『イントゥ・ザ・ストーム』 息継ぎに気をつけろ!
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『イントゥ・ザ・ストーム』はそんな稀有な一本だ。
映画が佳境に差し掛かると、我知らず息を止めてしまう。まったく自覚はない。
危険が去ってはじめて息を呑んでたことに気付き、ようやく息を吐き出す。それが場内一斉だから、あちこちからハ~ッというため息が聞こえてくる。
このとき、しっかり深呼吸することが大切だ。危険が迫るとまた息を呑んでしまうから、ちゃんと息継ぎしないと命にかかわる。
『イントゥ・ザ・ストーム』は恐るべき映画だ。
本作を観ると、映画に大切なのはストーリーじゃないんだなぁと痛感する。
土台、2時間前後の映画で込み入った波乱万丈のストーリーを展開できるはずもない。映画としては評判が良い『ボーン・アイデンティティー』が、原作のストーリーの大半を捨てざるを得なかった(原作の敵すら出てこない)のは代表的な例だろう。複雑なストーリーが緻密に織り上げられた原作に比べると、映画版にはほとんど話がないようなものだった。
けれども、それでいいのだ。小説と違って、映画には光と音がある。目をみはる映像と迫力ある音響で、臨場感を味わわせることができる。
しかも、受け手の時間感覚を支配できる。小説やマンガは、どんなに受け手を作品世界に引き込んでも、ページをめくる手を止められたら終わりだ。
しかし映画なら、どのタイミングでどの映像を見せ、どんな音を聞かせるか、すべては作り手の思いのままだ。突然大きな音を立てて驚かせたりもできるし、素早い動きでスピードを実感させたりもできる。五感のうちでも重要な視覚と聴覚を刺激して、まるで現実のように体感させられる。
「体感」という魅力の前では、「ストーリー」なんて二の次なのだ。
それが証拠に、『イントゥ・ザ・ストーム』のストーリーを語ろうにも言葉に窮する。本作にたいしたストーリーはないのだから。大きな竜巻が田舎町を襲い、通り過ぎていく。話はこれだけだ。
この映画には、禁じられた恋に身を焦がす男女もいなければ、闘病中の患者もいないし、出産間近の妊婦もいなければ、脱獄犯もいない。映画の作り手はドラマチックな人間模様を描く気がないようだ。
でも、べら棒に面白い。
竜巻に巻き込まれて粉々に砕ける家。一瞬のうちに宙を舞うクルマ。風に巻き上げられた人の恐怖に歪んだ顔。声さえ聞こえないほどの轟音。観客が目にし、耳にするのは、恐るべき竜巻の威力である。真に迫る映像と音響は、映画館を竜巻の真っ只中に変えてしまう。
とりわけ劇中の時間進行が実時間に近くなる後半は、登場人物の恐怖が観客にも伝播する。竜巻に逃げ惑う人々のパニックを、観客も味わことになる。
本作は竜巻の威力を体感し、その恐ろしさを経験する映画なのだ。
私は通常の上映で観たが、椅子が揺れ、風が吹き、水滴が飛び散る4DXで観たならば、恐怖は倍増しただろう。
『イントゥ・ザ・ストーム』のように、映画館という特殊空間で特別な体験をする映画の魅力を、映画館の外で味わうのは難しい。
テレビ等で見たら、これほどつまらない映画はあるまい。テレビやパソコン、タブレットやスマートフォン等のパーソナルデバイスでは、映画館の大スクリーンに比べて映像の魅力が1/10にもなってしまう。音響の迫力も1/10、映画館という特殊空間に身を置けないことにより臨場感は1/100程度だろう。したがって、映画の面白さは 1/10 × 1/10 × 1/100 = 1/10000 だ。
本作にしろ、先行する竜巻映画『ツイスター』にしろ、映画館での鑑賞に最適化された作品は、上映している空間と時間に身を置くことが最大の楽しみなのだ。
とはいえ、『ツイスター』という超面白映画がありながら、またも竜巻映画を作る意義が、当初は判らなかった。
しかし映画館に足を運べば一目瞭然。あの手この手で『ツイスター』を超えようとする工夫が実に楽しい。
一番の特徴は、竜巻を怪物と捉えたことだろう。
プロデューサーのトッド・ガーナーは「竜巻は、そのもっとも完成された形なら、怪物のようなものなんだ」と語る。
その着想を受けたスタッフは、単なる比喩としてではなく、竜巻を本当に怪物らしく描いた。
ちょうど『ゴジラ』(1954年)の正反対だ。ゴジラは一応生物なのだが、劇中ではまるで台風のように描かれた。ゴジラ自身に感情や意思はなく、ただただ街を破壊し、人間を死なせてしまう。無目的に破壊をまき散らすところがゴジラの怖さだった。
ところが本作の竜巻は、あたかも意思があるかのようだ。人間の行く手を遮るがごとく出現し、複数の竜巻で取り囲み、教会へ逃げても追いかけてくる。
自然災害は恐ろしいが、意思や計略を持たないから、物陰に隠れればやり過ごすこともできるはずだ。それが唯一の救いなのに、本作の竜巻は人間を襲う意思を持つかのように振る舞う。『ツイスター』の竜巻だって、本作の前ではただの自然災害だ。自然の猛威の恐ろしさとモンスター映画の怖さを合体させたのが、『イントゥ・ザ・ストーム』なのだ。
特に、ディザスター・ムービーにゾンビ映画のメソッドを持ち込んだのは大正解だろう。
吹き荒れる竜巻のために、教会へ追いつめられる人間たち。次は誰が竜巻の餌食になるか、まったく予測できない恐怖。本作の展開はゾンビ映画そのままだが、建物を片っ端からなぎ倒す破壊力と、クルマで逃げても追いつかれるスピードはゾンビの比ではない。
空気が渦を巻きはじめると次の瞬間には行く手に立ちはだかっていたり、人間を取り逃すと雲散霧消したりと、神出鬼没な竜巻は最強のモンスターだ。
しかも、この怪物は空想の産物ではなく、しばしば現実に被害が報道されている。
そんな竜巻の脅威を、迫真の映像と音響で89分間たっぷり味わわされるのだから堪らない。
登場人物もシンプルで判りやすい。
映画の主軸は竜巻を追う撮影チームだ。彼らが竜巻の講釈をすることで、竜巻とはどんなものなのか観客の理解の助けになる。『ツイスター』の研究チームに相当しよう。
『ツイスター』にいなかったのは、竜巻に逃げ惑う地元高校の生徒や教師だ。観客が彼らに感情移入しやすいように、生徒間あるいは親子のささやかなドラマが添えられている。もちろん、それによって人間を描こうなんて意図はない。観客が登場人物に同化して、竜巻の恐怖を我がことと感じるように仕向けてるだけだ。
逃げてばかりだと竜巻の威力を描ききれないので、命知らずのバカ野郎たちも付け加える。無謀な彼らを登場させるのは、常識人なら近寄らない距離で竜巻の力を見せるためだ。
こうしてすべての登場人物が、竜巻の怖さを観客に実感させるために配置される。
これは映画だから、視覚や聴覚を通して観客自身が味わう体験だから、ドラマやストーリーの味付けは薄くていいのだ。
本作を観終えたとき、私はひどく疲れていた。89分ものあいだ、息を呑んだり拳を握り締めたりしていたのだからとうぜんだ。
その疲労が心地好かった。
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監督/スティーヴン・クエイル
出演/リチャード・アーミティッジ サラ・ウェイン・キャリーズ マット・ウォルシュ アリシア・デブナム=ケアリー アーレン・エスカーペタ マックス・ディーコン ネイサン・クレス ジェレミー・サンプター リー・ウィテカー カイル・デイヴィス ジョン・リープ
日本公開/2014年8月22日
ジャンル/[パニック] [アドベンチャー]

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『るろうに剣心 伝説の最期編』 最期を迎える伝説とは?

アクションシーンになると寝てしまう私にとって、アクション映画は鬼門である。
それでも好きだから観に行くけれど、登場人物がただ銃を撃ってばかりの映画や、殴り合いが単調に続く映画や、カットが短すぎて何をしているかよく判らない映画だと、とたんに眠くなってしまう。どうせアクションシーンのあいだはストーリーが進まないから、寝ていても問題ないし。
そんな私が、眠るどころかアクションに目をみはったのが『るろうに剣心 伝説の最期編』だ。
何よりもそのスピード感に驚く。本作には、両手でしっかり刀を構えて、ドンと踏み込むような動作はない。構える間もなく素早く刀を振り回す、走りながらの剣戟だ。時代劇にありがちな睨み合いすら省略されて、蹴ったり殴ったり転がったり、剣術の発想からは及びもつかない攻撃が一瞬の休みもなく繰り出される。従来の剣劇が日本舞踊だとすれば、本作はまるでブレイクダンスだ。
刀は剣術の得物というより、『燃えよドラゴン』でブルース・リーが手にしたタバクトヨク(俗にヌンチャクという)に近い。ブルース・リーがタバクトヨクを目にも止まらぬ速さで振り回す、あの快感を本作でも味わえる。
もちろん、これらは2012年公開のPART1でもやっていた。香港で活躍するアクション監督谷垣健治氏は、ジャッキー・チェンやドニー・イェンらとの仕事で培った技とセンスを活かして、斬新なアクションを構築した。
だが正直なところ、PART1には興醒めするところがあった。剣戟にワイヤーアクションを取り入れるのは香港・中国映画でお馴染みだが、ワイヤーで吊られて空を飛ぶ侍は現実感に乏しくて、せっかくの迫力が損なわれていると思った。
ところが、『るろうに剣心 京都大火編』の、そして後編となる『伝説の最期編』の完成度はどうだ。
アクションのスピードも激しさも独創性も、PART1の十割増しだ。ワイヤーアクションは控えめになり、その使い方は美学に昇華している。
誤解のないよう書いておくが、私はワイヤーアクションも大好きだ。いくらあっても構わない。
それなのにPART1で私が興醒めしたのは、主人公たちが危機を打破する奥の手がワイヤーだったからだ。敵と対峙して絶体絶命、この窮地をどう打開するのか関心がピークに達したところで、ワイヤーでパーッと空を飛んで敵を倒してしまうのだ。これではアクション映画で一番大切なはずの現実感――真に迫ってハラハラドキドキする感じ――が損なわれてしまう。
『伝説の最期編』では、ワイヤーの力で敵を倒したりするようなことは影を潜めた。本作のワイヤーは、いちいち歩くと映画のスピードを削いでしまう場面で展開を早めるためだったり、誇張した構図のアクションを実現するためだったりして、スピード感と迫力を増すことに徹している。
現実感あるアクション、それはスタッフ・キャストがこだわったことでもあろう。
エグゼクティブプロデューサーの小岩井宏悦氏は、今回は前作以上にその役者自身がアクションする「ドキュメンタリー性」が増したと力説する。
その典型は佐藤健さんの壁走りだろう。CGもワイヤーも使わずに、生身の佐藤健さんが壁を駆けて宗次郎(神木隆之介)の攻撃をかわす場面。ワイヤーで吊ったら現実感がブチ壊しになるところだが、佐藤健さんはPART1のときから壁を走る練習をしてきたという。
今回は物語の起承転結を『京都大火編』と『伝説の最期編』に分けたから、『伝説の最期編』には起も承もなく、迫力いっぱいのアクションが延々続く。
そのアクションを活かすのが、カメラと編集だ。
アクション映画では、しばしばカメラを激しく揺らしたり、短いショットを畳みかけることがある。たいしたアクションじゃないときは、そうやってカメラ側、編集側で迫力を演出してやる必要があるのだろう。だが、アクションが本当に凄いときは、そんな必要はない。高畑勲監督が『「ホルス」の映像表現』で説明したように、こま切れの映像では凄いアクションが伝わりにくく、かえって逆効果だ。
その点、本作のカメラと編集は絶妙だ。動きの速いアクションをしっかりカメラに収め、様々なアングルからその魅力を観客に見せつける。そして編集は、迫力を演出するためというよりも、一瞬のアクションを的確に観客に伝えるために最善のショットを厳選して繋いでいく。
それでも本作のショットは短くて、目まぐるしく感じられるが、よく見ると実は案外短くない。ショットが短いのではなく、カメラが役者と一緒に移動し、向きを変え、アクションにつきっきりで動いているから短く感じられるのだ。激しいアクションを追うために、アクション部が撮影したこともあるという。そうしなければ伝えられないアクションなのだ。
こうしてアクションの面白さを存分に味わわせてくれる本作だが、剣戟にこだわればこだわるほど浮かび上がるテーマがある。大義がどうあれ、思想がどうあれ、登場人物がやっているのは殺し合いだということだ。
PART1のときから剣心は殺し合いに苦しんでおり、だからこそ彼は峰と刃が逆向きになった逆刃刀(さかばとう)で戦ってきた。本作では剣心の師匠、比古清十郎らの登場により、そのテーマをさらに真摯に掘り下げる。
PART1や前作『京都大火編』で剣心が葛藤したのは、命を奪うことの是非だった。
現在の日本なら、他人の命を奪うのは大罪だ。決して許されることではない。だが時代と場所が違えば、殺人者が英雄視されることもある。9・30事件の頃のインドネシアがそうだったし、幕末の日本もそうだった。前者が虐殺の時代で、後者が英雄の時代だなんて片づけられるものではない。
本作で内務卿として登場する伊藤博文は、後に初代内閣総理大臣となり、その後さらに三回も内閣総理大臣を務めている。そんな彼とて、幕末には暗殺に手を染めたテロリストだった(自身も暗殺されて世を去ったが)。
マンガや小説や映画の世界ではなおのこと、ヒーローは己が犠牲を顧みず死地に赴き敵を殺す。殺せば殺すほど人気を博す。
そこに一石を投じたのが『るろうに剣心』だった。PART1及び『京都大火編』では、刃を人に向けない逆刃刀に込めた剣心の想いが描かれた。
『伝説の最期編』ではさらに踏み込んで、己が犠牲を顧みないことに疑問を呈す。
時代劇は何世紀も前が舞台だから、作品の世界観や人生観も当時を反映し、伝統を意識したものになりがちだ。
とはいえ、伝統とは何だろうか。武士道のようにほとんど近代の創作であるにもかかわらず、日本の伝統だと思われているものもある。
生きるか死ぬかの戦国時代は、戦に勝って生き延びてナンボの世界だった。しかし平和な江戸時代は戦功を上げる機会がないから、赤穂浪士のように忠義を尽くして切腹でもしないと武士の存在意義を示せない。
そんな時代だから歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が評判になったのか、それとも『仮名手本忠臣蔵』がそんな時代に拍車をかけたのかはともかく、生きることを「生き恥をさらす」と呼び、潔く死ぬことを良しとする文化が日本には定着してしまった。赤穂浪士の生き残りが死にどきを求める『最後の忠臣蔵』など、その典型であろう。
その文化は芝居や映画に留まらない。
会津戦争で白虎隊が自刃したように、樺太の戦いで乙女たちが服毒自殺したように、過去、多くの人が生きるより死ぬことを選んできた。[*]
今も日本は自殺大国だ。自殺率の高さでは、世界のトップレベルにある。
幸いにも経済・生活問題に起因する自殺は減っているそうで、全国の自殺者数は4年連続で減少している。にもかかわらず、青少年の自殺は増えている。舞田敏彦氏が作成した次のグラフはショッキングだ。

これは厚生労働省『人口動態統計』と総務省『人口推計年報』から舞田敏彦氏が作成された「自殺率の年齢曲線の変化」である。自殺のピークが50代なのは相変わらずだが、前世紀末に比べれば中高年の自殺は減っている。一方で、10代後半から20代にかけての増加はどうだ。他国に比べても日本の15~24歳の自殺率は突出して上昇している。
若者の自殺の原因は就職活動にあるといわれる。就職できても、最近は若年層の過労死や過労自殺が深刻だという。
このような状況で、若年層も観る本作のメッセージは重要だ。
本作がクローズアップするのは剣心の弱点である。それは、己を犠牲にすることだという。
蒼井優さん演じる高荷恵は云う。他人を生かすだけでなく、自分を生かせと。
いざとなったら自分は死んでもいい。そんな考えがある限り、剣心は一流の剣客ではないのだ。
そのメッセージは繰り返し強調される。
非道を尽くし、殺されてとうぜんと思っている四乃森蒼紫(しのもり あおし)に対し、土屋太鳳さん演じる巻町操(まきまち みさお)は、云い放つ。「あんたには生きてもらうわ。」
瀬田宗次郎を破った剣心は、どう生きていけば良いのか判らず取り乱す宗次郎に「これからの人生の中で考えろ」と告げる。
『葉隠』の一節、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」が有名なためだろうか、ときに武士とは生き方よりも死に方を重んじるものであるかのように語られる。それが伝統的で美しい死生観であるかのように。
だからこそ、武士たちの斬り合いの果てに、道を踏み外した者の命をも尊び、自分自身も生き長らえよと説く本作のメッセージは重い。本作で最期を迎えるのは、武士という伝説なのだ。
他人を死なせず、自分も死なない。死ぬことが潔いなんて認めない。無様だろうが生き続ける。
その強烈なメッセージが、本作をいま観るべき映画にしている。
[*] 集団自決するのは日本人だけではない。1930年、大日本帝国に抵抗して追いつめられたセデック族は集団自決した。

監督・脚本/大友啓史 脚本/藤井清美
出演/佐藤健 武井咲 藤原竜也 神木隆之介 伊勢谷友介 青木崇高 蒼井優 江口洋介 福山雅治 田中泯 土屋太鳳 小澤征悦 高橋メアリージュン 滝藤賢一
日本公開/2014年9月13日
ジャンル/[アクション] [時代劇]

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『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 スペースオペラへようこそ
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なぜ『スター・ウォーズ』のフォロワーが登場しないのかと。
――などと書くと、たくさんあるじゃないかとお叱りを受けそうだ。
たしかに『スター・ウォーズ』の影響は絶大で、1977年の公開以降、『スター・ウォーズ』の流れを汲む映画は多い。いちいち数え上げたら切りがない。
だがほとんどの場合、『スター・ウォーズ』で考案された手法やイメージの真似に過ぎないように思う。『スター・ウォーズ』と同じ路線、同じ傾向の作品はどれだけあるだろうか。
もちろん、『スター・ウォーズ』の公開直後には同傾向の作品が続々作られた。
日本では『惑星大戦争』(1977年)と『宇宙からのメッセージ』(1978年)が公開され、テレビでも『スターウルフ』(1978年)が放映された。イタリア・アメリカ合作で『スタークラッシュ』(1978年)が作られたり、米国でテレビドラマ『宇宙空母ギャラクティカ』(1978年)が放映されたりした。
だが、『宇宙の7人』が公開された1980年頃には沈静化していたように思う。1984年に『スター・ファイター』が公開されたときは、「まだこういう映画が作られるんだ」と感じたものだ。
日本には宇宙戦艦ヤマトシリーズ(1983年に『完結編』公開)や『SPACE ADVENTURE コブラ』(1982年)をはじめとする宇宙物のアニメがあったから飢餓感は満たされたが、『スター・ウォーズ』のような実写映画がとれほどあったかというとちょっと思い出せない。
「『スター・ウォーズ』のような」という形容が何を指しているかを説明する必要があるだろう。
宇宙を舞台にした映画ならスタートレックシリーズがあるじゃないか、異星人・異星生物と戦う映画なら『スターシップ・トゥルーパーズ』や『エンダーのゲーム』があるじゃないか、と云う人もいるかもしれない。
けれども、私が「『スター・ウォーズ』のような作品」として期待しているのはスペースオペラだ。
スペースオペラの語義は一定ではないから、人によって理解が異なるかもしれない。
私のスペースオペラ像は、野田昌宏大元帥の著書『SF英雄群像』や『スペース・オペラの書き方―宇宙SF冒険大活劇への試み』で形作られた。おおよそ次の要素のうち、複数を有する作品だ。
・胸のすく痛快な勧善懲悪物
・光線銃を手にした早撃ちガンマン
・新兵器を発明する天才科学者
・宇宙海賊などの悪漢たち
・次々に襲ってくるベム
・(衣服を身にまとう因襲から解放された)美女
・宇宙を舞台にした、宇宙艦隊や戦闘艇による派手なドンパチ
ひらたく云えば、昔の西部劇(ホースオペラ)を宇宙に展開したような物語だ。
『スタートレック』も『スターシップ・トゥルーパーズ』も『エンダーのゲーム』も、これらを売りにした作品ではない(スタートレックのファンは、これらを売り物にしていないことに誇りを持っておられるかもしれない)。
ジョージ・ルーカスが映画化を夢見た『フラッシュ・ゴードン』ですらスペースオペラではなく、惑星冒険物あるいは「剣と惑星」物に分類されるだろう。『スター・ウォーズ』は『フラッシュ・ゴードン』を下敷きの一つにするものの、主人公が修行して高次元の能力を獲得することや、宇宙を二分する大戦争や、その背後に存在する善悪二元論的な世界観は、『フラッシュ・ゴードン』よりもスペースオペラの金字塔といわれるE・E・スミスの名著レンズマンシリーズに近い。
2014年9月6日に英テレグラフ紙が発表した「宇宙映画ベスト40」というリストがある。
「これが宇宙映画?」「これがベスト?」と疑問を抱かなくもないけれど、ここに挙げられた40本を見ればスペースオペラ映画のお寒い状況が伝わってくる。1位が『2001年宇宙の旅』なのはともかく、2位以降を見渡しても前述した要素を含む作品はほとんどない。近年の作品で該当しそうなのは、J・J・エイブラムス監督がリブートした『スター・トレック』(2009年)くらいだろうか(スペースオペラに含めるとスタートレックファンに叱られそうだが)。
『スター・ウォーズ』の大ヒットにもかかわらず、その根強い人気にもかかわらず、スペースオペラは質・量ともに寂しい限りなのだ。
皮肉なことに、『スター・ウォーズ』のフォロワーとして人々を楽しませた「『スター・ウォーズ』のような作品」は、『スター・ウォーズ』そのものの続編だ。『スター・ウォーズ』の新作のニュースが流れるたびに、多くの人が一喜一憂してきた。
「『スター・ウォーズ』のような作品」は、『スター・ウォーズ』シリーズだけがあれば充分なのだろうか。
宇宙海賊ではなくテロリストと戦い、主人公が光線銃ではなく普通の銃を撃つアクション映画なら、引きも切らずに生産されているのに。
そんな状況で登場したのが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だ。銃器の扱いに精通した主人公や、天才科学者のアライグマや、(露出は少ないが)異星の美女らが大活躍する痛快作だ。死と破壊をもたらす悪の軍団に、宇宙盗賊団や正規軍が入り乱れ、派手なドンパチも欠かさない。
いやー、待ってました!これぞスペースオペラの醍醐味だ。
前述したスペースオペラの要素を、こんなにも見事に押さえてくれた映画は珍しい。『グリーン・ランタン』や『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』もいくつかの要素は押さえていたが、これぞ真打と云えるだろう。
しかも一人のスーパーヒーローが活躍するのではなく、チームを組んで戦うところが、スペースオペラの代表作の一つキャプテン・フューチャーシリーズそのままで嬉しい。
スーパーヒーローの映画がスペースオペラになりにくい理由には、主人公の強さが尋常ではないことが挙げられるだろう。スペースオペラなら艦隊戦やドッグファイトが見どころなのに、マーベルのスーパーヒーローたちは素手で(せいぜい槌で)敵を全滅させてしまう。それはスーパーヒーローだからとうぜんのことではあるが、素手で全滅させられるような敵しか出せないという作劇上の弱みでもある。
ハルクが戦闘機を操縦したりクルマを疾走させるところなど、誰も見たくはないだろう。だが、それを避けている限り、手で殴ったり足で走ったりする映画しか作れない。[*1]
その点、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー[*2]は、メンバーの一人ひとりはたいして強くない。特に主人公は、本作を見る限りちょっと身体能力が高いだけの人間だ。
だからこそ、宇宙艇を操ったり、銃器を振り回す映画にできる。アクション映画が地上でやっていることを、宇宙で展開できるのだ。
チームで戦うヒーローというコンセプトは珍しいものではない。
もともと一人で戦っていたヒーローたちが集結するアベンジャーズが、歴代ライダーが集まった『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』のようなものだとするならば、チームでの活躍を前提にしたガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはスーパー戦隊シリーズに相当しよう。
現在のヒーローチームの源流の一つは、1933年に発表された「ブロンズの男」こと『ドック・サヴェジ』だろう。科学者であり冒険家でもあるドックは、5人の仲間≪ファビュラス・ファイブ≫とともに難事件の数々に挑んだ。このパルプフィクションのヒーローは大人気を博し、シリーズはなんと181編も執筆された。
このスタイルをスペースオペラに持ち込んだのが、1940年にはじまったキャプテン・フューチャーシリーズだ。科学者にして冒険家(こればっか)のキャプテン・フューチャーと3人の仲間≪フューチャーメン≫が、太陽系を股にかけて活躍する小説だ。
時代が下って1961年、アメコミにもヒーローチーム『ファンタスティック・フォー』がお目見えした。天才科学者ミスター・ファンタスティックをリーダーとする4人組の超能力者は、異星や未来や異次元からの敵と戦った。
『南総里見八犬伝』や歌舞伎の『白浪五人男』があった日本でも、1963年に吉田竜夫氏のマンガ『少年忍者部隊 月光』の連載がはじまり、1964年にはテレビドラマ『忍者部隊月光』になって、放映期間は3年近くに及んだ。この後、1972年にテレビアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』、1975年には『スパイ大作戦』の影響を受けたスパイアクション『秘密戦隊ゴレンジャー』が誕生し、現在のスーパー戦隊シリーズに続くことになる。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのマンガ初登場は1969年だから、再びスペースオペラが盛り上がった頃である。
1920年代、30年代に量産されたスペースオペラは、60年代にまた書かれるようになっていた。巨匠E・E・スミスが久しぶりに新作を発表し、キャプテン・フューチャーシリーズの作者エドモンド・ハミルトンは新たなシリーズ『スターウルフ』を執筆した(スペースオペラかどうかはともかく、テレビでは宇宙物のスタートレック一作目『宇宙大作戦』や『宇宙家族ロビンソン』が放映されていた)。1973年になれば、グレゴリイ・カーンことE・C・キャブがキャプテン・ケネディシリーズに着手する。そんな時期にガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは誕生した。
ファンタスティック・フォーがアメコミに持ち込んだヒーローチームのコンセプトと、60年代に再興したスペースオペラ。二つの流れが合体したのがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーだといえよう。
映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の元になるのは、2008年に結成された新生ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの方だ。初代チームのヨンドゥが、主人公の育ての親として登場するのは粋な計らいだ。
ちなみに2008年は、スター・ウォーズ新三部作(~2005年)の完結後、『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』(2008年)が公開されたときだから、マーベルがスペースオペラに取り組む下地は充分である。
本作が面白いのは、作品の裏に100年になんなんとするスペースオペラの歴史がうかがえるからだ。
本作にはいささか盛り込み過ぎのきらいがある。『スター・ウォーズ/新たなる希望』の舞台となる惑星タトゥイーン、デス・スター、ヤヴィンが示すように、映画1本が舞台にする世界は三つくらいが一般的なのに、本作は惑星モラグ、ノバ帝国の首都ザンダー星、刑務所キルン、古代種族の頭部、移動要塞ダークアスターと五つもの世界を駆け巡る。並みの映画なら説明不足で消化不良を起こすところだが、そうならないのが本作の魅力だ。劇中のちょっとしたことにも、その背後に数多のスペースオペラが垣間見えて、懐かしさが押し寄せる。
そもそも1940年代に書かれたキャプテン・フューチャーシリーズがすでにスペースオペラの集大成たる作品なのだから、その要素を取り入れた本作に接すると、気持ちは瞬時に1940年代へ、さらには20~30年代のスペースオペラ全盛期に飛んでいく。
もちろん、過去のスペースオペラを知らなければ楽しめないわけではない。知らなければ、スペースオペラの歴史の蓄積がもたらした上澄みの美味しいところから味わえるのだから、なお幸せだ。
『キャプテン・フューチャー』の誕生から七十余年を経て、映画も遂にここまで来た。
注目すべきは、ジェームズ・ガン監督の手綱さばきの巧さだろう。
『スーパー!』ではヒーロー物のネガティブな面をこれでもかと暴き出したガン監督が、本作では憑き物が落ちたようにヒーロー物のポジティブな面を楽しんで撮っている。
順序が逆だったらこうはいくまい。ヒーロー物が持つ傲慢さ、幼稚さ、狂気と暴力性を『スーパー!』で吐き出して、シニカルな眼差しで検証し終えたからこそ、今回これほど能天気に突き抜けた作品を撮れたに違いない。
それでもシニカルな視点は随所に感じられる。
一体全体、ラスボスとの最終決戦で踊りだすヒーローなんて、これまでにいただろうか。
ハンサムなクリス・プラットが演じるから観客は笑って見ているが、ガン監督の心の眼には『スーパー!』の中年男フランク・ダルボが映っていたのではないだろうか。あの不細工で、小太りで、みっともない男が、宇宙の危機だというのに踊っている。『スーパー!』でシニカルな想いを吐き出してなかったら、そういう皮肉をやってしまったかもしれない。
そこをギリギリで踏みとどまり、誰もが楽しめる痛快スペースオペラの範疇に収めてみせたガン監督の手腕の冴えに喝采を送りたい。
[*1] この点を巧く処理した作品として『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』(2010年)がある。ウルトラマンにかこつけてスペースオペラに挑戦したこの映画は、主人公が普通の人間と戦艦並みの巨大ヒーローを行き来するウルトラシリーズの特徴を活かして、スーパーヒーロー物とスペースオペラを両立させていた。
[*2] 本来はガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー(Guardians of the Galaxy)だが、本稿では映画の邦題に合わせてガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと表記する。
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監督・脚本/ジェームズ・ガン 脚本/ニコール・パールマン
出演/クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ ヴィン・ディーゼル ブラッドリー・クーパー ジャイモン・フンスー ジョン・C・ライリー グレン・クローズ ベニチオ・デル・トロ リー・ペイス マイケル・ルーカー カレン・ギラン
日本公開/2014年9月13日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [ヒーロー] [SF]

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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ジェームズ・ガンクリス・プラットゾーイ・サルダナデイヴ・バウティスタヴィン・ディーゼルブラッドリー・クーパージャイモン・フンスージョン・C・ライリーグレン・クローズベニチオ・デル・トロ
『舞妓はレディ』は『マイ・フェア・レディ』と全然違う!

粗野で下品な花売り娘を、立派なレディに仕立てられるか。言語学者ヒギンズ教授と友人ピカリング大佐との賭けに使われたイライザは、訛りを矯正すべくヒギンズ教授の猛特訓を受ける。アカデミー賞8部門を制したこの映画は、ロマンチックな物語と心躍るミュージカルナンバーで世界中の人に愛されている。
その名作の舞台を京都に置き換えた愉快な映画が『舞妓はレディ』だ。
抜群に楽しい映画だった。思い返すと気分が高揚してくる。
まず目に付くのが、『マイ・フェア・レディ』からの移植の妙だ。
きつい鹿児島弁と津軽弁のハイブリッドを話す少女を、一人前の舞妓に仕立てられるか。言語学者の京野教授と呉服屋の北野社長との賭けに使われた春子は、優雅な京ことばを習得すべく、京野教授の猛特訓を受ける。いやはや、『マイ・フェア・レディ』が巧く舞妓に置き換えられたものだ。
小技も効いている。
イライザ(オードリー・ヘプバーン)が練習する「スペインの雨は主に広野に降る(The rain in Spain stays mainly in the plain)」[*]という文は、「京都の雨はたいがい盆地に降る」に変えられた。原文では発音の練習用に韻を踏んでいるのに、本作の文は地名を京都にしただけでちっとも京ことばの練習になっていない。そのおかしさに笑ってしまった。
クライマックスでは女将役の富司純子さんが、『マイ・フェア・レディ』の舞踏会でのオードリー・ヘプバーンによく似たドレスをまとっている。華奢な体つきでありながら毅然とした立ち姿の富司純子さんは、なるほどオードリー・ヘプバーンを思わせる。エスコートする京野教授役の長谷川博己さんと北野社長役の岸部一徳さんもアスコット競馬場の紳士のようなフロックコートで、『マイ・フェア・レディ』の再現ぶりが楽しい。
『マイ・フェア・レディ』だけではない。映画の記憶はあちこちに散りばめられている。
冒頭、草刈民代さん演じる芸妓が片肌脱ぎになって刺青を見せる場面は、富司純子(ふじ すみこ)さんが藤純子(ふじ じゅんこ)だった時代の当たり役「緋牡丹のお竜」を彷彿とさせる。
京野教授が京ことばをマスターさせるために実践する「京野メソッド」は、京野教授を演じる長谷川博己さんのテレビドラマ初主演・映画初主演作『鈴木先生』の教育理論「鈴木メソッド」のもじりではないか。
さらに周防監督作品のファンには嬉しいことに、竹中直人さんと渡辺えり子さんが『Shall we ダンス?』のダンス大会で見せた抱腹絶倒のコスチュームを再現してくれる。
キャストたちの過去作への言及に、客席の私はニヤニヤしっ放しだった。
キャストの中でも肝になるのは舞妓役の田畑智子さんだ。
春子は先輩舞妓が録音した言葉を手本に京ことばを練習する。
春子が懸命に京ことばを習得しようとしているのに、もしも先輩の京ことばが正確でなかったら映画は成立しないだろう。
その点、京都で三百年続く老舗料亭の娘で、祖母も母も芸妓・舞妓で、京ことばや作法を厳しくしつけられて育った田畑智子さんほどの適任者はおるまい。小学校の卒業文集の将来の夢に「舞妓さん」と書いていたほどだ。本作で先輩舞妓を演じるに当たっては、母に指導してもらったという。
役者が方言のセリフを喋ると地元の人は違和感を覚えたりするものだが、田畑智子さんの言葉や所作には口の悪い京都の人も文句のつけようがないだろう。
注目すべきは、半年ものオーディションを経て主役を射止めた上白石萌音(かみしらいし もね)さんだ。
『ファンシイダンス』(1989年)、『シコふんじゃった。』(1992年)と男性中心の映画が続いた後、今度は"女の子が頑張る映画を作りたい"と考えた周防正行監督は、舞妓を題材に新作を撮るはずだったという。それなのに20年も中断してしまった企画が今ようやく結実できたのは、上白石萌音さんと出会えたからでもあるだろう。オーディションの時点ではまだシナリオがなく、周防監督は最終的に萌音さんに決まってから彼女のイメージでシナリオを書いたという。
これが映画初主演になる萌音さんを見るのは、まるでオードリー・ヘプバーンが『ローマの休日』で登場したときに立ち会っているようだ。
そして驚かされるのは、本作がまさかのミュージカルであることだ。
いくら『マイ・フェア・レディ』の移植とはいえ、『マイ・フェア・レディ』の物語を換骨奪胎するのと、ミュージカルを作るのとではわけが違う。
和製ミュージカル映画が少ないのは、それだけミュージカルを作るハードルが高いからだろう。しかも京都の花街(かがい)は、ミュージカルのイメージからほど遠い。
にもかかわらずミュージカル仕立てで作られた本作は、実にチャーミングで面白い。
22年前から京都を取材してきた周防監督は、ミュージカルにした理由をこう語る。
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お茶屋さんに行っていて楽しいことがいっぱいあったんです。その楽しいことを映画にすればいいんじゃないかと思いました。(略)その楽しさを皆さんに伝えるのに歌と踊りというのはうってつけではないか。まさにお座敷遊びには唄と踊りがつきものなので、ミュージカルという手法を使って京都を明るく楽しく描こうと思いました。
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ミュージカル映画のもっとも難しいところ――それは歌や踊りとリアルな芝居との切り替えだろう。『シェルブールの雨傘』のように全編歌で進行させて、切り替えを発生させない例もある。
ところが周防監督はリアルな芝居の合い間あいまに歌や踊りを挿入しながら、その切り替え方がまことに巧い。日本舞踊の練習がジャズに変化するのはもとより、単に酒を飲むシーンでも卓を叩く音が曲のイントロになったりして、監督の腕は冴えている。
女将の回想から書割の幻想的な世界に突入するシークエンスは、これまでのリアリズム重視の周防作品からは想像もつかない展開だ。
映画全体をリアリズムとファンタジーの微妙な境界上に位置付けて、どちらにでも傾ける自由を確保したのが本作の特徴である。
周防監督作品ではお馴染み、周防義和氏の音楽も心地好い。
小春(上白石萌音)さんが唄う主題歌『舞妓はレディ』は、そこはかとなく『マイ・フェア・レディ』の代表曲『踊り明かそう』を思わせる名曲だ。
しかし、周防監督は本格的ミュージカルにするつもりはなかったという。ここが『マイ・フェア・レディ』との大きな違いだ。
高嶋政宏さんのようにミュージカルで活躍する役者をキャスティングする一方で、「歌にはコンプレックスがある」という富司純子さんにも容赦なく曲を割り当てる。
それというのも、本作が歌唱力で魅了する作品ではないからだ。周防監督は、ここで歌って踊ってくれたら楽しいなという思いだけでミュージカル場面を設計したという。
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旨い歌を聞きたいのであれば、歌手の歌を聞けばいい。でも役者の歌にはそれぞれの個性、役柄がにじみでてくるので面白いんです。
(略)
最初から本格的ミュージカルを目指す気はさらさらありませんでした。だからミュージカル俳優をキャスティングするつもりはなかったし、むしろこの人がこんな歌い方をするんだという驚きと楽しさを味わってほしいと思っていました。
(略)
いわば面白い映画にするための歌と踊りのシーンなんです。もっといえば、ファンタジーとしての京都を表現するための手段でもあります。それこそ京都のお座敷は、ある意味ミュージカルですから。ミュージカル・シーンは、お茶屋のお客さん気分で楽しんでほしいと思っています
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ここで、ミュージカルと表現するのは方便だろう。
ミュージカルファンの中には、本作を(特に『マイ・フェア・レディ』との比較において)ミュージカルと認めがたく感じる人がいるかもしれないけれど、もとよりミュージカルとしての完成度は眼中にないのだ。これは楽しく歌ったり踊ったりするだけの映画なのだ。
強いていえば、『鴛鴦歌合戦』や『ニッポン無責任時代』や『愛と誠』の系譜に連なる作品だ。いずれもミュージカルとして評価されることはないが、ズバ抜けて楽しい映画である。
『マイ・フェア・レディ』を移植したといっても、本作の狙いは『マイ・フェア・レディ』を再現することでも『マイ・フェア・レディ』にオマージュを捧げることでもない。『Shall we ダンス?』が映画『王様と私』の名曲をタイトルに戴きながら、特段『王様と私』を意識した作品ではないように。だから本作は『マイ・フェア・レディ』のようにはじまりつつも、まったく異なる着地を見せる。
上流階級のヒギンズ教授と貧困層のイライザを対比した『マイ・フェア・レディ』には、服装や立ち居振る舞いで人間の価値を判断する階級社会への痛烈な批判が込められていた。一方、本作は社会の格差に目を向けた作品ではない。津軽弁と京ことばに格差なんて関係ないのだからとうぜんだ。
本作が津軽から来た少女の修行を通して描くのは、京都の文化である。それは過去の周防監督作品と同様の取り組みだ。
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皆さんには『Shall we ダンス?』や『ファンシイダンス』や『シコふんじゃった。』はコメディだと思われますが、僕としてはリアルに日本文化というものを映画の中で表現しよう、実際にあるその世界観をきちんと表現しようと思って作った映画で、今回の映画もそれに連なる企画でした。だから、当初は京都というものを真面目にきちっとリアルに追及しようと思っていました。
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なるほど、仏僧、相撲、舞妓のいずれも日本文化の一端でありながら、映画ではなかなか取り上げられない題材だ。リアルに描き出すことには価値があるだろう。
だが本作の企画を20年温めた周防監督は、京都をリアルに追及するのではなく、ファンタジーとして捉えようと考え直したという。
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京都を知れば知るほど、「お茶屋遊び」のリアルな世界を描くことなど、到底できるわけがないと悟った。それくらい京都は奥が深い。
(略)
僕にとって京都は、まさに非日常、ファンタジーそのものだった。だったら、「リアルな花街」ではなく、僕が愛してやまない「ファンタジー」として花街を描けばいいのではないか。
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京都をファンタジーと捉える感覚は、西洋人が東洋に期待するオリエンタリズムに近いかもしれない。
カール・リンシュ監督が少年時代に留学した日本をファンタジーの世界のように感じ、忠臣蔵をファンタジー化した『47RONIN』を撮ったことに似ている。
外部の者に真の姿は判らない。判らないから奥が深く感じられる。劇中、濱田岳さん演じる青年が舞妓や花街にシニカルな意見を述べるシーンがあるけれど、本作は決してそこを掘り下げ過ぎない。ベールを剥ごうとせず、判らないままにしておくから魅力的なのだ。
本作には京都を訪れる外国人旅行者も登場するが、2013年の宿泊旅行統計調査によると実は京都府の外国人延べ宿泊者数は日本で四番目に過ぎず、東京都の983万人に及ばないのはもとより、大阪府の431万人、北海道307万人をも下回る263万人に留まる。
同じ関西地域の大阪にも差をつけられているのは、リピーターが少ないためだそうだ。水津陽子氏によれば、大阪の観光がリピーターを掴みやすい食や買い物などの能動体験型なのに対し、京都の観光はリピーターの獲得が難しい名所旧跡を見て歩く物見遊山型だという。京都は2012年にトリップアドバイザーの「世界の人気観光都市TOP25」から脱落し、2014年には「アジアの人気観光都市ランキング」でも圏外になった。
でも本作を観れば、京都には一見さんお断り、すなわちリピーター客だけを相手にするお茶屋遊びのような世界があることが判る。物見遊山の観光客の知りえない、神秘の国だ。
そんな世界の存在を知らしめたことも、本作の意義の一つだろう。
祇園に通い続けた周防監督ならではの描写もある。
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舞妓さんがお座敷でいきなり「しゃちほこ」という芸を見せてくれたんです。それまであった京都のアイコンとしてのかわいい舞妓さんが、お座敷の流れの中ではこんな芸まで見せてくれるのかとたまげました。それから僕はこの「舞妓はレディ」という映画は京都の楽しさ、お茶屋さんや花街の楽しさをきちんと伝える映画にすればいいんだと割り切れました。
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本作には「しゃちほこ」のシーンもちゃんとある。
舞妓さんがこんな芸まで見せるのか、と驚くこと請け合いだ。
[*] 「The rain in Spain stays mainly in the plain.」の「plain」の訳としては「平野」の方が相応しいように思うが、ここでは劇場公開時の記憶に従って「広野」と表記した。

監督・脚本/周防正行
出演/上白石萌音 長谷川博己 富司純子 田畑智子 草刈民代 渡辺えり 竹中直人 高嶋政宏 岸部一徳 濱田岳 小日向文世 中村久美 岩本多代 高橋長英 草村礼子 大原櫻子
日本公開/2014年9月13日
ジャンル/[コメディ] [ミュージカル]

『バルフィ!人生に唄えば』 やったもん勝ちなんや!
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現実の出来事を誇張しながら展開するテレビドラマ『アオイホノオ』、第8話に名言が飛び出した。
「世の中、やったもん勝ちなんや!」
自主制作アニメに、パワードスーツをはじめ古今東西のSF作品のキャラやメカを登場させようとする岡田トシオに対し、常識をわきまえた赤井タカミは「そんなこと勝手にやっちゃっていいんですか!?他人の作品ですよ」と意見する。
だが、岡田トシオが返した言葉がこれだ。「世の中、やったもん勝ちなんや!」
現実に、岡田斗司夫氏や赤井孝美氏らはパワードスーツやヤマトやイデオンが登場する何でもありのDAICON3オープニングアニメを1981年に発表した。
他人の創造物を勝手に取り込むことの是非は、ここでは論じるまい。重要なのは、このアニメがSFファン、アニメファンに大きなインパクトを与え、アニメの歴史を変える画期となったことだ。
アヌラーグ・バス監督の『バルフィ!人生に唄えば』は、過去の名作を取り込んだことで剽窃と非難された。
たしかに本作は、劇中で数々の映画を再現している。
主人公バルフィが引き戸に隠れるシーンは『チャップリンの冒険』の再現だし、バルフィが彫像のカバーの下で寝ているところは同じくチャップリンの『街の灯』だ。警官隊から逃げ回るシークエンスは『キートンの警官騒動』のままだし、さらに自転車に乗って逃げればジャッキー・チェンの『プロジェクトA』になる。ドアにぶつかって顔が歪んだり、人形と戯れるところは『雨に唄えば』でドナルド・オコナーが披露した名人芸だ。
先人の偉業を取り込みながらクレジット一つないのはいかがなものか、と非難するのは判らないでもない。
これに対してバス監督は、オマージュを捧げたかったんだと述べている。それが証拠に本作でチャールズ・チャップリンのポスターを映したと説明する。
チャップリンのポスターを映したくらいで、上に挙げた数々の映画の再現をオマージュとして済ませるかどうかはともかく、これらの元ネタは映画史上極めて有名なシーンばかりであり、映画ファンなら多かれ少なかれ察しがつくに違いない。
そして元ネタが判る人ならば、これが単なるご愛嬌だと感じるはずだ。
なにしろバルフィ役のランビール・カプールの熱演にもかかわらず、チャップリンほど滑稽でもなければバスター・キートンほどの切れもなく、ジャッキー・チェンほどのアクションでもないしドナルド・オコナーの芸域にも達していないのだから。
しかも『ロイドの要心無用』よろしく時計台に登るものだから、てっきりハロルド・ロイドのように時計の針にぶら下がってハラハラさせるのかと思いきや、にこやかに手を振るだけで何もしない。その見事な肩透かしには苦笑させられる。
とどのつまり、本作の"オマージュ"シーンで実感するのは、先人たちの偉大さであり、その偉業はちょっとやそっとじゃ真似できないということだ。それでもチャレンジするランビール・カプールとアヌラーグ・バス監督が微笑ましい。
そもそも本作はチャップリンやバスター・キートンやジャッキー・チェンの真似で笑わせたり楽しませたりする映画ではない。
描かれるのは聾者の主人公と自閉症の少女の交流だ。
だからこそ、音声のコミュニケーションよりも仕草、動作に重きを置いた作品になっており、そこからサイレント映画やアクション映画の面白さを援用した作りがなされている。
だが、そのおどけた仕草や愉快なアクションは、本作において枝葉でしかない。本作の魅力は何と云っても個性的な登場人物であり、感動的な物語であり、ユーモア溢れる語り口なのだ。これは抜群に楽しくて愉快で、それでいて切ない映画である。
剽窃との非難に対して、バス監督が「プロットと脚本とキャラクターとシチュエーションは独創的だ」と主張するだけのことはある。
聾者が登場する映画は数々あれど、言葉を発さないからといってサイレント時代の動きを取り入れた映画を、寡聞にして私は知らない。
それがチャップリンやキートンの真似かどうかという以前に、こんな映画を作ってみようという発想が面白い。そして、それを実践したからこそ本作は大ヒットし、高い評価を得られたのだ。
まさしく「世の中、やったもん勝ち」だ。
発想の面白さはそれだけではない。観客は映画のオープニングからニヤニヤさせられることだろう。
本作は普通なら映画の終わりにクレジットする献辞やパートナー企業のロゴを頭に持ってきて、なかなか話がはじまらない。で、何をしているかというと、献辞等をクレジットしながら「♪映画がはじまるよ~、上映中は足を伸ばしちゃいけないよ~、静かに観なきゃいけないよ~」と面白おかしく鑑賞マナーを歌っているのだ。鑑賞マナーを本編映像に組み込んだ『謝罪の王様』に勝るとも劣らない洒落た注意喚起である。
そんなところからもアヌラーグ・バス監督の映画への愛が、とりわけ映画を観るという行為が好きであろうことが伝わってくる。そこに共感できるから、本編での数々のオマージュも微笑ましく見てしまう。
『バルフィ!人生に唄えば』には、こんな素敵なアイデアが最初から最後まで一杯に詰まっている。
本作はバルフィという愉快な男の誕生から死までを描いた一代記でもあるし、ロマンチックなラブストーリーでもあるし、なんと誘拐事件を描いたミステリーでもある。
その上、愛や人生や幸せについて考察し、その普遍的な結論に共感せずにはいられない映画だ。
だが、私が一番感心したのは、聾者や自閉症の少女を取り上げながら、そこを主眼とするのではなくラブストーリーやミステリーを彩る登場人物として扱ったことだ。
映画やテレビドラマではどうしても障碍そのものを主題にしがちだ。観客の多くにはそれが珍しくて特別なものだから、興味をかき立てるのにうってつけなのだろう。
しかし、恋や冒険は誰にでも──障碍の有無に関係なく──訪れるものだ。それは誰にとっても大切な経験だろう。
聾者や自閉症患者が、健常者に交じって恋のバトルを繰り広げる。耳が聞こえたり聞こえなかったり、喋れたり喋れなかったり、そんなことに意味はない。誰もが平等に恋のライバル。
そんな作り手のスタンスに、一番感心したのだった。
![バルフィ!人生に唄えば [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/617fPNRID3L._SL160_.jpg)
監督・制作・原案・脚本/アヌラーグ・バス
出演/ランビール・カプール プリヤンカー・チョープラ イリヤーナ・デクルーズ
日本公開/2014年8月22日
ジャンル/[ドラマ] [ロマンス] [コメディ]
