令するための道具になってしまうのではないかと筆者には思われる。スルタン達に利用されたアッバース朝のカリフや、将軍に利用された天皇のように…。
・・以上、デスラーなきガミラスの安泰にイスカンダルが貢献できるか考えてきた。
(結局は製作者の意向で決まるとはいえ)15話での閣議でヴェルテ・タランが言及したようにヤマト出現の噂が流れただけで各惑星管区で蜂起が相次いだり、第3章パンフレットで記述されているようにガミラス帝星を統一したデスラーの叔父の死後内乱が勃発したりしている事を考えると、ユリーシャ姫の後ろ盾があったとしてもおそらくヒス・ディッツ政権が内乱に陥ることは避けられないだろう。
考察文の本論でも述べたが、ヤマト2199のガミラスは征服したガミラス帝星の公国や他の惑星の反乱をデスラーや親衛隊がかろうじて押さえつけている状態であり、彼らがいなくなればユリーシャ姫がいようといまいとたちまち好機到来とばかりに反乱が相次ぐと考えられる。反乱を起こす側には独立の希求や奪われた地位や財産の回復といったそれ相応の理由があり、それらは権威を背景にした命令だけでどうにかなる問題ではないからだ。
地球の歴史的な事例を考えても、こういった抜き差しならない利害対立は武力で清算されてしまうのが常であり、権威はその行為の正当化と内乱平定後の政権の正統化に使われ、また必要とされてきた。ガミラスも(ガミラス人が地球人とメンタリティが決定的に異なるというのでない限り)地球の事例と同様に、ユリーシャ姫の権威は反乱の勃発を防ぐ役には立たず、彼女の権威が帝国の安定に寄与するのは内乱が平定された後の事になるだろう。それさえも「固有の武力のないイスカンダルやユリーシャ姫が政権の行いを正当化するための道具となる」という形となり、ユリーシャ姫にとってははなはだ不本意な事になるのではないかと思われる。(個人的にはそうなる前にガトランティスが内乱中のガミラスに侵攻し、皆揃ってズォーダー大帝に引導を渡されてしまいそうな気がするが…。)
この節ではヒス・ディッツ政権へのイスカンダルの寄与と貢献を考えるにあたり、「権威が権力に利用される可能性」について言及してきた。ヤマト2199後の世界において、ヒス・ディッツ政権がイスカンダルの権威を政権安定の道具に使う可能性は高いと思われるが、ではデスラーの場合はどうだったのだろうか?デスラーとイスカンダルの権威はどのような関係を持ってきたのだろうか?次の章ではその事について考えてみたい。
【2.ガミラスとイスカンダルの大統合
――「第2バレラスをイスカンダルに降りたたせる意味」とは何か――】
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前章ではガミラスとイスカンダルの関係について考察してきたが、ではデスラーとイスカンダルはどのような関係を持ってきたのだろうか?彼は第3章パンフレットの記述から判断する限り、宗教的な存在としてのイスカンダルの権威を政権の正統性を得るのに利用し、さらにはその延長線上にある政治プログラムとして(ガミラスとイスカンダルの)大統合を行おうとしていたと考えられるのだが、まずは順を追って大小マゼランが統一されガミラス帝国が形成されていく過程でデスラーがどのように政権の正統性(正当性)を獲得していったのかについて考えてみよう。
ヤマト2199における大小マゼラン世界は、劇中のオルタリアの描写や古来よりワープゲートが存在している事実からも明らかなように、高度な文明を持つ種族が多数存在する開けた世界となっている。しかし一方で大小マゼランは、セレステラが25話で以下のように述懐しているように、恒星間航行技術を持つ高度な文明同士が争い滅ぼし合う事もある荒々しい一面を持つ世界でもある。
「私達ジレルの民は人の心を読む力を持っていた。それゆえ、周りの星々から疎まれ、恐れられ、滅ぼされた」
こういった世界を武力で平定し、さらには支配を正当化するためにはそれ相応の大義名分と「国家としての理念」が必要になるが、デスラーはどのような理念(イデオロギーと言い換えられる)を掲げたのだろうか?
ガミラス帝星の内乱を収拾し、即位式ないしは(デスラー公国の民による)モンゴルのクリルタイのような儀式で永世総統に就任したと思われるデスラーはこうした大小マゼラン世界を平定する大義名分として、「デスラー・ドクトリン」と呼ばれるものを掲げている。第3章パンフレットでは、デスラードクトリンについて次のように記述されている。
――ガミラス大公国は解体され<大ガミラス帝星>となり、デスラーは永世総統の地位に収まった。彼は「宇宙恒久の平和を達成させる為にはイスカンダル主義の拡大浸透が必要であり、その為には他星へ進攻し武力をもって併合するのが神の意思でありガミラス民族の使命である」と説く、<デスラー・ドクトリン>を宣言。周辺惑星国家への進攻を開始したのである。
このデスラードクトリンこそが、初期のガミラス帝国の理念であり、イデオロギーであったと考えられる。デスラードクトリンに出てくる「イスカンダル主義」とは何で、その「拡大浸透」とはどういう意味か?それぞれ次のように解釈する事ができる。
- イスカンダル主義 : あまねく星々の知的生命体の救済を行ってきたイスカンダルを宇宙を救済に導く尊い存在として崇め、奉じようとする考え方
- イスカンダル主義の『拡大』『浸透』 : イスカンダルが尊い存在である事を広く知らしめ、より多くの人間に認めさせる事。基本的に宗教の布教と同じ所業。
この解釈を基にすると、デスラードクトリンは次のように言い換えることができる。
「大小マゼランで時おり起こる争いを収め、宇宙恒久の平和を達成させるためにはイスカンダルが宇宙を救済に導く尊い存在である事を皆に知らしめ、その威光に従わせる必要がある。その為には星々を武力で従え併合するのが何よりの近道だ。イスカンダルの偉大さと尊さを広め、その悲願である宇宙恒久の平和を実現する事こそ、我々長きにわたりイスカンダルを崇め奉じてきたガミラス民族の使命なのだ。」
デスラードクトリンがこのような考え方であれば、デスラー政権の必要性を多くの純血ガミラス人達に納得させ、戦争に協力させる事ができるだろう。デスラードクトリンで示された「ガミラスの使命」は長年イスカンダルを崇め奉じてきたガミラス人の心に非常に訴えかけるものであったと思われる。しかもこの理念には、「征服により新たな土地と財産を獲得する」という実益が伴っている。多くのガミラス人がその実益にあずかろうとデスラーの政策に協力したのではないだろうか。
このように、デスラードクトリンに注目してみると、初期のガミラス帝国の征服活動がイスカンダルに対する共通の価値観を広める事(”布教”と呼び変えてもいい)と密接に結びついていた事が窺える(※こういった観点から、ガミラス帝国を征服と布教がしばしばセットになっていたヨーロッパ植民地帝国やイスラム帝国と対比させて考えることもできるだろう)。
イスカンダル信仰が存在していても信仰の程度もイスカンダルに対するイメージもまちまちだった大小マゼラン世界に、共通したイスカンダル信仰を根付かせようとするのはスターシャを愛していたデスラーにとってはごく自然な行動だっただろう。ただし、彼が特異なのはその行動を政権の正統性を獲得するための政治プログラムに巧みに結びつけた点にある。征服と布教を続ける事で彼は純血ガミラス人の崇めるイスカンダルの理想実現の使徒となり、擁護者になるのだから…。
こうして、イスカンダルを政権正当化のイデオロギーに巧みに取り込み純血ガミラス人の支持を取り付ける事で、デスラーは大小マゼラン世界を統一していった。しかし統一が達成され、ガミラス帝国が多種族の帝国になると、その当然の結果として帝国は従来のデスラードクトリンに代わる多種族支配を正当化できる新たな理念を掲げる必要が出てくる。なぜならデスラードクトリンは純血ガミラス人にしか訴えかける力がないからだ。
同化政策や二等臣民の登用(※詳しくは考察文本論の「3.名誉ガミラス臣民の謎――デスラーの構想していた国家モデル」を参照の事)といった一連の政策から考えて、デスラーは「多種族の統合」を新たな理念の柱にしようとしたと考えられるが、人種主義の極めて強い純血ガミラス人にはこの理念がすんなりとは受け入れられない事は(同化政策にゼーリックが反発して反乱を起こした事から考えて)デスラーも認識していただろう。そこで純血ガミラス人と二等臣民の両方に「帝国支配のための新たな理念」を認めさせる妙案として、「イスカンダルとガミラスの大統合」が考えられたのではないだろうか。つまり、デスラーは純血ガミラス人の崇拝を受けるイスカンダルと国を統合することで、純血ガミラス人と二等臣民の双方に「多種族の統合」という理念を示そうとしたのではないかと考えられる。
では、この「ガミラスとイスカンダルとの大統合」はデスラー、純血ガミラス人、二等臣民のそれぞれにとってどのような意味を持つ政治的行事となったのだろうか?次は大統合の持つ意味についてより詳しくみてみよう。
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22話のデスラーの演説の場面において、純血ガミラス人の大衆はデスラーの提示した大統合の政策を歓呼の声を挙げ支持していた。なぜ彼らはガミラスとイスカンダルの大統合を支持したのだろうか?また、大統合は永世総統としてのデスラー本人にとってどのような意味を持つ政策だったのだろうか?純血ガミラス人、デスラー、そして二等臣民にとっての大統合の持つ意味について、それぞれ順を追って考えてみよう。
まず純血ガミラス人についてだが、端的に言って純血ガミラス人にとって大統合とは「ガミラスとイスカンダルの二つの民族が一つになる」事により、自分達が「神の一族」たるイスカンダル人と同等の存在になることを意味していたと考えられる。だからこそ彼らはデスラーの提示した大統合の政策にざわめき、歓呼の声を挙げて支持したのではないだろうか。
次にデスラーについてだが、ガミラス帝国とイスカンダル王国という王を戴く2つの国が統合される事を考えると、ガミラスとイスカンダルの大統合には「デスラーとスターシャの政略結婚により2つの国の王統が統合される」事も含まれていたのではないかと思われる。それによってデスラーは、純血ガミラス人の歴史的崇拝対象だった「神の一族」イスカンダル人に列せられる存在となる事ができる。しかもそのイスカンダルの女王との結婚は、自らが「神の一族の最高位者」となる事をも意味する。つまり、デスラーにとっての大統合とは、純血ガミラス人の社会、ひいてはガミラスの帝国に対し自らが正に至尊の権威を獲得する行為であったと考えられる。
最後に二等臣民についてだが、大統合とはデスラーが至上の権威を獲得する行為であると同時に、デスラーが 多種族の統合を、他種族であるイスカンダル人との結婚によりその身を以って示す行事でもあったと考えられる。
つまり、大小マゼラン統一後の新たな帝国の理念である「大小マゼラン諸種族の統合と融和」が象徴的な形で二等臣民に対し示されるという事だ。これまでデスラーは(考察文本論の「3.名誉ガミラス臣民の謎――デスラーの構想していた国家モデル」で考察したように)二等臣民を名誉ガミラス臣民等に登用するなど諸種族の統合政策に意を用いていただけに、「多種族の統合を(結婚により)その身を以って示す」事は二等臣民達に対し政権の正統性を訴える上で大きな効果があったと思われる。
以上のように、ガミラスとイスカンダルの大統合は、帝国の支配者としてのデスラーの権威をより磐石にし、帝国の支配をあらためて純血ガミラス人・二等臣民のそれぞれに納得させる(正統化する)上で極めて重要な意味を持つ政治的行事であったと考えられる。23話での描写から、この大統合が実施された場合、以下のような手順で実行されたと思われる。
第一段階:大統合の潜在的反対者の粛清と、第二バレラスのイスカンダル降下による首都の統合
第二段階:政権の統合によりデスラーとスターシャが共同統治者となる。
第三段階:デスラーとスターシャの結婚により2つの国の王統が統合され国家統合が完成する。
23話でデスラーはデスラー砲でバレラスの民を粛清しようとしていたが、これには彼の「純血ガミラス人の枠組を超え、銀河を超えた共栄圏を築く」という理想の邪魔になりつつあったバレラスの純血ガミラス人を粛清する(※考察文本論「4.デスラー砲の謎――デスラーは本当に狂っていたのか?」を参照)と同時に、彼らの崇拝対象を言わば「手中に」することに反対する人間を一掃するという側面もあったのだ。
・・以上、ガミラスとイスカンダルの大統合の持つ意味について考えてきた。
大統合は政治の観点から見た場合、大小マゼラン統一を果たしたガミラス帝国が「純血ガミラス人のみの帝国」から「多種族が統治に参加する、真の意味での世界帝国」に脱皮する画期となるはずの政策だったと言えるだろう。この世界帝国の理念となるべき「大小マゼラン諸種族の統合と融和」を象徴的な形で示すのが、この「ガミラスとイスカンダルの大統合」という政治的行事だったのだ。では、この政治プログラムを実行する上で障害となるものには何があったのだろうか?次はその事について考えてみよう。
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ガミラスとイスカンダルの大統合はある意味で「国のあり方」そのものをも変えるほどの一大政治イベントであったと考えられるが、それほどの大きな事を行うのに政治的な障害はなかったのだろうか?大統合を実際に実行するには、以下のように二つの条件をクリアする必要があったと考えられる。
(1) 大統合の大義名分をどのように作り、純血ガミラス人を納得させるか
(2) イスカンダルの抵抗をどうするか
これらの条件を考えていくと、いくつかの疑問点が出てくる。
まず(1)についてだが、デスラーは23話において純血ガミラス人達に「ガミラス民族の悲願」という「大統合の利」を説いて純血ガミラス人達の賛同を得ている。そこには前の節で述べたように「ガミラスとイスカンダルの二つの民族が一つになる事により、純血ガミラス人が「神の一族」たるイスカンダル人と同等の存在になる」という利益があったわけだが、実際に大統合を実行するには、やはり万人を納得させるだけの大義名分が必要となる。デスラーは「ユリーシャ姫の同意」をその大義名分にしていたが、「ユリーシャ姫の同意」は大統合を万人に納得させる大義名分として問題はなかったのだろうか。
次に(2)についてだが、劇中で示されているように大統合はスターシャ女王の同意を全く得ることなく進められていた。スターシャ女王の同意がなくても問題なかったのだろうか?
これらの疑問についてそれぞれ次のように項目を分けて考えてみよう。
(その1)「ユリーシャの同意」が大統合と政略結婚を行う政治的根拠になるかどうか
(その2)スターシャにその気がなくても国家統合の形式を整えることができるか
(その1)「ユリーシャの同意」が大統合と政略結婚を行う政治的根拠になるかどうか
劇中では大統合と政略結婚を行う大義名分として「ユリーシャの同意」が用いられていたが、イスカンダルの第三皇女に過ぎないユリーシャの同意は、スターシャ女王の同意がなくても大統合と政略結婚を行うにあたり主に純血ガミラス人の大衆を納得させる政治的根拠となるのだろうか?
この問題については、劇中の描写を見る限り、純血ガミラス人達はユリーシャの同意で問題ないと考えているようだ。例えば以下のような描写が挙げられる。
・22話でユリーシャ姫が偽者だと告げるセレステラに対しデスラーが言ったセリフ
「それが何か問題なのかね?本物かどうかなど、どうでもいいことなのだよ。イスカンダルの第三皇女が、”大統合を承認”してくれた。そしてその事を国民が信じてくれさえすればね。」
ヒス
「なるほど、仰るとおりです。」
・22話のデスラーの演説
(群集のガミラス万歳、イスカンダル万歳、総統万歳の歓呼が続く)
劇中の描写では、デスラーと閣僚達は大統合(と政略結婚)を行う政治的根拠として「ユリーシャの同意」を用いていて、純血ガミラス人の一般大衆はそれを問題なく受け入れている。王の兄弟の政治的地位は歴史上、副王のような王の代理人的存在からただの家臣と変わらない存在まで大きな幅があるが、少なくとも一般の純血ガミラス人はイスカンダル女王の妹達を「姉妹としての上下関係があるだけで政治的にはほとんど同格の存在」であると考えていると思われる。もし一般の純血ガミラス人達が「女王の姉妹は家臣と変わらない低い地位」であると考えていればデスラー達はユリーシャの同意を大統合(と結婚)を行う根拠として用いる事ができないからだ。
実際のイスカンダル王国におけるイスカンダル女王とその姉妹の関係は
・劇中でユリーシャが「自分の役割はスターシャに報告することだけであり、結論を出すのはスターシャである」と強調している事
・24話でのコスモリバースシステムを渡すかどうかについてのスターシャとユリーシャの会話
から考えて王と家臣、社長と課長の関係に近いと思われる。しかし、純血ガミラス人の方はそのようには考えていない。何故なのか?これは想像するに、「イスカンダル人が姉妹3人しか残っていない」事と関係しているのではないだろうか。つまり、肉親である姉妹3人しかいない状況では、「私が女王」「あなたは家臣で権限はない」と言ってみたところでもはや意味を為さないと純血ガミラス人達は考えているのではないか。地位や身分がどのように発生するかという問題になるが、イスカンダルの状況は正にジョン・ボールの
「アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が貴族であったか」
というのと同じ状況だ。従って、純血ガミラス人の社会ではデスラーや閣僚のような指導者層から一般大衆に至るまで、
「『女王の姉妹は家臣と同じ』というイスカンダル本来の身分秩序は実体がなく、姉妹は政治的に平等・同等の存在である」
と観念されていると考えられる。これこそが「ユリーシャ姫の同意」がスターシャ女王の合意なしに大統合と政略結婚を行う政治的根拠としてデスラーに用いられた理由なのではないだろうか。
さらに言えば、大統合の正当化目的でユリーシャ姫が大統合の承認に至った事情をガミラス政府が公式に宣伝する事は十分にありえる事だ。その場合、次のような説明がなされるのではないだろうか。
「もはや数人を残すのみとなった高貴なるイスカンダル人の政治的命脈を保ち、王家の社稷を残すためにユリーシャ様はガミラス・イスカンダルの大統合とその象徴としての王家の統合を了承された」
こういった説明ならイスカンダルにとっても大統合と王家の統合(結婚)が必要であったと万人に納得させられるだろう。滅びに瀕したイスカンダル王家が結婚によりその王統と政治的命脈を保とうとすれば、それに釣り合う相手は大帝国の支配者たるデスラー以外にないからだ。
(その2)スターシャにその気がなくても国家統合の形式を整えることができるか
スターシャに大統合を行う気がなくても国家統合の形式を整えることが可能かどうかだが、これについては少し見方を変えて「一方的に大統合の形式作りと段取りを進めていくガミラスに対しイスカンダルは具体的な手段でこれを阻止できるか」という観点で考えてみよう。
結論を先に言ってしまうと状況はイスカンダルにとって絶望的で、スターシャに大統合の意思がなくてもイスカンダルはガミラスの大統合の形式作りと大統合の遂行を阻むことは困難だ。根拠としては以下のものが挙げられる。
- まず第一に、遷都用の都として第二バレラスの建設を行うガミラスに対し、イスカンダルはそれを阻止する武力がない。阻止できるかどうかはひとえにガミラス国内が大統合に反対するかどうかにかかっているが、イスカンダルには純血ガミラス人を説き伏せ、反対運動を行わせる具体的な手段が存在しない。
- 第二に、「ユリーシャ姫から大統合の承諾を得た」と発表し純血ガミラス人達を納得させてしまったガミラスに対し、イスカンダルには「ユリーシャの同意の理屈はおかしい」と純血ガミラス人に報せるための報道官も、広報組織も存在しない。そのためガミラスが「滅びに瀕したイスカンダルが政治的命脈を保つためにも大統合はイスカンダルにとっても必要で、イスカンダル人もその事に同意している」という言説を大々的に流布し皆が信じる状況を覆す事ができない。
- 第三に、純血ガミラス人にとってデスラーの示した大統合のビジョンは魅力的であるため、あえて反対しようとする純血ガミラス人が現れる事は期待できない。デスラーは22話の演説で「ガミラスとイスカンダルの二つの民族が一つになる」と述べているが、この事は純血ガミラス人にとって長年崇めてきたイスカンダル人と自分達が同等の存在になることを意味する。つまり、大統合はデスラー・純血ガミラス人・二等臣民にとって次のような意味付けを持つと考えられる。
「デスラーにとっては純血ガミラス人に対して自分がイスカンダル人のような神に等しい存在になる事を意味し、純血ガミラス人にとっては自分達がイスカンダル人と同等の存在になることを意味し、二等臣民にとっては異種族との融和が象徴的な形で示される事を意味する」
こういったビジョンにイスカンダル人以外が正面きって「それは間違っている」と論駁する事は難しいし、反対するメリットもないだろう。イスカンダルにとっては自分達に味方する者が自然に現れるとは期待できない状況になる。 - 第四に、「スターシャの大統合への不同意」を口実にデスラーに反旗を翻しかねない勢力は既にほとんど一掃されている事。その可能性がある者達もデスラー砲で粛清される予定だったと思われる。
- 第五に、23話で実際に行おうとしたように第二バレラスがイスカンダルに降下し、続いてガミラス人達が国家統合の式典等の準備を進めていくとイスカンダルには為すすべがない事。スターシャはユリーシャ姫(と間違えられた森雪)と同様に籠の中の鳥になってしまうだろう。
以上の事から、ガミラスはスターシャに大統合の意思がなくても大統合の形式を整えてしまう事ができる。実際、劇中の描写においても、ガミラスは第二バレラスを建造し、大統合を正当化する言説を発表・流布し、第二バレラスをイスカンダルに降下させる、という具合に大統合の形式作りを着々と進めてきた。
スターシャがこの流れに抵抗するには最早「大統合(と結婚)を拒んで自決する」という手段しか残されていないと思われる。しかしデスラーは実際に作業を推し進めていた事から判断して「スターシャはそこまでする事はあるまい」と考えていたと思われる。(実際のところ、実は2人は自殺云々を考える必要がないくらい深く複雑な関係だったと思われるのだが、それについてはまた後で言及する。)
・・以上、この章ではデスラーとイスカンダルの政治的な関係と、政治プログラムとしてのガミラスとイスカンダルの大統合について考えてきた。
デスラーは地球の古今東西の為政者が宗教的権威に対して行ってきたのと同様に、宗教的権威としてのイスカンダルを自らの政権の正統性の獲得に利用し、さらには自らの帝国を確固としたものにするために大統合を断行しようとしていたと考えられる。帝国の為政者の行動としては非常に理に適っているのだが、ここで一つ、大きな疑問が出てくる。
デスラーはスターシャの気持ちをどう思っていたのだろうか?
デスラーの行動はガミラスの立場から見れば実に理に適った行為であったが、イスカンダルの立場から見れば全く一方的で手前勝手な行為である。デスラーが25話で「ただ一人、愛する人」と述懐していたスターシャに対し政略結婚を無理強いするデスラーは一人の人間として何を考えていたのだろうか?無理強いされた政略結婚でも、いずれスターシャの愛を勝ち取れると彼は信じていたのだろうか?
この問いかけは正に、デスラーの人間性の根幹に関わってくる問題となるだろう。次の章では、デスラーの人物像について、特に人間としての側面について考察してみよう。
【3.デスラーの人物像
――為政者として、あるいは人間として――】

――「デスラーは無理強いされた政略結婚でもいずれスターシャの愛を勝ち取れると信じていたのか」――
この問いかけは正に、デスラーの人間性の根幹に関わってくる問題となるだろう。筆者は考察文本論の最後において、デスラーを「矛盾に満ちた人物」と書いたが、彼のスターシャに対する態度はその矛盾に満ちた人物像が最もよく現れた事例の一つであろう。大統合の件に限らず、大帝国の建設も、星々の征服も、イスカンダル主義の布教も、デスラーはスターシャが喜ぶと思ってやっていたのだろうか?彼女が呼び寄せたヤマトに対しても、彼女の実の妹が乗っているのを知っていながらデスラーはヤマトを葬ろうとした。スターシャに23話で「君のためにやっているのだ」と言いながら、なぜそんなことができるのか。彼女が悲しむ事をなぜ平然と行えるのか?矛盾しているではないか…!
そして、「デスラーの矛盾」に関してもう一人、スターシャ以外に考えなければならない人物がいる。セレステラだ。
彼女はガミラス帝国において、デスラーの「多種族の統合」政策を体現する人物だった。そしてデスラーに嘘偽りない忠誠を捧げ、彼を暗殺から救ってすらいる。デスラーも彼女を重用し、信頼していた事は作中の描写からも窺うことができる(例えば一般の家臣には君付けで呼ぶデスラーがセレステラをヴェルテ・タランやドメル同様呼び捨てにしている)。
その彼女をなぜデスラーは23話において見捨てて脱出してしまったのか。しかも見捨てておきながら25話で誤って彼女を撃った際に何故ひどく動揺した表情を見せたのか。何故こうもデスラーの行動は矛盾して見えるのだろうか??
神の視点を持つ観客ですら理解し難い行動をとる上に、それぞれ矛盾した行動をとるデスラーの人物像は一体どのように理解すれば良いのか。彼の行動は、観客、特に人間の感情の部分を重んじる人の目には非常に支離滅裂に見えるだろう。スターシャに対して「君のためだよ」と言いながら、どうして戦争や粛清や征服といった彼女の意に沿わないことを延々行い続けてこられたのか?人の気持ちや感情を思いやったりしないのか?どうしてこうも人の気持ちを踏みにじるような事ができるのか?デスラーには人の心がないのだろうか??
ところが、感情を全く排し、理性的で冷徹な計算や判断を重んじる観点からデスラーの行動を見るとどうなるだろうか。彼のとってきた行動は以下の通りになる。
- イスカンダル主義を政権正当化のイデオロギーに巧みに取り込み純血ガミラス人の支持を取り付ける事で、ガミラスによる大小マゼラン統一を成し遂げた。
- 大小マゼラン統一後の新たな帝国の理念である「大小マゼラン諸種族の統合と融和」を象徴する行事として「ガミラスとイスカンダルの大統合」を企図し、実行に移そうとした。この「大統合」はデスラー・純血ガミラス人・二等臣民のそれぞれにとって次のような意味合いを持ち、帝国の支配を改めて純血ガミラス人・二等臣民のそれぞれに納得させる(正統化する)効果が期待できた。(1) デスラーにとっては純血ガミラス人の歴史的な崇拝対象であるイスカンダルの女王と結婚する事で、自らが「神の一族の最高位者」となった事を万人に示す。
(2) 純血ガミラス人にとっては「ガミラスとイスカンダルの二つの民族が一つになる」事により、自分達が「神の一族」たるイスカンダル人と同等の存在になることを意味していた。
(3) 二等臣民にとっては異種族との融和が象徴的な形で示される事を意味していた。 - 大統合を行う上で最大の障害になる可能性があった純血ガミラス人に対し、(22話のドメル追悼式典において)大統合の利を説いて賛同させた。
- 「ユリーシャ姫の同意」を口実に大統合がガミラスとイスカンダルの両者により合意されたと喧伝し、一般大衆を納得させ、イスカンダル側がどうにも反論できない状況を作り上げた。(実際のところ、滅びに瀕したイスカンダルが政治的命脈を保つには大統合と政略結婚は必要な事であると説明されれば、多くの人がこれを是とするだろう。)
- 第二バレラスを建造し、大統合の形式作りを着々と推し進めていった。
このように、人間の感情的な事柄を一切考慮しないでデスラーの行動を見ると、彼の行動は為政者として全く非の打ち所がない。驚くほど理路整然としている。デスラーの矛盾した行動や人物像を理解するには、人間の行動を理性と感情の2つの面に分けて考える必要があるのではないか、と筆者は考えている。人間は誰しも「物事の道理に従って判断したり計算したりする」理性的な面と「自分や相手の気持ちを考え、思いやる」感情的な面を持ち、どちらを重視するかでその人の個性が出てくるが、もし重視の仕方が極端に偏っていたらどうなるだろうか?人間的な感情よりも理性的で冷徹な計算や判断を極端に重んじていたとしたら、感情を重視する人からはどうしようもなく支離滅裂に見えても理性を重視する人からはとんでもなく合理的に見えるという矛盾した現象が生じないだろうか?つまり、公人・為政者としてのデスラーは極端に理性的な計算を重んじ人間的な感情を軽んじる行動をとってきたが故に、人からは見方によって非常に矛盾して見えるのではないかと筆者には思われる。

(アレクサンドロスの場合)
研究者の間でさえ、人によって極端に評価が異なることで有名な人物だが、彼は兵士や家臣に対して人間味溢れる行いをする一方で使い捨ての駒としか思えない扱いをしている。史書では次のような記述がある。
――アレクサンドロスは一般の将兵に対してどのように振る舞ったか。二つの側面が区別できる。一方では武勇に秀でた指揮官として兵士の心をつかみ、他方では遠征軍と王国の秩序を維持するために将兵の名誉心に訴えた。まず前者の側面から見てみよう。
遠征軍の中には、出発前に結婚したばかりの将兵が数多くいた。遠征一年目の冬、王はこれら新婚の将兵に休暇を与え、本国に送り返した。この温情溢れる措置は彼の人気をひときわ高めたという。もっとも彼の隠された意図は、彼らに子供を作らせて将来の兵士を確保することにあったに違いない。
イッソスの会戦直前には戦列の前を馬で走り、部隊長達の名前をそれにぴったりの美称を付けて呼び、彼らを激励した。戦闘後は負傷した兵士を一人ひとり見舞い、各人の手柄を聞いてそれにふさわしい褒美を与えた。
(中略)大王伝の中で最も印象に残る場面の一つは、ガドロシア砂漠横断における逸話である。炎熱の中誰もが咽喉の渇きに苛まれていた時、数人の軽装兵が隊列を離れ、とある岩の窪みにわずかな水を見つけた。彼らはそれを携えて戻り、兜に注いで王に差し出した。アレクサンドロスは受け取って礼を言うと、皆が見ている目の前で水を地面に注いでしまう。これは兵士全員を大いに元気付けた。王が捨てた水を、誰もが自分で飲み干した気分になったという。
(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.203~204)
――(※ゲドロシア砂漠の横断について)紀元前325年の夏も終わるころ、アレクサンドロスはインド洋沿岸をインダス川からペルシア湾まで横断してみせる、という思いにとらわれた。マケドニア軍にとっては、不運としか言いようがない。全ての古代の資料は60日で約750キロというこの行軍がもたらした苦難と死について、すさまじいばかりの記録を伝えている。アレクサンドロスは少なくとも3万の戦闘員からなる軍団とともに出発した。あとには、何千もの女と子供が延々と続いていた。アリアノス、ディオドロス、プルタルコス、ストラボンは、驚くほどの人員の喪失を記録している。それは、渇き、消耗、病気によるものだった。後には、何万もの死者が打ち捨てられたままだった。文献に書かれた死傷者数五万とか十万という数字を現代の研究は真に受ける必要はないが、それでも最低限いえるのは、アレクサンドロスは三ヶ月で、十年間のペルシア兵との戦闘で失った兵員数をはるかにこえる死者を配下の部隊から出した、ということである。マケドニアの密集方陣にとって、真の敵はダレイオスではなかった。気が狂った自分達の指揮官だったのである。
アレクサンドロスはなぜ砂漠を横断したのか。イランとインドの間には、もっと安全な行軍経路があったのである。名ばかりでしかなかった軍団なら、沿岸を航行するネアルコスの艦隊のために補給基地が確保できるルートを行軍する必要もあっただろう。なんでまた、こんな荒れ果てた地域に大軍団を引きずり込んだのだろうか。あえて理由をあげるなら、一つしかない。この横断は、アレクサンドロスにとっては、純然たる挑戦だったのである。アレクサンドロスは個人的な栄光と冒険を追求するために、何千もの部下を犠牲にしたのである。古代でも、この考えを支持する人がいた。アレクサンドロスの提督ネアルコスは、不毛の地を自ら軍団を率いて横断したというバビロニアの女王セミラミスやキュロス大王の伝説的な偉業にアレクサンドロスは対抗心をかきたてていた、と記している。
(ヴィクター・デイヴィス・ハンセン「図説 古代ギリシアの戦い」 東洋書林 P.248)
――ローマ時代の古代史家は、<すばらしい>アレクサンドロスと<どうしようもない>アレクサンドロスの両面を伝えているが、その原資料は複雑な経路をたどってアレクサンドロス自身の同時代人にたどりつく。<すばらしい>アレクサンドロスは、いわばアキレスのよみがえりで、はちきれんばかりの若さと敬虔さでヘレニズムを時空の許す限りギリギリのところまで拡大した、という。<どうしようもない>アレクサンドロスは、誇大妄想家、のんだくれ、わがままで手が付けられないチンピラで、行く手を阻むものをことごとく抹殺し、やがてはその地位を確立する上で最も功績のあった忠実で才能豊かな父親の友人、仲間を抹殺してしまった、という。この議論は今日もなお続いている。
(ヴィクター・デイヴィス・ハンセン「図説 古代ギリシアの戦い」 東洋書林 P.229~236)

日本ではいわずと知れた帝王で、時代の画期となるような施策を次々と行う一方、自ら「第六天魔王」と名乗るなど人の感情を逆撫でするような事を平気で行っている。また、譜代の重臣で近衛軍団長のような立場にあった佐久間信盛を「働きが悪い」という19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ追放し(とはいえ佐久間は長年戦場でそれなりの実績を立てていたため、これについては懲罰的粛清と言われている)、同じく譜代の重臣で長年外交官のような活動をしてきた林秀貞を「お前はもう用済みだ」と言わんばかりに追放している(追放の真相は不明で、林は追放がよほどショックだったのか追放から2ヵ月後に死去したと言われる)。
ところが人の心を何とも思わない魔王とか恐ろしい専制君主といったイメージとは裏腹に彼には気さくで温厚、しかも義理堅い紳士であった事を窺わせる逸話が多く残されている。Wikipediaから例示すると以下の通り。
- 『信長公記』などの逸話によると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。天正9年7月15日のお盆では安土城の敷地全体に明かりを灯し、城下町の住民たちの目を楽しませるといった行動をとっており、「言語道断面白き有様」と記述され、後述の相撲大会の逸話などからも祭り好きであったと考えられ、自身が参加、主催することを好んだようである。
- 長篠の戦いの時には、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。
- 『信長公記』によれば、美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。
こうした信長の姿について、Wikipediaでは次のような(どうにも混乱した?)言及が為されている。
――信長は良く家臣の裏切りが取り立たされており、譜代の臣ではないが松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の性格に起因しているという説もある。上述にもあるが職務怠慢とされた女房衆を成敗し、彼らを庇った桑実寺の長老にも手が及んだとされる。その一方で情を示すこともあった。おのれを恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる。とはいえ柴田勝家や松永久秀の裏切りを許容するなどむしろ寛大という面も確かに存在するうえ、戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事ということも考慮する必要がある。生来の家臣であるかを問わず家を第一として情勢が有利な方につく者がいても不思議ではない時代であり、心情ではなく信長包囲網などの情勢を不利とみて単なる状況判断から信長と敵対したなどの解釈も十分考えられる。

短気で残酷な側面を持ち、巧みな手腕で政敵のアントニウスの声望を失墜させ、戦争で滅ぼすといった権謀術策に長けた人物だったアウグストゥスは、3度目の妻リウィアと長年連れ添い、彼女の影響で寛大で温和な性格へと変わっていったとされる。また、後継者候補だった孫のガイウス・カエサルやルキウス・カエサル等に非常に細やかな愛情を示している(彼らにあてた手紙にはそうした愛情がつづられている)。
ところが、その一方でアウグストゥスは自身の家族に対してひどい仕打ちを行い、その結果「神君の家族」は崩壊してしまった。列挙すると以下のようになる。
- 妻リウィアの連れ子であり、後継者候補の一人だったティベリウスは、アウグストゥスにより妻と無理矢理離婚させられアウグストゥス自身の娘の大ユリアと再婚させられた(大ユリアの夫のアグリッパが死去したため、大ユリアの再婚相手として白羽の矢が立った)。再婚生活は破綻し、ティベリウスはある日突然全ての職務を放棄しロドス島に隠遁してしまう。(ただし、後に他の後継者候補達が病死したりアウグストゥスに追放されていなくなった後唯一の後継者となり、アウグストゥスの遺言により第二代皇帝となった。)
- アウグストゥスの2度目の妻との娘である大ユリアはティベリウスとの再婚生活が破綻した後、彼女の愛人の一人であったマルクス・アントニウスの息子ユッルス・アントニウスらと元首への内乱を謀ったとして、アウグストゥスに姦通罪で断罪されて追放される。
- 大ユリアがティベリウスと再婚する前に生んでいた子供達の内、長男のガイウス・カエサルと次男ルキウス・カエサルは皇帝の後継者候補として母から引き離され、アウグストゥスの養子となった。二人は帝国各地に軍務で派遣された結果、ルキウスは病死し、ガイウスはティベリウス同様にある日突然「引退して私人になりたい」と手紙を送った末に病死した。三男のアグリッパ・ポストゥムスは後継者候補とされていたが、「性格が粗野である」として追放され、アウグストゥスの死後殺された。長女の小ユリアはアウグストゥスの厳格な方針に従って養育されたが、デキムス・ユニウス・シラヌスと共に元首アウグストゥスに対し陰謀を企てたとして姦通罪で追放された。
こうした顛末について、アウグストゥスの伝記では次のように解説されている。
――後継者をめぐる取り決めが壊れたのはアウグストゥスの落ち度ではなかった。だが、有無を言わせず近親者の人生を変えてしまったことが、職務放棄やあげくは自分に対する陰謀事件にまで発展させてしまった。ひょっとしたらアグリッパ、そしてティベリウス、ガイウス、二人のユリア[大ユリアと小ユリア]とポストゥムスといった面々である。その結果、有能かつ互いに忠誠心を持っていた「神の家族」は完全に崩壊してしまった。残ったのは辛抱強い妻[リウィア]と、猜疑心の強い息子[ティベリウス]だけであった。
アウグストゥスは、自分の家族が崩壊して宮廷へと変質していくのを、長年の間、手をこまねいて見ていた。家族のメンバー同士の普通の愛情や内輪もめも、宮廷ではしだいに権力闘争へと発展してしまう。これは避けられない展開だったのかもしれないが、冷酷な雰囲気にしてしまったのはアウグストゥス自身だった。他人の感情に対する感受性の鈍さ(ティベリウスのウィプサニアに対する愛情の挫折[※ティベリウスがアウグストゥスに無理矢理離婚させられた事件の事。ウィプサニアはティベリウスの妻]を思い起こす人もいるだろう)や、自分の近親者をチェスの駒のように扱う態度が、致命的な環境を生み出してしまったのだ。早晩、血縁に基づく関係が血みどろの結末を迎えたのも驚くにはあたらないだろう。
(アントニー・エヴァリット 「アウグストゥス」 白水社 P.428~429 ※[ ]内は引用者による注釈)
以上に挙げた帝王達の事例を見ると、デスラーの矛盾した行動の一つ一つが歴史上の帝王と非常によく似ていることに気付く。例えばドメルやセレステラといった真摯な忠誠を捧げてきた家臣に対し、信頼を寄せ親しく声をかけ(君付けで名前を呼ばない)、死刑にされる所を救ったりする一方でまるで使い捨ての駒のように扱う二律背反した行動はアレクサンドロスや織田信長とそっくりだ。また、スターシャのような真に親しかった相手に対する二律背反した態度や仕打ちはアウグストゥスの家族に対するそれを想起させる。
では、彼ら実在の帝王達はデスラーのように人間の持つ理性と感情の2つの面のうち、「人間的な感情よりも理性的で冷徹な計算や判断を極端に重んじていた」ために矛盾した人物像に見えるのだろうか?少なくともアウグストゥスに関しては、伝記ではその人物像について次のように総括している。
――それでは、アウグストゥス自身はどんな人間だったのか?よく知られている性格である、冷静沈着さ、彫像が示す老いを知らない若さだけではいささか曖昧である。テニスンの言葉を借りれば、「瑕がないのが瑕なほど、氷のように冷たく整い、すばらしく無表情な」。だが、幸いなことに、古代の史料、とりわけスエトニウスが、アウグストゥスの本当の姿を明らかにしている。ここには姉を愛し、自分の子供を生まなかった妻と五十年間幸せに連れ添った人物がいる。アウグストゥスはさほど外見に関心がなく、友達づきあいがよく、自嘲的なユーモアのセンスを持ち、堅実な判断力を備えていた。「小さなロバ君」と呼ぶガイウスが大好きだった老人には親近感を覚えざるをえないし、リウィアを除く全ての近親者がさまざまな形でアウグストゥスに背を向けたときの悲劇の深さも感じざるをえない。
国家の儀礼の壮麗さやローマの記念建造物の回復と、それとは対照的な厳格な生活様式の差は、もちろん意識的に行った政策であり、それはローマを賛美しながら個々人の堕落に対抗しようとしたものである。だが、その質素な暮らしぶりは本物だったようである。
もちろん、アウグストゥスの性格には二面性があり、ヤヌスのように正反対を向いていた。優しい家族思いの人間である反面、昔風の女たらしでもあり、質素な生活ぶりのローマ人である一方、極秘で休暇用の邸宅を建てている。友人には誠実であったが、彼らの行き過ぎやときには救いようのない欠陥には目をつぶった。大きな期待を抱いた愛情溢れる親である一方、自分のやり方を主張して無理な要求を押し付けている。洗練された芸術のパトロンが、政治のことになると情け容赦のない殺人者となった。
とりわけ、アウグストゥスの公的な生活に必要だった普通の人間的な感情の抑圧が、自分の近親者や親しい人間に対する深く強い愛情の流れをせき止めることになったと思われる。こうした内面の葛藤が、自分の信頼を裏切った者に対する怒りに駆り立てたのかもしれない。
こうした欠陥にもかかわらず、バランスシートは黒字だった。私人としてはおおむね時代の基準に沿って立派な生活を送り、公人としては恐ろしいことを行ったが、ほとんどは公共の利益のためだった。
(アントニー・エヴァリット 「アウグストゥス」 白水社 P.460~461)
伝記のアウグストゥスの家族に対する仕打ちや人物像の総括の記述を見ると、アウグストゥスもまた、デスラー同様に「人間的な感情よりも理性的で冷徹な計算や判断を極端に重んじる」人間であったと思われる。つまり、公人(為政者)としてのアウグストゥスは感情を排し理性に基づく冷徹な計算や判断を極端に重んじていて、家族に対する仕打ちは彼が公人として家族に接した結果起きたことだと考えることができるだろう。ただし、私人としての彼は家族思いの人間であり、公人としての態度とのギャップがあまりに大きいために人から矛盾して見えるのではないだろうか。
同様のことはアレクサンドロスや織田信長にも言えると思われる。公人としては感情を排し理性に基づく冷徹な計算や判断を極端に重んじているため、公人として振る舞う必要のない時は一人の戦士として、あるいは温厚な紳士として人間味溢れる行いをするが、一旦公人・為政者として行動した途端、その同じ人物が人の気持ちを何とも思わない冷酷・薄情な殺戮者に変貌してしまう。そしてどこまでも理性的で冷徹な計算に任せて行動して行く。その変貌ぶりがあまりにも大きいため、人の目には大変矛盾した人物像に見えるのではないか。
そのように考えれば、デスラーの矛盾した行動がよく理解できるのではないだろうか。公人・為政者としてのデスラーにとって、セレステラやドメルといった忠臣はアレクサンドロスにとっての兵士や家臣と同様に自分の夢と理想を実現するための代替可能な道具に過ぎなかったし、スターシャに対する仕打ち(彼女の気持ちを無視した征服や大統合、ユリーシャの乗ったヤマトの撃破といった行動の数々)もあくまで公人・為政者として彼女に接し続けた結果だった。12話でデスラーが「我々は遠からず一つになる。君は私の放った狼が獲物に牙を突き立てるのをそこで見ていたまえ」と独白しながら冷たい笑いを浮かべたシーンは感情を排しどこまでも理性的で冷徹な計算に任せて行動して行く公人・為政者としてのデスラーの姿を象徴的に現しているというべきだろう。
しかし私人としてのデスラーは24話の以下のようなスターシャとの会話でも伺えるようにとても純粋で一途、そして繊細な人間であり――家臣達、いや視聴者にとっても信じられないかもしれないが――、23話でホログラムのスターシャの髪に手を添えた時、そして25話でセレステラを撃ってしまった時に相手に見せた彼の表情は公人・為政者としてではない彼本来の人間性が出てきた数少ない瞬間だったと思われる。
「それは無理よ。私達とあなた達とでは、思想が違いすぎる。私達の使命は…」
「ならばその使命を私が果たそう。約束するよ、君の願いはこの私が叶えてみせる。そして全ての星に平和を…」
・・こうして、デスラーの矛盾した人物像について一つの見解を導き出すことができた。彼の行動や人物像については以下のように考えることができるだろう。
- 征服・大統合と大統合に伴って行われると思われるスターシャとの政略結婚は、感情を排しどこまでも理性的で冷徹な計算に任せて行動して行く公人・為政者としてのデスラーにとってスターシャの気持ちや考えに関係なく行われるべき当然の事業だった。
- しかし私人としてのデスラーは公人としての姿とは全く違うとても純粋で一途、そして繊細な人間であり、見捨ててしまったはずのセレステラを撃ってしまった時の彼の狼狽した表情は私人としての、彼本来の人間性が出てきた(劇中における)数少ない瞬間だった。
- その彼本来の人間性と公人としての姿勢のギャップがあまりにも大きい為、そして彼の感情を排し理性を極端に重んじる公人としての行動そのもののためにデスラーの人物像は視聴者により二重にも三重にも矛盾して見えると考えられる。
とはいえ、デスラーの人物像についてはまだ一つ、問題が残されている。スターシャに対して冷徹な為政者として接する事の多かったデスラーだが、スターシャの気持ちそのものについてはどう思っていたのだろうか?デスラーにとっては征服戦争も大統合も政略結婚も、為政者として為すべき当然の行いであったにせよ、そのことでスターシャとデスラー二人の溝が深まっていく事について彼はどのように考えていたのだろうか?この事について、スターシャ、そしてセレステラの二人の女性に焦点を当てながら考えていこう。

スターシャに対し、元より愛する女性であるにもかかわらず冷徹な為政者として劇中で接する事の多かったデスラーは胸中では彼女の気持ちについてどのように考えていたのか。作中では明確に語られてはいないが、考えるヒントとなる描写がある。25話で森雪に対して語ったセリフだ。
戦いをスターシャが望んでいないのを知っていながら、デスラーは彼女のために戦いは必要だったと述べている。征服、イスカンダル主義の布教、大統合、そして政略結婚といった彼女の望んでいない事の全てをデスラーは「全ては彼女のためなのだ」と無理に自分に言い聞かせ、正当化していたのかもしれない。公人・為政者として人間らしい感情を抑圧することを要求される一方(アウグストゥスの伝記における「公的な生活に必要だった普通の人間的な感情の抑圧」という記述を思い起こされたい)、為政者の冷徹な計算と論理に従い数々の施策(征服、
イスカンダル主義の布教、大統合、そして政略結婚)を行い、また行おうとした。しかもそれらの施策はいずれも客観的に見れば、滅びに瀕したイスカンダルが政治的命脈を保つ上で必要な事ばかりだった。
「必要なのにスターシャは望んでいない事を行い、為政者として突き進めば突き進むほど彼女の心は離れていく。そんなことは分かっている、それでもいい、全ては彼女のためなのだ……。」
デスラーはそんなことを考えていたのかもしれない。では、スターシャがデスラーに対して23話で「もうやめて、アベルト…」と悲しんでいたのは、こうしたデスラーの心情を理解していたからなのか?ここで少し、デスラーとスターシャの関係について考えてみよう。
スターシャとデスラーの関係について留意すべきなのは、自らの望まない事が延々と行われてきたにもかかわらず、彼女がデスラーを嫌いにならなかった事だ。赤の他人が「君のためだよ」と一方的な善意を延々押し付けてくればその人間を嫌悪するようになって当然なのに、スターシャにはデスラーに対しそういったそぶりが全く見られない。それどころかスターシャは24話で死んだと告げられたデスラーの事を「アベルト…」と気にかけている。この事から、スターシャは元々デスラーと非常に親しい関係だった事が伺えるが、ひょっとすると若き日の二人はただ親しいという以上の関係、恋仲といっても良い関係だったのかもしれない。24話のスターシャとデスラーの会話をもう一度思い返してみよう。若き日の、おそらくはガミラスが征服戦争を行う前のデスラーがスターシャに対しこう切り出している。
ガミラスとイスカンダルの2つの王国、ひいては王族が統合される事の意味を考えればこのセリフはデスラーがスターシャに遠まわしにプロポーズしたとも解釈できる。それに対しスターシャは
と返している。既に守るべき王国を背負って立つ女王だったと思われるスターシャとしては、当然の答えだっただろう。これ以降、二人はガミラスとイスカンダルそれぞれの為政者として相手に接するようになり、スターシャのデスラーに対する好意も表には出なくなったと思われる。そのように考えれば、23話の二人の会話は二人の複雑な関係を表す象徴的なシーンだったと考える事ができるだろう。会話において、イスカンダルの為政者として抗議するスターシャに対し、デスラーは同じくガミラスの為政者としてスターシャに言い返している。
「そうです」
「抗議抗議、君がここを訪れるときはいつも抗議ばかりだ。ならば、あのテロン人達にも抗議をしてはどうかね」
「どういうこと?」
「君が呼び寄せたあの船もまた、波動エネルギーを兵器に転用している」
「そんな…」
為政者として相対した二人だったが、デスラーが話題を変えると二人の口調が変わっていく。
(驚いた表情のスターシャ)
「私が命じて保護させたのだ」
「何を考えているの、アベルト…」
「君のためにやっているのだ」
「やめて……」
「(スターシャを見つめて)スターシャ…」
「(同じくデスラーの目を見つめて哀願するように)お願い……」
(少しの間互いに見つめ合い、やがてデスラーがスターシャの髪(頬か?)に手を添える)
「(目を閉じて)そうか、残念だよ…」
(スターシャのホログラムが消え、デスラーは悲しそうに目を閉じる)
「(同じくスターシャもまた悲しそうに)もうやめて、アベルト……」
会話の後半では二人の公人・為政者としてではない、私人としての姿が出てくるが、最後の方で二人は互いに見つめ合い、デスラーがスターシャの髪(頬か?)に手を添えている。これはもう、かつて互いに好意を抱いていた間柄というのでなければ、とてもではないができる行為ではない。24話の若き日の二人、そして23話の会話からは次のような二人の関係を想像する事ができるだろう。
- かつて、若き日のスターシャとデスラーは互いに好意を抱く間柄だった。しかし、二人の為政者としての立場と政治的信条の違いから、スターシャはデスラーと一緒になるわけにはいかなかった。
- やがて二人はガミラスとイスカンダルそれぞれの為政者として相手に接するようになり、互いに抱いていた好意は人の目に触れるような形では出てこなくなった(政治的にそのような好意をあらわにする事は許されなかっただろう)。そのため、二人の関係が恋愛に発展する事はついになかった。(劇中の描写においても二人は互いに冷徹な為政者として相手に接しており、二人の本当の関係が示唆される描写は物語の終盤にならないと出てこない)
- 2人は政治面でも考え方の面でも溝が深まり対立するようになってゆき、やがてスターシャはデスラーではなく古代守を愛するようになっていったが、そうなっても23話・24話の会話で示唆されるようにスターシャはデスラーを嫌いになることは決してなかった。
このように、スターシャとデスラーの関係は「嫌がるスターシャにデスラーが一方的に愛情を押し付ける」という単純な構図では片付けられない複雑なものであった事が作中の描写から窺える。23話、24話の二人の描写からは、ガミラス・イスカンダルの大統合には次のような側面があったと言えるだろう。
二人の関係は、たとえ互いに好意を持っていても政治的立場の違いから決して恋愛が成就しない古典的悲劇(例えばシェイクスピアやジャン・ラシーヌの著した古典悲劇が挙げられる)のようなものと言えるが、同時に、つまるところスターシャはデスラーの本当に数少ない理解者の一人であったとも言えるだろう。若い頃から公人としてではない本来の彼の性格と人となりを知っており、なおかつ彼が為政者の冷徹な計算と論理に従い行動している事を同じ為政者として理解できていたからこそ、スターシャはデスラーの事を嫌いもせず23話において「もうやめて、アベルト…」と悲しんでいたのではないだろうか。
・・スターシャのデスラーへの理解と悲しみをよそに、デスラーはガミラスとイスカンダルの大統合(そして政略結婚)へと突き進んでいくが、いくら必死に「彼女のため」と自らに言い聞かせても、それで彼女の愛が得られるのか、と問われれば彼も沈黙を持って答える事しかできなかっただろう。
ではどうすればいいのか、と考えてもそのような問いかけに答えなどあるはずがない。彼にできるのはスターシャの事をあきらめるか、そうでなければひたすら展望のないまま突き進むことだけだ。彼の公人・為政者としてではない、一人の人間としての内面は誰がどう見ても無理に無理を重ねた状態だっただろう。
この事をスターシャ以外に理解していたと思われる人物がいる。セレステラだ。次はセレステラとデスラーの関係に注目してデスラーの内面について考えていこう。

25話の最後、「戦いは必要だった…」と森雪に述懐したデスラーに対しセレステラは次のようなセリフを残し非業の死を遂げる。
デスラーは森雪に「ただ一人、私の愛する人のために」戦ってきたと苦しい胸の内を窺わせる様な言葉を漏らしているが、そんな彼に対しセレステラは何を言おうとしていたのだろうか?
25話で森雪に語っているように「人の心を読む力を持つ」ジレル人のセレステラは、その能力故にデスラーの内面や考えを深く理解していたのではないかと思われる描写が劇中ではいくつか出てくる。それらを順を追って挙げて行きながら、彼女の最後の言葉の意味について考えてみよう。
まず最初に22話で、セレステラはユリーシャ姫に扮した森雪に対しこう語っている。
セレステラはデスラーの「救済」が本心からのものであると分かっているかのように語っている。彼女の言葉は本当だった。25話で森雪の前で、そしてデウスーラが爆散する寸前、デスラーは「この宇宙を救済」すると述べているからだ。
続いて25話、セレステラは宙雷艇が故障してバラン星で漂流しているところをヤマトに救助されるが、何故彼女はガミラス帝星を出奔した後、大小マゼランから遠く離れたバラン星に向かったのだろうか?銀河系辺境部にでも逃亡するつもりだったのか?そうではなく、セレステラはデスラーが生きていればバラン星に向かうに違いないと考えたのではないだろうか。つまり、もしデスラーが生きていれば彼の性格からしてヤマトを撃破、もしくは拿捕しようとするに違いないと考え、宙雷艇がエンジントラブルを起こす程の強行軍でヤマトが必ず通過するであろうバラン星に向かったと考えることができるのではないだろうか。この事と22話の事例を考えると、彼女がデスラーの為政者としての考えだけではなく、本来の人となりまでをも理解していた可能性は高いように思われる。
そして同じく25話、セレステラはデスラーは死んだと言おうとした森雪に対し激昂している。
デスラーを「あの方」ではなく「あの人」と呼んでいる事から、このセリフが家臣としてではなく一人の女性として言ったものであると分かるが、セレステラは何故デスラーには自分が必要だと言ったのだろうか。一人の女性として、何故デスラーに自分が必要だと言ったのか。この言葉からは彼女がデスラーを愛していたことを窺う事ができるが、それ以外にも彼女がデスラーの内面の危うさにも気付いていたと推測する事ができる。彼が抱える苦悩や危うさに気付いていたからこそ、人間的な支えとして自分が必要だとセレステラは考えていたのではないだろうか。
そのように考えれば、25話のセレステラの最後の言葉の意味を推測し補完する事ができるだろう。再び、デスラーが森雪の前で語った言葉を振り返ってみよう。
ただ一人愛する人(スターシャ)のためと自らに必死に言い聞かせ、彼女の望まない(が為政者の冷徹な目で見れば必要だった)全ての事をデスラーは行ってきた。そのことで政治面でも考え方の面でも彼女と対立するようになっていき、彼女の心は離れていく。それが分かっていても、為政者として突っ走る以外に進むべき道を知らなかった(そうしなければデスラーは大小マゼラン統一どころかとっくの昔に政敵に殺されていただろう)。これまでの考察を踏まえれば、こうしたデスラーの事情と苦悩をこの言葉から見て取ることができるだろう。そんな彼に、セレステラはこう言おうとしたのではないだろうか。
セレステラもまた、スターシャと同じく本当に彼のことを理解する人間の一人だったというべきだろう。デスラーが絶対に人に明かすことのない、一人の人間としての内面を深く理解していたのは実にこの二人の女性だけだったと思われる。デスラーは劇中では孤独な独裁者として描写されていたが、もしデスラーが為政者ではなく一人の人間として立ち止まることを許されたなら、ひょっとしたら彼の人生は劇中とはまるで変わったものになっていたのかもしれない。しかし、二人のデスラーへの理解、そして愛情は一人は為政者、もう一人は家臣という立場であったためにデスラーに気付かれることはなかった。結果的にデスラーはかけがえのない二人の理解者を愚かにも自らの手の届かない所に追いやってしまう。一人は別離によって、そしてもう一人は死別によって…。
・・こうして、スターシャとセレステラの二人の女性に焦点を当てることで、デスラーの内面について考えていった。
デスラーは公人・為政者としてはスターシャに対し感情を排して冷徹に接していたが、反面、私人・一人の人間としては非常に苦悩していたと考えられる。彼とスターシャとの間には他人(と視聴者)からは非常に分かりにくい、複雑な関係と過去があり、二人とも相手への愛情と対立で心が揺れ動いている様が劇中の描写から窺える。
しかしデスラーは結局、スターシャに対する苦悩をどうすることもできないまま、彼女との別離という悲劇的な結末を迎えてしまった。そして、彼の苦悩を理解していたセレステラも、死別という形で失ってしまう。政治面から見たデスラーは紛れもない英傑であったが、人物面から見たデスラーは悲劇の人物だったと言うほかないだろう。ここでもし、デスラーが25話で死ななかったとしたら、デスラーとスターシャの関係はどのようになっていくのだろうか?
次は章を改め、そのことについて想像してみることにしよう。

――二人の愛憎劇――】
23話で第二バレラスが破壊され公的には死んだものとされ、25話でデウスーラが爆散し生死不明となったデスラーだが、もし死なずに再びガミラスに復権したとしたら、デスラーとスターシャ二人の関係はどうなるのだろうか?
ヤマト劇中において、愛情と対立の間で複雑に心が揺れ動いていた二人だったが、もしスターシャが古代守の子供を懐妊しているなら、二人の亀裂は決定的なものになるだろう。そして考察文本論で想像してみた様にガトランティスが大小マゼランに侵攻してきたなら、ガミラスとイスカンダルの政治的立場は一変し、為政者としてのデスラーの、スターシャに対する扱いは大きく変わってしまうだろう。また、セレステラの最期を目の当たりにしたデスラーの内面もまた、大きな影響を受けるに違いない。この章では、二人のその後はこうなるのではないか、という想像を、個人的に想像しているヤマト続編の物語と絡めて書いていこうと思う。
4-1.デスラー復権後のガミラスとイスカンダル
劇中においてデスラーが企てた大統合は結局、ヤマトの活躍(?)により失敗し、デスラーは帝都バレラスの民の支持を失ってしまった。もし仮にデスラーが生きていて復権し、ガトランティスとの戦争を通じてガミラス第二帝国を築いた場合、彼はどのように政権の正統性を確立していくのだろうか?
ガミラス第二帝国が成立した場合、デスラーは今までとはうって変わってイスカンダルの権威を否定し、自己神格化を推し進める事で政権の正統性を確立していくのではないかと筆者は考えている。つまり、ヤマト3のように作戦会議中に「ガーレ・デスラー」ではなく「高貴なイスカンダル」と唱えた幕僚を射殺して「ガミラスに神は二人も要らぬ」と言い放ったり、将官の座乗艦に自らをかたどったレリーフを設置し、敬礼させる(ヤマト3でダゴン戦死の報を受けたガイデルがデスラーの肖像に向かってやったようなもの)といった光景が見られるようになるのではないだろうか。
では、「イスカンダルの権威の否定」と「自己神格化」とはどういうことか?それぞれ詳述してみよう。
(その1:イスカンダルの権威の否定)
まず、「イスカンダルの権威の否定」だが、こうなるに至る事情の芽は23話から25話までのデスラーとスターシャの描写で既に散見されるようになっている。前章で考察したように、24話の描写からデスラーとスターシャは元々互いに好意を抱く非常に親しい間柄であり、スターシャは人間としてのデスラーの(本当に)数少ない理解者であった事が窺えるが、為政者として生きねばならなかった2人の関係が恋愛として成就する事はついになかった。二人は政治面でも考え方の面でも溝が深まり対立するようになっていき(ただし、そうなっても2人とも相手を嫌いになることは決してなかった)、スターシャはやがてデスラーではなく古代守を愛するようになっていくが、もし彼女が彼の子供を懐妊していたなら2人の亀裂は決定的なものになるだろう。イスカンダルの女王がデスラー以外の人間の子を身篭ったとあっては「大統合」の構想は実行できない。1人の男性としても、為政者としても2人が一緒になることはもうありえないとデスラーは考えるだろう。
こうした人間的な確執に加え、ガミラス第二帝国は政治的にイスカンダルの権威を最早必要とせず、それどころか逆にそれが重荷となり得る状況になっていると思われる。そう考える根拠としては以下のものが挙げられる。
- ガトランティスの大小マゼラン侵攻を境に、大小マゼランの人々のイスカンダルへの信望は大きく損なわれると考えられる事。侵攻したガトランティスが(ヤマト2で言及されているような)劫略と奴隷狩りを大々的に行う状況に対して、イスカンダルは人々を救うのに何一つ有効な行動をとれないため、今までガミラスが二等臣民達に対して喧伝(布教)していた「宇宙を救済する存在」としてのイスカンダルの信用は大きく損なわれると考えられる。イスカンダルが信望を失う一方で、ガトランティスを(武力で)撃退し人々を文字通りの危機から救ったデスラーは名実共に「大小マゼラン、ひいては宇宙の救済者」としての信望を大小マゼラン世界で獲得するようになる。(その意味でガトランティスとズォーダー大帝は大小マゼラン世界の政治秩序を根底からひっくり返してしまうと考えられる。)そのため、イスカンダル主義は統治の為の道具としては用無しとなってしまう。
- 帝都バレラスの民の支持を失っているデスラーは都を別の場所に移すと考えられる事。その結果ガミラス帝星とバレラスは政治の中心地ではなくなり、デスラーはバレラスの純血ガミラス人達の歓心を得る為にイスカンダルを持ち上げる必要がなくなる。(後述する「支援軍」創設のためにデスラーが帝国各地を長期間にわたり巡回する結果、彼の座乗するデウスーラとそれに付随する大型住居艦が事実上の「帝国の都」になるという状況が考えられる。)
- ヤマトとガトランティスにより半壊状態となったガミラス軍を再建するため、デスラーは二等臣民を大規模に戦力化した「支援軍」を創設するのではないかと考えられる事。支援軍は以下のような仕組みを持つ。・反乱の可能性を抑えるため、一つの部隊に複数の種族の兵士を混合した混成部隊にする。このようにすれば、ザルツ人やオルタリア人等の異種族同士は利害が必ずしも一致しないため、1つの種族だけで構成される部隊に比べて一部の反乱がたちまち全体に波及する危険性をかなり抑えられる。
・ヤマト劇中にも出てくる従来の二等臣民の部隊は(ヴァルケ・シュルツの例のように)規模が旅団程度に留まり、22話でフラーケン達がガミラス軍の人員不足について会話している事から部隊数も多くなかったと考えられるのに対し、支援軍は最大の部隊単位が師団に拡大され部隊数も大幅に拡充される。ガミラス軍の部隊単位としての軍及び軍団は、支援軍の師団と一等臣民の正規軍師団の混成部隊となる。
・旅団長と師団長は一等ガミラス臣民が務める。旅団長以上のポストは一等臣民が殆ど全てを占める軍団等の上級司令部との打ち合わせが増えるため、身分の違いによる軋轢が生じるのを回避するためにもそのような仕組みにする方が良い。旧来の二等ガミラス旅団の旅団長は支援軍創設に伴い全員一等臣民に昇格させる。
・支援軍の将兵は一定年数(10年程度か?)の勤務で一等臣民に昇格でき、その子供にも一等臣民権が与えられる。ただし、旅団長になる者は一定年数が過ぎていなくても一等臣民に昇格する。
一定の兵役期間を過ぎると一等臣民権が授与される支援軍は(古代ローマの支援軍と同様に)多種族をガミラス人として統合する装置となり、ガミラス第二帝国が「純血ガミラス人の帝国」から「大小マゼラン諸種族の帝国」へと変貌する後押しとなるだろう。この事はイスカンダルにとって、イスカンダルが「純血ガミラス人の上位に立つ至高の存在」から帝国の支配する数多の星の一つに過ぎなくなる事を意味していた。 - ガミラス第二帝国はガトランティスとの戦争のために二等臣民を大規模に戦力化し(純血ガミラス人だけでは到底数が足りない)、「多種族の統合」を理念と政策の面で大々的に推し進める結果、「純血ガミラス人の帝国」から「大小マゼラン諸種族の帝国」に変貌すると考えられる事。その結果純血ガミラス人も帝都バレラス同様に「政治の中心」ではなくなり、デスラーは彼らの歓心を得る為にイスカンダルを持ち上げる必要がなくなる。デスラーによる二等臣民の一等臣民・名誉ガミラス臣民への登用と支援軍は二等臣民にとって、「多種族の統合」が言葉だけではない実質を伴うものである事を示す格好の制度となる。
- ガミラスが多種族の帝国となりバレラスの純血ガミラス人の政治的地位が低下していくに従い、デスラーに不満を抱くバレラスの高官達が現れ始めると思われる事。彼らはデスラーへの反抗の旗印としてイスカンダルの権威を利用しようとすると思われる。
以上のようなスターシャとデスラーの確執やガミラス第二帝国の政治状況により、デスラーは今まで行ってきたイスカンダル主義の喧伝を取りやめ、場合によってはイスカンダルの権威を否定する行動をとるようになると思われる。(「ガミラスに神は二人は要らぬ」発言はそうした一例)。もちろん、ただ否定するだけでは今までの政策と齟齬が生じ、また純血ガミラス人の大きな反発を招いてしまうため、デスラーは一気にイスカンダルの権威を否定するのではなく「敬して遠ざける」ようなやり方で徐々にそれを行っていくだろう。具体的には以下のようになると思われる。
- 今までは純血ガミラス人の感情への配慮から併合されないでいたイスカンダルだが、ガミラス第二帝国ではもはや純血ガミラス人に気兼ねする必要がなくなっているため独立国ではいられなくなる。イスカンダルはガミラス第二帝国により「イスカンダルを守護する」という名目で保護領にされる。
- スターシャは王族にふさわしい生活をというデスラーの(別れの餞別としての)計らいで侍女やイスカンダル風の白い制服を着た女性衛士隊にかしずかれる生活を送る事になるが、もはや他の星へ使者を出すことは叶わない状態となる。一方ユリーシャは従卒と目付けを付けた状態でバレラスとイスカンダルを往復することを許される、という待遇になる。ユリーシャは表面的にはヒス・ディッツ政権の時と同様に「ガミラスを導く」という形式が踏襲されるものの、実質的には「総統の御意思はユリーシャ様の御意思である」という風にデスラーの純血ガミラス人社会への権力の正当化に露骨に利用される事となってしまう。

旧作ヤマトシリーズのデスラーは「この人そのうち自分を神だと言い出すんじゃないか?」と思えるような危ない一面を持つ人物だった(例えばデスラー○○などあらゆるものに自分の名前を付けたがる、ガルマンには神は二人は要らぬと言い放つ等)が、ヤマト2199のデスラーは元々の性格というよりは純粋に政治的な理由から、つまりイスカンダルの権威を否定した必然的な結果として自らが新たな権威になろうとすると思われる。そのやり方と権威になっていくプロセスは、歴史に類例を求めるなら
「人間オクタウィアヌスが神君アウグストゥスになる」
過程とよく似たものになるのではないかと想像できる。具体的には以下のようなものになるだろう。
・オクタウィアヌスはかつて自己の神格化を望んでいたカエサルが暗殺された教訓から、ローマ市内においてはあからさまな個人崇拝を慎重に避けていたが、その代わりに「アウグストゥス(尊厳者)」「プリンケプス(市民、元老院の中の第一人者)」の称号を元老院から得て権威付けを行った。これと同様に、デスラーは純血ガミラス人に配慮してあからさまに自らを神と名乗ることはしないだろう(神と言わんばかりの行動はたまにとるが)。そのかわり、旧作ヤマトシリーズのデスラーがガルマン・ガミラスで再び「総統」に選ばれたように、「大小マゼラン諸種族に推戴された」という形式で改めて「大小マゼラン諸種族の第一人者としての総統」に就任して自らの権威付けを行うことが考えられる。
・オクタウィアヌスはローマ市では神ではなく市民の第一人者として振舞ったが、ローマ以外の属州では「恩恵者」「救済者」たる神として礼拝された。史書ではこうある。
――ローマ市における皇帝礼拝は、あくまでも死後神化であり、生存中の皇帝を直接「神」として礼拝することはなかった。これに対してローマの伝統とは無縁の属州では、生前の皇帝に対するもっと直接的な崇拝が広く行われた。ギリシア諸都市では、アウグストゥスが「神の子である神なるアウグストゥス・カエサル」と呼ばれ、ヘレニズム的な「恩恵者」「救済者」として礼拝された。都市単位だけでなく、属州単位の礼拝が組織されることもあった。帝国各地でそのやり方は多様であったが、皇帝礼拝組織の中で神官や祭司の職を得ることはローマ市民にとって大きな名誉であり、また社会的上昇を遂げる手段ともなった。(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.307)
――帝政期ローマでは、属州や都市が多様な皇帝礼拝を組織して皇帝への忠誠心を表明した。そこでは礼拝組織それ自体が、ローマ市民が政治的威信を手に入れ、社会的上昇を実現する手段となっていた。ローマ皇帝礼拝は、皇帝を頂点として帝国全体を底辺から一つに統合するための巨大な装置となったのである。(森谷公俊 「アレクサンドロスの征服と神話」 講談社 P.307~308)
ローマ帝国では皇帝崇拝自体が帝国の統治機構の一つとなっていたが、デスラーも同じような仕組みを作ると考えられる。つまり、ガミラス帝星以外の惑星でデスラーを(蛮族から救った)「恩恵者」「救済者」として称え崇める組織を名誉ガミラス臣民や身分昇格した一等臣民達が設立するのを推奨するのではないか。こういった組織には例えば「デスラー記念財団」や「デスラー在郷軍人会」といったものが考えられるが、これらの組織の理事になることは名誉ガミラス臣民や身分昇格した一等臣民が惑星社会内で政治的な威信を得るのに役立つと思われる。
ローマは元々人間を神として崇める習慣を持たない社会だったが、オクタウィアヌスは社会的反発を招かない小さな既成事実を積み重ねることで、自己の権威をゼロから確立していった。デスラーも彼のように政治手腕を駆使することで、「あくまで人間として振舞っているが実質的に神のように崇められる」状況を作り出していくのではないだろうか。
・・以上、仮にデスラーが生きてガミラスに復権した場合のガミラスとイスカンダルの想像をしてみた。
ヤマト劇中では複雑な関係と過去を持ち、随分長い事愛情と対立の間で心が揺れ動いていたデスラーとスターシャは、人間的な別離という悲劇的な結末を迎えるだけではなく、政治的にも袂を分かつという状況になるのではないかと思われる。しかし、それで二人の関係が完全に終わるという事にはならないだろう。そんなに簡単に相手への長年の想いを捨て去る事は二人共できないだろうからだ。二人の愛憎劇は新たな段階を迎えることになるだろうし、それこそが続編の物語を形作る布石となっていくだろう。次の節では個人的に想像している続編の物語のコンセプトについて述べた上で、物語の叙述に入っていきたい。
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これまで、この考察文の補論では1章から3章にわたりガミラスとイスカンダルの関係、そしてデスラーとスターシャの関係に焦点を当てて考えてきた。そこであらためて浮かび上がってきたのは、人間としての二人の、容易に窺い知る事のできない複雑な関係と、その二人の関係こそがヤマトの物語世界を動かす核心となっていたという事実だった。帝国としてのガミラスの勃興と台頭も、為政者としてのデスラーの所業も、イスカンダルやスターシャの事を無視して語ることはできない。物語の中心に位置する存在だった二人は、仮に続編が製作される場合も間違いなく再び物語世界の中心として登場し、二人の関係は物語を結末へと導く伏線となることだろう。
ここから先は一つの思考実験として、デスラーが25話で死なずにガミラスに復権した場合の物語の想像をしてみたい。内容としては考察文の本論で途中まで書いた「デスラーズ・ウォー」の後の話で、ガミラスとガトランティスの戦争を物語の縦糸に、デスラーとスターシャの愛憎劇を物語の横糸にした叙述を試みる。(デスラーズ・ウォーの続きは次の考察文章にて書く予定。この文章ではあらすじのみを書くに留める。)
物語には筆者個人の想像(と妄想)が数多く入り込む事になるが、その中でもガミラスとガトランティスの社会と軍事の記述に大きく力を入れたい。何故なら、(筆者個人の嗜好というのもあるが)物語の中でのガミラスとガトランティスの行動を理解するには、それらの記述が欠かせなくなると思われるからだ。
例えば、ヤマト出現の噂が流れただけで蜂起が相次ぐ程鬱積していた二等ガミラス臣民の怒りをデスラーがどのように解決し、自らの帝国を再び築くのに成功したのか。そして、(主にヤマトのせいで)ガトランティスの大侵攻という一大惨禍を被り文字通りの支離滅裂の状態になってしまったガミラスをどのように立て直したのか。物語においてガミラスは、短期間で復興どころかその国力をさらに増大させ、ズォーダー大帝と銀河の覇権を賭けて争う事になるのだが、何故そのような事が可能だったのか。
また、戦争の描写においては、ガミラスとガトランティスの両者がどのような戦争プランを描いて戦いに挑んだのかを記述することになるが、(超)現代的な戦争を行う彼らは当然、相手の社会や軍事システムの弱点を衝く戦略を策定するだろう。(第二次世界大戦で明瞭に示されることなのだが)特に大規模な戦争は、ただ兵器や戦場での指揮官同士の戦いだけで終始するものではあり得ないからだ。戦争とはそれらを生み出した社会同士が激突するのであり、敵味方それぞれの社会の特質が軍隊の戦い方や戦略までをも規定していく要因となる。デスラーやズォーダー大帝、ガデル・タランやサーベラーといった戦争指導者達が考えるであろう戦略を記述するには、ガミラスとガトランティスの社会がどのようなものであり、そして両者が相手の姿をどのように認識していたのかを考える必要がある。ガミラスについては、これまで考察文の中で記述した内容を更に発展させたものとなるが、ガトランティスについては筆者なりに考えたものを提示してみたい。
ガトランティスとはどのような国家であり、いかなる社会を持つのか。ヤマト2199劇中では殆ど触れられていないため、主に旧作ヤマトシリーズを元に想像を試みるが、以下のような事柄に焦点を当ててみたいと思う。
まず、宇宙を漂流する生活を送っている彼らは、地球上で同じく漂流生活を送っていた騎馬遊牧民と類似した社会や国家形態を持つことだろう。具体的には、匈奴からモンゴルに至る遊牧帝国と似た制度を持っているのではないか。
次に、(旧作における)彼らの社会の最大の特徴である「奴隷」とはどのような存在なのか。ズォーダー大帝はヤマト2において地球の情報を眺めながら奴隷を得ることに執心していたが、大帝の権力と奴隷には実は大きな関わりがあるのではないか。
そして、支配庁長官の肩書きを持ち、参謀総長も兼務していたサーベラーはガトランティスにおいてはどのような立ち位置であるのか。ガミラスとガトランティスの戦争は、デスラーとサーベラーの指揮官としての対決が戦争の行方を決定付ける要素となってくるだろうが、両者が対決する過程において、サーベラーやガトランティスで生活する人々の姿が徐々に明確になっていくだろう。
それでは、個人的に想像している続編の物語を同人小説(もどき)の形で記述してみることにしよう。
(※文章が長いので、節ごとに別記事にし、リンクさせるのをご容赦願います。)
(続編小説 ~ガトランティス戦争編~)
――デスラーズ・ウォーから本編までのあらすじ――
ヒス・ディッツ政権のガミラスが内乱に陥った好機を捉え、ガトランティスが小マゼランに侵攻。小マゼラン方面軍は全滅し、小マゼランはガトランティスの手に落ちた。そしてついに大マゼランにガトランティスの大軍が侵攻し、帝国の各地が劫略と奴隷狩りの惨劇を迎える。軍事力の崩壊したヒス・ディッツ政権には為すすべがなく、帝国は滅亡の危機を迎える。
そこへデスラーが銀河系方面軍を率いて潜伏先の銀河系より舞い戻り、ガミラス全軍に自身の生存を訴えた。将兵達は帝国滅亡の危機を前にして建国の英雄に全てを賭ける事を決意、全軍がデスラーの元に寝返る。ガミラス全軍を糾合したデスラーはガトランティス軍を巧妙な罠にかけて撃滅し、指揮官のバルゼーを敗死させる。続く掃討戦でデスラーはガトランティス軍を大マゼランから一掃し、帝国各地で奴隷として連れ去られようとしていた臣民を救出した。
こうして大マゼランは危機を脱し、ヒス・ディッツ政権はデスラーに滅ぼされてしまう。その後デスラーは小マゼラン奪回の兵を出すが、ガトランティスは小マゼランを「無人の野」にして銀河系に移動した後だった。小マゼランをも帝国の手に取り戻したデスラーは「大小マゼラン諸種族の推戴を受ける」という形式で「大小マゼラン諸種族の第一人者としての総統」に就任、ガミラス第二帝国を建国したのだった。
1. ガトランティス戦争開戦までのガミラス ガミラス第二帝国
2. ガミラス第二帝国の戦争準備
イスカンダル帝国の興亡史
ガトランティス軍とガデル・タラン(その1)
ガトランティス軍とガデル・タラン(その2)
ガトランティス軍とガデル・タラン(その3)
ガトランティス軍とガデル・タラン(その4) (近日公開予定)
ガトランティス軍とガデル・タラン(その5)
3. ガミラス第二帝国のユリーシャ
4. ガトランティス帝国
5. 開戦 サーベラー対デスラー
6. サーベラーの苦闘
7. 戦争の駆け引き ズォーダーとデスラー
8. イスカンダル星 スターシャとデスラー
9. ガミラスとガトランティスの混迷 ユリーシャのガミラス脱出、そして戦争の舞台は地球へ――
以降、ヤマトが再び地球を発つ物語へと続く予定
![劇場版 宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟 [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/5132dtjvmBL._SL160_.jpg)
――スターシャとデスラーの二人について――】
ヤマト2199の内容に触発され、デスラーについて考察してから、縁あってスターシャについても考察する機会を得る事ができた。ガミラスとイスカンダルの関係、スターシャとデスラーの関係を考えてみて改めて思ったのは、二人はあらゆる意味でコインの表裏のような存在であるという事だった。デスラーはその人間性が歴史上の帝王達によく類似していて、その行いや事跡は極めて現実的で実利的であったと思われるのに対し、スターシャは「叶いそうもない理想を掲げ、現実的とは思えない行為を実践し続ける」という一点において、まさに理想を体現する宗教者であるように筆者には思えた。現実を司る存在と、理想を司る存在。二人の関係が、神の視点を持つ視聴者ですら容易に窺い知る事のできない複雑なものになり得るのも当然であると筆者には思えた。
仮に続編があるとしたら、二人の関係はどうなっていくのだろうか。一ついえるのは、ヤマト2199の世界観を最大限尊重する限り、二人は再び物語に登場して来ざるを得ないということだろう。例えば波動砲は、「宇宙を引き裂き、イスカンダルはそれを禁忌とした」という事実が劇中で提示された。続編でデスラーが、ズォーダーの用心棒であれガミラスに復権するのであれ登場してデスラー砲を使用し、地球も波動砲を使用したならイスカンダルの立場は一体どうなるのか。ヤマト2199の世界観を最大限尊重する限り、イスカンダルについて真正面から掘り下げていかざるを得ないし、当然スターシャも物語に深く関わっていく事になるだろう。果たして二人の関係はどうなるのだろうか。
筆者が想像したような物語に決してならないにせよ、ヤマト2199の物語世界の中心にいた二人とその関係は、再び姿を変えて何らかの形で物語の中心であり続けるのではないだろうか?
『宇宙戦艦ヤマト2199』 [あ行][テレビ]
総監督・シリーズ構成/出渕裕 原作/西崎義展
チーフディレクター/榎本明広 キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/山寺宏一 井上喜久子 菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 麦人 千葉繁 田中理恵 久川綾
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】