『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』は総集編じゃない
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「総集編といっても、とにかく1本の映画。2時間の劇場映画を作る気持ちでやろうと。それを僕らのスタンスにしたんです。」
『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』のパンフレットに収録されたインタビューで、構成の森田繁氏は加戸誉夫(かと たかお)監督とともにこう述べている。
とはいえ、全26話もある『宇宙戦艦ヤマト2199』を、2時間程度で物語るのは不可能だ。だから、どういう映画にするかが肝になる。
それを、加戸監督は初日初回の舞台挨拶でズバリと云い切った。「俺ヤマト」だと。
私は総集編が好きじゃない。
数十話に及ぶテレビシリーズを総集編にまとめたって、大事なシーンや思い出深いエピソードが欠落した中途半端なものになってしまうに決まっている。無理にエピソードを詰め込んでも、本来の尺で描けない以上、中途半端な感じは残る。
それでもかつて総集編を見るしかない時代があった。家庭に録画・再生機器が普及しておらず、映像ソフトの市販もない時代、テレビ番組を見たければ再放送を待つしかなかった。もう一度作品に接することができるなら、総集編でも構わなかった。
テレビシリーズを再編集した『宇宙戦艦ヤマト』劇場版第一作(1977年)や『機動戦士ガンダム』の劇場版三部作(1981年~1982年)のヒットには、こうした背景があるだろう。
だが、それだけなら一般家庭に録画・再生機器が普及して、DVDを買ったりネット配信を受けたりできるようになった現在、総集編を観る意味はない。
いや、大河ドラマや朝の連続テレビ小説の総集編が毎年放映されるくらいだから、半年なり一年かけて味わった感動を手軽に思い起こす手段としては総集編も悪くないかもしれない。
ただ、わざわざ劇場に足を運んで相応の料金を払うには、テレビで総集編ドラマを視聴するより強い動機が必要だ。
このファン心理を山賀博之氏は次のように説明する。[*]
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アニメに限ったことではなく、「何かにお金をかける」という行為は信仰に近い。(略)アニメファンが、無料で視聴可能なテレビアニメにお金をかけるのはお布施であって、自分の気持ちの問題でした。グッズや本を買うのは、実用性ではなく、そばに置いておきたいという愛情表現だったし、テレビアニメの総集編映画を、劇場にまで足を運んで観るというのも「僕はこれが好きだ」と自己主張したいからです。
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たしかに総集編の上映には、ファンイベントとしての側面があった。
まつもとあつし氏は、近年ツイッターなどのソーシャルメディアによって、総集編アニメ映画の「ファン同士で盛り上がるためのツール」としての側面が強化されつつあると語る。[*]
山賀氏も「今の劇場には、お客さんがほかの観客と一緒に映画を観て、『あそこで観てきた』とツイートして共有するといった、見世物の基本に先祖返りするようなスタイルが求められている」という。総集編といえども、音声を録り直したり、新規作画を追加したりで結局お金がかかるので、総集編映画単体で儲かるわけではないそうだが、「今は生き残るため、各社ができることをなんでもやっている」。
『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』の公開が、極上のファンイベントであることは間違いない。
劇場に足を運ぶ観客の多くは『宇宙戦艦ヤマト2199』の、そして『宇宙戦艦ヤマト』のファンであろうし、『2199』の作り手も『宇宙戦艦ヤマト』のファンだろう。
『2199』の上映は、ファンからファンに向けた、ヤマトへの想いを手渡しする場と云っても過言ではない。
だから加戸監督の「俺ヤマトを作るんだ」という姿勢にはとても納得した。「みなさんの数だけ『俺ヤマト』があるでしょうが、これが私の『俺ヤマト』です。」
総集編とは、字義どおりに受け取れば、すべてを集めて編んだもののはずだ。
ところが舞台挨拶に立った森田繁氏も、『追憶の航海』を「ダイジェストにはしない。名場面集にはしない。」つもりで作ったという。
つまり、『宇宙戦艦ヤマト2199』の最初から最後までを振り返ったり、印象深いあのシーンこのシーンを再見する作品にはしていないということだ。ナレーションを極力少なくしたと云うだけあって、ストーリーのすべてを解説した作品でもない。キャラクターの多くは出番がなくなり、欠かせないはずの名場面があっさりと削られた。
その点で、総集編を期待したファンは肩透かしを食ったかもしれない。ファンイベントと云っても、これは「ファンのみんなで大好きな『宇宙戦艦ヤマト2199』を振り返ろう」というものではなく、加戸監督や森田氏が絞り込んだ「俺にとってのヤマトはこれだ!」という剛速球を受け止める場なのだ。
そして私は加戸監督の「俺ヤマト」に大いに共感した。
『宇宙戦艦ヤマト2199』は旧シリーズをベースにしつつも豊かに肉付けされた作品だから、様々な切り口があったはずだ。
そんな中、『追憶の航海』は一つの想いに貫かれている。――「戦う男 燃えるロマン」だ。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の公式サイトには「古代進視点で振り返る特別総集編」と銘打たれているが、これは古代進のナレーションで進行することを指すに過ぎず、古代進中心になるわけではない。カナメはあくまで沖田艦長で、ヤマトクルーの熱い物語が展開する。
私は『追憶の航海』を観て、改めて『宇宙戦艦ヤマト2199』のストーリーの面白さを堪能した。今回の映画が完成するまで最初の劇場版を見ないようにしていた森田氏は、作業を終えてから見直して、構成が似ていることに愕然としたという。本作は「すべてを集めて編む」ことを放棄する代わりに、『宇宙戦艦ヤマト2199』の根幹となる骨太のストーリーを見事に浮き彫りにしたのだ。私は総集編が嫌いだけれど、こんな編み方なら大歓迎だ。
何といっても英断を称えたいのは、メ号作戦――すなわち連合宇宙艦隊がボロ負けした冥王星沖海戦にはじまる第1話をまるまるカットしたことだ。
旧シリーズにおいても第1話は名作中の名作であり、『2199』の第1話が旧第1話をほぼそのまま踏襲したことからも影響の強さがうかがえる。
それだけに、第1話をどれだけ残すか/削るかが、『追憶の航海』の行方を左右するポイントだった。
森田繁氏がインタビューで「冥王星沖海戦から入ると、どうしても作品のリズムがそこで決まってしまうと思ったんですね。(略)TVとスタートから同じにしてしまうと、そこから少しでも逸脱すると違和感だけが残ってしまうんですね。そこから先は、TVとの違いを確認する作業になってしまう。それを防ぐためにも、総集編の入り口は、TVとは変える必要があると思いました。」と語るとおり、この決断が本作のカラーを決定した。
大迫力のメ号作戦を失った代わりに本作が冒頭に配したのは、メ2号作戦――第二章の冥王星前線基地攻撃作戦だ。前半の山場ともいえるメ2号作戦で開幕することにより、本作は迫力あるオープニングを実現するとともに、驚くほどのテンポの良さを手に入れた。
それから後は、奇をてらわずにテレビシリーズを踏襲した直球勝負だ。
加戸監督の舞台挨拶によれば、地球側だけに焦点を当てることや、ガミラス側から描くことも検討したという。2時間前後に収めるには、地球側の描写に絞るのも正当なやり方ではあっただろう。
だが、加戸監督は「出渕総監督のガミラス愛に負けました」という。「やっぱりガミラスを出さないと面白くないんですね。」
デスラーをはじめ魅力的な敵キャラクターを輩出したのが、『宇宙戦艦ヤマト』の特徴の一つだった。『2199』ではこれをさらに推し進め、敵側を重層的に描写した。加戸監督と森田氏は大鉈を振るいながらも、本作にドメルの妻や二等ガミラス人の悲哀を織り込んで、物語の厚みを維持したのだ。
正反対の例としては、山崎貴監督の作品が挙げられよう。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に感動して育ったであろう山崎貴監督は、敵側の描写をごっそり削り、自陣営の人間ドラマだけからなる『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や『永遠の0』を発表した。
『永遠の0』には原作小説があるから外見上はヤマトに無関係だが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を観て育った人には、映画『永遠の0』が舞台を太平洋戦争に置き換えた『さらば――』の再現であることが一目瞭然だろう(もともと宇宙戦艦ヤマトシリーズは、第二次世界大戦を宇宙に置き換えたものだが)。
テレビドラマ『アオイホノオ』第十話の焔モユルが、このような作り手の心情を吐露している。『太陽の王子 ホルスの大冒険』をパクったアニメを上映したモユルは、観客に向けて心の中で叫ぶ。「ホルスを知ってる奴、本物を思い出して感動してくれ!」
岡田斗司夫氏はこの第十話へのコメントで、「実は作り手はみんなモユルのようなことを考えている。(略)クリエイターや元クリエイターの視聴者はいま、『たしかにそんなこと考えた!いまも考えてます!』『モユル、オレの心の奥を暴くのはやめてくれっ~!』と叫んでいるはずだ。(略)テレビの前で奥さんといっしょに正座して見ている山崎貴監督!恥ずかしいでしょうそうでしょう。」と述べている。
閑話休題。でも、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や『永遠の0』は『さらば――』の再現ではあっても、『宇宙戦艦ヤマト』の再現ではない。敵にも人間ドラマがあることを忘れないのが『宇宙戦艦ヤマト』だからだ(『さらば――』では敵側のドラマチックなところをデスラーが持って行ってしまい、ガトランティスのドラマは薄い)。
加戸監督は「出渕総監督のガミラス愛」と表現したが、それこそが『2199』を『宇宙戦艦ヤマト』の継承者たらしめるものであり、『追憶の航海』が外せなかったものだろう。

一本の映画として見応えのある『宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海』だが、総集編として制作されたからには果たすべき役割がある。前述したファンイベントだけではない。
総集編がテレビシリーズの再編集とは限らない。
劇場版の『宇宙戦士バルディオス』(1981年)や『伝説巨神イデオン』(1982年)は、放映途中で打ち切りになったテレビシリーズの真の結末を発表するため、テレビシリーズを再編集した前半と、本来予定されていた最終回までの後半で構成された。
特に劇場版の『伝説巨神イデオン』は、テレビシリーズの総集編『接触篇』と、テレビでは描かれなかった物語『発動篇』の二本同時上映の形を取った。『接触篇』の終りで物語はテレビシリーズから分岐し、テレビとは異なる展開の『発動篇』へ突入する。『接触篇』は『発動篇』のためのイントロであるとともに、物語の分岐点を明確にする役割を担っていた。
劇場版『伝説巨神イデオン』と同じような構成になるはずだったのが、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(1997年)だろう。この作品はテレビシリーズを再編集した『DEATH』編と、テレビとは異なる結末を描く『REBIRTH』編の同時上映のはずだった。
ところが『REBIRTH』編の制作の遅れから、1997年春に公開された『シト新生』は『DEATH』編と『REBIRTH』編の一部のみとなり、『REBIRTH』編全体に相当する部分は1997年夏公開の『Air/まごころを、君に』に回されてしまう。
このようなトラブルにもかかわらず、『シト新生』も『Air/まごころを、君に』もヒットしてしまうのだから世の中は面白い。
今では、テレビシリーズの再編集に新規映像をちょっと加えて公開することや、新作映画に先行してテレビシリーズの総集編を公開するのは珍しくなくなった。
『追憶の航海』も、二ヶ月後に『星巡る方舟』の公開を控えての総集編だ。
新作映画のための地ならしとして、従来のファンに『2199』を思い出させて盛り上げると同時に、『2199』を知らない人にこれまでの物語を紹介し、新作に足を運びやすくさせる役割がある。
『追憶の航海』を131分にまとめるに当たっては、素材となる全26話から多くのものが切り捨てられた。だから、本作を観ても『宇宙戦艦ヤマト2199』の全貌は掴めない。
しかし本作は『2199』の全貌を理解するための映画ではない。『星巡る方舟』を観る上で必要な知識が得られれば充分なのだ。『2199』を知らなかった人を、新作を観るためのスタートラインに立たせてあげる。それが新作映画に先行する総集編の役割だ。
そもそも『追憶の航海』を観て、アレが足りないコレが足りないと感じるのは、すでに『宇宙戦艦ヤマト2199』全話を見た人だろう。本作ではじめて『2199』に接する人は、押し寄せる怒涛の展開と「燃えるロマン」に圧倒されるに違いない。
もう一つ、本作の大事な役割は、物語の分岐点を示すことだ。
イスカンダルを旅立つヤマト、それを見送るスターシャ。ここで本編が終了したとき、その鮮やかな幕切れに、新作への見事な引きに、私は呆気にとられた。
イスカンダルから地球への帰路を描かない。これこそが『星巡る方舟』に繋ぐ最大の伏線だ。誰もがこの後を観たくなる。
泣かせるのは、エンディングに映し出された描き下ろしイラストだ。本編で帰路を描かない代わり、本作のエンディングではイスカンダル出立後の帰路での出来事を9点のイラストで紹介している。
ガミラス再建に向けて議会で演説するユリーシャ、子供たちに囲まれて好々爺の地を出したヒス、かつての対立を水に流した島と山崎、地球・ガミラス・イスカンダルの共存を象徴するパフェ等々、ファンなら一度ならず夢想したであろう平和な情景を次々に見せてくれる。
『2199』を知らない人でも楽しめるように配慮してきた加戸監督だが、エンディングだけは従来のファン向けに解禁した。全26話を見ていなければイラストの意味は判らないだろうけど、それだけにファンの心を鷲掴みにするものだ。
これまで『2199』を知らなかった人も、本作をきっかけにテレビシリーズを見てくれれば、エンディングに描かれたものが判るだろう。
戦う男の燃えるロマンから解放された安らかなエンディングに、私は涙が止まらなかった。
第七章までの上映会と同じく、映画が終わると場内は盛大な拍手に包まれた。
私も惜しみない拍手を送り続けた。
[*] サイゾー 2013年3月号「アニメ映画急増の舞台裏」
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監督/加戸誉夫 構成/森田繁、加戸誉夫
監修/出渕裕 原作/西崎義展
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/菅生隆之 小野大輔 鈴村健一 桑島法子 大塚芳忠 山寺宏一 井上喜久子 麦人 千葉繁 久川綾
日本公開/2014年10月11日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [戦争]

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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2199】
【genre : アニメ・コミック】
『ジャージー・ボーイズ』はミュージカルじゃない
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『ジャージー・ボーイズ』は1960年代に数々のヒットを飛ばした伝説のグループ、ザ・フォー・シーズンズをモデルにしながら、虚構を交えた実録物だ。しかも原作はトニー賞受賞のブロードウェイ・ミュージカル。華やかなステージ、心躍るヒット曲、波乱に満ちた成功物語だ。
そんな作品を、よりによってクリント・イーストウッドが監督するとは!?
アクション大作『ファイヤーフォックス』を撮った頃ならいざ知らず、『許されざる者』で人生のやるせなさを描き、『グラン・トリノ』で達観し、『チェンジリング』や『J・エドガー』でアメリカの暗部にメスを入れた老監督が、84歳で発表する新作がロック、ポップス満載の青春群像だなんて、違和感いっぱいじゃないだろうか。
しかし、映画が完成してみれば、これはイーストウッドならではの端正な作品だった。
並みの監督なら、ブロードウェイ・ミュージカルをスクリーンに再現することに注力し過ぎて、映画のスタイルを置き去りにしたかもしれない。
けれどもクリント・イーストウッドは達観した老監督らしく、成功もあれば失敗もあるやるせない人生を、しみじみとした語り口でスクリーンに映し出した。
イーストウッドはインタビューでこう述べている。
「作品のテーマはあくまで4人の男の物語で、たまたま彼らが音楽を選んだだけだ。音楽でなくてもよかったんだ。」
ブロードウェイ・ミュージカルの映画化でありながら「音楽でなくてもよかった」なんて、いったい他の誰が口にできるだろう。
きっと2000年の映画『スペース カウボーイ』について尋ねられても、こう答えたに違いない。「作品のテーマはあくまで4人の男の物語で、たまたま彼らが宇宙を選んだだけだ。宇宙でなくてもよかったんだ。」
『スペース カウボーイ』の頃はまだ、イーストウッドに「歳を取っても若いヤツには負けないぞ」という鼻息の荒さがあり、それが映画を無骨なものにしていたが、本作のイーストウッドは若者の無軌道さを包み込み、慈愛をも感じさせる。
イーストウッドはこうも述べている。
「私はこの作品をミュージカルだと思っていない。むしろストーリー重視でアプローチした。」
驚くべき発言だ。普通はミュージカルであることをわきまえて作るだろうに。
ところが言葉の綾ではなく、本当にイーストウッドはこの作品をミュージカルではないものにしまった。
既存の作品をミュージカルにすることは多い。たとえばロジャー・コーマン監督の映画をブロードウェイ・ミュージカルにした『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』、ジョン・ウォーターズ監督の映画をブロードウェイ・ミュージカルにした『ヘアスプレー』、フェデリコ・フェリーニの映画『8 1/2』をブロードウェイ・ミュージカルにした『NINE』あたりが思い浮かぶ。いずれもミュージカルから再映画化され、ミュージカル映画としても発表されている。
このようにミュージカル化(歌や踊りを足し算)する例は珍しくないが、ミュージカルとして成功を収めた作品をわざわざミュージカルではなくしてしまうアンミュージカル化(歌や踊りを引き算する)は珍しいに違いない。
そんなことができるのも、俳優・監督だけでなく、映画音楽も担当するほど音楽への想いと才能に溢れたクリント・イーストウッドだからだろう。
映画『ジャージー・ボーイズ』がミュージカルではないことは、ご覧になればお判りだろう。
ミュージシャンの物語だから歌に溢れた映画だが、それらはステージのシーンやレコーディングのシーンや、ラジオから流れるBGMにとどまっている。
ピアニストのエディ・デューチンの生涯を綴った『愛情物語』が、音楽に溢れていてもミュージカルではなかったように、本作もあくまで音楽映画だ。
けれども、舞台『ジャージー・ボーイズ』はそうではない。ブロードウェイをはじめ各地で上演されたこの舞台は、堂々のトニー賞ミュージカル作品賞の受賞作品だ。オリジナルのミュージカルナンバーを作らずに、既存のヒット曲をかき集めてミュージカルに仕立てるジュークボックス・ミュージカルの一つである。
映画同様にフォー・シーズンズのステージのシーンで歌っているが、そこにはミュージカルらしい振付が施されている。
私はミュージカルが好きだと書いたことがあるけれど、ミュージカル映画なら何でも歓迎するわけではない。ミュージカル映画は変だからだ。
なにしろ登場人物が道端で突然歌い出したり、突然踊り出したりするのだ。ミュージカル嫌いの友人は、不自然だから嫌だと云う。まったく同感だ。
突然歌い出したり、突然踊り出したりしてこそミュージカルだと云われるかもしれないが、私はそうは思わない。そこには歌いたくなるほどの感情の高まりがあり、踊りたくなるほどの気分の高揚があるはずだ。それが観客に伝わるかどうかが肝だと思う。
嬉しいことや悲しいことに遭遇した主人公が歌を口にする。そこまではともかくとしても、歌いたいほどの感情を共有してるはずのない周りの人まで歌ったり、踊りたくなるほど気分が高揚しているわけでもない赤の他人が一緒に踊り出したりすると、もうダメだ。私には付いていけない。
『ウエスト・サイド物語』のシャーク団の面々が「アメリカ」を歌い踊ってもおかしくないのは、アメリカに対する屈折した思いを彼らが共有しているからだ。『マイ・フェア・レディ』で教会に行く一団が声を合わせて「時間どおりに教会へ」を歌うのが自然なのは、みんな結婚を祝う気持ちでいるからだ。
感情が伝播し、共有されていることを示唆してなければ、コーラスにも群舞にも共感できない。
舞台では事情が異なる。
目の前で役者が歌い踊る臨場感や、息遣いが聞こえて、汗まで見える迫力が、観客を引きずり込んで舞台の一員にしてくれる。コーラスや群舞の人たちは、観客自身が歌い踊りたい気持ちを代弁している。だから、主人公の周りの人のコーラスにも群舞にも違和感は覚えない。
それに引きかえ、スクリーンに映る出来事を客観視する映画では、舞台ほどには臨場感が伝わらない。
その差を解消しないまま舞台と同じことを映画でやってしまうから、不自然に感じられるのではないだろうか。
ロバート・ワイズ監督は映画『サウンド・オブ・ミュージック』を大胆な空撮ではじめた。『ウエスト・サイド物語』では冒頭に長大なオーバーチュアを配し、俯瞰のショットではじめたりした。これらは、出だしで観客の頭をガツンとやって、劇場という異空間に引きずり込むためだろう。『レ・ミゼラブル』が非日常的な嵐のシーンではじまることにも、同様の効果があろう。
イーストウッドは舞台を映画に移植しなかった。舞台の魅力と映画の魅力は違うことを知っているからだろう。舞台の映画化作品を観てもピンと来ないことが多いけれど、イーストウッドのアプローチには感心した。
イーストウッドは舞台作品を解きほぐし、一つひとつの構成要素に分解した。歌は歌で、ストーリーはストーリーで研ぎ澄ませた。歌に関するイーストウッドのこだわりがうかがえるのは、集客力のあるスターを排して、舞台版のキャストを中心に据えたことだ。プロデューサーも自分で兼ねるイーストウッドだからできることに違いない。加えてイーストウッドは歌を事前に録音せず、キャストに生で歌わせたという。舞台で繰り返し歌ってきたキャストの最高の活かし方だ。
分解された各要素が映画として再構成されたとき、出来上がったものはミュージカルには思えなかったが、そこに何の問題があろう。
本作の歌とストーリーと人間ドラマには、熟練の監督が磨きぬいた気品と味わいがある。「ブロードウェイ・ミュージカル」という枠に囚われず、ゴテゴテ飾り付けたりもせず、引き算しながら紡ぎ出した4人の男の物語に舌を巻くばかりである。
映画ならではの演出も楽しい。
たとえばタバコ。
喫煙率が2割を切った現代とは違い、60年代はタバコを吸うのが珍しくなかった。古い時代を表現するため、喫煙シーンを出す映画は珍しくない。
本作でも吸い殻の入った灰皿がたびたび映る。舞台では灰皿の中まで見えないが、映画だから灰皿を映すだけでヘビースモーカーがいることが判る。
もちろん、むやみに喫煙シーンがあるわけではない。あからさまに喫煙描写があるのは、4人のうちでトミーだけだ。
『フライト・ゲーム』が離陸早々の飛行機内で主人公にタバコを吸わせることで、その堕落ぶりを演出したように、喫煙するのはダメ人間の印である。
本作では、トミーがグループ崩壊の原因になることをタバコで示唆している。
フランキーの娘の無軌道さを象徴するのもタバコだった。
倒れた自転車を家の前に置くことで家庭の不和を示唆したり、本作は小技を効かせた楽しい演出でいっぱいだ。
そして最後の最後、フィナーレにおいて、イーストウッド監督はミュージカルシーンもお手の物であることを見せつける。フォー・シーズンズの4人はもちろん、すべての人物が再登場し、歌と踊りをふんだんに披露するのだ。
この転調がいかしている。ミュージカルにするとなったら徹底的に舞台らしく見せている。
役者たちが再登場して歌いながら締めくくる映画はときどきあるけれど、イーストウッドはそれを映画的ではないと考えているのだろう。やるならとことん舞台的に。その切り替えが実に愉快だ。
さすがに本作では踊らないだろうと思っていたクリストファー・ウォーケンまでが、熱いダンスを披露してくれる。
映画館を出るときは最高に楽しい気分だ。
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監督・制作/クリント・イーストウッド
出演/ジョン・ロイド・ヤング エリック・バーゲン マイケル・ロメンダ ヴィンセント・ピアッツァ クリストファー・ウォーケン マイク・ドイル レネー・マリーノ エリカ・ピッチニーニ
日本公開/2014年9月27日
ジャンル/[音楽] [ドラマ] [伝記]

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